蔵原伸二郎

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蔵原 伸二郎
(くらはら しんじろう)
誕生 蔵原 惟賢
1899年9月4日
日本の旗 日本 熊本県阿蘇郡黒川村(現阿蘇市
死没 (1965-03-16) 1965年3月16日(65歳没)
日本の旗 日本 東京都港区白金
墓地 多磨霊園
職業 詩人小説家評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学文学部仏文科東京外国語学校
活動期間 1923年 - 1965年
代表作 『猫のゐる風景』、『戦闘機』、『天日の子ら』、『岩魚』、『乾いた道』、『目白師』
主な受賞歴 日本詩人賞(1944年)、讀賣文学賞詩歌俳句賞(1965年)
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蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう 1899年9月4日 - 1965年3月16日)は熊本県出身の詩人作家評論家

生涯[編集]

熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官阿蘇神社の直系[1]。母いくは医学者北里柴三郎の妹。

7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎青猫』に触発されてを書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校ロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。1927年、小説集『猫のゐる風景』を春陽堂から刊行。1931年田畑修一郎小田嶽夫たちと共に同人誌『雄鶏』(1932年『麒麟』と改称)を創刊。このほか『文芸都市』などで活躍。

1939年、第一詩集『東洋の満月』を刊行。萩原朔太郎川端康成に激賞される。『四季』同人。1943年、『戦闘機』(1943年)で第4回詩人懇話会賞を受賞。1944年、『戦闘機』および『天日の子ら』で第3回日本詩人賞を受賞。

疎開先の埼玉県入間郡吾野村で敗戦を迎えた後、戦後は埼玉県入間郡飯能町河原町(飯能市)に住む。戦時中に発表した国粋主義的な戦争詩に対して、戦後に指弾を受け、貧困の中で「朝鮮人のいる道」など贖罪的な詩を書いた。

晩年は、文化財保護審議員として飯能焼を研究。1964年北里研究所附属病院に入院中、第六詩集『岩魚』を刊行。これに対して、1965年に第16回讀賣文学賞詩歌俳句賞を受賞、その直後に病没した。

その他の作品に、詩集『乾いた道』、小説「目白師」、評論集『東洋の詩魂』など。特に「猫のゐる風景」「目白師」は川端康成から絶賛された。飯能市の天覧山の入口と、阿蘇市の生家跡に詩碑がある。

家系図[編集]

                     
                     ┏━惟示(これとき)━━惟皓(これつぐ、海軍大佐)
                     ┃
                     ┣━惟暁(神官)   ┏惟繕 
                     ┃ ┃  ┏惟門━━━┫
                       ┃ ┣━━┫     ┗惟二
               蔵原惟元━━┫ ┃  ┗惟賢(伸二郎)
                     ┃ イク(北里柴三郎の妹)
                     ┃
                          ┣━惟郭
                      ┃ ┃
                      ┃ ┣━━━惟人
                     ┃ ┃
                      ┃ しう(北里柴三郎の妹)
                      ┃
                          ┣━惟昇
                      ┃            
                     ┗━松代 

著作集[編集]

研究書[編集]

家系[編集]

北里柴三郎は母方の伯父にあたる。評論家蔵原惟人は従弟。父の弟蔵原惟郭衆議院議員で教育家。この他にも親類には文化人が多く、蔵原一族と称される。

外部リンク[編集]

脚注[編集]