東京都立駒場高等学校

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東京都立駒場高等学校
Metropolitan Komaba highschool.jpg
国公私立の別 公立学校(都立)
設置者 東京都の旗 東京都
設立年月日 1905年明治38年
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
保健体育科
学期 3学期制
高校コード 13168H
所在地 153-0044
東京都目黒区大橋二丁目18番1号
外部リンク 公式サイト
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校舎外観
校内の案内図
石のオブジェ「五大陸」
陸上競技場
散策路
仰光寮の内部

東京都立駒場高等学校(とうきょうとりつ こまばこうとうがっこう)は、東京都目黒区大橋にある都立高等学校

概要[編集]

東京府立第三高等女学校を前身とする都立高等学校。目黒区立第一中学校と校地が隣接している。周囲には筑波大駒場駒場東邦駒場学園日本工大駒場など多くの学校が立地し、東京大学教養学部から南におよそ700mの高台に位置する。1946年(昭和21年)に現在地に移転してくるまで麻布(旧麻布日ヶ窪町、現六本木ヒルズ付近の港区立六本木中学校の地)に校舎があった。

戦前は高等女子教育の名門中の名門としてその名を馳せ、「浅草の第一(白鴎)、小石川の第二(竹早)、麻布の第三(駒場)」と評されていた[1]。初代校長の小林盈は体力養成を強く奨励。「足の大きくなる学校」と言われる程、体操授業に力を入れ、1929年まで20年以上にわたって校長職を務め、府立三女の基礎を築いた。1930年広瀬雄(第3代・前 府立三中校長)が校長に就任すると、校友会活動にも力を入れ、活発な活動を行うようになっていく[2]。戦後の学制改革により男女共学に移行した後も、各界に多彩な人材を送り出してきた。特に都立高校全盛期において、女子では都立難関校の一つに数えられていた。

歴史的建造物である仰光寮が保存されているなど、伝統校としての一面がうかがえる。一方で、土曜授業の導入や進学指導体制の整備が進んでいる。

また2007年6月には東京都教育委員会より国分寺小山台新宿町田の各校と共に「進学指導特別推進校」に指定され、教員の公募制や進学指導体制の更なる充実を実施し、進学実績向上に取り組んでいる。

沿革[編集]

仰光寮(お花御殿)[編集]

敷地内には「仰光寮」と呼ばれる木造二階建ての建築物が残されている。これはもともと香淳皇后が当時の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定した際、お妃教育の場として建てられた「お花御殿」である。彼女が入内した後、当時の東京市麻布区日ヶ窪に校舎があった東京府立第三高等女学校(現在の駒場高等学校)に下賜された[3]第二次世界大戦後に校舎を現在地に移転した際に仰光寮を移築し、現在に至っている[3]

現在は老朽化が進み立ち入り禁止の措置がとられているが、学園祭の際には例外的に寮中を見学することができる。

閉校した東京都立芸術高等学校との関係[編集]

東京都立芸術高等学校の閉校後、その事務は東京都立総合芸術高等学校が承継した。本来であれば、母体校であった本校にその事務が承継され、また、沿革資料等も承継保存されるべきところであるが、1972年(昭和47年)の独立時の経緯(本校との関係が険悪なものとなった)や、同窓会や後援会が閉校を認めずに単なる改称であると振る舞ったことから、本校にはまったく承継されるものが無かった。そもそも、このような同窓会や後援会の振る舞いが学校を閉校に追い込むことになった原因の一つであり、本校から独立した東京都立芸術高等学校を、学科を新設し東京都立総合芸術高等学校へと校名の名称変更とせず、40周年をもって閉校。改編して新規に東京都立総合芸術高等学校を開校としたのには東京都教育委員会の意図があるのである。

交通[編集]

著名な関係者[編集]

出身者[編集]

括弧内は職業と卒業年。但し、中退者等は例外あり。

教職員[編集]

脚注[編集]

  1. ^ あるいは「浅草の一女、小石川の二女、麻布の三女」 『慕いて集える』(創立百周年記念誌編纂委員会編集、都立駒場高校発行、2003年11月30日) P53、『都立高校のすべてがわかる本』(山崎謙山下出版、2000年8月15日) P94 などを参照。
  2. ^ 『東京都立駒場高等学校創立60周年』 (1963年) P11 ~ P19。
  3. ^ a b 施設の概要 東京都立駒場高等学校公式サイト

関連項目[編集]

外部リンク[編集]