二・二六事件
二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。
一般に、「ニニロクジケン」でなく「ニーニーロクジケン」と伸ばして発音されることが多い。
事件概要
大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して
の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害。また岡田総理も殺害と発表された(但し誤認)。
その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
背景
統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚と、上下一貫・左右一体を合言葉に特権階級を除去した天皇政治の実現を図った革新派の隊付青年将校は対立していた。はじめは懐柔策を講じていた幕僚らは目障りな隊付青年将校に圧迫を加えるようになった[1][2]。
革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。
陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で士官学校事件において磯部と村中を逮捕した。しかしこれによって青年将校の間で逆に上官に対する不信感が生まれることになった。
1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。3月20日、証拠不十分で不起訴になったが、4月1日、停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった[1][3]。
1935年(昭和10年)7月、真崎甚三郎教育総監が罷免されて皇道派と統制派との反目は度を深め、8月12日白昼に統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。
五・一五事件 (1932年) で犬養毅総理を殺害した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用して天皇から預かった兵卒を動員したクーデタではない。
なお三井財閥は血盟団事件 (1932年2月〜3月) で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた[4]。2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという[4]。
2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として三千円受領した。
2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した[5]。
青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉[6]や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。
安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。栗原、磯部から参加要請され、野中から叱責をうけ、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく2月22日になって決断した[7]。
北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響をうけた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている[7]。
磯部は獄中手記で「……ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」と述べている[8]。
村中の憲兵調書には「統帥権干犯[9]ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。……本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう[10]。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる[10]。
「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している[1][11][12]。
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。
磯部と陸軍幹部の接触
この蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。
1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。
1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸相を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。
1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島義之陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
1936年1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。
磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した[13]。
1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した[14]。
蹶起趣意書
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている[15]。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった[16]。
また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。
要望事項
26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。
- 現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
- 皇軍相撃つことは避けなければならない
- 全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
- 警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
- 南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
- 速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
- 軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件[17]に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
- 林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
- 荒木大将を関東軍司令官に任命すること
- 同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
- 同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
- 報道を統制するため山下少将を招致すること
- 次の者を陸相官邸に招致すること
襲撃目標
2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた[13]。
第一次目標
第二次目標
西園寺公望襲撃計画
西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した[18]。西園寺はなぜか事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察部長官舎に避難した。
事件経過
陸軍将校の指揮による出動
反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。
歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした[19]。事件当日は雪であった。
反乱軍は圧倒的な兵力や機関銃を保有しており、概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、総理官邸、渡辺大将私邸、高橋蔵相私邸及び牧野伯爵逗留地では、警備の警察官・憲兵の激しい抵抗を受け、これら警察官・憲兵を殺害又は重傷を負わせている。また、渡辺大将自身も拳銃で応戦したとされている。
政府首脳・重臣への襲撃
岡田啓介首相
天皇大権を掣肘する「君側の奸」として内閣総理大臣・予備役海軍大将の岡田啓介が襲撃の対象となっている。
全体の指揮を中尉栗原安秀が執り、第1小隊を栗原自身が、第2小隊を少尉池田俊彦が、第3小隊を少尉林八郎が、機関銃小隊を曹長尾島健次が率いた[20]。
反乱部隊が総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた巡査部長村上嘉茂衛門(官邸内で殺害)、巡査土井清松(林八郎を取り押さえようとするが、殺害される)、巡査清水与四郎(庭)、巡査小館喜代松(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害される[21]。
警察官の応戦の隙に岡田は女中部屋の押入れに隠れることができた。その間に岡田の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた予備役陸軍大佐松尾伝蔵は反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。松尾はもともと岡田と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認。目的を果たしたと思いこんだ。
一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の憲兵曹長小坂慶助、憲兵軍曹青柳利之及び憲兵伍長小倉倉一らと奇策を練り、翌27日に事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れた。
高橋是清蔵相
大蔵大臣(元総理)高橋是清は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかる。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から海軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。
叛乱当日は中尉中橋基明及び少尉中島莞爾が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の大蔵大臣高橋是清の私邸を襲撃した。警備の巡査玉置英夫が奮戦するが重傷を負う。反乱部隊は蔵相の殺害に成功した。
高橋是清は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られる。27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。
斎藤實内大臣
内大臣(前総理・子爵・予備役海軍大将)斎藤實は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。
襲撃部隊は、中尉坂井直、少尉高橋太郎、少尉麦屋清済、少尉安田優が率いる。東京府東京市四谷区仲町3丁目(現:東京都新宿区)の内大臣斎藤実の私邸が襲撃される。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を制圧して、特に抵抗もなく内大臣の殺害に成功した。斎藤の体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、彼の体には摘出不可能な弾丸がなお多く存在していた。
目の前での殺人に妻春子は「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴もうとした。その結果腕に貫通銃創を負う。春子はひるまず、なお斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさったという。春子の傷口はすぐに手当がなされたものの化膿等により、その後一週間以上高熱が下がらなかった。春子は1971年(満98歳)まで生存したが、晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。この事件発生当時に着用していた斎藤実および春子の衣服、斎藤の体内に撃ち込まれた弾丸数発が奥州市水沢の斎藤実記念館に現物展示されている。
事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より「誄」(るい:お悔やみの言葉の意)を賜った。
鈴木貫太郎侍従長
侍従長(予備役海軍大将)鈴木貫太郎は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。
叛乱当日は、大尉安藤輝三が襲撃部隊を指揮し、東京市麹町区三番町(現:東京都千代田区)の侍従長公邸に乱入した。鈴木は複数の銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。
安藤は、以前に侍従長鈴木を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。そのとき鈴木は自らの歴史観や国家観などを安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。
その後、太平洋戦争末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。
渡辺錠太郎教育総監
陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎は真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これをきいた青年将校らは大いに怒り、襲撃を受けることになる。
斎藤内大臣私邸襲撃後の少尉高橋及び少尉安田が襲撃を指揮する。時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の教育総監渡辺錠太郎の私邸が襲撃される。その際、牛込憲兵分隊から派遣されて警護に当たっていた憲兵伍長及び憲兵上等兵並びに渡辺大将は、反乱部隊に拳銃で応戦するが殺害される。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が暗殺されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。
渡辺が殺された重臣と同様、青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことは、彼の身辺に「敵側」への内通者がいた可能性を想像させる。死の直前、殺されるであろう事を感じた渡辺錠太郎は傍にいた次女渡辺和子を近くの物陰に隠し、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された彼女の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。
渡辺の死後、教育総監部本部長の陸軍中将中村孝太郎が28日付で教育総監代理に就任した。事件後、渡辺は位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日大綬章が追贈された。
牧野伸顕
伯爵牧野伸顕は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。
河野寿航空兵大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野大尉以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求され、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、襲撃部隊の大尉河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させた。襲撃部隊によって皆川巡査は殺害されたが、これによって牧野は襲撃を受けずにすんだ。
脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。この際、旅館の主人・岩本亀三と牧野の使用人で看護婦の森鈴江が銃撃を受けて負傷している。
なお吉田茂の娘で牧野の孫にあたる麻生和子は、この日牧野をたずねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。
警視庁
当時、不穏な世情に対応するため警視庁は特別警備隊(現在の機動隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとっては脅威とされた。戸川猪佐武は、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斉藤内大臣にそれを知らせたが特に問題にされなかったという。26日早朝、大尉野中四郎指揮の約500人の襲撃部隊が警視庁を襲撃、午前5時、襲撃部隊はその圧倒的な兵力及び重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧、「警察権の発動の停止」を宣言した。[22]
警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣・警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。
後藤文夫内相
警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は治安維持を担当する後藤文夫の内務大臣邸も襲撃し、占拠した。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉が襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。
霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠
更に、反乱部隊は陸軍省及び参謀本部、東京朝日新聞(朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。
鎮圧へ
26日
事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。
午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。 本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した[23]。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。
中島侍従武官が甘露寺受長侍従に連絡して、昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え、執務室に向かった。甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた[24]。また半藤一利によれば天皇はこの第一報のときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。
襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長[25]は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。こうして宮中グループの支持を最初から受けることができなかったことも青年将校グループのミスであった。
午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。また同時刻、石原莞爾が陸軍省に到着、青年将校たちに取り囲まれて「今日はお帰りください」と迫られたが、石原は「何が維新だ、何も知らない下士官を巻き込んで、維新がやりたかったら自分たちだけでやれ!」と一喝され、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。石原は皇道派でも統制派でもないので、青年将校たちはどうすべきか悩み、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはただちにやめろ、やめないと軍旗をもって討伐するぞ」と再び一喝した。石原の態度があまりに尊大だったため、石原を殺害しようとする将校はいなかった。
午前8時過ぎ、真崎甚三郎[26]、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される[27]。真崎と山下は陸相官邸[28]を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた[13]。
真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。参内後、伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」[29][30]せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく問題にしていないことがあらためて明瞭になった。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。
杉山元陸軍参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。
午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。
正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された[31]。
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ
この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した[13]。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。
26日午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が
諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった[32]。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。
午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした[33]。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた[34]。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。
午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている[13]。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった[35]。
夜、臨時の陸軍省・参謀本部がおかれた憲兵本部で、橋本欣五郎大佐が「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた[18]。
なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。
27日
午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた[18]。
午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた[36]石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。
「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。
本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』[37]と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン』と強い意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を繰り返した。
午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された[38]。
奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。
午後2時、陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」[39]という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった[40]。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った[35]。
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。
秩父宮が弘前より上京(午後5時上野着)。
午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。
夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」と言った[41]。
28日
午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた[18]。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。
朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した[18]。
正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』と激怒し拒絶した[42]。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。
自決と帰営の決定事項が料亭行楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤、安藤隊は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。
午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)[18]。
また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。
29日
29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラ[43]を飛行機[44]で散布した(冒頭写真)。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告[45]が放送され[46]、また「勅命下る 軍旗に手向かふな」(原文は全て繋がっている)と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した[47]。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが[48]、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。
終焉
3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。
3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。
憲兵隊の動き
憲兵隊は、反乱部隊を制圧できるほどの装備・兵力を有していなかったので事件後は表立って決起将校の逮捕は出来ずにいたが、事件を通じて反乱部隊に与せず職務に忠実であった。
海軍の動き
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将・海軍軍政の大物であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦『長門』以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。
この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分に、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。
これらのことから、もし陸軍のクーデターが成功したとしても、海軍との深刻な対立の段階を迎えたことは必然である。この点も青年将校たちの計画には大きな隙があったというべきであろう。
事件後の処理
政府・宮中
事件の収拾後、岡田内閣は総辞職し、元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。しかし組閣大命が下った近衛文麿は西園寺と政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。一木枢密院議長が広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。しかし陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛けた。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。
反乱軍将校の免官等
2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となる。3月2日に山本も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階[49]の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。
殉職・負傷者
事件にあたって5名の警察官が殉職し、1名が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。
(赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われた石川光陽とは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった。)
- 清水与四郎
- 巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。死亡。
- 小館喜代松
- 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
- 皆川義孝
- 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。
- 玉置英夫
- 巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。
また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。
皇道派陸軍幹部
事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。
やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長[50]に転出させられ、以後昭和15年に航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。
事件に関わった下士官兵
以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。
なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(落語家。後の人間国宝・5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後の埼玉県知事、社会党衆議院議員)がいる。また、歩兵第1連隊には後に監督として「ゴジラ」や「モスラ」といった東宝特撮映画を撮ることになる本多猪四郎がいた。
反乱軍を出した部隊
反乱軍を出した各部隊等では、指揮官の交代等が行われた。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
- 東京警備司令部
- 司令官は、1936年(昭和11年)4月2日に、香椎浩平中将から岩越恒一中将へ交代。香椎浩平中将は、待命となり、同年7月10日に予備役に編入される。
- 近衛師団
- 師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、橋本虎之助中将から香月清司中将へ交代。橋本中将は同年、予備役編入。
- 近衛歩兵第3連隊
- 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、円山光蔵大佐から井上政吉大佐へ交代。
- 第1師団
- 師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、堀丈夫中将から河村恭輔中将へ交代。堀中将は、同日3月23日、同年7月6日に予備役編入。
- 歩兵第1連隊
- 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、小藤恵大佐から牛島満大佐へ交代。
- 歩兵第3連隊
- 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、渋谷三郎大佐から湯浅政雄大佐へ交代。
捜査・公判
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。
この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。
2月28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。[18]
当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。
第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 首魁ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。
そして、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。
民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した[35]。
軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである[51]。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」と反論した[52]。また田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている[53]。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した[54]。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている[54]。
匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」と話したという[55]。ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる[53]。
公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988年9月になって判明した[56]。1993年に研究目的で一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し(撮影・複写が禁止されているため)、1998年に出版した[57]。
判決
自決
自決等
階級 | 氏名 | 所属部隊 | 年齢 | 陸士期 |
---|---|---|---|---|
歩兵大尉 | 野中四郎 | 歩兵第3連隊第7中隊長 | 32歳 | 36期 |
航空兵大尉 | 河野寿 | 所沢陸軍飛行学校操縦科学生 | 28歳 | 40期 |
階級・所属部隊・年齢等は事件当日のもの。階級名の「陸軍」は省略した。罪名中の「群集指揮等」とは「謀議参与又は群集指揮等」のこと。以下各表について同じ。
第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)
刑 | 罪名 | 階級 | 氏名 | 所属部隊 | 陸士期 |
---|---|---|---|---|---|
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 歩兵大尉 | 香田清貞 | 第1旅団副官 | 37期 |
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 歩兵大尉 | 安藤輝三 | 歩兵第3連隊第6中隊長 | 38期 |
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 歩兵中尉 | 栗原安秀 | 歩兵第1連隊 | 41期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵中尉 | 竹嶌継夫 | 豊橋陸軍教導学校 | 40期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵中尉 | 対馬勝雄 | 豊橋陸軍教導学校 | 41期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵中尉 | 中橋基明 | 近衛歩兵第3連隊 | 41期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵中尉 | 丹生誠忠 | 歩兵第1連隊 | 41期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵中尉 | 坂井直 | 歩兵第3連隊 | 44期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 砲兵中尉 | 田中勝 | 野戦重砲兵第7連隊 | 45期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 工兵少尉 | 中島莞爾 | 鉄道第2連隊 | 46期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 砲兵少尉 | 安田優 | 陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附) | 46期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 高橋太郎 | 歩兵第3連隊 | 46期 |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 林八郎 | 歩兵第1連隊 | 47期 |
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 元歩兵大尉 | 村中孝次 | 37期 | |
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 元一等主計 | 磯部浅一 | 38期 | |
死刑 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 元士官候補生 | 渋川善助 | 39期 | |
無期禁錮 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 麦屋清済 | 歩兵第3連隊 | 幹候 |
無期禁錮 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 常盤稔 | 歩兵第3連隊 | 47期 |
無期禁錮 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 鈴木金次郎 | 歩兵第3連隊 | 47期 |
無期禁錮 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 清原康平 | 歩兵第3連隊 | 47期 |
無期禁錮 | 叛乱罪(群衆指揮等) | 歩兵少尉 | 池田俊彦 | 歩兵第1連隊 | 47期 |
禁錮4年 | 歩兵少尉 | 今泉義道 | 近衛歩兵第3連隊 | 47期 |
田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した[1]。
7月12日、磯部浅一・村中孝次を除く15名の刑が執行された。
第2次処断(7月29日判決言渡)
刑 | 罪名 | 階級 | 氏名 | 所属部隊 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|
無期禁錮 | 叛乱者を利す | 歩兵大尉 | 山口一太郎 | 歩兵第1連隊中隊長 | |
禁錮4年 | 叛乱者を利す | 歩兵中尉 | 柳下良二 | 歩兵第3連隊 | |
禁錮6年 | 司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る | 歩兵中尉 | 新井勲 | 歩兵第3連隊 | |
禁錮6年 | 叛乱予備 | 一等主計 | 鈴木五郎 | 歩兵第6連隊 | |
禁錮4年 | 叛乱予備 | 歩兵中尉 | 井上辰雄 | 豊橋陸軍教導学校 | |
禁錮4年 | 叛乱予備 | 歩兵中尉 | 塩田淑夫 | 歩兵第8連隊 |
背後関係処断(昭和12年1月18日判決言渡)
刑 | 罪名 | 階級 | 氏名 | 所属部隊 | 陸士期 |
---|---|---|---|---|---|
禁錮3年 | 歩兵中佐 | 満井佐吉 | 26期 | ||
禁錮5年 | 歩兵大尉 | 菅波三郎 | 37期 | ||
禁錮4年 | 歩兵大尉 | 大蔵栄一 | 羅南歩兵第73連隊 | 37期 | |
禁錮4年 | 歩兵大尉 | 末松太平 | 39期 | ||
禁錮3年 | 歩兵中尉 | 志村睦城 | |||
禁錮1年6月 | 歩兵中尉 | 志岐孝人 | |||
禁錮5年 | 予備役少将 | 斎藤瀏 | 12期 | ||
禁錮2年 | 越村捨次郎 | ||||
禁錮3年 | 福井幸 | ||||
禁錮3年 | 町田専蔵 | ||||
禁錮1年6月 | 宮本正之 | ||||
禁錮2年(執行猶予4年) | 加藤春海 | ||||
禁錮1年6月(執行猶予4年) | 佐藤正三 | ||||
禁錮1年6月(執行猶予4年) | 宮本誠三 | ||||
禁錮1年6月(執行猶予4年) | 杉田省吾 |
背後関係処断(昭和12年8月14日判決言渡)
刑 | 罪名 | 階級 | 氏名 | 所属部隊 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 北輝次郎(一輝) | 52歳 | ||
死刑 | 叛乱罪(首魁) | 元騎兵少尉 | 西田税 | 34歳 | |
無期禁錮 | 叛乱罪(謀議参与) | 亀川哲也 | |||
禁錮3年 | 叛乱罪(諸般の職務に従事) | 中橋照夫 |
1937年(昭和12年)8月19日に、北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次の刑が執行された。
真崎の事件関与
事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936(昭和11)年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。つまり事実上の解雇である。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという[13]。
一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢聡明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた、と証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである[35]。
しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ[58]、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている[13]。このことから真崎の関与を指摘する主張もある。
一方、当時真崎の護衛であった金子桂憲兵伍長の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている[35]。
また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している[59]。
「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。」
と主張している[60]。
磯部は、5月5日の第5回公判で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている[61]。
『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、1989年2月22日、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った。[59]
青年将校は相沢裁判を通じて、相沢三郎を救うことに全力を挙げていたのに、突然それを苦境に陥れるような方針に転じたのは、2・26事件により相沢を救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられること、西園寺公が事件を予知して静岡に避けていたこと、2・26事件は持永浅治少将の言によれば、思想、計画ともに十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎は述べている。また、小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、真崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川が磯村年裁判長に対して、真崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、磯村は大いに怒り裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになったことも述べている[62]。
1936年12月21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
刑 | 罪名 | 階級 | 氏名 | 所属部隊 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|
無罪 | 叛乱者を利す | 大将 | 真崎甚三郎 | 軍事参議官 |
その他判決
刑 | 罪名 | 階級 | 氏名 | 所属部隊 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|
死刑 | 水上源一 | 27歳 | |||
禁錮15年 | 予備役歩兵曹長 | 中島清治 | 28歳 | ||
禁錮15年 | 予備役歩兵曹長 | 宮田晃 | 27歳 | ||
禁錮15年 | 軍曹 | 宇治野時参 | 歩兵第1連隊 | 24歳 | |
禁錮15年 | 予備役歩兵上等兵 | 黒田昶 | 25歳 | ||
禁錮15年 | 一等兵 | 黒沢鶴一 | 歩兵第1連隊 | 21歳 | |
禁錮15年 | 綿引正三 | 22歳 | |||
禁錮10年 | 予備役歩兵少尉 | 山本又 | 42歳 |
刑の執行
二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。昭和11年2月26日、同所にあった皇道派将校により起こった二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。
なお、昭和11年7月12日の刑の執行では15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された[63]。当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に聞こえないようにする為だったという。
事件当時の政界・軍部の首脳等
皇族
- 秩父宮雍仁親王(大勲位)
- 高松宮宣仁親王(大勲位海軍中佐)
- 三笠宮崇仁親王(大勲位)
- 閑院宮載仁親王:参謀総長(元帥陸軍大将)
- 伏見宮博恭王:軍令部総長(大勲位)
- 山階宮武彦王:
- 賀陽宮恒憲王:騎兵第10連隊長(陸軍騎兵中佐)
- 久邇宮朝融王:軍令部員(大勲位海軍少佐)
- 多嘉王:(大勲位)
- 梨本宮守正王:(元帥陸軍大将)
- 朝香宮鳩彦王:軍事参議官(陸軍中将)
- 孚彦王:
- 東久邇宮稔彦王:
- 北白川宮永久王:(勲一等陸軍砲兵中尉)
- 竹田宮恒徳王:
- 閑院宮春仁王:陸軍騎兵学校教官(大勲位陸軍騎兵大尉)
内閣(閣僚)
- 内閣総理大臣:岡田啓介
- 外務大臣:広田弘毅
- 内務大臣:後藤文夫
- 大蔵大臣:高橋是清
- 陸軍大臣:川島義之
- 海軍大臣:大角岑生
- 司法大臣:小原直
- 文部大臣:川崎卓吉
- 農林大臣:山崎達之輔
- 商工大臣:町田忠治
- 逓信大臣:望月圭介
- 鉄道大臣:内田信也
- 拓務大臣:児玉秀雄(伯爵)
内閣(その他)
内務省
陸軍
参謀本部
陸軍省本省
- 陸軍大臣:川島義之
- 陸軍次官:古荘幹郎
- 軍務局長:今井清
- 軍事課長:村上啓作(陸軍大佐)
- 人事局長:後宮淳
- 兵器局長:多田礼吉
- 整備局長:山脇正隆
- 経理局長:平手勘次郎(陸軍主計総監)
- 医務局長
- 法務局長:大山文雄
陸軍の官衙・部隊等
- 東京警備司令官兼東部防衛司令官:香椎浩平(陸軍中将)
- 東京警備参謀長兼東部防衛参謀長:安井藤治
- 近衛師団長:橋本虎之助(陸軍中将)
- 第1師団長:堀丈夫(陸軍中将)
- 歩兵第1連隊長:小藤恵(陸軍大佐)
- 歩兵第3連隊長:渋谷三郎(陸軍大佐)
- 憲兵司令官:岩佐禄郎
海軍
- 軍令部総長:伏見宮博恭王(元帥海軍大将)
- 海軍大臣:大角岑生(海軍大将)
- 海軍次官:長谷川清(勲一等海軍中将)
- 軍務局長:豊田副武(海軍中将)
- 軍需局長:上田宗重(海軍機関中将)
- 人事局長:小林宗之助
- 教育局長:住山徳太郎
- 経理局長:村上春一
- 軍医局長:高杉新一郎(海軍軍医中将)
- 法務局長:山田三郎(海軍法務官)
- 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官:高橋三吉(海軍中将)
- 横須賀鎮守府司令長官:米内光政(海軍中将)
- 横須賀鎮守府参謀長:井上成美(海軍少将)
政界
その他
- 元老:西園寺公望(公爵)
- 枢密院議長:一木喜徳郎(勲一等男爵)
- 内大臣:斎藤實(子爵海軍大将)
- 宮内大臣:湯浅倉平
- 侍従長:鈴木貫太郎(勲一等海軍大将)
- 侍従次長:広幡忠隆
- 侍従武官長:本庄繁(勲一等男爵陸軍大将)
- 検事総長:光行次郎
その他
昭和11年2月29日朝、近衛輜重兵大隊の青島謙吉中尉が自宅で切腹した。妻のきみ子も喉を突き、一緒に自刃。
2月29日朝、歩兵第一連隊岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自決。
3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。
3月16日、電信第一連隊の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で騎銃で胸部を撃った。
10月18日、三月事件や十月事件にも関係した田中彌大尉が世田谷の自宅で拳銃自殺した。遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。田中は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた[64]。田中は十月事件以来橋本欣五郎の腹心の一人であった。2・26事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた[65]。
歩兵第61連隊の中隊長であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。その部下の小隊長をしていた後宮二郎少尉が、父である陸軍省人事局長後宮淳少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した[66]。
貴族院で「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった[41]。
事件当時関東軍憲兵司令官だった東条英機は、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した[67]。
もともと明治憲法下では天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げている。
それでもこの事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件から41年後の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていたという[68]。
関連作品
- ドキュメンタリー
- 小説
- 憂國、英霊の聲(三島由紀夫著)-他に戯曲「十日の菊」
- 叛乱(立野信之著)
- 貴族の階段(武田泰淳著)
- ねじの回転(恩田陸著)
- 蒲生邸事件(宮部みゆき著)
- 邪神たちの2・26(田中文雄著)
- 鷺と雪(北村薫著)
- 映画
- 1954年:「叛乱」(監督:佐分利信)
- 1958年:「重臣と青年将校 陸海軍流血史」(監督:土居通芳)
- 別題名、「陸海軍流血史 五・一五から二・二六へ」。
- 1962年:「二・二六事件 脱出」(監督:小林恒夫)
- 1966年:「憂国」(監督:三島由紀夫)
- 1971年:「戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河」(監督:山本薩夫)
- 1978年:「戒厳令」(監督:吉田喜重)
- 1980年:「動乱」(監督:森谷司郎)
- 1989年:「226」(監督:五社英雄)
- 1990年:「斬殺せよ 切なきもの、それは愛」(監督:須藤久)
- 2003年:「スパイ・ゾルゲ」(監督:篠田正浩)
- コミックス
- 楽曲
- 「日本政変・雪ノサムライ」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- アニメ
- 「閃光のナイトレイド」(TV未放送分)
脚注
- ^ a b c d 須山幸雄『二・二六青春群像』
- ^ 。菅波三郎が満洲にいるとき、辻政信や武藤章が訪ねてきて、永田鉄山の傘下に入れば優遇すると言ってきた。断ると陰に陽に圧迫が加わってきた(須山幸雄『二・二六青春群像』)。
- ^ 2人を行政処分によって、免官とした。陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。裁判によるべきこととなっていた。2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、と荒木貞夫は述べている(荒木貞夫『荒木貞夫風雲三十年』)
- ^ a b 大谷敬二郎『昭和憲兵史』みすず書房、1979年、pp.211-212. 当時の総理大臣の年俸が8,000円であったことから、年額2万円は相当な額であると大谷は書いている。
- ^ 福本亀治『兵に告ぐ』
- ^ 事件後岳父の本庄大将に宛てて「三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。計画者は、武藤章、片倉衷、それから内務省警保局の菅太郎であります」という文章を書き送った(福本亀治『兵に告ぐ』)
- ^ a b 須崎慎一『二・二六事件 ― 青年将校の意識と心理』
- ^ 河野司編『二・二六事件より』
- ^ 教育総監更迭
- ^ a b 筒井清忠『昭和期日本の構造』講談社学術文庫 1996年
- ^ 1935年12月ごろ、ある青年将校は山口大尉に「我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。我々は今戦争しちゃ駄目だというんです」と述べている(山口一太郎『時論』1949年7月号「嵐はかくして起きた--二・二六事件の真相」)。
- ^ 幕僚らの中には、戦争こそ勲章や立身出世を勝ち得る大切な道具と考える者がおり、殊に満洲事変で一部の者が旭日章や金鵄勲章を釣り出してから、彼らの眼玉の光は異常に輝き出した(山口一太郎『時論』1949年8月号「嵐のあとさき--2.26事件の起きるまで」)。
- ^ a b c d e f g 児島襄 『天皇III』
- ^ 新井勲『日本を震撼させた四日間』
- ^ 児島襄の「天皇III」(文春文庫、新版カゼット出版 2007年)では、野中の遺書をもとに村中孝次が草案を書き上げ、西田税が村中と話し合って3分の2ほどに縮小修正したとなっている。
- ^ 山下奉文少将は決起趣意書の草案を見ており、筆まで加えたと栗原安秀は述べている
- ^ 真崎教育総監罷免事件
- ^ a b c d e f g 北博昭『二・二六事件全検証』(朝日新聞社 [朝日選書]、2003年)
- ^ 首謀者たちはかなり以前から、実弾演習の際に薬莢の員数確認をごまかしたりして実弾を隠匿、決起に備えていたが、それだけで足りるはずもなく、歩3は首謀者である安藤が週番司令であったのでその命令によって武器弾薬を調達し、歩1の場合は山口の黙認のもとで栗原らが弾薬庫警備の下士官らを脅し、軟禁して武器弾薬を用意している。
- ^ 岡田首相と姻戚関係にある丹生中尉が襲撃前に耳打ちした事実がある(福本亀治『兵に告ぐ』)。
- ^ 首相官邸と警視庁の間には非常ベル回線が設けられており、警備の警察官により襲撃の報は警視庁に直ちに伝えられた。警視庁は特別警備隊1個小隊(一説には1個中隊)を緊急出動させたものの、官邸近くで反乱部隊に阻止されて武装解除されてしまった。また、所轄の麹町警察署も官邸の異常を察知し、複数の警察官が個別に官邸に向かったが、いずれも次々に反乱部隊の阻止線で拘束され、官邸内に抑留されてしまった。
- ^ 松本清張によれば、特別警備隊の存在は決起部隊にとって問題にはならぬ存在であり、警視庁に大部隊をあてた真意は宮城の占拠にあったのではないかとしている(『昭和史発掘』)。同書によればその根拠として、#帝都に異常事態が発生した場合に宮城守備の増援につく当番部隊が、決起の日にあわせて中橋の部隊であったこと。(異常事態の発生など滅多にあることでは無いので、増援当番部隊の決定は連隊内でやりくりできた)#高橋是清を襲撃した後ただちに宮城内に入った中橋が手旗信号をもって警視庁の部隊と連絡を取ろうとして取り押さえられた事実(その後、中橋は部下を残して単独で脱出)をあげている。時期尚早、実現困難として最後まで決起に慎重であった安藤が決断したのは、歩兵第1連帯、歩兵第3連帯の週番司令が山口と安藤自ら、宮城警備の当番が中橋で、皇居坂下門の目と鼻の先の警視庁に、自分が参加することによって大部隊を配置する計画を立てられたからではないか、と述べている。
- ^ 走り書きには「今出たから、よろしく頼む」とだけ書いてあった(芦沢紀之『暁の戒厳令』)
- ^ 甘露寺受長『背広の天皇』1957年
- ^ 当時学習院高等科の二年生だった黒木従達(後に東宮侍従長)は、二・二六事件が起こる前夜、級友の木戸孝澄(木戸幸一の長男)から「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」と電話を受けたという(大隈秀夫『昭和は終った』)。
- ^ 真崎大将の護衛憲兵として真崎の身辺にあった渋谷憲兵分隊の金子憲兵伍長の報告書によると、午前7時15分に陸相官邸到着、午前8時20分、伏見軍令部総長宮邸に到着。また午前8時10分陸相官邸表玄関を出た際、磯部が片倉に拳銃を発砲し、拳銃を落とした後軍刀で殺害しようとしていたので、真崎大将と古荘次官が「同志討ちはやめ」と発言、制止した(田崎末松『評伝 真崎甚三郎』)。
- ^ 香椎浩平手記。『秘録二・二六事件』 永田書房, 1980年, p15.
- ^ 当時の麹町区永田町一ノ一。叛乱軍が占拠していた。
- ^ 本庄繁 『本庄日記』 2005年, 原書房, ISBN 4-562-03949-3, p.272
- ^ 児島襄「天皇III」では天皇は「事件を鎮定せよ」と陸相に述べた後に「速やかに暴徒を鎮圧せよ」せよと再度声を掛けている。2つめの発言では部隊を「暴徒」と明確にしている。
- ^ 軍事参議官にはこのような告示を出す権限がなかったので川島陸軍大臣の承諾を得て告示として出された。なお、原文には閣僚と協議した旨の記述があるが、実際には協議されていない。
- ^ 安倍源基 『昭和動乱の真相』 2006年, 中公文庫, ISBN 4-12-204790-0, p.231
- ^ この際、川島陸相の辞表の内容が他の大臣と同じであったことに天皇は不快感を示している。
- ^ 安倍、前掲書。 p.225
- ^ a b c d e 田崎末松『評伝 真崎甚三郎』(1977年)芙蓉書房 ISBN 978-4829502235
- ^ 石原莞爾の武力討伐の決意は28日午前10時ごろという説(北博昭『二・二六事件全検証』)、27日帝国ホテルの会談直後とする説がある(須崎慎一『This is 読売』1993年12月号)
- ^ 前掲 『本庄日記』、p.275
- ^ 大谷、前掲書。pp.180-187
- ^ 北は第5回公判で、「被告は真崎に一任して『法案』の実現を企図したのではないか」との法務官の追及に対し、「ただ時局収拾に関し一般にも青年将校にも信頼の厚い同大将が適当と感じたるのみであります」と答えた。
- ^ 一部青年将校は台湾軍司令官として任地にある柳川中将を内閣首班として要求していたという
- ^ a b 真崎勝次『文芸春秋』1954年10月号「罠にかかった真崎甚三郎」
- ^ 前掲 『本庄日記』、p.278
- ^ 午前3時頃大久保弘一少佐が勧告ビラの撒布を思い付き、午前中いっぱい時間の猶予をもらうことを8人の軍事参事官にお願いし、寺内大将が戒厳司令官に交渉したという(大久保弘一(元陸軍少佐・陸軍省新聞班員)『兵に告ぐ!』日本週報第434号 昭和33年2月25日発行)
- ^ 近衛師団所属の飛行機3機を戒厳司令部直轄とした上で午前7時55分に羽田から発進させた。上空からビラを撒くのみならず、威嚇飛行も行わせたという。
- ^ NHK放送博物館、東京都江戸東京博物館で聴くことが出来る。ビラとは若干内容が違い「帰順すれば罪は赦される」の文が入っており、事件後陸軍刑法違反ではないかと問題とされた。
- ^ 午前8時30分頃、反乱軍の兵隊の家族との昨夜からの騒動の情報が戒厳司令部にもたらされ、根本博大佐が大久保弘一少佐にラジオ放送をするよう命じ、大久保は一気呵成に書きなぐった。このラジオ放送は承認を得ずに実施され、誰がいつの間にやったのか全くわからないで、一時は問題になり、越権行為だという声もあったが、この放送に対する感謝感激の手紙が全国から1600通戒厳司令官に届いたという(大久保弘一(元陸軍少佐・陸軍省新聞班員)『兵に告ぐ!』日本週報第434号 昭和33年2月25日発行)。
- ^ 部下がその瞬間制止したので手許が狂って失敗した。
- ^ 野中大尉は自殺しないように一同を説得している途中、山下、長屋、井出の三大佐に外へ連れ出され、それきり帰ってこなかった。自殺は絶対不可で生きながらえて法廷で陳述しなければならない、と最も強硬に主張していた野中大尉が自殺するはずがない、あれは他殺だというのが、蹶起した同志の解釈である。
- ^ 大尉は正七位、中尉は従七位、少尉は正八位であった。
- ^ 当時歩兵第40旅団は朝鮮の龍山に司令部があった。山下自身は事件後には軍から身を引く覚悟も固めていたが、川島陸軍大臣の慰留によって40旅団長への転任に落ち着いた。
- ^ 中田はNHK特集「二・二六事件 消された真実~陸軍軍法会議秘録」でこれを取り上げ、澤地は『雪は汚れていた』として刊行した。
- ^ 池田俊彦「NHK特集『消された真実』に反論する」『文藝春秋』1988年5月号
- ^ a b 田々宮英太郎『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 雄山閣出版 1993年
- ^ a b 北博昭「東京陸軍軍法会議検察官匂坂春平の虚実」『日本歴史』NO.516、日本歴史学会、1991年。北の結論について防衛省防衛研究所の山本政雄は「説得力がある」と述べている(「旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立 -五・一五及び二・二六事件裁判に見る同法の本質に関する一考察-」 『戦史研究年報 第11号』防衛庁防衛研究所、2008年[1] (PDF) )
- ^ 河野司『ある遺族の二・二六事件』河出書房新社 1982年
- ^ 伊藤隆・北博昭『二・二六事件 判決と証拠』朝日新聞社、1995年
- ^ 池田俊彦『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』原書房、1998年。ISBN 4562030690
- ^ 磯部浅一 『行動記』、河野 司 編 『二・二六事件 ― 獄中手記・遺書』 河出書房新社, 1972年 所収
- ^ a b 山口富永『二・二六事件の偽史を撃つ』(1990年)国民新聞社
- ^ 松本清張 (1978). 昭和史発掘(11). 文藝春秋
- ^ 伊藤隆、北博昭『月刊Asahi』1993年9月号「真崎大将は黒幕ではない」
- ^ 伊藤隆「真崎大将遺書」、広瀬順晧校訂「現世相に関する特別備忘録」『This is 読売』1992年3月号
- ^ 2・26事件介錯人の告白
- ^ 伊藤隆「真崎大将遺書」『This is 読売』1992年3月号
- ^ 岩淵辰雄「軍閥の系譜 8」中央公論1946年9月
- ^ 大久保弘一(元陸軍少佐・陸軍省新聞班員)『兵に告ぐ!』日本週報第434号 昭和33年2月25日発行
- ^ 池田純久『日本の曲り角』
- ^ 『卜部亮吾侍従日記 第一巻』(朝日新聞社、2007年)p.202
参考文献
- ※二・二六事件裁判の正式判決書、校訂を加え、初公刊。
- 池田俊彦 編 『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』(原書房、1998年)ISBN 4562030690
- ※元被告の編者により、公判廷での被告23人への訊問及び被告陳述の全記録を収録。
- 伊藤隆ほか 『二・二六事件とは何だったのか』 (藤原書店, 2007年) ISBN 4894345552
- 北博昭 『二・二六事件全検証』(朝日新聞社:朝日選書、2003年) ISBN 4022598212
- ※「相沢事件判決書」の全文を附録として掲載〔p231~p271〕と、詳細な「おもな引用・参考文献」表を付載〔p221~p230〕。
- 磯直道 『二・二六事件 憲兵将校・磯高麿の戒厳令日誌』(朝日新聞出版、2004年)
- ※牛込憲兵隊分隊長の日誌と資料を息子が読み解く。
- 須崎慎一『二・二六事件 ― 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館、2003年) ISBN 4642079211
- 筒井清忠『昭和期日本の構造 ― 二・二六事件とその時代』(講談社学術文庫、1996年/ちくま学芸文庫 2006年) ISBN 4480090177
- 高橋正衛『昭和の軍閥』 (中公新書/講談社学術文庫 2003年)
- ※ 著者はみすず書房の編集者として『現代史資料』や編集、末松の著書を担当。
- 高橋正衛『二・二六事件 ―「昭和維新」の思想と行動』(中公新書、増補版1994年) ISBN 4121900766
- ※詳細な「参考文献」一覧表を付載〔p207~p210〕。
- 太平洋戦争研究会編 『「2.26事件」がよくわかる本』(PHP文庫 2008年) ISBN 4569669883
- 太平洋戦争研究会編 『2.26事件の衝撃』(PHP研究所 2010年)ISBN 456977640X
- 太平洋戦争研究会編 『図説2・26事件』 (河出書房新社[ふくろうの本]、2003年) ISBN 4309760260
- 平塚柾緒、太平洋戦争研究会編 『二・二六事件』 (河出文庫 2006年) ISBN 430940782X
- 池田俊彦『生きている二.二六』(文藝春秋 1977年/ちくま文庫 2009年)ISBN 4480425721
- 末松太平『私の昭和史』(みすず書房、1963年、新版1988年ほか)、両者は、参加将校による回顧録
- 末松太平『軍隊と戦後のなかで─「私の昭和史」拾遺』 (大和書房、1980年)
- 迫水久常『機関銃下の総理官邸 二・二六事件から終戦まで』(恒文社、初版1964年/ ちくま学芸文庫、2011年)、首相秘書官の回想録
- 岡田貞寛『父と私の二・二六事件 ― 昭和史最大のクーデターの真相』(光人社NF文庫、1998年)
- 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995年)
- 原秀男・澤地久枝・匂坂春平 編 『検察秘録 二・二六事件』(全4巻、角川書店、1989~1991年)
- NHK特集取材班『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」― 二・二六事件秘録』(日本放送出版協会、1980年)
- 中田整一『盗聴 ― 二・二六事件』(文藝春秋、2007年/文春文庫、2010年) ISBN 4167773430
- ※ 『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」 二・二六事件秘録』の改訂増補版
- 澤地久枝『雪はよごれていた ― 昭和史の謎二・二六事件最後の秘録』(日本放送出版協会、1988年)
- 工藤美代子『昭和維新の朝 ― 二・二六事件と軍師斎藤瀏』(日本経済新聞出版社 2008年)
- 前坂俊之『太平洋戦争と新聞』 (講談社学術文庫 2007年) ISBN 9784061598171
- 秦郁彦『昭和天皇五つの決断』(文春文庫、1994年)
- 秦郁彦『軍ファシズム運動史』(原書房、1980年増補版)
- 児島襄 『天皇 III』(文春文庫、新版ガゼット出版 2007年)
- 田崎末松『評伝 真崎甚三郎』(芙蓉書房、1977年)
- 「大日本帝国憲法下における反乱(二・二六事件)」宮崎繁樹(法律論叢第80巻 2008.2)[2] (PDF)
- 河野司 『ある遺族の二・二六事件』(河出書房新社、1982年)
- 田々宮英太郎 『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』(雄山閣出版、1993年)
- 田々宮英太郎 『二・二六叛乱』(雄山閣出版、1983年)
- 田々宮英太郎 『昭和維新 - 二・二六事件と真崎大將』(サイマル出版会、1969年)
- 濱田政彦 『神々の軍隊―三島由紀夫、あるいは国際金融資本の闇』(三五館、2000年)
関連項目
外部リンク
- 二・二六事件 / クリック 20世紀
- 国立国会図書館 憲政資料室 河野司収集文書 - 自決した河野寿大尉の兄が集めた関係資料