奈良武次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
奈良 武次
Takeji Nara.jpg
生誕 1868年4月28日
日本の旗 日本 下野国都賀郡上南摩村(現・栃木県鹿沼市
死没 1962年12月21日(満-9906歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1889 - 1933
最終階級 帝國陸軍の階級―肩章―大将.svg 陸軍大将
除隊後 大日本武徳会会長
枢密顧問官
軍人援護会会長
テンプレートを表示

奈良 武次(なら たけじ、慶応4年4月6日1868年4月28日) - 昭和37年(1962年12月21日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将男爵

経歴[編集]

農民・奈良彦一郎の次男として下野国都賀郡上南摩村(現・栃木県鹿沼市)に生れる。進文学舎、陸軍有斐学校を経て、明治22年(1889年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。明治26年(1893年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。要塞砲兵監副官を経て、明治32年(1899年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。参謀本部出仕(第3部)、陸軍省軍務局課員、由良要塞砲兵連隊大隊長、ドイツ駐在などを歴任。

日露戦争では、第3軍攻城砲兵司令部員として出征し、独立重砲兵旅団司令部員となった。日露戦後は軍務局課員(軍事課)、ドイツ駐在、軍務局砲兵課長、陸軍省副官などを経て、大正3年(1914年)8月、陸軍少将に進級し、支那駐屯軍司令官、青島守備軍参謀長、軍務局長を歴任。大正7年(1918年)7月、陸軍中将となり、第一次世界大戦講和会議に陸軍委員として派遣された。さらに、東宮武官侍従武官、東宮武官長、侍従武官長を歴任。大正13年(1924年)8月、陸軍大将となり、昭和8年(1933年)4月、男爵の位を叙爵し華族となり後備役に編入、昭和14年(1939年)3月に退役した。

退役後は大日本武徳会会長、枢密顧問官、軍人援護会会長を歴任し、昭和21年(1946年)8月、公職追放となった。昭和37年(1962年)、94歳で死去。

栄典[編集]

親族[編集]

著作[編集]

  • 『侍従武官長奈良武次日記・回顧録』全4巻、柏書房、2000年。

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『官報』第2431号、「授爵・叙任及辞令」1920年09月08日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。


先代:
佐藤鋼次郎
支那駐屯軍司令官
第2代:1914年6月8日 - 1915年7月5日
次代:
斎藤季治郎
先代:
小川賢之助
東宮武官長
第7代:1920年7月16日 - 1926年12月25日
次代:
廃止
先代:
内山小二郎
侍従武官長
第4代:1926年12月25日 - 1933年4月6日
次代:
本庄繁