エマニュエル・ジノビリ(Emanuel Ginobili)ことエマニュエル・ダヴィド・ジノビリ(Emanuel David Ginóbili、1977年7月28日 - )は、アルゼンチンのプロバスケットボール選手である。NBAのサンアントニオ・スパーズ所属。ブエノスアイレス州バイアブランカ出身。身長198cm、体重95kg、背番号は「20」。サウスポー。愛称は「マヌ」。ユーロリーグ優勝、オリンピック金メダル、NBAチャンピオンのすべてを成し遂げたのは、ビル・ブラッドリーとジノビリだけである。更に世界選手権でも銀メダル獲得しており、FIBAアメリカ選手権を加えれば実に4冠に輝いている。
生い立ちからプロデビューまで[編集]
ジノビリはバスケットボール一家としてアルゼンチンで育つ。彼の父親はバイアブランカのクラブでコーチをしており、兄弟はアルゼンチンやヨーロッパのクラブでプロ選手として活躍。彼自身も、アルゼンチンのプロリーグで活躍するようになる。
やがて、イタリアのセリエAに渡り1998年から2002年までプレーした。この間に1999年のNBAドラフトでサンアントニオ・スパーズから2巡目57位で指名[1]されている。しかしこの時点ではすぐに契約をせず、その後セリエAのヴィルトゥス・ボローニャで2年間プレーしている。2000-01シーズン、ボローニャにてセリエA優勝、さらにユーロリーグを制し、ジノビリはMVPを獲得。セリエAでも2シーズン連続でMVPを獲得している。
NBA[編集]
2002-03シーズン、スパーズでデビュー。レギュラーシーズンは、2002年の世界選手権で起こした右足首の捻挫の影響もあり先発は5試合にとどまったが、オールルーキー2ndチームに選出された。プレーオフでは一転、コンスタントな活躍を見せNBAファイナルに進出。ニュージャージー・ネッツを倒し、ルーキーイヤーにして早くもNBA優勝を経験した。
2003-04シーズンは、スパーズのスターターとして成長。しかしプレーオフでは、2回戦ロサンゼルス・レイカーズに敗れた。その後ジノビリはアテネオリンピックにアルゼンチン代表としてプレーし、悲願の金メダルを獲得した。
金メダルの勢いに乗ったまま2004-05シーズンに入る。ジノビリは自己最高の平均16得点を記録し、自身初のNBAオールスターに選出される。その後、スパーズはプレーオフに進出。スティーブ・ナッシュの活躍で一躍優勝候補に躍り出たフェニックス・サンズ、そして、イースタンカンファレンスを制し、2連覇に挑んだデトロイト・ピストンズを次々に破り、2年ぶりの王座奪還を果たす。NBAファイナルMVPには大黒柱のティム・ダンカンが選ばれたが、「ジノビリこそMVP」という専門家も多くいた。オリンピックMVPにNBAチャンピオンと、ジノビリのキャリアの中でも1番の輝きを放つシーズンになった。
2005-06シーズンは右足首打撲、足部挫傷、右足首捻挫と3度の右足に関わる怪我もあり、昨シーズンよりも数字を落とすが、オフに獲得したベテラン、マイケル・フィンリーやニック・ヴァン・エクセルのプレーや、急成長を遂げたトニー・パーカーの活躍でバックコート陣の層は大幅に厚みを増し、スパーズはチーム記録となる63勝を挙げた。プレーオフでは2回戦、ダラス・マーベリックスに敗れている。
2006-07シーズン、ジノビリはシックスマンへと転向。スターター級のジノビリがベンチに控えることは相手チームにとっては脅威となり、本来個人プレイが得意なジノビリに「行き詰った試合の流れを変える」というシックスマンの仕事はうってつけであった。前シーズンの不調から復活したジノビリはこのシーズンのシックスマン賞の投票で2位となった。スパーズは彼の活躍もあって4回目のファイナルを制覇。自身は、3つ目のチャンピオンリングを手に入れた。
2007-08シーズンはベンチからの出場ながら、1試合平均平均で19.5得点はティム・ダンカン超えのチームハイであった。その活躍が評価されシックスマン賞を受賞[2]。出場時間も先発メンバーと同じ様に長く、特に重要な局面ではスタメンを差し置いてエースとして活躍した。NBA3rdチームに選ばれた[3]。プレーオフ一回戦フェニックス・サンズ戦で左足首負傷。カンファレンス決勝のロサンゼルス・レイカーズ戦ではその怪我の影響で力が出し切れず敗因となった。
2008-09シーズンもシックスマンとしてプレーしスターターと同格の成績を残したが、昨シーズンプレーオフで負傷し、北京オリンピックで、さらに悪化した左足首の関節鏡視下手術を9月に受けたことと、右腓骨に疲労反応が出たことの影響で出場試合は自己最低の44試合に終わった。 プレーオフは、右の腓骨の疲労骨折で欠場し、チームが1回戦敗退を喫したことで、ジノビリの重要性をより大きく認知される結果となった。
2009-10シーズンは、トニー・パーカーの怪我により、スタート出場が僅かながら増え、平均アシストがキャリア最高の4.9となったが、平均得点は平凡な数字に終わった。プレーオフでは1回戦のダラス・マーベリックス戦で鼻骨を骨折しながらもプレーを続け、[4]スパーズを2回戦へと進めた。2回戦のフェニックス・サンズ戦も、出場を続けたが、チームがかみ合わず、スイープされる屈辱を味わった。
2010-11シーズンでは、ティム・ダンカンの体力的衰えが見え始めたことと、リチャード・ジェファーソンの活躍範囲が限定されていたことで、チームはジノビリ、パーカーを中心に据える試合展開へと変更し、ほとんどの試合で先発出場した。また、自身2度目のNBAオールスターに出場し、7得点5アシスト3スチール3リバウンドと活躍した[5]。前年に続き平均アシストがキャリア最高の4.9となり、2000年代最高の勝率を記録し第1シードでプレイオフに進出した。しかし、ジノビリは、右肘を負傷しプレイオフ初戦を欠場し、次戦からも万全な状態でプレーすることができず、そのためスパーズは1回戦で、第8シードのメンフィス・グリズリーズにアップセットされるという屈辱を味わった。
2011-12シーズンでは、開幕5試合目のミネソタ・ティンバーウルブズ戦で、左手小指の中手骨を骨折し、回復を早めるため手術を受けたが、約5週間、23試合を休場した。また復帰後、尻の屈筋を痛め、休みがちな時期が続き、安定したプレーとなったのはチームが38試合を消化した辺りからであった。
アルゼンチン代表[編集]
ジノビリは1998年アテネにて開催された世界選手権で代表デビューし、アルゼンチン代表の中心選手として活躍してきた。それまで国際大会はアメリカ合衆国が支配してきたが、ジノビリの成長と共にアルゼンチンは世界トップクラスのナショナルチームとなっていった。
2004年のアテネオリンピックでは、サンアントニオ・スパーズのティム・ダンカンが代表として、グレッグ・ポポビッチがアシスタントコーチとして参加していたアメリカ代表を準決勝で破り、決勝ではイタリア代表を退け、見事金メダルを獲得。19.3得点、3.3アシストは共にチームハイで、大会MVPとなった。ちなみに初戦のセルビアモンテネグロ戦では、残り0.7秒で決勝ブザービーターを決めている。2008年の北京オリンピックでは開会式の入場行進で旗手を務めた。準決勝でジノビリは負傷し敗れたものの、銅メダルを獲得した。
プレイスタイル[編集]
運動能力は標準的で、身長も198cmと決して高くないジノビリの最大の武器は、抜群の安定感を誇るドリブルペネトレイトである。普通の選手とは違うジグザグした動きで、ジノビリ・ステップあるいはユーロ・ステップと呼ばれるジノビリ独特の変幻自在で、予測不能なドライブにディフェンスは翻弄され、ゴールを許すか、ファールを犯してしまう。
体の使い方が上手くボディバランスにも優れ、特にドリブルからシュートに移行するモーションで、まるでフットボールのようにボールを抱え込み保持することで、スティールされにくくしている。必要に応じてペネトレイトからダンクに持ち込む事もあり、地味なプレーの多いスパーズでは異彩を放つ。
一般的に守り辛いとされる左利きの上、アウトサイドシュートも非常に正確で、少しでも離すと高確率で3ポイントを決められてしまうため、ディフェンダーとしては何をしでかすか分からず、非常に守りにくい。さらにシュートフェイクも上手く、南米人らしい狡猾さでファウルを誘うテクニックも持つ。フリースローの名手でもあり、ファウルゲームでは必ずジノビリがボールを受ける。
多くの大試合を経験しているため、戦術理解度が高くメンタルも強い。アルゼンチンの英雄でありながらシックスマンの役割もチームの勝利のために引き受けるなどジノビリの能力がスパーズの強さの大きな一因として高く評価されている。
NBAプレーオフでの成績もジノビリの勝負強さをを象徴するもので、2000得点、600リバウンド、500アシスト、200スティールを、すべてで上回っており、この記録を持っているのは、ラリー・バード、コービー・ブライアント、クライド・ドレクスラー、ジュリアス・アービング、デニス・ジョンソン、マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダン、ジェイソン・キッド、カール・マローン、スコッティ・ピッペン、ジョン・ストックトン、マヌ・ジノビリの12人しかいない。
個人成績[編集]
NBAレギュラーシーズン[編集]
| シーズン |
チーム |
GP |
GS |
MPG |
FG% |
3P% |
FT% |
RPG |
APG |
SPG |
BPG |
TO |
PPG |
| 2002–03 |
SAS |
69 |
5 |
20.7 |
.438 |
.345 |
.737 |
2.3 |
2.0 |
1.4 |
.2 |
1.45 |
7.6 |
| 2003–04 |
SAS |
77 |
38 |
29.4 |
.418 |
.359 |
.802 |
4.5 |
3.8 |
1.8 |
.2 |
2.09 |
12.8 |
| 2004–05 |
SAS |
74 |
74 |
29.6 |
.471 |
.376 |
.803 |
4.4 |
3.9 |
1.6 |
.4 |
2.32 |
16.0 |
| 2005–06 |
SAS |
65 |
56 |
27.9 |
.462 |
.382 |
.778 |
3.5 |
3.6 |
1.5 |
.4 |
1.86 |
15.1 |
| 2006–07 |
SAS |
75 |
36 |
27.5 |
.464 |
.396 |
.860 |
4.4 |
3.5 |
1.5 |
.4 |
2.09 |
16.5 |
| 2007–08 |
SAS |
74 |
23 |
31.0 |
.460 |
.401 |
.860 |
4.8 |
4.5 |
1.5 |
.4 |
2.70 |
19.5 |
| Career |
|
434 |
232 |
27.8 |
.454 |
.382 |
.815 |
4.0 |
3.6 |
1.5 |
.3 |
2.10 |
14.7 |
| All-Star |
|
1 |
0 |
22.0 |
.500 |
.000 |
1.000 |
3.0 |
1.0 |
1.0 |
1.0 |
3.00 |
8.0 |
NBAプレーオフ[編集]
| シーズン |
チーム |
GP |
GS |
MPG |
FG% |
3P% |
FT% |
RPG |
APG |
SPG |
BPG |
TO |
PPG |
| 2002–03 |
SAS |
24 |
0 |
27.5 |
.386 |
.384 |
.757 |
3.8 |
2.9 |
1.7 |
.4 |
1.50 |
9.4 |
| 2003–04 |
SAS |
10 |
0 |
28.0 |
.447 |
.286 |
.818 |
5.3 |
3.1 |
1.7 |
.1 |
2.10 |
13.0 |
| 2004–05 |
SAS |
23 |
15 |
33.6 |
.507 |
.438 |
.795 |
5.8 |
4.2 |
1.2 |
.3 |
2.87 |
20.8 |
| 2005–06 |
SAS |
13 |
11 |
32.8 |
.484 |
.333 |
.839 |
4.5 |
3.0 |
1.5 |
.5 |
2.54 |
18.4 |
| 2006–07 |
SAS |
20 |
0 |
30.1 |
.401 |
.384 |
.836 |
5.5 |
3.7 |
1.6 |
.2 |
2.10 |
16.7 |
| 2007–08 |
SAS |
17 |
6 |
32.9 |
.422 |
.373 |
.896 |
3.8 |
3.9 |
.6 |
.3 |
2.76 |
17.8 |
| Career |
|
107 |
32 |
30.8 |
.443 |
.380 |
.820 |
4.8 |
3.5 |
1.4 |
.3 |
16.0 |
タイトル・受賞[編集]
- イタリアリーグ
- イタリアリーグ優勝:2001
- イタリアカップ優勝:2001, 2002
- ユーロリーグ優勝:2001
- ユーロリーグMVP:2001
- 2008年、ユーロリーグ史上の偉大な50人の貢献者に選出
- NBA
- NBAチャンピオン:2003, 2005, 2007
- NBAオールスター選出:2005,2010
- NBAシックスマン賞:2008
- オールNBA3rdチーム:2008
その他[編集]
- ジノビリはイタリア系移民の血統である。また、母国語のスペイン語の他に英語、イタリア語も流暢に話すことができる。
- 趣味はサーフィン、インターネット、ラテン音楽、映画鑑賞など。
- 2004年に結婚し、2010年に、ダンテとニコラの双子男児の父親となった。[6]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
|
ユーロリーグ ファイナル4MVP |
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| 1980年代 |
|
|
| 1990年代 |
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| 2000年代 |
|
|
| 2010年代 |
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