宮中某重大事件

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宮中某重大事件を報じる東京朝日新聞(1921年2月11日)

宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)は、1921年(大正10年)、裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)のに内定していた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)について、家系に色盲遺伝があるとして、元老山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件である。

概要[編集]

良子女王の兄・朝融王が、学習院の身体検査において色弱だったことが発見されたのが発端となった。元老の山縣らは、良子女王の家系が色盲の遺伝があるとして、女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫った。

当時軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山縣による皇室への干渉は、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になった。1920年(大正9年)6月18日に宮内大臣波多野敬直が更迭され、これに代わって元満鉄総裁・中村雄次郎が色覚異常の真偽を確かめることになった。

これを受けた当初は久邇宮家も辞退やむなしの動きを見せたが、当時病気療養中であった大正天皇に代わって皇室の家長のような存在であった貞明皇后や、良子女王の父・久邇宮邦彦王、元老の松方正義西園寺公望は婚約の破棄に反対を表明。また、頭山満など国粋主義の人間が同調したり、「北一輝等が山縣を暗殺するべく刺客団を編成した」といった流言が広まった。

最終的には、当の裕仁親王本人の意向で婚約辞退は撤回となる。1921年2月10日、政府から「婚約は破棄されることはなくいずれ御成婚」と発表された。

この事件で山縣の権威は大きく失墜し、一度は元老と爵位返上の意向も伝えられたが慰留された。翌年、山縣は失意のうちに死去した。

問題の背景[編集]

良子女王の母・邦彦王妃俔子は旧薩摩藩藩主の公爵・島津忠義の娘であったことから、「旧長州藩出身の山縣は皇室に薩摩の血が入るのを嫌っているのではないか」との憶測が主流を占めていた。

ただしこの事件の発端は、同じ元老である西園寺が、当時注目されていた優生学の観点から、万世一系の皇室の遺伝に障害が生じる可能性を山縣に相談したことにあるといわれている。さらに公家出身で幕末宮廷の内部事情に詳しい西園寺は、久邇宮家の祖である久邇宮朝彦親王(旧中川宮)が八月十八日の政変などで政治的事件へ干渉したことなどに不快感をもっていたため、この婚儀によって久邇宮家の国政干渉が再現される可能性を危惧していたともいわれる[1]。また、当時の徴兵制においては色覚異常のあるものは軍務に就くことができなかったため、陸海軍の形式的な「大元帥」となるべき皇太子に色覚異常が生じることを嫌ったという説もある。

しかしこのような事情が世間に伝わることはなく、かえって長州対薩摩の藩閥抗争であるかのように見られた側面があり、これを千載一遇の機会として反山縣派がその追い落としを計るという構図になった。山縣(長州)側が、宮中支配が弱まることを嫌って妨害を行ったとする通俗的解釈もあるが、この事件を収拾するために宮内大臣となった牧野伸顕大久保利通の次男であり薩摩派に近い)がこの事件を覚えのために調査したが、山縣の陰謀であるという見方はとっていない[2]。なお牧野は自らの責任でこの事件の後始末をつけたことにより大きく自信を持ち、力を失った山縣系官僚や首相に代わって宮中を掌握していく[3]

また、一貫して山縣との協調姿勢をとっていた当時の首相・原敬は、この事件でも婚約破棄に関して明確な反対を示しておらず、後の皇太子訪欧における対応とあいまって、国粋主義者から「君側の奸」とみなされるようになる。これが一部の過激派から暗殺の対象として狙われるようになり、原敬暗殺事件の遠因となった。

参考文献[編集]

  • 大野芳『宮中某重大事件』
講談社、1993年) ISBN 4-06-206468-5
学研M文庫、2012年) ISBN 978-4-05-900793-7

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 黒沢文貴「【研究余録】裕仁親王の結婚に躊躇する貞明皇后 宮中某重大事件のその後」 吉川弘文館日本歴史』2008年10月号 No.725 ISSN 0386-9164 p85~p89 を参照。
  2. ^ 伊藤之雄 『日本の歴史22 政党政治と天皇』 講談社学術文庫 ISBN 978-4062919227、144p
  3. ^ 伊藤、153p