コンテンツにスキップ

葛西善蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
葛西 善蔵
(かさい ぜんぞう)
葛西善蔵(1925年撮影)
ペンネーム 葛西歌棄
生誕 1887年1月16日
日本の旗 日本青森県弘前市
死没 (1928-07-23) 1928年7月23日(41歳没)
日本の旗 日本東京府荏原郡世田ヶ谷町
墓地 弘前市の徳増寺と鎌倉市の回春院
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 哲学館大学第二科普通講習科除名
ジャンル 小説
主題 私小説
心境小説
文学活動 奇蹟派(新早稲田派)
代表作 『哀しき父』(1912年)
『子をつれて』(1918年)
『椎の若葉』(1924年)
『湖畔手記』(1924年)
『酔狂者の独白』(1927年)
配偶者 平野つる(1889~1968)
パートナー 浅見ハナ(1900~1992)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年明治20年)1月16日 - 1928年昭和3年)7月23日)は、日本小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた[1][2]

来歴

[編集]

青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。また、同年に弟の勇蔵が生まれている[3]

1889年(明治22年)、家業不振により一家で北海道に移住。1891年(明治24年)、一家で青森に戻り、青森町を経て五所川原村に移住。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、母の故郷である碇ヶ関村への一家の転居にともない、碇ヶ関小学校に転校する。卒業後、五所川原にある親戚の質屋の手伝いをしながら『南総里見八犬伝』を愛読、文学に興味を持つ[3]

1902年(明治35年)に初上京。新聞売りのかたわら夜学に通うが[4]、母の死により帰郷、1903年(明治36年)冬、北海道にわたり鉄道の車掌や営林署で枕木採伐に従事し、職を転々とした[3]

1905年(明治38年)8月にふたたび上京[4]、哲学館大学(のちの東洋大学)大学部第二科普通講習科に入学するも、翌年3月、無届欠席により除名される[3]。この頃から広津柳浪尾崎紅葉国木田独歩を愛読し、1907年(明治40年)夏、鎌倉建長寺前の方丈に滞在し、「商人宿」という作品を書き上げたが、自ら破棄した。翌年3月、浪岡村の地主の娘つると結婚し、翌月に上京[4]。友人の紹介で徳田秋声に師事、坪内逍遙に学ぶため聴講生として早稲田大学英文科の講義を受講、相馬泰三広津和郎たちと知り合い、同人雑誌「奇蹟」のメンバーとして迎えられ(雑誌名の「奇蹟」は、広津や舟木重雄と井の頭公園に行った際に無口だった葛西が突然扇子を持って踊り出したのを舟木が奇蹟だと感じたことから命名された[5])、1912年(明治45年・大正元年)、「奇蹟」創刊号に、幼少期を過ごした北海道寿都郡に存在する漁村の名を筆名とした、葛西歌棄名義で『哀しき父』を発表した[3]

その後はしばらく故郷と東京を往復しながら作品を書くも生活は困難を極め、妻の実家に金策する間に牛込区の借家から追い出され家族を養うことが難しくなり、1918年(大正7年)2月、妻子を青森の実家に帰す。『贋物さげて』を『早稲田文学』に発表、『早稲田文学』1918年3月に「子をつれて」を発表し、創作集『子をつれて』を新潮社から刊行、原稿料を得ることは出来たが、生活苦は改善しなかった[3]

1922年(大正11年)7月に父が死に、直後の10月に肺浸潤と診断され、療養のため鎌倉建長寺塔頭宝珠院の庫裏を借りて生活を始める[4]。食事は茶店の招寿軒に頼んでいたが、食事を運んでくれたのが招寿軒の娘の浅見ハナ(おせいさん)で、のちに同棲を始め娘が産まれた[3]。翌年の1923年(大正12年)春には喘息や神経痛に悩まされ健康面で不安が生じ始めていたが、同居していた長男が郷里の高等小学校に進学し、鎌倉に残った葛西はドイツ遊学を計画する。しかし、9月の関東大震災で宝珠院が倒壊したことで計画は挫折し、東京本郷弓町の下宿である西城館へ移った。当初はハナは同行しなかったが、翌月、ハナも葛西の後を追って上京した[3]

さらに生活も荒れて酒におぼれ、一日一升の日本酒を毎日飲むという生活になり、時に暴れ、ハナや子が掛布団で押さえつけなだめるような状態になった。執筆も一日数枚が限度となり、やがてほとんどが談話筆記となった。『酔狂者の独白』では嘉村礒多がその任にあたり、完成には2か月を要した[4]。晩年は世田谷区三宿界隈に住んだが、肺病は重くなっていく一方だった。

1927年(昭和2年)4月に最後の小説『忌明』を発表。その後、胸部の疾患による入退院を繰り返したが、入院中の10月に弟の勇蔵が39歳で急逝すると、四十九日を機に自宅に戻り、以降病院に戻ることはなかった。1928年(昭和3年)6月には同人誌「文芸王国」の創刊に顧問として加わったものの、病状は悪化の一途を辿り創作は叶わず、「お詫び」の文を発表した。この文が葛西が人生で最後に書いた文章となった。病状が重篤になると知り合いや家族親戚が駆けつけるようになり、7月22日の晩には、肉親や親友たちと別れの杯を交わした。翌23日昼頃から眠りに落ち、時折「一時ごろの汽車に乗っていく」「切符を落とさないように」とうわ言を発した。夕方には意識不明になり、午後11時8分、死去[3]。41歳没。

戒名は「藝術院善巧酒仙居士」。墓所は、弘前市の徳増寺と鎌倉市の建長寺塔頭の回春院。回春院の墓所には従兄弟である北川清蔵および、1992年(平成4年)12月30日に92歳で死去した浅見ハナも葬られている[3]

評価

[編集]
  • 葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した「私小説」といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。一方、妻を故郷に置いたまま別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある[要出典]
  • 文学論争や作品批評となると、友人や同門、上下関係なく必要とあらば平然と猛烈にこき下ろした。「文学道場」と呼ばれたこの飾り無き私的批評の論調のせいで、葛西を嫌う人物も多かった。広津和郎もまた、友人であったがのちに彼を嫌った一人であった。しかし広津は葛西の死の床に駆けつけている。ただし広津は葛西が伸ばした手を握り返さず、これまでの不満を全てぶちまけた、と書いている。死の床には間宮茂輔榊山潤らも駆けつけた。晩年の口述筆記を勤め、同時に晩年の葛西の破綻した仕事及び生活態度を書き残した嘉村礒多は、弱りがちの自分と引き比べて、彼の「苛烈な高ぶった心魂」を「ひとへに生涯の宗と願うべき」[6]という感慨を残している。
  • 生活の悲惨さのなかで、それを逆手にとったような葛西の文学には、人をひきつけるところがあり、それが葛西の作品を広めているところがある。破天荒かつ酒乱、生活破綻などと言われるが、死の床にも見舞い客はひっきりなしに訪れ、葬式には200人が集まった。香典は七百円集まった。三宿で葛西の最後に住んでいた家を世話してくれた酒屋の爺さんは、生前溜まっていた葛西の借金がちょうど七百円だったがそれを払ってくれとは言わず、近辺に葛西が評判が悪いものだから「お前たちは始終悪口を言うけれども、死ねばあの通り七百円も香典の集まる人なんだ」と弁解して歩いたという[7]。弔辞は徳田秋声谷崎精二が務め、文壇では「葛西善蔵遺児養育資金」が集められ、志賀直哉佐藤春夫室生犀星といった面々が協力した。故郷の弘前では、石坂洋次郎や戦後代議士となった津川武一が、葛西文学の顕彰のために力をつくした[要出典]
  • 宇野浩二は、私小説について書いた文章「「私小説」私見」の中で、「日本人の書いたどんな優れた本格小説でも、葛西善蔵が心境小説で到達した位置まで行ってゐるものは一つもないと思はれる」といい、「小説も此高さ、此境地に迄立って見たなら、多くの他の小説は何等かの意味で通俗的だといへないだらうか」と、絶賛といってよい評価をしていた[8]
  • 正宗白鳥は「志賀直哉と葛西善蔵」において、「「葛西善蔵全集」を披いて、幾つかの短篇を続けて読んで、私はウンザリした。「暗鬱、孤独、貧乏」の生活記録の繰り返しであつて、それが外形的にも思想的にも単調を極めてゐる」と、葛西の創作力の貧しさを指摘する一方、芸術への誠実さ、飄逸さ、多少身に帯びていた仙骨といったところに価値を見出し、彼の身辺雑記小説を、志賀のそれよりも評価している。また、葛西の創作の特徴について「比喩が提灯と釣鐘になるが、彼れの文学的面差しはドストエフスキーに少しは似てゐるのであらうか。それが彼の創作上の総財産である」と表現している[9]
  • 文芸評論家で『三田文学』編集者でもあった勝本清一郎が, 同誌の先代編集をしていた水木京太に聞いた話によれば、葛西の初期の作品のなかには石坂洋次郎が代作したものがかなりあるということである。また、勝本は「石坂君の初期の作風は一種の葛西善蔵ですよ。『海を見に行く』とか、『炉辺夜話』とか、『キャンベル夫人訪問記』とか、ああいうものはみな。」とも述べている[7]
  • 群馬県の美峰酒類社長であった小山長四郎は「病弱で達筆で酒飲みと三評子揃っては、貧乏は当り前である。」加えて本人談で「傲慢であった」から、貧乏は当たり前であった、と評している[10]
  • 文壇仲間と鳥鍋屋に行った際、いつものように食べ物よりも酒を飲み続ける葛西に対し、見かねた友人が「酒の吞みすぎは胃癌になるから、自分は控えている」と言ったところ葛西は不快感を露わにし、「それはだめだ」と怒った。曰く「胃が悪いのは仕方がない、しかし、それを酒のせいにするのはいかん」と座の者に怒鳴り散らした。そして「酒さん酒さん、胃が悪いのは私のせいであり、決して酒さんが悪いのではありません。胃が悪いのはこちらに非があるのです。どうか堪忍してください。あなたに責任を被せるようなことは致しません。」と、酒に対して懺悔を行った[要出典]
  • 『漫談』作中にてこう述べている。「酒はいいものだ。実においしくって。毒の中では一番いいものだ。」[要出典]

著書

[編集]
  • 不能者 新潮社 1919 (新進作家叢書)
  • 子をつれて 新潮社 1919
  • 馬糞石 春陽堂 1920
  • 贋物 春陽堂 1921 (新興文芸叢書)
  • 哀しき父 改造社 1922
  • 椎の若葉 新潮社 1924
  • 葛西善蔵全集 第1-5巻 改造社 1928-30
  • 葛西善蔵選集 第1-2巻 改造社 1947-48
  • 葛西善蔵集 山本健吉編 新潮文庫 1952、復刊1993
  • 子をつれて 岩波文庫 1952
  • 葛西善蔵全集 全3巻別巻1 津軽書房 1974‐75
  • 葛西善蔵全集 文泉堂書店 1974 (日本文学全集・選集叢刊)
  • 椎の若葉・湖畔手記 旺文社文庫 1976
  • 葛西善蔵随想集 阿部昭編 福武文庫 1986.9
  • 哀しき父・椎の若葉 講談社文芸文庫 1994.12
  • 贋物・父の葬式 講談社文芸文庫 2012.9

参考文献

[編集]
  • 橋本迪夫編 葛西善蔵年譜 -「日本の文学33 宇野浩二・葛西善蔵・嘉村磯多」中央公論社、1970
  • 放浪の作家 葛西善蔵評伝 谷崎精二、現代社、1955。復刻:日本図書センター
  • 葛西善蔵と広津和郎 谷崎精二 春秋社、1972 
  • 椎の若葉に光あれ 葛西善蔵の生涯 鎌田慧(講談社、1994/岩波現代文庫、2006) 
  • 葛西善蔵の研究 大森澄雄 桜楓社 1970
  • 葛西善蔵その文学と風土 津川武一 津軽書房 1971
  • 葛西善蔵と芥川竜之介 塚越和夫 葦真文社 1987.12
  • 葛西善蔵論 雪をんなの美学 神谷忠孝 響文社 1992.11

脚注

[編集]
  1. 「私小説の神様」と著名作家との絆、企画展で 朝日新聞デジタル、2016年1月22日配信
  2. 葛西善蔵文学碑 平川市観光協会
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 葛西善蔵(かさい・ぜんぞう)常設展示作家、青森県近代文学館
  4. 1 2 3 4 5 葛西 善蔵 弘前市立郷土文学館
  5. 柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二『座談会 明治・大正文学史(5)』岩波書店、2000年6月、28頁。
  6. 「足相撲」(昭和四年十月『文學時代』)
  7. 1 2 柳田・勝本・猪野『座談会 明治・大正文学史』岩波書店、2000年。ISBN 4-00-602006-6
  8. 新潮. (1925年[大正14年]10月).
  9. 中央公論. (1928年[昭和3年]10月).
  10. 小山長四郎「酒徒行傳 (五)」『日本釀造協會雜誌』第47巻第5号、日本醸造協会、1952年、227-234頁、CRID 1390001206076698496doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.47.227ISSN 0369-416X

外部リンク

[編集]