薄雲 (吹雪型駆逐艦)
薄雲 | |
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基本情報 | |
建造所 | 東京石川島造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 吹雪型駆逐艦 |
建造費 | 6,527,600円(予算成立時の価格) |
艦歴 | |
計画 | 大正15年度計画(昭和2年度艦艇補充計画) |
起工 | 1926年10月21日 |
進水 | 1927年12月26日 |
竣工 | 1928年7月26日(第四十一号駆逐艦) |
最期 | 1944年7月7日被雷沈没 |
除籍 | 1944年9月10日 |
要目 | |
基準排水量 | 1,680トン |
公試排水量 | 1,980トン |
全長 | 118.5m |
最大幅 | 10.36m |
吃水 | 3.19m |
ボイラー | ロ号艦本式重油専焼缶 4基 |
主機 | 艦本式タービン 2基 |
推進 | 2軸 |
出力 | 50,000shp |
速力 | 38.0ノット |
燃料 | 重油 475トン |
航続距離 | 14ノットで5,000浬 |
乗員 | 219名 |
兵装 |
竣工時 50口径三年式12.7cm連装砲A型 3基6門 7.7mm単装機銃 2挺 十二年式61cm3連装魚雷発射管 3基9門 魚雷 18本 八一式爆雷投射機 2基 爆雷 18個 最終時 50口径三年式12.7cm連装砲A型 2基4門 九六式25mm機銃 三連装4基12挺 同連装1基2挺 同単装10挺 九三式13mm単装機銃 4挺 7.7mm単装機銃 2挺 十二年式61cm3連装魚雷発射管 3基9門 魚雷 18本 八一式爆雷投射機 2基 爆雷 18個 |
搭載艇 |
6.5m内火艇 1隻 7.5m内火艇 1隻 7mカッター 2隻 6m通船 1隻 |
レーダー |
22号電探 1基 13号電探 1基 |
薄雲(うすぐも)は、日本海軍の駆逐艦[1]。吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)の7番艦[2]。雲級(くもクラス)の1隻[注 1]。 当初の艦名は、第41号駆逐艦[4]。この名を持つ日本海軍の艦船としては東雲型駆逐艦「薄雲」に続いて2隻目[5][6]。
概要
[編集]駆逐艦薄雲は、日本海軍の駆逐艦[7]。吹雪型駆逐艦の7番艦[2][8]。 特型駆逐艦の雲級とされることもある[1][3]。 建造時の艦名は第四十一号駆逐艦で、1928年(昭和3年)7月26日に竣工し[9]、同年8月1日に「薄雲」と改名された[4][10]。同日附で第12駆逐隊が新編され[11]、翌年5月10日には姉妹艦叢雲の編入により定数4隻(東雲、薄雲、白雲、叢雲)となった[12]。 1933年(昭和8年)2月1日から同年11月15日まで、「薄雲」は第20駆逐隊に所属した[13]。その後は、再び第12駆逐隊に所属した[14]。 日中戦争に従事中の1940年(昭和15年)8月15日、中国大陸沿岸部で機雷により損傷する[7]。第12駆逐隊から除籍され、舞鶴防備隊付となる[9]。舞鶴海軍工廠で修理中に太平洋戦争開戦を迎えた[7]。
1942年(昭和17年)7月31日、修理完了[15]。「薄雲」は第五艦隊に編入されて北東方面に進出し[16]、第6駆逐隊や第21駆逐隊に臨時編入された[17]。1943年(昭和18年)3月下旬にはアッツ島沖海戦に参加した[9]。 同年4月1日、「薄雲」は第9駆逐隊に編入された[18]。第9駆逐隊は第一水雷戦隊隷下となり[19]、引き続き千島列島やアリューシャン列島方面で行動した。7月、第9駆逐隊(朝雲、薄雲)[注 2]はキスカ島撤退作戦に従事した[7]。
1944年(昭和19年)3月31日、第9駆逐隊は第18駆逐隊に改編された[22][23]。 第7駆逐隊(潮、曙)と共に千島列島方面輸送作戦に従事中の7月7日[24]、択捉島近海のオホーツク海で「薄雲」は米潜水艦「スケート」の魚雷攻撃を受け[9]、沈没した[25]。
艦歴
[編集]太平洋戦争以前
[編集]1926年(大正15年)9月29日、建造予定の駆逐艦4隻にそれぞれ「第三十七号駆逐艦(のちの初雪)」、「第四十一号駆逐艦(〃薄雲)」、「第四十二号駆逐艦(〃白雲)」、「第四十三号駆逐艦(〃磯波)」の艦名が与えられる[26]。 同日附で4隻は一等駆逐艦に類別される[27]。 第41号駆逐艦(薄雲)は東京石川島造船所で同年10月21日に起工[28]。 1927年(昭和2年)12月26日に進水[29]。 1928年(昭和3年)7月26日に竣工した[28]。第41号駆逐艦(薄雲)の建造スケジュールは、姉妹艦3隻(東雲、白雲、磯波)とほぼ同一だった[30][31][32]。
7月26日の竣工から間もない1928年(昭和3年)8月1日附で「第41号駆逐艦」は「薄雲」と改名される[4]。また同日附で第12駆逐隊(東雲、薄雲、白雲)が新編された[11][33]。 同年12月10日、第12駆逐隊は第二艦隊隷下の第二水雷戦隊に編入された[34]。1929年(昭和4年)5月10日に姉妹艦「叢雲」が竣工し、同日附で第12駆逐隊に編入されて定数4隻となった[12][35]。
1931年(昭和6年)12月1日、「東雲」は新編の第20駆逐隊へ転出し、第12駆逐隊は3隻編制(白雲、薄雲、叢雲)となった[36][37]。 1933年(昭和8年)2月1日、「薄雲」は第20駆逐隊に編入され、20駆は吹雪型3隻(薄雲、吹雪、磯波)となった[13][38]。 同年11月15日、駆逐隊編成の改定より「東雲」が第20駆逐隊に編入され、「薄雲」は第12駆逐隊に戻った[14][39]。
1935年(昭和10年)4月、満州国の愛新覚羅溥儀皇帝が練習戦艦「比叡」[注 3]を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)は御召艦「比叡」の供奉艦に指定された[40]。第12駆逐隊は「比叡」を護衛して日本と中国大陸を往復した。 同年9月26日、「薄雲」は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇する。当時、第四水雷戦隊旗艦「那珂」は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた[41]。艦首切断に至った「初雪」や「夕霧」ほどではないものの、「薄雲」は若干の被害を受けた[42]
1936年(昭和11年)12月1日、第20駆逐隊の解隊により「東雲」が第12駆逐隊に戻り[43]、12駆(薄雲、白雲、叢雲、東雲)となった[44][注 4]。 第12駆逐隊は呉警備戦隊や第二水雷戦隊に所属していたが、1938年(昭和13年)末の艦隊編制変更で第二航空戦隊(空母龍驤、空母蒼龍、第12駆逐隊)となった[45]。 1939年(昭和14年)3月21日付で佐世保発支那方面への戦務に従事し4月2日に細島に帰着。同年7月21日、行幸に際し紋付紙巻煙草を下賜される。8月3日より昭和14年海軍小演習のため第六艦隊に編入され、8月10日に小松島発南洋方面遠洋航海を経て8月26日に岸和田沖に帰着。8月30日付で第六艦隊の編成を解かれ、第二艦隊に再編入の後、11月15日の艦隊編制替(昭和十五年度艦隊編制)で第12駆逐隊は二航戦から除かれた[46][注 5]。
1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は軽巡洋艦「川内」および第12駆逐隊(叢雲、東雲、薄雲、白雲)と第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、狭霧)により第三水雷戦隊を新編した[47](第一艦隊所属)[48][注 6]。 日中戦争に際して同年7月以降、第三水雷戦隊は第二遣支艦隊(司令長官高須四郎中将)[50]に編入され、中国大陸へ進出する。華中での沿岸作戦[51]、北部仏印進駐作戦などに参加した[52][53]。 一方「薄雲」は姉妹艦「叢雲」と共に大陸沿岸部封鎖作戦に従事中、莆田市の興化湾・南日水道で日本軍が敷設した機雷に触雷して大破した[54]。掃蕩戦を終えた「叢雲」は満潮時になるまで水道通過を見合わせ湾内に停泊しており、『お先に』の信号を残して単艦出港した「薄雲」が触雷する結果となった[55]。「薄雲」は「叢雲」に台湾まで曳航される[55]。そこから内地へ帰投し、10月11日呉に到着した[56]。呉工廠で修理をおこなう。
第12駆逐隊から除籍された後は、呉鎮守府直率部隊として待機した[57]。1941年(昭和16年)2月14日に呉を出発し、16日舞鶴港に到着した[58]。呉鎮守府籍第四予備駆逐艦のまま、舞鶴防備隊の附属になった[59]。 3月20日、舞鶴防備隊附属の任を解かれる[60]。舞鶴工廠で修理を実施しつつ、舞鶴で待機した[61]。以後は1942年(昭和17年)7月30日まで修理と待機を続けた。
1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、駆逐艦「薄雲」は姉妹艦「白雲」と第51駆逐隊を編制する[62]。さらに第51駆逐隊(薄雲、白雲)は空母「赤城」および「加賀」と共に第五航空戦隊を編制する予定とされた[63]。しかし太平洋戦争の勃発により本編制は実現せず、第51駆逐隊(薄雲、白雲)が「赤城、加賀」と行動する事はなかった。
太平洋戦争
[編集]1942年と1943年の行動
[編集]1942年(昭和17年)6月20日、池田周作少佐が薄雲駆逐艦長に任命された[注 7]。 7月31日、舞鶴海軍工廠における「薄雲」の修理が完了[15]。同日、「薄雲」は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将)編入され、北方部隊では主隊に編入された[16]。8月5日に舞鶴を出発[66]、大湊を経由し[67]、千島列島・アリューシャン列島方面に進出する[68]。 8月11日、「薄雲」は第6駆逐隊[17](暁、雷、電、響)に編入される[69][70][注 8]。 8月15日[16]、「薄雲」は北方部隊護衛隊[注 9]に編入される[70]。 だが第6駆逐隊は8月28日付で機動部隊所属となり、北方部隊の指揮下を離れてガダルカナル島攻防戦に投入された[76]。 「薄雲」は第21駆逐隊[17](若葉、初春、初霜)に編入された[76][注 10]。 以後、「薄雲」は護衛部隊僚艦や[注 11]、北方部隊所属の巡洋艦と共に[注 12]、日本列島北東方面での海上護衛作戦、哨戒活動、アッツ島再占領作戦等に従事した[84][85][86]。
1943年(昭和18年)2月10日から、薄雲は呉で修理と整備をおこなった[87]。2月末に修理完了、佐世保での修理を終えた重巡洋艦「那智」を護衛して北方に戻り[88]、3月4日幌筵島に到着した[89]。この間、アッツ島で単独航行中の輸送船がアメリカ艦隊に撃沈される「あかがね丸事件」が起き[90]、日本軍は護送船団方式に転換した[91]。「薄雲」は第一水雷戦隊司令官の指揮下で行動する場合、第6駆逐隊第3番艦として行動するよう発令されていた[92]。 3月7日、薄雲を含む第一次輸送船団(主隊掩護部隊、護衛隊、輸送船団)は幌筵を出撃、3月10日アッツ島に到着して輸送に成功した[注 13]。
3月22日16時、アッツ島への輸送を実施するため第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は幌筵海峡を出発した[94]。翌日には北方部隊と輸送船団[95](指揮官細萱戊子郎第五艦隊長官、主隊〈那智、摩耶、若葉、初霜〉、護衛部隊〈阿武隈、雷、電〉、輸送船〈浅香丸、崎戸丸〉)も出撃した[96]。3月26日、北方部隊と第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は合同に失敗し、細萱長官は合同命令を出す[97]。 3月27日午前2時、主隊(第五艦隊)はコマンドルスキー諸島南方海域でチャールズ・マクモリス少将率いるアメリカ艦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦4)と遭遇する[91](アッツ島沖海戦)[98]。単縦陣最後尾の「電」は『敵見ゆ』を報じたが、「阿武隈」は『三興丸、薄雲発見』と報告、しばらくしてから敵艦隊と気づいた[99]。アメリカ艦隊を第二護衛部隊と誤認したことは第五艦隊関係者の余裕を奪い、その後の戦闘に大きな影響を与えたとみられる[100]。3時55分、「薄雲」は190度方向に戦闘煙を発見し、「三興丸」を西方に退避させると戦闘に参加するため南下を開始した[101]。北方部隊指揮官は6時3分に「薄雲」と「浅香丸」へ幌筵帰投を命じ、7時25分にも「薄雲」に船団護衛と帰投を命じた[102]。海戦も、日米双方が決定的戦果をあげないまま7時30分に終了した[102]。3月29日12時15分、第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は幌筵に帰投した[103]。 北方部隊の重巡は内地に戻り[注 14]、薄雲や一水戦は幌筵に残った[106]。 3月30日、駆逐艦「雷」と「若葉」の衝突事故が発生し[107]、2隻とも重巡の護衛を兼ねて横須賀に回航された[105]。輸送駆逐艦は「電」と「薄雲」に改められた[107]。 3月31日、第五艦隊司令長官は細萱中将から河瀬四郎中将に変わった[108]。
4月1日、白雪型駆逐艦[注 15](4月1日附で初雪型駆逐艦と改定)[注 16]2隻(薄雲、白雲)は[9][20]、第9駆逐隊に編入される[18][注 17]。 また4月1日付で実施された戦時編制改定により、第一艦隊から第一水雷戦隊と第三水雷戦隊が除かれ、一水戦は制式に第五艦隊の隷下となった[116]。 第9駆逐隊も第一水雷戦隊の隷下となり、北方部隊に編入された[117][19][注 18]。
4月上旬から中旬にかけて[注 19]、第五艦隊(北方部隊)は駆逐艦「電」と「薄雲」によるアッツ島輸送を計画・実施したが、成功しなかった[121][122]。アッツ島に対しては、潜水艦によって細々とした輸送が行われた[123][124](モグラ輸送)[125]。山崎保代陸軍大佐も伊号第31潜水艦によりアッツ島に上陸した[126]。
この頃、ガダルカナル島攻防戦やニューギニア方面輸送作戦で最前線を奔走してきた第9駆逐隊の満潮型駆逐艦[注 20]「朝雲」は[128]、5月下旬まで横須賀で修理と整備をおこなった[129]。 「薄雲」(5月11日まで大湊で修理)[129]や「白雲」が臨時の司令駆逐艦となった[130][131][132]。5月25日、第9駆逐隊司令駆逐艦は「薄雲」から「朝雲」に戻った[133]。
この間の5月12日[134][135]、米軍はアッツ島に来襲して上陸を開始した[136][135]。北方部隊や連合艦隊からの増援部隊は幌筵に進出・集結した[137][138]。5月中旬から下旬にかけてアムチトカ島空挺奇襲作戦が検討され[139]、アッツ島に対しては奇襲と強行輸送作戦(前衛部隊〈阿武隈、木曾、朝雲、薄雲、若葉、初霜、長波〉、輸送隊〈神風、沼風〉)が実施されたが、悪天候により5月28日輸送作戦中止に至った[140][141]。第一水雷戦隊はアッツ島突入の機を伺っていたが[142]、山崎保代陸軍大佐以下日本軍守備隊は5月29日に玉砕した[143](アッツ島の戦い)[144]。一水戦は洋上で玉砕電を傍受し、幌筵へ帰投した[145]。
日本軍はキスカ島からの撤退を決定して「ケ」号作戦を発動したが[146]、最初に実施した潜水艦による第一期撤収作戦は損害が多く[147][148]、作戦中止に至った[149][150]。 そこで水上部隊による第二期撤収作戦が立案される[151][152]。6月1日時点で、「薄雲」は北方部隊の軍隊区分において水雷部隊[注 21]に所属していた[154]。 6月6日、第一水雷戦隊司令官森友一少将は急病で倒れて退任する[155][156]。ビスマルク海海戦で負傷し療養中だった木村昌福少将が[157][158]、後任の第一水雷戦隊司令官となった[155][159]。同6日夜、第1駆逐隊(神風、沼風)と第9駆逐隊(白雲、薄雲)が共同で対潜掃蕩を実施中、「沼風」と「白雲」が衝突する[注 22]。「朝雲」と「若葉」が救援にかけつけた[160]。損傷した「白雲」は幌筵に戻ったあと[161]、続いて大湊に回航され、修理に従事することになった[162]。
7月上旬以降、第9駆逐隊(朝雲、薄雲)はキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)に加わる[163][164]。参加巡洋艦・駆逐艦はアメリカ艦艇と誤認させるための迷彩とカモフラージュを行った[165]。 7月7日以降の第二期第一次撤収作戦は同月15日に作戦中止命令が出され[166]、主隊(那智、摩耶、多摩、野風、波風)・撤収部隊各艦は18日までに幌筵へ帰投した[167][168]。 7月22日、第五艦隊司令長官および第一水雷戦隊司令官指揮のもと[169]、収容隊(阿武隈、木曾、響、朝雲、薄雲、秋雲、夕雲、風雲、第一警戒隊〈若葉、初霜、長波〉、第二警戒隊〈島風、五月雨〉)、主隊(多摩〔第五艦隊長官〕)、燃料補給部隊(海防艦国後、タンカー日本丸)という戦力が集結[170][171]、幌筵を出撃した(第二期第二次撤収作戦)[172]。 7月26日には濃霧で衝突事故も起きたが、連合国軍との遭遇はなかった[注 23]。 7月29日、撤収部隊はキスカ島に突入、第一輸送隊(阿武隈、秋雲、夕雲、風雲)・第二輸送隊(木曾、朝雲、薄雲、響)ともキスカ将兵の撤収に成功した[175]。各部隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ帰投した[176][177]。撤収人員海軍2518名・陸軍2669名・遺骨30柱・合計5183名(もしくは5187名)が帰投、薄雲収容人数は478名と記録されている[178]。ケ号作戦遂行のため派遣されていた増援の駆逐艦や潜水艦は任務を解かれ、内地にむかった[179][180]。
キスカ島からの撤退により、日本軍は千島列島の防備強化に乗り出した[181]。 8月5日、日本海軍は第十二航空艦隊と第五艦隊により北東方面艦隊を新編した[182][183]。第五艦隊麾下の各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き千島列島や北海道周辺での作戦に従事した[184]。 同年9月1日、舞鶴海軍工廠での修理を終えた駆逐艦「霞」[185]が第9駆逐隊に編入され、9駆は定数4隻(朝雲、霞、薄雲、白雲)を回復する[186]。だが「朝雲」は10月31日附で第10駆逐隊に転出し[115][注 24]、第9駆逐隊は3隻に減少した[189]。司令駆逐艦は「霞」に変更された[190]。 11月8日付で、薄雲駆逐艦長は池田少佐から若杉周一少佐に交代した[191][注 25]。
1944年の行動
[編集]1944年(昭和19年)1月上旬[192]、「薄雲」は大鷹型航空母艦の護衛を命じられた[注 26]。 1月8日[195]、空母2隻(神鷹[注 27]、海鷹[注 28])、吹雪型駆逐艦3隻(薄雲、電、響)はシンガポールに向け呉を出発したが、「神鷹」の機関故障[198]により大分県佐伯市で仮泊した[199]。 「神鷹」は呉に回航され[200]、シンガポールには「海鷹」と第6駆逐隊のみが向かった[201][注 29][注 30]。 連合艦隊は「薄雲」と夕雲型駆逐艦の「玉波」(第32駆逐隊)を神鷹艦長石井藝江大佐の指揮下に入れた[207]。 1月19日、「神鷹」は徳山沖で試運転を行うが[208]、1月21日に呉へ回航された[209]。「神鷹」の機関不調は深刻で、7月上旬のヒ69船団護衛が「神鷹」の初出撃となった[210][211]。 「薄雲」は「霞」と合流し、23日より呉工廠でレーダーの残工事を実施した[212][203]。 結局、「薄雲」と「玉波」が「神鷹」を護衛して航海する機会はなかった[213][注 31]。
2月7日、「薄雲」は重巡洋艦「那智」を護衛して内海西部を出発、北方にむかった[216][217]。2月9日、「那智」と「薄雲」は大湊に到着した[218][219]。翌10日、第五艦隊旗艦は「多摩」から「那智」に戻る[220]。また大湊に第9駆逐隊(霞、薄雲、白雲)が揃い、しばらく整備と訓練をおこなう[217]。2月15日、第五艦隊司令長官は河瀬中将から志摩清英中将に交代した[221][222]。
戦前の華々しい宣伝とは裏腹に[注 32]、日本海軍の対潜兵器と対潜戦術は問題を抱えていた[224]。さらに北方の悪天候と低水温が、潜水艦の捜索や沈没艦生存者の救助を困難にした[224][225]。 2月28日、「薄雲」は松輪島守備隊を乗せた輸送船3隻(良洋丸、富国丸、明石丸)を護衛して大湊を出撃した[226]。3月2日深夜[227]、「明石山丸」は米潜水艦「サンドランス」に撃沈される。全乗船者が戦死した[228]。3月3日、船団部隊は松輪島に到着したが、悪天候のため翌4日に「良洋丸」が座礁した[229]。「良洋丸」は松輪島に擱座したまま、終戦を迎えた[229]。
「薄雲」が船団護衛中の3月1日、第9駆逐隊に不知火型(陽炎型)駆逐艦[注 33]「不知火」が編入され、9駆は定数4隻(薄雲、白雲、霞、不知火)を回復した[232][注 34]。
3月16日夕刻[234]、第9駆逐隊(霞、白雲、薄雲)は輸送船4隻(山菊丸、慶安丸、梅川丸、日連丸)を護衛して釧路を出発した[235]。 同16日深夜[236]、得撫島に向かう途中の愛冠岬60km沖で米潜水艦「トートグ」[21] (USS Tautog, SS-199)の襲撃を受ける[237]。被雷した「白雲」は轟沈した[238]。「トートグ」の雷撃により「日連丸」も撃沈された[239][240]。 「霞」が敵潜制圧を実施し「薄雲」は船団部隊(翌17日午前中には駆逐艦波風と神風が9駆の指揮下に入った)[234]を護衛して釧路に退避した[241][239]。白雲艦長以下全乗組員が戦死した[239]。「日連丸」も多数の戦死者を出した[234]。
「白雲」の除籍と共に3月31日附で第9駆逐隊は解隊され[23]、残存駆逐艦3隻(薄雲、霞、不知火)は新たに編成された第18駆逐隊に所属する[22]。第18駆逐隊(薄雲、霞、不知火)は引き続き第五艦隊隷下の第一水雷戦隊に所属した[注 35]。
6月中旬、マリアナ方面の戦いがはじまったことに伴い[250]、第五艦隊各艦は横須賀に集められた[251][222]。 第五艦隊(那智、足柄、多摩、一水戦)と増援部隊は扶桑型戦艦「山城」と共にサイパン島へ突入する準備を行う[252][253]。「薄雲」は僚艦と共に横須賀海軍工廠で大発動艇の搭載工事等をおこなった[注 36]。 だがマリアナ沖海戦の惨敗や[255]、サイパン地上戦の情勢に鑑み[256]、作戦は中止された[257]。 6月末から7月上旬にかけて第五艦隊や第十一水雷戦隊が硫黄島防備強化のため小笠原諸島方面輸送作戦に従事する一方[258][259][260]、「薄雲」(一水戦司令官木村昌福少将座乗)と第7駆逐隊(潮、曙)および「帝洋丸」は大湊へ戻る[261]。7月2日には小樽へ移動した[262]。7月5日、木村司令官は「薄雲」から「霞」に将旗を移した[263]。
1944年(昭和19年)7月5日、駆逐艦3隻(第7駆逐隊〈曙、潮〉、第18駆逐隊〈薄雲〉)と輸送船4隻(太平丸、梅川丸、笠戸丸、第二号新興丸)で編成された「キ504船団」部隊は小樽港を出発した[264][265]。 7月7日16時14分、オホーツク海を航行中の「キ504船団」部隊は米潜水艦「スケート」[7]に襲撃され、被雷した「薄雲」は沈没した[266]。 若杉駆逐艦長を含め[267]、薄雲乗組員267名が戦死した[268]。「潮」でも下士官1名が戦死している[269]。日本側沈没地点記録北緯47度36分 東経148度10分 / 北緯47.600度 東経148.167度[270]。米軍による沈没地点記録北緯47度43分 東経147度55分 / 北緯47.717度 東経147.917度。 7月9日には「太平丸」も米潜水艦「サンフィッシュ」に撃沈され、乗船中の朝鮮人労働者を含めて多数が戦死した[271]。第7駆逐隊や応援部隊は対潜掃蕩をおこなうが[272]、霧の為に効果をあげられなかった[273]。
9月10日、駆逐艦「薄雲」は初雪型駆逐艦[113][274]、 第18駆逐隊[275]、 帝国駆逐艦籍より除籍された[276]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』270-271頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]- 後藤英次 中佐:1928年2月15日 -
艦長
[編集]- 後藤英次 中佐:1928年7月26日 - 12月10日
- 木幡行 中佐:1928年12月10日 - 1929年11月15日
- 伊藤長 中佐:1929年11月15日 - 1930年11月15日
- 池田久雄 中佐:1930年11月15日 - 1931年12月1日 同日より第二予備艦
- (兼)酒井一雄 中佐:1931年12月1日[277] - 1932年12月1日[278]
- 江戸兵太郎 中佐:1932年12月1日 - 1933年4月1日[279]
- 田村劉吉 少佐:1933年4月1日 - 1934年11月1日[280]
- (兼)秋山輝男 中佐:1934年11月1日[280] - 11月15日[281]
- 瀬戸山安秀 少佐:1934年11月15日 - 1936年12月1日
- 北村昌幸 中佐:1936年12月1日 - 1937年8月16日[282]
- 山本皓 少佐:1937年8月16日[283] - 1937年10月20日[284]
- (兼)山本岩多 中佐:1937年10月20日 - 1937年12月1日
- 島居威美 中佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日[285]
- 宮崎俊男 少佐:1938年12月15日 - 1939年10月10日[286]
- 新谷喜一 少佐:1939年10月10日 - 1940年12月10日[287] ※1940年10月15日より第四予備艦
- (兼)種子島洋二 少佐:1940年12月10日[287] - 1941年2月10日[288]
- (兼)小山猛男 中佐:1941年2月10日[288] - 1941年9月12日[289]
- (兼)安並正俊 少佐:1941年9月12日[289] - 1941年10月1日[290]
- (兼)友重丙 中佐:1941年10月1日[290] - 1942年6月20日[65]
- 池田周作 少佐:1942年6月20日[65] - 1943年11月18日[191]
- 若杉次一 少佐:1943年11月8日[191] - 1944年7月7日戦死(海軍中佐へ進級)[267]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 一等驅逐艦 "叢雲 むらくも"[3]全要目{排水量1,700頓 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和2年4月 竣工昭和4年5月 建造所 藤永田造船所} 一等驅逐艦中、特型と呼ばれるのがこの1,700頓驅逐艦である。12.7糎砲は6門、魚雷發射管は實に9門を有つてゐる大型驅逐艦である。長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米。近頃は驅逐艦も航空機に對する兵装を改善し、更に新鋭なる武器を装備し、空中からの攻撃を反撃しつゝ戦闘をつゞけなければならない。水上にあつては隊伍を組んで主力艦に肉薄し魚雷戦を挑む外に水中の敵潜水艦を驅つて輕快なる運動と機敏なる操縦によつて爆雷をもつて戦ふのである。驅逐艦生活も亦、限りなく男兒を魅するかずかずの壮烈さをもつてゐる。雲級には"薄雲 うすぐも" "白雲 しらくも" "東雲 しののめ"がある。
- ^ 僚艦「白雲」も同年4月1日付で第9駆逐隊に編入されていたが[20]、6月上旬に衝突事故を起こして損傷[21]、修理中だった。
- ^ 当時の比叡艦長は井上成美大佐であった。
- ^ 第20駆逐隊(吹雪、東雲、磯波)の解隊により、吹雪は第11駆逐隊に、東雲は第12駆逐隊に、磯波は第19駆逐隊に編入された[43]。
- ^ 昭和十五年度艦隊編制における二航戦は、空母「蒼龍」と「飛龍」、第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)であった[47]。
- ^ 第三水雷戦隊が4個駆逐隊(11駆、12駆、19駆、20駆)を揃えるのは1940年(昭和15年)11月15日実施の艦隊編制からである[48][49]。
- ^ 同年2月のバリ島沖海戦で朝潮型駆逐艦「大潮」が損傷して舞鶴海軍工廠で修理に入り、大潮艦長吉川潔中佐は1942年(昭和17年)5月26日付で白露型駆逐艦「夕立」艦長に転じた[64]。友重丙中佐(舞鶴防備隊副長兼薄雲駆逐艦長)の兼務職に大潮駆逐艦長が増えた[64]。6月20日の池田少佐補職にともない、友重中佐の兼務は2つ(舞鶴防備隊副長、大潮駆逐艦長)となった[65]。
- ^ 同年6月12日、キスカ島で空襲を受けた駆逐艦「響」が損傷[71][72]、内地に帰投して修理をおこなった[73]。修理後は空母「大鷹」の護衛となり、北方部隊に戻ってきたのは1943年(昭和18年)5月であった[74][75]。また「薄雲」の第6駆逐隊編入は臨時の措置であり、法令により正式に編入されたわけではない。
- ^ 北方部隊護衛隊指揮官:大森仙太郎第一水雷戦隊司令官。8月15日時点の編成:軽巡阿武隈、第6駆逐隊、第21駆逐隊。
- ^ 第21駆逐隊は同年7月5日に米潜水艦・トライトン[77]の雷撃で「子日」を喪失[78]、3隻になっていた[79]。「薄雲」は臨時編入であり、正式に編入されたわけではない。
- ^ 1942年(昭和17年)10月17日[80]、キスカ輸送作戦中に空襲をうけ駆逐艦「朧」が沈没[81]、「初春」は大破した[82]。「初春」は翌年9月末まで舞鶴で修理をおこなった[83]。
- ^ 重巡那智、摩耶、軽巡阿武隈、多摩、木曾、特設水上機母艦君川丸など。
- ^ 第二十一船団「イ」船団:輸送船3隻(君川丸、粟田丸、崎戸丸)[93]、主隊掩護部隊(那智、摩耶、多摩、木曾)、護衛部隊(阿武隈、雷、電、若葉、初霜、薄雲)、協力(国後、八丈)[92]。
- ^ 重巡2隻(那智、摩耶)[104]と第21駆逐隊は横須賀に戻った[105]。
- ^ ネームシップの駆逐艦「吹雪」が1942年(昭和17年)10月12日のサボ島沖海戦で沈没し[109]、同年11月15日附で吹雪型駆逐艦は「白雪型駆逐艦」に改称されていた[110]。
- ^ ネームシップの駆逐艦「白雪」が1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で沈没し[111]、第三水雷戦隊司令官木村昌福少将は負傷した[112]。「白雪」除籍と共に白雪型駆逐艦は「初雪型駆逐艦」に改定された[113]。
- ^ 1943年(昭和18年)3月5日のビラ・スタンモーア夜戦で第9駆逐隊は駆逐艦「峯雲」を喪失した[114]。「薄雲」と「白雲」が編入されるまで、9駆は「朝雲」単艦で行動していた[115]。
- ^ 当時の第9駆逐隊司令は、小西要人大佐であった[118]。小西大佐は、太平洋戦争開戦時の第7駆逐隊司令である[119]。
- ^ (昭和18年4月3日)[120]〔 d×2(雷/6dg 薄雲/9dg)ヲ以テ熱田島ニ輸送|5F/1Sd 北方|約60t 糧食ハ陸海軍併セ鳴神島ハ六月末マデ熱田島ハ四月末マデアル予定 〕、p.13(昭和18年4月8日)〔 8|1730|d×2ハ熱田島ヘ糧食輸送ノ爲幌筵出港(雷/6dg 薄雲/9dg)|北方| 〕、p.16(昭和18年4月10日)〔 d×2/6dg(雷/6dg 薄雲/9dg)ハ熱田島ニ輸送セシモ視界不良ニテ進入出来ズ|1Sd/5F 北方|十一日〇八〇〇敵(飛行機)ニ発見セラレ揚陸断念 〕(註、資料では「雷」と記載するが、前述のように「雷」と「若葉」は衝突事故で修理中[107]、「電」の誤記)。
- ^ 1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で朝潮型駆逐艦ネームシップの駆逐艦「朝潮」が沈没し[127]、朝潮型は4月1日附で「満潮型駆逐艦」と改定されていた[113]。
- ^ 指揮官森友一第一水雷戦隊司令官[153]:軽巡(阿武隈)、第9駆逐隊(朝雲、白雲、薄雲)、第21駆逐隊(若葉、初霜)、五月雨(第2駆逐隊)、長波(第31駆逐隊)、響(第6駆逐隊)。
- ^ (昭和18年6月6日)[160]〔 1745|「カムチャツカ」半島ノ南端143°17′ニテ1dg(神風 沼風)ハ敵(潜水艦)発見制圧中更ニ徹底的攻撃ノ爲(司令官)1Sdハd×2(白雲、薄雲)ヲ増援下令/2200|薄雲、白雲(薄雲艦長指揮)1dgト会合ノ予定ニテ行動 霧ニ雨ヲ交ヘ視界500-1000ニテ合同断念/2250|以後別ニ(潜水艦)発見地点ヲ中心トシテ10′圏内ノ敵(潜水艦)掃蕩中/2308|「ロパッカ」岬ノ122°12′ニ霧中白雲ノ艦首ヲ以ツテ沼風ノ右舷前部ニ衝突 1Sd(司令官)ハ直ニd×2ヲ救援セシム(朝雲/9dg 若葉/21dg)|北方 5F|敵(潜水艦)×1ハ一旦潜没セシモ潜望鏡ノ根元迄浮上後後方ニ傾キタル儘沈下多量ノ油湧出撃沈確実/沼風士官室右舷大破前部浸水 微速力ニテ航行可能/白雲ハ艦首湾曲一部切断操舵困難自力航行可能幌筵ニ向フ 〕
- ^ 7月26日17時44分(日没17時46分、視界200-300m)、濃霧により海防艦「国後」、軽巡「阿武隈」、駆逐艦3隻(初霜、若葉、長波)の多重衝突事故が起きる[173]。損傷により「若葉」は幌筵帰投を余儀なくされ、また速力低下をきたした「初霜」も「日本丸」護衛にまわされた[174]。
- ^ 第10駆逐隊は4隻編制(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)だったが、ガダルカナル島撤収作戦で「巻雲」が沈没[187]、第二次ベララベラ海戦で「夕雲」が沈没した[188]。
- ^ 池田少佐は駆逐艦「谷風」艦長に任命されたが[191]、翌年6月11日、「谷風」が潜水艦ハーダーに撃沈された際に[25]、戦死した。
- ^ 大鷹型空母は前年12月下旬から海上護衛総司令部部隊に編入されたが、当面は航空機輸送任務に従事していた[193]。木俣滋郎著『日本空母戦史』574頁では、1月4日横須賀発トラック行の空母瑞鳳と雲鷹の護衛が駆逐艦3隻(薄雲、雷、電)と記述する[194]。
- ^ 元はドイツ貨客船「シャルンホルスト号」である[196]。
- ^ 元は日本郵船あるぜんちな丸級貨客船の「あるぜんちな丸」である[197]。
- ^ 第五艦隊の戦時日誌経過概要では「1月18日、一三〇〇薄雲昭南着」と記述している[202]。第一水雷戦隊の行動調書では「薄雲」は瀬戸内海で待機している[203]。
- ^ 海鷹隊は1月21日シンガポールに到着した[204]。31日[205]、同地を出発してトラック泊地へむかう[206]。
- ^ 「玉波」は同年7月7日[214]、マニラ沖合で米潜水艦・ミンゴに撃沈された[215]。「薄雲」の沈没と同日であった[25]。
- ^ 一等驅逐艦 "東雲 しののめ"[223]全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工大正15年8月 竣工昭和3年7月 建造所佐世保海軍工廠}東雲も浦波と同型の1,700噸級の驅逐艦である。浦波のところで驅逐艦の使命とするところは魚雷襲撃にあると云つたが、その外に驅逐艦は種々の重用任務に使用される。その中第一に擧ぐべきは潜水艦撃攘である。その得意とする快速力と輕快極まる操縦性及び潜水艦の魚雷を恐れぬ吃水の淺少さ等を利して敵潜水艦のゐる海上を爆雷を投射しつゝ縦横無盡に走りまはる驅逐艦は潜水艦にとつては何よりも恐るべき敵であらう。故に驅逐艦に襲はれたら最後潜水艦は上記の如き驅逐艦の特長と全然相反する弱點をもつため到底これに刄向ふ力はなく、うまく逃げをはせることが出來れば僥倖と云ふところである。
- ^ 陽炎型駆逐艦ネームシップの駆逐艦「陽炎」沈没により[230]、1943年(昭和18年)6月20日附で陽炎型は「不知火型駆逐艦」に改称された[231]。
- ^ 3月1日時点の「不知火」はパラオ所在で、船団護衛を行いつつ3月下旬になり呉に戻ってきた[233]。
- ^ 先代の第18駆逐隊は朝潮型駆逐艦(霞、霰)と陽炎型駆逐艦(陽炎、不知火)で編制され、南雲機動部隊を護衛して真珠湾攻撃やセイロン島沖海戦等に参加した[242]。アリューシャン方面作戦従事中の1942年(昭和17年)7月5日、第18駆逐隊はキスカ島で米潜水艦・グロウラーの襲撃を受け[243]、「霰」は沈没[244]、「霞」と「不知火」は大破した[245](7月5日の海戦)[246]。健在の「陽炎」は第15駆逐隊へ転出し[247][248]、第18駆逐隊は同年8月15日附で解隊されていた[249]。
- ^ 横須賀海軍工廠の担当艦艇は[254]、軍艦(山城、足柄、那智、阿武隈、長良、木曾、多摩)、駆逐艦(曙、潮、不知火、薄雲、霞、皐月、初春、若葉、冬月、清霜、旗風、松)、水雷艇千鳥、海防艦(八十島、天草、第12号、第24号海防艦)、輸送艦(第104号、第130号、第152号)であった。
出典
[編集]- ^ a b #日本軍艦集2600年版 p.44〔 一等驅逐艦 薄雲(うすぐも) 基準排水量1,700噸、長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管9門、起工大正5年10月21日、進水昭和2年12月26日、竣工昭和3年7月26日、建造所石川島造船所 ― 特型驅逐艦。雲級にはこのほかに、東雲、白雲、叢雲の三隻がある。 〕
- ^ a b #艦艇類別等級表(1941年12月31日) p.3〔 艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧 〕(4番艦の深雪は除籍済)
- ^ a b #ポケット海軍年鑑(1937)、p.47〔 叢雲(むらくも) 〕
- ^ a b c #達昭和3年6月 pp.7-8〔 達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|(略)第四十一號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 薄雲(ウスグモ)トス 〕
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実 p.74〔 叢雲|(起工)明治30-10|(進水)明治31-11-16|(竣工)明治31-12-29|(建造所)英國ソーニ・クロノト社/東雲|明治30-10|明治31-12-14|明治32-2-1|同/夕霧|明治30-11|明治32-1-26|明治32-3-10|同/不知火|明治31-1|明治32-3-15|明治32-5-15|同/陽炎|明治31-8|明治32-8-23|明治32-10-31|同/薄雲|明治31-9|明治33-1-16|明治33-2-1|同 〕
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ204-205(原本369-370頁)〔 ◎水雷艇驅逐艇陽炎薄雲朧霓及水雷艇千鳥命名ノ件 明治三十一年八月二十七日(達一一六) 〕
- ^ a b c d e 陽炎型(光人社) 2014, pp. 276–277薄雲(うすぐも)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ66(原本92-93頁)〔 ◎昭和三年六月二十日(内令一六〇)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 本令ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス 〕
- ^ a b c d e 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 88a薄雲(うすぐも)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ208-209(原本377-378頁)〔 ◎驅逐艦及掃海艇中改名ノ件 昭和三年六月二十日(達八〇)驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス 〕
- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ65(原本90-91頁)〔 昭和三、八、一(内令二〇一)|(記事)昭和三、六、二〇(達八〇)驅逐艦中左ノ通改名シ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス/昭和三、八、一(内令二〇一)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル 〕
- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ66(原本91-92頁)〔 昭和三、一二、一〇(内令三五〇)|呉鎭守府|第二艦隊|第十二驅逐隊|東雲、薄雲、白雲|叢雲(四、五、一〇 一五一)|(記事)昭和三、一二、一〇(内令三五〇)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル 〕
- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ68-69(原本97-98頁)〔 昭和七、一二、一(内令三七三)|呉鎭守府|第二艦隊|第十二驅逐隊|叢雲、薄雲、白雲|東雲(八、二、一 二七)|薄雲(八、二、一 二七)|・|呉鎭守府|(空欄)|第二十驅逐隊|東雲、吹雪、磯波|薄雲(八、二、一 二七)|東雲(八、二、一 二七)|(記事)昭和七、一二、一(内令三七三)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル 〕
- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ69-70(原本99-100頁)〔 昭和八、一一、一五(内令三五二)|呉鎭守府|第二艦隊|第十二驅逐隊|叢雲、薄雲、白雲|・|呉鎭守府|(空欄)|第二十驅逐隊|東雲、吹雪、磯波|(記事)昭和八、一一、一五(内令三五二)驅逐隊編制本表ノ通改定セラル 〕
- ^ a b #S17.07舞鎮日誌(1) p.7〔(3)其ノ他ノ工事(a)損傷復舊工事 薄雲損傷復舊及特定修理工事ハ共ニ三十一日完成セリ 大潮工事ハ豫定表ニ基キ那珂工事ハ十八年四月末完成豫定ヲ一ヶ月繰上完成ノコトニ豫定シ極力工事中ナリ 〕
- ^ a b c 戦史叢書29 1969, p. 288.
- ^ a b c 戦史叢書29 1969, p. 301.
- ^ a b #内令昭和18年4月(1) p.26〔 内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル 〕
- ^ a b 戦史叢書29 1969, p. 523.
- ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 88b白雲(しらくも)
- ^ a b 陽炎型(光人社) 2014, p. 275白雲(しらくも)
- ^ a b 「海軍公報(部内限)第4677号 昭和19年5月1日(月) pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070462400 〔 ○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ四月二十二日司令驅逐艦ヲ不知火ニ變更セリ(第十八驅逐隊)|○書類移管 當隊三月三十一日附第十八驅逐隊ト改編ニ付各部ヨリ第九驅逐隊ニ配布中ノ軍機、軍極秘書類ハ總テ第十八驅逐隊ニ移管致候條了知ノ上處理相成度(第九驅逐隊) 〕
- ^ a b 内令昭和19年3月(5) p.39〔 内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
- ^ 「昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要 その9(防衛省防衛研究所)19年7月7日~19年7月20日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120643900 p.7(19-7)|7|1615頃|「オホーツク」海ニ於テ船団護衛中ノ薄雲ハ敵(潜)ノ雷撃ヲ受ク|北東 18dg|薄雲沈没 同航中ノ7dg(2隻)ハ直ニ敵(潜)ノ攻撃制圧ニ努メタルモ効果不明 〕
- ^ a b c 戦史叢書46 1971, pp. 446–447米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ208(原本377頁)〔 ◎第三十七號驅逐艦外三隻命名ノ件 大正十五年九月二十九日(達九三) 〕、#達大正15年9月 p.15〔 達第九十三號 艦艇製造費ヲ以テ大正十五年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦四隻ニ左ノ通命名ス|大正十五年九月二十九日 海軍大臣 財部彪|舞鶴要港工作部ニ於テ建造 第三十七號驅逐艦|石川島造船所ニ於テ建造 第四十一號驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第四十二驅逐艦|浦賀船渠ニ於テ建造 第四十三號驅逐艦 〕
- ^ #達大正15年9月 p.16〔 達第九十四號 艦艇類別等級表中驅逐艦一等ノ項「第三十五號」ノ下ニ「第三十七號」ヲ、「第四十號」ノ下ニ「第四十一號」「第四十二號」「第四十三號」ヲ加フ|大正十五年九月二十九日 海軍大臣 財部彪 〕
- ^ a b #艦船要目公表範囲(1937年12月1日) p.4〔 薄雲|(艦要目略)|石川島造船所|大正15-10-31|昭和2-12-26|3-7-26|(装備略)〕
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- ^ #艦船要目公表範囲(1937年12月1日) p.4〔 東雲|(艦要目略)|佐世保工廠|大正15-8-12|昭和2-11-26|3-7-25|(装備略) 〕
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- ^ #S18.11海護総司令部(1) p.35〔 一九(略)雲鷹一〇三〇北緯一二度五二分東經一四六度二六分ニ於テ敵潜ノ雷撃(三本)ヲ受ケ前部弾庫ヨリ前方浸水機械使用可能「サイパン」ニ向ケ自力(四節)航行/神鷹試運轉ノ爲呉發徳山假泊 〕
- ^ #S18.11海護総司令部(1) p.36〔 二一(略)一三〇〇海鷹(電、響)昭南着/神鷹徳山發呉ニ回航 〕、#S18.09一水戦日誌(4) p.27、#S18.12二水戦日誌(3) p.62〔 二十一日神鷹(宛略)一一〇〇徳山沖發一七三〇呉着ノ予定玉波ハ徳山薄雲ハ桂島沖ニテ待機 〕
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- ^ #S18.12二水戦日誌(3) p.11〔 玉波 前月ニ引続キ呉ニテ修理整備中/十七日出撃準備完成/十九日呉発徳山着/二十五日徳山発/二十六日横須賀着/二十九日瑞鳳千代田高雄護衛横須賀発 〕
- ^ 「昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年7月」 アジア歴史資料センター Ref.C16120659800 p.3(昭和19年7月)|7|0320頃|マニラ西方海面ニ於テ北上(16S/GKF)旭東丸(GF)ヲ護衛中ノ玉波ハ対(潜)攻撃中轟沈セルモノノ如ク一大火焔ヲ認メタル後消息不明|32dg 〕
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- ^ 内令昭和19年3月(1) p.17〔 内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ 〕
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- ^ 「昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年3月 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C16120659400 、「昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7(防衛省防衛研究所)19年3月15日~19年3月28日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120640100 p.6(19-3)|16|2335|北海道厚岸ノS約40′附近ニ於テ船団護衛中ノd白雲ハ敵(潜)ノ雷撃ヲ受ク|内地|沈没 〕
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- ^ 「昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年7月」 アジア歴史資料センター Ref.C16120659800 p.3(昭和19年7月)|7|1615頃|オホーツク海ニ於テ船団護衛中ノ薄雲ハ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|薄雲沈没、同船団中ノ7dg(2隻)ハ直ニ敵(潜)ノ攻撃制圧ニ努メタルモ効果不明 〕、#S19.04一水戦日誌(4) p.20〔 七日1615(司令)7dg(宛略)機密第071615番電 N47°36′E148°10′薄雲雷撃ヲ受ケ沈没我攻撃中船團ハ西方ニ避退中 〕
- ^ a b 「昭和19年12月24日(発令7月7日付)海軍辞令公報(甲)第1660号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102100
- ^ #S19.04一水戦日誌(4) p.15〔 (ロ)麾下總員數(略)記事|七月七日オホーツク海ニ於テ敵潜ト交戰左ノ戦死者(含戰傷死)ヲ出セリ 薄雲准士官以上(含駆逐艦長)一五、下士官兵二五二、潮下士官一 〕
- ^ #S19.04一水戦日誌(4) p.62〔 七(天候略)一六一四薄雲(四七度三六分北一四八度一〇分東)ニ於テ被雷沈没七駆制圧|戰死 薄雲駆逐艦長若杉少佐以下准士官以上一四 下士官兵二五二/潮下士官一名 〕
- ^ #S19.04一水戦日誌(4) p.9〔 …五日小樽發航ノ「キ五〇四」船團(護衛艦 七駆 薄雲 船團太平丸 梅川丸 笠戸丸 第二號新興丸)中薄雲ハ七日一六一四北緯四七度三六分東経一四八度一〇分ニ於テ又太平丸ハ九日〇九五〇北緯五一度〇分東経一五五度三〇分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没シ… 〕
- ^ 「昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年7月」 アジア歴史資料センター Ref.C16120659800 p.4(昭和19年7月)|9|1000|占守北方海面ニ於テ太平丸(A6284t 便乗者1678名)ハ敵(潜)ノ雷撃ヲ受ク|沈没(以下略) 〕
- ^ 「昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要 その9(防衛省防衛研究所)19年7月7日~19年7月20日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120643900 p.16(19-7)|9|1000|占守、北方海面ニ於テ太平丸(A 6284t 便乗者1678名)ハ敵(潜)ノ雷撃ヲ受ク|北東 陸軍|「オホーツク」海ニ於テ船団護衛中ノ薄雲ハ敵(潜)ノ雷撃ヲ受ク|北方 18dg|護衛艦7dg(1Sd/5F)曙、潮ハ直ニ攻撃開始、千根哨戒艇ト協同攻撃中、2300巾約2′ニ及ブ重油ノ浮流セルヲ認ム 〕
- ^ 戦史叢書85 1975, p. 285.
- ^ #内令昭和19年9月(2) p.25〔 内令第一〇六五號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十九年九月十日海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等球磨型ノ項中「、大井」ヲ削ル|驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、帆風」ヲ、同初雪型ノ項中「薄雲、」ヲ、夕雲型ノ項中「、玉波」ヲ削ル(以下略) 〕
- ^ #内令昭和19年9月(2) p.23〔 内令第一〇五六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年九月十日海軍大臣|第十八驅逐隊ノ項中「薄雲、」ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波、」ヲ削ル 〕
- ^ #内令昭和19年9月(2) pp.25-26〔 内令第一〇六〇號|呉鎮守府在籍 軍艦 大井 右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 帆風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 玉波 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 伊號第五潜水艦、伊號第六潜水艦|佐世保鎮守府在籍 伊號第百六十六潜水艦 右帝国潜水艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第一號輸送艦 右帝国輸送艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第二十五掃海艇 右帝国掃海艦艇籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第五十號駆潜艇|佐世保鎮守府在籍 第十六號駆潜艇 右帝国駆潜艇籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 敷設艦 猿島|佐世保鎮守府在籍 敷設艦 測天 右帝国敷設艦籍ヨリ除カル|昭和十九年九月十日海軍大臣 〕
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- 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史3 「妙高」型、「初春」型の改装と最期艦載兵装の変遷』 第57巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2007年1月、62-65頁。ISBN 4-05-604599-2。
- 特集「妙高」型重巡と「初春」型駆逐艦の戦時兵装の変遷 ●文 田村俊夫
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- Ref.C14121196500『昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度戦時駆逐隊・潜水隊・水雷隊・掃海隊・驅潛隊・通信隊・航空隊編制予定表 昭和17年度警備隊・防備隊附属艦艇及防備機関編制予定表 昭和17年度戦時艦船飛行機搭載予定表/第1表〜第9表』。
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- Ref.C14120969600『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/12駆隊機密第27号の524 第12駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。
- Ref.C14120970600『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/20駆隊機密第47号の42 第20駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。
- Ref.C14120982000『支那事変 第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/薄雲機密第13号の199 駆逐艦薄雲支那事変第9回功績概見表』。
- Ref.C14120990900『支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/薄雲機密第13号の19 駆逐艦薄雲支那事変第10回功績概見表』。
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- 日本海軍人事手帳(?) - ウェイバックマシン(2006年5月6日アーカイブ分)[出典無効]