第二号新興丸

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船歴
建造所 浦賀船渠
起工 1938年8月16日
進水 1938年11月29日
竣工 1939年3月7日
その後 1966年1月26日 パナマへ売却[1]
1992年 除籍
主要目
総トン数 2,577トン(1942年)
2,651トン(1961年)
純トン数 1,448トン(1942年)
載貨重量 4,117トン(1942年)
排水量 5,886トン(1942年)
登録長 90.80m(1942年)
型幅 13.72m(1942年)
登録深 7.25m(1942年)
機関 石炭重油混焼缶
低圧タービン付き複二連成レシプロ機関 1基1軸(1942年)
ディーゼル機関 1基1軸(1961年)
出力 1,870馬力(1942年・最大)
1,200馬力(1942年・計画)
2,700馬力(1961年)
速力 11ノット(1942年・航海)
13.6ノット(1942年・最大)
12ノット(1961年・航海)
14.6ノット(1961年・最大)
乗員 51人(1942年)
乗客 一等6人(1942年)
兵装 (最終時)[2]
12cm単装砲 2基
96式25mm機銃 連装4基、単装6基
爆雷投射機 1基、投下台 2基、二式爆雷 20個
仮称2号電波探信儀2型改4
97式水中聴音機
仮称3式探信儀
同型船 瑞興丸、新京丸、盛京丸、大同丸、洛東丸、龍興丸、慶興丸、咸興丸、安州丸、定州丸、山鳩丸、日海丸
船体延長仕様:射水丸、京城丸、平壌丸、泰国丸、八州丸、神津丸、国津丸、豊津丸、冨津丸、逓信省標準船C型
砕氷仕様:白海丸[3]
備考 出典は原則として『昭和十八年版 日本汽船名簿』[4]

第二号新興丸(だい2ごうしんこうまる)は、日本海軍第二次世界大戦中に運用した特設砲艦兼敷設艦。東亜海運が所有する貨物船「新興丸」を徴用したもので、同名の特設砲艦との区別のため艦名に第2号と番号を付された。大戦終結時に樺太からの引揚民間人を輸送中、1945年8月22日にソ連海軍潜水艦の攻撃で損傷、多くの死傷者を出した(三船殉難事件)。

なお、日本海軍の同時期の特設艦船で「新興丸」の名を持つ汽船は他に2隻ある。特設砲艦「第一号新興丸」は丸井汽船の貨物船「新興丸」(934総トン)を改装したもので[3]、1945年1月9日にボルネオ島沿岸でオランダ海軍潜水艦O19英語版により撃沈された[5]。特設敷設艦「新興丸」は新興商船の貨物船「新興丸」(6479総トン)を改装したもので、1944年10月18日にルソン島沿岸で空襲により撃沈された[6]

船歴[ソースを編集]

「新興丸」は、浦賀船渠第441番船として1938年8月16日に起工、1938年11月29日に進水、 1939年3月7日に竣工した。「新京丸」を1番船とする浦賀船渠設計の2000総トン級貨物船系列の1隻で、同系列でも船主ごとに細部の設計に差異が多いうち、「瑞興丸」と本船が回廊付きの船橋を有する完全な同型である[3]。細部の異なる同系列船は22隻あるほか、逓信省が定めた統一規格船(平時標準船)C型も基本的に同設計で、こちらは41隻が建造された[7]。船体中央に機関部と船橋を置き、その前後に2つずつの倉口と単脚型のマスト1本ずつを配置したシンプルな船型である。うち後部船倉は倉口が2つ開いているものの、内部は区切られていない。「新興丸」の搭載主機は当時一般的な三連成レシプロエンジンではなく、浦賀船渠が開発した新型エンジンを採用しており、低圧シリンダーを蒸気タービンに変更したタービン付複二連成機関と呼ばれる方式である[4]。三連成レシプロの「新京丸」と比べ200馬力以上も最高出力が向上した[3]。搭載主缶は石炭重油混焼缶を搭載した。

商船として竣工後、当初は大阪商船所有船だったが、1939年8月12日に東亜海運に移籍する。新船主の東亜海運は、1939年8月に海運各社の現物出資で設立された国策企業であった[8]

日米関係の悪化で対米戦準備が始まると、1941年(昭和16年)9月5日付で「新興丸」は日本海軍に徴用され[9]、9月20日に特設砲艦兼敷設艦へ類別された。このとき、同じ特設砲艦に同名の「新興丸」(丸井汽船、934トン)がおり、区別のため海軍部内限りで「第二号新興丸」と改称した[10]。特設砲艦兼敷設艦の標準武装は12cm砲を片舷に3門指向可能というものであるところ、写真の分析によると本艦改装完了時の兵装は船首・船尾・中央構造物後端に12cm単装砲各1基が設置されている[3]機雷関係の設備では後部甲板上に機雷移動用軌条が2列敷かれ、船尾楼を貫通して船尾から突き出し、そのまま海面へ連続投下可能となっている。後部船倉が機雷庫となり、定数で93式機雷120個を搭載した[3]。なお、「新京丸」型は特設砲艦へ改装するのに手頃な性能であり、5隻が特設砲艦・本船を含む7隻が特設砲艦兼敷設艦として徴用されたほか、特設掃海母艦と特設電纜敷設船としても1隻ずつ徴用されている[3]

「第二号新興丸」は大湊警備府部隊、一時はその隷下の千島方面特別根拠地隊に属し、大戦の全期間にわたって北海道樺太千島列島方面で行動した。船団護衛や哨戒に従事している。戦術の変化に対応し、対空兵器の強化やレーダーの装備も実施された(要目表参照)。1943年(昭和18年)8月8日に樺太東方のオホーツク海北緯46度50分 東経144度40分 / 北緯46.833度 東経144.667度 / 46.833; 144.667で、アメリカ海軍潜水艦サーモン」による魚雷攻撃を受けるが、被害を免れた[11]。木俣(1993年)は、1945年(昭和20年)6月末に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機雷堰構築に「第二号新興丸」も参加したとしている[12]。7月には空襲を受けた青森市の復旧・救護のための物資・食糧輸送を行い、終戦を迎えた。終戦時、平時C型を含む新京丸型系列船計64隻のうち、残存していたのは「第二号新興丸」と「国津丸」[13]のみで、戦後浮揚された「金津丸」(平時C型)[14]を含めても3隻だけだった。

1945年8月9日のソ連対日参戦後、8月11日にソ連軍の侵攻で樺太の戦いが始まった。当時日本領だった南樺太には40万人以上の民間人が居住しており、樺太庁は民間人の本土引き揚げを図った。日本の陸海軍も輸送に協力することとなり、「第二号新興丸」も他の14隻の艦船とともに大泊港からの緊急輸送を命じられた[15]。8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表後も8月23日にソ連軍が島外移動禁止を発令するまで輸送は継続され、船団を組む余裕も無く、各個に避難民を収容して北海道へ脱出した[15]。「第二号新興丸」も大泊で民間人約3600人を収容すると、8月20-21日の夜に単独で出航、9ノットの速力で小樽港へ向かった。8月22日午前5時過ぎに留萌北西沖に差し掛かったところで、正体不明の艦船を発見した直後に魚雷攻撃を受け、回避を試みたが右舷2番船倉に1発が命中した[16]。これは留萌沖に上陸地点偵察任務で派遣されたソ連潜水艦L-12ロシア語版L-19で、続けて浮上砲撃を加えてきた[16]。この時点で日本海軍はすでに一切の戦闘を禁じていたが[17]、「第二新興丸」は便乗民間人の協力も得て12cm砲と25mm機銃による応戦を開始した[16]。1発を相手潜水艦に命中させたとの説もある[16]。「第二号新興丸」は通報により飛来した日本軍の水上偵察機1機に援護され、留萌港へ逃げ込むことに成功した。犠牲者数は死者250人・行方不明100人とも[18]、遺体が確認できただけで298人とも言われる[16]。なお、同様に小樽へ向かっていた「小笠原丸」と「泰東丸」も本艦と前後して留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受け、いずれも撃沈されている(三船殉難事件)。また、ソ連側のL-19も8月23日に日本海軍の宗谷海峡機雷堰に接触して沈没したと推定される[1]

「第二号新興丸」は修理され、第二復員省(旧海軍省)の下で復員輸送艦として使用された。1946年(昭和21年)8月に徴用解除となって民間船を統制する船舶運営会へ引き渡され[19]、船名も元の「新興丸」に戻された。同年10月、GHQの命令により船主の東亜海運が解散され、閉鎖機関に指定される。樺太・千島地区からの日本人引き揚げがソ連によって許可されると、同年12月の第1次引揚に「新興丸」も投入されて再び樺太へ赴き、12月7日に第3船として函館港へ帰還した[20]1948年(昭和23年)10月10日、船主を関西汽船に変更。第二復員局にチャーターされて特別輸送艦となり、小樽と樺太との間の復員輸送に従事する。1951年(昭和26年)1月20日、関西汽船に返還。1956年(昭和31年)5月、搭載主缶を重油専燃缶に交換。1961年3月6日、「新興丸」は佐野安商事に売却され、「第二金丸」に船名を変更する。同年5月、主機をディーゼル機関に交換するなどの改装を受ける。1965年(昭和40年)4月30日、「第二金丸」は新興汽船に売却される。1966年(昭和41年)1月26日、「第二金丸」はパナマのゴールデン・バッファロー海運へ売却されて「ゴールデン・バッファロー」と改名した[1]1970年(昭和45年)、「ゴールデン・バッファロー」はユエン・タ汽船[21]に売却され、「ユエン・タ」と改名した。1972年(昭和47年)「ユエン・タ」はチ・ファ海運[21]。に売却され、「チ・ファ」と改名した。1973年(昭和48年)、「チ・ファ」はリエン・シン・ナビゲーション・コーポレーション[21]に売却され、「リエン・シン」に改名した。1974年(昭和49年)に撮影された「リエン・シン」の写真では、船橋周辺が大幅に改装されていた。1975年(昭和50年)以降の詳細な行動はわかっていないが、昭和を超えた1992年(平成4年)に船籍が抹消された。

大平洋戦争に参加した日本商船としては、一番最後まで商業航海についた長齢船である。

砲艦長[ソースを編集]

  • 谷井末吉 大佐:1941年9月20日[22] - 1942年2月20日[23]
  • 糸川季忠 大佐:1942年2月20日[23] -

脚注[ソースを編集]

  1. ^ a b c 木俣(1993年)p.229,238
  2. ^ 「第二号新興丸兵器軍需品目録」『大湊警備府管下引渡目録』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08011186200
  3. ^ a b c d e f g 岩重(2009年)p.40-41
  4. ^ a b 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』其の一(下)、運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部823頁、JACAR Ref.C08050084900、画像44枚目。
  5. ^ Cressman (1999) , p. 607.
  6. ^ 岩重(2009年)p.38。
  7. ^ 岩重(2011年)p.37には50隻建造とあるが、これは同一要目の新京丸型船体延長仕様9隻を含む。
  8. ^ 関係会社打って一丸 東亜海運会社設立―海運の総合力発揮へ」『大阪毎日新聞』1939年8月6日。
  9. ^ 海軍省兵備局 『昭和一八・六・一現在 徴傭船舶名簿』 JACAR Ref.C08050008000、画像17枚目。
  10. ^ 同様に、丸井汽船の「新興丸」も区別のため海軍部内限りで「第一号新興丸」と改称した。
  11. ^ Cressman (1999) , p. 371.
  12. ^ 木俣(1993年)、229-231頁。
  13. ^ 同船はコックピット作戦で空爆を受けて大破着底し、浮揚後シンガポールに曳航されて移動、修理中に終戦。修理未了のまま英軍に接収され、1947年3月にシンガポール近海で海没処分。
  14. ^ 同船は1945年7月24日の呉軍港空襲により沈没。1948年浮揚、1967年にパナマ企業に売却され、1970年頃解体。
  15. ^ a b 中山(2001年)、177-179頁。
  16. ^ a b c d e 木俣(1993年)、235-236頁。
  17. ^ 軍令部は、当初は停戦交渉成立までの自衛戦闘を容認していたが(昭和20年大海令第48号)、その後、支那方面艦隊を除く海軍総隊に対して8月22日午前0時を基準時として一切の戦闘行為停止を命じている(昭和20年大海令第49号・第50号)。
  18. ^ 中山(2001年)、180頁。
  19. ^ 佐世保地方復員部 『昭和二十一年八月十五日現在 引渡目録 新興丸』JACAR Ref.C08011329300
  20. ^ 函館市史編さん室(編) 「樺太・千島からの引揚げ状況」『函館市史』通説編第4巻、函館市、2002年、98-99頁。
  21. ^ a b c なつかしい日本の汽船ではいずれもパナマの船会社とされ、1974年撮影の「リエン・シン」の船尾にもパナマ国旗が掲げられているが、#慟哭の海p.171に「風の便りではマレーシアの船会社に売り渡され「ゴールデン・バッファロー号」と命名され、東南アジア航路でその生涯を終えたという」とあること、企業名が中国語のようなものであることから、パナマに売り渡された後、マレーシアの華僑、そしてパナマの華僑という順番に売り渡された可能性もある。
  22. ^ 海軍辞令公報(部内限)第716号 昭和16年9月20日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  23. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第815号 昭和17年2月21日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300 

参考文献[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]