交尾 (小説)

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交尾
Mating
著者 梶井基次郎
発行日 1931年1月1日
発行元 作品社(雑誌『作品』)
ジャンル 短編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 雑誌掲載
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交尾』(こうび)は、梶井基次郎短編小説。「その一」「その二」の2話から成る。夜の物干し台から見えた抱擁や、で鳴く河鹿の可憐な求愛行動を題材にした随想的短編で、初出掲載当時に多くの作家から絶賛された作品である[1][2]。猫の方は大阪阿倍野の実家、河鹿の方は伊豆湯ヶ島での体験である[2][3][4][5]が間近に迫り、幸福結婚も望めなくなった基次郎の)に対する郷愁が垣間見られる作品でもある[6]水族館で目にしたすっぽん交尾を題材にした「その三」も書かれたが、基次郎の死により未完の遺稿となった[3][7][8]

発表経過[編集]

1931年(昭和6年)1月1日発行の同人誌作品』1月号に掲載された[9]。その後、同年5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された[9]。同書には他に17編の短編が収録されている[10]

翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Mating)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Accouplements)で行われている[11][12][注釈 1]

あらすじ[編集]

その一[編集]

人々が寝静まっている或る夜、病身の「私」はで火照って眼が冴え、物干し場に出ていた。頭上の星空にはを瞬間消す蝙蝠が何匹か飛んでいる。物干し場からは家の裏横手の路地が見下ろせ、近所の家々はまるでに舫った無数の廻船のようにぎっしりと詰まり、「私」の家と同じように半ば朽ちかけた物干し場が各々にある。

「私」は一瞬、マックス・ペヒシュタイン英語: Max Pechstein)の絵「市に嘆けるクリスト」を思い出し、今自分がいる場がゲッセマネのような気もした[注釈 2]。静かな町並みから、魚屋の男の力ないがかすかに聞こえてくる。「私」はそれを気の毒に思いながら、自分の咳も他人にあんなふうに聞えるのかと客観的に耳をすませる。この貧乏な町では、病院に行く金もなく、つい最近まで働く姿を見かけた人が葬儀車で運ばれることもあった。

夜の路地にはしきりに白っぽいが往来していた。この町はを飼うような余裕の家はなく、商売人は皆、を捕る猫を飼っている。我が物顔の猫たちはいつもブールヴァール(並木道)を闊歩する貴婦人のように悠然と歩き、市役所測量士のようにから辻へと走り抜けていた。

「私」はふと、2匹の白猫が眼下の路地で寝転んで抱き合っているのを見て驚く。2匹は通常の猫の交尾の恰好ではなく、お互いが柔らかく噛み合い、前肢で突っ張り合いをしていた。それは不思議に艶めかしく、こんな可愛らしい猫の有様を「私」は今まで見たことがなかった。絡み合っている2匹は、「私」に男女の痴態を幻想させた。

そこへ路地の端の方から夜警の音を響かせながらやって来た。いつもなら「私」は、夜警が見えると、注意されるのが嫌で家の中へ引っこむの常だったが、この時は夜警がどうするのか見たくて、物干し場にずっと留まっていた。夜警は猫に気づくと、しばらくそれを眺めていた。

猫たちは夜警が2、3歩近づくと、くるりとをそちらへ振り向けるが、まだ抱き合っていた。「私」は夜警の行動の方に興味をそそられた。夜警は杖をあえて猫の間近でついて見せ、2匹は一目散に別々の方向に分れて逃げてしまった。それを見送った夜警は、物干し場の「私」には全く気づかないまま、いつものようにつまらなさそうに杖を鳴らして立ち去っていった。

その二[編集]

「私」はで鳴く河鹿の様子を観察するため、瀬の際まで神速に近づき、後はひたすらじっと「俺はだぞ」と念じて微動だせずに身をひそめる。そうすると、一度は隠れた河鹿が、また水の中や石の蔭から恐る恐る顔を出し、再び鳴声をあげ求愛のアンコールが始まる。

そんな時「私」は、芥川龍之介の『河童』のように、「河鹿の世界」に入ったかのような気分になり、緩やかな瀬の流れを見つめる河鹿の顔が、南画河童漁師のような点景人物そっくりに見えたりした。河鹿の前の流れが急に早くなった瞬間、河鹿と同化していた「私」もまた、その「孤客」たる自分を感じた。

それより前に一度、「私」は河鹿を1匹捕まえて、硝子をしたに入れて観察しようとしたが、河鹿は自然の状態にはならずに、「私」が見ていると隠れたままであった。「私」が河鹿のことを忘れ読書に熱中し、ふと身体を動かすと、「チャプン」と河鹿の隠れる音がした。「私」の方が河鹿に自然な姿を見られてしまった。桶では自然観察は不可能と知った「私」は翌日桶を開け、河鹿を障子窓から逃がした。

ある日、河鹿の鳴き声が「私」のいる宿の街道までよく聞こえてきた。「私」は街道から林を抜け、いつもの瀬に下りて行った。渓向うの木立では1羽の瑠璃が美しく囀っていた。河鹿たちの音楽のような鳴く声は、「私」の足音で一旦やむが、例のごとく石のように「私」がじっと蹲っていると、やがて元のように瀬音と共に鳴声を響かせた。

この地球で初めて「」を持ったのは石炭紀両棲類だと知る「私」は、これが地球に響いた最初の生の合唱だと壮烈に感じながら、河鹿の鳴声を心震わす感動的な音楽として聴く。ある1匹のが一(約30センチ)ほど離れた石の蔭にいるに向って咽喉を震わせ烈しい音楽を奏でていた。雌の方は、雄の声に受け答えをするかのように、「ゲ・ゲ」と満足げに呑気に鳴いた。

雄は突然激しい鳴き声を止め、すぐさま石を下りて雌に向って水を渡っていった。その可憐な風情に「私」はこれまでにない大きな感動を覚えた。河鹿の彼が「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳いでいく様は、人間の幼子母親を見つけて、甘えて泣きに泣きながら駆けよって行く時と何ら変わらず、一心で可憐な求愛だった。

やがて2匹は爽やかな清流の中で交尾するが、その痴情の美しさよりも、雄が水を渡っていく時の可憐さには敵わないと「私」は感じ、世にも美しいものを見た感動で、しばらく河鹿の合唱の中に没していた。

登場人物[編集]

[その一]
貧しい庶民が暮らす町にいる。肺病を患い身体が火照り安眠できず、妄想から逃れるために時々、夜中に物干し場に出て夜露にあたる。この町では少し前にセキセイインコを飼うのが流行ったが、増えすぎて怪我人まで出たことがあった。その生き残りのインコの数匹がで黒くなり、夜中に「私」の隣家の物干し場にガサゴソと棲息している。「私」は梶井基次郎本人。
魚屋
肺病を患い、商売も辛くなっている。2階の下宿人から、病院で診てもらうように勧められるが、病気の咳ではないと言い張って隠そうとしている。
夜警
を持って夜の町を見廻っている。昼間は葬儀屋を営む陰気な感じのする男。夜に雨戸が開いた物干し場にいるところを、この夜警に見つかると注意されるので、「私」は夜警が廻ってくるといつも家の中に引っ込む。
[その二]
渓谷の川沿いにある温泉地旅館に滞在している。から聞こえてくる河鹿鳴声に興味を持ち観察に行く。梶井基次郎本人。

作品背景[編集]

生活に対する愛着[編集]

1930年(昭和5年)8月に、大阪市住吉区王子町2丁目44番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)の実家で『闇の絵巻』を書き終わった梶井基次郎は、9月初めに兵庫県川辺郡伊丹町堀越町26(現・伊丹市清水町2丁目)の兄・謙一の家に戻った[2](詳細は闇の絵巻#発熱の中の本稿を参照)。その後9月28日に、兄一家の転居に伴い、川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に移った[16][2][3]

この人里離れた千僧の家の隣には猪名野山安楽院という寺があり、周辺は蜜柑などの果物畑が多い田舎であった[2][17]。住友電線製造所(現・住友電気工業)に勤めていたエンジニアの兄・謙一の無線交信に適し、家賃も安く、500坪の広い敷地には離れ家もあった[16][2][3]。その8畳と6畳部屋の離れに基次郎は母・ヒサと落ちついた。南側に縁側があり、ヒサは敷地内で胡瓜茄子を植え、基次郎を世話していた[2]

この頃、友人の淀野隆三は同人誌『詩・現実』の編集作業と共に「日本プロレタリア科学研究所」に勤務していたが、基次郎は淀野のこの時期の評論作品の観念的な〈固苦しい言葉 紋切型の言葉〉について苦言を呈し、プロレタリア文学ロシアの小説に比して平俗で日常的に見えてしまう身辺生活の題材を蔑ろにしてはいけないことを説き、〈生活に対する愛着〉の大切さを語っている[18][2][3][8]

僕は君の珍しく真正直な性格からして君の領土はやはり普通の言葉で直述せられた小説だと思ひます、(中略)僕達は飛躍してどんな芸当も出来ません、やはり現実から出発するより仕方がないのです 僕たちはインテリゲンチャに刻印された マルクス主義公式に諦念してしまつて その公式に従つて感傷を起すよりさきに まだまだ現実の煉りのなかを自から進んでゆく、生活に対する愛着がなくてはいけないと思ひます — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和5年10月6日付)[18]

また同時期、辻野久憲が淀野隆三から「自己を打ち明けて語れ」と言われたことに承服できずに、自然主義写実尊重が私小説の行き詰まりとなったと反論したのに対して、基次郎は〈紋切型〉だと指摘し[19]ルソーの『告白録』に連なる島崎藤村懺悔の系譜、西欧のリアリズム客観的・虚構的手法、俳諧写生文の系譜などを考慮せずに〈一様に〉混同する辻野に異議を唱え、〈船腹にこびりついた たくさんのカキ殻〉を削り落として、〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉に向ってほしいと説いている[19][3][9][8]

あなたの作の態度は少し極端に云へば 自分の過去を自分だけで納得し それを胸に秘め、に対し 風景に対し詠嘆を述べてゐるといふ態度です。〈勿論これは一概には云へません。たゞかういふ種類のものを取つて来ればです。〉これは勿論自然主義でもなく 便宜にそんな言葉を作れば 仮託主義でもありません 自分の経験したことを表現する文学の正道としてはあなたのやうな態度のヂャンルの文学はあり得ないではないでせうか 率直に云へばそれは一つの稚態です。芭蕉

 埋火も消ゆやの煮る音
と云へば これは全然あなたの態度とはちがふのです

— 梶井基次郎「辻野久憲宛て」(昭和5年10月5日付)[19]

ふだん基次郎は友情に厚く気遣いがあったが、こと文学に関しては親しい友人の作品でも容赦なく批評し、〈交遊のたしなみ〉を越えても、言いにくい苦言を呈することも辞さなかった[19][20][2][3]。そして、この〈生活に対する愛着〉や〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉を基次郎自身も目指し、『交尾』に取り組んでいた[2][3][21][22]

結核の発熱に抑える解熱剤の連用もあり、胃炎にもなっていた基次郎は大分痩せて衰弱していた[22][23]。そのため、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)時代以来の友人・宇賀康の結婚式にも出席できないほどだったが[24]、千僧の家で養生しながら〈この中〉に、〈天下茶屋の生活〉を題材にした〈僕のその日暮しの生活をそのまゝ書くつもりだ〉と意欲を見せていた[22][21][3]

帰宅したら、天下茶屋の家の小説を書くつもりだ。僕はこの小説を書くのに、なんだか人に唾棄されて見たいやうな欲望を感じつつある。実際唾棄されるやうなものになるだらう。非常に愉快だ。――これは少し長くなる筈。小説らしい小説になる筈。 — 梶井基次郎「三好達治宛て」(昭和5年9月27日付)[21]

しかし、〈この秋中〉に書かれた『交尾』は短い作品になり、「その一」で少し描かれた実家の人々の見聞は、次に発表される『のんきな患者』の中で主題として描写されることになり、この時には完成に至らなかった[3][25]

題材[編集]

大阪の阿倍野王子町[編集]

『交尾』の執筆からさかのぼること約2年前、梶井基次郎は、1928年(昭和3年)8月頃から、結核による呼吸困難がひどくなり、9月に東京を離れ、大阪市住吉区阿倍野町99番地〈町名変更前〉(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)の実家に戻って養生生活を送っていた(詳細は梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へを参照)。『交尾』の「その一」では、この住吉区阿倍野王子町の家の物干し場から見たものが描かれている[3][25]

その小さな王子町では、基次郎と同じように結核を患う人々が多く、貧しい暮しの中で病院にも通えないままに死んでゆく者がほとんどであった[26]。この阿倍野町で結核を患う人々の挿話の数々は、本格的な小説を志した遺作『のんきな患者』の題材にもなり、より具体的に描かれている[25]

この下町ではが日常的に路地に散見され、基次郎の実家でも放し飼いで飼っていた[27][25]。作中で、〈今彼等が突張つてゐる前肢の――それで人の胸を突張るときの可愛い力やを思ひ出した〉と書かれているように、実家にいた時には、基次郎自身も猫と戯れることが多かった[27](詳細は愛撫 (小説)#猫との生活を参照)。

湯ヶ島の猫越川[編集]

『交尾』の執筆からさかのぼること約3年半前、梶井基次郎は転地療養のため伊豆湯ヶ島の世古の滝の「湯川屋」に滞在していた。そこは狩野川の支流・猫越川の崖沿いにあり、基次郎は毎日のように付近を散策し、の窪地の陽だまりでを眺めたり、林の中の山道を歩いたり、自然動植物風景を観察していた[6][28][29]

音楽好きで耳のよい基次郎は、当初は宿の側を流れる渓流の音を非常に喧しく思い[30]、〈多勢の小学校の生徒が種んな歌を歌つてゐる声を立ててゐる〉のように聞こえて仕方なく、〈小学唱歌ならいゝが、鴨緑江や一本松をやるときには実にたまらぬ〉と、日暮れに聞くその音が自身の気分と相まって〈悲しく力一杯なもの〉に感じていた[31][注釈 3]

また、渓谷にいる種々の鳥たちの囀りが増し、花々も咲いて春めいてくると楽しい気持になってくるが[32][33][34][6]、渓流の音に混じって聞こえてくる河鹿鳴声を〈悲しい〉ものとして聞き興味をそそられている[35][36]

此処のは随分いゝ やまめも今が一番よく釣れるらしい (中略) 河鹿がもう鳴いてゐる 此処の河鹿をきくと僕はまだ河鹿をきかなかつた自分かと疑ひ度くなつて来る こんな悲しい寂びた啼声をするものはないと思ふ 今はまだ少いがそんなに多く啼いては欲しくないと思ふ — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年4月10日付)[35]

そして初夏になり河鹿の鳴声が激しくなると、河鹿の交尾の様子を観察している[29][6][28]。この河鹿の話は、夏に湯ヶ島を訪れた丸山薫も聞いていたという[37]

今日へおりて河鹿を聴いた 座つてゐるところから各々の上の四匹の河鹿が見える 川下の方から幽かな鳴声がきこえて来る、と河下の奴から順に鳴き出す、一匹は鳴かない、それはだ、は一程の距離から石の上にゐる、そいつが鳴くと雌はかすかに答へてゐたようだ、暫くすると雄が一尺程の水を鳴きながら渡つて来て雌の上へとびついた、そして僕はグロテスクと呼び得るやうな交尾を見た、谷をうすばかげろうが上つてゆく、 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年5月6日付)[29]

遺稿「その三」[編集]

『交尾』には未完の「その三」があり、基次郎の生前に発表されることはなく遺稿として終わった。内容は、1929年(昭和4年)の夏に水族館堺水族館)で目にしたすっぽん交尾を題材にしたもので、それを1人だけで観察したい「私」と、交尾に気づいて興味を示す他の見物客の様子が綴られている[7][3][25]

1930年(昭和5年)12月14日に淀野隆三チーズバターアスパラガスを持って見舞いに来て1泊した時に「その一」と「その二」の原稿を見せた時に「その三」のすっぽんの話も身振り手振りで面白おかしく語って聞かせ[38][39][2]、晩秋に訪れた丸山薫にも「その三」の未完原稿を読み聞かせていた[37][2][3]

夜半、君は障子に羽搏くを殺してくれと僕に要求して、それから起き上つて、その刻苦に成る未完成の原稿を読んで聴かせた。その文中、水族館の描写で「あまりにからだが薄くて三尺も泳ぐと横道へ反れる」といふ文句に僕が噴き出すと、君も自分ながら可笑しかつたとみえてはげしく声を合はせて咳入つた。翌日暇を告げた僕を門に送り「たとへライオンが追駆けて来たつて、もう僕は二た足と走れないのだ」と云つたが、その諧謔はもう僕を泪ぐませるばかりであつた。思へばそれが君の僕に餞した短い印象になつてしまつた。 — 丸山薫「ユーモラスな面影」[37]

「作品」への寄稿[編集]

基次郎は『交尾』の「その一」「その二」を1930年(昭和5年)12月に擱筆した後、原稿を淀野隆三に託して、作品社の雑誌『作品』宛てに郵送してもらった[2][3]。これは基次郎の強い意向によるものであった[40][2]

自身の同人誌『詩・現実』にこの原稿がほしかった淀野は拐帯したい誘惑を抑えて、基次郎の意向通りに大阪中央郵便局から深夜の航空便で送った[2]。のちに淀野はこのいきさつを『作品』の主宰編集者・小野松二に語り、小野は基次郎が小さな雑誌にそこまで肩入れしてくれたことに感激した[40][2]。雑誌『作品』は、小林秀雄今日出海深田久弥井伏鱒二永井龍男らが同人になっていた[3][2]

なお、基次郎は淀野がこの泊りがけで見舞いに来た時、2人で家の周辺を散歩しながら、「東京の横光はどうや」と聞き、文壇で活躍していた3歳年上の横光利一の動向を気にかけ、ライバル視していたようだったという[41][2]

尾崎士郎の「河鹿」[編集]

湯ヶ島滞在中の1927年(昭和2年)6月頃、基次郎はその地にやって来た尾崎士郎宇野千代らと知り合い親しく交流した(詳細は梶井基次郎#宇野千代をめぐってを参照)。尾崎は基次郎から河鹿交尾の話を聞いたことをヒントにしたと思われる描写を取り入れた『河鹿』という短編を9月に発表した[42][43][8]。その作品は夫婦の倦怠を描いたもので、この頃すでに尾崎と千代の夫婦仲は冷えていた[42][43]

その後、尾崎と基次郎は千代を巡って仲違いして長い間絶交状態が続いていたが、基次郎の『交尾』を読んだ尾崎がこれを讃辞し、湯ヶ島で基次郎の河鹿の話を元に先に自分が『河鹿』を書いたことで、後書きの『交尾』が逆にその借用になるかもしれないと基次郎が危惧しているのではないかと気づかう内容と推察される葉書を送ってきた[44][2][9]。基次郎もそのことへの思い煩いの気分が晴れて励まされた[44][2][4]

お葉書をいたゞきましたときは 何だかハッとしたやうな気持でした それは僕が去年から 殊に去年の暮から思ひ煩ひ さて僕の方からは何とも申し上げやうもないことだつたからです 何だかそれが感応のやうな気持がして ハッとした訳でした お葉書頂いて 簡単な字句ながら あんな嬉しく思つたことはありませんでした。(中略)

僕は身体はもう大分悪いですが 必らずもう一度精神的な健康に立ち帰り得る自信を持つてゐます それと同時に必ず 必生〔ママ〕の作品を書き、地球へ痕を残すつもりです 何もしないながらに今年の正月は 私にも左様な自信が持てました、僕は身体は弱つてゐますが 精神は凛然として来ました

— 梶井基次郎「尾崎士郎宛ての書簡」(昭和6年1月17日付)[44]

基次郎は尾崎が前年暮に発表した『鳴沢先生』を読み、その〈澄み透つた文章〉に〈山間に水晶を汲む〉ような気持になったことを伝え、〈私は自分の書くものにも このやうな澄明があるべきことを信じ また実際あればよいがと思つたことでした〉と、自作への思いも語っている[44][4]

この尾崎士郎への返信には、千僧の家の庭先で正月2日に兄・謙一に撮ってもらった写真を同封していた[44][2]。機械に詳しい兄は、当時最新の外国製のカメラを持っていた[4]。基次郎はメリヤス肌着の上に、細かい縦縞の着物と、上には羽織を身に着け、庭に出した椅子に座って被写体となった[4][45]。この写真が基次郎の最晩年の貴重な肖像写真となった[46]

作品評価・研究[編集]

『交尾』は、前作の『闇の絵巻』に引き続き初出掲載当時から評判がよく、多くの作家から高評価された。今日でも名作短編としてアンソロジー収録で取り上げられることが多い。作品研究としては、他の梶井文学と同様に、見る者と、見られる対象との関係を軸にした論考が中心となっている[47][3]

菱山修三は、三好達治がきちんと座して『交尾』を読みながら、「比類のない美しい笑い方」をしていたのを見て、それを「の笑い」と感じ[2]辻野久憲も『交尾』に感銘を受け、先輩の石田孝太郎宅を訪問した際に、これについて賞讃し合い、基次郎への尊敬の念が深まったという[2]

井伏鱒二は、永井龍男今日出海から『交尾』を傑作だと勧められ早速読み、「実によかつた。水際だつてゐる」[1]、「真に神わざの小説」と賞讃し[48]、「河鹿の鳴く声や谷川の水音は私の骨髄に徹してまことに恍惚なる限りであつた。言葉では捕捉できない絶対の無限。かういふ快楽煩悩具足のわれ等一生のうちに、さうたびたび感得できるものではない」と評している[48]

どんな具合にいゝかといふことは、僕は論理的に言へないやうだが、誰もとがめはしないだらう。「罪と罰」の作者は、ソーニャのことをあまり精密に書いてゐないが、ソーニャの純情が鮮明に表現されてゐる。どんな具合に純情が表現されてゐて、どんな具合にそれでもつて僕がうたれたかといふことを、僕は論理的に言へないのである。うたれさへすれば、僕は論理を棄てゝかゝる方がいゝ。こんな方法では邪道にはいる心配はないかどうかといへば、僕は平気だと答へる。かういふ一本調子の気持を、梶井君は更らに高揚された心持で「交尾」を書いたのであらうと思ふ。あの作品を書くには、に力をいれて机の前に坐り心臓動悸をうたせながらでなくては書けないだらうと思はれる。梶井君は机にむかつてゐるとき、小刻みに息をしてゐるかどうかを告白してゐないだらうか? — 井伏鱒二「交尾」[1]

大谷晃一は、「は、そのものとつながっている」として、「河鹿の交尾をながめる基次郎のなかに、幸福結婚を断たれようとしている青年の、性へのノスタルジアがある」と解説している[6]。また、基次郎が1つの木立に1羽しか居ないという縄張り意識の強い瑠璃の鳴声に惹かれ、作中で〈ニシビラへ行けばニシビラの瑠璃、セコノタキへ来ればセコノタキの瑠璃〉と口ずさむ場面には、この時に世古の滝の「湯川屋」にいた基次郎が、西平の「湯本館」にいる川端康成から作品への反応がまだ何も得られていなかった時の微妙な気持が反映されているとして、敬愛する先輩だと川端を思いつつも「あの人はあの人、おれはおれだ」という深層心理が垣間見られると考察している[6]

藤村猛は、多くの論者が指摘されているように、〈私〉という人物が「(病気により)生からへ移動させられる途中の旅人」として捉えることができるとし、「その一」では朽ちかけた破船の乗客のようにを眺め、そのの世界は死と生が交錯していると解説している[47]。そして、〈私〉と〈〉と〈夜警〉の3者間の関係について、〈私〉が〈涯しのない快楽〉を〈紡ぎ出すこと〉を可能にするために、夜警や猫の目に寄り添い、自身も夜警に「見られる」ことも半ば期待している節があるとして、「劇場化」による「見る」という行為の「重層化」が潜在し、「快楽は独奏からシンフォニーとなり、立体化して持続する」と考察している[47]

つまり、夜警が「猫」と「私」に見られ、かつ、「私」が夜警に乗り移ろうとすることにより、「彼・私」という同一化の幻想を紡ごうとするのである。これらの独特なメカニズムこそが、「交尾」「その一」の世界に底流する「死」と拮抗しつつ、「生(性)」の高みに到達しようとする「私」の有り様である。だが、それも夜警の杖の音により、猫たちが逃げ去って終わりになる。(中略)この「つまらなささうに」は夜警だけではあるまい。猫たちと夜警から与えられた幻想と快楽。「私」はその時、「生」を実感している。 — 藤村猛「梶井基次郎『交尾』論」[47]

また藤村は、五十嵐誠毅が〈夜警〉の葬儀屋という職業から「死の代理人」のイメージを指摘したことを敷衍し[49]、「死神」のイメージが垣間見える夜警と、「生」の象徴である猫たちとの対決に、「キリスト」(生と死の両方に介在する立場)の〈私〉という構図を見て、〈私〉がその対決に「ドラマ」を期待していたとして、前述の「劇場化による自己解放の快楽」の背後に、「キリストを想う〈私〉に訪れる生きることへの悲しみ」が複合的にあると考察している[47]。そして「その二」の河鹿では、基次郎が淀野隆三への書簡で伝えていた〈グロテスク〉さが回避され、「自然との一体化」が計られ「新しい感動的な世界」が展開されているとしている[47]

「交尾」「その一」の「私」は、「キリスト」の如く人々の悲しみを背負おうとしつつ、猫の交尾や夜警の登場によって、想像を駆使して「生」を夢見て、自己を解放しようとする。これは「私」の秘やかな、未完の快楽である。「その二」では、太古の昔から繰り返された「生()」の感動に自己の存在を変容させ、彼らの世界に自己を没入して同化し、時を超えて陶酔する。これは時間場所を越えて、世界と共に味わう快楽である。 — 藤村猛「梶井基次郎『交尾』論」[47]

柏倉康夫は、「その二」で、夜警が〈私〉に気づかずに立ち去ったことは、「〈私〉の存在を希薄なものにし、ついいましがた味わった生の恍惚をあやふやなものにしてしまう」としながらも[3]、もしも夜警が〈私〉の存在に気づいたならば、〈私〉の「精神の高揚」は、「見られることで客体化され、その事実が保障される一方で、他人と分有されることで通俗的なものに堕す危険があった」としている[3]。そして、そのいずれに〈私〉の気持ちが傾くかという命題は、遺稿となった「その三」において、の交尾を見つめる〈私〉と、水槽の前に来る見物客への関心に移行する〈私〉の心の変化を描こうとしていることから、ここで基次郎はその命題を検証しようとしていたと考察している[3]

おもな収録本・音声[編集]

アンソロジー収録[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ Christine Kodama(クリスチーヌ・小玉)は、『視線の循環――梶井基次郎の世界』(邦題)という梶井基次郎論と共にいくつかの梶井作品を仏訳し1987年パリで出版した[11][13]
  2. ^ マックス・ペヒシュタイン英語: Max Pechstein)は、1881年に生れ、1955に没したドイツ画家ドイツ表現派として活躍。主題を強烈な色彩で表現し、主観主義的に対象の単純化と強調をおこなう画法を特色とした[14][15]
  3. ^ 「鴨緑江」とは、当時流行していた唄「鴨緑江節」のこと[31]

出典[編集]

  1. ^ a b c 井伏鱒二「交尾」(作品 1931年3月号)。別巻 2000, pp. 259-260に所収
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「第十三章 地球の痕を――伊丹から千僧へ」(大谷 2002, pp. 283-304)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「第四部 第六章 昭和五年秋」(柏倉 2010, pp. 404-418)
  4. ^ a b c d e 「第五部 第一章 『檸檬』」(柏倉 2010, pp. 419-427)
  5. ^ 「途絶」(アルバム梶井 1985, pp. 84-96)
  6. ^ a b c d e f 「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」(大谷 2002, pp. 196-215)
  7. ^ a b 「交尾 その三」(1930年12月)。旧2巻 1966, pp. 31-34、ちくま全集 1986, pp. 512-514に所収
  8. ^ a b c d 「第五章 退却と前進と死」(作家読本 1995, pp. 169-212)
  9. ^ a b c d 鈴木貞美「梶井基次郎年譜」(別巻 2000, pp. 454-503)
  10. ^ 藤本寿彦「書誌」(別巻 2000, pp. 516-552)
  11. ^ a b ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」(別巻 2000, pp. 640-642)
  12. ^ Dodd 2014
  13. ^ 「第三部 第二章 『冬の日』の評価」(柏倉 2010, pp. 245-254)
  14. ^ 三好行雄「注解――交尾」(新潮文庫 2003, p. 324)
  15. ^ 「注解――交尾」(ちくま全集 1986, pp. 227-236)
  16. ^ a b 梶井謙一・小山榮雅(聞き手)「弟 梶井基次郎――兄謙一氏に聞く」(国文学 解釈と鑑賞 1982年4月号)。別巻 2000, pp. 4-21に所収
  17. ^ 千僧池の寺の脇道の写真はアルバム梶井 1985, p. 88、作家読本 1995, p. 190。跡地の写真は作家読本 1995, p. 193
  18. ^ a b 淀野隆三宛て」(昭和5年10月6日付)。新3巻 2000, pp. 383-386に所収
  19. ^ a b c d 辻野久憲宛て」(昭和5年10月5日付)。新3巻 2000, pp. 386-388に所収
  20. ^ 辻野久憲「失われた面影」(作品 1932年5月・追悼特集号)。別巻 2000, pp. 292-295に所収
  21. ^ a b c 三好達治宛て」(昭和5年9月27日付)。新3巻 2000, pp. 373-377に所収
  22. ^ a b c 中谷孝雄宛て」(昭和5年10月6日付)。新3巻 2000, pp. 388-389に所収
  23. ^ 北川冬彦宛て」(昭和5年9月27日付)。新3巻 2000, pp. 377-381に所収
  24. ^ 「宇賀康宛て」(昭和5年10月7日付)。新3巻 2000, pp. 389-390に所収
  25. ^ a b c d e 「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」(大谷 2002, pp. 259-282)
  26. ^ 川端秀子宛て」(昭和4年8月20日付)。新3巻 2000, pp. 303-304に所収
  27. ^ a b 「北川冬彦宛て」(昭和4年9月11日付)。新3巻 2000, pp. 304-309に所収
  28. ^ a b 「第三部 第六章 素材」(柏倉 2010, pp. 290-299)
  29. ^ a b c 「淀野隆三宛て」(昭和2年5月6日付)。新3巻 2000, pp. 221-222に所収
  30. ^ 「近藤直人宛て」(昭和2年1月2日付)。新3巻 2000, pp. 161-163に所収
  31. ^ a b 「淀野隆三宛て」(昭和2年1月6日付)。新3巻 2000, pp. 167-169に所収
  32. ^ 「近藤直人宛て」(昭和2年3月17日付)。新3巻 2000, pp. 202-203に所収
  33. ^ 「淀野隆三宛て」(昭和2年3月18日付)。新3巻 2000, pp. 203-204に所収
  34. ^ 清水蓼作宛て」(昭和2年3月18日付)。新3巻 2000, pp. 204-205に所収
  35. ^ a b 「淀野隆三宛て」(昭和2年4月10日付)。新3巻 2000, pp. 207-211に所収
  36. ^ 「第三部 第五章 三好との友情」(柏倉 2010, pp. 280-289)
  37. ^ a b c 丸山薫「ユーモラスな面影」(作品 1932年5月・追悼特集号)。別巻 2000, pp. 305-307に所収
  38. ^ 淀野隆三「思ひ出すままに」(作品 1932年5月・追悼特集号)。別巻 2000, pp. 307-311に所収
  39. ^ 「淀野隆三宛て」(昭和5年12月16日付)。新3巻 2000, pp. 391-392に所収
  40. ^ a b 小野松二「梶井君と『作品』」(作品 1932年5月・追悼特集号)。別巻 2000, pp. 312-313に所収
  41. ^ 淀野隆三「横光さんと梶井君」(『横光利一全集 第23巻』月報 改造社、1950年9月)。別巻 2000, pp. 121-124に所収
  42. ^ a b 尾崎士郎「『鶺鴒の巣』そのほか」(新潮 1927年9月号)。別巻 2000, pp. 237-246
  43. ^ a b 「第十章 冬蠅の恋――湯ヶ島その二」(大谷 2002, pp. 216-242)
  44. ^ a b c d e 尾崎士郎宛て」(昭和6年1月17日付)。新3巻 2000, pp. 397-398に所収
  45. ^ 写真はアルバム梶井 1985, p. 90,表紙、作家読本 1995, p. 169, 表紙
  46. ^ 阿部昭「一枚の写真――温気と冷気」(アルバム梶井 1985, pp. 97-103)
  47. ^ a b c d e f g 藤村 1997
  48. ^ a b 井伏鱒二「恍惚なる限り」(『梶井基次郎全集』内容見本 六蜂書房、1934年3月)。別巻 2000, pp. 340に所収
  49. ^ 五十嵐誠毅「〈梶井基次郎〉ノート(その十一)――一つの解体新書」(群馬大学教育学部紀要 人文社会科学編 第36巻、1987年3月)。藤村 1997, p. 62

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]