松中信彦
福岡ソフトバンクホークス #3 | |
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2006年ワールド・ベースボール・クラシックにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県八代市 |
生年月日 | 1973年12月26日(50歳) |
身長 体重 |
183 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 指名打者、左翼手、一塁手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト2位(逆指名) |
初出場 | 1997年5月31日 |
年俸 | 5億円+出来高(2006年から7年総額45億円の長期契約中) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 1996年、2000年 |
WBC | 2006年 |
この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銀 | 1996 | 野球 |
松中 信彦(まつなか のぶひこ、1973年12月26日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(外野手)。現役選手唯一の打撃三冠王経験者。
プレースタイル・特筆
打撃
内角を捌くのが非常にうまく、普通の左打者より引っ張った時の打球が右に切れにくい(ファウルになりにくい)。このポイントは松中曰く「打点をバットの芯より若干根元部分にずらして打つこと(で体があまり開かない)。芯で打つと打点と体の距離が長くなり、その分体が開く」とのこと。
また、ホームランバッターでありながら三振が少なく年間60個から80個ぐらいで、シーズン100三振したことはない。特に2006年は37個と自己最少だったが、この年は主力の一人である城島が抜けたため、マークがきつくなり、勝負を避けられて四球が増加し、本塁打数も前年から半分以下に減少している。
守備
守備が不得意であり、肩も強くはない。三冠王を獲得した2004年にはゴールデングラブ賞を獲得しているが、この年の松中の一塁守備率.993に対し、守備に定評のある福浦和也の一塁守備率は.995であった。外野守備でも守備範囲は狭いが、正確な送球が出来、捕殺をマークした事もある。
肩や肘などに不安があることもあり守備に対するこだわりはない。DHとして起用されていてもベンチ内ではイスに座らずナインと共に守備についている自分を想像してリズムを保つようにしているという。
人物
小久保裕紀を尊敬しており、2003年オフに無償トレードで小久保が移籍した際には怒りを露にした。
32歳である2006年1月に福岡ソフトバンクと7年契約を結び、ホークスで野球人生を終えるのではという報道もなされた(複数年契約としては日本プロ野球史上最長記録)。2007年にはFA権を取得したが「自分はホークスでユニフォームを脱ぐつもりなので、関係ない」という旨の発言をした。
音楽好きである。2002年、日本で初めて導入歌としてバッターボックス入場時、自身の応援歌を流した。
現在までキャンプや自主トレでの練習量は若手をはるかに上回り、「練習は裏切らないということは、松中を見れば実証できる」と野球解説者の島田誠や若田部健一が福岡の情報番組で語っているほど。この習慣は先輩である小久保や秋山幸二(現監督)の姿勢に影響をうけたもので、「ホークスの良い伝統を作っている」と王元監督も語っており、福岡では「松中塾(または「道場」)」とも呼ばれ、松田宣浩らも帯同させて指導している。 2005年の契約更改の席で二軍施設について、「あまり二軍の居心地がいいと、それに安心して若手が出てこなくなる」と、若手の台頭を期し施設の見直しを訴えている。
経歴
熊本県八代市で建設会社「松中土建」(優勝時の祝勝会に於いて松中をはじめ選手数人がこの会社のヘルメットを被る)を営む家庭に生まれる。兄弟は兄と弟が一人ずついる。
1996年のアトランタ五輪の代表に選出され、銀メダル獲得に貢献。敗れはしたものの、決勝のキューバ戦では同点満塁ホームランを放つなど、一躍注目を浴びた。そのオフ、ドラフト2位(逆指名)で福岡ダイエーに入団する。この間に同郷のヒーローである秋山幸二の薫陶を受け、自主トレに同行するようになる。入団当時はいわゆる金属バットの弊害に苦しんだものの、2年目の1998年には二軍の本塁打王を獲得。
1999年、ルイス・ロペスの退団に伴い一塁手のレギュラーになる。主に7番打者としての出場ながら、チーム内では4番の小久保裕紀に次ぐ23本塁打を放つなど、福岡ダイエーホークス初のリーグ制覇、日本一に貢献。
2000年、背番号を26から3に変更し、正式に内野手転向。開幕は7番で迎えたが、打撃好調で、小久保の後を打つ5番に定着。自身初の3割、30本塁打、100打点を記録しリーグV2に貢献。シーズンMVPに輝く。日本シリーズでは、前年までチームメートだった工藤公康から本塁打を放つものの、全6戦でこの1安打に終わり、連続日本一を逃した。この年のオフにフリーアナウンサーの林恵子と結婚。
2001年、打率.334、36本塁打、122打点と打撃3部門全てで自己最高の成績を残す。この年は松中に加え小久保が44本、城島健司が31本、井口資仁が30本放ち、パ・リーグ史上初の30本カルテットを達成(日本人打者のみの30本カルテットはプロ野球史上初)。またチーム本塁打も203本とチーム記録を更新した。しかしチームは大阪近鉄バファローズの快進撃の前に2位に終わり、リーグ3連覇を逃した。
2002年は新ストライクゾーンの影響もあり、打撃不振でレギュラー定着後最低の打率.260に終わった。
2003年、小久保の長期離脱に伴い4番に固定される。史上最高のチーム打率.297、史上初の100打点カルテットなどを記録したダイハード打線を牽引し、2年振りの3割、30本、100打点を記録。シーズン最終戦で城島を逆転し、自己最多の123打点で初の打撃タイトルとなる打点王を獲得。チームは阪神タイガースを下し、2度目の日本一に輝いた。
2004年、レギュラーシーズンで三冠王を達成(本塁打は北海道日本ハム(当時)のセギノールと同数)。ベストナイン、ゴールデングラブ賞、MVPに選ばれる。しかし、同年より導入されたプレーオフ制度により行われたプレーオフ第2ステージでは5試合でわずか2安打に終わり、チームもレギュラーシーズン1位ながらリーグ優勝を逃した。さらに試合終了直後、急性肝炎と診断され入院した。
2005年はひざなどに不安を抱えることもあり指名打者として打撃に専念した。二年連続の本塁打王、三年連続の打点王を獲得。史上初の三年連続120打点を記録。46本塁打で福岡ドームを本拠地にしてからのホークス最多本塁打記録を更新した。しかしプレーオフでは1安打と不振で、またもリーグ優勝を逃した。
2006年、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、4番を任される。「長打は捨てる」と発言した通り本塁打などはなかったものの、全試合にスタメン出場、気迫のヘッドスライディング、激走のタッチアップなどチームを引っ張り、打率.433の高打率で世界一に貢献した。これにより「逆シーズン男、国際大会に弱い松中」という汚名を返上した。
同年のシーズンでは、交流戦以降外野手(主にレフト)としても出場。2年ぶりの首位打者に輝いたが、本塁打、打点は前年と比較して激減、チームもシーズン3位に終わった。プレーオフでは自身は18打数7安打7打点と気を吐いたが、第2ステージで北海道日本ハムに敗退した。2006年日米野球の選手選考のためのファン投票において指名打者部門の1位に選出されたが、シーズン途中に発症した右でん部膿瘍の再手術のために辞退した。4年連続5度目のベストナインに外野手として選出。一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目。
2007年はトレード移籍の多村仁、FAでチームに復帰した小久保裕紀とのクリーンナップ「TMK砲」が話題となったが、5月以降は3人共怪我や不振に喘いだ。自身も打率.266、15本塁打、68打点と規定打席に到達した年では自己最悪の成績に終わった。
2008年はチームメイトからの信頼を取り戻すことを目標に掲げ、オフシーズンから厳しい下半身強化に取り組んだ。序盤は不振に喘ぐも徐々に調子を上げ、自身3年ぶりとなる20本塁打越え、8月29日には通算300本塁打を達成した。しかし他球団からのマークが松中に集中し、終盤以降成績を落とした。王監督の最後の試合となる10月7日の楽天戦12回表、1死一塁、二塁の場面で併殺打に倒れ、王ホークス最後の打者となった。
2009年から外野手登録となった。
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1997 | ダイエー ソフトバンク |
20 | 48 | 43 | 4 | 9 | 1 | 0 | 0 | 10 | 6 | 0 | 1 | 1 | 1 | 2 | 0 | 1 | 13 | 2 | .209 | .255 | .233 | .488 |
1998 | 34 | 83 | 71 | 9 | 19 | 6 | 0 | 3 | 34 | 10 | 2 | 0 | 0 | 1 | 10 | 1 | 1 | 12 | 0 | .268 | .361 | .479 | .840 | |
1999 | 126 | 462 | 395 | 57 | 106 | 20 | 4 | 23 | 203 | 71 | 5 | 2 | 5 | 4 | 46 | 3 | 12 | 60 | 11 | .268 | .359 | .514 | .873 | |
2000 | 130 | 540 | 471 | 76 | 147 | 26 | 1 | 33 | 274 | 106 | 0 | 1 | 0 | 7 | 56 | 4 | 6 | 49 | 12 | .312 | .387 | .582 | .969 | |
2001 | 130 | 551 | 479 | 81 | 160 | 29 | 0 | 36 | 297 | 122 | 2 | 0 | 0 | 5 | 57 | 5 | 10 | 77 | 6 | .334 | .412 | .620 | 1.032 | |
2002 | 136 | 561 | 485 | 75 | 126 | 23 | 1 | 28 | 235 | 83 | 1 | 2 | 0 | 7 | 52 | 1 | 17 | 80 | 12 | .260 | .348 | .485 | .833 | |
2003 | 135 | 590 | 494 | 99 | 160 | 31 | 1 | 30 | 283 | 123 | 2 | 0 | 0 | 3 | 81 | 3 | 12 | 69 | 12 | .324 | .429 | .573 | 1.002 | |
2004 | 130 | 577 | 478 | 118 | 171 | 37 | 1 | 44 | 342 | 120 | 2 | 0 | 0 | 2 | 84 | 6 | 12 | 67 | 7 | .358 | .464 | .715 | 1.179 | |
2005 | 132 | 575 | 483 | 109 | 152 | 26 | 2 | 46 | 320 | 121 | 2 | 1 | 0 | 7 | 76 | 3 | 9 | 85 | 6 | .315 | .412 | .663 | 1.075 | |
2006 | 131 | 559 | 447 | 79 | 145 | 32 | 1 | 19 | 236 | 76 | 2 | 0 | 0 | 4 | 102 | 10 | 6 | 37 | 5 | .324 | .453 | .528 | .981 | |
2007 | 123 | 519 | 440 | 60 | 117 | 26 | 1 | 15 | 190 | 68 | 1 | 0 | 0 | 6 | 68 | 7 | 5 | 66 | 5 | .266 | .366 | .432 | .798 | |
2008 | 144 | 632 | 538 | 79 | 156 | 28 | 2 | 25 | 263 | 92 | 3 | 1 | 0 | 8 | 77 | 8 | 8 | 91 | 11 | .290 | .382 | .489 | .871 | |
通算:12年 | 1371 | 5697 | 4824 | 846 | 1468 | 285 | 14 | 302 | 2687 | 998 | 22 | 8 | 6 | 55 | 711 | 51 | 99 | 706 | 89 | .304 | .400 | .557 | .957 |
- 2008年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
タイトル・表彰
- パ・リーグMVP:2回(2000年、2004年)
- 三冠王:1回(2004年)
- 首位打者:2回(2004年、2006年)
- 本塁打王:2回(2004年、2005年)
- 打点王:3回(2003年 - 2005年)
- 最多安打:1回(2004年)
- 最高出塁率:3回(2004年 - 2006年)
- ベストナイン 5回(2000年、2003年 - 2006年)
- ゴールデングラブ賞:1回(2004年)
- 月間MVP:6回(2001年9月、2003年8月、2004年5月、2005年7月・9月、2006年6月)
- オールスター出場:8回(1999年 - 2001年、2003年 - 2005年、2007年 - 2008年)※2006年は監督推薦で選出されているが、負傷のため欠場。
- 熊本県スポーツ優秀大賞特別賞(2006年)
個人記録
- 初出場:1997年5月31日、対西武ライオンズ9回戦(福岡ドーム)、7番・一塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、4回裏に石井丈裕から
- 初本塁打:1998年9月5日、対西武ライオンズ22回戦(福岡ドーム)、3回裏に西口文也から
- 初盗塁:1998年9月13日、対近鉄バファローズ27回戦(福岡ドーム)、3回裏に二盗
- 100本塁打:2002年5月3日、対日本ハムファイターズ6回戦(東京ドーム)、5回表に正田樹から
- 150本塁打:2003年9月27日、対オリックス・ブルーウェーブ27回戦(Yahoo!BBスタジアム)、5回表に窪田淳から
- 200本塁打:2005年4月17日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)、9回裏に渡辺俊介から
- 1000本安打:2005年7月30日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)、6回裏にダン・セラフィニから適時二塁打
- 1000試合:2006年4月28日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場
- 250本塁打:2006年5月6日、対西武ライオンズ7回戦(インボイスSEIBUドーム)、8回表に山岸穣から
- 300本塁打:2008年8月29日、対埼玉西武ライオンズ20回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)、3回裏に涌井秀章から
- 3年連続120打点(2003年 - 2005年) ※日本記録。
- シーズン7部門(打率、本塁打、打点、安打、出塁率、得点、塁打)トップ(2004年) ※史上2人目。
背番号
- 26(1997年 - 1999年)
- 3(2000年 - )
出囃子(テーマソング)
- 全てEXILEの楽曲
- 「Fly Away」(2005年 - )
- 「YES!」(2006年)
- 「Lovers Again」(2007年開幕 - 6月まで)
- 「Everything」(2007年7月 - 9月まで)
- 「時の描片〜トキノカケラ〜」(2007年10月5日)
- 「Pure」(2008年)
- 「Dream Catcher」(2009年)
- ホークスの選手にテーマソングが導入された2005年から使用している「Fly Away」に加え、2006年は「YES!」、2007年からは「Everything」、「時の描片〜トキノカケラ〜」、2008年は「Pure」、2009年は自身の公式サイトでのファン投票で選ばれた「Dream Catcher」を使用している。第一打席時を除き基本的に奇数打席時は「Dream Catcher」、偶数打席時は「Fly Away」となるが、チャンスの際はイニングに関係なく「Fly Away」が流れるようになっている。また松中本人もEXILEとのメンバーとの交友があり、ライブにもたびたび訪れている。
- 2008年はMAIの「絆」を第一打席時のみ使用していた。
その他
- 相撲観戦が趣味である。2006年九州場所は観戦中をNHKテレビ中継で映された。また2007年九州場所中日の大相撲中継ではゲスト出演した。
- 競馬に興味があり、2007年の有馬記念の3連単を見事的中させた。この年の有馬記念では9番人気のマツリダゴッホが勝ち、人気のウォッカやメイショウサムソンが敗れるなどして大きく荒れたため、払戻金は800,880円だった。
- 高校時代に左肩を痛めたことが原因で一時期右投げに転向していたことがある(新日鐵君津在籍時に手術で完治させた後は左投げに戻った)。左打ちであるが、ゴルフは右で打っている。
- 新日鐵君津在籍時には、熊本で中古の軽自動車を買い、「松っちゃん号(ホンダ・トゥデイ)」と名付け、この車を君津で使っていた。毎年暮れにはこの車を運転して君津から実家の八代まで帰省していた。また、初心を忘れないという理由で、プロ入り後も実家にこの「松っちゃん号」を残し、帰省した際には乗っていることを2000年の週刊ベースボールにて、友人である陣内貴美子が明かしている。
- 2001年、福岡ドームで西武時代・松坂大輔の145キロのストレートを片手1本で推定130mのホームランをバックスクリーン横に放ったことがある。なぜ、片手一本で打ったかというと、打った瞬間にバットがグリップ部分から折れたが、左手一本で振りぬいたためである(右手はグリップを持っていた) 当時、福岡ダイエーホークスの王貞治監督も折れたバットを見て、驚いていた。
- まだ二軍にいた頃に、NHKのドキュメンタリー番組に取り上げられたことがある。同期入団の井口忠仁、柴原洋らが一軍で活躍する様子を見て思い悩む様子などが放送された。
- 福岡ダイエーのユニフォームは背番号に丸数字をつけていたが、2001年シーズン序盤、一人だけ角数字の背番号をつけたユニフォームで出場していた。すぐ丸数字に戻されるが、事情は明かされていない。
- 2003年にマークした118得点、2004年にマークした342塁打、82長打はホークスにおける年間最多記録。また、通算打率は球団歴代1位である。
- 2006年7月5日の西武戦終了時、三塁ランナーだった松中は涙を流しながら引き上げた。王監督の検査入院が発表されたのはこの後午後11時からであった。試合終了後に選手への説明は行われたが、主力選手数人は試合前にこのことを伝えられた上でゲームに臨んでいた。なお、この試合は3-3の引き分け。
- 夫人の林恵子とはホークスファンの漫画家の水島新司の息子であるタレントの水島新太郎の仲立ちで交際を始めた。
- 2007年12月福留孝介と間違えられて、シカゴ・カブスのHPのトップを飾った。
- 卓越した内角打ちの技術を"職人技"や"巧さ"の例えとして芸能人や漫画家などにネタにされる(石橋貴明や木多康昭など)。実際中居正広のインタビューを受けた際に、体から30cmほどの距離に柱を立てた状態でそれに全く触れることなくフルスイングを行っている。
- 2008年9月王貞治監督が退任を表明した後、王から「君にばかり負担をかけて苦しい思いをさせ、申し訳なかった」と言葉をかけられ、涙した。2005年オフに城島健司が大リーグにFA移籍した後、他球団のマークが松中一人に集中した状況を気遣ってのコメントと推測される。
- 2004年に三冠王の偉業を成し遂げたものの、さほど騒がれていない。その原因としては前述のプレーオフでの不振や同時期プロ野球再編問題が起こったこと、メジャーリーグでイチローがシーズン安打新記録を達成し、その陰に隠れてしまったことが挙げられる。
テレビ・コマーシャル
- 西部ガス 『ホームパーティ篇』 『取替え篇』
- 福岡放送
- ソフトバンクモバイル ホワイトプラン 『ホワイト・バット篇』 『ホワイト・身長編』 (2007年1月 - ) 和田毅、川崎宗則、斉藤和巳らと共演。
関連項目
外部リンク
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