金毘羅権現

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金毘羅大権現(ギメ東洋美術館

金毘羅権現(こんぴらごんげん)は、琴平山(象頭山)の山岳信仰修験道が融合した神仏習合の神であり、本地仏は不動明王毘沙門天十一面観音など諸説ある。祭神は不詳であり、大物主(三輪大明神)、素戔嗚尊、金山彦などの説があったが現在は大物主としている。神仏習合では香川県琴平町の象頭山に鎮座する金毘羅大権現とされ、神仏分離廃仏毀釈が行われる以前は、讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の香川県琴平町の金刀比羅宮)を総本宮とする日本全国の金毘羅宮、金毘羅権現社で祀られていた。

由来[編集]

象頭山松尾寺[1]の縁起によれば、大宝年間に修験道役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。

クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲むを神格化した水神で、日本では型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。

崇徳天皇の合祀[編集]

長寛元年(1163年崇徳天皇が象頭山松尾寺金光院に参籠した[2]ことから、御霊信仰の影響で永万元年(1165年)から崇徳天皇も象頭山松尾寺金光院に合祀された[3]

天狗信仰[編集]

修験道が盛んになると金毘羅権現の眷属天狗とされた。『和漢三才図会』には「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記された。また、戦国時代末に金毘羅信仰を中興した象頭山松尾寺金光院第4代別当で修験者でもあった金剛坊宥盛は、死の直前に神体を守り抜くと誓って天狗になったとの伝説も生まれた。

江戸時代になると、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及した[4]。また、全国各地から讃岐国象頭山松尾寺を詣でる金毘羅参りの際には、天狗の面を背負う習俗も生まれた[5][6]

金毘羅参り[編集]

塩飽水軍は金毘羅権現を深く信仰し、全国の寄港地で金毘羅信仰を広めることに貢献した。

江戸時代後期には、象頭山松尾寺金光院に詣でる金毘羅参りが盛んとなった。これに伴って四国には、丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道、伊予土佐街道をはじめとする金毘羅街道が整備された。神仏分離以降は香川県琴平町の金刀比羅宮が全国に約600社あるの金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)の総本宮となっている。縁日は毎月10日である。

金毘羅講[編集]

江戸時代の庶民にとって金毘羅参りの旅費は経済的負担が大きかったので、金毘羅講という宗教的な互助組織()を結成して講金を積み立て、交代で選出された講員が積立金を使って讃岐国象頭山松尾寺に各金毘羅講の代表として参詣し、海上交通安全などを祈願して帰郷した。

こんぴら狗・流し樽[編集]

金毘羅講以外にも、こんぴら狗流し樽などの代参の習俗もあった。陸上では犬、水上では流し樽(舟)に賽銭を入れて金毘羅権現に祈願する木札や幟とともに放ち、誰か見ず知らずの者に代参を依頼するもので、これらをみつけて代参した者には依頼者と同様にご利益があると信じられた。

神仏分離・廃仏毀釈[編集]

明治元年(1868年)3月の神仏分離令によって象頭山松尾寺金光院は廃寺に追い込まれ[7]、当時の国家神道の琴平神社(同年7月に金刀比羅宮と改称)に強制的に改組されて、主祭神の名は大物主と定められた。また金刀比羅宮の相殿に崇徳天皇を祀っている。

全国の金毘羅宮・金毘羅権現社の多くは、大物主を主祭神とする神道金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社になっている。

金毘羅権現を祀る寺院[編集]

金毘羅権現は完全には消失しておらず、少数ではあるが廃仏毀釈を免れた真言宗寺院で祀られている。

金毘羅船々[編集]

金毘羅船々という名の金毘羅信仰に関する民謡が讃岐国(香川県)に伝わる。

真言[編集]

オン クビラヤ ソワカ

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]