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|民族=ウィルタ、オロッコ
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|民族語名称=Uilta, Orok
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|画像=[[ファイル: Flag of Orok people.svg|180px]]<br/>ウィルタの民族旗
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|画像の説明=ウィルタ民族
|画像の説明=武装したウィルタ人([[20世紀]]前半、南樺太)
|人口=推定346人(ロシア国内)
|人口={{RUS}} 295人([[2010年]]国勢調査)<br/>{{UKR}} 959人([[2001年]]国勢調査)<br/>{{JPN}} 約20人([[1989年]]推計)
|居住地=[[ロシア]]([[サハリン州]]/北樺太)、[[日本]]([[網走市]]、[[札幌市]])
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}}


'''ウィルタ'''([[ウィルタ語]]: уилта、[[ロシア語]]: Ороки)は、[[樺太]]東岸(中部[[幌内川 (樺太)|幌内川]]と北部ロモウ川流域)の民族で、[[ツングース系民族|ツングース系]]であ。[[アイヌ]]からは'''オロッコ''' (Orokko) と呼ばれた。本来の言語は[[ツングース諸語]]の系統である[[ウィルタ語]]である。なお、言語学者を中心にUiltaを「ウイルタ」と書くこともある。
'''ウィルタ'''([[ウィルタ語]]: уилта、[[ロシア語]]: Ороки)は、[[ロシア|ロシア連邦]][[サハリン州]]の[[樺太]](サハリン島)東岸を主な居住域とする少数民族で、[[ツングース系民族|ツングース系]]に属する<ref name="89ogihara54">[[#荻原2|荻原(1989)pp.54-56]]</ref>{{refnest|group="注釈"|[[アムール川]]黒竜江)流域および[[沿海州]]・樺太に生活するツングース・満洲系の民族は、ウィルタ以外では[[ナナイ]]、[[オロチ族|オロチ]]、[[ウリチ]]、[[ウデヘ]]、[[ネギダール]]の諸族がいる<ref name="89ogihara54" />。[[ニヴフ]]とアイヌは[[古シベリア諸語|パレオアジア系]]に属する<ref name="89ogihara54" />。}}。その生活の舞台は、伝統的には樺太中部[[幌内川 (樺太)|幌内川]]流域と北部ロモウ川流域であった。[[アイヌ]]からは'''オロッコ''' (Orokko) と呼ばれた<ref name="nanika2">{{Citation|和書|author=[[弦巻宏史]]・[[榎澤幸広]]|year=2012|month=1|title=ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第二部|publisher=名古屋学院大学|journal=名古屋学院大学論集 社会科学篇|volume=48|issue=3|page=87-113|naid=120006009768}}</ref><ref name="redbook">{{Cite web|url=http://www.eki.ee/books/redbook/oroks.shtml|title=The red book of the Russian Empire. "THE OROCS"|author=Ants Viires|date=1993-08|accessdate=2022-8-5|website=The Peoples of the Red Book|publisher=The Redbook}}</ref>。[[オロチ族]]ないし[[オロチョン族]]と混同されることもあるが、異なる民族である<ref name="fujioka452">[[#藤岡|藤岡(1979)pp.452-453]]</ref>。本来の言語は[[ツングース諸語]]の系統である[[ウィルタ語]]である<ref name="ogihara151">[[#荻原|荻原(1988)p.151]]</ref>。なお、言語学者を中心にUiltaを「ウイルタ」と書くこともある。


== 概要 ==
== 居住域と人口 ==
[[ファイル:Расселение уйльта в ДФО по городским и сельским поселениям, в %.png|400px|right|thumb|ロシア極東地方の2010年国勢調査におけるウィルタ集落]]
樺太東岸、中部の[[幌内川 (樺太)|幌内川]]と北部のロモウ川の流域に暮らし、[[シベリア]]のツングース系諸族と交流([[山丹交易]])をもったほか、樺太北部の[[ニヴフ]]、南部のアイヌとも交易をしていたと伝えられている。
ウィルタは、[[ロシア|ロシア連邦]]による[[2002年]]の国勢調査ではロシア国内に346人おり、そのうち、298人はサハリン(樺太)で生活している。主な居住域は、かつてはサハリン島の中部から北部にかけての東岸(幌内川・ロモウ川流域)であったが、[[2002年]]の調査ではサハリン島南部の[[ポロナイスク]](旧[[敷香郡]][[敷香町]])に119人、北部[[ノグリキ|ノグリキ地区]]のヴァル村に105人住んでおり、この2箇所に集中している。それ以外では、ノグリキ地区のノグリキ村、ポロナイスク地区のガステロ村とヴァフルシェフ村のほか、[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー|アレクサンドロフスク・サハリンスキー地区]]のヴィアフトゥ村、スミルニフ地区のスミルヌイク村、[[オハ管区|オハ地区]]、[[ユジノサハリンスク]]([[豊原市|豊原]])などに散らばっている。[[ウクライナ]]の人口調査では、自身ウィルタ(オロッコ)に属すると答えた人が959人におよんだものの、ウィルタ語を母語とすると答えた人は12人(1.25パーセント)だけであった{{refnest|group="注釈"|179人(19パーセント)がウクライナ語を母語、710人(74パーセント)がロシア語が母語と答えた<ref>{{Cite web |url=http://2001.ukrcensus.gov.ua/results/nationality_population/nationality_popul1/select_5/?botton=cens_db&box=5.1W&k_t=00&p=75&rz=1_1&rz_b=2_1%20%20%20%20%20%20%20%20%20&n_page=4 |title=Перепись населения на Украине 2001 года |access-date=2011-03-19 |archive-date=2013-04-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130421210316/http://2001.ukrcensus.gov.ua/results/nationality_population/nationality_popul1/select_5/?botton=cens_db&box=5.1W&k_t=00&p=75&rz=1_1&rz_b=2_1%20%20%20%20%20%20%20%20%20&n_page=4 }}</ref>。一方、[[1989年]]のソビエト連邦の国勢調査では、[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]にはウィルタは2人しかいなかった<ref>{{Cite web |url=http://demoscope.ru/weekly/ssp/sng_nac_89.php?reg=2 |title=Всесоюзная перепись населения 1989 года. Национальный состав населения по республикам СССР |access-date=2022-07-29 |archive-date=2011-12-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111225132241/http://demoscope.ru/weekly/ssp/sng_nac_89.php?reg=2 }}</ref>。}}。サハリンでは、彼らは[[ニヴフ]](ギリヤーク)と近接し、共生している<ref name="redbook" />。


人口については、すべての国勢調査がウィルタを独立した民族として扱っているわけではないので、詳細な情報を得るのは困難である<ref name="redbook" />{{refnest|group="注釈"|1959年と1979年の国勢調査では、ウィルタは独立民族として登録されていなかった<ref name="redbook" />。}}。[[1926年]]段階では、北部に162人、南部を含めた総人口は約460人であった<ref name="redbook" />。[[1960年]]では南部のウィルタが160人から170人程度、[[1989年]]には全体で約190人という情報がある<ref name="redbook" />。戦争の影響や通婚が進んだ影響もあって、自らの出自を名乗らない人も多いため、[[2012年]]段階で、多く見積もってもせいぜい300人程度ではないかとも推計されている<ref name="nanika2" />。なお、民族学者のZ・ソコロフは1990年発行の雑誌『ソビエト民族誌』のなかでウィルタ族とオロチ族の人口は1979年から1989年までの10年で7.7パーセント減少したことに言及している<ref name="redbook" />。
[[第二次世界大戦]]前に日本領だった南樺太に居住していたウィルタは樺太戸籍に登録されて樺太土人として扱われて内地人と区別されていたが、日本[[国籍]]を持っていた。[[太平洋戦争]]末期、南樺太は[[樺太の戦い (1945年)|ソビエト連邦に占領され]]、戦後、ウィルタの一部は[[北海道]]([[網走市]]など)へ移住するなどした。日本では終戦後の1945年に樺太戸籍にあったウィルタの[[参政権]]が停止されたものの、1952年の[[サンフランシスコ平和条約]]発効の際に就籍という形で参政権を回復した。


== 民族名称 ==
下記の「日本のウィルタ人一覧」にある通り、その文化を伝える活動をした人もいた。1978年の時点では網走市に6世帯13人いたという調査結果が得られている。
この民族の、他の極東諸民族と区別されるユニークな特徴は、民族グループに与えられる呼称の並外れた多さであり、それは、ウィルタのほか、オロッコ、オロク、オラカタ、オロツコ、オロホ、オロクコ、オロケス、オロックス、オロチョン、オロンゴドフン、オルニール、ドジン、タズン、トズン、ウルタ、ウイルタ、ウルチャル、ウルカ、オルカ、オルチ、オルチャなど20以上におよぶ。「オロッコ」は元来、アイヌによる他称である<ref name="nanika2" /><ref name="redbook" /><ref name="fujioka452" /><ref name="hora956">[[#洞|洞(1980)p.956]]</ref>。自称はウィルタ、ウリタ、ウリチャ<ref name="ogihara151" />、ウィッタ、ウルチャ、ウルチェンなどである<ref name="hora956" />。


自称の「ウィルタ」「ウリタ」の語源は ''ula'' (ウィルタ語で「飼いならしたトナカイ」の意)であり、ウリタとは「トナカイ保有者」「飼トナカイと共に生活する人」をあらわす<ref name="89ogihara77" /><ref name="nanika1">{{Citation|和書|author=榎澤幸広|year=2012|month=1|title=ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第一部|publisher=名古屋学院大学|journal=名古屋学院大学論集 社会科学篇|volume=48|issue=3|page=80-87|naid=120006009768}}</ref>。なお、ウィルタ族には大陸の住人と共通するナニ(Nani、「人」の意)という自称もある<ref name="89ogihara77" />。
ウィルタが守り神としていた木偶の制作を受け継いでいる大広朔洋によると、[[ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ]]の義妹であった北川アイ子が2007年に死去して以降、日本にウィルタを名乗る人はいないという<ref name="nikkei20180719">[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO33102350Y8A710C1BC8000/ 大広朔洋「北方民族の祈りを彫る◇ウィルタ族の木偶モチーフ 網走で制作続ける◇」『日本経済新聞』朝刊2018年7月19日(文化面)2018年9月12日閲覧]</ref>。


アイヌによる他称「オロッコ」、ロシア人による他称「オロク」「オロチェン」などの起源は、[[ツングース語族|満洲・ツングース語]]の「オロ ''oro''(家畜としてのトナカイ)」に求められると考えられ、やはり「トナカイの民」「トナカイ飼養者」の意であろうと推測される<ref name="redbook" />。
[[ロシア連邦]]による[[2002年]]([[平成]]14年)の[[国勢調査]]によると、346人が[[オホーツク海]]沿岸の樺太北部および南部の[[ポロナイスク]](旧[[敷香町]])近郊に居住している。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[人類学|人類学者]]で[[考古学|考古学者]]の[[鳥居龍蔵]]は、かつて『[[日本書紀]]』にみられる「[[粛慎 (日本)|粛慎]]」をウィルタ族に比定したことがあったが、これには異論もある<ref name="fujioka452" />。[[元 (王朝)|元代]]以降の中国の[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]に「䚟因」「亦里于」「使鹿部」などとみえる種族については、ウィルタである可能性が指摘されている<ref name="hora956" />。
日本には、[[江戸時代]]に樺太を踏査した[[間宮林蔵]]の報告によって知られた。


=== ウィルタの樺太移住 ===
[[1975年]]([[昭和]]50年)には、ウィルタ民族の人権や戦後補償の問題を解決する趣旨により[[オロッコの人権と文化を守る会]]が設立、翌年12月に[[ウィルタ協会]]が設立された。
ウィルタの口頭伝承では、ウィルタの人びとは[[ウリチ]](山丹人)と歴史を共有し、ロシア極東の[[アムグン川]]の地域からトナカイをともなって樺太(サハリン)へと移住したことが示されている。調査によると、この移住は遅くとも[[17世紀]]に起こったと考えられている<ref name="89ogihara77" />{{refnest|group="注釈"|ウィルタは、元来はアムグン川地方にいたエヴェンキ族であるという推測もある<ref name="89ogihara77" />。}}。


== 生活 ==
=== 山丹交易 ===
{{main|山丹交易}}
[[File:Orok mittens Museum fuer Voelkerkunde Dresden 38855.jpg|thumb|キツネ皮の手袋(19世紀頃のもの。[[ドレスデン美術館]]所蔵)]]
[[江戸時代]]中期には、[[北海道]] - 樺太 - アムール川流域を舞台にダイナミックな交易が展開された([[山丹交易]])<ref name="amano26">[[#天野|天野(2017)pp.26-32]]</ref>。ウリチや[[アイヌ]]、[[ニヴフ]]とともにウィルタもこの交易に加わった<ref name="amano26" />。山丹交易の中心は、南樺太のアイヌとアムール川下流域に住んでいたウリチ(山丹人)であり、アイヌは、樺太で捕獲された[[テン]]や[[カワウソ]]、[[キツネ]]の毛皮、日本製の[[鍋|鉄鍋]]や小刀を持ち込み、一方、ウリチ側からは中国製の[[絹織物]]の官服(「[[蝦夷錦]]」)、青玉、鷲羽などがもたらされた<ref name="amano26" />。タライカ([[敷香郡]][[敷香町]])のウィルタ族はウリチから得た中国製品をたずさえて南下し、[[久春古丹]]([[大泊郡]][[大泊町]])の[[松前藩]][[会所 (近世)|会所]]で交易した<ref name="hora956" />。
ウィルタの特徴的な生業は元来、[[トナカイ]][[牧畜]]や[[狩猟]]、[[漁労]]であった。ただ[[ギリヤーク]]にくらべると山での生活が多く、漁撈は少ないことが昭和10年代の樺太を調査した研究者によって報告されている<ref>{{Cite book|和書|author=犬飼哲夫|year=1941|title=北方文化研究報告第四輯 樺太オロッコ海豹猟|publisher=北海道帝国大学|pages=P.17}}</ref>。


=== 和人の樺太探検 ===
伝統的住居は[[エヴェンキ]](キーリン)や[[オロチョン族|オロチョン]]など他のツングースと同様、比較的細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を[[毛皮]]で覆った円錐形の[[テント|天幕]]式住居であった。
[[1700年]]([[元禄]]13年)、[[松前藩]]が[[江戸幕府]]に提出した『[[:s:松前島郷帳|松前島郷帳]]』の「からと島」の項に「おれかた」「にくふん」の記載がみえる<ref>ウィキソース「[[:s:松前島郷帳|松前島郷帳]]」</ref>。「おれかた」は「オロッコ(ウィルタ)」、「にくふん」はニヴフと考えられる。


[[1800年]]([[寛政]]12年)に蝦夷地御用御雇に任じられて[[蝦夷地]]勤務となった[[間宮林蔵]]は、[[1808年]]([[文化 (元号)|文化]]5年)、[[松田伝十郎]]とともに樺太探検を命じられた<ref name="takakura708">[[#高倉|高倉(1979)p.708]]</ref>。2人は二手に分かれて進み、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を進むこととした<ref name="wakkanai">{{Cite web|url=https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/files/00006900/00006975/dai3syou.pdf|title=第3章 松田伝十郎と間宮林蔵の樺太踏査|author=|date=|accessdate=2022-7-15|website=稚内市史|publisher=稚内市}}</ref>。林蔵はシラヌシ([[本斗郡]][[好仁村]])から東へ向かってタライカ([[敷香郡]][[敷香町]])まで到達したが、小舟が波に翻弄されて食糧も乏しくなり、その先容易に進むことができなかったので、マーヌイ([[豊栄郡]][[白縫村]])まで引き返して西海岸に出て、伝十郎の後を追ってラッカ岬まで進んだ<ref name="takakura708" /><ref name="wakkanai" />。このとき、林蔵は樺太西岸のニヴフ集落を訪れ、デレンに置かれた清朝の出先機関のことを聞いている{{refnest|group="注釈"|デレンの満洲仮府については、候補地が3か所ほどあり、なかでも現在の{{仮リンク|ノヴォイリノフカ|ru|Новоильиновка (Хабаровский край)}}にあった可能性が高いとする説が提唱されている<ref name="takahashi96">[[#髙橋|髙橋(2008)pp.96-101]]</ref>。}}。[[1809年]](文化6年)の探検によって林蔵はナニオーに達し、樺太が島であることを確認した<ref name="takakura708" /><ref name="wakkanai" /><ref name="takahashi96" />。ニヴフの人びととともに、のちに「[[間宮海峡]]」と称される[[海峡]]を渡って[[外満洲]]からアムール川下流地域へ到達したのである<ref name="takakura708" /><ref name="wakkanai" /><ref name="takahashi96" />。間宮林蔵は、この探査の過程でタライカのウィルタ民族と遭遇し、『北蝦夷図説』などに「ヲロッコ夷」として叙述したが、これが和人にウィルタの人びとが紹介される最初であった<ref name="hora956" />。
[[衣服]]の内、肌の上に着る物は、魚皮で作っていた。[[キツネ]]の皮を利用した手袋なども用いていた。


[[1856年]]に樺太を踏査した[[松浦武四郎]]は『北蝦夷余誌』を残し、ウィルタの詳しい図説を描いた<ref name="hora956" />。武四郎は、ウィルタ語の語彙のいくつかをカナで書き残しており、ウィルタの人びとの気質については「懦にして惇朴也」と記している<ref name="hora956" />。
神の木偶「セワ」を作るなどの[[信仰]]を持っていた<ref name="nikkei20180719"/>。


一方、ロシアでウィルタ族の研究を始めたのは、1852年のN・ボシュニャックが最初であった<ref name="redbook" />。
「イルガ」と呼ばれる切り紙模様の文化がある<ref>[https://www.setagaya-ldc.net/program/261/ 7つの海と手しごと《第5の海》 「オホーツク海とウイルタのイルガ」] - 世田谷文化生活情報センター 生活工房</ref>。

=== 近現代 ===
近代の樺太は、領有権の移動に基づいて区分すると以下のようになる<ref name="amano34">[[#天野|天野(2017)pp.34-39]]</ref>。
# 日露共同領有期(1855年-1875年) - [[日露和親条約]]から[[樺太・千島交換条約]]まで
# 全島ロシア領期(1875年-1905年) - 樺太・千島交換条約から[[ポーツマス条約]]まで
# 南北二分期前半期(1905年-1920年) - ポーツマス条約から日本の北サハリン占領まで
# 事実上の全島日本領期(1920年-1925年) - [[サガレン州派遣軍]]による北サハリン占領期間
# 南北二分期後半期(1925年-1945年) - [[日ソ基本条約]]から第二次世界大戦終結まで
# 全島ソ連・ロシア領期(1945年- ) - 第二次世界大戦終結以降
1855年の下田条約(日露和親条約)以降、樺太は地域をつなぐ島から国境で区切る島へと変貌した<ref name="amano26" />。

[[ロシア帝国]]は、[[1858年]]の[[アイグン条約]]と[[1860年]]の[[北京条約]]ののち、ウィルタの住む土地を支配するようになった<ref>{{harvnb|Kolga|2004|p=270}}</ref>。[[1857年]]から[[1906年]]にかけて、サハリンに[[流罪|流刑地]]が設定され、多数のロシアの犯罪者や政治亡命者がやってきたが、これはサハリン島にロシア人が住んでいるという既成事実をつくり上げようとする営為でもあった<ref name="amano34" />。流刑者のなかには、ウィルタやニヴフ、[[樺太アイヌ]]を調査した重要な初期民族誌学者である[[レフ・シュテルンベルク]]もいた<ref>{{harvnb|Shternberg|Grant|1999|p=xi}}</ref>。[[1875年]]の樺太・千島交換条約によってサハリンは全島ロシア領となるが、このことのウィルタにあたえた影響のひとつに[[ロシア正教]]に改宗した者が現れたことで、ロシア風の名前を子どもにつける人も出始めている<ref name="sasakura1">{{Cite web|title=第26回特別展 ウィルタとその隣人たち-サハリン・アムール・日本〜つながりのグラデーション|author=[[笹倉いる美]]|url=http://www.hoppohm.org/book/dayori/dayori73-84/dayori_082.pdf#page=2|date=2011-09-30|website=北方民族博物館だよりNo.82|publisher=[[北海道立北方民族博物館]]|accessdate=2022-08-08}}</ref>。

[[ファイル:Otasu no Mori.JPG|300px|right|thumb|「オタスの杜」(敷香郡敷香町)]]
一方、[[日露戦争]]の勝利によって、[[1905年]]([[明治]]38年)、[[北緯50度線|北緯50度]]以南の樺太は日本領となったが、ウィルタやニヴフは樺太の北部から中部にかけての地域に住んでいたので、日本人とのつながりはアイヌと比較するとだいぶ薄かった<ref name="amano26" />。両民族に対しては、[[1920年代]]まで[[樺太庁]]はほぼ放任状態という姿勢であったが、[[1926年]]から[[1927年]]にかけて、日本人から隔離して集住させるという方針がとられるようになり、[[敷香郡]][[敷香町]]にアイヌ以外の先住民(ウィルタ、ニヴフ、サンダー、キーリン、ヤクート)を集住させる村落「[[オタス|オタスの杜]]」が造成された<ref name="amano26" />{{refnest|group="注釈"|樺太庁の対応の急変は、[[1925年]]の北サハリン保障占領の終了にともない、「トナカイ王」と呼ばれた[[サハ共和国|サハ]](ヤクート)の資産家ヴィノクーロフが北樺太より亡命したことが影響しているといわれる<ref name="amano26" />。なお、「オタス」とはアイヌ語で「砂地」という意味であった<ref name="nanika2" />。}}。南樺太開拓のためだったといわれている<ref name="nanika1" />。オタスでは[[1930年]]に[[日本語]]による教育をおこなう学校(「土人教育所」)が設立され、約40名の児童が実技を身に着けることを重点とした教育を受けた<ref name="sasakura1" />。その一方でオタスは、異民族が住むエキゾチックな空間として人気があり、当時の代表的な観光地のひとつとなった<ref name="amano26" /><ref name="mano" /><ref name="sasakura1" />。ただし、実際には、ウィルタ304名、ニヴフ109名([[1935年]]の統計)のうち、オタスに住んだのは半数以下だったといわれている<ref name="amano26" />。

ウィルタの旧日本領における人口推移は、以下の通りである<ref name="amano26" />。
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[[ファイル:Uilta, Orok (from a book Published in 1931) P.75.png|180px|right|thumb|河畔に立つウィルタの少女(1931年)]]
[[ロシア革命]]以前、ウィルタには5大氏族グループがあり、それぞれに独自の移動エリアがあった<ref name="Ethnic groups">{{cite web|url=http://www.npolar.no/ansipra/english/Indexpages/Ethnic_groups.html#19|title=Nivkhi|publisher=Npolar.no|access-date=1 December 2014}}</ref>。しかし、[[1922年]]に成立した[[ソビエト連邦]]政府は、ウィルタに対する従来の政策を変更して、[[共産主義]][[イデオロギー]]にもとづく集団化政策を推進した<ref name=SNTrev>{{harvnb|Shternberg|Grant|1999|pp=184–194}}</ref>。[[1932年]]、ソ連領北樺太のウィルタは、少数のニヴフ、[[エヴェンキ]]、ロシア人とともに、[[トナカイ]]の繁殖を専門とするヴァル村の[[集団農場]]に加わった<ref name="Ethnic groups"/>。

[[1933年]]([[昭和]]8年)以降、日本領南樺太ではアイヌに[[戸籍]]が与えられて「内地人」扱いとなったが、ウィルタやニヴフには戸籍が与えられず、「土人」扱いのままだった<ref name="amano26" />。樺太アイヌには[[刑法 (日本)|刑法]]と[[民法 (日本)|民法]]が適用されたが、ウィルタとニヴフには刑法のみが適用されるにとどまった<ref name="hirayama167">[[#平山|平山(2018)p.167]]</ref>。ただ、同化政策がなされたのは、ソ連統治下の北サハリンも同じであった<ref name="mano">{{Cite web|title=あの人気漫画の舞台「樺太」の戦前、戦中、そして戦後|author=真野森作|url=https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210918/pol/00m/010/018000c|website=政治プレミア|publisher=[[毎日新聞]]|accessdate=2022-07-15}}</ref>。

[[1941年]](昭和16年)、[[太平洋戦争]]が始まると、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]はウィルタやニヴフの高い身体能力に目を付け、ソ連軍の動きを探る活動に従事させた<ref name="nanika1" /><ref name="mano" /><ref name="hirayama167" />。[[1942年]]、陸軍[[特務機関]]は、敷香町在住のウィルタ22人、ニヴフ18人の計40名に日本名を与え、諜報部隊に配置した<ref name="nanika1" /><ref name="hirayama167" />。諜報員として召集された者の多くは戦後[[シベリア]]に抑留され、その多くは同地で死去したといわれる<ref name="nanika1" />。オタスに育ったウィルタの[[ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ]](北川源太郎)は、そのなかを生き残った<ref name="nanika1" />。

[[1945年]](昭和20年)[[8月9日]]の[[ソ連対日参戦]]、[[8月20日]]の[[樺太の戦い (1945年)|樺太の戦い]]を経て樺太全島はソビエト連邦領となったが、戦後、ウィルタの一部には[[網走市]]・[[釧路市]]など[[北海道]]に移住した者もいた<ref name="ogihara151" /><ref name="kohno64">[[#河野|河野(1981)pp.64-68]]</ref>。10年近く[[シベリア抑留]]を受けたダーヒンニェニ・ゲンダーヌも網走に移った一人である<ref name="nanika1" />。ウィルタの人びとは、[[1952年]](昭和27年)の[[サンフランシスコ平和条約]]発効の際、[[就籍]]という形で[[参政権]]を獲得した。

ダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、スパイ幇助罪の判決を受けて9年6か月にわたって抑留され、強制労働に従事させられたが、サハリンで「[[戦犯者]]」の汚名を受けながら肩身の狭い思いをするよりはと[[1955年]](昭和30年)、渡航先を[[京都府]][[舞鶴港]]に選び、住地を故郷に雰囲気の似ている網走市に定めた<ref name="nanika2" /><ref name="nanika1" />。彼は3年後、サハリンにいる父[[北川ゴルゴロ]]と姉家族総勢9人を、9年後、サハリンの妹家族総勢8人を網走に呼び寄せた<ref name="nanika2" />{{refnest|group="注釈"|日本のために戦い、苦労もした彼であったが、彼を温かく迎えた人はなく、戸籍がないことも判明し、当初は就職すらできなかったという<ref name="nanika1" />。}}。[[1975年]](昭和50年)には、[[田中了]]やダーヒンニェニ・ゲンダーヌらの努力により、ウィルタ民族の[[人権]]や[[日本の戦争賠償と戦後補償|戦後補償]]問題を解決する趣旨にもとづいて「[[オロッコの人権と文化を守る会]]」が設立された<ref name="nanika2" /><ref name="nanika1" />。同年、かつての上官の手紙から旧軍人には[[恩給]]が支払われることを知ったダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、「オロッコの人権と文化を守る会」の協力も得ながら申請手続きを行ったが認められなかった<ref name="nanika1" />{{refnest|group="注釈"|不許可の理由として、[[戸籍法]]の適用を受けていない者には[[兵役法]]が適用されないこと、兵役法にもとづかない[[召集令状]]は無効であること、無効の召集令状を知らずに受けて従軍し、そのために戦犯者として抑留されたとしても日本政府の関知するところではないことなどの5点が政府見解として示された<ref name="nanika1" />。}}。「オロッコの人権と文化を守る会」は、[[1976年]]12月、「[[ウィルタ協会]]」と改称された<ref name="nanika2" /><ref name="nanika1" />。[[1978年]](昭和53年)、ウィルタはじめ北方民族の文化を残したいという彼の呼びかけに募金が集まり、網走市が提供した土地に「[[ジャッカ・ドフニ]]」(ウィルタ語で「大切な物を収める家」という意味)と名付けた資料館が設立された<ref name="tsumagari">{{Cite web|title=「小さな夢」を引き継ぐ 1.ウイルタとして生きる|author=[[津曲敏郎]]|url=https://hoppohm.org/NC/curator/tumagari/tumagari09.htm|website=館長の部屋|publisher=北海道立北方民族博物館|date=2020-03-13|accessdate=2022-07-15}}</ref>。

ウィルタが守り神とする木偶(セワ)の制作を受け継いでいる大広朔洋によると、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹であった[[北川アイ子]]が[[2007年]]に網走で死去して以降、日本ではウィルタの民族的アイデンティティを名乗る人は絶えてしまったという<ref name="nanika1" /><ref name="nikkei20180719">{{Cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO33102350Y8A710C1BC8000/|title=北方民族の祈りを彫る:ウィルタ族の木偶モチーフ 網走で制作続ける|author=大広朔洋|date=2018-07-19|accessdate=2022-8-7|website=日本経済新聞 文化面「カバーストーリー」|publisher=[[日本経済新聞社]]}}</ref>。兄の死後は彼女も館長を務めた「ジャッカ・ドフニ」は、[[2010年]][[10月31日]]をもって閉館した。「ジャッカ・ドフニ」に収められていた収蔵品は、散逸することなく、一括で[[北海道立北方民族博物館]]に収蔵されることになった<ref name="sasakura2">{{Cite web|title=北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ【コラムリレー第27回】|author=笹倉いる美|url=http://www.hk-curators.jp/archives/2671|website=集まれ! 北海道の学芸員|publisher=北海道博物館協会|date=2016-02-29|accessdate=2022-08-08}}</ref>。

一方のロシアでは、子どもたちがニヴフ、ナナイ、エヴェンキの子どもたちとともに寄宿学校で[[ロシア語]]による教育がほどこされており、ロシア化の影響が年々強まっている<ref name="redbook" />。ウィルタの民族組織がなかったにもかかわらず、N・ソロビョフは[[1990年]]3月30日から31日にかけて[[モスクワ]]で開かれた北部少数民族会議にウィルタ族代表として参加した<ref name="redbook" />。

== 生業 ==
[[農業]]を営むことなく、主として小規模な[[トナカイ]]の[[牧畜]]、[[狩猟]]、[[漁撈]]などを生業とした<ref name="fujioka452" /><ref name="nanika1" />。ただ、漁撈民である[[ニヴフ]](ギリヤーク)にくらべると山での生活が多く、漁撈はやや補助的なものであることが昭和10年代の樺太を調査した研究者、[[犬飼哲夫]]によって報告されている<ref>[[#犬飼|犬飼(1941)p.17]]</ref>。春から夏にかけてはサハリン東部の[[オホーツク海]]沿岸に住んで漁撈や[[海獣]]狩猟にたずさわり、冬は内陸部で狩猟をおこないながら移動生活を送った<ref name="ogihara151" /><ref name="89ogihara77">[[#荻原2|荻原(1989)p.77]]</ref>。狩猟で捕獲する陸上動物は[[オオカミ]]、[[イノシシ]]、[[キツネ]]、[[ヤマネコ]]などであった<ref name="tbs716">[[#TBS|『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典1』「オロッコ族」(1972)p.716]]</ref>。移動手段はトナカイであり、トナカイの飼料となる草や[[コケ植物|コケ]]、魚獣の利を求めて移動した<ref name="hora956" />。トナカイは魚や獣類のほか、諸雑器や狩猟・漁撈具などの[[運搬]]にも利用された<ref name="nanika2" /><ref name="hora956" />。また、少数ではあるがサハリン南部に散在してニヴフやアイヌとも接触交渉をもつ者があった<ref name="89ogihara77" />。

彼らは民族誌のうえでは、[[オロチ族]]や[[ウリチ|ウリチ族]]に近いといわれるが、トナカイの繁殖にもとづく経済という点では彼らと大きく異なっている<ref name="redbook" />。トナカイへの愛着は深く、それは[[エヴェンキ|エヴェンキ族]]の支族ではないかとみなされる契機となったほどである<ref name="redbook" />。漁撈にたずさわってきたことが彼らの生活様式に強い影響を与え、[[遊牧民]]としての生活習慣をいくらか修正しなければならなかった<ref name="redbook" />。彼らの移動が比較的制限されていたのは夏季に漁場付近にとどまる必要があったためで、春には冬のテントが[[タイガ]]のなかに残された<ref name="redbook" />。上述した5氏族は、それぞれが独自の移動ルートをもっていた<ref name="redbook" />。彼らに独特の慣行はアムール川沿いの交易所に加わるため大陸を定期的に訪れることであった<ref name="redbook" />。トナカイを逃げないようにする工夫として、ウィルタの人びとは[[ヤナギ]]の若い枝でつくった「カイガリ」という[[首輪]]をトナカイの首に巻き、その下にチェーンガイをぶら下げてトナカイの脚を止める方法があった<ref name="nanika2" />。

ソビエト政権下では[[野菜]]の栽培と牧牛が新しい生業として加わったが、漁撈と海獣狩猟は今もなお、いくらかの重要性を保っている<ref name="redbook" />。

{{multiple image
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| image1 = Men of Oroks(1810).png
| caption1 = ウィルタの男性<br/>間宮林蔵口述・村上貞助筆録『北夷分界余話』巻之7「ヲロッコ夷」(1810年)より
| image2 = Women of Oroks(1810).png
| caption2 = ウィルタの女性<br/>間宮林蔵口述・村上貞助筆録『北夷分界余話』巻之7「ヲロッコ夷」(1810年)より
}}

== 文化・習俗 ==
[[ファイル:Orok mittens Museum fuer Voelkerkunde Dresden 38855.jpg|thumb|キツネ皮の手袋(19世紀頃のもの。[[ドレスデン美術館]]所蔵)]]
伝統的住居は[[エヴェンキ]](キーリン)や[[オロチョン族|オロチョン]]など他のツングースと同様、比較的細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を[[毛皮]]で覆った[[テント|天幕]]式住居であった<ref name="fujioka452" /><ref name="hora956" />。テント式住居は、円錐形のものと棟を設けるものがあった<ref name="hora956" />。屋根の覆いは冬季にあっては綴り合せた[[カバノキ科|カバノキ]]の樹皮もしくは魚皮、初夏から秋にかけては剥いだ雑木の皮を用いた<ref name="hora956" />。1932年に設立されたトナカイ繁殖を専門に行うヴァルの集団農場にはウィルタのほか、ニヴフ、エヴェンキ、ロシア人も加わったが、そこでの住居はロシア風の丸太小屋であった<ref name="redbook" />。

[[衣服]]のうち、肌の上に着る物の多くは魚皮製であった。獣皮の衣服も用いられ、[[木綿]]衣はウリチ(山丹人)との交易で入手したという<ref name="hora956" />。キツネの毛皮を利用した[[手袋]]なども用いていた。

[[ヘアスタイル]]は男子が主に斬髪、女子は[[辮髪]]であった<ref name="fujioka452" />。

「イルガ」と呼ばれる独特の連続文様があり、[[被服|衣服]]や布製品、小物、食器などあらゆるものに施されてきた<ref name="seikatsukobo">{{Cite web|url=https://www.setagaya-ldc.net/program/261/|title=7つの海と手しごと《第5の海》 「オホーツク海とウイルタのイルガ」|author=せたがや文化財団|date=2014-10-04|accessdate=2022-8-7|website=世田谷文化生活情報センター 生活工房|publisher=公益財団法人せたがや文化財団 生活工房}}</ref>。また、ウィルタ独自の切り紙細工やその型紙のことを「イルガ」ということもある<ref name="nanika2" />。ウィルタでは皮なめし、とりわけトナカイの皮をなめす技術が発達しており、刺繍も巧妙である<ref name="nanika2" />。布・紙・草などでつくる人形づくりもさかんで、このような人形を、ウィルタでは「ホホー」といった<ref name="hoppou">{{Cite web|url=https://hoppohm.org/object2/H10_45.htm|title=資料紹介「布製人形」|author=北方民族博物館|date=1998-12-31|accessdate=2022-8-7|website=北方民族博物館所蔵資料より|publisher=北海道立北方民族博物館}}</ref>。

=== 言語 ===
{{main|ウィルタ語}}
言語は、広義の[[ツングース語族|ツングース語]]にカテゴライズされ、アムール川下流の[[ウリチ|ウリチ族]]が話す[[ウリチ語]]、[[ナナイ|ナナイ族]]の話す[[ナナイ語]]に似ているといわれる<ref name="redbook" /><ref name="fujioka452" />。エヴェンキ語やネギダール語とも共通の特徴を共有している<ref name="redbook" />。固有の文字を持たなかったが<ref name="fujioka452" />、現在では[[キリル文字]]による書記法がある。

一人一人が大自然のなかで自立して生き、少人数でトナカイと共に移動生活をしてきたため、さまざまな民族とかかわって生きてきたウィルタは、文字こそ有しなかったものの語学能力には長けており、多くは数言語を操った<ref name="nanika1" />。また、文字を持たないために常に記憶することが幼少期から習慣化されていて、記憶力にも優れているという<ref name="nanika2" /><ref name="nanika1" />。

=== 精神生活 ===
[[シャーマニズム]]が[[信仰]]の基盤となっている<ref name="fujioka452" /><ref name="tbs716" />。シャーマン(ウィルタでは「サマ」と呼んだ)の役割は、他のツングース諸族同様、ニヴフに比較して相当に重く、[[超自然]]的な能力や透視力をもつ者として尊敬された<ref name="89ogihara120">[[#荻原2|荻原(1989)pp.120-121]]</ref>。シャーマンはボオ(天。ウィルタの神)の教えを受けた者として、[[予言]]や病者の[[治療]]にあたった<ref name="nanika1" />。そして、狩猟・漁撈の成功を祈願し、死者の[[霊魂]]を他界に送る[[儀礼]]を、そのために設営された[[祭壇]]で行った<ref name="89ogihara120" />。祭壇には高い柱が設けられたが、ウィルタの柱は「トゥルー(turu)」と呼ばれ、[[彫刻]]が施されていた<ref name="89ogihara120" />。人びとは、自らの守り神として木偶「セワ」を作るなどの宗教的な営みを行っていた<ref name="nikkei20180719"/>。「セワ」は人の形をしたものが多く、特に子どもが病気にかかった際には母親が50センチメートルから70センチメートル大の「セワ」を作って家屋の戸口に飾るならわしがあり、シャーマンの[[祈り]]の力を借りて災禍を天空に放ったという<ref name="nikkei20180719"/>。シャーマンの用いるトナカイの皮製の[[太鼓]]を「ダーリ」といい、叩くバチを「ギシプ」といった<ref name="nanika2" />。シャーマンが踊る際には、腰の下にいくつもの金具を並べて音を出す「ヤークパ」や袋張りの中に小砂利を入れた打楽器「ヨードプ」でリズムをとった<ref name="nanika2" />。

ウィルタには、自分たちの祖先が[[ユーラシア|ユーラシア大陸]]からトナカイをともなってサハリンに移住してきたという言い伝えがあった<ref name="89ogihara77" />。ウィルタ文化には、物質文化のみならず精神文化においてもアムール川流域の先住民に共通する特徴がある<ref name="ogihara151" />。島の造化神として[[神話]]に登場する海神「ハダウ」もその一例である<ref name="ogihara151" />。

葬送は一般に土葬である<ref name="nanika2" />。ただし、冬季の土葬は難しいので遺体をくるんで他の動物に食べられないように樹木に縛っておくこともあった<ref name="nanika2" />。ウィルタでは、土葬された人は土中で眠り続け、やがて神になると信じられた<ref name="nanika2" />。

=== 社会生活 ===
ウィルタ社会は、父系的な外婚規制のある氏族組織をもっていた<ref name="hora956" /><ref name="tbs716" />。氏族の組織は、「ガサ」ないし「ガシャ」と称され、集団を組んで移動するが、その移動範囲はガサ(ガシャ)ごとにほぼ一定であった<ref name="fujioka452" />。ウィルタの人びとはトナカイを飼うため、犬を飼う民族には近寄らず、異民族との結婚をなるべく避けようとする傾向があり、結婚相手が他民族でもいやがらない社交的なニヴフ(ギリヤーク)とは対照的であるという<ref name="takahashi73">[[#髙橋|髙橋(2008)pp.73-77]]</ref>。

ウィルタ社会本来の特徴は、1.戦争や争いを好まないこと、2.上下関係・階級をもたないこと、3.私有の観念の薄弱であることなどであるという<ref name="nanika1" />。食糧も大地からの恵みとして必要以上には捕獲せず、貧しい者には分け与え、相互扶助の精神が発達していた<ref name="nanika1" />。上述したシャーマンも階級的な要素をもたないものである<ref name="nanika1" />。

=== 通過儀礼 ===
ウィルタの少年たちは、時が来れば、通常は[[チョウザメ科|チョウザメ]]狩りに参加し、通常は[[オオチョウザメ]]またはダウリアチョウザメを探した。これには、通常一週間分のわずかな食料と特殊な[[槍]]で武装した少年が1人で出かけることが含まれていた。チョウザメを仕留めると、ハンターはその歯を1つ取り、額か腕に印を刻む。これは、漁猟が成功したことを示す証である。魚の大きさ、強さ、激しさのために、首尾よくチョウザメを殺すことができず、多くのハンターが命を落としたという。

== 身体的特徴 ==
他の種族との[[混血]]も認められるが<ref name="fujioka452" />、短頭・広頭で[[頬骨]]が発達し、眼には[[内眼角贅皮|蒙古襞]]がなく、一重で切れ長である<ref name="fujioka452" /><ref name="hora956" /><ref name="tbs716" />。頭髪は黒褐色の直毛で、[[髭|ヒゲ]]をはじめ[[毛 (動物)|体毛]]は少ない<ref name="fujioka452" /><ref name="hora956" /><ref name="tbs716" />。唇は薄く<ref name="89ogihara92">[[#荻原2|荻原(1989)p.92]]</ref>、[[皮膚]]の色は黄褐色で[[モンゴロイド]]の特徴を呈している<ref name="fujioka452" />。ニヴフに比較すると、ウィルタの人びとの皮膚、目、毛髪の色は際立って明るい<ref name="89ogihara92" />。これは、[[ネギダール]]、ナナイについても同様の傾向が指摘できる<ref name="89ogihara92" />。


== 日本のウィルタ民族の著名人==
== 日本のウィルタ民族の著名人==
*[[北川ゴルゴロ]]・・・日本名:北川 五郎、ウィルタ名:Daxinnieni Gorgolo、1899年頃 - 1978年 [[シャーマン]]。樺太出身。
* [[北川ゴルゴロ]](1899年頃 - 1978年)・・・日本名:北川五郎、ウィルタ名:ダーヒンンェニ・ゴルゴロ(Daxinnieni Gorgolo)。ウィルタのシャーマン。樺太出身。
*[[佐藤チヨ]]・・・ウィルタ名:ナプカ、1910年? - 1985年)釧路市で死去。
* [[佐藤チヨ]](1910年? - 1985年)・・・ウィルタ名:ナプカ。南樺太の[[オタス]]([[敷香郡]][[敷香町]]出身。[[釧路市]]で死去。ウィルタの語り部
*[[ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ]]・・・日本名:北川源太郎、ウィルタ語名:Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu, 1926年頃(戸籍上:1924(大正13年)3月17日) - 1984年7月8日民族研究家。樺太出身。
* [[ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ]] (Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu1926年頃(戸籍上は19243月17日) - 1984年7月8日)・・・日本名:北川源太郎。北川ゴルゴロの養子。民族研究家・運動家。ウィルタ文化の継承・普及に努力。「ジャッカ・ドフニ」設立者・館長。南樺太のオタス出身。
* [[北川アイ子]](1928年 - 2007年12月16日)・・・ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹。オタス出身。「フレップ会」の顧問や「ジャッカ・ドフニ」の館長を務めた{{refnest|group="注釈"|フレップ会は、日本で最初のウィルタ刺繍サークルである<ref name="nanika1" />。なお、「フレップ」とはアイヌ語で[[コケモモ]](カウベリー)という意味で、ウィルタの人びとが好んで食した果実である<ref name="nanika1" />。}}。

== ウィルタを題材にした作品 ==

* [[野田サトル]]『[[ゴールデンカムイ]]』(漫画・アニメ) - 樺太編においてその習俗が描かれ、ウィルタ語も研究者の監修を得て表現されている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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{{Notelist}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=相原秀起|authorlink=相原秀起|year=1997|month=5|title=新サハリン探検記―間宮林蔵の道を行く|publisher=[[社会評論社]]|isbn=978-4784503667|ref=相原}}
*『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』(田中了、D.ゲンダーヌ、現代史出版会、1978)
* {{Cite book|和書|author=天野尚樹|authorlink=天野尚樹|editor=[[原暉之]]・天野尚樹|year=2017|month=3|chapter=序章 樺太の地理と人びと|title=樺太四〇年の歴史―四〇万人の故郷|publisher=一般社団法人 [[全国樺太連盟]]|isbn=978-4-9909527-0-9|ref=天野}}
*『新サハリン探検記』(相原秀起、[[社会評論社]]、1997)
* {{Cite book|和書|author=犬飼哲夫|authorlink=犬飼哲夫|year=1941|title=北方文化研究報告第四輯 樺太オロッコ海豹猟|publisher=[[北海道大学|北海道帝国大学]]|ref=犬飼}}
*『[[トナカイ]]王 北方先住民のサハリン史』(N.ヴィシネフスキー、小山内道子訳、成文社、2006)
* {{Cite book|和書|author=ニコライ・ヴィシネフスキー({{Lang-ru-short|Николай Вишневский}})|translator=[[小山内道子]]|year=2006|month=4|title=トナカイ王 北方先住民のサハリン史|publisher=[[成文社]]|isbn=4915730522}}
* {{Cite book|和書|author=荻原真子|authorlink=荻原真子|chapter=ウイルタ族|editor=|year=1988|month=3|title=[[世界大百科事典]]3 イン-エン|publisher=[[平凡社]]|ref=荻原}}
* {{Cite book|和書|editor=[[藤本英夫]]|year=1981|month=7|chapter=第2部 北方民族の暮らし|title=北方の文化―北海道の博物館―|series=日本の博物館 第11巻|publisher=[[講談社]]|isbn=|ref=藤本}}
** {{Cite book|和書|author=[[河野本道]]|editor=藤本英夫|year=1981|month=7|chapter=北方の民族と文化―多様な民族の固有なくらし|title=北方の文化―北海道の博物館―|series=日本の博物館 第11巻|publisher=講談社|ref=河野}}
* {{Cite book|和書|author=高倉新一郎|authorlink=高倉新一郎|chapter=間宮林蔵|editor=日本歴史大辞典編集委員会|year=1979|month=11|title=日本歴史大辞典第8巻 は-ま|publisher=[[河出書房新社]]|ref=高倉}}
* {{Cite book|和書|author=髙橋大輔|authorlink=髙橋大輔 (探検家)|year=2008|month=11|title=間宮林蔵・探検家一代|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書|中公新書ラクレ]]|isbn=978-4-12-150297-1|ref=髙橋}}
* {{Cite book|和書|author=[[田中了]]・[[ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ]]|year=1978|month=2|title=ゲンダーヌ―ある北方少数民族のドラマ|publisher=[[現代史出版会]]|isbn=978-4198014742|ref=ゲンダーヌ}}
* {{Cite book|和書|author=平山裕人|authorlink=平山裕人|year=2018|month=11|title=地図でみるアイヌの歴史|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4-7503-4756-1|ref=平山}}
* {{Cite book|和書|author=藤岡謙二郎|authorlink=藤岡謙二郎|chapter=オロッコ|editor=日本歴史大辞典編集委員会|year=1979|month=11|title=日本歴史大辞典第2巻 え-かそ|publisher=河出書房新社|ref=藤岡}}
* {{Cite book|和書|author=|editor=フランク・B・ギブニー|year=1972|month=9|title=ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典1|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]}}
** {{Cite book|和書|author=|editor=|year=1972|month=9|chapter=オロッコ族|title=ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典1|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|ref=TBS}}
* {{Cite book|和書|author=洞富雄|authorlink=洞富雄|chapter=オロッコ|editor=|year=1980|month=6|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|國史大辭典]]第2巻 う-お|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642005029|ref=洞}}
* {{Cite book|和書|editor=[[三上次男]]・[[神田信夫]]|year=1989|month=9|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-44030-X}}
** {{Cite book|和書|author=荻原眞子|authorlink=荻原眞子|chapter=第1部第II章 民族と文化の系譜|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=荻原2}}
** {{Cite book|和書|author=加藤九祚|authorlink=加藤九祚|chapter=第2部第III章 ロシア人の進出とシベリア原住民|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=加藤3}}
*{{citation|last=Kolga|first=Margus|year=2001|chapter=Nivkhs|chapter-url=http://www.eki.ee/books/redbook/nivkhs.shtml|title=The Red Book of the Peoples of the Russian Empire|publisher=NGO Red Book|location=Tallinn, Estonia|isbn=9985-9369-2-2}}
*{{citation|last1=Shternberg|first1=Lev Iakovlevich|last2=Grant|first2=Bruce|year=1999|title=The Social Organization of the Gilyak|location=New York|publisher=American Museum of Natural History|isbn=0-295-97799-X}}


== 関連項目 ==
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* {{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/uiltakyokai |title=ウイルタ協会のブログ |date=20191101000000}}
* [http://www2.ngu.ac.jp/uri/syakai/pdf/syakai_Vol4803_06.pdf ウィルタとは何か] - 榎澤幸広・弦巻宏史
*[https://uiltaassociation.sakura.ne.jp/db1/%e4%bc%9a%e7%a4%be%e6%a6%82%e8%a6%81/ ウィルタ協会 | ジャッカ・ドフニ JACKA DOFUNI on web]
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*[[CiNii]] Books - [https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA56896525?l=en 北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ展示作品集]
* [https://uiltaassociation.sakura.ne.jp/db1/%e4%bc%9a%e7%a4%be%e6%a6%82%e8%a6%81/ ウィルタ協会 | ジャッカ・ドフニ JACKA DOFUNI on web]
*[http://hoppohm.org/index2.htm 北海道立 北方民族博物館公式サイト( 網走 )]
* [[CiNii]] Books - [https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA56896525?l=en 北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ展示作品集]
* [http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sr/ske/contents/marinehp/html/f1kensaku/oho_spt_012.htm ジャッカ・ドフニ](北海道水産林務部水産局水産経営課 漁村ふれあい検索)
* [http://hoppohm.org/index2.htm 北海道立 北方民族博物館公式サイト( 網走 )]
* {{en icon}} [http://www.eki.ee/books/redbook/oroks.shtml REDBOOK "THE OROKS"]


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2022年8月26日 (金) 09:04時点における版

ウィルタ、オロッコ
Uilta, Orok

ウィルタの民族旗
武装したウィルタ人(20世紀前半、南樺太)
総人口
ロシアの旗 ロシア 295人(2010年国勢調査)
 ウクライナ 959人(2001年国勢調査)
日本の旗 日本 約20人(1989年推計)
居住地域
ロシア サハリン州
ウクライナ
日本 北海道
言語
ウィルタ語ロシア語ウクライナ語日本語
宗教
正教シャーマニズム
関連する民族
アイヌニヴフウリチナナイ

ウィルタウィルタ語: уилта、ロシア語: Ороки)は、ロシア連邦サハリン州樺太(サハリン島)東岸を主な居住域とする少数民族で、ツングース系に属する[1][注釈 1]。その生活の舞台は、伝統的には樺太中部の幌内川流域と北部のロモウ川流域であった。アイヌからはオロッコ (Orokko) と呼ばれた[2][3]オロチ族ないしオロチョン族と混同されることもあるが、異なる民族である[4]。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語である[5]。なお、言語学者を中心にUiltaを「ウイルタ」と書くこともある。

居住域と人口

ロシア極東地方の2010年国勢調査におけるウィルタ集落

ウィルタは、ロシア連邦による2002年の国勢調査ではロシア国内に346人おり、そのうち、298人はサハリン(樺太)で生活している。主な居住域は、かつてはサハリン島の中部から北部にかけての東岸(幌内川・ロモウ川流域)であったが、2002年の調査ではサハリン島南部のポロナイスク(旧敷香郡敷香町)に119人、北部ノグリキ地区のヴァル村に105人住んでおり、この2箇所に集中している。それ以外では、ノグリキ地区のノグリキ村、ポロナイスク地区のガステロ村とヴァフルシェフ村のほか、アレクサンドロフスク・サハリンスキー地区のヴィアフトゥ村、スミルニフ地区のスミルヌイク村、オハ地区ユジノサハリンスク豊原)などに散らばっている。ウクライナの人口調査では、自身ウィルタ(オロッコ)に属すると答えた人が959人におよんだものの、ウィルタ語を母語とすると答えた人は12人(1.25パーセント)だけであった[注釈 2]。サハリンでは、彼らはニヴフ(ギリヤーク)と近接し、共生している[3]

人口については、すべての国勢調査がウィルタを独立した民族として扱っているわけではないので、詳細な情報を得るのは困難である[3][注釈 3]1926年段階では、北部に162人、南部を含めた総人口は約460人であった[3]1960年では南部のウィルタが160人から170人程度、1989年には全体で約190人という情報がある[3]。戦争の影響や通婚が進んだ影響もあって、自らの出自を名乗らない人も多いため、2012年段階で、多く見積もってもせいぜい300人程度ではないかとも推計されている[2]。なお、民族学者のZ・ソコロフは1990年発行の雑誌『ソビエト民族誌』のなかでウィルタ族とオロチ族の人口は1979年から1989年までの10年で7.7パーセント減少したことに言及している[3]

民族名称

この民族の、他の極東諸民族と区別されるユニークな特徴は、民族グループに与えられる呼称の並外れた多さであり、それは、ウィルタのほか、オロッコ、オロク、オラカタ、オロツコ、オロホ、オロクコ、オロケス、オロックス、オロチョン、オロンゴドフン、オルニール、ドジン、タズン、トズン、ウルタ、ウイルタ、ウルチャル、ウルカ、オルカ、オルチ、オルチャなど20以上におよぶ。「オロッコ」は元来、アイヌによる他称である[2][3][4][8]。自称はウィルタ、ウリタ、ウリチャ[5]、ウィッタ、ウルチャ、ウルチェンなどである[8]

自称の「ウィルタ」「ウリタ」の語源は ula (ウィルタ語で「飼いならしたトナカイ」の意)であり、ウリタとは「トナカイ保有者」「飼トナカイと共に生活する人」をあらわす[9][10]。なお、ウィルタ族には大陸の住人と共通するナニ(Nani、「人」の意)という自称もある[9]

アイヌによる他称「オロッコ」、ロシア人による他称「オロク」「オロチェン」などの起源は、満洲・ツングース語の「オロ oro(家畜としてのトナカイ)」に求められると考えられ、やはり「トナカイの民」「トナカイ飼養者」の意であろうと推測される[3]

歴史

人類学者考古学者鳥居龍蔵は、かつて『日本書紀』にみられる「粛慎」をウィルタ族に比定したことがあったが、これには異論もある[4]元代以降の中国の文献資料に「䚟因」「亦里于」「使鹿部」などとみえる種族については、ウィルタである可能性が指摘されている[8]

ウィルタの樺太移住

ウィルタの口頭伝承では、ウィルタの人びとはウリチ(山丹人)と歴史を共有し、ロシア極東のアムグン川の地域からトナカイをともなって樺太(サハリン)へと移住したことが示されている。調査によると、この移住は遅くとも17世紀に起こったと考えられている[9][注釈 4]

山丹交易

江戸時代中期には、北海道 - 樺太 - アムール川流域を舞台にダイナミックな交易が展開された(山丹交易[11]。ウリチやアイヌニヴフとともにウィルタもこの交易に加わった[11]。山丹交易の中心は、南樺太のアイヌとアムール川下流域に住んでいたウリチ(山丹人)であり、アイヌは、樺太で捕獲されたテンカワウソキツネの毛皮、日本製の鉄鍋や小刀を持ち込み、一方、ウリチ側からは中国製の絹織物の官服(「蝦夷錦」)、青玉、鷲羽などがもたらされた[11]。タライカ(敷香郡敷香町)のウィルタ族はウリチから得た中国製品をたずさえて南下し、久春古丹大泊郡大泊町)の松前藩会所で交易した[8]

和人の樺太探検

1700年元禄13年)、松前藩江戸幕府に提出した『松前島郷帳』の「からと島」の項に「おれかた」「にくふん」の記載がみえる[12]。「おれかた」は「オロッコ(ウィルタ)」、「にくふん」はニヴフと考えられる。

1800年寛政12年)に蝦夷地御用御雇に任じられて蝦夷地勤務となった間宮林蔵は、1808年文化5年)、松田伝十郎とともに樺太探検を命じられた[13]。2人は二手に分かれて進み、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を進むこととした[14]。林蔵はシラヌシ(本斗郡好仁村)から東へ向かってタライカ(敷香郡敷香町)まで到達したが、小舟が波に翻弄されて食糧も乏しくなり、その先容易に進むことができなかったので、マーヌイ(豊栄郡白縫村)まで引き返して西海岸に出て、伝十郎の後を追ってラッカ岬まで進んだ[13][14]。このとき、林蔵は樺太西岸のニヴフ集落を訪れ、デレンに置かれた清朝の出先機関のことを聞いている[注釈 5]1809年(文化6年)の探検によって林蔵はナニオーに達し、樺太が島であることを確認した[13][14][15]。ニヴフの人びととともに、のちに「間宮海峡」と称される海峡を渡って外満洲からアムール川下流地域へ到達したのである[13][14][15]。間宮林蔵は、この探査の過程でタライカのウィルタ民族と遭遇し、『北蝦夷図説』などに「ヲロッコ夷」として叙述したが、これが和人にウィルタの人びとが紹介される最初であった[8]

1856年に樺太を踏査した松浦武四郎は『北蝦夷余誌』を残し、ウィルタの詳しい図説を描いた[8]。武四郎は、ウィルタ語の語彙のいくつかをカナで書き残しており、ウィルタの人びとの気質については「懦にして惇朴也」と記している[8]

一方、ロシアでウィルタ族の研究を始めたのは、1852年のN・ボシュニャックが最初であった[3]

近現代

近代の樺太は、領有権の移動に基づいて区分すると以下のようになる[16]

  1. 日露共同領有期(1855年-1875年) - 日露和親条約から樺太・千島交換条約まで
  2. 全島ロシア領期(1875年-1905年) - 樺太・千島交換条約からポーツマス条約まで
  3. 南北二分期前半期(1905年-1920年) - ポーツマス条約から日本の北サハリン占領まで
  4. 事実上の全島日本領期(1920年-1925年) - サガレン州派遣軍による北サハリン占領期間
  5. 南北二分期後半期(1925年-1945年) - 日ソ基本条約から第二次世界大戦終結まで
  6. 全島ソ連・ロシア領期(1945年- ) - 第二次世界大戦終結以降

1855年の下田条約(日露和親条約)以降、樺太は地域をつなぐ島から国境で区切る島へと変貌した[11]

ロシア帝国は、1858年アイグン条約1860年北京条約ののち、ウィルタの住む土地を支配するようになった[17]1857年から1906年にかけて、サハリンに流刑地が設定され、多数のロシアの犯罪者や政治亡命者がやってきたが、これはサハリン島にロシア人が住んでいるという既成事実をつくり上げようとする営為でもあった[16]。流刑者のなかには、ウィルタやニヴフ、樺太アイヌを調査した重要な初期民族誌学者であるレフ・シュテルンベルクもいた[18]1875年の樺太・千島交換条約によってサハリンは全島ロシア領となるが、このことのウィルタにあたえた影響のひとつにロシア正教に改宗した者が現れたことで、ロシア風の名前を子どもにつける人も出始めている[19]

「オタスの杜」(敷香郡敷香町)

一方、日露戦争の勝利によって、1905年明治38年)、北緯50度以南の樺太は日本領となったが、ウィルタやニヴフは樺太の北部から中部にかけての地域に住んでいたので、日本人とのつながりはアイヌと比較するとだいぶ薄かった[11]。両民族に対しては、1920年代まで樺太庁はほぼ放任状態という姿勢であったが、1926年から1927年にかけて、日本人から隔離して集住させるという方針がとられるようになり、敷香郡敷香町にアイヌ以外の先住民(ウィルタ、ニヴフ、サンダー、キーリン、ヤクート)を集住させる村落「オタスの杜」が造成された[11][注釈 6]。南樺太開拓のためだったといわれている[10]。オタスでは1930年日本語による教育をおこなう学校(「土人教育所」)が設立され、約40名の児童が実技を身に着けることを重点とした教育を受けた[19]。その一方でオタスは、異民族が住むエキゾチックな空間として人気があり、当時の代表的な観光地のひとつとなった[11][20][19]。ただし、実際には、ウィルタ304名、ニヴフ109名(1935年の統計)のうち、オタスに住んだのは半数以下だったといわれている[11]

ウィルタの旧日本領における人口推移は、以下の通りである[11]

河畔に立つウィルタの少女(1931年)

ロシア革命以前、ウィルタには5大氏族グループがあり、それぞれに独自の移動エリアがあった[21]。しかし、1922年に成立したソビエト連邦政府は、ウィルタに対する従来の政策を変更して、共産主義イデオロギーにもとづく集団化政策を推進した[22]1932年、ソ連領北樺太のウィルタは、少数のニヴフ、エヴェンキ、ロシア人とともに、トナカイの繁殖を専門とするヴァル村の集団農場に加わった[21]

1933年昭和8年)以降、日本領南樺太ではアイヌに戸籍が与えられて「内地人」扱いとなったが、ウィルタやニヴフには戸籍が与えられず、「土人」扱いのままだった[11]。樺太アイヌには刑法民法が適用されたが、ウィルタとニヴフには刑法のみが適用されるにとどまった[23]。ただ、同化政策がなされたのは、ソ連統治下の北サハリンも同じであった[20]

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、日本陸軍はウィルタやニヴフの高い身体能力に目を付け、ソ連軍の動きを探る活動に従事させた[10][20][23]1942年、陸軍特務機関は、敷香町在住のウィルタ22人、ニヴフ18人の計40名に日本名を与え、諜報部隊に配置した[10][23]。諜報員として召集された者の多くは戦後シベリアに抑留され、その多くは同地で死去したといわれる[10]。オタスに育ったウィルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(北川源太郎)は、そのなかを生き残った[10]

1945年(昭和20年)8月9日ソ連対日参戦8月20日樺太の戦いを経て樺太全島はソビエト連邦領となったが、戦後、ウィルタの一部には網走市釧路市など北海道に移住した者もいた[5][24]。10年近くシベリア抑留を受けたダーヒンニェニ・ゲンダーヌも網走に移った一人である[10]。ウィルタの人びとは、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約発効の際、就籍という形で参政権を獲得した。

ダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、スパイ幇助罪の判決を受けて9年6か月にわたって抑留され、強制労働に従事させられたが、サハリンで「戦犯者」の汚名を受けながら肩身の狭い思いをするよりはと1955年(昭和30年)、渡航先を京都府舞鶴港に選び、住地を故郷に雰囲気の似ている網走市に定めた[2][10]。彼は3年後、サハリンにいる父北川ゴルゴロと姉家族総勢9人を、9年後、サハリンの妹家族総勢8人を網走に呼び寄せた[2][注釈 7]1975年(昭和50年)には、田中了やダーヒンニェニ・ゲンダーヌらの努力により、ウィルタ民族の人権戦後補償問題を解決する趣旨にもとづいて「オロッコの人権と文化を守る会」が設立された[2][10]。同年、かつての上官の手紙から旧軍人には恩給が支払われることを知ったダーヒンニェニ・ゲンダーヌは、「オロッコの人権と文化を守る会」の協力も得ながら申請手続きを行ったが認められなかった[10][注釈 8]。「オロッコの人権と文化を守る会」は、1976年12月、「ウィルタ協会」と改称された[2][10]1978年(昭和53年)、ウィルタはじめ北方民族の文化を残したいという彼の呼びかけに募金が集まり、網走市が提供した土地に「ジャッカ・ドフニ」(ウィルタ語で「大切な物を収める家」という意味)と名付けた資料館が設立された[25]

ウィルタが守り神とする木偶(セワ)の制作を受け継いでいる大広朔洋によると、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹であった北川アイ子2007年に網走で死去して以降、日本ではウィルタの民族的アイデンティティを名乗る人は絶えてしまったという[10][26]。兄の死後は彼女も館長を務めた「ジャッカ・ドフニ」は、2010年10月31日をもって閉館した。「ジャッカ・ドフニ」に収められていた収蔵品は、散逸することなく、一括で北海道立北方民族博物館に収蔵されることになった[27]

一方のロシアでは、子どもたちがニヴフ、ナナイ、エヴェンキの子どもたちとともに寄宿学校でロシア語による教育がほどこされており、ロシア化の影響が年々強まっている[3]。ウィルタの民族組織がなかったにもかかわらず、N・ソロビョフは1990年3月30日から31日にかけてモスクワで開かれた北部少数民族会議にウィルタ族代表として参加した[3]

生業

農業を営むことなく、主として小規模なトナカイ牧畜狩猟漁撈などを生業とした[4][10]。ただ、漁撈民であるニヴフ(ギリヤーク)にくらべると山での生活が多く、漁撈はやや補助的なものであることが昭和10年代の樺太を調査した研究者、犬飼哲夫によって報告されている[28]。春から夏にかけてはサハリン東部のオホーツク海沿岸に住んで漁撈や海獣狩猟にたずさわり、冬は内陸部で狩猟をおこないながら移動生活を送った[5][9]。狩猟で捕獲する陸上動物はオオカミイノシシキツネヤマネコなどであった[29]。移動手段はトナカイであり、トナカイの飼料となる草やコケ、魚獣の利を求めて移動した[8]。トナカイは魚や獣類のほか、諸雑器や狩猟・漁撈具などの運搬にも利用された[2][8]。また、少数ではあるがサハリン南部に散在してニヴフやアイヌとも接触交渉をもつ者があった[9]

彼らは民族誌のうえでは、オロチ族ウリチ族に近いといわれるが、トナカイの繁殖にもとづく経済という点では彼らと大きく異なっている[3]。トナカイへの愛着は深く、それはエヴェンキ族の支族ではないかとみなされる契機となったほどである[3]。漁撈にたずさわってきたことが彼らの生活様式に強い影響を与え、遊牧民としての生活習慣をいくらか修正しなければならなかった[3]。彼らの移動が比較的制限されていたのは夏季に漁場付近にとどまる必要があったためで、春には冬のテントがタイガのなかに残された[3]。上述した5氏族は、それぞれが独自の移動ルートをもっていた[3]。彼らに独特の慣行はアムール川沿いの交易所に加わるため大陸を定期的に訪れることであった[3]。トナカイを逃げないようにする工夫として、ウィルタの人びとはヤナギの若い枝でつくった「カイガリ」という首輪をトナカイの首に巻き、その下にチェーンガイをぶら下げてトナカイの脚を止める方法があった[2]

ソビエト政権下では野菜の栽培と牧牛が新しい生業として加わったが、漁撈と海獣狩猟は今もなお、いくらかの重要性を保っている[3]

ウィルタの男性
間宮林蔵口述・村上貞助筆録『北夷分界余話』巻之7「ヲロッコ夷」(1810年)より
ウィルタの女性
間宮林蔵口述・村上貞助筆録『北夷分界余話』巻之7「ヲロッコ夷」(1810年)より

文化・習俗

キツネ皮の手袋(19世紀頃のもの。ドレスデン美術館所蔵)

伝統的住居はエヴェンキ(キーリン)やオロチョンなど他のツングースと同様、比較的細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を毛皮で覆った天幕式住居であった[4][8]。テント式住居は、円錐形のものと棟を設けるものがあった[8]。屋根の覆いは冬季にあっては綴り合せたカバノキの樹皮もしくは魚皮、初夏から秋にかけては剥いだ雑木の皮を用いた[8]。1932年に設立されたトナカイ繁殖を専門に行うヴァルの集団農場にはウィルタのほか、ニヴフ、エヴェンキ、ロシア人も加わったが、そこでの住居はロシア風の丸太小屋であった[3]

衣服のうち、肌の上に着る物の多くは魚皮製であった。獣皮の衣服も用いられ、木綿衣はウリチ(山丹人)との交易で入手したという[8]。キツネの毛皮を利用した手袋なども用いていた。

ヘアスタイルは男子が主に斬髪、女子は辮髪であった[4]

「イルガ」と呼ばれる独特の連続文様があり、衣服や布製品、小物、食器などあらゆるものに施されてきた[30]。また、ウィルタ独自の切り紙細工やその型紙のことを「イルガ」ということもある[2]。ウィルタでは皮なめし、とりわけトナカイの皮をなめす技術が発達しており、刺繍も巧妙である[2]。布・紙・草などでつくる人形づくりもさかんで、このような人形を、ウィルタでは「ホホー」といった[31]

言語

言語は、広義のツングース語にカテゴライズされ、アムール川下流のウリチ族が話すウリチ語ナナイ族の話すナナイ語に似ているといわれる[3][4]。エヴェンキ語やネギダール語とも共通の特徴を共有している[3]。固有の文字を持たなかったが[4]、現在ではキリル文字による書記法がある。

一人一人が大自然のなかで自立して生き、少人数でトナカイと共に移動生活をしてきたため、さまざまな民族とかかわって生きてきたウィルタは、文字こそ有しなかったものの語学能力には長けており、多くは数言語を操った[10]。また、文字を持たないために常に記憶することが幼少期から習慣化されていて、記憶力にも優れているという[2][10]

精神生活

シャーマニズム信仰の基盤となっている[4][29]。シャーマン(ウィルタでは「サマ」と呼んだ)の役割は、他のツングース諸族同様、ニヴフに比較して相当に重く、超自然的な能力や透視力をもつ者として尊敬された[32]。シャーマンはボオ(天。ウィルタの神)の教えを受けた者として、予言や病者の治療にあたった[10]。そして、狩猟・漁撈の成功を祈願し、死者の霊魂を他界に送る儀礼を、そのために設営された祭壇で行った[32]。祭壇には高い柱が設けられたが、ウィルタの柱は「トゥルー(turu)」と呼ばれ、彫刻が施されていた[32]。人びとは、自らの守り神として木偶「セワ」を作るなどの宗教的な営みを行っていた[26]。「セワ」は人の形をしたものが多く、特に子どもが病気にかかった際には母親が50センチメートルから70センチメートル大の「セワ」を作って家屋の戸口に飾るならわしがあり、シャーマンの祈りの力を借りて災禍を天空に放ったという[26]。シャーマンの用いるトナカイの皮製の太鼓を「ダーリ」といい、叩くバチを「ギシプ」といった[2]。シャーマンが踊る際には、腰の下にいくつもの金具を並べて音を出す「ヤークパ」や袋張りの中に小砂利を入れた打楽器「ヨードプ」でリズムをとった[2]

ウィルタには、自分たちの祖先がユーラシア大陸からトナカイをともなってサハリンに移住してきたという言い伝えがあった[9]。ウィルタ文化には、物質文化のみならず精神文化においてもアムール川流域の先住民に共通する特徴がある[5]。島の造化神として神話に登場する海神「ハダウ」もその一例である[5]

葬送は一般に土葬である[2]。ただし、冬季の土葬は難しいので遺体をくるんで他の動物に食べられないように樹木に縛っておくこともあった[2]。ウィルタでは、土葬された人は土中で眠り続け、やがて神になると信じられた[2]

社会生活

ウィルタ社会は、父系的な外婚規制のある氏族組織をもっていた[8][29]。氏族の組織は、「ガサ」ないし「ガシャ」と称され、集団を組んで移動するが、その移動範囲はガサ(ガシャ)ごとにほぼ一定であった[4]。ウィルタの人びとはトナカイを飼うため、犬を飼う民族には近寄らず、異民族との結婚をなるべく避けようとする傾向があり、結婚相手が他民族でもいやがらない社交的なニヴフ(ギリヤーク)とは対照的であるという[33]

ウィルタ社会本来の特徴は、1.戦争や争いを好まないこと、2.上下関係・階級をもたないこと、3.私有の観念の薄弱であることなどであるという[10]。食糧も大地からの恵みとして必要以上には捕獲せず、貧しい者には分け与え、相互扶助の精神が発達していた[10]。上述したシャーマンも階級的な要素をもたないものである[10]

通過儀礼

ウィルタの少年たちは、時が来れば、通常はチョウザメ狩りに参加し、通常はオオチョウザメまたはダウリアチョウザメを探した。これには、通常一週間分のわずかな食料と特殊なで武装した少年が1人で出かけることが含まれていた。チョウザメを仕留めると、ハンターはその歯を1つ取り、額か腕に印を刻む。これは、漁猟が成功したことを示す証である。魚の大きさ、強さ、激しさのために、首尾よくチョウザメを殺すことができず、多くのハンターが命を落としたという。

身体的特徴

他の種族との混血も認められるが[4]、短頭・広頭で頬骨が発達し、眼には蒙古襞がなく、一重で切れ長である[4][8][29]。頭髪は黒褐色の直毛で、ヒゲをはじめ体毛は少ない[4][8][29]。唇は薄く[34]皮膚の色は黄褐色でモンゴロイドの特徴を呈している[4]。ニヴフに比較すると、ウィルタの人びとの皮膚、目、毛髪の色は際立って明るい[34]。これは、ネギダール、ナナイについても同様の傾向が指摘できる[34]

日本のウィルタ民族の著名人

  • 北川ゴルゴロ(1899年頃 - 1978年)・・・日本名:北川五郎、ウィルタ名:ダーヒンンェニ・ゴルゴロ(Daxinnieni Gorgolo)。ウィルタのシャーマン。樺太出身。
  • 佐藤チヨ(1910年? - 1985年)・・・ウィルタ名:ナプカ。南樺太のオタス敷香郡敷香町)出身。釧路市で死去。ウィルタの語り部。
  • ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ (Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu、1926年頃(戸籍上は1924年3月17日) - 1984年7月8日)・・・日本名:北川源太郎。北川ゴルゴロの養子。民族研究家・運動家。ウィルタ文化の継承・普及に努力。「ジャッカ・ドフニ」設立者・館長。南樺太のオタス出身。
  • 北川アイ子(1928年 - 2007年12月16日)・・・ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹。オタス出身。「フレップ会」の顧問や「ジャッカ・ドフニ」の館長を務めた[注釈 9]

ウィルタを題材にした作品

脚注

注釈

  1. ^ アムール川(黒竜江)流域および沿海州・樺太に生活するツングース・満洲系の民族は、ウィルタ以外ではナナイオロチウリチウデヘネギダールの諸族がいる[1]ニヴフとアイヌはパレオアジア系に属する[1]
  2. ^ 179人(19パーセント)がウクライナ語を母語、710人(74パーセント)がロシア語が母語と答えた[6]。一方、1989年のソビエト連邦の国勢調査では、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国にはウィルタは2人しかいなかった[7]
  3. ^ 1959年と1979年の国勢調査では、ウィルタは独立民族として登録されていなかった[3]
  4. ^ ウィルタは、元来はアムグン川地方にいたエヴェンキ族であるという推測もある[9]
  5. ^ デレンの満洲仮府については、候補地が3か所ほどあり、なかでも現在のノヴォイリノフカロシア語版にあった可能性が高いとする説が提唱されている[15]
  6. ^ 樺太庁の対応の急変は、1925年の北サハリン保障占領の終了にともない、「トナカイ王」と呼ばれたサハ(ヤクート)の資産家ヴィノクーロフが北樺太より亡命したことが影響しているといわれる[11]。なお、「オタス」とはアイヌ語で「砂地」という意味であった[2]
  7. ^ 日本のために戦い、苦労もした彼であったが、彼を温かく迎えた人はなく、戸籍がないことも判明し、当初は就職すらできなかったという[10]
  8. ^ 不許可の理由として、戸籍法の適用を受けていない者には兵役法が適用されないこと、兵役法にもとづかない召集令状は無効であること、無効の召集令状を知らずに受けて従軍し、そのために戦犯者として抑留されたとしても日本政府の関知するところではないことなどの5点が政府見解として示された[10]
  9. ^ フレップ会は、日本で最初のウィルタ刺繍サークルである[10]。なお、「フレップ」とはアイヌ語でコケモモ(カウベリー)という意味で、ウィルタの人びとが好んで食した果実である[10]

出典

  1. ^ a b c 荻原(1989)pp.54-56
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 弦巻宏史榎澤幸広「ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第二部」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第48巻、第3号、名古屋学院大学、87-113頁、2012年1月。 NAID 120006009768 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Ants Viires (1993年8月). “The red book of the Russian Empire. "THE OROCS"”. The Peoples of the Red Book. The Redbook. 2022年8月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 藤岡(1979)pp.452-453
  5. ^ a b c d e f 荻原(1988)p.151
  6. ^ Перепись населения на Украине 2001 года”. 2013年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月19日閲覧。
  7. ^ Всесоюзная перепись населения 1989 года. Национальный состав населения по республикам СССР”. 2011年12月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月29日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 洞(1980)p.956
  9. ^ a b c d e f g 荻原(1989)p.77
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 榎澤幸広「ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第一部」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第48巻、第3号、名古屋学院大学、80-87頁、2012年1月。 NAID 120006009768 
  11. ^ a b c d e f g h i j k 天野(2017)pp.26-32
  12. ^ ウィキソース「松前島郷帳
  13. ^ a b c d 高倉(1979)p.708
  14. ^ a b c d 第3章 松田伝十郎と間宮林蔵の樺太踏査”. 稚内市史. 稚内市. 2022年7月15日閲覧。
  15. ^ a b c 髙橋(2008)pp.96-101
  16. ^ a b 天野(2017)pp.34-39
  17. ^ Kolga 2004, p. 270
  18. ^ Shternberg & Grant 1999, p. xi
  19. ^ a b c 笹倉いる美 (2011年9月30日). “第26回特別展 ウィルタとその隣人たち-サハリン・アムール・日本〜つながりのグラデーション”. 北方民族博物館だよりNo.82. 北海道立北方民族博物館. 2022年8月8日閲覧。
  20. ^ a b c 真野森作. “あの人気漫画の舞台「樺太」の戦前、戦中、そして戦後”. 政治プレミア. 毎日新聞. 2022年7月15日閲覧。
  21. ^ a b Nivkhi”. Npolar.no. 2014年12月1日閲覧。
  22. ^ Shternberg & Grant 1999, pp. 184–194
  23. ^ a b c 平山(2018)p.167
  24. ^ 河野(1981)pp.64-68
  25. ^ 津曲敏郎 (2020年3月13日). “「小さな夢」を引き継ぐ 1.ウイルタとして生きる”. 館長の部屋. 北海道立北方民族博物館. 2022年7月15日閲覧。
  26. ^ a b c 大広朔洋 (2018年7月19日). “北方民族の祈りを彫る:ウィルタ族の木偶モチーフ 網走で制作続ける”. 日本経済新聞 文化面「カバーストーリー」. 日本経済新聞社. 2022年8月7日閲覧。
  27. ^ 笹倉いる美 (2016年2月29日). “北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ【コラムリレー第27回】”. 集まれ! 北海道の学芸員. 北海道博物館協会. 2022年8月8日閲覧。
  28. ^ 犬飼(1941)p.17
  29. ^ a b c d e 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典1』「オロッコ族」(1972)p.716
  30. ^ せたがや文化財団 (2014年10月4日). “7つの海と手しごと《第5の海》 「オホーツク海とウイルタのイルガ」”. 世田谷文化生活情報センター 生活工房. 公益財団法人せたがや文化財団 生活工房. 2022年8月7日閲覧。
  31. ^ 北方民族博物館 (1998年12月31日). “資料紹介「布製人形」”. 北方民族博物館所蔵資料より. 北海道立北方民族博物館. 2022年8月7日閲覧。
  32. ^ a b c 荻原(1989)pp.120-121
  33. ^ 髙橋(2008)pp.73-77
  34. ^ a b c 荻原(1989)p.92

参考文献

関連項目

外部リンク