注文の多い料理店

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注文の多い料理店』(ちゅうもんのおおいりょうりてん)は、宮沢賢治児童文学の短編集であり、またその中に収録された表題作である。短編集としては賢治の生前に出版された唯一のものであり、童話としても『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などとともに賢治の代表作として知られる。

短編集『注文の多い料理店』[編集]

短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年に、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同様に出版された。発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっている。書名には「イーハトヴ童話」という副題がついている。岩手在住の図画教師だった菊池武雄が描いた挿絵が付された。定価が1円60銭と比較的高価だったためもあり、ほとんどが売れ残った(当時の映画入場料は30銭ほど)という。

収録作品は下記の9作品である。

これに、自らの創作姿勢と生き方について言及したと見られる『序』が添えられている。いずれも、末尾に年月日が付されており、それによるとこれらの作品は1921年から翌年の前半にかけて完成している。思うように売れなかったことに加えて、作品の評判も芳しくなかったため、賢治はその後に構想を立てていた一連のイーハトヴ童話集の出版を取りやめてしまった。このため、賢治の生前に出版された彼の単行本は詩集『春と修羅』と本作品集の2冊のみである。

刊行の経緯[編集]

本書の出版は賢治のほか、発行人となっている近森、および近森の出版業を手伝っていた及川四郎(近森とは盛岡高等農林で同窓)の3人で進められた。近森は農業の実用書を刊行してある程度の成功を収めており、その利益をつぎ込む形で親交のあった賢治の童話を刊行しようという話になった。

当初は1924年春に刊行を予定し、そのときの書名は『山男の四月』であった[1]。しかし、刊行が延期され、その間に収録作品と配列の確定、書名の変更があったことが残されたいくつかの資料(広告はがき、チラシ)からうかがい知れる。なお、『注文の多い料理店』という書名は及川が強く推したのに対し、他の2名は当初「飲食店を対象とした商業テキストと誤解されるのではないか」という理由でためらったと、及川は後に記している。この懸念は不幸にも的中することとなった。また、「東京光原社」という版元の名前は賢治の命名といわれる。この間、近森の資金繰りが悪化したことから、最終的に賢治は刊行された本のうち200部を自費で買い取っている。

しかし、上記の通り本は売れなかった。挿絵を描いた菊池武雄は、知人で『赤い鳥』の挿絵を描いていた画家の深沢省三の伝手で同誌に広告を掲載してもらったりもしたが、大勢に影響はなかった。なお、『赤い鳥』を主催していた鈴木三重吉は賢治の作品を全く評価しなかったと伝えられている。及川は売れ残った本を、近所の子どもたちにかけっこをさせて順位に関係なく配ったりした[2]

盛岡の杜陵出版部(光原社)は及川が引き継ぎ、後に民芸品店に転業して「光原社」の名前で及川没後の現在も営業を行っている。及川は戦後、敷地に「宮澤賢治 イーハトーヴ童話 注文の多い料理店 出版の地」(原文ママ)と記した記念碑を建立し、現在も見ることができる[3]。また2006年4月より同社の敷地内に本書の刊行などに関する資料を展示した「マジエル館」が開設されている[4]

杜陵出版部(光原社)は1947年に『注文の多い料理店』B6版を復刻しているが、軍事色の強かった『烏の北斗七星』は全文が削除されていた[5]。そのほか3番目に収録されている童話『注文の多い料理店』は、日本の敗戦直後に行われた GHQの検閲でひっかかり、物語の冒頭の「すっかりイギリスの兵隊のかたちをして」という部分が削除されてしまったことが知られている[6]

童話『注文の多い料理店』[編集]

童話『注文の多い料理店』は上述した同名の短編集の3作目に収められている。森に狩猟にやってきたブルジョアの青年二人が、迷った先で一軒のレストラン「山猫軒」を見つけ、入っていくという筋書きである。

あらすじ[編集]

イギリス風の身なりで猟銃を構えた2人の青年紳士が山奥に狩猟にやってきたが、獲物を一つも得られないでいた。やがて山の空気はおどろおどろしさを増し、山の案内人が途中で姿を消し、連れていた猟犬が2匹とも恐ろしさに泡を吹いて死んでしまっても、彼らは「2千4百円の損害だ」、「2千8百円の損害だ」と、表向き金銭的な損失だけを気にする。しかし、山の異様な雰囲気には気付いたらしく、宿へ戻ろうとするが、山には一層強い風が吹き、木々がざわめいて、帰り道を見つけることができない。途方に暮れたとき、青年たちは西洋風の一軒家を発見する。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されており、2人は安堵して店内へと入っていく。 入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」という注意書きがあるのに気付く。これを2人は「はやっている料理店で、注文が多いために支度が手間取る」という風に解釈して扉を開けると、そこには「髪をとかして、履き物の泥を落とすこと」という旨の注意書きがあるだけだった。以後、扉を開けるごとに2人の前には注意書きが現れる。中には「金属製のものを全て外すこと」といった少し首をかしげる注意書きもあったが、「料理の中に電気を使用するものがあって危ないからだ」というように、2人はことごとく好意的に解釈して注意書きに従い、次々と扉を開けていく。

しかし、扉と注意書きの多さを2人がいぶかしんだ頃、

いろいろ注文が多くてうるさかつたでせう。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壷の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。

という注意書きが現れ、二人は顔を見合わせ、これまでの注意書きの意図を察する。これまで、衣服を脱がせ、金属製のものを外させ、頭からかけさせられた香水に酢のようなにおいがしたのは、全て2人を料理の素材として食べるための下準備であったのだ。「西洋料理店」とは、「来た客に西洋料理を食べさせる店」ではなく、「来た客を西洋料理として食ってしまう店」を意味していた。気付くと、戻る扉は開かず、前の扉からは目玉が二つ、鍵穴からこちらを見つめている。あまりの恐ろしさに二人は身体が震え、何も言えず、ただただ泣き出してしまい、顔は紙くずのようにくしゃくしゃになってしまう。

そのとき、後ろの扉を蹴破って、死んだはずの2匹の犬が現れ、先の扉に向かって突進していく。格闘するような物音が聞こえたあと、気付くと屋敷は跡形もなく消え、2人は寒風の中に服を失って立っているのに気付く。そこへ山の案内人が現れ、二人は宿へと、やがて都会へと帰っていったが、恐ろしさのあまりくしゃくしゃになった顔は、どうやっても元には戻らなかった。

鑑賞[編集]

作品に出てくる2人の青年紳士は、身なりこそイギリス風をまとい洗練されているものの、死んでしまった犬を前に、金銭でその価値を計るなど、心性の卑しい人物として描かれている。彼らは、山猫軒での数々の「注文」を全て自分たちに都合のいいように解釈し、危機感を覚えることなく自ら山猫(とは明示されていないが)の前に無防備に身を投げ出してしまう。彼らが最後の段になって恐れおののき、顔をくしゃくしゃにしてしまうのは、自然を軽視する人間の傲慢さの現われであり、それが、いったん死んでしまい、青年紳士が無情に見捨てたはずの犬によって救われるというのは、大いなる皮肉であるとも、冷淡な扱いを受けようとも救いの手を差し伸べる自然を体現しているとも考えられる。

映画作品[編集]

  • 1958年『注文の多い料理店』(人形アニメーション) - 製作:学研人形部/人形操作:高山良策
  • 1993年『注文の多い料理店』(台詞無しのアニメーション) - 製作:桜映画社、エコー社/監督:岡本忠成(完成前に没)/監修:川本喜八郎

テレビ作品[編集]

1990年12月10日、テレビ東京「月曜・女のサスペンス」の「文豪シリーズ」の一編として放映された。登場人物や設定などはかなり変更されている。

脚注[編集]

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  1. ^ これは近森が刊行した別の書籍(害虫駆除法を記した実用書)に挟まれていた図書注文振替用紙の裏面の広告で確認できる。
    大山尚「『注文の多い料理店』の位置」
    なお大山の文中に言及のある、近森善一の証言は下記の外部リンクを参照。
    鈴木健司「童話集『注文の多い料理店』発刊をめぐって」
  2. ^ 堀尾青史『年譜 宮沢賢治伝』中公文庫、1991年、P.241
  3. ^ ただし、『注文の多い料理店』が刊行された当時の杜陵出版部は盛岡市の別の場所にあり、現在の建立場所は厳密には「出版の地」とは異なる[1]
  4. ^ 「賢治の『マジエル館』を開設」盛岡タイムス、2006年4月13日
  5. ^ 財団法人大阪国際児童文学館 『注文の多い料理店(宮沢賢治著 杜陵出版部、東京光原社 1924年)』
  6. ^ 科学技術のアネクドート 『国会図書館公開セミナー「プランゲ文庫をめぐる新展開」』

外部リンク[編集]