アドマイヤベガ

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アドマイヤベガ
Admirevega.jpg
2000年11月25日 東京競馬場
欧字表記 Admire Vega[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [2][1]
毛色 鹿毛[2][1]
生誕 1996年3月12日[2][1]
死没 2004年10月29日(8歳没)[3]
サンデーサイレンス[2][1]
ベガ[2][1]
母の父 トニービン[2][1]
生国 日本の旗 日本北海道早来町[2][1]
生産者 ノーザンファーム[2][1]
生産牧場 ノーザンファーム[4]
馬主 近藤利一[2][1]
調教師 橋田満栗東[2][1]
調教助手 児玉武大[5]
厩務員 児玉武大[5]
競走成績
生涯成績 8戦4勝[2][1]
獲得賞金 2億9060万2000円[2][1]
勝ち鞍
GI 東京優駿 1999年
GII 京都新聞杯 1999年
GIII ラジオたんぱ杯3歳ステークス 1998年
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アドマイヤベガ(欧字名:Admire Vega1996年3月12日 - 2004年10月29日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1999年東京優駿(日本ダービー)優勝馬。その他の勝ち鞍に、1998年のラジオたんぱ杯3歳ステークスGIII)、1999年の京都新聞杯GII)。キストゥヘヴンブルーメンブラットテイエムドラゴンメルシーモンサンの父、ニホンピロアワーズの母父として知られる。

1993年牝馬クラシック二冠ベガの初仔である。全弟にセントライト記念を勝ったアドマイヤボス、半弟に朝日杯フューチュリティステークス帝王賞などGI級競走7勝のアドマイヤドン(父:ティンバーカントリー)がいる。

生涯[編集]

デビューまで[編集]

誕生までの経緯[編集]

トニービンベガは、社台ファーム創業者吉田善哉の妻吉田和子が所有した牝馬である[6]。1993年に競走馬としてデビューし、武豊が騎乗して「2戦目の新馬戦」とチューリップ賞を連勝[7]。そして臨んだ桜花賞レース直前、その姿に心奪われていた冠名「アドマイヤ」を用いる馬主近藤利一が、和子の次男吉田勝己に対して「ベガを、いまレース前に1億円で譲ってくれませんか」と要求していた[8][9]。勝己は「いやあ、これは母の馬ですから」と拒否したが、近藤は引き下がらず「それなら、ベガの仔を私に売ってください。約束ですよ。」と交渉していた[8][9]。その桜花賞を優勝した後、和子の長男吉田照哉は、ベガの次走を牝馬限定のクラシックである優駿牝馬(オークス)ではなく、主に牡馬が揃う東京優駿(日本ダービー)とすることを予告する[10]。社台にとっては1983年、シャダイソフィア以来の桜花賞優勝馬のダービー参戦[注釈 1]であり、照哉は「シャダイソフィアの時[注釈 2]とは意味合いが違うよ[10]」ともちらつかせていた[10]

しかし、主戦の武が騎乗したナリタタイシン皐月賞を制し、ダービー続投が濃厚になったこと、社台生産馬が多数ダービーに出走すること[注釈 3]から、参戦を断念[12]。結局、型にはまって優駿牝馬を選択して優勝し、史上9頭目[注釈 4]の牝馬クラシック二冠を果たした[13]。ベガは翌1994年も現役を続行したが、夏の宝塚記念直後に左前脚の指骨骨折を発症しそのまま引退となる[14]。その翌年の1995年から、ノーザンファームにて繁殖牝馬となった[6]。初年度の交配相手には、初年度産駒フジキセキジェニュインなどがクラシックで活躍中のサンデーサイレンスが選ばれる。種付けには人間を手こずらせたが、受胎を果たす[15]。しかし受胎したのは双子であり、誕生までに片方が取り除かれている[16][17]

幼駒時代[編集]

1996年3月12日、北海道早来町のノーザンファームにて、ベガの初仔(後のアドマイヤベガ)が誕生する。母は授乳が、仔は乳飲みが上手だった[15]。仔は放牧地の雪の上では人間の手がなくとも正しく立ち「手間のかからない仔[15]」だったという。初仔は、前出の桜花賞の件のおかげもあり、ほどなく近藤の所有が決定する。近藤は、十数年の関係にある栗東トレーニングセンター所属の調教師橋田満に声を掛けて、橋田厩舎への入厩が内定する[18]。初仔には、近藤の冠名「アドマイヤ」に母名の「ベガ」組み合わせた「アドマイヤベガ」という競走馬名が与えられた。母ベガを吉田和子が所有するきっかけとなったのは、前脚が内側に曲がっていたことだったが、仔も前脚が同様に曲がっていた[19][20]。ただし曲がり具合は、仔の方が小さかった[21]。また初仔のために体は小さく、橋田によれば「サンデーサイレンスの仔は骨太には出ない(中略)が、それにしても小ぶりで華奢[8]」だったという。ただし少し曲がった脚を持つアドマイヤベガにとって、小ぶりな馬体は脚への負担が小さくなるという点で都合が良かった[22]。ゆえに、母が苦しんだ自らとの戦いをせずに済んでいた[22]

アドマイヤベガは、ベガの初仔という血統背景から牧場内での期待も高かったが、生後1か月に検分した橋田によれば「普通の馬」であった[18]。牧場でも同様に、注目を集めるというほどでもなかった[21]。ベガと再会するためにノーザンファームを訪れた武は、ついでにアドマイヤベガを見た際「犬か鹿のような」と感じたという[23]。加えて調教過程に入っても、特筆するタイムを叩き出すわけでもなく、ノーザンファーム場長の秋田博章によれば「とにかく平凡な馬[24]」だった[21]。しかし2歳9月になって育成牧場へ移り、本格的な調教に乗り出すと、担当の日下和博が騎乗した初日に「軽自動車と最高級車の違いというか。とにかく体全体がヤワい(中略)バネがあって、いくら乗っていても疲れない。この仕事に就いて10年目になるんですが、初めてといっていい体験[24]」と振り返るほどの乗り味の良さを感じ取っていた[24]。さらにメリハリが利く頭の良さもあったと認めている[24]。育成段階では、擦り傷を一つも作らなかったなどアクシデントとは無縁の牧場時代を送った[24]。3歳、1998年は猛暑だったため、アドマイヤベガは夏は北海道に留め置かれ、夏が過ぎた秋の9月5日に栗東の橋田厩舎に入厩する[23]。橋田は2歳までのアドマイヤベガを、馬体のバランスが悪いとして高く見込んでいなかった。しかし牧場で調教が進むにつれて、馬体が良化、後に「あの馬がよくなったのは3歳になってから[18]」だったと振り返っている。

橋田厩舎の管理馬では、サイレンススズカに続いて2頭目となるサンデーサイレンス産駒が、アドマイヤベガだった[18]。アドマイヤベガの2歳年上サイレンススズカは、1998年10月まで6連勝中、重賞5連勝中であり、宝塚記念中山記念金鯱賞毎日王冠を優勝する厩舎のエースだった。橋田はサイレンススズカとアドマイヤベガの比較について「とてもきれいな馬で、産まれた時から特別な雰囲気を漂わせていたサイレンススズカなどは、むしろ例外的な存在(中略)その意味でアドマイヤベガは、典型的なサンデー(サイレンス)の仔という感じでしたね[18]」と述べている。アドマイヤベガの主戦騎手には、母ベガの主戦騎手であり、連勝中サイレンススズカの主戦騎手でもあった武が起用される。武の起用は2歳の頃から決まっていたという[25]

トレーニングセンターでの調教では、平凡な内容だった[18]。橋田によれば、「高いレベルのなかでの並。高級料理店で出てくる並の料理のようなもの[18]」だったという。しかし橋田はアドマイヤベガに潜在する能力があると確信し、クラシックで活躍する器だと認識するようになる[18]。そこで、翌春のクラシックに余裕を持って臨めるようなローテーションを設定した[23]。具体的には、3歳の11月7日の新馬戦でデビューさせて優勝し、12月5日のエリカ賞で500万円以下を連勝で突破しよう、それから暮れのラジオたんぱ杯3歳ステークスで優勝し、十分な賞金を得て3歳のうちにクラシック戦線に加わろう、と目論んでいた[23][26]

競走馬時代[編集]

3歳(1998年)[編集]

1998年11月7日、予定通りの新馬戦(芝1600メートル)でデビューとなる。橋田と武は、この前週の天皇賞(秋)にてサイレンススズカを喪っており、それ以来のコンビ再結成だった。少なくとも橋田はそのわだかまりを捨て去り、気持ちを切り替えて当日を迎えていたという[27]。単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持される。最内枠からスタートし、馬群の内側の好位を確保[22]。最終コーナーで外に持ち出してから進出しようと企んでいたが、進路が塞がって内に転進せざるを得ず、空いていた馬場の最内を突いて進路を確保した[22]。それから末脚を発揮して、先頭を争う2頭をかわして抜け出し、後は独走、後方に2馬身半差をつけて先頭で決勝線を通過していた[22]。しかし審議となり、アドマイヤベガの進路妨害行為が認められて降着処分を受ける[23]。審議の対象となったのは、最内を突いた際、その最内後方にいたフロンタルアタックの前面に接触しており、フロンタルアタックが躓いてしまったためだった[23]。1位入線を果たしたものの、被害を受けた4位入線のフロンタルアタックの次にあたる4着となる[26]。クラシックを見つめる橋田にとっては、まさかの敗戦であり、サイレンススズカに続く災難であった[26]。しかし橋田は、未勝利の身ながら予定通りエリカ賞に臨もうと決意。敗戦したその日のうちに、エリカ賞に進むと近藤へ提案し、了解を取り付けた[27]。ローテーションを変更することなく、エリカ賞への強行を決めた理由は、2戦目の新馬戦もしくは未勝利戦を用いることで様々な予定が狂うため[注釈 5]、またクラシックまで予約済みの武を失う危険があるためだった[25]

12月5日、エリカ賞(500万円以下)への出走が叶う。武にとっては、先の新馬戦で下された騎乗停止処分が解けた初日だった[27]。8頭立て、既に勝利を挙げている馬が相手だったが、未勝利のアドマイヤベガが1.2倍の1番人気だった[27]。スタートから6番手、後方を追走する[28]。第3コーナーで3番手、最終コーナーで2番手にまで進出、直線で抜け出した。追い込むスリリングサンダーに迫られたものの、クビ差先着[28]。格上挑戦で初勝利を挙げる。

それから12月26日、予定通りラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)に臨む。11頭立て、2.1倍の1番人気に支持される[29]。肉薄する2.4倍の2番人気が、マチカネキンノホシであり、マチカネキンノホシは朝日杯3歳ステークスで4着となっていた。続く10.9倍の3番人気は、京都3歳ステークス優勝馬のオースミブライトだった。アドマイヤベガはスタートでやや後れを取り、中団を追走する。第3コーナーで位置を上げて、最終コーナーで大外に持ち出して末脚を発揮、先行勢をすべて差し切った[30]。後方から追い込んだマチカネキンノホシを封じて決勝線を通過、マチカネキンノホシに半馬身差をつけて重賞初勝利を挙げる[30][29]

映像外部リンク
1998年 ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

この年のJRA賞では、全208票中3票を集めて、最優秀3歳牡馬の次点となる[31]。受賞は、204票を集めた同厩舎同馬主のアドマイヤコジーンであった[注釈 6][32]。アドマイヤコジーンは、アドマイヤベガとの使い分けをして朝日杯3歳ステークスに進み、優勝していた[30]。この後、アドマイヤコジーンとアドマイヤベガは、同門、身内の同士でクラシックを争うざるを得なかった[25]。そのため、前哨戦までは再び使い分けを行い、アドマイヤコジーンをトライアル競走弥生賞に、アドマイヤベガをすみれステークスに出走させようと企てる[33]。しかし、ほどなくアドマイヤコジーンが骨折してクラシック絶望となり、アドマイヤベガが代わって弥生賞に臨むこととなった[25]

4-5歳(1999-2000年)[編集]

弥生賞 - 皐月賞[編集]
映像外部リンク
1999年 弥生賞(GII
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4歳となった1999年の3月7日、弥生賞(GII)に臨む。初めて関東遠征を行い、中山競馬場に移動してからは一時食欲不振に陥っていた[25]。1.5倍の1番人気の支持であり、きさらぎ賞GIII)優勝馬のナリタトップロードが4.0倍、ホープフルステークス(OP)優勝馬のトウカイダンディーが7.8倍で続いていた[34][35]。4枠6番が与えられたアドマイヤベガは、スタート直後に控えて、後方を追走する[36]。今後のために控える競馬を実践していた[33]。第3コーナーから馬場状態の良い外側に持ち出してから追い上げを開始[34]。直線で末脚を発揮し、大外からほとんどすべてを差し切った[37]。しかし、中団を追走し先に抜け出していたナリタトップロードだけには敵わず、ナリタトップロードに1馬身後れを取る2着[34]。皐月賞の優先出走権は得ることができた[35]

続いて皐月賞を目指したが、調教を積んでいる最中の栗東にて、再び食欲不振に陥っている[25]。加えて今回は体温も不安定だった[38]。弥生賞直前は、初の長距離輸送が堪えたと考えられたが、本拠地栗東での食欲不振では、原因が全く不明だった[25]。不調を脱するために、通常水曜日に行う最終追い切りを遅らせて木曜日に実施するなど、橋田によれば「最善」の対応を行ったが叶わなかった[39][25]。あまりの不調に、回避の選択肢もちらついていたが、近藤と橋田など陣営が協議し、出走を強行する[38]

4月18日、皐月賞(GI)に臨む。不調が続いたまま当日を迎え、馬体重は、弥生賞からマイナス12キログラムであった[25]。それでも、2.7倍の1番人気に支持となる[39]。弥生賞で敗れたナリタトップロードが3.3倍の2番人気であり「二強」とされていた[39]。続く3番人気は、札幌3歳ステークスを5馬身差で制し、春始動戦の若葉ステークスも制したマイネルプラチナムの6.9倍であり、以降、ニシノセイリュウ、テイエムオペラオー、オースミブライトという具合だった[39]。アドマイヤベガは1枠2番が与えられたが、スタート直前で1枠1番ワンダーファングが立ち上がって負傷し競走除外、よって最内枠からの発走となる[40]。良馬場ながら雨が降る中の決戦だった[39]

映像外部リンク
1999年 皐月賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

アドマイヤベガは、弥生賞同様にスタート直後に後方に控えた。17頭立て12番手に位置し、平均ペースを追走[39]。第3コーナーに差し掛かって、前方では中団に構えたナリタトップロードと、オースミブライトが台頭しており、アドマイヤベガはそれを追う必要があった[41]。武は、弥生賞と同様に大外から追い上げを企み、徐々に外に持ち出す。しかし、あてにしていた大外を、後方から来たテイエムオペラオーに使われてしまい、進路を失ってしまった[42]。急遽、外から内に転進し、直線では馬群に割って末脚を発揮するが、これまでの威力は繰り出せなかった[38]。馬群から抜け出るのが精一杯で、先頭争いには加わることができず[40]。先頭争いは、先に抜け出したナリタトップロード、オースミブライトが競り合っていたが、アドマイヤベガに代わって大外を確保したテイエムオペラオーが、末脚を発揮して他をまるごと差し切り優勝[42]。アドマイヤベガはそれらに3馬身以上後れを取る6着となる[41]

東京優駿[編集]

アドマイヤベガは続戦し、次なる目標をクラシック第二弾の東京優駿に定める。橋田ら陣営は、皐月賞での敗因を、専ら食欲不振などの不調にあると捉えていた[43]。目標に出走し成果を上げるには、不調を脱し立て直す必要があったが、それを1か月という短期間でこなす必要があった[38]。そのため、この1か月はトレーニングよりも、体調良化に集中する[43]。特に担当の持ち乗り調教助手児玉弐大が、毎日アドマイヤベガの状態を見極めたうえで、最適な調教を選択していた[38]。本番が近づくにつれて、不調を脱して好調に至り、さらには成長することも出来たという[43]

そして6月6日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に臨む。当日の馬体重は、皐月賞に比べてプラス10キログラムであり、弥生賞並の馬体重を実現[44]。当日、午後1時時点のオッズは4.5倍だったが、馬体重が発表されてから人気が上昇し、最終的に3.9倍という支持を集めた[45]。皐月賞3着のナリタトップロードも同様に3.9倍であり、票数の差でナリタトップロードが1番人気、アドマイヤベガが2番人気だった[44]。また皐月賞優勝馬のテイエムオペラオーは、4.2倍の3番人気で続き、人気を分け合った3頭が「三強」と認識されていた[45]。三強の後には、皐月賞2着のオースミブライト、青葉賞優勝馬のペインテドブラックプリンシパルステークス優勝馬のブラックタキシードが続いていた。18頭が出走する中、アドマイヤベガは1枠2番を与えられる。騎乗する武は前日に、中京競馬場で近藤と接触しており「思い切った乗り方」をすると予告、近藤も承諾していた[46]

映像外部リンク
1999年 東京優駿(日本ダービー)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

好スタートを見せたアドマイヤベガだったが、これまで通りに控えて後方待機、15番手となる[44]。対するテイエムオペラオーが8番手、ナリタトップロードが11番手であり、他2頭を見下ろすことができる位置だった。平均ペースの中、逃げ馬と後方待機馬の間隔が広い縦長の展開となった[44]。第3コーナーから、まずテイエムオペラオーが進出を開始し、ナリタトップロードがそれを外から捕まえにかかった。一方のアドマイヤベガはすぐには動かず、最終コーナー付近で最内から大外に持ち出してから、追い上げを開始[47][46][44]。直線では、テイエムオペラオーとナリタトップロードが、先行勢を吸収し先頭に並び立っており、その外から接近する。やがてテイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガの順で内から外に雁行する形となった[45]。残り200メートル、坂を登り切ったあたりから、先に抜け出していたテイエムオペラオーが鈍り、追いかける2頭が優勢となり、代わってナリタトップロードが単独先頭となったがほどなく鈍った[45]。そして大外から遅れてスパートしたアドマイヤベガの末脚が2頭を上回り、まとめて差し切った[46]。アドマイヤベガが、外から内に雁行する形を仕立てて、先頭で決勝線を通過する。

ダービー戴冠、1990年アイネスフウジンの樹立したレースレコードタイで走破していた[48]。またダイナカールエアグルーヴ母娘以来3年ぶり史上7頭目となる母仔のクラシック優勝だった[49]。武は前年をスペシャルウィークで制していることから、史上初めてとなるダービー連覇[49][47]。橋田はダービートレーナー、近藤はダービーオーナーの称号を初めて得た[48]。加えてノーザンファームは、1996年フサイチコンコルド以来の2勝目だった[48]。武は「ビシビシ鍛えてダービーに臨んだわけではなかったので、そのあたりが少し心配でしたが、いい感触でゲートインすることができました(中略)4コーナーで外に出した時も回り切る時にうまく出すことができたし追い出しのタイミングも最高でした。昨年のスペシャルウィークと同じで、デビュー前からこの馬でダービーに行きたいと思っていました。お母さんにオークスを勝たせてもらって、息子にはダービーを勝たせてもらった。夢ような〔ママ〕素晴らしい親仔と巡り合うことができました。[49]」と話している。

秋 - 引退[編集]

ダービーから数日後の6月9日に、ノーザンファームに帰還し放牧。夏休みとなる[15]。7月中旬には運動を再開し、8月9日からは実際の競馬を思い出すために函館競馬場に一旦滞在[15]。それから、9月1日に栗東に帰厩する[50]。陣営は、秋の目標をクラシック第三弾の菊花賞に設定し、前哨戦については古馬相手の京都大賞典か、トライアル競走の京都新聞杯という二択を想定していた。このうち開催時期が遅い方である京都新聞杯を選択[50]。理由は、夏の北海道が例年になく猛暑で、帰厩が遅れたためだった[50]

10月17日、京都新聞杯(GII)に臨む。ダービー2着のナリタトップロード、同4着かつ宝塚記念6着、さらに神戸新聞杯優勝から臨むオースミブライトとの対決となる中、ナリタトップロードが2.8倍、アドマイヤベガが3.0倍、オースミブライトが3.6倍という三強が形成していた[51]。アドマイヤベガはスタートからオースミブライトとともに後方待機となる。中団にはナリタトップロードがいた[52]。平均ペースの追走を経て、第3コーナーから進出を企てて馬群に突入しようと考えたが進路が見当たらず、仕方なく大外に持ち出してスパートを実行する[53]。前方では、先行して抜け出していたメジロロンザンをナリタトップロードが追っており、アドマイヤベガはそのナリタトップロードを外から追う形となった[52]。ナリタトップロードがメジロロンザンを下して先頭に立った時には、アドマイヤベガはナリタトップロードの傍らまで接近しており、まもなくナリタトップロードをかわして先頭交替となる[52]。すべてかわしたアドマイヤベガは、武が手綱を緩める余裕を見せて先頭で決勝線通過を果たす[52]。ナリタトップロードにクビ差をつけて重賞3勝目、1992年ミホノブルボンライスシャワー以来となるダービーワンツーによるワンツーフィニッシュだった[51]。武は、第3コーナーから外を回し、ペース的に有利な先行勢を封じたことについて「最悪とも言える展開になって、それでも余裕を持って差し切れたというのはやはり自信につながりますね。菊花賞で、あれ以上の悪い形になることはないでしょうから[53]」と述べていた。

11月7日、本番の菊花賞(GI)に臨む。外枠8枠14番が与えられ、逃げ馬が続々回避して逃げ馬不在の超スローぺースが目されており、追い込みのアドマイヤベガにとって不利な条件が重なっていた[54]。それでも既に「最悪」(武豊)な状況だった京都新聞杯を覆したことで人気が集中、ナリタトップロードや京都大賞典3着から臨むテイエムオペラオーを上回る2.3倍の1番人気に支持され、三強からアドマイヤベガが一歩抜きん出る形だった[54]

映像外部リンク
1999年 菊花賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートしてアドマイヤベガは中団馬群の外側を、予定通り超スローペースの追走となり、余計な距離を走りつつ、逆転の難しい展開に追い込まれた[54]。加えて人気が集中するとともに、他騎手からのマークも厳しくなり、行かせまいと進路が塞がれてしまった[54]。2周目から打開を試みるも進路が見つからず、武は「さすがにカッときました[54]」と振り返っている。追い上げられないまま最終コーナーに達し、最内を突こうとしたがこれも塞がれ、仕方なく大外に持ち出してからのスパート[54]。しかしスムーズに抜け出して競り合ったテイエムオペラオー、ナリタトップロード、ラスカルスズカとは大きな差があり、追い上げても届かなかった[55]。先頭争い3頭はクビとクビの決着でナリタトップロードが制したが、アドマイヤベガはその3頭に約3馬身以上離された6着となる[55]。片山良三によれば、アドマイヤベガに降りかかったのは武の京都新聞杯後のコメントを引用して「最悪の上を行く最悪[54]」だったとしている。

菊花賞の後は続戦せずに福島県いわき市競走馬総合研究所常盤支所「馬の温泉」や宮城県山元町山元トレーニングセンターにて、休養となる[2]。この年のJRA賞最優秀4歳牡馬は、皐月賞優勝馬のテイエムオペラオーだった。年を越して2000年、4歳となっても春は休養し続けた[2]。7月になって山元トレーニングセンターから函館競馬場に入厩[56]。陣営は、秋のオールカマーでの戦線復帰と、天皇賞(秋)ジャパンカップへの参戦を目指していたが、7月31日の調教中に左前脚繋靭帯炎を発症し、即日引退が決定する[2][56]

種牡馬時代[編集]

競走馬引退後は、総額12億円(一株2000万円×全60株)のシンジケートが結成された[57]。2001年から北海道早来町社台スタリオンステーション種牡馬として供用される[56]。初年度から145頭、2年目には183頭、3年目には161頭、4年目には176頭の繁殖牝馬を集めた[58]。4年目すなわち、2004年の種付けシーズンを終えた夏に初年度産駒がデビューし、ストーミーカフェ(母父:レインボウクエスト)が札幌2歳ステークスGIII)が産駒JRA重賞初勝利、他にもレキシントンブルーがききょうステークス(OP)を勝利するなど2歳(現行表記)から勝ち上がりが続出[59][3]。この年の2歳リーディングサイアーランキングは5位、新種牡馬に限定したサイアーランキングであるフレッシュマンサイアーランキングでは、フレンチデピュティマイネルラヴに次ぐ3位であった[8]。飽和するサンデーサイレンス産駒種牡馬としては突出した成績であり、サンデーサイレンスの後継者争いに名乗りを上げたと考えられた[8]

しかしそんな矢先の10月28日に疝痛を発症し、次第に悪化[8]。北海道苫小牧市社台ホースクリニックに運ばれたが力尽きで8歳(現行表記)で落命する[3]。死因は、偶発性胃破裂だった[8]。11月23日には社台スタリオンステーションにて、近藤夫妻、橋田、吉田勝己、吉田照哉、参議院議員の橋本聖子らが臨席して告別式が行われ、ファン50人を含む総勢200人が弔問した[60]。近藤は弔辞の中で「私にとって夢と希望を与えてくれた馬[60]」と述べている。スタリオンステーション内、サンデーサイレンスと同じ場所に墓が建立された[56]。2006年には母ベガが仔に遅れて亡くなるが、ベガはアドマイヤベガと同じ一角に埋葬されている[14]

遺した産駒は4世代に留まったが、急死したアドマイヤベガに向けた「天国のキス」と命名された2年目産駒のキストゥヘヴン(母父:ノーザンテースト)が2006年の桜花賞を制して、父母、父、娘の三代連続でクラシック優勝を達成している[61][62]。その他にも初年度産駒のテイエムドラゴン(母父:マルゼンスキー)が2005年中山大障害[63]、2年目産駒のブルーメンブラット(母父:Topsider)が2008年のマイルチャンピオンシップ[64]、ラストクロップ4年目産駒のメルシーモンサン(母父:ダイヤモンドショール)が2010年の中山グランドジャンプを優勝した[65]。その他、重賞優勝馬を多数輩出した。また、ブルードメアサイアーとしての産駒としては、2012年のジャパンカップダートを優勝したニホンピロアワーズがいる[66]

競走成績[編集]

以下の内容は、netkeiba.com[67]、JBISサーチ[68]、『優駿』2005年3月号並びに2012年6月号[2]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
備考
1998.11.07 京都 3歳新馬 芝1600m(良) 14 1 1 001.70(1人) 04着 R1:35.1(34.9) -0.4 0武豊 54 マヤノマタドール 456 [注釈 7]
0000.12.05 阪神 エリカ賞 5下 芝2000m(稍) 8 6 6 001.20(1人) 01着 R2:06.1(35.9) -0.0 0武豊 54 (スリリングサンデー) 464
0000.12.26 阪神 ラジオたんぱ杯3歳S GIII 芝2000m(良) 11 4 4 002.10(1人) 01着 R2:04.1(34.8) -0.1 0武豊 54 マチカネキンノホシ 454
1999.03.08 中山 弥生賞 GII 芝2000m(稍) 15 4 6 001.50(1人) 02着 R2:03.7(35.0) -0.2 0武豊 55 ナリタトップロード 456
0000.04.18 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 17 1 2 002.70(1人) 06着 R2:01.3(35.9) -0.6 0武豊 57 テイエムオペラオー 444
0000.06.06 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 18 1 2 003.90(2人) 01着 R2:25.3(34.4) -0.1 0武豊 57 (ナリタトップロード) 454
0000.10.17 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 18 6 11 003.00(2人) 01着 R2:12.3(34.6) -0.0 0武豊 57 (ナリタトップロード) 458
0000.11.07 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 15 8 14 002.30(1人) 06着 R3:08.2(34.4) -0.6 0武豊 57 ナリタトップロード 458

種牡馬成績[編集]

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[58]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
2001 145 90 89 76 42 3 1.80
2002 183 117 110 100 52 4 1.97
2003 161 118 119 103 60 2 1.14
2004 176 119 118 108 61 2 1.18
合計 436 387 215 11 1.49 1.65

主な産駒[編集]

太字強調は、GI級競走。アスタリスクは、地方競馬各主催者が独自に定める格付けた重賞を表す(ダートグレード競走を除く)。

母の父としての主な産駒[編集]

エピソード[編集]

気性[編集]

サンデーサイレンス産駒の特徴に沿って、気性は荒かった[23]。一度暴れると、人間では制御することができなかったという[5]。厩舎もそれには手を焼いており、特にレース当日のパドック周回は「二人引き」をしていた[5]。また厩舎を周回して体を動かす際は、厩舎の左脇の馬道に差し掛かる時だけ暴れていたという。暴れ具合は児玉を振り払うほどであり、周辺の厩舎に侵入してしまうこともあった[5]

上述のような気性から、調教は他の馬がいない時間帯に行っていた[83]。児玉は同時期にサイレンススズカの半弟であるラスカルスズカも担当していたが、ラスカルスズカは周囲に他の馬がいないと錯乱する癖があった[83]。そのため児玉は、まずラスカルスズカの調教をこなし、その後にアドマイヤベガの調教を行っていた[83]

その他のエピソード[編集]

  • 大好物は「バナナ」。児玉が房からバナナを切り離す音を聞きつけただけで、馬房の奥から飛んでくるという[5]
  • 66日の東京優駿を優勝したアドマイヤベガだったが、その最終追い切りの1本目のタイムは66秒6、武豊の騎手コードも「666」だった。皐月賞6着からの参戦だったことから、周囲から「また6着だね」と呼ばれていた[46]
  • 武豊が1993年優駿牝馬(オークス)をベガで制したその日は、武の家にミニチュアダックスフンドを迎える日でもあった[46]。その犬は「ベガ」という名で武が飼い続けていた。そして1999年、その「ベガ」が癌を患ってしまい、それが武にとって気がかりだった[46]。同じ頃、体調不良のアドマイヤベガと臨んだ皐月賞で6着敗退し、アドマイヤベガは続く東京優駿での復調が待たれていた。そんな中、武は「ベガがヤバイんだ」と発言する[46]。その「ベガがヤバイ」を聞いた競馬記者は、アドマイヤベガの動向を得ようと慌てふためいたという。しかしそれは、ベガはベガでも犬のベガだった[46]

血統表[編集]

アドマイヤベガ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 サンデーサイレンス系ヘイロー系
[§ 2]

*サンデーサイレンス
Sunday Silence
1986 青鹿毛
アメリカ
父の父
Halo
1969 黒鹿毛
アメリカ
Hail to Reason
1958
Turn-to
Nothirdchance
Cosmah
1953
Cosmic Bomb
Almahmoud
父の母
Wishing Well
1975 鹿毛
アメリカ
Understanding
1963
Promised Land
Pretty Ways
Mountain Flower
1964
Montparnasse
Edelweiss

ベガ
1990 鹿毛
北海道早来町
*トニービン
Tony Bin
1983 鹿毛
アイルランド
*カンパラ
Kampala
1976
Kalamoun
State Pension
Severn Bridge
1965
Hornbeam
Priddy Fair
母の母
*アンティックヴァリュー
Antique Value
1979 鹿毛
アメリカ
Northern Dancer
1961
Nearctic
Natalma
Moonscape
1967
Tom Fool
Brazen F-No.9-f
母系(F-No.) 9号族(FN:9-f) [§ 3]
5代内の近親交配 Almahmoud4×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ アドマイヤベガ 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com アドマイヤベガ 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ アドマイヤベガ 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ アドマイヤベガ 5代血統表2017年8月28日閲覧。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ ミスターシービーに3秒後れを取る17着敗退。
  2. ^ 詳細は、シャダイソフィア#3-4歳時(1982-1983年)
  3. ^ シクレノンシェリフ、ステージチャンプ、ガレオン、ラリーキャップの4頭。最高は、BNWウイニングチケットビワハヤヒデナリタタイシン)に次ぐ4着となったガレオン[11]
  4. ^ 1952年スウヰイスー、1954年ヤマイチ、1957年ミスオンワード、1964年カネケヤキ、1975年テスコガビー、1986年メジロラモーヌ、1987年マックスビューティ[13]
  5. ^ 例えば、同期で橋田近藤タッグのアドマイヤコジーンは、アドマイヤベガを考慮して使い分けを行い、朝日杯3歳ステークスへの出走していた。
  6. ^ 残る1票は該当なし[31]
  7. ^ 1位入線4着降着
  8. ^ 共にオーストラリアG3

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o アドマイヤベガ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『優駿』2012年6月号 79頁
  3. ^ a b c 『優駿』2004年12月号 78頁
  4. ^ アドマイヤベガ(JPN)”. 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル. 2022‐5‐21時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月21日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 『優駿』1999年11月号 10頁
  6. ^ a b 『優駿』2002年3月号 65頁
  7. ^ 『優駿』2010年4月号 156頁
  8. ^ a b c d e f g 『優駿』2005年3月号 54頁
  9. ^ a b 『優駿』2012年6月号 73頁
  10. ^ a b c 『優駿』1993年6月号 136‐137頁
  11. ^ 9R 日本ダービー|1993年5月30日(日)3回東京4日|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  12. ^ 『優駿』2010年4月号 158頁
  13. ^ a b 『優駿』1993年7月号 5頁
  14. ^ a b 『優駿』2010年4月号 161頁
  15. ^ a b c d e 『優駿』1999年9月号 35頁
  16. ^ 『週刊100名馬vol.92 アドマイヤベガ』27-28頁
  17. ^ 【世界オモロイ競馬】双子のサラブレッド、その運命やいかに”. uma-jin.net. 2022年2月19日閲覧。
  18. ^ a b c d e f g h 『優駿』1999年6月号 27頁
  19. ^ 『優駿』1999年4月号 31頁
  20. ^ 『週刊100名馬vol.92 アドマイヤベガ』4頁
  21. ^ a b c 『優駿』1999年9月号 33頁
  22. ^ a b c d e 『優駿』2012年6月号 74頁
  23. ^ a b c d e f g 『優駿』2005年3月号 55頁
  24. ^ a b c d e 『優駿』1999年9月号 34頁
  25. ^ a b c d e f g h i 『優駿』1999年6月号 28頁
  26. ^ a b c 『優駿』2012年6月号 75頁
  27. ^ a b c d 『優駿』2005年3月号 56頁
  28. ^ a b 『優駿』1999年2月号 73頁
  29. ^ a b 『優駿』1999年2月号 148頁
  30. ^ a b c 『優駿』1999年2月号 68頁
  31. ^ a b 『優駿』1999年2月号 22頁
  32. ^ 『優駿』1999年2月号 24頁
  33. ^ a b 『優駿』2012年6月号 76頁
  34. ^ a b c 『優駿』1999年5月号 61頁
  35. ^ a b 『優駿』1999年5月号 131頁
  36. ^ 『優駿』1999年4月号 4頁
  37. ^ 『優駿』1999年4月号 5頁
  38. ^ a b c d e 『優駿』2012年6月号 77頁
  39. ^ a b c d e f 『優駿』1999年6月号 10頁
  40. ^ a b 『優駿』2005年3月号 57頁
  41. ^ a b 『優駿』1999年6月号 139頁
  42. ^ a b 『優駿』1999年6月号 11頁
  43. ^ a b c 『優駿』1999年7月号 15頁
  44. ^ a b c d e 『優駿』1999年7月号 12頁
  45. ^ a b c d 『優駿』2012年6月号 78頁
  46. ^ a b c d e f g h 『優駿』2005年3月号 59頁
  47. ^ a b 『優駿』1999年7月号 4頁
  48. ^ a b c 『優駿』1999年7月号 11頁
  49. ^ a b c 『優駿』1999年8月号 131頁
  50. ^ a b c 『優駿』1999年11月号 11頁
  51. ^ a b 『優駿』1999年12月号 140頁
  52. ^ a b c d 『優駿』1999年11月号 28頁
  53. ^ a b 『優駿』1999年12月号 18頁
  54. ^ a b c d e f g 『優駿』1999年12月号 19頁
  55. ^ a b 『優駿』1999年12月号 10頁
  56. ^ a b c d 『優駿』2005年3月号 60頁
  57. ^ 『優駿』2000年9月号 7頁
  58. ^ a b 種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|アドマイヤベガ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月19日閲覧。
  59. ^ アドマイヤベガ 早過ぎた死 - asahi.com : スポーツ : コラム”. www.asahi.com. 2022年5月14日閲覧。
  60. ^ a b 『優駿』2005年1月号 82頁
  61. ^ a b キストゥヘヴン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  62. ^ 『優駿』2006年6月号 56頁
  63. ^ a b テイエムドラゴン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  64. ^ a b ブルーメンブラット|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  65. ^ a b メルシーモンサン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  66. ^ a b ニホンピロアワーズ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  67. ^ アドマイヤベガ | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2020年7月17日閲覧。
  68. ^ 競走成績:全競走成績|アドマイヤベガ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月19日閲覧。
  69. ^ アドマイヤフジ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  70. ^ ストーミーカフェ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  71. ^ ヒカルベガ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  72. ^ プレミアムボックス|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  73. ^ ニホンピロレガーロ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  74. ^ アルナスライン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  75. ^ サンライズベガ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  76. ^ トーワベガ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  77. ^ ギルティストライク|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  78. ^ オースミスパーク|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  79. ^ エックスダンス|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  80. ^ タガノアザガル|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  81. ^ Bondeiger(AUS)|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  82. ^ タイムトゥヘヴン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2022年5月21日閲覧。
  83. ^ a b c 『優駿』1999年11月号 20頁

参考文献[編集]

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1993年6月号
      • 萩谷宗秀(報知新聞)「【今月の記録室】第53回桜花賞(GI) ベガ」
    • 1993年7月号
      • 「【今月の馬】ベガ。桜花賞に続いて、オークスも優勝 夢はロンシャンへ」
    • 1999年2月号
      • 「【Play-back the Grade-Races 1998 December】第15回ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII) アドマイヤベガ」
      • 「【3歳戦ダイジェスト(12月)】阪神 シクラメンSは接戦を制したエイシンマリアンナ」
      • 「【重賞データファイル】第15回ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII) アドマイヤベガ」
    • 1999年4月号
      • 「【優駿ヘッドライン】牡馬戦線は実力伯仲。――4歳クラシック、いよいよ佳境へ」
      • 江面弘也「【牝馬クラシックの探究】桜花賞馬、オークス馬『最新繁殖事情』」
    • 1999年5月号
      • 「【Play-back the Grade-Races 1999 March】第36回弥生賞(GII) ナリタトップロード」
      • 「【重賞データファイル】第36回弥生賞(GII) ナリタトップロード」
    • 1999年6月号
      • 優駿編集部「【第59回皐月賞】ゴール前の大逆転劇! "遅れてきた大物"がまず一冠 テイエムオペラオー」
      • 石田敏徳「【ノンフィクション 有力馬の知られざる道程】降着の新馬戦で感じたGI級の素質 アドマイヤベガ」
      • 「【重賞データファイル】第59回皐月賞(GI) テイエムオペラオー」
    • 1999年7月号
      • 「【優駿ヘッドライン】豪胆。――日本ダービーはアドマイヤベガが優勝 武豊騎手の史上初の2連覇を達成」
      • 優駿編集部「【第66回日本ダービー(GI)】 ベガの通ったビクトリーロードで大外一気の豪脚炸裂! アドマイヤベガ」
    • 1999年8月号
      • 「【重賞データファイル】第66回日本ダービー(GI) アドマイヤベガ」
    • 1999年9月号
      • 石田敏徳「【有力馬の『夏』と『秋の動向』4歳牡馬編】アドマイヤベガ」
      • 広見直樹「【'99春GI勝ち馬の故郷】アドマイヤベガの故郷 ノーザンファーム 光輝いた名血」
    • 1999年11月号
      • 石田敏徳「【特集 第60回菊花賞(GI)】厩舎関係者が語る出走予定馬の『素顔』 アドマイヤベガ」
      • 「【トライアルレース・リポート】第47回京都新聞杯(GII) 強烈な瞬発力でアドマイヤベガがナリタトップロードを一蹴!」
    • 1999年12月号
      • 片山良三「【関係者レポート 『三強』それぞれの菊花賞】アドマイヤベガ 不運に不運が重なった 無念の敗戦」
      • 「【重賞データファイル】第47回京都新聞杯(GII)(菊花賞トライアル)アドマイヤベガ」
    • 2000年9月号
      • 「【優駿ヘッドライン】遠かったターフ。――アドマイヤベガが引退、種牡馬に。」
    • 2002年3月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝 20世紀を駆けた名馬たち 10】ベガ クラシックに輝いた織女星」
    • 2004年12月号
      • 「【今月のトピックス】アドマイヤベガが急死――名種牡馬モガミも死亡」
    • 2005年1月号
      • 坂口誠司「【馬産地トピックス】急死したアドマイヤベガの告別式が、しめやかに執り行われました。」
    • 2005年3月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 46】アドマイヤベガ 褐色の閃光」
    • 2006年6月号
      • 平松さとし「【クローズアップ 第66回桜花賞優勝馬】キストゥヘヴン 『華やかさと儚さ』」
    • 2010年4月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝】ベガ 麗しき一等星」
    • 2012年6月号
      • 河村清明「【優駿激闘譜】アドマイヤベガ 偉大なる父と母が紡いだ運命の糸」

外部リンク[編集]