フランス革命の年表

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フランス革命の年表(フランスかくめいのねんぴょう、: Chronologie de la Révolution française)は、フランス革命1789年1799年)とそれに関連する出来事、さらにその原因にまで遡って取りまとめた年表である。

革命以前[編集]

啓蒙思想の世紀[編集]

ジュネーヴのルソー像
モンテスキュー像

財政危機[編集]

フランス王室(1781年)
独立宣言トランブル
ワシントン邸を訪れたラファイエット
1787年の第一回名士会
  • 1774年5月10日:ルイ16世即位。 破産政策[注 3]を進めたテレー[7]を解任し、財務総監にテュルゴーを任命
  • 1775年:凶作で飢饉。テュルゴーの自由主義的改革が物価高騰を招き、食糧暴動に発展(小麦粉戦争[8]
  • 1776年
  • 1777年
    • ラファイエット侯爵が渡米して単独参戦。ワシントン大陸軍司令官の副官
    • 6月29日: ネッケルが財務長官に就任
  • 1778年
  • 1779年
    • ラファイエットが帰国して参戦運動
    • 8月10日:ルイ16世が農奴廃止令を発布
  • 1780年:フランスがアメリカ独立戦争へ出兵
  • 1781年
    • 2月19日:ネッケルが『会計報告書コント・ランデュ』を発表
    • 5月19日:ネッケルが宰相の地位を狙うが貴族の反発にあって失脚。辞職[注 5]
    • ヨークタウンの戦い(9月28日〜10月19日)
    • コンドルセ侯爵が『黒人奴隷についての考察[9]』を出版(フランスで奴隷貿易反対論)
  • 1783年〜1789年:浅間山ラキ火山ヴェスヴィオ山フエゴ山の大噴火(世界の気温低下・厳冬)[注 6][注 7]
  • 1783年
  • 1784年
    • カロンヌ、パリ入市関税オクトロワを導入(パリで新しい城壁の建設開始[注 9]
    • ネッケルが『フランスの財政について』を出版(カロンヌを激しく批判)[注 10]
  • 1785年
    • 4月14日:カロンヌ、フランス東インド会社を再建(〜1794年)
    • 首飾り事件。王妃マリー・アントワネットに云われなき悪評
  • 1786年
    • 8月20日 : カロンヌ、財政再建改革策を提出。臨時土地税[注 11]を主張
    • 9月26日:英仏通商条約締結(イーデン・レーヌヴァル条約[10][注 12]
  • 1787年
    • 2月22日 : ヴェルサイユで第一回名士会を召集
    • 4月8日:名士会のネッケル派、カロンヌの提案を否決。カロンヌ罷免。後任にブリエンヌ
    • 5月25日:名士会解散
    • 8月14日:高等法院が印紙税を拒否して三部会召集を要求。トロワへ追放される(9月4日にパリに帰還)
    • 11月19日:国王臨席会議で公債増発にオルレアン公爵が公然と反対(21日にパリ追放)
    • 11月29日、ルイ16世が寛容令を発し、ユグノープロテスタント)に戸籍など市民権を与える

貴族の反抗[編集]

1788年[編集]

グルノーブル屋根瓦の日事件[注 13]
1789年、三部会の開会
「球戯場の誓い」[注 14]ダヴィッド
『第三身分の目覚め』

連年の凶作で収穫量激減。飢餓、物価高騰。長引く不況により失業者増大

  • 1月29日:パリ高等法院、プロテスタントの宗教の自由と公職に従事する権利を認めず
  • 2月9日:「黒人友の会[11]設立
  • 5月8日:ラモワニョンの司法改革(高等法院から立法権と司法権を剥奪)[注 15]
  • 6月7日 : グルノーブル屋根瓦の日ジュルネ・テュイル[12][注 13]
  • 7月5日:ブリエンヌ、全国三部会の召集を約束
  • 7月21日 : ヴィジル決議ドーフィネ州ヴィジル[13]で国王無許可の地方三部会召集[注 16]
  • 8月8日 : ルイ16世、財政改革の審議のために三部会の召集を布告[注 17]
  • 8月16日:ブリエンヌ、フランス王室財政の破産を宣言
  • 8月24日:ブリエンヌ罷免
  • 8月26日 : ネッケル、再び財務長官(兼大臣)に就任
  • 9月14日:ラモワニョン罷免(司法改革の失敗)
  • 9月23日:高等法院の再建(王権の挫折)
  • 11月6日:第二回名士会召集(ネッケルが提案した第三身分の定数倍増案を否決)
  • 12月5日:高等法院、第三身分定員倍増を承認
  • 12月27日:枢密院[注 18]が全国三部会の第三身分の定数倍増を承認し、ルイ16世が許可

第三身分の目覚め[編集]

1789年[編集]

前年末から春にかけて全国各地で農民一揆。穀物の価格上昇

  • 1月
  • 1月24日:全国三部会の選挙規定が発布される(ブルジョワジーに有利な内容、農民や都市平民は排除)
  • 3月4日:三部会選挙始まる(〜14日)
  • 4月28日:レヴェイヨン事件[注 19]
  • 5月5日 : 175年ぶりにヴェルサイユで全国三部会が開会
  • 6月10日:シェイエスが第三身分(平民)は独自行動をとると宣言。「時は来た。錨綱を切れ」
  • 6月17日 : 第三身分部会による国民議会の宣言
  • 6月20日球戯場の誓いテニスコートの誓い[注 14]
  • 6月23日:国王臨席会議、国民議会の無効を宣言。ルイ16世、議員に身分毎の部会に分かれるように命令[注 20]
  • 6月25日:第一身分(聖職者)の大半が国民議会と合流
  • 6月26日:第二身分(貴族)の一部が国民議会と合流
  • 6月27日 : ルイ16世、第一・第二身分に国民議会への合流を勧告(王権の敗北)
  • 7月6日 : 憲法制定委員会の設置
  • 7月8日:ラファイエット、ミラボーら議会代表、パリ郊外の軍隊引き上げ要求
  • 7月9日 : 国民議会、憲法制定国民議会立憲議会)へと改称
  • 7月11日 : ネッケル罷免。ルイ16世、軍隊のパリへの集結命令[注 21]
  • 7月12日
  • 7月13日:パリ市民の武装化が進む。武力鎮圧の噂

革命勃発[編集]

バスティーユ襲撃[編集]

バスティーユ襲撃事件
1789年の人権宣言
女達のヴェルサイユ行進

憲法と議会[編集]

1790年[編集]

1790年の第一回全国連盟祭
アッシニア紙幣

1791年[編集]

パリへ連れ戻される国王一家
ハイチ革命(1791年の白人虐殺)
3身分が創った「新しい憲法」の寓意
『ライン軍団の歌』を謳うルジェ・ド・リール大尉

祖国は危機にあり[編集]

1792年[編集]

6月20日のデモ。国王の拒否権に圧力

この年は久しぶりの豊作だったがアッシニア下落につき、穀物価格上昇

  • 1月2日:ジャコバン・クラブでジロンド派が開戦論を主張[注 30]
  • 1月25日 : 立法議会、ピルニッツ宣言の取り消しをオーストリアに要求
  • 2月7日:オーストリアとプロイセンが軍事条約を締結
  • 2月9日:亡命者財産没収令
  • 3月1日:レオポルド2世が死去
  • 3月10日 : フイヤン派内閣総辞職(第一次)
  • 3月23日 : ジロンド派内閣成立
  • 3月24日 : 立法議会、植民地でのムラートや黒人も含むすべての自由人の平等を決議。(奴隷制は存続)
  • 4月20日 : 立法議会、オーストリア[注 31]に対し宣戦布告フランス革命戦争の開戦)
  • 4月25日 : 『ラ・マルセイエーズ』が作曲される
  • 4月28日〜9月20日:戦線が大混乱[注 32]
  • 5月18日:ラファイエット北方軍司令官、攻撃不能を宣言し、国王に和平交渉を勧告
  • 6月15日 : 国王がジロンド派の大臣を罷免。フイヤン派内閣(第二次)が成立
  • 6月20日 : 民衆がテュイルリー宮殿の王の寝室にまで押し寄せ国王の前で示威行為
  • 6月24日:プロイセン、ヘッセン=カッセルがオーストリアとの同盟を理由に参戦
  • 7月10日 : フイヤン派内閣総辞職(第二次)
  • 7月11日:立法議会、「祖国は危機にあり」の宣言(義勇兵の呼びかけ)
  • 7月14日
  • 7月25日 : 同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公が声明(ブラウンシュヴァイクの宣言[注 33]

共和国の樹立[編集]

サン・キュロット[編集]

『サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール』
8月10日事件[注 34]
九月虐殺[注 35]ランバル公妃の殺害)
ヴァルミーの戦い
国王ルイ16世の処刑
  • 8月10日
  • 8月13日
  • 8月14日:ラファイエット軍司令官、パリ進軍を企図(兵士の反対で失敗)
  • 8月17日
    • 自治市会パリ・コミューン、特別重罪裁判所を設置
    • 連盟兵、国王廃位を要求
  • 8月18日:バルナーヴ逮捕(〜1793年11月29日処刑)
  • 8月19日:ラファイエット、軍を捨てて亡命
  • 8月23日
  • 8月27日:次の議会のための予選会(第一次選挙)が始まる
  • 9月1日:ヴェルダン要塞降伏
  • 9月2日〜6日 : 九月虐殺[注 35]
  • 9月3日:選挙集会(第二次選挙)が始まる(普通選挙[注 36]
  • 9月20日
  • 9月21日 : 王政の廃止を決議し、共和国宣言フランス第一共和政成立)
  • 9月22日:この日が革命暦の元年元旦となる
  • 9月25日
    • ジロンド派が提案した州連邦制度案を否決[注 37]
    • ジロンド派、ロベスピエールを「独裁を目指す者」として告発
  • 10月2日 : 国民公会、保安委員会や公教育委員会など14の委員会を設置
  • 10月6日:ジェマップの戦い[注 38]
  • 10月8日:ビュゾー、県衛兵隊(連盟兵)の創設を提案
  • 10月10日
    • ダントン、機密費問題で司法大臣辞職
    • パリ・コミューン、ジャコバン・クラブからブリッソーを追放(ジロンド派脱退
  • 11月13日:サン=ジュスト、国王裁判について演説
  • 11月27日:サヴォワを併合
  • 12月4日:国王裁判開始(〜1793年1月15日結審)

1793年[編集]

対外戦争と内戦で共和国は最大の苦境に

ヴァンデの反乱(ロワール渡河)
『マラーの勝利』

ジャコバン派独裁[編集]

恐怖政治[編集]

『ジロンド派の最後の晩餐』
『マラーの死』ダヴィッド
王妃マリー・アントワネットの処刑
理性の崇拝
最高存在の祭典
テルミドール9日。ロベスピエールの逮捕。
銃撃されるロベスピエール。
『恐怖政治、最後の荷車』

1794年[編集]

テルミドール反動[編集]

軍隊の台頭[編集]

ボン市の自由の木
ヴァンデミエール13日のクーデター
ギルレー作の風刺画。バラスのために裸で踊る2人の愛人(テレザ・カバリュスジョゼフィーヌ
ヴァンデ反乱・シャレット将軍の処刑
アルコレ会戦のボナパルト
リヴォリ会戦
フリュクチドールのクーデター
『ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン』(アントワーヌ=ジャン・グロ
第二次チューリッヒ会戦
ブリュメール18日
  • 7月29日:ジャコバン・クラブ、タリアンやフレロンなどテルミドール派を除名
  • 8月6日:元革命裁判所裁判長ジャン=バティスト・コフィナル処刑
  • 8月10日:革命裁判所の改組(白色テロ始まる)
  • 8月21日:フランスがコルシカ島を放棄(アングロ・コルス王国[注 59]成立)
  • 8月24日:諸委員会改革、公安委員会の弱体化
  • 9月5日:メルラン・ド・チョンヴィル、国民公会でジャコバン・クラブ解散を提案
  • 9月7日:最高価格令を停止
  • 9月19日:金ぴか青年隊、ジャコバン・クラブを占拠
  • 10月25日:プロイセン軍、イギリスとの条約を破棄してオランダから撤退
  • 11月12日 : 国民公会、ジャコバン・クラブを閉鎖
  • 12月2日:ヴァンデ叛徒に対して大赦令[注 60]
  • 12月16日 :ジャン=バティスト・カリエの処刑
  • 12月24日 : 最高価格令を撤廃[注 61]
  • 12月27日:ピシュグリュ将軍[31]、オランダ侵攻開始

1795年[編集]

1796年[編集]

1797年[編集]

革命の終焉[編集]

1798年[編集]

1799年[編集]

  • 1月23日:シャンピオネ将軍、ナポリに侵攻し、パルテノペア共和国を建国
  • 2月10日:ボナパルト、シリア遠征(〜5月17日)
  • 3月12日:フランスがオーストリアへ再び宣戦布告。第二次対仏大同盟戦争
  • 4月18日:共和国7年の選挙(ネオ・ジャコバン派躍進)
  • 5月18日:シェイエスが総裁に選ばれる
  • 6月18日 : プレリアール30日のクーデター
  • 6月28日:強制公債割当法
  • 7月5日:ジャコバン・クラブの再建
  • 7月12日:人質法
  • 7月19日:ロゼッタ・ストーンを発見
  • 8月23日 : ボナパルト、軍を残してエジプトを脱出
  • 8月27日:ヨーク公爵率いるイギリス・ロシア同盟軍、オランダに上陸(〜10月18日に撤退)
  • 9月9日  : ボナパルト、フランスに帰国
  • 9月25日〜30日:マッセナ将軍、第二次チューリッヒ会戦[38]に勝利
  • 10月22日:ロシアのパーヴェル1世、対仏大同盟から脱退
  • 11月9日 : ブリュメール18日のクーデター(総裁政府が倒れる)
  • 11月10日:臨時統領政府(臨時執政政府)が成立
  • 12月25日

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 宗教的理由で1752年に発禁処分となるが、地下出版で続刊出版。
  2. ^ 自由主義経済の原理を示したものとして脚光を浴びる。
  3. ^ 些細な違反を咎めて債権を踏み倒し、あるいは支払いを遅延して、債権者であるブルジョワジーを破産させることで、国家債務を減らす政策。強権的なやり方でブルジョワジーから強い不満があがった。
  4. ^ 後任の財務総監クリュニーは反動政策を行って、テュルゴーの政策をすべて取り消したが、急死する。次の財務総監タブロー・デ・レオーの助手に任命されたネッケルが財務長官として財政の実権を握った。
  5. ^ ネッケル辞職後も、後任のジョリ・ド・フルーリー、ドルメッソンによって募債政策は継承されたが、改革には手が付けられなかったので、フランス財政は自転車操業が続き、赤字は膨れあがった。
  6. ^ 世界的な火山の活動期で、噴火による大気中の粉塵の増加によって世界中で気温が最大-1.5度低下した。これにより世界中のいたるところで厳冬と凶作に見舞われ、飢饉が起こったが、これはフランス革命の遠因の一つとされる。
  7. ^ フランス革命の遠因になったとされる1783年の浅間山大噴火については「天明大噴火」を参照
  8. ^ アメリカ独立の余波はフランスにも伝わり、国内でも自由への希求が高まった。
  9. ^ 完成は1791年で、革命勃発後も失業者向け公共事業として継続された。
  10. ^ 一方でカロンヌもネッケルの会計報告書が赤字を隠すなど虚偽であったとして批判した。論争は政治的対立となって激化した。
  11. ^ 20分の1税に代わる新税で、土地の生産高に応じて全ての身分に課されるもので、特権身分への課税を目論んだもの(Subvention territoriale
  12. ^ 英仏は従来犬猿の仲であったが、1783年のパリ条約から1793年の革命戦争の参加までの10年間は平和な時代であった。両国間は通商条約を結んで交易を活発化したが、自由貿易の門戸が開かれたことで、より安価なイギリス製品がフランス国内を席巻する事態となった。翌年より本格的な不況に陥ったフランスでは、産業が衰退し、多くの失業者が発生して社会不安が増大した。フランス革命の遠因の一つとされる。
  13. ^ a b 高等法院を支持する民衆が軍隊に瓦や石を投げつけた事件。同様の暴動がディジョン(11日)、トゥールーズ(19日)など各地で頻発。
  14. ^ a b ルイ16世が三部会の議場閉鎖を命令。反発した議員は第三身分を中心に集まり、ムーニエの提案で、憲法制定まで解散しないことを誓う。
  15. ^ 5月10日にルイ16世は高等法院の縮小を命令し、月末からこれに反対して全国で騒乱に発展した。
  16. ^ バルナーヴムーニエJean-Joseph Mounier)らが指導したもので、第三身分定員倍増、階級別でなく個人別投票、三部会が召集を要求し、さもなければ増税を拒否することを宣誓した。
  17. ^ この時、期日は翌年5月1日を予定していたが、実際には5日開催されることになった。
  18. ^ 国王諮問会議とも訳す。(Conseil privé
  19. ^ 賃金とパンの値段についての失言に端を発した労働者の大規模な暴動で、軍隊が出動し、工場長のレヴェイヨンと家族がバスティーユに避難する事態になった。(Reveillon riot
  20. ^ 第三身分は拒否。ミラボー伯爵は「われわれは銃剣の力によらなければこの場を離れない」と宣言した。
  21. ^ 資金難のため実行できず、15日に命令撤回。一方で、命令を出した事実が一人歩きして民衆蜂起を誘発。
  22. ^ パリ守備隊司令官ブザンヴァル(Pierre Victor de Besenval de Brünstatt)は撤兵を決断して無政府状態に。
  23. ^ 革命が生み出した無政府状態により、全国の農村で大規模な蜂起。蜂起農民は、領主館を襲撃するなどして土地台帳を焼却した。領民の報復を恐れた貴族の亡命の動きが盛んになる。
  24. ^ 全国に広がる農民反乱を鎮めるために立憲議会の自由主義貴族はアンシャン・レジームの廃止を決断して農民の解放を宣言した。
  25. ^ 6日、国王ルイ16世一家がヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿へ強制移動。
  26. ^ 20日深夜、国王一家がパリを逃亡。21日、ヴァレンヌで捕われ、25日にパリへ連行。
  27. ^ シャン・ド・マルスでの国王廃位請願デモに対してラファイエットの国民衛兵隊が発砲。
  28. ^ フランス革命の余波で市民権を求めるムラートが蜂起。22日、これに誘発された黒人奴隷の大規模反乱始まる。
  29. ^ オーストリアのレオポルト2世とプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が亡命貴族の圧力をうけて共同声明を発表し、革命を威嚇した。
  30. ^ 開戦論と反戦論の争いをきっかけに、ジロンド派とジャコバン派(モンターニュ派)の主導権争いが次第に激化する。
  31. ^ 厳密には「ボヘミア・ハンガリー王」としてのフランツ2世に宣戦布告したため、神聖ローマ国の諸邦の大半は当初戦争に参加しなかった。神聖ローマ皇帝もちょうど空位で、諸邦が実際参加するのはフランス軍がライン川に迫ってから。
  32. ^ よく訓練された職業軍人で構成されるオーストリア=プロイセン同盟軍が進撃を始めると、未訓練の義勇兵を中心とし、貴族士官と平民との軋轢をかかえたフランス軍は統制を欠き、戦える状態ではなかったので、敗走を重ねた。
  33. ^ 28日にパリに伝わり、民衆が激怒。蜂起の動きが始まった。
  34. ^ a b 民衆と連盟兵がテュイルリー宮殿を襲撃した事件。立法議会が王権の停止を議決し、議会の解散も決まった。
  35. ^ a b プロイセン軍がヴェルダン要塞を攻略したニュースがパリに届いて、パニックが発生し、数箇所の監獄に民衆が殺到して、大半が王党派とは無関係の収監者を無差別に虐殺した事件。
  36. ^ ただし間接選挙であり、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。
  37. ^ この提案は、ジロンド派の一部(ビュゾー派)が主張したものに過ぎないが、ジロンド派=連邦主義者という悪評が定着するもとになった。連邦主義は地方主権論であるが、中央集権とパリ独裁を主張する革命主流派の敵と見なされた。
  38. ^ オーストリア軍を撃破し、南ネーデルラントの支配圏を奪った。(Battle of Jemappes
  39. ^ 公安委員会の前身。(Comité de défense générale
  40. ^ 徴兵制度とは違うので注意。
  41. ^ 聖職者民事基本法への宣誓問題と、30万人動員令に反発した王党派農民が反革命の蜂起を起こした。
  42. ^ 北方軍司令官のデュムリエ将軍がオーストリア軍と共謀してパリに進撃して王政復古を目指した事件で、フランス将兵に拒否され、デュムリエはルイ・フィリップらとともに亡命した。前線の最高指揮官を失ったフランス軍は大混乱に陥った。
  43. ^ ヴァンデ反乱軍が撃退され、指導者カトリノーが重傷を負って後に死亡した。(Bataille de Nantes
  44. ^ a b メートル法が一般に浸透したのは1840年代。
  45. ^ これも徴兵制とは異なる。人的・物的資源の無制限の動員を可能にするもので、総力戦体制の始まり。
  46. ^ ジロンド派(ブリッソー派)と親しい商人で、「黒人友の会」のメンバー。立法議会および国民公会が派遣した4人の委員の1人。議員ではなかったので両議会の変わり目でも活動した。ハイチ革命で重要な役割を演じるが、1797年にサン=ドマング代表の議員となって島を離れた。(Léger-Félicité Sonthonax
  47. ^ サン・キュロットの要求を受け入れて恐怖政治が始まった。広義では8月10日事件6月2日の革命にすでに開始されていたという考え方もあるが、国民公会が公式に認めたのはこの日から。
  48. ^ a b 別名・食糧徴発隊。軍事組織ではないので注意。
  49. ^ サン=ジュストが国民公会に提案し「平和が到来するまで革命的である政府」を続けると宣言。ここでいう“革命的”とは三権の非分立を意味する。
  50. ^ 10月12日から始まったマリー・アントワネットの裁判は、三日間の休廷を挟んで15日に結審し、死刑判決が下された。16日に刑が執行されたのは、会戦の日程に合わせるため。
  51. ^ ヴァンデ叛徒のカトリック王党軍大敗。(Battle of Cholet
  52. ^ 「理性の崇拝」という無神論運動の祭典。(Cult of Reason
  53. ^ イギリス・スペイン・ナポリ他の同盟軍が同市を放棄して撤退。フランス軍が入城。報復のテロも始まる。
  54. ^ ただしフランス本土で奴隷制完全廃止がなされたのは1948年である。またこの2月4日の法令はナポレオンによって修正された。
  55. ^ 反革命容疑者の全財産を没収して、貧困者に再配分しようとしたが、施行はされなかった。
  56. ^ このフランス軍の勝利により、オーストリアの反撃は失敗し、敗戦は確定的となった。革命戦争は防衛から侵略的性格へと変わった。(Battle of Fleurus
  57. ^ 国民公会でロベスピエール派の逮捕決議採択。収監されたロベスピエール派指導者達を、同派の国民衛兵隊が奪回して市庁舎に立てこもるが、深夜にバラスらの襲撃部隊の急襲で再逮捕される。
  58. ^ 歴史家の中に狭義としてフランス革命をテルミドールのクーデターをもって終結としたものがあったが、現在、総裁政府期を革命に含めないという考えは主流ではない。
  59. ^ 英国王を王とする国家で、パオリ派による英領コルシカ。総督エリオットとの対立で崩壊した。(Anglo-Corsican Kingdom
  60. ^ シャレットとストフレは相次いで講和に応じ、ヴァンデ戦争はキブロン遠征で再開されるまで、一時休戦した。
  61. ^ アッシニアの価値が急落。物価が高騰。
  62. ^ バラスの副官ナポレオン・ボナパルトがこれを鎮圧。
  63. ^ 「土地手形」や「土地証券」などとも訳す。ハイパーインフレに陥ったアッシニアを回収するための政策で、再び土地と交換する新紙幣として創設したものであったが、大量にアッシニアを保持する富裕者に土地を配ったも同然で、格差をより拡大させた。バブーフの「平等派宣言」で告発され、蜂起の要因になった。
  64. ^ バブーフをはじめ、陰謀に関わった数名が逮捕された。反乱未遂事件。
  65. ^ フランス・ブルボン家を打倒した革命政府は、その親戚であるスペイン・ブルボン家と、対英同盟を結ぶに至った。これにより革命戦争は革命対反革命というイデオロギーではなく、列強間の国益を巡る争いに戻った。(Second Treaty of San Ildefonso
  66. ^ 王党派が躍進した選挙結果を軍隊の力で無効にした事件。ボナパルトがイタリアから派遣したオージュロー将軍が指揮した。(Coup of 18 Fructidor

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]