器楽的幻覚

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器楽的幻覚
Instrumental Illusions
作者 梶井基次郎
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
発表形態 雑誌掲載
初出近代風景』(アルス詩誌)1928年5月1日発行5月号
再掲載 - 『詩と詩論』1928年12月5日発行第二冊
収録 作品集『檸檬武蔵野書院 1931年5月15日
題字:梶井基次郎
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器楽的幻覚』(きがくてきげんかく)は、梶井基次郎短編小説。名ピアニストの奏でる演奏曲のと、鍵盤を弾く演奏者の動作との遊離幻覚体験を綴った作品。聴覚視覚の分離の錯覚により孤高の幻想状態に導かれ、人間存在不条理性に思い至る過程が魅惑的な趣で精緻に描かれている[1][2][3][4]。執筆の約2年前に連日聴きに行ったジル・マルシェックス(Henri Gil-Marchex)の来日ピアノ演奏会の体験を題材にした短編で、執筆当時に伊豆湯ヶ島で見た浄瑠璃義太夫の会での体感が創作契機となっている作品である[5][6][2][4]

発表経過[編集]

1928年(昭和3年)5月1日発行の同人詩誌『近代風景』(北原白秋萩原朔太郎主宰)に掲載され[7]、同年12月5日発行の季刊同人誌『詩と詩論』第二冊に再掲載された[7][8][注釈 1]。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された[7]。同書には他に17編の短編が収録されている[9]

翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Instrumental Illusions)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Hallucinations instrumentales)で行われている[10][11][注釈 2]

あらすじ[編集]

ある「私」は、フランスから来日したピアニストの6回にわたる連続の演奏会を聴きに行った。会場はホテルホールの静かなこぢんまりした雰囲気で、「私」は回を重ねるごとに教室に通うような親しみで、その好ましい形式の音楽会を楽しみに通った。

その連続演奏会も終盤近い或るアーベントで[注釈 3]、「私」はいつにない落ちついた頭の澄明さで第1部の長いソナタに集中した。その深い高揚感の幸福で、今晩不眠の夜の苦痛が待っていることを予感するも、「私」はソナタの感情の世界に没入し、大きな感動を味わった。

休憩時間、離れた席の友人と沈黙のまま屋外に出た「私」は、今しがたの強い感動の余韻が、ある種の「無感動」に似ていることをしみじみと感じ、誰かが先ほどのモチーフ旋律口笛で繰り返す軽はずみな音に、鋭い嫌悪を覚えるほどだった。

会場に戻り、次の部の演奏が始まろうとする時、「私」は自分の頭がなにか凍ったような、変な重苦しさを感じた。やがて次々に演奏されるフランスの現代作品を聴いているうちに、鍵盤を連弾する演奏者の巧みな指の動きと、鳴り響く音楽とが遊離しているように「私」には見えてくる。

そして不意に知覚が音楽から離れ、「私」の意識は会場全体の空気に移行することが顕著になってきた。聴衆のどよめきや拍手の喧噪と、曲目が再び開始され演奏の微妙な一音も聴き漏らすまいと息を殺す人々の静寂との落差の推移までもが、「私」には長い音楽のように写りはじめる。

その感覚は、幼い頃に人々の喧噪の中で自分の両耳に指で栓をし、開けたり閉じたり「グヮウッーグヮウッ」と音を断続させ、周囲の喧噪と違う1人だけの世界の中で周りの人の顔も喧噪も全てが無意味なものに見えてくる孤独の感じに似ていた。

ピアニストの右手がピアニッシモの高いピッチを細かく弾く時の、そこに集中する聴衆の化した完全な窒息は、たとえ演奏者の白い手がそこで殺人を演じても誰1人として叫ばないように「私」には見え、「私」の目にも耳にもまだ明瞭に残る寸前の拍手やどよめきに沸き立つ音が、まるでであったかのように感じられた。

「私」の感覚には、それがとても不思議なもの思え、言いようのないはかなさで、その音楽会と音楽会を包んでいる都会、そして世界の涯もない孤独を想った。「私」にはもう全てが無意味だった。最後の拍手が終わり、人々が帰り仕度を始める音楽会の終了を、「私」は病気のような寂寥感で出口に向かって移動した。

出口近くで「私」の前に、音楽好きで有名な或る侯爵の威厳のある背広姿の肩が現れ、その服地の匂いが「私」の寂寥をさらに打った瞬間、侯爵の姿は萎縮しその場に仆れた。「私」は自分の意志からでない同様の犯行を何人もの心に加えてしまうことに言いがたい憂鬱を感じ、玄関ホールで待つ友人の元へ急いだ。

その夜は、いつもは足をのばす銀座には立ち寄らず、「私」は1人歩いて家に帰った。予感していた不眠症に「私」は幾晩も苦しめられることになった。

登場人物[編集]

音楽好き。愛煙家。梶井基次郎本人。

友人

「私」と一緒に連夜の音楽会に通うが、「私」とは離れた席にいる。「私」とお互いに暗黙の了解で、休憩時間には演奏の批評などせずに黙り合って煙草をふかす。基次郎の友人・小山田嘉一がモデル[14][2]
侯爵
音楽好きで名高い。太い首の威厳に充ちた背広姿。帰りの会場出口近くで「私」の前で急に萎縮して仆れる。モデルは徳川頼貞[15]

作品背景[編集]

題材[編集]

ジル・マルシェックス[編集]

来日演奏会[編集]

『器楽的幻覚』の執筆から遡ること約2年前の1925年(大正14年)10月から11月にかけ、梶井基次郎帝国ホテルの演芸場で開かれたジル・マルシェックス(Henri Gil-Marchex)のピアノ演奏会に通った[16][14][5]。その東京での公演日程は、10月10日、11日、17日、25日、26日、11月1日の6日間で、基次郎はなけなしの金をはたいて、6回分通しの切符を買っていた[16][7][5]

貧乏で下宿代も払うのもやっとだった東京帝国大学生の基次郎は大いに迷ったあげく、〈悲壮な気持で〉当時としては大金の10を出すことを一大決心し、切符を買う時の真剣な顔つきを同行した友達に後日からかわれてしまい、〈小便をしたかつたからだらう〉とごまかしたほどだった[16][14]。その演奏会の通しの切符(会員券)には、40円、19円、10円の3種類と、ボックス席300円(5人詰)もあった[17][5][注釈 4]

その前月9月に、同人誌『青空』10月・通巻8号に載せる「路上」を苦闘の末に書き上げ一息ついていた音楽好きの基次郎にとり、未知の若いフランス人ピアニストの来日演奏会はとても魅力的で、めったに聴けない新しい生演奏を味わえる冒険のチャンスでもあった[16][5]。基次郎は3回目の演奏会を聴き終えた時、その新しい曲の演奏に深く魅せられた[16]

二回目の日がすんだとき、「あゝもう二日も聴いてしまつた」と慨嘆しました、実にを乱して聴き過ごすには惜しい美しい音楽でした、一日目はそんな実感も起らなかつたのです、そして此の間の三日目を聴いた夜はとても魅せられまして、亢奮――と云つても動的な熱狂的なものではありません、静的な瞑想的なとでも云ひませうか――しながら十時半頃の雨上りの街を歩きました。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正14年10月26日付)[16]

当時若手のジル・マルシェックスは、パリコンセルヴァトワール首席で卒業した後にルルーコルトーに師事したピアノ演奏家で、文化交換使節として来日し、朝日新聞でも来訪が報じられた[5][6][17]。公演は東京の6夜の演奏会を皮切りに、仙台横浜神戸大阪京都でも公演が行われた[18][19]。この公演の実現の背景には、パリ国際大学都市日本館建設が行なわれていたことや、ヨーロッパ社交界で有名な薩摩治郎八の尽力があった[18][19][注釈 5]

プログラムの中身は、クープランラモーなどのバロック音楽から当時の同時代の現代音楽(近代音楽)まで回毎に違う曲目が組まれ、数多くの日本で初演の曲目のほかにも、世界初演の1曲も演奏された[18]。この来日演奏会は、「音楽の殿様」と称された徳川頼貞侯爵[15]、基次郎と同じく学生の身分であった河上徹太郎中島健蔵大岡昇平河盛好蔵中野好夫野村光一なども堪能した[17][5][19]

基次郎と一緒に行った友人は、第三高等学校時代以来の友人・小山田嘉一で(基次郎の「檸檬」をいち早く認めた人物[20])、基次郎と同じ音楽通であった[21][14][2]。小山田は作曲趣味もあり、のちに三高野球部の「勝利の歌」を作曲した人物である[22][21]

なお、その翌月12月23日に基次郎は滋賀県大津の公会堂で『青空』文芸講演会のために「過古」を朗読し、余興で歌も歌唱した後、翌24日の夜、外村茂淀野隆三清水芳夫楢本盟夫浅見篤浅見淵の弟)と一緒に、京都の岡崎公会堂で行われたジル・マルシェックスの告別演奏会(来日公演の千秋楽)も聴きに行った[23][24][14]。非常に寒い晩でジル・マルシェックスの鼻は赤くなっていた[23][14]

フランス近代音楽[編集]

ジル・マルシェックスの演奏会の1回目と2回目では、基次郎は日頃から親しんでいたベートーヴェンソナタ(2回目は第23番『熱情(アパショナータ)』が演奏)には大いに感動するが、その他の〈仏蘭西現代のものにはちつとも感じが起らぬ〉という印象で心細い気がしていた[16][5][6]

しかし3回目ではその美しさに気づかされ、ベートーヴェンのソナタ第17番『テンペスト』、クープランの『子守唄、またはゆりかごの愛』、シューマンの〈美しい小さいの組合せのやうな〉『子供の情景』、ショパンの『12の練習曲』などを経て[注釈 6]ドビュッシーの『版画』(「塔(パゴダ)」「グラナダの夕べ」「雨の庭」)を聴いた[16][5][6]

デビュシーの三つの版画になりました。そのおもむきは実にちがつたものでした。バゴードといふのはオリエンタルな匂ひのある、グルナードの夕は少し手のこんだもので雨の庭は比較的淡粗なもので、その三つが実にこれまでに知らなかつた様式の美しさで弾かれました。版画といふ題目に教唆されたのかもしれませんが、ほんたうにの感じがした、誰か近頃の仏蘭西の画家に比較が出来さうな気がしました — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正14年10月26日付)[16]

ドビュッシーの次にラヴェルの『夜のガスパール』(「水の精」「絞首台」「スカルボ」)を聴いた基次郎は、馴れるごとに、フランス近代音楽に新しい美しさを感得していき、残りの回の演奏会に期待を寄せた[16][5][6]

それからモーオリス・ラベルはスカルボといふ三つ目の章が面白かつたと思ひました、悪霊めいた奴が笑つたり罵つたりしてたくさんで踊つてゐるやうなおもむきがありました、次のリストメフィスト・ワルツの表題を持つてゐますが どうした訳かこれの方がうんとメフィスト・ワルツ的でした、――そしてこの人はやはりモダーンな匂ひがありながらデビュシーとは丸でちがふのです。
一日目二日目のいいプログラムにも拘らず現代仏蘭西を「気分に堕した音楽」といふ風な反感でしかみられなかつた私はこの三日目にたうとう音楽の分野における「新しいもの」を覗いたことになりました。――あとの三回が大きな期待です、(中略)私はあとの三回が回を重ねる毎に会場にも馴れすべてに馴れて心を純すいにして聴けて段々よくなるやうな気がします。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正14年10月26日付)[16]

ドイツの影響が濃かった日本のクラシック音楽界にとって、ジル・マルシェックスのピアノ演奏会は新しいフランス風のエスプリを日本に吹き込み、ドビュッシーの演目などを浸透させるきっかけとなった[14][6][18][19][注釈 7]

義太夫の会[編集]

『器楽的幻覚』執筆の約1か月前の1927年(昭和2年)11月10日、伊豆湯ヶ島に滞在中であった梶井基次郎は、木炭問屋資産家・杉山(雑貨商でもある)の屋敷で行われた浄瑠璃義太夫の会を観に行った[25][1][4]

その義太夫の会は、基次郎が宿泊していた「湯川屋」の主人や、按摩の宗さん(視覚障害者)、飲み屋「林川」の女将、宿(郵便局あたりの地名)の菓子屋「木村屋」の主人、自転車屋の足立多一(道楽者)が集結し、彼らの師匠で大阪からやって来た浄瑠璃語りの〈顔色の悪い〉老婆(芸名・竹本東福)を囲んで、1人ずつ義太夫を披露するものであった[25][1][4]

湯ヶ島での生活では、好きな音楽に触れる機会もない基次郎は、その素人の集会に興味を持ってお供し、それぞれ得意の喉を一節うなる村人の義太夫を楽しんだ[25][1][4]

あんまは先代萩をやつたが一生懸命にやつたので下手でも面白くきけた。一生懸命で低い声のところなど思ふやうに声が出ないので小節に切り各節を吹[くやうに]きとばすやうにやつてゐたが、これは和洋の声楽を通じての[下手の]素朴な発声法だらうと思つた。政岡が泣き口説くところではあんまさんは思ひ切つてえげつない顔をした、彼ははじめから酔つたやうに歌つた。なだらかなところでは眼をあけてやる、すると眼あきとかはらないのだ。そんなのを見てゐると僕は悲しく楽しくなり、あんまさんに好意が増すのを感じた — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付)[25]

そして基次郎は、別格の上手さを持つ先生格の老婆・竹本東福の義太夫に非常に感心して、その喉や三味線に聴き入った[25][1][4]

先生といふのは酒屋の段三勝半七をやつたが思ひ切つて低いバッス。それから最も高い甲声、それからその間の声、それから強めたり弱めたりなどがはつきり変化を持つて行はれ、この人だけが声楽的な感興を起させた、それから三味線もなかなか達者で、あの顔色の悪い萎微ママした女がすつかりしやんとして三味線の音色、そのかけ声、は器楽的な幻想とも云ふべきものを起すに充分だつた。(器楽幻想とは自分勝手な言葉だが、器楽が達者に弾かれると、下手がやればいかにも楽器でその音を作つてゐるやうな気がするのと反対に、音がその動作と遊離し、動作がまた音とは遊離してゐるやうな幻想が起る、 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付)[25]

ここで基次郎は、〈器楽的幻想〉という言葉を使い、演奏者の動作と、奏でるとの遊離現象を語っているが、ここで感じた体感が翌月執筆の『器楽的幻覚』の創作契機となった[1][4][7]。またこの義太夫の会の感興から、大阪生まれながらも文楽をまだ見ていなかったことを残念がり、リードの練習や歌曲愛好の思いも想起している[25]

また君と一緒に銀座で買つたリードのなかのメフィストをもつと努力して歌へるやうにならうと思つたりした。(この間京都へ行つたとき十字屋シャリアピンのこのメフィストの歌ききママ、到底僕などのやれるものではないと思つて、節をやつただけで感情[のアクセント]付けたり、性格づけたりするのは断念してゐたのだ)あのリードのうちの半分程をもうやつたが、難しいのであとの半分程は止す気でゐる、器楽がなくてあんなものをやらうとするのは無謀に等しいのだ。然しムッソログスキーといふ作者には非常に敬意を払ふことを得た。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付)[25]

『器楽的幻覚』の原稿は、翌12月中旬に出来上がったが、同時に仕上げた『筧の話』も幻覚を扱った作品で、の音と視覚との間に生じる神秘をテーマに描いている[26]。この『筧の話』の構想は、『蒼穹』や『闇の絵巻』と共に創作ノート「闇への書」に記されているが、『器楽的幻覚』にはそういった草稿がないため、「義太夫の会」での体験から2年前のジル・マルシェックスの演奏会が思い出され、同様の幻覚・幻視のテーマ作品が同時に出来上がったものと見られている[4][2]

『器楽的幻覚』と『筧の話』の2編は、12月20日頃に萩原朔太郎尾崎士郎宛てに送付された[27][2]。これは、萩原と北原白秋主宰の同人詩誌『近代風景』で発表されることを基次郎が望んだためで(三好達治も寄稿していた)、それ以前に基次郎は東京の尾崎宛てに、その詩誌に紹介の労をとってもらいたい旨の手紙を書いていたとみられている[26][2][注釈 8]

幻視・錯覚[編集]

梶井基次郎の作品には、幻視や幻覚を扱ったものが散見されるが、この『器楽的幻覚』執筆前後には、『筧の話』のテーマである〈小さなのせゝらぎの音〉から導かれる幻視や錯覚、〈眼を裏切る音〉が神秘な感情を持って聴こえる主題などが草稿に綴られている[26][1]。また『闇の絵巻』の中でも触れられている夜路の天城越えを決行するなど、強い不安を感じていた精神状態の時期でもあった[29](詳細は闇の絵巻#天城越えを参照)。

この同じ11月には、前項で述べた「義太夫の会」の体験をしているが、同時期には、裾を歩く自分自身を「落合楼」(最初に1泊だけした宿)の上の高台から幻視している〈抒情詩なるもの〉を綴っている[25][1]

昨日書いた抒情詩なるものを見せてやらうか、これは落合の上の下田街道から下を見ると一帯の風景が見えるだらう、左の方に世古の滝へゆく近道が向ふ山の山裾を廻つてゐるね、それを見ながらの抒情詩と心得てくれ、

 この展望を下りて
 彼方なるかの山裾をめぐらん
 山裾は広く 路は細ければ
 われら 如何に少さく見ゆならん
 あゝ われら如何に少さく見ゆならん

これでは云ひたりない、然し云ひ足りてないところに作者の誦して尽きない感興がある、これはもとでで これから小説を一つ作るつもり、するとその感興はなくなる。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付)[25]

「義太夫の会」の翌月の12月25日には、湯ヶ島一帯を巡回している大神楽三島から来訪)が世古の滝と西平にもやって来て、太鼓三味線が鳴り響く中、太陽光にきらきら光るを振って踊る獅子舞を見物している[30]。基次郎は、仮面が生きて動いているような錯覚を感じ入り、強く惹かれた[30][7][2]

僕は獅子が剣を振つておどるのが一番好きです、「仮面をつけたことによつて起る錯覚」といふのは実に芸術的です、僕はあの仔細らしい獅子の面が面白くてならなかつた。狂言で面が動くやうに見えるといふのは本当でせう、寧ろ当然のことでせう。僕は面を愛します、また面を愛する人を愛します、夕方裏山へのぼつて行つたら彼等が朝日屋の裏座敷へ泊つたことを知りました、彼等も一種の「伊豆の踊子」です
裏山や神楽の泊りし小窓哉 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月26日付)[30]

こういった本来見えないものを視る基次郎の認識や、俯瞰的な視点、聴覚視覚から導かれる錯覚や幻視から言葉を紡いでゆき、作品の形成となった[2][3][4]

基次郎と音楽[編集]

梶井基次郎が音楽を好きになったのは、子供の頃から母・ヒサが笙篳篥オルガンを弾き歌って聞かせていたこともあるが[31]、本格的に洋楽に目覚めたきっかけは、三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)時代に楽譜の読み方を習ったことが基礎にあった[32]第三高等学校理科甲類に進んでからも、蓄音機を持っている友人の下宿でクラシックレコードをかけ、楽譜を片手に太いバスの声でオペラを歌う趣味を持っていた[21]。基次郎はオルガンも弾くことができた[33][34]

1曲につき約10で買えた輸入楽譜を購入して曲を研究し、ブラームスフーゴー・ヴォルフリムスキー・コルサコフベートーヴェンバッハヘンデルなどの譜面を持っていた[35][5]。蓄音機や楽器が欲しくても買えなかった基次郎は、楽譜を見ながら交響曲口笛で歌えるようになっていた[5][21]

基次郎は、当時稀であった外国人の演奏家の来日公演にもよく足を運んだ。1919年(大正8年)10月のロシア大歌劇団の来日公演では券を買う金がなく、寮で『カルメン』や『ファウスト』を歌ってやり過ごしたが[36]1921年(大正10年)3月に来日したエルマンの京都岡崎の公会堂でのヴァイオリン演奏会は、2円の切符代をなんとか工面して行き、公演終了後にエルマンに握手をしてもらい感涙したりした[37][21]

その後も1922年(大正11年)秋に来日したゴドフスキーのピアノ演奏会や、1923年(大正12年)春のクーロン指揮の上野音楽学校(現・東京芸術大学)のベートーヴェンの『第九』の初演、ジンバリストの演奏会、5月の日露交響楽団など、ほとんど全部聴きに行った[38][39][5]

そんな基次郎は1921年(大正10年)には、自分が〈音楽の天才〉ではないことをすでに自覚しており、〈これから音楽の研究なんぞ始めるのは自分にとつては凡人的の趣味を養ふに過ぎない〉として、非凡人になるためには〈贅沢の沙汰〉であり、〈町人根性〉である趣味というものを馬鹿げたものと自戒していたが[40][注釈 9]、それでも音楽の趣味だけは捨てることはできずに、研究も止めることはできなかった[5]

作品評価・研究[編集]

『器楽的幻覚』は、『愛撫』『闇の絵巻』『交尾』に移行する以前の、〈絶望への情熱〉を主題としている『蒼穹』や『冬の蠅』と同種の心理的状況下で書かれた作品であるが、主要な代表作に比べると作品論は少ない傾向にある。しかしながら、魅惑的な短編として評価されている[1]。また、梶井文学では「視る」ことで、対象との一体化、自己喪失の状態を示しているが、それが唐突に破られて我に返ってしまう孤独の瞬間があり、『器楽的幻覚』も、『路上』『筧の話』などと同様にそれを描いている作品である[41][4][1]

小林秀雄は、「『筧の話』や『器楽的幻覚』は、極めて精緻な抽象解析を語つて、色彩音響そのものゝ実質感に充ちてゐる」と高評している[42]今日出海は、基次郎の「微妙なそして鋭敏な知覚作用の底に、いたましい声を聴く」として、「『器楽的幻覚』は苦しい『交尾』への旋律へと昇つて行つた」と位置づけている[43]

高橋英夫は、清岡卓行の随想『手の変幻』で語られる芸術観を鑑みて、芸術の表現は、「発する存在と受け取る存在の間に張り渡されたみたいなもの」だとし、音楽の場合、「発信者」(作曲家)と聴者の間に「媒介者」(演奏家)がいることが「本質的な緊張関係」を形成していると説明しつつ、しかしながら、聴者が「発信者」(作曲家)と「媒介者」(演奏家)の2者と相対しながら、「緊張の糸」を保つことも可能とし、その時に聴者に起る幻覚・幻惑は、聴者が「緊張の糸」を通じて2者を吸収してしまった必然の結果だとして、それは「最大の幻想者としての聞き手(聴衆)の成立」だと解説している[19]

そして高橋は、そうした幻覚を描いている『器楽的幻覚』で、基次郎が異常知覚した遊離の感覚を、「奏者の意志からも、音楽(作曲者の意志)からも何かが遊離していった」ものとし、その「孤独感」を「聞くことの極限だ」と評し[19]、その音楽体験が、近現代音楽の新しさに対するインパクトからではなく、基次郎が音楽体験の変容の本質性を言葉として描いたことの重要さや新しさを指摘している[19]

曲目がドビュッシーラヴェルオネゲルミヨーだったから新しかったのではなかった。音楽を受け止め、聞く人間の側に、異常や逸脱が行きつく最後の場所まで行く過程が発生したこと、それが作品の言葉となって定着したこと、それが新しい。新しいというよりも、それが本質的なことだった。 — 高橋英夫「母なるもの――近代文学と音楽の場所」[19]

山田桃子は、『器楽的幻覚』における近現代フランス音楽の音楽体験が、その当時のラジオ放送開始や映画交通網の発展などの「メディアテクノロジーの浸透と知覚の変容の過程」でもあった急速な東京の都市化(関東大震災を契機とした大規模改造)と関連させ、「知覚の変容という同時代の問題系を共有する聴取像」として分析し、この作品が音楽領域だけではない「同時代の問題系へと接続している」と考察している[18]

山田は先ず、基次郎が「義太夫の会」の体感を〈器楽幻想〉と称していたにもかかわらず、〈幻想〉というロマン主義的な言葉を避けて〈幻覚〉に変えていることに着目し、その語彙変化を「音楽体験における、音楽を知覚する身体という領域の前景化と明白に関わっている」とし、これと異なるベートーヴェンピアノソナタ熱情(アパショナータ)』の音楽体験との対照・対立関係を意図して両体験が語られていると考察している[18]

そして、フランス近現代音楽の「非連続性」と対応する「新たな主体性の再領域」が示唆されている音楽体験では、「主体性の解体が擬似的な全体性の仮構とともに新たな再編成へと向かう変容の場を未だ可視化している」と山田は論考し[18]内田百の『旅順入城式』(1925年)との共通性を鑑みつつ、共に1920年代後半の時代変化の「問題系を浮上させ照射」している作品だとし、さらに基次郎の『橡の花』の「知覚の変容」も同時に鑑みている[18]

乗車中の電車の響きや都市の喧噪が音楽に聴こえ、それが止まらなくなると記述する「橡の花」(一九二五年)など、梶井作品にはメディア・テクノロジーの浸透を伴った社会編成の変化における知覚の変容――加速する消費と生産の循環に対応し組み入れられる新たな主体性――の問題系への関与が見られるが、「器楽的幻覚」はその問題系に、フランス近現代音楽というそれ自体音楽史における瓦解を刻まれた非連続的な音楽によって生じた、聴取経験の内側からの解体を記述することによって接続している。 — 山田桃子「梶井基次郎『器楽的幻覚』:知覚の変容と音楽・一九二〇年代の諸相から」[18]

柏倉康夫は、演奏会の休憩時間に誰かが吹いた口笛に嫌悪を覚える挿話を入れていることを、「劇作家としての手腕」として、それが次の展開への巧い導入になっていると評している[2]。また、聴衆から孤立していく自分の感覚を説明する場面で、子供の頃に誰もがやった覚えのある両耳を塞いだり開けたりして、周囲の喧噪や親からの説教音を聞いてみる悪戯比喩に使う巧さを指摘しつつ、その状況の意味を、「子ども心には判然としなくても、人間の無意味さ、その本来的な孤独に触れている」とし、「人間存在のこの不条理性」を基次郎が『器楽的幻覚』で描こうとしていると解説している[2]

視覚聴覚のちょっとした齟齬から発した幻覚は、ついには人間の「涯もない孤独」を開示するにいたる。日常的意識では絶対に捉えらない真実を、幻覚的意識が垣間見せてくれたのである。実はここにはファシズム群集心理に通じる魔力がひそんでいるのだが、「私」はそこまでは気づかない。ただ一度このメカニズムに気づいた「私」には、現実秩序はまったくちがって見える。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」[2]

柏倉は、最後に〈私〉が出口に向かう時、眼前の侯爵背広の〈威厳に充ちた姿〉が〈仆れて〉しまうのは、日常では権威象徴である人物も、「非日常的な眼を獲得した〈私〉」にとっては、その威厳の意味も失われてしまうことだと解説し[2]、「表面下の本来の孤独を暴かれた突端」に〈たちまち萎縮してあへなくその場に仆れて〉しまうという鮮烈なイメージに、〈服地の匂ひ〉という嗅覚で、「人間本来の孤独」を感得していることが基次郎らしいとしている[2]。そして、「一度真実を知った〈私〉」が意志とは無関係に〈同様の犯行を何人もの心に加へ〉て、「多勢の人をその場に打ち倒してしまう」様相を帯びたクライマックスを説明し、そこには、2度目のも湯ヶ島で迎えざるを得なかった基次郎の孤独感が反映されているとしている[2]

おもな収録本[編集]

アンソロジー収録[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 詩と詩論』第2冊には、「櫻の樹の下には」と同時に掲載された[7][8]
  2. ^ Christine Kodama(クリスチーヌ・小玉)は、『視線の循環――梶井基次郎の世界』(邦題)という梶井基次郎論と共にいくつかの梶井作品を仏訳し1987年パリで出版した[10][12]
  3. ^ ドイツ語で「夕方」の意。この短編では、「音楽の夕」「ソナタの夕」という意味を表わしている[13]
  4. ^ 1回分は、8円、4円、2円と、ボックス席72円(5人詰)。申込・購入先は帝国ホテルのほか、銀座十字屋楽器店山野楽器、共益商社、プレイガイド三田竹内楽器店であった[17]
  5. ^ ジル・マルシェックス公演の事実上の主催者だった薩摩治郎八は、ラヴェルフランス6人組と親交があり、華麗な豪遊ぶりでヨーロッパ社交界で名を馳せた人物で、多くの人脈経済力があった[18]
  6. ^ この3回目のプログラムでは、ショパンは、『子守歌 作品57』、『12の練習曲 作品25の第3番』、『12の練習曲 作品10の第5番』が演奏された[18]
  7. ^ 当時、仙台で公演を聴いたという高橋英夫の母親は、ジル・マルシェックスが低いレベルの田舎の聴衆に対して、かなり偉そうな態度だったと述懐している[19]
  8. ^ なお、この時期馬込文士村の方では、基次郎と宇野千代の恋の噂が広まっていたため、尾崎士郎は基次郎の依頼を功利的で厚顔無恥なものと誤解した[28][2]。基次郎にはそんな不倫の噂のことも露知らず、尾崎を裏切っている意識は全くなかった[2]
  9. ^ 基次郎は自分が他人より〈優越〉している分野(天職)について思い悩んでいた頃に、音楽や絵画彫刻などの趣味について以下のように自戒していた[40]
    自分は音楽は好きである、然し音楽の天才でなければ、今から音楽を研究し始める(これは時々自分の起す欲望である)ことは何の益にもならない。さらば自分は将して音楽の天才ぢやないか。多分ないだらう。自分は自惚の強い所もある。これから音楽の研究なんぞを始めるのは自分にとつては凡人的の趣味を養ふに過ぎないことになる。元来趣味などは非凡人になる為には贅沢の沙汰である。「自分は音楽の趣味を持つてゐます」。何たる馬鹿げた、忌まわしい言葉なんだらう、全く町人根性だ。自分の裡の非凡人はかく趣味を捨てよと迫る、 — 梶井基次郎「日記 草稿――第二帖」(大正10年10月)[40]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 「第三部 第八章 白日のなかの闇」(柏倉 2010, pp. 313-326)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「第三部 第九章 同人誌仲間」(柏倉 2010, pp. 327-341)
  3. ^ a b 湯ヶ島の日々」(アルバム梶井 1985, pp. 65-83)
  4. ^ a b c d e f g h i j 「第四章 湯ヶ島時代」(作家読本 1995, pp. 129-168)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「第二部 第二章 行き悩む創作」(柏倉 2010, pp. 123-139)
  6. ^ a b c d e f 「第三章 『青空』の青春」(作家読本 1995, pp. 75-128)
  7. ^ a b c d e f g 鈴木貞美「梶井基次郎年譜」(別巻 2000, pp. 454-503)
  8. ^ a b 「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」(大谷 2002, pp. 259-282)
  9. ^ 藤本寿彦「書誌」(別巻 2000, pp. 516-552)
  10. ^ a b ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」(別巻 2000, pp. 640-642)
  11. ^ Dodd 2014
  12. ^ 「第三部 第二章 『冬の日』の評価」(柏倉 2010, pp. 245-254)
  13. ^ 三好行雄「注解――器楽的幻覚」(新潮文庫 2003, pp. 319-320)
  14. ^ a b c d e f g 「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」(大谷 2002, pp. 162-195)
  15. ^ a b 「プロローグ 『器楽的幻覚』の侯爵」(村上 2012
  16. ^ a b c d e f g h i j k 「近藤直人宛て」(大正14年10月26日付)。新3巻 2000, pp. 128-129に所収
  17. ^ a b c d 「『青空』と友人たち」(アルバム梶井 1985, pp. 30-64)
  18. ^ a b c d e f g h i j k 山田 2013
  19. ^ a b c d e f g h i 「右手と左手」(高橋 2009, pp. 99-122)
  20. ^ 中谷孝雄北川冬彦飯島正浅野晃「座談会 梶井基次郎――若き日の燃焼」(浪曼 1974年2月号)。別巻 2000, pp. 217-228に所収
  21. ^ a b c d e 「第五章 青春の光と影――三高前期」(大谷 2002, pp. 74-104)
  22. ^ 野村吉之助(忽那吉之助)「回想 梶井基次郎」(群女国文 1971年4月号、1972年4月号)。別巻 2000, pp. 162-181に所収
  23. ^ a b 「雑記・講演会其他」(青空 1926年2月号)。旧2巻 1966, pp. 92-93に所収
  24. ^ 「第二部 第三章 青春賦」(柏倉 2010, pp. 140-153)
  25. ^ a b c d e f g h i j 淀野隆三宛て」(昭和2年11月11日付)。新3巻 2000, pp. 236-239に所収
  26. ^ a b c 「日記 草稿――第十一帖」(昭和2年)。旧2巻 1966, pp. 410-423に所収
  27. ^ 広津和郎宛て」(昭和2年12月22日付)。新3巻 2000, pp. 256-259に所収
  28. ^ 尾崎士郎「人間論・友情」(あらくれ 1934年10月号)。柏倉 2010, p. 332
  29. ^ 中谷孝雄宛て」(昭和2年11月1日付)。新3巻 2000, p. 233に所収
  30. ^ a b c 「淀野隆三宛て」(昭和2年11月26日付)。新3巻 2000, pp. 242-243に所収
  31. ^ 梶井謙一・小山榮雅(聞き手)「弟 梶井基次郎――兄謙一氏に聞く」(国文学 解釈と鑑賞 1982年4月号)。別巻 2000, pp. 4-21に所収
  32. ^ 「第三章 少年、夏の日――鳥羽にて」(大谷 2002, pp. 37-48)
  33. ^ 奥田房子「基次郎さんのこと」(伊勢新聞 1957年3月21日号)。別巻 2000, pp. 70-71に所収
  34. ^ 「第七章 天は青空、地は泥濘――本郷目黒にて」(大谷 2002, pp. 137-161)
  35. ^ 「小山田嘉一宛て」(大正14年8月14日付)。新3巻 2000, p. 125に所収
  36. ^ 「畠田敏夫宛て」(大正8年10月6日、11日付)。新3巻 2000, pp. 21-23に所収
  37. ^ 「畠田敏夫宛て」(大正10年3月3日付)。新3巻 2000, p. 44に所収
  38. ^ 中谷孝雄「梶井基次郎――京都時代」(知性 1940年11月号)。別巻 2000, pp. 27-46に所収
  39. ^ 「第六章 狂的の時代――三高後期」(大谷 2002, pp. 105-136)
  40. ^ a b c 「日記 草稿――第二帖」(大正10年10月・大正13年秋)。旧2巻 1966, pp. 133-152に所収
  41. ^ 井上良雄「新刊『檸檬』」(詩と散文 1931年6月号)。別巻 2000, pp. 262-266に所収。アルバム梶井 1985, p. 92
  42. ^ 小林秀雄「文藝時評 梶井基次郎と嘉村礒多」(中央公論 1932年2月号)。別巻 2000, pp. 278-281に部分所収
  43. ^ 今日出海「檸檬」(『檸檬』誌上出版記念会 作品 1931年7月号)。別巻 2000, pp. 271-272に所収

参考文献[編集]

  • 梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』 筑摩書房、1966年5月。ISBN 978-4-480-70402-3 
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌』 筑摩書房、1966年6月。ISBN 978-4-480-70403-0 
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡』 筑摩書房、2000年1月。ISBN 978-4-480-70413-9 
  • 『梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎』 筑摩書房、2000年9月。ISBN 978-4-480-70414-6 
  • 梶井基次郎 『檸檬』(改版) 新潮文庫、2003年10月。ISBN 978-4-10-109601-8  初版は1967年12月。
  • 梶井基次郎 『梶井基次郎全集 全1巻』 ちくま文庫、1986年8月。ISBN 978-4-480-02072-7 
  • 大谷晃一 『評伝 梶井基次郎』(完本版) 沖積舎、2002年11月。ISBN 978-4-8060-4681-3  初刊(河出書房新社)は1978年3月 NCID BN00241217。新装版は 1984年1月 NCID BN05506997。再・新装版は1989年4月 NCID BN03485353
  • 柏倉康夫 『評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ』 左右社、2010年8月。ISBN 978-4-903500-30-0 
  • 鈴木貞美編 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』 新潮社、1985年7月。ISBN 978-4-10-620627-6 
  • 鈴木貞美編 『梶井基次郎――年表作家読本』 河出書房新社、1995年10月。ISBN 978-4309700564 
  • 高橋英夫 『母なるもの――近代文学と音楽の場所』 文藝春秋、2009年5月。ISBN 978-4163714400 
  • 村上紀史郎 『音楽の殿様・徳川頼貞 一五〇〇億円の「ノーブレス・オブリージュ」』 藤原書店、2012年6月。ISBN 978-4894348622 
  • 山田桃子 「梶井基次郎「器楽的幻覚」:知覚の変容と音楽・一九二〇年代の諸相から」 『日本近代文学』 88号 日本近代文学会、81-94頁、2013年5月15日。 NAID 110009661955 
  • Stephen Dodd (2014-02), The Youth of Things: Life and Death in the Age of Kajii Motojiro, University of Hawaii Pres, ISBN 978-0824838409 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]