丁謐

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丁謐

尚書
出生 生年不詳
豫州沛国
死去 正始10年(249年)正月
彦靖
主君 曹叡曹芳
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丁 謐(てい ひつ)は、中国三国時代の政治家。字は彦靖本貫豫州沛国[1]。父は丁斐

の第3代皇帝曹芳の時代に大権を握った曹爽の側近。司馬懿のクーデター(高平陵の変)により、曹爽らと共に処刑された。

生涯[編集]

若い頃は他人と交遊せず、ひたすら読書に励んだ。人となりは沈着剛毅で、才略を有していた。

太和年間、で家を借りて住んでいたが、既に丁謐が借りているとは知らず、諸王の一人が入ってきた。丁謐は寝転んだまま起き上がりもせず、召使いに命じて、立ち去らせようとした。諸王はこれに激怒して上言し、丁謐は逮捕されたが、功臣の子であることから罪を赦された。

その後、丁謐には父の面影があると聞いた曹叡(明帝)から招聘され、度支郎中に任じられる。丁謐と親しい曹爽はさらに重用するよう進言していたが、曹叡は丁謐や何晏らを浮華[2]な人物として嫌った[1]

景初3年(239年)正月[3]、曹叡が没し、幼帝の曹芳が後を継ぐと、大権を握った曹爽により、丁謐は散騎常侍、次いで尚書に登用された。曹爽は初め、太尉の司馬懿と協調しながら政治を取り仕切っていたが、丁謐が司馬懿を太傅に祭り上げ、実権を奪うよう進言。司馬懿は機を待って隠遁し、以降は曹爽一党が政権を掌握する[1]

丁謐はその政権にあって、他者を非難することが多く、行いの多くは上手くいかなかった。相手が貴人であっても軽んじ、同僚の何晏・鄧颺をも見下していた。ただ勢力のある曹爽にだけはへりくだり、曹爽もまた丁謐のことは尊敬して、彼の言葉には従っていた。曹爽の政策の多くに関与し、司馬懿はとりわけ深く丁謐を恨んだ。

正始10年(249年)正月、曹爽らは曹芳の供をして高平陵に参詣したが、その隙を突いて司馬懿がクーデターを起こし、曹爽を大逆罪で訴えた。曹爽は観念して罪に伏し、丁謐らも諸共に逮捕され、ことごとく三族皆殺しとなった[1]

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『三国志』魏書 曹真伝付 曹爽伝
  2. ^ 上辺は華やかだが、実質には乏しいこと。浮華/浮花(ふか)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 2024-03-14閲覧
  3. ^ 『三国志』魏書 明帝紀