ラリー・ズビスコ
ラリー・ズビスコ | |
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WWE殿堂入り式典にて(2015年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
ラリー・ズビスコ ラリー・Z |
本名 | ローレンス・ウィッスラー |
ニックネーム |
ザ・クランチャー リヴィング・レジェンド |
身長 | 185cm |
体重 | 115kg(全盛時) |
誕生日 | 1953年12月5日(70歳)[1] |
出身地 |
アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ[1] |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー |
ブルーノ・サンマルチノ ニュートン・タットリー |
デビュー | 1972年[2] |
ラリー・ズビスコ("The Cruncher" Larry Zbyszko、本名:Lawrence Whistler、1953年12月5日[1]- )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。イリノイ州シカゴ出身のポーランド系アメリカ人。生年は1951年ともされる[2]。
ベビーフェイスとして活動後、WWFにて師匠のブルーノ・サンマルチノを裏切ったというアングルのもとヒールに転向[3]。以降、1980年代から2000年代にかけて、NWA、AWA、WCW、TNAなど各団体で活躍した[4]。息子のティム・ズビスコもプロレスラーであり、インディー団体で活動している[5]。
来歴
[編集]WWWF - WWF
[編集]ハイスクールからペンシルベニア州立大学を通してレスリングで活動後、ブルーノ・サンマルチノとニュートン・タットリーのトレーニングを受け、彼らがプロモートしていたペンシルベニア州ピッツバーグでの興行において1972年9月1日にデビュー[6]。ポーランド系の出自ということもあり、リングネームは戦前に活躍したポーランドの伝説的レスラー、スタニスラウス・ズビスコにあやかって付けられた[7]。
ピッツバーグや太平洋岸北西部での活動を経て、1974年よりWWWFへ本格的に参戦[2]。「ニューヨークの帝王」サンマルチノの愛弟子として、ベビーフェイス陣営の重鎮だったゴリラ・モンスーンやヘイスタック・カルホーンのパートナーにも起用され、バリアント・ブラザーズ、キラー・コワルスキー、ボビー・ダンカン、ニコライ・ボルコフなどと対戦してキャリアを積む[8]。同年はプロレスリング・イラストレーテッド誌の新人賞を受賞[4]。翌1975年9月にはサンマルチノの斡旋で全日本プロレスに初来日している[9]。
ジョージア、フロリダ、ノース&サウスカロライナ、ロサンゼルスなどNWAの各テリトリーも転戦しつつ、1977年よりWWWFに定着[2]。1978年11月21日にはトニー・ガレアと組んでピエール&エリックのユーコン・ランバージャックスからWWWF世界タッグ王座を奪取、翌1979年3月6日にジョニー&ジェリー・バリアントに破れるまで戴冠した[10]。
その間、ビンス・マクマホン・シニアのブッキングで1978年6月に新日本プロレスに来日[9]。新日本には1979年4月の第2回MSGシリーズにも参加し、予選で星野勘太郎に2勝して決勝リーグに進出。アントニオ猪木や藤波辰巳、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとも公式戦で対戦したが、パートナーのガレアから1勝を挙げたのみの戦績で終わった[11]。
WWWFがWWFに改称してからも、若手のベビーフェイスとして新王者ボブ・バックランドやサンマルチノのパートナーを務めたが、1980年1月22日に行われたサンマルチノとのエキシビション・マッチでヒールに転向[12]。恩師を裏切った男として観客の大ブーイングを浴びる。以降、かつての師匠との遺恨試合を東部一帯で繰り広げ、同年8月9日にはシェイ・スタジアムに3万6295人の大観衆を集めた "Showdown at Shea" のメインイベントでスチール・ケージ・マッチを行った[12][13]。
NWA - AWA
[編集]1981年にWWFを離れてからは、ブルーノ・サンマルチノが参画していた北東部のインディー団体IWFに出場[14]。その後はジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区を主戦場に、ポール・オーンドーフやトミー・リッチ、サンマルチノの息子デビッド・サンマルチノらと抗争した[15]。1983年3月にはキラー・ブルックスから2万5000ドルでNWAナショナル・ヘビー級王座を買い取るというアングルを展開[4]、タイトルは4月30日に剥奪されるが、6月5日にトーナメント決勝でミスター・レスリング2号を破り奪還に成功している[16]。この間、1981年7月と1982年10月に、サンマルチノの仲介で全日本プロレスに再来日した[17]。
1984年からはAWAに参戦。持ち前のマイクパフォーマンスの才能を活かし、同時期にWWFで悪党人気を博していたロディ・パイパーを意識したようなヒールとして活動するが、二番煎じの感は否めなかった(パイパーが1986年4月7日のレッスルマニア2でミスター・Tとボクシング・マッチを行ったように、ズビスコも同年4月20日にAWAが開催した "Wrestle Rock" なるイベントで元プロボクサーのスコット・レドゥーとボクシング・マッチを行っている)[18]。同年下期からはマサ斎藤や剛竜馬、アメリカ修行中の高野俊二(スーパー・ニンジャ)ら日本人ヒールと結託し、ニック・ボックウィンクルやジミー・スヌーカ、マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズなどと抗争した[19]。
1987年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に転出するが、1989年よりAWAに復帰。同年2月7日、ミネソタ州セントポールで行われたバトルロイヤルで優勝し、第36代のAWA世界ヘビー級チャンピオンとなる[20][21][22]。以後、ケン・パテラ、サージェント・スローター、ワフー・マクダニエル、グレッグ・ガニア、バロン・フォン・ラシク、そして因縁のデビッド・サンマルチノらを相手に防衛戦を行った[23]。1990年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会でマサ斎藤に敗れ王座を失うが、4月8日にセントポールにて奪回に成功[9][21]。しかし、活動停止寸前のAWAに見切りをつけ、同年12月にWCWに移籍。タイトルは剥奪されるが、翌年にAWAが崩壊したため、結果として彼が「最後のAWA世界王者」ということになった[3][21]。
WCW
[編集]WCW移籍初期はアーン・アンダーソンとのタッグチーム「ジ・エンフォーサーズ(The Enforcers)」で活動し、1991年9月5日、空位となっていたWCW世界タッグ王座を獲得[24]。マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズやスタイナー・ブラザーズなどを相手に防衛戦を行ったが[25]、11月19日にリッキー・スティムボート&ダスティン・ローデスに奪取された[24]。その後はポール・E・デンジャラスリー率いるヒール軍団デンジャラス・アライアンスに加入し、リック・ルード、ボビー・イートン、"スタニング" スティーブ・オースチン、メデューサらと共闘。スティムボート、スティング、バリー・ウインダム、ロン・シモンズらベビーフェイス勢と抗争を展開した[26]。
1994年にフェイスターンを行い、5月2日にロード・スティーブン・リーガルを破ってWCW世界TV王座を獲得[27]。これがメジャー団体における最後のタイトル戴冠となった。セミリタイア後の1995年からはカラー・コメンテーターに転じていたが、1990年代後半にnWoが登場するとエリック・ビショフとの抗争アングルが組まれ、一時的にリングに復帰。1997年12月27日のPPVイベント『スターケード』において両者は対戦している[28]。続く1998年1月24日の『ソールド・アウト』ではスコット・ホールと対戦したが[29]、ズビスコ、ビショフ、ホールはAWA末期からの因縁深い間柄でもあった[4]。
TNA - 近年
[編集]2001年のWCW崩壊後はダスティ・ローデスのTCWなどインディー団体への参加を経て、2003年よりTNAに登場。当初はベビーフェイスの立場だったが、2005年にジェフ・ジャレットと結託してヒールに転向。タイトルマッチ管理委員会のエグゼクティブ・プロデューサーとしてレイヴェンと抗争し、2006年7月16日開催の "TNA Victory Road" では髪切りマッチに敗れて丸坊主にされた[30]。
2006年11月にTNAを離脱してからは、AWAスーパースターズ・オブ・レスリングなど各地のインディー団体に参加。2008年2月5日には、田中将斗の王座剥奪で空位になっていたAWAスーパースターズ世界ヘビー級王者に認定された[31]。2009年からは、フロリダ州ラルゴのFIPにてエグゼクティブ・ディレクターを担当。2010年3月にはカナダ・マニトバ州ウィニペグのWFXに登場し、ジェシー・ゴダーズと組んでブッシュワッカー・ルーク&ユージン・ディンズモアと対戦した。
WWFを離れて以来、師匠ブルーノ・サンマルチノのキャッチフレーズ「リヴィング・レジェンド(Living Legend)」を自らのニックネームに冠している。彼はサンマルチノがビンス・マクマホンと決別する以前の1980年代初頭からWWEとは絶縁状態となり、一貫して反WWE(反ビンス・マクマホン)の姿勢を取り続けていたが、2013年にサンマルチノがWWE殿堂に迎えられた際には式典に姿を見せ、NXTにも出演。2015年にはズビスコ自身も殿堂入りを果たし、式典ではブルーノ・サンマルチノがインダクターを務めた[32]。
得意技
[編集]- ラリーランド・ドリーマー(LarryLand Dreamer)
- パイルドライバー
- フィギュア・フォー・レッグロック
獲得タイトル
[編集]- WWWF世界タッグ王座:1回(w / トニー・ガレア)[10]
- WWE殿堂:2015年度[4]
- WCW世界タッグ王座:1回(w / アーン・アンダーソン)[24]
- WCW世界TV王座:1回[27]
脚注
[編集]- ^ a b c “Larry Zbyszko”. Internet Wrestling Database. 2023年10月16日閲覧。
- ^ a b c d “Larry Zbyszko”. Wrestlingdata.com. 2015年12月18日閲覧。
- ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P183(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b c d e “Larry Zbysko”. Online World of Wrestling. 2015年3月27日閲覧。
- ^ “Tim Zbyszko”. Wrestlingdata.com. 2015年3月27日閲覧。
- ^ “The SPW matches fought by Larry Zbyszko in 1972”. Wrestlingdata.com. 2015年12月18日閲覧。
- ^ “Throwback Thursday: WWE Hall of Fame Showcase: Larry Zbyszko”. Inside Pulse. 2015年12月18日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1974”. The History of WWE. 2015年12月18日閲覧。
- ^ a b c 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P38(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “NJPW 1979 The 2nd Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2015年11月23日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2010年5月19日閲覧。
- ^ “WWF Showdown at Shea 1980”. Pro-Wrestling History.com. 2010年5月19日閲覧。
- ^ “The IWF matches fought by Larry Zbyszko in 1982”. Wrestlingdata.com. 2015年3月24日閲覧。
- ^ “The GCW matches fought by Larry Zbyszko in 1983”. Wrestlingdata.com. 2015年3月24日閲覧。
- ^ a b “NWA National Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月19日閲覧。
- ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P103(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “AWA WrestleRock”. Cagematch.net. 2015年3月24日閲覧。
- ^ “The AWA matches fought by Larry Zbyszko in 1986”. Wrestlingdata.com. 2015年3月24日閲覧。
- ^ “The AWA matches fought by Larry Zbyszko in 1989”. Wrestlingdata.com. 2015年3月24日閲覧。
- ^ a b c d “AWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年3月31日閲覧。
- ^ 伝統あるAWA世界王座がバトルロイヤルで争われたことに多くの関係者は落胆したが、当時のAWAはWWFとの興行戦争に敗れ、全盛時とは比較にならないほどスケールダウンしていた。バトルロイヤルにはサージェント・スローター、ワフー・マクダニエル、ケン・パテラ、グレッグ・ガニア、マイク・ジョージ、アキオ・サトー、パット・タナカ、ポール・ダイヤモンド、マニー・フェルナンデス、カーネル・デビアーズらが参加しており、決勝はズビスコとトム・ジンクとの間で争われた。
- ^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1989”. Wrestling-Titles.com. 2015年3月24日閲覧。
- ^ a b c “WCW World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “WCW Yearly Results 1991”. The History of WWE. 2015年12月18日閲覧。
- ^ “WCW Yearly Results 1992”. The History of WWE. 2015年12月18日閲覧。
- ^ a b “NWA-WCW World Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年12月22日閲覧。
- ^ “WCW Starrcade 1997”. pWw-Everything Wrestling. 2010年10月28日閲覧。
- ^ “WCW Souled Out 1998”. pWw-Everything Wrestling. 2010年10月28日閲覧。
- ^ “TNA Victory Road 2006”. Online World of Wrestling. 2015年12月18日閲覧。
- ^ a b “AWA Superstars of Wrestling World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年3月31日閲覧。
- ^ “WWE Hall Of Fame 2015 TV Report”. Wrestling Observer (March 29, 2015). 2016年4月7日閲覧。