田中賢介
北海道日本ハムファイターズ #3 | |
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2012年、阪神甲子園球場にて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県筑紫野市 |
生年月日 | 1981年5月20日(42歳) |
身長 体重 |
176 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 二塁手、左翼手、遊撃手 |
プロ入り | 1999年 ドラフト2位 |
初出場 |
NPB / 2000年9月12日 MLB / 2013年7月9日 |
年俸 |
1億5,000万円+出来高(2016年) ※2015年から2年契約 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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田中 賢介(たなか けんすけ、1981年5月20日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。
経歴
プロ入り前
福岡県筑紫野市出身。小学校2年で野球を始め、中学から硬式野球を始める。高校は東福岡高校に進学し、一学年上の村田修一や大野隆治とチームメイトとなる。2年時の1998年に第70回選抜高等学校野球大会に出場し、3回戦・横浜高校戦で松坂大輔に2安打完封され敗退するが、田中は試合の先頭打者として1安打を放った。第80回全国高等学校野球選手権大会、第81回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが初戦敗退に終わった。
翌1999年、プロ野球ドラフト会議で、2位指名で日本ハム・中日・西武の3球団で競合の末、ドラフト直前に就任した大島康徳監督が引き当て日本ハムに入団[1]。
日本ハム時代
入団時から打撃センスは高く評価されていたものの、守備が課題で一軍に定着出来ずにいたが、1年目(2000年)から二軍で打率.313を記録し、9月に一軍に昇格しプロ初安打を記録。2001年は開幕一軍に入り、開幕戦である3月24日の対大阪近鉄バファローズ1回戦で9回に代打で出場してプロ初本塁打を打った。開幕戦での代打本塁打はパ・リーグでは9人目であるが、プロ初本塁打に限っては1989年の広永益隆以来3人目である[2]。当時の正三塁手だった片岡篤史が故障したため、翌日の開幕2戦目にプロ初先発起用され、3月31日~4月6日は6試合連続で三番打者を任されたが、打率を残せず、一軍定着は出来なかった。2002年、2003年は一軍と二軍を行き来する状況が続く。
2004年に一軍で一時3割台の高打率を維持するも、6月に死球による右すね骨折で離脱。21試合の出場に終わる。2005年は一軍で22試合出場に留まるが、白井一幸の指導を受け、打撃理論の再構築と送球難の克服を果たした[1]。二軍で.307、16本塁打の好成績を残し、9月28日の一軍最終戦(対ロッテ戦)で延長11回に初のサヨナラ本塁打を放った。秋季キャンプ後にはトレイ・ヒルマン監督(当時)に「来季、最も飛躍を期待」として唯一名前を挙げられた。
2006年は開幕一軍に入り、課題だった守備が改善され、主に代走・守備固めで起用される。この年のチームは当初、新外国人のホセ・マシーアスを二塁手として予定していたが結果を残せなかったため、マシーアスや木元邦之、川島慶三らとのポジション争いを演じた後、田中が5月上旬から二塁手に、同月下旬から二番打者としてレギュラーに定着[1]。自身初の規定打席到達を果たし、打率3割、21盗塁、リーグ最多犠打(34個)を達成、日本シリーズでも最多記録に並ぶ6犠打(5試合制では史上最多)を記録して日本一に貢献した。二塁手としてゴールデングラブ賞、ベストナインを受賞(以後、前者は2010年まで5年連続、後者は翌2007年と2009年、2010年、2012年にも受賞)。またオフに2004年の骨折の際に右足に埋め込んだプレートの除去手術をした。
2007年は開幕から打撃不振に苦しみ、最終的に打率.255と前年から大きく率を落とすが、全144試合に出場、パシフィック・リーグ最多記録となる58犠打、盗塁も自己最多の27個を記録した。
2008年はグリップを肩より下でかまえる独自の打撃フォームを改造し、肩より少し上で構えるようにしたところ開幕4試合で前年に並ぶ3本塁打を打った。打率3割は逃したが、自身初の2桁本塁打を記録。更にはパ・リーグで唯一のフルイニング出場も果たした。88試合に三番打者として起用された。第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の一次候補に選ばれたが、代表には選出されなかった。
2009年に前任の金子誠から選手会長を引き継ぐ。WBC選考メンバーに入るも、日本代表のメンバー入りはできなかった。開幕から一番打者を任され[1]、打率3割には届かなかったがリーグ最多の79四球、自己最多の31盗塁を記録した。8月21日に右足首痛で2年ぶりに先発出場を外れた(全試合出場は2010年8月14日まで継続)。また、この年は680打席に立ち、リーグ記録を46年振りに塗り替える(翌年西岡剛によって更新(692打席)される)と共に、セ・パ両リーグの規定打席到達者で唯一併殺打0のままシーズンを終えた[1](後述)。
2010年はリーグトップの得点圏打率.419を記録した他、右投手に対して打率.356と得意とし、シーズンを通して高打率を維持。最後まで首位打者争いに絡んだ。シーズン打率.335と193安打は共に自己最高であり、パ・リーグ2位。8月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦を欠場し、2006年6月3日の対横浜ベイスターズ戦より継続していた連続試合出場は、歴代29位の620試合で終了した。この年国内フリーエージェント(FA)権を獲得し、オフには翌年以降のメジャーリーグ挑戦も取り沙汰されたが[3]、総額7億5千万+出来高の3年契約を結んだ[4]。契約にはメジャー移籍を希望した場合は球団の許可を得た上で契約解除できる条項が含まれている[5]。
2011年は春季キャンプ中の右手指骨折で出遅れた上、6月18日の対広島東洋カープ戦で6回に盗塁をした際に左足首を痛め、21日に受けた精密検査で「左距骨骨折で全治4~6ヶ月」と診断され、シーズン中の復帰はならなかったが[6]、フェニックスリーグで実戦復帰し、一軍の試合ではクライマックスシリーズのファーストステージの第1戦と第2戦に一番・二塁手で先発出場するも決勝点となる失策を犯してしまった。
2012年は6月まで打率.332と首位打者を争う活躍を見せるも、8月29日の西武戦の守備で中島裕之と交錯し左腕を骨折[7]。そのままシーズンを終え、ポストシーズンでの出場もなかった。11月6日には「今年はどんなことがあろうと挑戦しようと決めていた。けがをしても揺らぐことはなかった」[8]と、アラン・ニーロを代理人とし、海外FA権を行使してのメジャー挑戦を表明[9][10]。会見では「パワーは劣ると思うけど、守備や走塁、バットに当てる技術など、細かい部分でアピールしたい。ダルビッシュと対戦したら楽しいでしょうね。ファンに支えられて大きくなりました。球団は『いつでも帰ってきていいよ』と言ってくれた。その言葉だけでありがたいけど、帰ってくる選択肢はない。覚悟してます」とメジャーに骨を埋める覚悟もあることを語った[11][12]。
ジャイアンツ時代
2013年1月9日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約で合意し10日に契約[13]。最低保証金額4万ドル[注釈 1]、マイナーで月2万ドル[14]、メジャー40人枠入りすることで年俸75万ドルとなる契約で、「通訳を付けると英語も上達しないと思うし、チームメートからも認めてもらえない」として通訳ではなく家庭教師がつく契約を自ら希望した[15][16]。スプリングトレーニングに招待選手として参加するが、19試合の出場で打率.229、出塁率.275を喫し、守備でも二塁手の他、遊撃手や三塁手としても起用されるが計7失策を喫して、AAA級フレズノで開幕を迎える。フレズノでは78試合の出場で16失策(内55試合の二塁守備で15失策)を喫し左翼手にコンバートされる。一方で打撃は78試合の出場でリーグ6位の打率.330、出塁率.392、リーグ5位の20盗塁の成績を残し、7月9日にメジャー昇格。同日のニューヨーク・メッツ戦に二番・左翼手でスタメン出場し、日本人選手通算50人目となるメジャーデビューを果たす。同試合では2回に本塁打性の飛球をジャンピングキャッチする好守を見せ、5回にはメジャー初安打となる中堅前安打で出塁し、4万人の観衆からスタンディングオベーションを受けた[17]。以降も左翼手として起用され、4試合連続安打を記録[18]するなど、15試合の出場で打率.267、出塁率.353、2盗塁の成績を残すが、29日にフレズノに降格。降格後も左翼手として起用され、フレズノでは最終的にリーグ3位の打率.329、1本塁打、出塁率.400、22盗塁を記録。マイナーのシーズン終了後は「首位打者を取りたかったので残念。でも、いい締めくくりができました。パワーがない分、二塁か中堅でスピードで勝負するのが、メジャーで生き残る道かもしれない」と語った[19]。9月3日にDFAとなり、翌日に自由契約となる。
レンジャーズ時代
2013年12月20日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ[20]。
2014年、招待選手として参加したスプリングトレーニングでは18試合の出場で打率.185、出塁率.290を喫し、AAA級ラウンドロックで開幕を迎える。ラウンドロックでは62試合の出場で打率.258、4本塁打、出塁率.340、12盗塁の成績を残し、守備では二塁手として起用される。7月20日に本人の希望で契約を解除し自由契約となった[21]。
日本ハム復帰
2014年12月16日に、古巣の北海道日本ハムファイターズが獲得を発表した。3年振りの古巣復帰となる。背番号は「3」。[22]
2015年は"2番・二塁"で開幕を迎えた。4月途中から陽岱鋼が怪我で離脱してからは3番に座る。5月13日の埼玉西武ライオンズ戦でスイング途中に右肩の違和感(診断後、右肩の亜脱臼と判明)により5試合欠場するが、5月20日東北楽天ゴールデンイーグルス戦で復帰。[23]以後は走塁の際に右腕でユニホームの左胸側を掴みながら走るなど、痛みを最小限に抑えるようにしながらクライマックスシリーズ終了までプレーを続けた。年間を通して得点圏でめっぽう強く、得点圏打率.346を記録。わずか4本塁打で66打点の自己最高記録を残した(打点の自己最高記録は2008年の63打点だったが、その年の長打率と比べると1割も低い数字であった)。また、ベストナインを獲得し、念願だった正遊撃手の中島卓也との同時受賞を叶えた。
選手としての特徴
【打撃】 広角に打球を打ち分け[24][25]、2007年にはリーグ最多記録となる58犠打を記録するなどバント技術やボールをカットする技術にも優れる[25][26]。選球眼に優れ[25]、8打席に1個近い確率で四球を選び、2009年には105三振を喫した一方でリーグ最多の79四球を記録した。右投手に対しては基準違反統一球が導入されていた2011年から2012年の通算で打率.305を残しているが、左投手に対しては同打率.280とやや弱く、メジャー移籍後の2013年から2014年もAAA級では右投手に対しては打率.323、左投手に対しては打率.230と弱かった。
【走塁】 一塁到達3.7秒、三塁到達11.35秒をマークする俊足。全力疾走を怠らず[27]、盗塁面では日本での通算盗塁成功率70%を記録している。
【守備】 日本ハムでは主に二塁手として起用されたが、ジャイアンツ時代は送球難、出場機会増加のため左翼手としても起用された[28]。二塁守備では打者の特徴や配球を考えてポジショニングすることが好きだと述べており、[25]、併殺参加数が非常に多い[25]。2006年から5年連続でゴールデングラブ賞を受賞しており、2010年には得点換算で球界トップクラスの数値を残した[29]。近年は守備範囲がやや狭くなっており、正面のゴロを取りこぼすことも。2012年にはイージーミスが多く見られ[25]、この年は守備イニング500以上の二塁手中両リーグワースト3位のUZR-3.0を喫した[30]。また、内野ゴロを待って捕る癖があり、天然芝球場の帯広の森野球場で行われた2012年8月7日のソフトバンク戦では、平凡な内野ゴロを安打にしてしまうミスを犯して、二死から2人の走者を生還させてしまい逆転を許すことがあった。
人物
自身のイメージカラーがピンクであることから、守備でアウトを奪取した数に応じてマンモグラフィ検診をファンにプレゼントするピンクリボン活動に取り組んでおり[25]、2008年オフにはチャリティーイベントも実施している。
ワインが好きで、メジャー移籍前にはダルビッシュ有や建山義紀らと共に「ワイン部」を結成していた[25]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 日本ハム | 5 | 5 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 |
2001 | 56 | 116 | 99 | 12 | 14 | 1 | 1 | 3 | 26 | 9 | 0 | 2 | 3 | 1 | 13 | 0 | 0 | 28 | 0 | .141 | .239 | .263 | .502 | |
2002 | 60 | 177 | 158 | 18 | 40 | 7 | 4 | 0 | 55 | 10 | 3 | 2 | 9 | 0 | 9 | 0 | 1 | 36 | 2 | .253 | .298 | .348 | .646 | |
2003 | 52 | 114 | 102 | 10 | 22 | 4 | 1 | 1 | 31 | 16 | 1 | 1 | 2 | 2 | 6 | 0 | 2 | 30 | 0 | .216 | .268 | .304 | .572 | |
2004 | 21 | 45 | 40 | 4 | 13 | 3 | 2 | 1 | 23 | 7 | 1 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 7 | 1 | .325 | .372 | .575 | .947 | |
2005 | 22 | 28 | 24 | 2 | 5 | 0 | 0 | 1 | 8 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 10 | 0 | .208 | .321 | .333 | .655 | |
2006 | 125 | 450 | 376 | 68 | 113 | 10 | 6 | 7 | 156 | 42 | 21 | 7 | 34 | 4 | 30 | 0 | 6 | 60 | 3 | .301 | .358 | .415 | .773 | |
2007 | 144 | 638 | 526 | 66 | 134 | 24 | 7 | 3 | 181 | 31 | 27 | 14 | 58 | 2 | 43 | 1 | 9 | 107 | 2 | .255 | .321 | .344 | .665 | |
2008 | 144 | 638 | 536 | 89 | 159 | 32 | 9 | 11 | 242 | 63 | 21 | 7 | 26 | 3 | 62 | 2 | 11 | 80 | 4 | .297 | .379 | .451 | .831 | |
2009 | 144 | 680 | 575 | 93 | 163 | 34 | 4 | 3 | 214 | 49 | 31 | 11 | 17 | 4 | 79 | 4 | 5 | 105 | 0 | .283 | .373 | .372 | .745 | |
2010 | 143 | 662 | 576 | 88 | 193 | 24 | 4 | 5 | 240 | 54 | 34 | 10 | 7 | 5 | 72 | 4 | 2 | 66 | 6 | .335 | .408 | .417 | .825 | |
2011 | 49 | 220 | 200 | 25 | 58 | 6 | 1 | 1 | 69 | 10 | 8 | 3 | 2 | 1 | 17 | 0 | 0 | 21 | 1 | .290 | .344 | .345 | .689 | |
2012 | 114 | 505 | 457 | 49 | 137 | 14 | 3 | 3 | 166 | 32 | 13 | 9 | 8 | 3 | 35 | 2 | 2 | 36 | 2 | .300 | .350 | .363 | .713 | |
2013 | SF | 15 | 34 | 30 | 4 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | .267 | .353 | .267 | .620 |
2015 | 日本ハム | 134 | 596 | 532 | 62 | 151 | 20 | 2 | 4 | 187 | 66 | 9 | 3 | 5 | 1 | 57 | 0 | 1 | 58 | 9 | .284 | .354 | .352 | .705 |
NPB:14年 | 1213 | 4874 | 4206 | 586 | 1203 | 179 | 44 | 43 | 1599 | 391 | 170 | 70 | 173 | 26 | 429 | 13 | 40 | 646 | 30 | .286 | .356 | .380 | .738 | |
MLB:1年 | 15 | 34 | 30 | 4 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | .267 | .353 | .267 | .620 |
- 2015年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
球団 | 二塁 | 遊撃 | 外野 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
2005 | 日本ハム | 2 | 2 | 6 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1.000 | 3 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
2006 | 114 | 243 | 324 | 11 | 79 | .981 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 4 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2007 | 144 | 309 | 434 | 10 | 97 | .987 | - | - | |||||||||||
2008 | 144 | 322 | 455 | 9 | 82 | .989 | - | - | |||||||||||
2009 | 144 | 325 | 467 | 9 | 87 | .989 | - | - | |||||||||||
2010 | 143 | 343 | 473 | 17 | 122 | .980 | - | - | |||||||||||
2011 | 49 | 127 | 150 | 5 | 23 | .982 | - | - | |||||||||||
2012 | 114 | 260 | 343 | 11 | 62 | .982 | - | - | |||||||||||
2013 | SF | - | - | 9 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||||||
NPB:8年 | 854 | 1931 | 2652 | 72 | 552 | .984 | 2 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1.000 | 7 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
MLB:1年 | - | - | 9 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
- 2014年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- ベストナイン:6回 (二塁手部門:2006年、2007年、2009年、2010年、2012年、2015年)
- ゴールデングラブ賞:5回 (二塁手部門:2006年 - 2010年)
- 月間MVP:1回 (2010年6月)
- 月間サヨナラ賞:1回 (2012年3・4月)
記録
- 初記録
- 初出場:2000年9月12日、対西武ライオンズ22回戦(東京ドーム)、7回表に遊撃手で出場
- 初安打:2000年9月20日、対大阪近鉄バファローズ26回戦(東京ドーム)、9回裏に門倉健から左前安打
- 初本塁打・初打点:2001年3月24日、対大阪近鉄バファローズ1回戦(東京ドーム)、9回裏に奈良原浩の代打で出場、大塚晶文から右越2ラン
- 初先発出場:2001年3月25日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(東京ドーム)、2番・三塁手で先発出場
- 初盗塁:2002年5月4日、対福岡ダイエーホークス7回戦(東京ドーム)、2回裏に二盗(投手:ブレイディー・ラジオ、捕手:城島健司)
- 節目の記録
- 1000試合出場:2012年5月9日、対千葉ロッテマリーンズ8回戦(QVCマリンフィールド)、3番・二塁手で先発出場 ※史上450人目
- 1000本安打:2012年6月27日、対東北楽天ゴールデンイーグルス8回戦(東京ドーム)、6回裏に美馬学から右前安打 ※史上268人目
- その他記録
- オールスターゲーム出場:3回 (2008年、2010年、2012年)
- 開幕戦代打本塁打:上記「初記録」の「初本塁打」の項目を参照 ※史上15人目(パ・リーグ史上9人目:同記録での初本塁打は史上3人目)
- 連続打席無併殺打:862打席(729打数) ※ パ・リーグ歴代2位(何れも1961-1962年の毒島章一の900打席・795打数に次ぐ記録)
- 2008年8月27日の対千葉ロッテマリーンズ21回戦に第4打席で高木晃次から併殺打を記録した以後、2010年4月6日の対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦に第3打席で永井怜から併殺打を記録するまで
- 規定打席以上で併殺打0:2009年 ※史上11人目(2000年の清水隆行以来、 パ・リーグ史上5人目:日本ハムの選手では初)
- シーズン全試合出場者による同記録達成者は史上2人目、パ・リーグ選手初(1969年の藤田平以来)
- シーズン犠打58:2007年 ※パ・リーグ史上最多(歴代記録は1990年の川相昌弘と並び5位)
- シーズン打席680:2009年 ※パ・リーグ史上2位(歴代記録は2006年の青木宣親と並び4位)
- 日本シリーズ最多犠打(6犠打):2006年(2012年現在) ※史上3人目(5試合制ではシリーズ最多、6試合以上の場合も含めると最多タイ)
背番号
- 3 (2000年 - 2012年、2015年 - )
- 37 (2013年)
登場曲
脚注
注釈
- ^ 一部スポーツ紙では誤って年俸と報じられたが、正しくは最低保証金額で、後述の通りマイナーでの月給やメジャーに昇格した場合の年俸は別となっていた。
出典
- ^ a b c d e 一意専心 田中賢介『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/26, 53-57頁。
- ^ 2002 ベースボール・レコード・ブック
- ^ ダル、建山に続き…来オフ、賢介もメジャースポーツニッポン、2010年10月09日。
- ^ ハム賢介3年7.5億更改1号日刊スポーツ、2010年11月5日。
- ^ 日本ハム 田中賢介 メジャー移籍急浮上Sponichi Annex、 2011年11月3日。
- ^ 日本ハム:田中賢介は左距骨骨折と判明 今季復帰は絶望的 - 毎日jp
- ^ 賢介が左腕骨折 今季絶望日刊スポーツ、2012年8月30日。
- ^ ハム・賢介 涙の大リーグ挑戦表明「北海道から巣立って行こうと」スポニチ、2012年11月6日。
- ^ 田中が米大リーグ挑戦表明日刊スポーツ、2012年11月6日。
- ^ 涙の田中「球団はどこでも」日刊スポーツ、2012年10月6日。
- ^ 涙メジャー表明!賢介「ダルと対戦」希望日刊スポーツ、2012年11月7日。
- ^ “賢介、涙のメジャー表明 不退転の覚悟「日本に帰ってくる選択肢ない」…日本ハム”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2012年11月7日). オリジナルの2013年9月4日時点におけるアーカイブ。 2013年9月4日閲覧。
- ^ Giants ink Japanese infielder to Minors dealMLB.com、2013年1月10日。
- ^ MLB戦略事情 第43回『週刊ベースボール』2013年8号、ベースボール・マガジン社、雑誌20446-2/20、87頁。
- ^ 賢介、通訳NO!家庭教師付ける契約でジ軍へスポーツ報知、2013年1月29日。
- ^ 「ジ軍は細かい、上手い、本当に強い」…賢介に聞くスポーツ報知、2013年1月29日。
- ^ 田中賢介50人目和製メジャー即先発初安打日刊スポーツ、2013年7月11日。
- ^ 田中賢介2安打 止まらん4戦連続ヒット日刊スポーツ、2013年7月13日。
- ^ 田中、首位打者残念も愛妻サポートに感謝日刊スポーツ、2013年9月4日。
- ^ Rangers agree to terms with INF Kensuke Tanaka and LHP Ryan Feierabend on minor league deals with invitations to Major League Spring Training MLB.com
- ^ 田中賢が自由契約「チャンスなさそう」日刊スポーツ、2014年7月21日。
- ^ 田中賢介選手獲得のお知らせ北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2014年12月16日閲覧
- ^ ハム選んで勝った9回一挙5点 今季初貯金10
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- ^ 日本人内野手は“実力不足”なのか!? 田中賢介、外野コンバートの裏事情菊地慶剛 Number Web、2013年7月8日。
- ^ Baseball Lab守備評価~Second BasemanSMR Baseball Lab
- ^ 岡田友輔、道作、三宅博人、morithy、蛭川皓平、高多薪吾、Student、水島仁『プロ野球を統計学と客観分析で考える セイバーメトリクス・レポート2』水曜社、2013年、69頁頁。ISBN 978-4-88065-319-8。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 田中賢介 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 田中賢介オフィシャルブログ
- 田中賢介 (@kensuke8888) - X(旧Twitter)