愛撫 (小説)

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愛撫
Caress
作者 梶井基次郎
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説掌編小説
発表形態 雑誌掲載
初出詩・現実』(武蔵野書院誌)1930年6月16日発行創刊号・第一冊
収録 作品集『檸檬武蔵野書院 1931年5月15日
題字:梶井基次郎
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愛撫』(あいぶ)は、梶井基次郎短編小説掌編小説)。飼いと遊び戯れる中で浮んでくる空想を題材にした随筆的な作品[1]。猫の切符切りのようにパチンとする空想や、を全部切ったらどうなるかなど、いたずら心で書いた小品ながらも、そこに流れる温かみや気品を高評価された軽妙な短編である[2][3][1][4][5]。『ある崖上の感情』『櫻の樹の下には』の擱筆以来、約2年の沈黙の後に発表され、新たな活路が見られた作品でもある[6][3][7]

発表経過[編集]

1930年(昭和5年)6月16日発行の同人誌詩・現実』創刊号・第一冊に掲載された[6]。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された[6]。同書には他に17編の短編が収録されている[8]

翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Caress)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Caresses)で行われている[9][10][注釈 1]

あらすじ[編集]

薄くて冷たくて、硬いような柔らかいような何ともいえない感触をもつに思いをめぐらす「私」は、子供の頃から猫の耳を「切符切り」のようにパチンとしてみたくてたまらなかった。

それは、引っ張られても平気でいる猫の耳の不死身から誘発される想像であったが、ある日「私」は猫とじゃれ合い、その耳を噛んでしまうと、猫は痛さで悲鳴をあげ、「私」の「切符切り」の空想はしぼんでしまった。

「私」は別の空想を始め、猫のを全部切ってしまったらどうなるか考えてみた。おそらく爪を失った猫は、高所から飛び降りることも不可能となり、絶望して死んでしまうだろうと「私」は予想する。

爪のない猫とは、空想を失った詩人早発性痴呆に陥った天才に似ていると思う「私」にとって、この想像は非常に悲しくさせるものだった。猫の匕首のように鋭い爪は、この動物の活力であり、智恵精霊、一切だと「私」は確信していた。

「私」はある日、変なを見た。それは或るXという女性の私室で彼女が鏡台の前で化粧をしているのを、「私」が新聞を読む横目でチラチラ見ているのだが、彼女が顔へ白粉を塗っている道具がなんと猫の手だったのである。そしてそれは彼女の愛猫・ミュルの前足だった。

猫の足裏

外国でそうするのが流行っているからと、彼女は知人の大学医科小使に作ってもらったのだという。「私」は、そんなことを依頼した女というものの残酷さと無神経を今更ながら憎み出し、嫌な気分になるが、外国雑誌か新聞で自分もその流行の話を読んだ気がした。

「私」はその夢の中の「猫の手の化粧道具」を思い出し独り笑いをしながら、猫が顔を洗うような仕草をする前足の絨毯のような毛並みを撫ぜてみた。そんな化粧道具が不要な「私」は仰向けに寝転び、猫を抱きあげて両前足の柔らかい(足裏)を一つずつ自分の閉じた眼蓋に当ててみた。

快い猫の重さと温かい蹠は、疲れた「私」の眼球にしみじみと沁み、この世のものでない休息を感じた「私」は、「仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外はずさないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから」と心の中でつぶやく。

登場人物[編集]

子猫を飼っている。「私」の家に来た或る謹厳な客が、話をしながら膝に乗ってきた子猫の耳をしきりに抓っていた光景をよく憶えている。梶井基次郎本人がモデル。〈謹厳な客〉のモデルは友人の近藤直人[12][13][注釈 2]

※夢の中

X
女性。可愛い小猫・ミュルを飼っている。彼女は「私」が来ると、胸に抱いている猫をいつも渡して寄越すが、「私」はそれに辟易する。その猫には彼女の微かな香料の匂いが移っている。この女性のモデルは、基次郎の友人の小山田嘉一の妻・久子[14][5]

作品背景[編集]

「詩・現実」[編集]

梶井基次郎らが創刊した同人誌青空』が1927年(昭和2年)6月の第28号で終刊になった後、同人の北川冬彦三好達治飯島正らは1928年(昭和3年)9月に春山行夫らと詩誌『詩と詩論』を創刊。北川から寄稿依頼された基次郎も「櫻の樹の下には」などを『詩と詩論』に発表していた[15][4]

その後、春山行夫の現実遊離路線と対立した北川冬彦、淀野隆三らは『詩と詩論』を脱退し、1930年(昭和5年)6月に武蔵野書院から同人誌『詩・現実』を創刊した[16][17][4]。『詩・現実』は、当時の世界恐慌の情勢からマルクス主義に傾倒していた北川と淀野が主導し、「芸術のみが現実よりの遊離に於いて存在し得るといふのは、一つの幻想に過ぎない。現実に観よ、そして創造せよ」という標榜が掲げられた[5]

この創刊号に原稿依頼されていた基次郎も、その創刊目的に賛同して作品創作にかかっていたが、持病の結核のさらなる悪化に加えて、春に母・ヒサが病気入院し見舞いに追われるなどして痔疾もひどくなり(詳細は梶井基次郎#重くなる病状――生活への愛着を参照)、途中で頓挫してしまい(この頃すでに「のんきな患者」の草稿にかかっていた)、軽い気持で書いたの話を寄稿した[17][18][19][12][5]

猫との生活[編集]

茶とら白猫

梶井基次郎は、を好きになろうとしても〈まだちよつとコワイ〉という不信の意識があったが、それに比べ猫の方は手放しで好きであった[14]。実家では〈風来猫〉を放し飼いにしていたが、基次郎は、特にをよく捕る猫を〈素性のいゝ奴〉とし、〈鼠の捕れない猫は頓間で猛獣性がなくて結局面白い奴といふだけの話になる〉、〈鼠をよく捕つた猫は永く家族が忘れない〉と語っている[14]

1928年(昭和3年)8月中旬から呼吸困難で歩けなくなるほど結核が進み、衰弱が激しくなった基次郎は、友人達の強い勧めで9月に東京を離れ、大阪市住吉区阿倍野町99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)の実家に戻り養生生活を送っていた(詳細は梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へを参照)。

外出もままならない基次郎とって、放し飼いの白猫・ノボなど、3匹の猫を相手に暮らすのがその頃の日常であった[4][14][20][21]。ノボは、夜になると外に出て〈夜遊び〉に余念がなく、夜中に基次郎の寝床に帰って来て、基次郎が起きる時に一緒に起きていた[21][注釈 3]

1929年(昭和4年)1月に父・宗太郎が急死し、2月に友人の近藤直人が基次郎を見舞いに京都からやって来た。近藤が膝に乗ったノボの耳をしきりに抓っていたのが基次郎の印象に残った[12][4]。主人の宗太郎の死のせいか、やがてノボは梶井家に居つかなくなっていった[4][21]。「ノボ」という名前は宗太郎が付けていた[20][21]

『愛撫』の中でも描かれているように、基次郎は猫の前足の裏を自分の瞼に当てることも実際にやっていたが、〈風来猫〉だったので、仲町貞子北川冬彦の当時の妻)のように猫の病気の世話までするほどの習慣はなかった[14]

僕は猫で誰も恐らくこんなことはやつたことがないだらうと思ふことを一つ君に伝授しよう。それは猫の前足のを予め拭いておいて、自分は仰向に寝て猫を顔の上へ立たせるんだ、彼女の前足が各々こちらの両方の眼玉の上を踏むやうにして。つまり踏んで貰ふんだな。勿論眼は閉じてゐる。すると温かいやうな冷つこいやうななんとも云へない気持がして、眼が安まるやうな親しいやうなとてもいゝ気持になるんだ。滑稽なことには猫は空吹く風で、うつかり踏み外せば遠慮なく顔にを立てるにちがひない。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和4年9月11日付)[14]

また、第三高等学校時代からの友人・小山田嘉一(基次郎の「檸檬」をいち早く認めた人物[22])は1926年(大正15年)10月に6歳下の女性・久子と結婚したが[23][24]、その久子夫人も猫好きであった[14][注釈 4]

新婚の小山田夫妻は1927年(昭和2年)2月に湯ヶ島滞在時の基次郎の宿「湯川屋」も訪問し、基次郎は新妻の久子夫人が滞在中に風邪を引かないように細やかな心遣いを見せ、のようにいたわっていた[28][29]。基次郎が9月に10日間ほど東京に戻った時には、中野に住む小山田の新婚の家にも寄っていた[30][31]

小山田の細君も猫好きらしいな。あの人の抱いてゐる猫を持つたらとてもいゝ匂いがした。ぬつてあるにちがひない。あんな可愛がり方もあるんだな。そしてちよつとモダンだ。猫を使ふコケツトリイだ。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和4年9月11日付)[14]

井原西鶴の精神[編集]

上記の『詩・現実』での北川冬彦淀野隆三らと同じく、当時の基次郎も社会的な問題意識に関心を寄せ、マルクス資本論』、レマルクの『金融資本論』や、ゴーリキーの『アルタモノフの一家の事業』、『安田善次郎伝』などを読み、社会派的小説への意欲を持っていた[32][33][4][5]。しかしながら、それは日本の左翼文学のように公式的な観念や表層のつまらないものではなく、もっと一般の生活に根づいたものであった[32][33][4][5]

僕はこの頃プロレタリヤの小説には倦きてしまつて 面白く読んだことがない。岩藤の軍艦を修繕する小説(中央公論?)にしても小林の小説にしても少しも面白くない[注釈 5]、かういふ標準でものを云ふのは問題を不明瞭にするかもしれないが、どうして二度読み三度読みして猶且面白いといふやうな小説が彼等から出ないのだらう。僕は彼等の小説が面白くない原因は彼等がほんたうにプロレタリヤ大衆のなかへ生活を見出してゐないことにあるのぢやないかと思ふ。これも少し漠然とした云ひ方だが、プロレタリヤの生活に伍し、プロレタリヤの生活を真に知つた小説がほしいのだ、何しろ真実が欠けてゐるよ。 — 梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(昭和5年6月14日付)[33]

その頃、基次郎は井原西鶴にも惹かれ、〈とで万事を見て行った西鶴の態度〉や、その両者を〈唯一の実在として小説を書いてゐる〉ことに感心し、西鶴を日本の代表的作家だと評価していた[33][4]。基次郎は『愛撫』を〈半分デンゴウ書きをした〉ものとしているが[12]、この〈デンゴウ書き〉とは、大阪弁で「いたずら書き」を意味し、実は井原西鶴の精神である[4]。『好色一代男』の跋には、「むかしの文枕とかいやり捨られし中に、転合書のあるを取集て」と記されている[4]

最近「詩・現実」といふ友人の雑誌へ猫の話を書きました、僕は半分デンゴウ書きをしたのですが 難しいことを云つて褒める人もあり、プルウストよりも偉大だと云ふ人もあるとかで面白がつてゐます (中略)僕はもつと猫の話を書いて難かしいものを書く詩人達や批評家を困らしてやらうと思ふのですが、どれも滑稽なのでいつも独り笑ひをしてゐます — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(昭和5年6月24日付)[12]

ボードレールの「猫」[編集]

基次郎は、アーサー・シモンズが英訳したボードレールの『悪の華』や『巴里の憂鬱』を愛読し、その中の一節をノートに写すなどしているが[34]、ボードレールの『悪の華』には「猫」という名の詩が3篇収録されている[5]

この2篇目の「猫」の第2節では、基次郎が『愛撫』の中で小山田嘉一夫人・久子のイメージを原型に描いたの場面と似た「移り香」が綴られているが、その中には英訳でも原文のフランス語と同じ「caresse(愛撫)」という言葉が用いられている[5]

その金色栗色毛皮から 実にやさしいが発散するので、ある晩
たった一度だけ愛撫してやったら 私にも移り香がしみついた
ボードレール「猫」(47番)[35]

柏倉康夫は、この詩「猫」が源泉となり、「caresse(愛撫)」という言葉から、基次郎が自作『愛撫』のタイトルのヒントを得たと考えてまちがいないとしている[5]

作品評価・研究[編集]

『愛撫』は、梶井基次郎の作品の中では比較的軽く書いた随筆的なものであるが、雑誌掲載時から好評で、中には当時初めて日本で翻訳されて話題となっていたプルーストよりも〈偉大〉だと基次郎に直接褒める人物もいたという[12][5]。今日でも短編の名品として評価が高い作品で、動物を扱った作品など各種アンソロジーで取り上げられる人気作品でもある[36][37]

小林秀雄は、『愛撫』の「病的な猫の観察は正常な愛撫にあふれてゐる」と評し[2]鈴木貞美は、猫との戯れの中に「時間をいつくしむような」ものが感じられるとしている[1]

川端康成は、伊豆湯ヶ島で基次郎と共に過ごしてみて、その自然植物動物)を観察する見方(「の日射し」のようで「そこに、ユウモアと厳しい深さとがまじつてゐた」こと)を学んだとし[3]、その頃から『青空』で発表される基次郎の作品に注目していたが、「その感情の手が余りに暗鬱」で、「危険」や「逞しい生活の意力」がひそみ、爆発しそうであったため、「膝を崩して書くこと」「多く書くこと」を基次郎にアドバイスしていた[3]

そして「書くこと」が「病気の障り」になることより「彼の慰め」になるとして、「書かないでゐることは、彼の生活の力を衰へさせはしないか」、「彼はさういふ男だと信じてゐる」と作品発表が滞っていたことを案じていたが、久しぶりの『愛撫』を読んで驚き、「私の意見は顔を赤らめた」として、以下のように高評している[3]

この傑れた、短い散文詩風の作品は、説明すべき種類のものではないけれども、とにかくこれは、少し書く人が書ける作品である。多く書く人の書けない作品である。このやうな気品は、書かないでゐることからしか生れないのではないかと思ふ。作品の気品といふものは、今日余りに忘れられ過ぎた。一匹の猫と足とを書いたに過ぎない小品が、私を打つた所以である。作者の感覚は異常に冴えてゐる。これだけ常識を離れて、しかもおのづから温かいのは、驚くべきことである。しかし何より気品。 — 川端康成「梶井基次郎氏の『愛撫』」[3]

おもな収録本[編集]

アンソロジー収録[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ Christine Kodama(クリスチーヌ・小玉)は、『視線の循環――梶井基次郎の世界』(邦題)という梶井基次郎論と共にいくつかの梶井作品を仏訳し1987年パリで出版した[9][11]
  2. ^ 基次郎は、その旨を近藤直人に直接伝えている。
    「愛撫」のなかに出て来る「謹厳なる客」とふのは 云つてゐましたやうにあなたがモデルです、しかしそれはあなたを書いたのではなく あなたをお借りしたので 謹厳といふのも さうでなくては滑稽味が出ないからで 決してあなたのことを謹厳なる客と云つた訳ではありません、失礼に当りますので一寸お断りしておきます — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(昭和5年9月29日付)[13]
  3. ^ 猫の話は、その後の『交尾』や遺作の『のんきな患者』にも描かれている[4]
  4. ^ 小山田嘉一は東京市麹町区富士見町4丁目(現・千代田区富士見)に実家があり、高師付属中学出身。第三高等学校では文丙(フランス語必修)で、飯島正浅野晃を通じて基次郎と知り合った。作曲趣味の小山田は音楽好きの基次郎と意気投合していた[25]。小山田は帝国大学では北川冬彦と同じ法学部フランス法に進み、卒業後は住友銀行東京支店に就職した[26][27]
  5. ^ 岩藤雪夫の「屍の海」(中央公論 1930年6月号掲載)と小林多喜二の「工場細胞」(改造 1930年5・6月号掲載)を指している[33]

出典[編集]

  1. ^ a b c 「途絶」(アルバム梶井 1985, pp. 84-96)
  2. ^ a b 小林秀雄「文藝時評 梶井基次郎嘉村礒多」(中央公論 1932年2月号)。別巻 2000, pp. 278-281に部分所収
  3. ^ a b c d e f 川端康成「梶井基次郎氏の『愛撫』」(作品 1930年7月号)。別巻 2000, pp. 258-259に所収
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」(大谷 2002, pp. 259-282)
  5. ^ a b c d e f g h i j 「第四部 第五章 移転」(柏倉 2010, pp. 392-403)
  6. ^ a b c 鈴木貞美「梶井基次郎年譜」(別巻 2000, pp. 454-503)
  7. ^ 淀野隆三「『檸檬』誌上出版記念」(作品 1931年7月号)。別巻 2000, pp. 266-268に所収
  8. ^ 藤本寿彦「書誌」(別巻 2000, pp. 516-552)
  9. ^ a b ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」(別巻 2000, pp. 640-642)
  10. ^ Dodd 2014
  11. ^ 「第三部 第二章 『冬の日』の評価」(柏倉 2010, pp. 245-254)
  12. ^ a b c d e f 「近藤直人宛て」(昭和5年6月24日付)。新3巻 2000, pp. 366-367に所収
  13. ^ a b 「近藤直人宛て」(昭和5年9月29日付)。新3巻 2000, pp. 381-382に所収
  14. ^ a b c d e f g h 「北川冬彦宛て」(昭和4年9月11日付)。新3巻 2000, pp. 304-309に所収
  15. ^ 「第四部 第二章 帰阪」(柏倉 2010, pp. 367-376)
  16. ^ 淀野隆三宛て」(昭和5年2月6日付)。新3巻 2000, pp. 354-356に所収
  17. ^ a b 北川冬彦宛て」(昭和5年5月16日付)。新3巻 2000, pp. 329-331に所収
  18. ^ 「淀野隆三宛て」(昭和5年5月30日付)。新3巻 2000, pp. 356-358に所収
  19. ^ 中谷孝雄宛て」(昭和5年5月31日付)。新3巻 2000, pp. 358-360に所収
  20. ^ a b 遺稿「猫」(1929年2月)。ちくま全集 1986, pp. 499-501に所収
  21. ^ a b c d 「梶井勇宛て」(昭和4年2月15日付)。新3巻 2000, pp. 288-290に所収
  22. ^ 中谷孝雄・北川冬彦・飯島正浅野晃「座談会 梶井基次郎――若き日の燃焼」(浪曼 1974年2月号)。別巻 2000, pp. 217-228に所収
  23. ^ 「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」(大谷 2002, pp. 162-195)
  24. ^ 「第二部 第八章 大正末」(柏倉 2010, pp. 215-236)
  25. ^ 「第五章 青春の光と影――三高前期」(大谷 2002, pp. 74-104)
  26. ^ 「第七章 天に青空、地は泥濘――本郷と目黒にて」(大谷 2002, pp. 137-161)
  27. ^ 「第二部 第一章 大学生活」(柏倉 2010, pp. 111-122)
  28. ^ 「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」(大谷 2002, pp. 196-215)
  29. ^ 「第三部 第四章 湯ヶ島」(柏倉 2010, pp. 265-279)
  30. ^ 「第三部 第七章 湯ヶ島最後の日々」(柏倉 2010, pp. 300-312)
  31. ^ 「第十章 冬蠅の恋――湯ヶ島その二」(大谷 2002, pp. 216-242)
  32. ^ a b 「中谷孝雄宛て」(昭和5年1月25日付)。新3巻 2000, pp. 325-327に所収
  33. ^ a b c d e 「中谷孝雄宛て」(昭和5年6月14日付)。新3巻 2000, pp. 360-365に所収
  34. ^ 「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)。旧2巻 1966, pp. 424-444に所収
  35. ^ ボードレール「猫」(初版47番)。柏倉 2010, p. 394。粟津則雄の訳詩はボードレール 1993, pp. 28-30に所収
  36. ^ 小川洋子「私の陶酔短篇箱」(小川 2014, pp. 356-361)
  37. ^ 菓子箱 2008

参考文献[編集]

  • 梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』 筑摩書房、1966年5月。ISBN 978-4-480-70402-3 
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌』 筑摩書房、1966年6月。ISBN 978-4-480-70403-0 
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡』 筑摩書房、2000年1月。ISBN 978-4-480-70413-9 
  • 『梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎』 筑摩書房、2000年9月。ISBN 978-4-480-70414-6 
  • 梶井基次郎 『檸檬』(改版) 新潮文庫、2003年10月。ISBN 978-4-10-109601-8  初版は1967年12月。
  • 梶井基次郎 『梶井基次郎全集 全1巻』 ちくま文庫、1986年8月。ISBN 978-4-480-02072-7 
  • 大谷晃一 『評伝 梶井基次郎』(完本版) 沖積舎、2002年11月。ISBN 978-4-8060-4681-3  初刊(河出書房新社)は1978年3月 NCID BN00241217。新装版は 1984年1月 NCID BN05506997。再・新装版は1989年4月 NCID BN03485353
  • 小川洋子編 『小川洋子の陶酔短篇箱』 河出書房新社、2014年1月。ISBN 978-4-309-02246-8 
  • 柏倉康夫 『評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ』 左右社、2010年8月。ISBN 978-4-903500-30-0 
  • 鈴木貞美編 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』 新潮社、1985年7月。ISBN 978-4-10-620627-6 
  • 『ものがたりのお菓子箱――日本の作家15人による』 飛鳥新社、2008年11月。ISBN 978-4-87031-882-3 
  • ボードレール粟津則雄訳、粟津則雄編 『ボードレール詩集』 思潮社〈海外詩文庫3〉、1993年7月。ISBN 978-4783725022 
  • Stephen Dodd (2014-02), The Youth of Things: Life and Death in the Age of Kajii Motojiro, University of Hawaii Pres, ISBN 978-0824838409 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]