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皇太子裕仁親王の欧州訪問

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1921年(大正10年)5月14日、イギリスオックスフォード大学ボートレースを観戦する裕仁親王

この項目では、1921年大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪を扱う。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな話題となった。

出発まで[編集]

立案[編集]

明治期には皇族の外国留学外遊が行われるようになり、皇族が見聞を広めるため外遊を行うことが好ましいとされた。皇太子嘉仁親王(大正天皇)は皇太子時代に国内の行啓を数多く行い、1907年(明治40年)10月には皇太子の初の海外行啓となる韓国行啓を行った。皇太子嘉仁親王は欧米外遊を希望する詩作を行っており渡欧を希望していたが[1]、韓国からの帰国後も新聞社説で皇太子外遊を歓迎する報道もなされたが、明治天皇の反対により実現されなかった[2]

18歳の裕仁親王(1919年)

裕仁親王をヨーロッパに外遊させるという計画は、1919年(大正8年)の秋頃から検討され始めた。裕仁親王は将来の天皇となる身であり、病身である大正天皇摂政となる可能性も高いと見られていた。裕仁親王に各国の王室との交友を深めてもらい、見聞を広めてもらうという元老山縣有朋が提案したこの計画に、元老松方正義西園寺公望原敬首相も賛意を示した[3]

反対案の伸長[編集]

ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句[注釈 1]を引用して外遊に反対する動きがあった。また大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに反日朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった[3]

原敬首相

1920年(大正9年)になると、母親である貞明皇后も洋行に懸念を示すようになった。皇后は下田歌子を通じて祈祷師飯野吉三郎に、裕仁親王の洋行に関する「霊旨」への伺いを立てるほどであった[4]。その後宮内大臣中村雄次郎が洋行を行うべきと進言し、8月4日には原首相が皇后に拝謁し、「一度は御洋行ありて各国の情況を御視察ある事尤も然るべし」という意見を伝えるとともに、裕仁親王が天皇の名代を務めることが多くなってきたことが、洋行の際にはどうなるかという懸念を伝えた[5]。元老山縣は十月中の出発を考えていたが、宮中での協議は難航し、皇后の許可もなかなか下りなかった。皇后は下田を通じて原首相に懸念を伝えたが、その内容は天皇の病態が洋行中に急変するのではないかということであった。下田は皇后の不安を解消するためには侍医の「急変の心配がない」という診断が必要であると伝え、原首相もこの旨を元老山縣に伝達した[6]

ところが東宮大夫濱尾新が洋行反対のための活動を開始した。浜尾は東宮御学問所総裁東郷平八郎元帥の反対意見を皇后に伝達し、盛んに宮中での運動を行った[7]。元老らは皇后を説得したが許可は得られず、伏見宮貞愛親王に説得を依頼したが、元老で許可されないことを自分が申し上げても許可されないと断られた。元老松方は直接天皇を説得することも考えたが、天皇が風邪で病臥中であったため実現できなかった[8]。また、おりしも裕仁親王妃に久邇宮良子女王が内定したが、久邇宮家の色弱遺伝が判明した。元老山縣は皇太子妃内定の取り消しに動いたが、これも洋行問題とともに右派や反山縣派の憤激を買い、洋行反対と皇太子妃内定不変更が彼らの運動の旗印となった。

1921年(大正10年)1月16日、中村宮相と松方元老は葉山御用邸で天皇に拝謁し、裕仁親王洋行の裁可を得た。中村宮相はその後沼津御用邸の裕仁親王を訪ね、親王も許可を喜んだ[9]。原首相は内田康哉外相と加藤友三郎海軍大臣と協議し、2月中旬から下旬まで、軍艦に乗ってイギリスを経由してアメリカに向かうという計画を中村宮相に伝えた[10]。しかしこの頃から皇太子妃問題が表面化し、山縣元老や中村宮相に対する非難の声が高まっていた。2月10日には「皇太子妃は内定通り変更がない」という声明が行われたが(宮中某重大事件)、無所属の衆議院議員押川方義が「東宮御訪欧に就ての建議案」を提出する動きを見せた。原首相はこの動きを止めようとしたが、押川は説得に応じなかった。

この頃には洋行反対運動も表面化しており、黒龍会浪人会を率いる内田良平玄洋社頭山満も反対者であった。2月11日には立憲政友会田中善立衆議院議員を中心とする皇国青年会その他200人の「国民祈願式挙行団」が婚約の不変更と洋行延期の祈願式を行った[11]。在野や議会内の反対派は活発な行動を行い、議会運営にも支障が出る状況となった。

正式決定[編集]

2月15日、宮内省告示第二号によって皇太子裕仁親王が3月3日から、ヨーロッパに外遊することが正式に公表され、随員も発表された。同日には赤坂氷川神社で「東宮殿下御外遊御延期祈願式」が行われ、代議士や内田らが参列した。2月17日、内田・頭山は元東京帝国大学(現東京大学)教授寺尾亨とともに宮内省を訪れ、洋行延期を奏上しようとしたが係員に受領を拒否された[12]。同日、衆議院では押川や大竹貫一が皇太子洋行問題に関する秘密会を開催するよう各派と交渉を行ったが、各党各会派ともこの要求を拒否した[13]。2月27日には西園寺公望元老の嗣子で、随員の一人と発表されていた西園寺八郎邸が洋行延期を唱える「抹殺社」を名乗る6人に襲撃され、八郎は軽傷を負った[14]。この日には東京大神宮民労会による「東宮殿下御渡欧平安祈願式」、続いて黒竜会ら三千人による「聖上御平癒・東宮殿下御外遊延期祈願式」が開催された。内田はこれが最後の祈願式であると述べ、事実上延期運動を断念したものと受け止められたが[15]、個人レベルでの洋行反対の動きは継続され、警視庁は各方面の警戒を行っていた。3月1日には浪人会が「御治定動かし難し」と決議し、延期運動から外遊時の平安を祈る動きに切り替えた[16]

旅程等[編集]

随員[編集]

大正10年2月22日の外務大臣から駐英大使への通達による[17]

※他に随行将兵の慰問係として講談師松平学円[18]や、十数名の随伴員、閑院宮、珍田付きの従者も随行した。

艦隊乗員[編集]

旅費[編集]

外遊費用の総額は公表されなかったが、香取と鹿島の派遣費用として442万3000円が議会の可決の元支出された[20]。旅費については東京朝日新聞が寄付金やレセプション代込みで総計1000万円以上になるなどと独自の推計を発表しているが、宮内省は「総体にて100万円」を出ないとこれを否定した。しかし東京朝日新聞はかえって「五大国の一たる日本帝国皇太子殿下の破天荒の御外遊」には1000万円の費用は当然だとかえって宮内省を激励する報道を行った[18]。さらに旅行先で叙勲するための勲章500個、贈答用の美術品300点も携行していた[18]

日程に関する協議[編集]

予定では、警備や国際上の均衡などの配慮から、裕仁親王の公式訪問先はイギリスとフランスの二カ国のみとする予定であった[21]。しかし在外公館や各国王室から訪問の要請が相次ぎ、出発後にも協議が行われていた。4月28日、宮内大臣牧野伸顕は内田外相に予定変更が困難であると回答し、訪問を要請していたベルギーへの通達を行ったが、ベルギー側はなおも訪問の要請を行った[22]。5月9日には供奉長の珍田捨巳伯爵からもベルギー、オランダ、イタリアへの訪問を許可するよう要請があり[23]、バッキンガム宮殿の歓迎会では駐英ベルギー大使が裕仁親王にベルギー訪問を直接要請することもあった[24]。これを受けて宮内省も予定変更に動き、5月17日には珍田伯爵がベルギー訪問決定を大使に伝えている[25]。その後オランダ、イタリアへの訪問の予定が調整された。

行程[編集]

出発[編集]

2月18日、東宮御学問所は日程を繰り上げて終業式を挙行、この日をもって閉鎖される。22日より25日にかけて、巡遊奉告のため行啓し、伊勢神宮、神武天皇陵、橿原神宮、明治天皇陵、昭憲皇太后陵を参拝。3月1日には、宮中三殿参拝と、葉山御用邸滞在中の天皇・皇后への挨拶を済ませる。

裕仁親王の乗艦、戦艦香取
供奉長珍田捨巳伯爵

3月[26]3日、横浜港[26]において原首相、閣僚ら参列のもと出発式が行われ、午前11時30分に裕仁親王御召艦[26]香取[26]と供奉艦で旗艦[26]鹿島[26]による遣欧艦隊[26]が出港した。天皇と皇后は小磯浜に出御し、出港を見送った[27]福井静夫は、この時国産戦艦を使用せずわざわざイギリスで建造した2戦艦によったのは日英同盟とイギリス王室、イギリス海軍に対するこの上ない好誼の現れであった旨を指摘している[26]。浪人会は赤坂氷川神社で外遊平安祈願式を行い、代表が各神社に参拝して平安を祈願した。

往路[編集]

香取の乗組員と裕仁親王(前列中央)。前列左は香取艦長漢那憲和大佐

一行の艦隊は6日午前9時15分には最初の寄港地である沖縄県中城湾に到着した[28]。裕仁親王は与那原から那覇首里を訪れ、さらに尚典侯爵邸で中学校生徒の唐手の演舞を見学した[28]。ここで裕仁親王は沖縄県特産の「エラブウナギ(エラブウミヘビ)」に興味を示しており、同県出身の漢那憲和香取艦長に食べてみたいと話していた。漢那艦長は沖縄県知事川越壮介に連絡を取り、「エラブウナギ」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている[28]。午後6時には中城湾を出港した[28]。沖縄での滞在時間はほんの半日足らずであったが、裕仁親王(昭和天皇)にとってこの時が最初で最後の沖縄訪問となった。

艦内で裕仁親王は規則正しい生活を送り、御用掛山本信次郎海軍大佐にフランス語の教授を受け、空いた時間には甲板でゴルフや相撲に興じた[29]。一方で山本大佐は、裕仁親王が西洋式のテーブルマナーを身につけておらず、音を立ててスープをすすったりナイフやフォークもうまく使えていないことに気がついた[30]。山本大佐はフランス語授業の時間を利用して裕仁親王にテーブルマナーを教授し、裕仁親王もそれに素直に従った[31]

10日午前8時、裕仁親王の一行はイギリス領の香港に到着した。裕仁親王はレジナルド・スタッブス英語版香港総督と香取艦上で会見し、その後イギリスの巡洋艦におもむき答礼を行った[32]。この香港が裕仁親王にとって最初の外国訪問となった[33]。11日には閑院宮、総督とともに平服で香港島を巡遊し、午後には鹿島艦上に在留邦人を招いて余興が行われた[34]。翌12日には青洲英語版(英語名グリーン島)を自動車で巡遊した[34]。13日に香取は香港を出発した[35]

18日午前8時、一行はシンガポールに到着し、ローレンス・ギルマード英語版シンガポール総督の歓迎を受けた。19日には市内を見学し、20日にはラッフルズ博物館(現在のシンガポール国立博物館)を訪れた。21日にはヨットでシンガポール島を一周している。22日午前9時にシンガポールを出港した[36]

28日、一行はセイロン島コロンボに到着、初めて公式に上陸した。29日には特別列車で旧都キャンディを訪問し、寺院跡や博物館を訪れている。31日には海岸までのドライブやゴルフを楽しんでいる。4月1日午前9時、コロンボを出港した[37]

3日には鹿島の機関室で汽罐が破裂する事故が発生し、機関兵3名が死亡した。殉難者1人あたり500円を遺族に送ることなり、4日午前9時、裕仁親王は水葬礼を起立して見送った[38]。7日には香取でも汽罐破裂事故が発生し、機関兵2人が死亡し、2人が重傷を負った。8日午後2時半、水葬で送られる。裕仁親王は現場に行くと主張し、漢那艦長や鈴木美三機関長をあわてさせた[38]。12日午前、兵員用の作業服で香取の事故現場を視察する。赤道付近の航海は両艦の配管に負担をかけ、さらに熱による火薬暴発の危険もあったため、漢那艦長は爆薬や砲弾の炸薬を海中投棄させた[39]。また侍医の高田寿は暑熱で体調を崩し、ポートサイド入港とともに船を降り、帰国途中のインド洋上で死亡した[40]。しかし裕仁親王自身は扇風機や氷も使わず至って壮健であった。山本大佐や西園寺八郎は親王と相撲を取って幾度も親王を投げ飛ばしたものの、何度も立ち上がる親王にスタミナ負けするほどであった[41]

15日、一行はイギリス領エジプトポートサイドに到着した。16日、スエズ運河航行中に先行の鹿島が座礁し、離脱するまで5時間待機する。18日にはカイロに到着し、イギリスの特別高等弁務官エドモンド・アレンビー英語版元帥の歓迎を受けた。裕仁親王はアレンビー元帥の案内により、ピラミッドの見物やムハンマド・アリー朝スルタンフアード1世との非公式会談を行っている。21日、カイロを発つ。

24日、一行はマルタ島に到着した[42]。マルタ島では当時海軍士官として勤務していたケント公ジョージとも面会し、夜には総督ハーバート・プルーマー英語版の案内でオペラオテロ」を観劇している[43]。25日、かつて地中海の闘いで戦没した第二特務艦隊隊員の墓を拝礼する[44]。26日正午、マルタ発。

30日、一行はジブラルタルに到着した。同地では寄港していたアメリカ海軍の司令官アルバート・パーカー・ニブラック英語版中将の訪問を受け、海軍工廠の見学を行った[45]。またジブラルタル総督ホレイショ・スミス=ドリエン英語版、ニブラック中将とともにノース・フロントの競馬場を訪れた。ニブラック中将は親王らに馬の番号を書いた手製の馬券を渡し、裕仁親王に渡した番号の馬が一着になると、「正式ではないがとにかく賞金」として数枚のペニー銅貨を手渡した。裕仁親王が金銭を手にしたのはこのときが初めてであり、対処に困った親王は第三艦隊司令小栗孝三郎中将に銅貨を渡し、「こまったよ…あとでニブラック中将に返すように」と告げた[46]。5月3日午前10時、ジブラルタル発。

ジブラルタル出航後は正式行事に出席することも増加するため、山本大佐と西園寺のマナー教授はいわば「特訓」ともいえるほどのものとなった。そのかいもあって裕仁親王は両名が安心するほどのマナーを身につけた[47]

イギリス[編集]

5月15日ロンドンにて、デビッド・ロイド・ジョージと裕仁親王

5月7日午前11時10分、一行はイギリス本国のポーツマス近くのワイト島に到着し、駐英大使林権助大西洋艦隊司令長官チャールズ・マッデン英語版大将らの出迎えを受けた[48]。一行はここで正式な上陸式典の行われる5月9日まで待つこととなった。翌5月8日、裕仁親王はマッデン大将の旗艦クイーン・エリザベスでの昼食会に招かれ、第一次世界大戦でドイツ海軍が降伏文書に調印した部屋などを案内された[48]

9日午前8時50分、香取と鹿島はポーツマス軍港に到着し、午前10時10分にプリンス・オブ・ウェールズエドワード(後のエドワード8世)が香取に乗船した[49]。午前10時27分、裕仁親王とエドワード王子らは連れだって埠頭に上陸し、ロンドンに向かう宮廷列車に乗り込んだ。午後12時40分にロンドンヴィクトリア駅に降り立った。駅ではヨーク公ジョージ(後のジョージ6世)コノート公アーサー、首相代理などの政軍高官が出迎えた。儀仗兵閲兵の後、裕仁親王、閑院宮、珍田はヨーク公とともにバッキンガム宮殿に向かった[50]。皇后メアリーとの面会の後、ジョージ5世との昼食会に出席した。歓迎行事は午後11時30分まで続いた[24]。裕仁親王はこの際に国王に対する答辞を日本語で行ったが、「東京朝日新聞」が「殿下には最も大胆なる大声をもって」と評するほど大きな声であったという[51]

10日にはウィンザー城で歓迎行事が行われ、裕仁親王がヴィクトリア女王やエドワード7世の墓に献花を行った。その後裕仁親王はバッキンガム宮殿に戻ったが、部屋で休息していると突然国王夫妻が訪れ、一時間打ち解けて歓談するという一幕もあった[52]。11日、ロンドン市による歓迎行事に出席する。

裕仁親王はイギリス滞在中、最初の3日間はイギリス王室の賓客、続く5日間はイギリス政府の賓客、その後は非公式滞在という扱いであった[47]。12日、裕仁親王はバッキンガム宮殿からウェストミンスターチェスターフィールドハウス英語版に移り、午後2時半にはナショナル・ギャラリーを観覧し、その後国会を訪れて、下院の議事と上院の儀礼を見学した。5月13日には在英邦人代表と面会し、その後大英博物館やイングランド銀行ロンドン塔等を訪れた。裕仁親王はロンドン塔では武器類に興味を示したという[53]。その後テムズ川を船でさかのぼってウェストミンスターに戻り、午後8時半からは日本大使館で裕仁親王主催、プリンス・オブ・ウェールズを主賓とする晩餐会が開かれ、500名の貴賓が参列した[54]

14日、裕仁親王ら一行は特別列車でオックスフォード大学に向かった。オックスフォードでは学内の見学を行った後、留学生から本の献上を受け、ボート競争を見学した後ロンドンに戻った。6時20分からはデイリーズシアター英語版で『シビル英語版』を観劇した。この予定が告知されていたこともあり、観衆の三分の一が日本人であった[55]。5月15日午前にはクランフォード英語版ボーイスカウトの歓迎を受けた。午後にはデビッド・ロイド・ジョージ首相と官用別荘で昼食会を行い、午後のお茶の時間まで歓談を行った[56]

16日には王立ケンリー基地英語版を訪れ、ヨーク公とともに飛行ショーを観覧した。午後にはグリニッジ天文台王立医学校英語版の訪問を行った。17日にはオールダーショットの陸軍基地を訪問し、午後はサンドハースト王立陸軍士官学校参謀大学英語版を訪問し、陸軍参謀総長ヘンリー・ウィルソン元帥の歓待を受けた[57]。裕仁親王は士官学校での中隊対抗試合のために優勝カップを贈呈し、裕仁親王の即位後には「日本天皇杯」と呼ばれた[58]

スコットランド[編集]

スコットランドで裕仁親王が滞在したブレア城

17日で公式日程は終了し、18日、裕仁親王の一行は特別列車でキングストン駅英語版からスコットランドに向かった。イギリス政府はスコットランドの風物が裕仁親王にとって安らぎになると考え、またスコットランドの大貴族アソール公爵ジョン・スチュアート=マレーに裕仁親王の接遇を依頼することで、親王にイギリス貴族を知ってもらう機会になると考えていた。当初アソール公爵は日本人をよく知らないとして裕仁親王の接遇に難色を示していたが、ロイド・ジョージ首相の再三の説得もあり、この役目を引き受けた[59]。なお、一部の供奉員は宿泊所の都合上同行せず、ロンドンに待機する。18日、ケンブリッジ大学に立ち寄る(政府国賓としての最後の行事)。ジョセフ・タナー教授の「国王と臣民との関係」という講義を受け、名誉法学博士の学位を贈られる。トリニティ・カレッジで晩餐会の後、午後11時にケンブリッジを出発した[57]

エディンバラに到着した裕仁親王

19日午前9時28分、エディンバラ着。公立慈善病院や王立高等学校英語版を訪れた。王立高等学校でも名誉法学博士の称号を受けるなど歓迎された(20日)。裕仁親王は挨拶の最後に「もし校則が許すなら、今日の記念として次の月曜日(23日)を休校にして生徒達を喜ばせてほしい」と付け加え、校長が承諾すると、生徒達は帽子をとばすなどして歓呼の声を上げた[60]。その後、エディンバラ大学においても名誉法学博士号が贈られる。

5月21日、エディンバラ市でボーイスカウトの集会に参加した後、裕仁親王らはパース駅に向かった。パース駅ではアソール公爵が私兵や市民を動員して歓迎式典を行った。裕仁親王はパース駅からアソール公が保有するブレア城英語版まで自動車で向かったが、村人の相次ぐ歓迎によって30マイル進むのに3時間もかかった[59]。裕仁親王の寝室にブレア城の「赤の間」が用意され、アソール公爵家の領地でとれた産品が振る舞われた。5月23日に行われた別離の舞踏会は領内の村人達が普段着姿で参加し、公爵夫妻とステップを踏むという牧歌的なものであった[61]。宴の最後には一同でスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)が歌われた[62]

裕仁親王はアソール公爵家と領民の関係に強い印象を受け、二荒芳徳伯爵を通じて「時事新報」の後藤武男記者に次のような談話を伝えた。「私は今度の旅で、非常に感銘をうけたものが多かった。アソール公爵夫妻は実に立派な方々で…(中略)私は日本の華族や富豪たちが、アソール公爵のやり方をまねたならば、日本には過激思想などおこらないと思う。私のこの感想は、新聞電報でうってもかまいません。」[63]

帰途、裕仁親王の一行はマンチェスターで市長主催昼食会に招かれた(25日)。この席で裕仁親王は炭坑ストライキに同情をこめたスピーチをアドリブで行い、周囲を驚かせた。26日午後7時10分、裕仁親王の一行はロンドンに帰着した。そのままホテル・セシル英語版で開催されたロンドン日本協会(ジャパン・ソサエティ)の奉祝会に参加した。この会にはプリンス・オブ・ウェールズやヨーク公、閣僚や各国大使も参列した大規模なものだった。27日にはイートンを遊覧した後、バッキンガム宮殿で国王夫妻との別れの午餐会に出席した。その後海軍記念日の行事やリージェンツ・パークでの在留邦人の祝賀会に参加した後、日本大使館で裕仁親王主催で晩餐会を開いた[64]。28日、裕仁親王らは軍事参議院代表の祝辞を受けた後、日本人の祝賀会に出席し、翌日未明まで歓談に及ぶ。29日、オーガスタス・ジョン英語版王立肖像画家協会英語版会頭)のアトリエにて肖像画を作成。サリーでゴルフプレイを観戦する。午後2時半には国王夫妻らに見送られ、ヴィクトリア駅からロンドンを発って再びポーツマスに向かった。30日、香取と鹿島はポーツマスを出港し、フランスに向かった[65]

フランス[編集]

30日午後3時半、一行はル・アーヴル港に入港した[66]。31日午前10時41分にル・アーヴルに上陸し、儀仗兵の歓迎を受けた。同日夜、裕仁親王ら一行はパリの日本大使館での非公式宴会に参加した。

6月1日午後0時40分、一行はエリゼ宮殿に赴き、アレクサンドル・ミルラン大統領を表敬訪問した。裕仁親王はミルラン大統領に大勲位菊花章頸飾を奉呈した後、大統領夫人主催の午餐会に参加した。午餐会には両院議長や政府閣僚、第一次世界大戦の英雄であるジョゼフ・ジョフル元帥、フェルディナン・フォッシュ元帥、フィリップ・ペタン元帥、エミール・ファイヨル英語版元帥が参加している[67]。ミルラン大統領はこの席で、ジョフル元帥を団長とする軍事使節を日本に送ることを発表し、裕仁親王は「名将を頭とする仏国使節をば、日本の朝野は満足をもって歓迎する」と答えた[68]。公式訪問は午後5時30分に終了した[67]

6月2日午前11時、裕仁親王は無名戦士の墓 (フランス)フランス語版に献花し、祭文を朗読した。在仏邦人との面会の後、午後3時には設計者ギュスターヴ・エッフェルの案内でエッフェル塔にのぼった。展望台で裕仁親王は土産物の写真や絵はがきに興味を持ったが、親王はもちろん、随員は誰も余分の金銭を持ち合わせていなかった。そこで西園寺八郎が「時事新報」の後藤記者から2750フランを借りうけ、土産物を買うことができた。この金は裕仁親王の帰国前に返済されたが、西園寺は後藤が「天皇に金を貸している唯一の男」になれる機会を失ったとからかったという[69]

この日の昼食は大使館でとることになっていたが、裕仁親王はかねてから「エスカルゴ」に興味を示していた。有名料理店から特別に取り寄せたエスカルゴを裕仁親王は立て続けに五、六個食べたが、侍医の三浦謹之助に制止されたためそれ以上は食べなかった[70]。午後8時には石井菊次郎駐仏大使の主催で、各国大公使が参加した晩餐会に参加、その後はフォッシュ元帥主催のチャリティーコンサートを鑑賞した[71]

6月3日にはパリ市主催の歓迎会が開かれた。6月4日にはフランス側の推薦により、ペタン元帥とともにフォンテーヌブローに向かった。砲兵学校生徒の馬術や体操を見学した後、ペタン元帥、砲兵学校長とともにサヴォア・ホテルで昼食会を行った。午後3時からはナポレオン・ボナパルトの没後百年祭に参加し、午後7時にパリへ帰還した[72]

6月6日夜には海軍大臣邸で公式晩餐会が開かれた。晩餐会は早めに終了し、一行とミルラン大統領らはオペラマクベス」が公演されているオデオン座に向かった。この公演はフランス政府から招待されたジェームズ・ケテルタス・ハケット英語版が主宰するものであったが、ミルラン大統領の予定がつかず、大統領の前で上演したいと思っていたハケットは失望していた。この事情を知った裕仁親王が日本大使館を通じ、晩餐会を早めに切り上げて大統領とともに観劇できないかと問い合わせた。大統領とハケット側も了承し、大統領と裕仁親王らによる観劇が実現した[73]。一行は連れだって劇場に到着すると楽団が「君が代」を演奏し、曲が終了すると歓呼と拍手が巻き起こった[74]

6月8日はヴェルサイユ宮殿の見学を行った。宮殿側は設置した噴水を一斉に放水して歓迎した。大トリアノン宮殿を見学した後、フランス革命時に球戯場の誓いが行われた建物に立ち寄った。裕仁親王は飾られていた胸像を指さし、国民議会議長のジャン=シルヴァン・バイイであると随行者に説明した。また、多数の胸像のうち、オノーレ・ミラボーマクシミリアン・ロベスピエールの胸像に特に興味を示した。午後3時半にはパリに帰還し、オペラを観劇した。

6月9日は大使館員との午餐会の他は用事もなく、午前中はパリ市内で買い物などを楽しんだ[75]。6月10日、裕仁親王らはパリを離れ、ベルギーに向かった[68]

ベルギー[編集]

1919年のイーペル

6月10日午後5時、特別列車はブリュッセルに到着した。駅では国王アルベール1世ブラバント公レオポルド(後のレオポルド3世)、宮内大臣らが待っており、裕仁親王らを歓迎した[68]。国王と裕仁親王らはそのまま連れ立って王宮に向かい、歓迎の晩餐会が開かれた。日本とベルギーは公使館を大使館に格上げする合意を行っていたが、裕仁親王の訪問という機会に、在ベルギー日本公使館は大使館へと格上げされた[76]

6月11日、裕仁親王はレオポルド2世の墓に参拝した。午後には国王夫妻との午餐会があり、その後サンカントネール公園フランス語版第一次世界大戦のイーゼル付近での戦闘を再現したパノラマを見物した。博物館でコンゴの産品を見学した後、午後7時40分からは首相公邸における晩餐会にブラバント公とともに参加した。午後10時から市長主催のレセプションが行われた[77]。6月12日には裁判所を訪問した後、ワーテルローの戦いの古戦場を訪れ、一時間にわたって説明を受けた。夜には大使館で主催の晩餐会を開き、ブラバント公他多数の貴顕が参列した。同日には王宮からホテル・アストリアにうつった[77]

6月13日には第一次世界大戦の戦跡を訪れた。ベルギー戦死者の墓に献花を行った後、イーペルの戦い(第一次イーペル会戦英語版第二次イーペル会戦英語版)で有名なイーペルを訪れた。イーペルはかつてイギリス軍が四年にわたって闘った場所でもあり、裕仁親王は同地からイギリス国王への電報を送った[77]

6月14日にはアントウェルペンを訪れ、貴顕との昼食会やノートルダム大聖堂などの市内の観光を行った。同日中にはブリュッセルに戻り、国王との別れの挨拶を行った。午後8時にはアストリアホテルで日本大使主催の晩餐会が開かれた。6月15日の午後12時20分、ブラバント公他の見送りを受け、裕仁親王の一行はアムステルダムに向かった[78]

オランダ[編集]

6月15日午後5時15分に裕仁親王の一行は王配ヘンドリックが出迎えるアムステルダム駅に到着した。裕仁親王は王配とともに王宮に向かい、ウィルヘルミナ女王と面会した。その後アムステルダムの街をパレードし、市民の歓声を受けた。同日夜の晩餐会では裕仁親王がオランダ語で挨拶を行った。6月16日には王配の案内でダイヤモンド工房の見学を行い、宮中では王族のみの小規模な昼食会に出席した。午後6時にはデン・ハーグの宮殿に移り、夜にはエンマ王太后の宮殿における晩餐会に出席した[79]

6月17日には王配の案内でハウステンボス宮殿平和宮を訪れた。その後ロッテルダムを訪れ、市の歓迎会に出席した後、夕刻にはデン・ハーグに戻り、女王、王配、王太后とともに晩餐会に出席した。18日には女王に別れを告げ、午後にはアムステルダムのアルティス動物園英語版を訪れた。夜には日本大使主催の晩餐会が開かれた。19日には裕仁親王が閑院宮の宿所を訪れ、二人で食事を行っている。夕刻からは首相らが参席した晩餐会が開かれた[80]

ベルギー、フランス再訪[編集]

ソンムにおける戦跡(1916年時)

6月20日、裕仁親王らを乗せたオランダ王室の特別列車は、オランダ・ベルギー国境のエスケム駅に到着した。その後鉄道でルーヴェンに向かい、大司教他の歓迎を受けた。その後リエージュを訪れ、リエージュの戦いの戦跡を訪れた。午後5時半にはフランス国境に到着した[81]

6月21日にはパリの地下鉄に乗車し、パレ・ロワイヤル駅(現在のパレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅)からジョルジュ・サンク駅の四区間を地下鉄で移動した。

6月22日午前、裕仁親王らはセーヴル焼の工房を訪れた。夜からはペタン元帥の案内により、ストラスブールメスヴェルダンの戦跡を訪れるためアルザス=ロレーヌへ向かった[82]。6月23日午前にストラスブールに到着し、ペタン元帥とともに同地駐屯兵の閲兵を行った。ストラスブール大学見学や小舟でライン川下りの後、夕刻にストラスブールを出発し、夜9時半にメスに到着した[83]

6月25日早朝にはメスを出発し、ヴェルダンの戦いの戦跡を訪れた。かつてこの地で戦ったペタン元帥の説明は、極めて詳細にわたるものであった[84]。裕仁親王は銃撃された鉄カブトをながめ「戦争というものは、じつにひどいものだ。可哀想だね」と涙ぐんでつぶやいたという[85]。同日夜にはパリに戻り、大使館で誕生日を迎えた母皇后と弟淳宮(秩父宮)雍仁親王の健康を祈る小宴を開いた[85]

6月28日午前には国際度量衡局、午後3時からはソルボンヌ大学を訪れた。学内を見学した後、礼拝堂にある学生戦死者の墓に献花し、午後4時には帰還した[80]。また同日には、スペイン国王アルフォンソ13世と面会している[86][85]

6月29日にはソンムを訪れ、ソンムの戦いの戦跡と、戦禍にあった市民の姿を目の当たりにした。裕仁親王は案内役のルイ・フランシェ・デスペレー英語版大将に「この光景は、いまなお戦争を賛美するものがかならず訪れるべきものである」と告げた[87]。裕仁親王は二荒伯爵に対して、ソンムの戦災住民のために1万フランを下賜するよう命じた[85]

その後パリでは下水道、サン・シール陸軍士官学校ソミュール騎兵学校フランス語版、シャンパン工場などを訪れた[88]

7月6日、裕仁親王はエリゼ宮において大統領に別れの挨拶を行った[89]。7月7日午前8時50分、裕仁親王一行を乗せた特別列車は大統領や首相の代行、閣僚、各国大使、ペタン元帥らに見送られ、パリを出発した[90]

イタリア[編集]

特別列車は7月11日午前8時30分にはナポリに到着した[89]。同日ナポリ港英語版にはフランス上陸以来離れていた香取・鹿島の両艦がイタリア艦隊の歓迎を受け入港した。同地には王族スポレート公アイモーネ(後のクロアチア国王トミスラヴ2世)が訪れ、母であるアオスタ公エレナの挨拶を伝えた。午後2時半にはイタリア駆逐艦に乗ってカプリ島に渡り、青の洞窟を見学した。夕刻にはアオスタ公妃が訪れ、日本大使などとともに会食した。その後一行は香取に宿泊した[89]

翌7月12日午前6時に特別列車はナポリを出発した。11時にはローマに到着し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ピエモンテ公ウンベルト (後のウンベルト2世)アオスタ公エマヌエーレや閣僚らが出迎えた[89]。裕仁親王は国王とともに王宮クイリナーレ宮殿に向かい、宮殿のバルコニーでローマ市民の歓呼を受け、公式晩餐会に出席した[91]

7月13日にはボルゲーゼ公園で陸軍兵士の競技会を観覧した。午後8時からは裕仁親王主催で国王を主賓とした晩餐会が開かれた。7月14日にはイタリア側の手配により、ローマ市内の観光を行った。コロッセオフォロ・ロマーノカラカラ浴場等を巡った後、午前11時に帰還した。正午には国王との午餐会に出席し、午後5時からはローマ市長主催の歓迎レセプションが開かれた。午後8時には王宮で国王、アオスタ公とともに晩餐会に出席した[92]

7月15日、裕仁親王一行はサン・ピエトロ大聖堂サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂を拝観した後、午後4時半に教皇ベネディクトゥス15世と面会した。午後6時半には大使館に戻り、教皇からの答礼使を受けた。これ以降は公式の日程にならなかったが、王宮での晩餐会には国王が必ず出席していた[93]

7月16日、裕仁親王はバチカン美術館を訪れた後、午後3時には日本大使館でチェコスロバキア大統領トマーシュ・マサリクと面会している。3時45分には再びバチカン美術館を訪ね、午後6時まで観覧した。午後8時には王宮での私的な晩餐会に出席し、その後映画を鑑賞した[94]

7月17日午前に裕仁親王らは王宮を出発し、国王やアオスタ公の見守る中、特別列車に乗って再びナポリに向かった。ナポリではアオスタ公妃やスポレート公との午餐会に出席した後、水族館を観覧した。水棲生物に興味を持つ裕仁親王は、館員の詳細な説明を受けて大きく満足した。その後ポジリポ英語版岬まで自動車でドライブし、夜には香取艦上でアオスタ公妃やスポレート公を招いた告別の晩餐会を開いた[95]

7月18日にはイタリアの駆逐艦に乗船し、ポンペイの遺跡に向かった。ポンペイでは詳細な説明を受け、その場で発掘した遺物が裕仁親王と閑院宮に献上された。午後2時30分、香取と鹿島はイタリア艦隊の礼砲を受けながら出港し、帰国の途に就いた[96]

復路[編集]

7月22日に香取・鹿島はポートサイドに到着、7月23日にはイスマイリア、7月24日にはスエズに到着した。7月26日にはアデンに向け出港、8月1日午前6時にはアデンから出港した[97][98]。この日鹿島はグアルダフィに漂着した貨物船「暹羅丸」の乗組員59名の救助作業を行い、彼らを収容した後に香取と合流している[98]。8月3日には鹿島の乗組員1名が高波にあって海中に転落し、行方不明となった。両艦は日没まで近辺で捜索を行ったが、結局見つからなかった[99]

8月9日に一行はコロンボに到着した[97]が、本国が「皇太子殿下の身辺に身辺危険の報」があると伝えてきたため、上陸は行われなかった[99]。8月19日にはシンガポールには到着、8月21日にはカムラン湾に到着した[100]。鹿島・香取はここでペンキを塗り直すため8月24日まで停泊することになっていた[101]。同地には侍従甘露寺受長が出迎えのために派遣されており、天皇・皇后からの言葉を伝えた[101]。8月25日に一行はカムラン湾を出発し、一路日本を目指した。

帰国[編集]

逓信省(現在の日本郵便が発行した記念切手4種のうち3銭切手

当初帰国予定は9月2日の夜、千葉県館山湾に到着し、横浜港には9月3日に到着する予定であったが、軍艦は帰港の際に速度が高まることもあり(ホーム・スピード)、館山湾到着予定は9月2日の午前8時と、このまま行けば半日早まることとなった。しかし東京や横浜での帰国祝賀会は9月3日に予定されており、その日程にあわせるため、香取・鹿島は館山湾で一昼夜停泊することになった[102]。9月[26]2日午前8時、警衛艦山城と駆逐艦2隻が迎える中、香取と鹿島は館山港に入港した。浜辺では人々が万歳を叫び、花火が打ち上げられるなど歓迎の動きは夜半まで続いた[103]

9月3日午前6時に香取・鹿島は出港し、横浜港に向かった。午前9時15分、香取は横浜港に入港し、碇を降ろした。埠頭から淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王(高松宮)、閣僚、報道陣が乗る4隻のランチが香取に向かい、裕仁親王を出迎えた。甲板で帰朝の祝賀が行われた後、裕仁親王は内火艇に乗って港に上陸した。午前10時20分に横浜駅に到着し、東京へ向かったが、その経路に奉祝の市民が絶えることはなかった。随行した原首相は「殆ど人なき所なしとも云ふべき盛況にて、至処万歳の声を絶たず、如何にも国民歓喜の色を現わせり」と日記に記している[104]

午前11時15分、特別列車は東京駅に到着し、伏見宮や各国大使、華族・要人らが出迎えた。午後0時30分からは高輪の東宮御所で祝賀昼食会が行われた。午後2時30分、裕仁親王は外遊感想の令詞を原首相に下賜した。これは事前に作成されていたもので、宮内次官関屋貞三郎が原首相に内示したものだった。内容は外遊に関する朝野の一喜一憂を忘れないとすることや、世界平和の必要、連合国国民の「犠牲の精神」の偉大さと戦後の文明興隆に努力への感銘が強調されていた。また「彼の長を取りて我の短を補い」国運の隆昌を帰するとされている。原首相は若干修正を希望したが、結局は内示された文面のままとなった[105]

夜になっても東京では奉祝の動きが続き、品川海岸では131発の花火が打ち上げられ、提灯行列花電車が市内を駆けた[106]

裕仁親王は外遊前は坊主頭であったが、洋行中に髪を伸ばしており、「長髪」姿となっていた。当時の日本人としては珍しく、報道陣や原首相もこのことに触れている[107]。裕仁親王は天皇・皇后と弟達への土産物は自ら選び、天皇にはステッキ、皇后にはネックレス、淳宮には猟銃を贈った。裕仁親王はフランス滞在時に手に入れたナポレオン像、地下鉄の切符を大切に保管し[88]、現在でも宮内庁の所蔵品となっている[108]

洋行中の国内問題[編集]

6月頃、原首相が総裁である立憲政友会内では、内閣改造や内閣総辞職を求める動きが強まった。原は皇太子裕仁親王が洋行中に政変を起こせば、病中の大正天皇が内閣認証などの式典に臨むことになるが、それは病状から見て耐えられないとして、裕仁親王の帰国・摂政就任後に改造を行うとして運動の沈静化を図った。その後原は元老山縣らと摂政設置について協議を行っていた。

出典[編集]

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  2. ^ 伊藤之雄『昭和天皇伝』、p.99
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注釈[編集]

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  1. ^ 『論語』「里仁篇」の「子曰、父母在、不遠遊、遊必有方」(子曰く、父母がいる時は遠方に長く旅をしてはならない。旅をする時には必ず父母に行き先を教えるべきである。)
  2. ^ 沢田節蔵と共著で随行記『皇太子殿下御外遊記』がある。(東京日日新聞社大阪毎日新聞社、1924年)

参考文献[編集]

外部リンク[編集]