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'''ハクチカラ''' (''Hakuchikara'') とは、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]である。日本の[[調教]]馬として初めて日本国外の[[重賞]]制覇<ref>日本ではハクチカラの勝利したワシントンバースデイハンデキャップを[[重賞]]として一般的に扱っているが、当時は[[グレード制]]も導入されていなかったので、重賞として扱わないこともある。</ref>を達成したほか、日本国内でも[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を勝利するなど活躍した。のちに[[インド]]に寄贈され、当地で生涯を閉じた。[[1957年]][[JRA賞|啓衆社賞]]年度代表馬、[[1984年]][[顕彰馬]]に選出。[[半弟]]に重賞を4勝したヤシマフアーストがいる。 |
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== 戦績 == |
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[[馬齢]]は[[2000年]]以前は旧表記を用いる。 |
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国内([[中央競馬]])で[[キタノオー]]や[[ヘキラク]]といったライバルを相手に東京優駿、[[目黒記念|目黒記念(春・秋)]]、[[天皇賞|天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]など |
日本国内([[中央競馬]])では[[キタノオー]]や[[ヘキラク]]といったライバルを相手に東京優駿、[[目黒記念|目黒記念(春・秋)]]、[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]などで優勝。本格化した旧5歳秋以前は強力なライバルたちがいたことも相まって取りこぼした競走も少なくないが、本格化してからの秋の天皇賞・有馬記念([[1957年]])ではいずれも[[投票券 (公営競技)#単勝|単勝]]支持率が8割を超えるという圧倒的な支持に応えての優勝で、名実ともに日本競馬の現役最強馬となった。しかし、[[馬齢|古馬]]の最高格の競走である天皇賞と有馬記念を制したということは、すなわちハクチカラの名声を高めるために日本で出走するべき競走がもはや存在しないということを、同時に意味することでもあった(しかも、当時の天皇賞は勝ち抜け制で、優勝経験馬にはそれ以降の天皇賞への出走権がなかった)<ref>ちなみに、後年同様の理由で日本国外への遠征を陣営が計画した馬としては[[テンポイント]]がいる。</ref>。日本での成績は32戦20勝。 |
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翌[[1958年]]、関係者は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]遠征を決行し、[[1958年]]5月にハクチカラを渡[[アメリカ合衆国|米]]させた。これは日本の競馬関係者が育成してきた競走馬が、史上初めて |
翌[[1958年]]、関係者は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]遠征を決行し、[[1958年]]5月にハクチカラを渡[[アメリカ合衆国|米]]させた。これは日本の競馬関係者が育成してきた競走馬が、史上初めて日本国外の競馬先進国と呼ばれる地域に挑戦したものとなった<ref>ハクチカラ以前の海外遠征については[[日本調教馬の日本国外への遠征]]を参照。</ref>。 |
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ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては[[飛行機]]に乗る |
ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては[[飛行機]]に乗ること自体が高嶺の花であり、増してやデリケートな[[サラブレッド]]を[[太平洋]]横断させるという、このようなスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカですらほとんど有していないに等しい状態であった。このことから、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った[[旅客機]]が[[チャーター便]]として用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった([[#(参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情|※下記参照]])。 |
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日本の空港には馬を出し入れできる[[スロープ]]がなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の[[拳銃]]の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意する |
日本の空港には馬を出し入れできる[[斜路|スロープ]]がなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の[[拳銃]]の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意することを条件とされたため、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈るような思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中まったく落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。 |
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ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた[[騎手]]・[[保田隆芳]]は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。 |
ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた[[騎手]]・[[保田隆芳]]は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。 |
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ハクチカラがアメリカ競馬に姿を現したのは[[7月2日]]のアローワンス[[競馬の競走|競走]]。しかしこの初戦は最下位9着、2戦目も最下位9着に敗れた。ようやく3戦目のサンセットハンデキャップで6頭立ての4着(この |
ハクチカラがアメリカ競馬に姿を現したのは[[7月2日]]のアローワンス[[競馬の競走|競走]]。しかしこの初戦は最下位9着、2戦目も最下位9着に敗れた。ようやく3戦目のサンセットハンデキャップで6頭立ての4着(このときの1着は[[ギャラントマン]]である)になるも4戦目、5戦目と着外<ref>日本では6着以下、日本国外では4着以下などを指すが、この項では前者で扱う。</ref>に敗れ最初の2か月間はまったくの不振であった。しばらくの休養後12月に復帰。それまで騎乗していた保田が帰国し、騎手が[[エディ・アーキャロ]]に変わった6戦目、トーナメントオブロージズ賞から好走するようになり、3着、2着、5着、4着と入着<ref>着外の[[対義語]]で、この項では5着以上で扱う。</ref>を続けた。そして11戦目、レー・ヨーク騎手が騎乗したワシントンバースデイハンデキャップで歴史的瞬間を迎えた。このとき11.5[[キログラム]]もの[[負担重量|斤量]]差や、相手に故障のアクシデントがあったとはいえ、当時の世界賞金記録を持っていた[[ラウンドテーブル]]を破ってのものであり、日本の[[新聞社]]は写真入りの記事でハクチカラの勝利を伝えた。このとき[[アルゼンチン]]<!-- 生まれはアルゼンチンであるが遠征なのか移籍しての出走だったのか判明しません。-->のアニサド以下14頭も同時に破っている。その後は不振が続きそのまま引退。海外での成績は17戦1勝。このあと、日本生産馬としては[[2002年]]の[[サンデーブレイク]]、日本調教馬としては[[2005年]]の[[シーザリオ]]まで<ref>日本で調教を受けたことがある馬としては、フェスティバルが[[2004年]]のG3ダリアハンデキャップを制している。</ref>、アメリカの重賞を勝つことはなかった<ref>ステークス競走では[[1983年]]にマウイズシルシャークがフェアディレクターズカップステークスを、[[1986年]]にマウイリィフォージェイがリッチモンドハンデキャップを優勝している。この2頭は兄弟でともに日本で生まれ、アメリカで[[調教]]を受けていた。</ref>。 |
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なお、アメリカでの騎乗では |
なお、アメリカでの騎乗ではよいところのなかった保田であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎えることになった。それは当地の最新の騎乗技術、すなわち[[モンキー乗り]]を習得したことであり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は[[天神乗り]]が主流であった中央競馬の[[リーディングジョッキー]]争いをたちまち席巻したことは有名である。 |
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競走生活を引退後のハクチカラは、日本に帰国して[[種牡馬]]になったが活躍馬には恵まれず、[[1968年]]に[[インド]]に寄贈され、再度海を越える |
競走生活を引退後のハクチカラは、日本に帰国して[[種牡馬]]になったが活躍馬には恵まれず、[[1968年]]に[[インド]]に寄贈され、再度海を越えることになる。インドでは国立クニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)など数頭のインドの[[クラシック (競馬)|クラシック]]優勝馬を出したあと、[[1979年]]に[[老衰]]のため26歳で死亡した。ハクチカラの血を引く馬は現在は日本のサラブレッドには残っておらず、[[水沢競馬場]]で活躍したダンディキングの母ミスハクギン([[アングロアラブ]])くらいしか現存していない。また、インドでもその後導入された欧米の繁殖馬に圧されてしまい、現在ではほとんど残っていない。 |
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=== (参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情 === |
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ハクチカラがアメリカ遠征を敢行した1958年5月当時は、太平洋横断線を往来する航空機はまだ[[DC-7]]を主力とするプロペラ機のみで、現在の |
ハクチカラがアメリカ遠征を敢行した1958年5月当時は、太平洋横断線を往来する航空機はまだ[[DC-7]]を主力とするプロペラ機のみで、現在のような[[ジェット機]]はアメリカの航空会社のものも含めて未就航の段階であった。 |
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当時、日本に飛来した |
当時、日本に飛来したことのある中長距離国際線用のジェット機としては、世界初の実用ジェット旅客機であった[[イギリス]]製の[[デ・ハビランド DH.106 コメット|コメット]]が存在したが、当時は連続して発生した[[コメット連続墜落事故]]の対策作業のために飛行停止中。アメリカ製の[[ボーイング707]]、[[DC-8]]はいずれも、日本はもとよりアメリカでも営業路線への就航開始前の段階である。したがって、ハクチカラの渡米当時はそもそもプロペラ機のほかに選択肢が存在していなかった。 |
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なお、この |
なお、このほかの中長距離ジェット旅客機としては、[[ソビエト連邦|ソ連]]で[[Tu-104 (航空機)|Tu-104]]が就航していたが、当時の日本へは飛来していない。 |
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=== 年度別成績 === |
=== 年度別成績 === |
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1955年(6戦5勝) |
*1955年(6戦5勝) |
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*2着 [[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]] |
**2着 [[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]] |
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1956年(11戦6勝) |
*1956年(11戦6勝) |
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*1着 [[東京優駿]]、[[カブトヤマ記念]] |
**1着 [[東京優駿]]、[[カブトヤマ記念]] |
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1957年(15戦9勝) |
*1957年(15戦9勝) |
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*1着 [[天皇賞]](秋)、[[有馬記念]]、[[目黒記念]](春)、目黒記念(秋)、[[東京新聞杯|東京杯]]、[[日経賞|日本経済賞]]、[[毎日王冠]] |
**1着 [[天皇賞]](秋)、[[有馬記念]]、[[目黒記念]](春)、目黒記念(秋)、[[東京新聞杯|東京杯]]、[[日経賞|日本経済賞]]、[[毎日王冠]] |
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*2着 [[中山金杯|金杯]]、[[安田記念|安田賞]]、[[オールカマー]] |
**2着 [[中山金杯|金杯]]、[[安田記念|安田賞]]、[[オールカマー]] |
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1958年(6戦0勝) |
*1958年(6戦0勝) |
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*1着 ワシントンバースデイハンデキャップ |
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*[[キタノオー]] - [[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]、[[菊花賞]]、天皇賞(春)、対ハクチカラ6勝4敗、[[サラブレッド系種|サラ系]] |
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*[[ヘキラク]] - [[皐月賞]]、対ハクチカラ2勝12敗 |
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2011年7月9日 (土) 09:43時点における版
ハクチカラ | |
---|---|
欧字表記 | Hakuchikara |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1953年4月20日 |
死没 | 1979年8月6日(27歳没・旧表記)[1] |
父 | トビサクラ |
母 | 昇城 |
母の父 | ダイオライト |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | ヤシマ牧場 |
馬主 | 西博 |
調教師 | 尾形藤吉(東京) |
競走成績 | |
生涯成績 | 49戦21勝 |
獲得賞金 |
1656万8070円 +約8万ドル |
ハクチカラ (Hakuchikara) とは、日本の競走馬、種牡馬である。日本の調教馬として初めて日本国外の重賞制覇[2]を達成したほか、日本国内でも東京優駿(日本ダービー)を勝利するなど活躍した。のちにインドに寄贈され、当地で生涯を閉じた。1957年啓衆社賞年度代表馬、1984年顕彰馬に選出。半弟に重賞を4勝したヤシマフアーストがいる。
戦績
日本国内(中央競馬)ではキタノオーやヘキラクといったライバルを相手に東京優駿、目黒記念(春・秋)、天皇賞(秋)、有馬記念などで優勝。本格化した旧5歳秋以前は強力なライバルたちがいたことも相まって取りこぼした競走も少なくないが、本格化してからの秋の天皇賞・有馬記念(1957年)ではいずれも単勝支持率が8割を超えるという圧倒的な支持に応えての優勝で、名実ともに日本競馬の現役最強馬となった。しかし、古馬の最高格の競走である天皇賞と有馬記念を制したということは、すなわちハクチカラの名声を高めるために日本で出走するべき競走がもはや存在しないということを、同時に意味することでもあった(しかも、当時の天皇賞は勝ち抜け制で、優勝経験馬にはそれ以降の天皇賞への出走権がなかった)[3]。日本での成績は32戦20勝。
翌1958年、関係者はアメリカ遠征を決行し、1958年5月にハクチカラを渡米させた。これは日本の競馬関係者が育成してきた競走馬が、史上初めて日本国外の競馬先進国と呼ばれる地域に挑戦したものとなった[4]。
ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては飛行機に乗ること自体が高嶺の花であり、増してやデリケートなサラブレッドを太平洋横断させるという、このようなスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカですらほとんど有していないに等しい状態であった。このことから、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った旅客機がチャーター便として用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった(※下記参照)。
日本の空港には馬を出し入れできるスロープがなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の拳銃の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意することを条件とされたため、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈るような思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中まったく落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。
ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた騎手・保田隆芳は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。
ハクチカラがアメリカ競馬に姿を現したのは7月2日のアローワンス競走。しかしこの初戦は最下位9着、2戦目も最下位9着に敗れた。ようやく3戦目のサンセットハンデキャップで6頭立ての4着(このときの1着はギャラントマンである)になるも4戦目、5戦目と着外[5]に敗れ最初の2か月間はまったくの不振であった。しばらくの休養後12月に復帰。それまで騎乗していた保田が帰国し、騎手がエディ・アーキャロに変わった6戦目、トーナメントオブロージズ賞から好走するようになり、3着、2着、5着、4着と入着[6]を続けた。そして11戦目、レー・ヨーク騎手が騎乗したワシントンバースデイハンデキャップで歴史的瞬間を迎えた。このとき11.5キログラムもの斤量差や、相手に故障のアクシデントがあったとはいえ、当時の世界賞金記録を持っていたラウンドテーブルを破ってのものであり、日本の新聞社は写真入りの記事でハクチカラの勝利を伝えた。このときアルゼンチンのアニサド以下14頭も同時に破っている。その後は不振が続きそのまま引退。海外での成績は17戦1勝。このあと、日本生産馬としては2002年のサンデーブレイク、日本調教馬としては2005年のシーザリオまで[7]、アメリカの重賞を勝つことはなかった[8]。
なお、アメリカでの騎乗ではよいところのなかった保田であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎えることになった。それは当地の最新の騎乗技術、すなわちモンキー乗りを習得したことであり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は天神乗りが主流であった中央競馬のリーディングジョッキー争いをたちまち席巻したことは有名である。
競走生活を引退後のハクチカラは、日本に帰国して種牡馬になったが活躍馬には恵まれず、1968年にインドに寄贈され、再度海を越えることになる。インドでは国立クニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)など数頭のインドのクラシック優勝馬を出したあと、1979年に老衰のため26歳で死亡した。ハクチカラの血を引く馬は現在は日本のサラブレッドには残っておらず、水沢競馬場で活躍したダンディキングの母ミスハクギン(アングロアラブ)くらいしか現存していない。また、インドでもその後導入された欧米の繁殖馬に圧されてしまい、現在ではほとんど残っていない。
(参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情
ハクチカラがアメリカ遠征を敢行した1958年5月当時は、太平洋横断線を往来する航空機はまだDC-7を主力とするプロペラ機のみで、現在のようなジェット機はアメリカの航空会社のものも含めて未就航の段階であった。
当時、日本に飛来したことのある中長距離国際線用のジェット機としては、世界初の実用ジェット旅客機であったイギリス製のコメットが存在したが、当時は連続して発生したコメット連続墜落事故の対策作業のために飛行停止中。アメリカ製のボーイング707、DC-8はいずれも、日本はもとよりアメリカでも営業路線への就航開始前の段階である。したがって、ハクチカラの渡米当時はそもそもプロペラ機のほかに選択肢が存在していなかった。
なお、このほかの中長距離ジェット旅客機としては、ソ連でTu-104が就航していたが、当時の日本へは飛来していない。
年度別成績
- 1955年(6戦5勝)
- 2着 朝日杯3歳ステークス
- 1956年(11戦6勝)
- 1957年(15戦9勝)
- 1958年(6戦0勝)
- 2着 トーナメントオブロージズ賞
- 1959年(11戦1勝)
- 1着 ワシントンバースデイハンデキャップ
- 2着 カリフォルニア州共進会賞
おもな対戦馬
- キタノオー - 朝日杯3歳ステークス、菊花賞、天皇賞(春)、対ハクチカラ6勝4敗、サラ系
- ヘキラク - 皐月賞、対ハクチカラ2勝12敗
- ラウンドテーブル (Round Table) - サンタアニタハンデキャップほか66戦43勝、当時の賞金王、ワシントンバースデイハンデキャップでは競走中に故障
- ギャラントマン (Gallant Man) - ベルモントステークスほか26戦14勝、ラウンドテーブル、ボールドルーラーのライバル
血統表
ハクチカラの血統(ブランドフォード系/Orby5×5=6.25%) | (血統表の出典) | |||
父 トビサクラ 1942 栗毛 |
父の父 *プリメロPrimero 1931 鹿毛 |
Blandford | Swynford | |
Blanche | ||||
Athasi | Farasi | |||
Athgreany | ||||
父の母 *フライアースメードンFriar's Maiden 1931 鹿毛 |
Friar Marcus | Cicero | ||
Prim Nun | ||||
Tetrarch Girl | The Tetrarch | |||
Affinity | ||||
母 昇城 1944 栗毛 |
*ダイオライト Diolite 1927 黒鹿毛 |
Diophon | Grand Parade | |
Donnetta | ||||
Needle Rock | Rock Sand | |||
Needlepoint | ||||
母の母 月城1932 栗毛 |
Campfire | Olambala | ||
Nightfall | ||||
*星旗 Fairy Maiden |
Gnome | |||
Tuscan Maiden F-No.16-h |
脚注
- ^ 『優駿』1979年10月号、p.72
- ^ 日本ではハクチカラの勝利したワシントンバースデイハンデキャップを重賞として一般的に扱っているが、当時はグレード制も導入されていなかったので、重賞として扱わないこともある。
- ^ ちなみに、後年同様の理由で日本国外への遠征を陣営が計画した馬としてはテンポイントがいる。
- ^ ハクチカラ以前の海外遠征については日本調教馬の日本国外への遠征を参照。
- ^ 日本では6着以下、日本国外では4着以下などを指すが、この項では前者で扱う。
- ^ 着外の対義語で、この項では5着以上で扱う。
- ^ 日本で調教を受けたことがある馬としては、フェスティバルが2004年のG3ダリアハンデキャップを制している。
- ^ ステークス競走では1983年にマウイズシルシャークがフェアディレクターズカップステークスを、1986年にマウイリィフォージェイがリッチモンドハンデキャップを優勝している。この2頭は兄弟でともに日本で生まれ、アメリカで調教を受けていた。