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|説 = [[道の駅サラブレッドロード新冠]]前のハイセイコー像
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'''ハイセイコー'''は[[日本]]の[[競走馬]]で。[[競馬]][[ファン]]のみならず国民的な人気を集め、[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]」「ハイセイコーブーム」呼ばれる一大社会現象を巻き起こした。[[1984年]]、[[顕彰馬]]に選出。
'''ハイセイコー'''は[[日本]]の[[競走馬]]。1970年代の日本社会現象と呼ばれほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]の立役者なった。[[1984年]]、[[顕彰馬]]に選出。

※馬齢は旧表記に統一する。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 誕生 ===
=== 誕生・デビュー前 ===
[[1970年]]、[[北海道]][[日高支庁]][[新冠町]]の武田牧場で誕生。誕生したとき見るからに丈夫そうな体つきをしており、牧場関係者[[赤飯]]を炊いて祝ったほどったという。もなく日高の競走馬生産者の間でも評判を得るようになった。
{{和暦|1970}}、[[北海道]][[日高支庁]][[新冠町]]の武田牧場で誕生。馬体が大きく脚や蹄が逞かっとから、牧場関係者[[赤飯]]を炊いて誕生を祝った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、55頁。</ref>。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きくひときわ目立った馬、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った<ref name="岩川1991-34">[[#岩川1991|岩川1991]]、34頁。</ref>。夏になると武田は、「ダービーに勝つはいいません。でもダービーに出られるぐらの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった<ref name="横尾2000-35">[[#横尾2000|横尾2000]]、35頁。</ref><ref name="横尾1986-22">[[#横尾1986|横尾1986]]、22頁。</ref>


ハイセイコーは母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める<ref name="江面2011-123">[[#江面2011|江面2011]]、123頁。</ref>(株)王優に所有され、ハイユウを管理していた[[大井競馬場]]の[[調教師]]伊藤正美によって管理されることになった<ref name="横尾2000-35"/>。{{和暦|1971}}9月に伊藤厩舎に入厩し、[[競走馬#馴致|馴致]]が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった[[高橋三郎]]によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた<ref name="大井が生んだ怪物">{{Cite web|author = 中川明美|date = |url = http://www.tokyocitykeiba.com/03/story_vol16.php|title = 大井が生んだ怪物 ハイセイコー -ハイセイコー記念-|work = 重賞名馬ストーリー|publisher = [[大井競馬場|東京シティ競馬]] |language = 日本語|accessdate = 2011年10月26日}}</ref>。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている<ref name="大井が生んだ怪物"/>。{{和暦|1972}}5月、担当[[厩務員]]の山本武夫はハイセイコーについて、[[金沢競馬場]]の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの[[能力試験]]を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、54頁。</ref>。
==== 血統・血統表 ====
父の[[チャイナロック]]はハイセイコーの誕生までにも[[タケシバオー]]([[1969年]][[天皇賞|天皇賞〈春〉]]優勝)、[[メジロタイヨウ]](1969年天皇賞〈秋〉優勝)、[[アカネテンリュウ]](1969年[[菊花賞]]優勝)と3頭の[[八大競走]]優勝馬を輩出し、[[1973年]]には[[中央競馬]]の[[リーディングサイアー]]を獲得した[[種牡馬]]である。


=== 競走馬時代 ===
母のハイユウは競走馬時代に[[地方競馬]]([[南関東公営競馬|南関東]])で16勝を挙げ、うち3回はレコードタイムを記録した快速馬であった。母の弟にはオオクラ(春の天皇賞2着)もいる。祖母ダルモーガンは[[大井競馬場]]が競走馬用に輸入した「[[豪サラ#1950年代の豪サラ|豪サラ]]」の1頭である。
==== 3歳時(1972年) ====
1972年6月にデビューする予定であったが、ハイセイコーとの対戦を避けようと出走を回避する馬が続出し、予定していたレースが不成立となった<ref name="大井が生んだ怪物"/>。翌[[7月12日]]、[[大井競馬場]]で行われた未出走戦でデビュー。このレースを同競馬場のダート1000[[メートル|m]]のコース[[レコード (曖昧さ回避)|レコード]]59秒4で走破し、2着馬に8馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけ優勝した。従来のレコードは[[ヒカルタカイ]]([[南関東公営競馬]]の初代[[三冠 (競馬)#南関東三冠|三冠馬]]、[[中央競馬]]に移籍し[[天皇賞|天皇賞(春)]]・[[宝塚記念]]を優勝)が記録した1分0秒3で、この記録を騎乗していた辻野豊に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、10頁。</ref>。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4[[競馬場#日本の場合|コーナー]]では馬体を傾けながら走ったためバランス取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している<ref name="大井が生んだ怪物"/>。


その後11月末にかけ、ハイセイコーは常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成した。4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の[[ハイセイコー記念|青雲賞]]で重賞初優勝を達成した。
ハイセイコーの競走馬としての生き様は、地方競馬出身の野武士が単身で中央競馬の[[エリート]]集団に挑んだという構図で語られることが多いが、中央競馬の馬と同様に、血統的にはハイセイコーもまた当時の良血(エリート)であった。
5戦目の白菊特別を勝った頃から、調教師の伊藤は「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった<ref name="横尾2000-35"/>。


==== 4歳時(1973年) ====
ハイセイコーは父母から高い能力や特徴を受け継いでいるが、これは[[ニックス (競馬)|相性が悪い]]とされている[[ハイペリオン (競走馬)|ハイペリオン]]と[[ネアルコ]]の組み合わせである。
===== 中央競馬へ移籍 =====
[[1973年]][[1月12日]]、ホースマンクラブに5000万円{{#tag:ref|この金額は、当時の東京優駿の優勝賞金(3600万円)を上回っていた<ref name="江面2011-123"/>。|group="†"}}で売却された。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており<ref name="岩川1991-34"/>、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた<ref name="江面2011-123">[[#江面2011|江面2011]]、123頁。</ref>。作家の[[赤木駿介]]によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、80頁。</ref>。[[競馬評論家]]の[[大川慶次郎]]によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった<ref>[[#大川1998|大川1998]]、239-240頁。</ref>。


[[1月16日]]、ハイセイコーは[[東京競馬場]]の[[鈴木勝太郎]]厩舎に入厩した<ref name="横尾2000-35"/><ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、17・56-57・192頁。</ref>。この時ハイセイコーは、初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せた。この用心深い性格が、後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、192頁。</ref>。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、73頁。</ref>。
{{競走馬血統表
|name = ハイセイコー
|inf = ([[ハイペリオン系]]/Son-in-Law4×5=9.38%)
|f = *[[チャイナロック]]<br />China Rock<br />1953 栃栗毛
|m = ハイユウ<br />1961 黒鹿毛
|ff = Rockfella<br />1941 黒鹿毛
|fm = May Wong<br />1934 栗毛
|mf = *カリム<br />Karim<br />1953 鹿毛
|mm = *ダルモーガン<br />Dalmogan<br />1950 黒鹿毛
|fff = [[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]
|ffm = Rockfel
|fmf = Rustom Pasha
|fmm = Wezzan
|mff = [[ネアルコ|Nearco]]
|mfm = Skylarking
|mmf = Beau Son
|mmm = Reticent
|ffff = [[ゲインズバラ (競走馬)|Gainsborough]]
|fffm = [[シリーン (1919年生)|Selene]]
|ffmf = Felstead
|ffmm = Rockliffe
|fmff = [[サンインロー|Son-in-Law]]
|fmfm = Cos
|fmmf = Friar Marcus
|fmmm = Woodsprite
|mfff = [[ファロス (競走馬)|Pharos]]
|mffm = Nogara
|mfmf = Mirza
|mfmm = Jennie
|mmff = [[ボーペール|Beau Pere]]
|mmfm = Banita
|mmmf = Hua
|mmmm = Timid [[ファミリーナンバー|F-No.]][[12号族|12-g]]
|}}


===== 弥生賞・スプリングステークス =====
=== 競走馬生活 ===
[[ファイル:Nakayama-Racecourse05.jpg|thumb|中山競馬場に立つハイセイコー像]]
※[[馬齢]]は本馬の現役時代の背景を考慮し旧表記(数え年)にて記載
陣営は移籍初戦として[[共同通信杯|東京4歳ステークス]](2月11日に[[東京競馬場]]で施行)に出走させようとしたが叶わず<ref>[[#大川1997|大川1997]]、90頁。</ref>{{#tag:ref|大川慶次郎はその原因として、移籍馬は移籍から1か月間はレースに出走できないという当時の中央競馬のルールを挙げている<ref>[[#大川1997|大川1997]]、90頁。</ref>。|group="†"}}、[[3月4日]]の[[弥生賞]]が移籍初戦となった。
==== 3歳時(1972年) ====
[[1972年]][[7月12日]]に[[大井競馬場]]でデビューし、6連勝。その内容は、常に2着馬に7馬身以上の[[着差 (競馬)|着差]]をつける圧勝で、初戦と4戦目はレコード勝ち。いずれのレースにおいても[[騎手]]が本気で追うことはなかったという。青雲賞という[[重賞]]([[ダート]]1600[[メートル]])にも勝った。のちに青雲賞は同馬を顕彰し[[ハイセイコー記念]]という名称に変わっている。


「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は、当初から大きな話題を集め<ref name="結城2008">{{Cite web|author = 結城恵助|date = 2008-05-10|url = http://www.jra.go.jp/topics/column/chronicle/03.html|title = ハイセイコーに日本中が熱狂|work = 競馬クロニクル - 思い出の昭和競馬|publisher = [[日本中央競馬会]] |language = 日本語|accessdate = 2011年10月31日}}</ref>、弥生賞当日、[[中山競馬場]]にはおよそ12万3000人の観客が入った。発送前、ハイセイコーが[[パドック]]から競走の行われるコースへ移動した際には、観客の一部が観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも起こっている。これはあまりの人の多さに、金網近くにいた観客が苦しくなって起こした行動であった<ref name="横尾1986-21"/>。この現象について増沢は、「長いことこの商売やってるけど、あんなこと後にも先にも二度とないんじゃないかな」と語っている<ref name="優駿増刊号 TURF-59">[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、59頁。</ref>弥生賞でハイセイコーの人気を目の当たりにした増沢は、「この人気にこたえなくては、いけないんだ」と騎手になって初めてプレッシャーを感じたという<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、107頁。</ref>。
==== 4歳時(1973年) ====
[[1973年]][[1月12日]]、ホースマンクラブに5000万円で購入され、中央競馬への移籍が決定。同月16日に[[鈴木勝太郎]]厩舎へ入厩した。移籍の経緯については諸説あり、[[日刊競馬]]は初めから予定されていたものであったとする<ref>[http://www.nikkankeiba.com/jra50/09/09.html 日刊競馬で振り返る名馬 ハイセイコー]</ref>。また作家の[[赤木駿介]]は、ホースマンクラブの代表者が大井競馬の関係者から、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけとなったとしている。


陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めて{{#tag:ref|陣営は弥生賞前の2月22日にハイセイコーを中山競馬場に移送して芝コースを走らせる予定であったが、雨天のため実現せず、ぶっつけ本番で走らせざるを得なくなった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、193-194頁。</ref>。|group="†"}}であったため若干の不安も抱いていた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、193-194頁。</ref>。レースが始まると、調教の時とは異なり走りそうな手応えがなく、増沢は「勝てないのではないか」という思いに襲われたという<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、186頁。</ref>。序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に応える形で勝ったものの、終始増沢に前進を促され、増沢に手応えを感じさせないままに終わった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、186頁。</ref>レースぶりは陣営に不安を与え<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、195-196頁。</ref>、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、17頁。</ref>。
陣営は、移籍初戦として[[東京競馬場]]で行われる[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]に出走させたかったが、当時の中央競馬には「地方競馬から移籍した競走馬は移籍後1か月間レースに出走することができない」というルールがあったために断念、[[弥生賞]]への出走を決定した。


弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、[[ローテーション (競馬)|中2週]]で[[3月25日]]の[[スプリングステークス]]に出走させた。しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手[[安田伊佐夫]]が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、27頁。</ref>。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、27-28頁。</ref>。増沢はこの頃には「みんなが大騒ぎするほど強い馬なんだろうか」と思うようになっていたが、同時にハイセイコーの、実力に見合わないほどの人気の高まりも感じており、「勝たなければ、何といわれるかわからない」とますます重圧を感じるようになっていったという<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、108頁。</ref>。
;弥生賞・スプリングステークス・皐月賞
:弥生賞では[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に応える形で勝ったものの、レース内容は地方在籍時のような圧倒的なものではなく、後位からじりじりと伸びるというものであった。レース中の反応も悪く、騎手の[[増沢末夫]]は敗戦を覚悟したという。弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、[[ローテーション (競馬)|中2週]]で[[3月25日]]の[[スプリングステークス]]に出走させた。しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。2走とも[[上がり (競馬)|上がり]]3[[ハロン (単位)|ハロン]]が39秒台ということが落胆させる材料ともなった。
:厩舎関係者によると、弥生賞・スプリングステークスにおいてハイセイコーが苦戦した原因は、馬場(ダートと[[芝]])の違いに適応しきれていなかったこと。そしてハイセイコーの「ハミ受け」([[ハミ (馬具)|ハミ]]のくわえかた)が悪かったことだという。しかし皐月賞前までにハミ受けの矯正に成功し、[[4月15日]]の皐月賞に臨んだ。レースでは序盤は好位を進み、第3コーナーで早くも先頭に並びかける積極的な戦法をとり[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]]初戦に勝った。
;NHK杯・東京優駿
:皐月賞勝利後は[[5月27日]]の[[東京優駿]](日本ダービー)が目標となった。しかしその前に東京競馬場で行われる[[トライアル競走|トライアル]]の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]に出走することとなった。ハイセイコーには日本ダービーが行われる東京競馬場での出走経験がなく、[[#身体・精神面の特徴|後述]]のように初めての場所で[[競走馬#物見|物見]]をする癖があったため、[[スクーリング (競馬)|スクーリング]]のためにNHK杯に出走しておこうと考えたからである。前述のルールにより、東京競馬場を経験できなかったことがここに来て響いてきたのである。
:レースでは終始インコースに閉じ込められてなかなか抜け出すことができなかったが、ゴールまで200[[メートル]]を切った地点から鋭い伸びを見せ、ゴール手前でアタマ差抜け出してカネイコマ(皐月賞2着)、ディクタボーイ、サンポウらをまとめて交わし、かろうじて勝利を収めた。
:しかし、苦戦しながらも「並みの馬なら負ける所を勝った」と専門家によって高く評価され、日本ダービーでは圧倒的な1番人気<ref>単勝支持率66.7[[パーセント]]。これは[[2005年]]に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が73.4パーセントという支持率を出すまで日本ダービーにおける最高記録であった。</ref>に支持された。レースでは第3コーナーで早くも前方への進出を開始し、直線で一時は先頭に立ったものの、[[タケホープ]]、さらには[[イチフジイサミ]]に相次いで差され、勝ったタケホープから0秒9離された3着に敗れた。「レースに使われ続けたことで疲労が蓄積していた」「増沢騎手が早くスパートさせすぎた」「人気があり過ぎて大胆な[[脚質#追い込み|追い込み]]作戦がとれなかった」など(増沢自身は一番後者の説を自著で主張している)敗因についてさまざまな推測を生んだ。また、血統論者からは、母の父が短距離血統のカリムだから距離適応の限界が露呈したという見方が多く示された。
:なお、調教師の鈴木は厳しいローテーション、血統による距離の限界の可能性を認めたうえで「左回りが苦手だった」ことを敗因のひとつに挙げている。また、優勝したタケホープに騎乗した[[嶋田功]]は「単にローテーションが詰まっていただけでなく、無敗で来ていたので出るレースすべて勝つつもりで仕上げなければならなかったはず。それが疲労につながったのでは」と語っている。
:当時[[調教助手]]だった[[鈴木康弘 (競馬)|鈴木康弘]]は、ダービーの3週間前に父である鈴木勝太郎調教師の自宅に「ダービー当日にハイセイコーにいたずらをしてやる」という脅迫文が届いていたことを明らかにした<ref name="tospo">[[東京スポーツ]]2010年5月27日号</ref>。しかし鈴木はハイセイコーは万全の体調で出走させたことに悔いはなかったとコメントしている<ref name="tospo" />。


スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、62頁。</ref>。当時競馬評論家として活動していた[[大橋巨泉]]は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、28-30頁。</ref>としつつ、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」評し、「五冠王[[シンザン]]のイメージがオーバーラップしつつある」と述べた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、30頁。</ref>。これに対しシンザンの管理調教師であった[[武田文吾]]は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに"5冠"を制しているのだ」と反論した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、31頁。</ref>。
===== 京都新聞杯・菊花賞・有馬記念 =====
夏場は北海道へ移送せず、東京競馬場で調整されることとなった。北海道の調教コースは半径が小さかったため大型馬のハイセイコーが足を痛める危険があり、また涼しい北海道から本州へ移送する際に暑さで参ってしまう可能性もあったからである。


陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自ら[[ハミ (馬具)|ハミ]]を噛んで騎手の指示に従おうとしない([[ハミ (馬具)#競馬界の用語|ハミ受け]]が悪い)点を認識した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、195-197、199頁。</ref>。調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと指摘した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、200頁。</ref>。対策として陣営は、ハミ吊り(ハミの上に舌が乗らないよう、ハミを上顎に引き上げる馬具<ref>{{Cite web|author = |url = http://column.keibalab.jp/kaitai/263.html|title = 2010年9月19日セントライト記念/ローズS|work = 現役関係者コラム|publisher = KEIBA LAB|language = 日本語|accessdate = 2011年10月20日}}</ref>)を装着することにした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、200頁。</ref>。
[[9月18日]]、クラシック最後の一冠である[[菊花賞]]を目指し、前哨戦である[[京都新聞杯]]に出走させることが決定し、関西へ向けて出発。輸送中、調教師、[[調教助手]]、[[厩務員]]の3人がともに[[馬運車]]に乗り込むという異例の体勢で輸送された。


===== 皐月賞 =====
[[10月21日]]に行われた[[京都新聞杯]]では1番人気に支持されたが[[トーヨーチカラ]]の2着。このときは道悪([[馬場状態|不良馬場]])であったが、陣営はハイセイコーの道悪馬場適性に出走前まで疑問を持っていたため、馬場の外目を通って[[脚質#差し|差す]]ことを選択したが勝ち馬には届かない格好となってしまった。敗れたものの休養明けでひさびさのレースであったため陣営はこの結果を悲観しておらず、[[11月11日]]の菊花賞に出走。[[脚質#先行|先行]]して直線入り口で最内を走り、馬場の中央を伸びたタケホープと内外大きく分かれてほとんど同時のゴールインだったが、結果ハナ差の2着に惜敗した。その差はわずか13[[センチメートル]]という。敗戦を惜しんで「2分の1ハナ差負け」と言った者もいた。
[[4月15日]]、[[中央競馬クラシック三冠]]第1戦の[[皐月賞]]に出走。当日は雨で[[馬場状態]]は重となった。ハイセイコーが初めて経験する<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、39頁。</ref>芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、62頁。</ref>{{#tag:ref|陣営の中でも、騎手の増沢<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、108-109頁。</ref>や調教助手の鈴木康弘<ref name="赤木1975-201">[[#赤木1975|赤木1975]]、201頁。</ref>は、走行時のストライドの大きいハイセイコーは状態の悪い馬場を苦手とするのではないかという懸念を抱いていた。鈴木康弘が不安を鈴木勝太郎に打ち明けたところ、勝太郎は体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走法から苦手とすることはないという見解を示した<ref name="赤木1975-201"/>。|group="†"}}が、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり{{#tag:ref|調教師の鈴木勝太郎は増沢に、「馬が行く気になったら、かまわないから行かせろ」と指示しており、増沢はやや[[折り合い]]を欠きながら進もうとするハイセイコーを無理に抑えようとはしなかった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、19頁。</ref>。|group="†"}}、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、43-46・201-202頁。</ref>。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった<ref name="横尾1986-22"/><ref name="横尾2000-36">[[#横尾2000|横尾2000]]、36頁。</ref>。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、202頁。</ref>。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、202頁。</ref>。


皐月賞優勝によってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え<ref name="江面2011-123"/><ref>[[#山本2005|山本2005]]、161頁。</ref>、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった<ref name="山野1978-12">[[#山野1978|山野1978]]、12頁。</ref>。同時にマスコミはハイセイコーの強さを煽り立て<ref name="江面2011-123"/>、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになった<ref name="阿部2003-65">[[#阿部2003|阿部2003]]、65頁。</ref>。山野浩一は、ハイセイコーの人気と実力とが調和を保っていたのは皐月賞の頃までであったと分析している<ref name="山野1978-12"/>。
[[12月16日]]の[[有馬記念]]にはタケホープが出走せず、ハイセイコーは[[馬齢|古馬]]を差し置いて1番人気に支持された。レースはハイセイコーと[[タニノチカラ]]が互いを牽制しあう展開となったために2頭よりも前方でレースを進めた[[ストロングエイト]]と[[ニットウチドリ]](同年の[[桜花賞]]、[[ビクトリアカップ]]優勝馬)に有利な展開となり、ハイセイコーは2頭を捉えることができず、3着に敗れた。


===== NHK杯 =====
この年、ハイセイコーは競馬ファンのみならず一般社会をも巻き込んだブームの立役者となったことが評価され、優駿賞(現在の[[JRA賞]])の「大衆賞」(現在の[[JRA賞特別賞]]に相当)を受賞した。ちなみにこの年の[[JRA賞|年度代表馬]]はタケホープが獲得した。
[[ファイル:Tokyo Racecourse east gate.JPG|thumb|200px|NHK杯当日、東京競馬場には中央競馬史上最多(当時)の16万9174人が入場した]]

皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の[[東京優駿]](日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営は[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]を巡って、具体的には東京優駿の前に[[トライアル競走|トライアル]]の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、202-203頁。</ref>。大川慶次郎は、2月に東京4歳ステークスに出走できなかったことの影響の大きさを指摘している<ref>[[#大川1997|大川1997]]、91頁。</ref>。

NHK杯当日、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には国鉄と私鉄の駅に、東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた<ref name="横尾2000-36">[[#横尾2000|横尾2000]]、36頁。</ref><ref name="横尾1986-21">[[#横尾1986|横尾1986]]、21頁。</ref>。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、26-27頁。</ref>{{#tag:ref|この記録は、{{和暦|1990}}の東京優駿で更新(19万6517人)された<ref>[[#岩川1991|岩川1991]]、32頁。</ref>。|group="†"|name="NHK杯"}}。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、64頁。</ref>。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し<ref name="横尾2000-36"/><ref>[[#横尾1986|横尾1986]]、20頁。</ref>、先頭に立てないままゴールまで残り200[[メートル]]となると、レースを実況していた[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のアナウンサー[[盛山毅]]は「ハイセイコー敗れるのか、あと200、あと200しかないよ!」と口走った<ref name="江面2011-123"/>。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた<ref name="赤木1975-65">[[#赤木1975|赤木1975]]、65頁。</ref>。このレースでのハイセイコーの単勝支持率(全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合)は83.5%で<ref name="横尾2000-36"/><ref name="横尾1986-21"/>、配当金は単勝、複勝とも100円の元返しとなった<ref name="横尾2000-36"/><ref>[[#横尾1986|横尾1986]]、20頁。</ref>。

鈴木勝太郎の子で[[調教助手]]を務めていた[[鈴木康弘]]は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、203頁。</ref>。

このレースで増沢は、ハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」{{#tag:ref|大井競馬場、中山競馬場は右回りで、東京競馬場は左回りである。|group="†"}}という印象を抱いた。2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった<ref>[[#栗林1982|栗林1982]]、51頁。</ref>。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出した<ref name="横尾1986-21"/>が、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、80頁。</ref>。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し<ref name="高見沢1995-53">[[#高見沢1995|高見沢1995]]、53頁。</ref>、獣医師は疲労の蓄積を指摘した<ref name="調教師の本Ⅱ-181">[[#調教師の本Ⅱ|調教師の本Ⅱ]]、181頁。</ref>。

NHK杯に勝ったことでハイセイコーの人気はピークを迎え<ref name="阿部2003-65">[[#阿部2003|阿部2003]]、65頁。</ref>、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、67頁。</ref>。阿部珠樹は、ファンの間に「ハイセイコーは何があっても負けない」という宗教的信念が生まれたと当時を振り返っている<ref name="阿部2001-61">[[#阿部2001|阿部2001]]、61頁。</ref>。

===== 東京優駿 =====
東京優駿当日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた<ref name="横尾2000-37"/>。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時{{#tag:ref|この記録は、{{和暦|2005}}に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](73.4%)によって更新された。|group="†"}})の66.6%に達した<ref name="横尾2000-37">[[#横尾2000|横尾2000]]、37頁。</ref><ref name="横尾1986-23">[[#横尾1986|横尾1986]]、23頁。</ref>。このレースで増沢は、展開次第で[[脚質#逃げ|逃げ]]ることも視野に入れつつ[[脚質#先行|先行]]策をとって3、4番手を進もうとしたが、[[競馬場#日本の場合|第1コーナー]]手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、68頁。</ref>、さらにインコースに入りすぎてしまった<ref name="栗林1982-51">[[#栗林1982|栗林1982]]、51頁。</ref>。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、[[競馬場#日本の場合|向こう正面]]でハイセイコーを[[馬群]]の外へ誘導した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、70頁。</ref>。[[競馬場#日本の場合|第3コーナー]]に差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと[[競馬場#日本の場合|第4コーナー]]の中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、[[タケホープ]]と[[イチフジイサミ]]に交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、71-77頁。</ref>。赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにし、東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、77頁。</ref>。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの[[視聴率]]はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった<ref name="江面2011-123"/><ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、86頁。</ref>。

レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し<ref name="横尾2000-37"/><ref name="横尾1986-23-24">[[#横尾1986|横尾1986]]、23-24頁。</ref>、増沢はレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした<ref name="横尾2000-37"/><ref name="横尾1986-23"/>。この時増沢は「自分の乗り方にミスはなかったと思う」とも述べていた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、28頁。</ref>が、後に自らの騎乗について「1コーナーではさまれて、向正面では内に入り過ぎてしまった。あれだけの人気馬だから、もっといいポジションをとらなければいけないと思って、向正面で苦労しながら外に持ち出して行った。考えてみれば行くのが早すぎた。」と分析している<ref name="栗林1982-51"/>。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、186-187頁。</ref>。

鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけたときに「もう、だめだ、5着もあぶないだろう……」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、75-76頁。</ref>。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた[[栗田勝]]はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中でもっとも実力があるのはハイセイコーだと述べた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、29頁。</ref>。

レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、204頁。</ref>が、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、81-82頁。</ref>。

東京優駿の敗戦は不敗神話の崩壊<ref name="週刊日録20世紀 1973年-4">[[#週刊日録20世紀 1973年|週刊日録20世紀 1973年]]、4頁。</ref>、「怪物性」が馬脚を現した<ref name="阿部2001-61"/>、偶像が虚像と化した<ref name="横尾1986-23"/>と評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた<ref name="河村2011-80">[[#河村2011|河村2011]]、80頁。</ref>。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく<ref name="阿部2003-65"/><ref name="優駿2000-10-18"/><ref name="競馬 黄金の蹄跡-37">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、37頁。</ref>、むしろ高まっていった<ref name="阿部2001-61"/><ref name="週刊日録20世紀 1973年-4"/>。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べている<ref>[[#大川1998|大川1998]]、241頁。</ref>。

===== 京都新聞杯・菊花賞 =====
夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである。また、北海道の調教コースは半径が小さく、大型馬のハイセイコーが走ると脚を痛める危険もあった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、207-208頁。</ref>。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、208頁。</ref>。

秋になると陣営はクラシック最後の一冠である[[菊花賞]]を目標に据え、前哨戦である[[京都新聞杯]]に出走させることを決定し、[[9月18日]]にハイセイコーを東京競馬場から[[栗東トレーニングセンター]]へ輸送した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、102頁。</ref>。[[10月21日]]に行われた[[京都新聞杯]]では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したハイセイコーであったが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、[[ホウシュウエイト]]がインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、95-96頁。</ref>。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る[[京都競馬場]]のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、96頁。</ref>。

[[11月11日]]、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、41頁。</ref>。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5[[着差 (競馬)#日本の着差の表示|馬身]]から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、[[着差 (競馬)#日本の着差の表示|ハナ]]差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、105-107・110-114頁。</ref>。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功が「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、97頁。</ref>が、調教師の[[稲葉幸夫]]によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、107-108頁。</ref>。[[11月14日]]、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、116頁。</ref>。

===== 有馬記念 =====
[[12月16日]]、ハイセイコーは有馬記念に出走した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、140頁。</ref>(タケホープは出走を回避)。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走る[[タニノチカラ]]や[[ベルワイド]]をマークした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、187頁。</ref>結果、逃げた[[ニットウチドリ]]や同馬を第3コーナーでいち早く追いかけた[[ストロングエイト]]を交わすことができず、3着に敗れた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、149-151頁。</ref>(優勝馬はストロングエイト、2着はニットウチドリ)。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、211頁。</ref>。タニノチカラに騎乗した[[田島日出雄]]は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、210-211頁。</ref>、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、44頁。</ref>。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、47頁。</ref>、[[スポーツニッポン]]記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した<ref>[[#『優駿』1974年2月号|『優駿』1974年2月号]]、67頁。</ref>。

1974年の[[JRA賞|優駿賞]]年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「大衆賞」が与えられ表彰された<ref>[[#『優駿』1974年2月号|『優駿』1974年2月号]]、8-9頁。</ref>。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった<ref name="江面2011-124">[[#江面2011|江面2011]]、124頁。</ref>。


==== 5歳時(1974年)====
==== 5歳時(1974年)====
[[1974年]]の初戦として[[アメリカジョッキークラブカップ]]に出走タケホプ出走を聞きつけて、急遽参戦したとも言わている。レースではタケホープに2秒1引き離され、生涯最低着順の9着に敗れた。続け出走した[[中山記念]]では不良馬場のなか、トアサヒに2秒0タケホ2秒2差つけ優勝した。
陣営は{{和暦|1974}}の初戦として[[1月20日]]の[[アメリカジョッキークラブカップ]]を選んだハイセイコは1番人気に支持さたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足しいたとコメント、その理由について激戦が続いことによる疲れが出たのではなと述べた<ref>[[#さらばハイセイコ|さらばハイセイコ]]49頁。</ref>。スポツニッポンの記者蔵田峻よるとパドック周回するハイセイコーを見て、蔵田自身を含め複数のマスコミ関係者がハイセイコーの体調は良くないと判断したという<ref>[[#『優駿』1974年3月号|『優駿』1974年3月号]]、75-76頁。</ref>


[[3月10日]]に出走した[[中山記念]]でも1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちした。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、50頁。</ref>。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、212頁。</ref>。
その後、[[天皇賞|天皇賞(春)]]に備えて4月初頭に[[栗東トレーニングセンター]]へ輸送され、体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員が[[ストライキ]]を起こし、レースの施行日が一週間延期された。その間に体調を崩してしまい、結局[[5月5日]]に行われたレースはタケホープが勝ち、ハイセイコーは1秒0差の6着に敗れた。


中山記念の後、ハイセイコーは[[天皇賞|天皇賞(春)]]に備えて4月初頭に[[栗東トレーニングセンター]]へ輸送された。鈴木康弘によるとハイセイコーの体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員が[[ストライキ]]を起こし、レースの施行日が一週間延期された間に調子を落としてしまったという<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、212-214頁。</ref>。一方、鈴木勝太郎は後に、この時のハイセイコーはレース出走が続いたことで疲労が蓄積して「最悪のデキ」にあり、「正直出走させたくなかった」と振り返っている<ref>[[#『優駿』1974年12月号|『優駿』1974年12月号]]、81頁。</ref>。[[5月5日]]に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず{{#tag:ref|増沢によると、気性の荒いハイセイコーにはスローペースになると自ら前方へ進出しようとして制御に従おうとしない傾向があり、長距離のレースでは不安がつきまとった<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、116頁。</ref>。|group="†"}}、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、119頁。</ref>。前年の[[11月20日]]に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、[[ワシントンDCインターナショナル]]などに出走するという計画<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、120-122頁。</ref>は、この敗戦により中止された<ref>[[#横尾1986|横尾1986]]、25頁。</ref>。
[[6月2日]]、[[宝塚記念]]に出走。デビュー以来始めて単勝1番人気をストロングエイトに明け渡したものの、レコードタイム(2分12秒9)を記録して2着に5馬身差で圧勝した。陣営はこのレースにタケホープが出走していなかったことを悔しがり、「タケホープには出せないレコードタイムだ!」と、テレビインタビューで豪語していた。なお、このレコードは[[メジロライアン]]が[[1990年]]に更新するまで保持されていた。


[[6月2日]]、[[宝塚記念]]に出走。このレースでハイセイコーは、デビュー以来始めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、120頁。</ref>。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。増沢は、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、121頁。</ref>。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、56頁。</ref>。タケホープは天皇賞(春)出走後に[[屈腱炎]]を発症し、休養に入っていた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、57頁。</ref>。
さらに同月23日、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]に出走。管理調教師・鈴木勝太郎の息子で当時調教助手であった[[鈴木康弘 (競馬)|鈴木康弘]](現・調教師)によると、当初は東京競馬場へ帰り休養に入る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せをするために出走に踏み切ったという。61[[キログラム]]の[[負担重量]]を克服し、アイテイエタン以下に快勝した。


[[ファイル:Chukyo Racetrack 02.jpg|thumb|ハイセイコーは中京競馬場で、ファンの歓迎を受けた]]
高松宮杯出走後は東京競馬場で休養に入り、秋初戦は[[10月13日]]の[[京都大賞典]]に出走。2番人気の4着に終わった(1着はタニノチカラ)。続いて天皇賞(秋)に出走予定であったが、[[11月9日]]のオープン戦で[[ヤマブキオー]]の2着となったあとに[[鼻血#馬の鼻出血|鼻出血]]を発症したために1か月の出走停止処分が下され、出走を断念した。このことは[[日本放送協会|NHK]]のニュースでも報じられている。このオープン戦ではタケホープ(3着)に先着している。
さらに同月23日、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]に出走。鈴木康弘によると、当初は宝塚記念出走後すぐに東京競馬場へ戻る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せを行うべく出走に踏み切ったという<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、215頁。</ref>。レース当日、[[中京競馬場]]には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入り<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、172頁。</ref>、厩務員の大場が弥生賞とも比べものにならないほどだったと語る歓迎を受けた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、169頁。</ref>。増沢も後に、「今までもずいぶん騒がれました。でもこんな大歓声を聞いたのは初めてです」<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、58頁。</ref>、「感激した。あのときのことを、いまでも思い出すと、興奮するくらいだ」と振り返っている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、187頁。</ref>。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、58頁。</ref>。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、58頁。</ref>、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、170-172頁。</ref>。増沢はゴール前で2着馬アイテイエタンが追い上げる蹄音が聞こえ、肝を冷やしたという<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、59頁。</ref>。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、59頁。</ref>。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、[[メジロアサマ]]の記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、59頁。</ref>。


[[6月27日]]にハイセイコーは東京競馬場へ戻り<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、190頁。</ref>、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、215頁。</ref>、秋になって[[10月13日]]の[[京都大賞典]]に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという[[負担重量]]が響く形で4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400万円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、61頁。</ref>。
[[12月15日]]、引退レースの有馬記念に出走し2着。調教助手が認めるほどの調整の失敗があり、もっとも重い540キロの馬体重で参戦し、辛うじて[[連対]]を果たした。優勝馬は[[タニノチカラ]]。なおこのとき、[[八大競走]]のなかでは初めてタケホープにクビ差で先着。史上初の生涯獲得賞金2億円馬となった。レースはタニノチカラの独走だったが、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]はハイセイコーをずっと追い続け、増沢の歌う「[[さらばハイセイコー]]」を挿入歌として放送するなど、レース放送としては極めて特殊な構成となっていた。


京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、61頁。</ref>は、天皇賞(秋)へのステップレースとして[[11月9日]]のオープン戦を選び、このレースでハイセイコーは2着となった。しかしレース後に[[鼻血#馬の鼻出血|鼻出血]]が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、631頁。</ref>。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、216頁。</ref>。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果{{#tag:ref|天皇賞(秋)の優勝馬は、ハイセイコーに先着したことのない[[カミノテシオ]]であった。|group="†"}}からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、187頁。</ref>。
=== 競走馬引退後 ===
有馬記念を最後に競走馬を引退し、翌[[1975年]][[1月6日]]、[[東京競馬場]]で引退式が行われた。通常は最後の直線を500メートルほど走らせるところを、調教師の判断でコースを一周させた。その際騎手を務めた[[増沢末夫]]を[[落馬]]させるやんちゃぶりを披露した。翌7日、種牡馬生活を開始するために北海道[[新冠町]]へ向けて出発。出発時には60人あまりのファンが見送りのために厩舎を訪れ、馬運車には「ハイセイコー輸送中」と書かれた横断幕が貼られた。


[[12月15日]]、引退レースの有馬記念に出走。タニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、158-161頁。</ref>。増沢はこのレースについて、体調がいま一つであったため、2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、187頁。</ref>。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、160頁。</ref>。
ハイセイコーが種牡馬入りした当時、[[内国産馬]]の[[牡馬]]は[[種牡馬]]として冷遇される傾向が非常に強かったが、そうした風潮のなかで活躍馬を数多く輩出し、[[1990年]]には地方競馬の[[リーディングサイアー]]となった。('''種牡馬としてのハイセイコーの詳細については[[#種牡馬としてのハイセイコー]]を参照''')

==== 引退式 ====
翌{{和暦|1975}}[[1月6日]]、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、166頁。</ref>。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のこと<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、166頁。</ref>で、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、167頁。</ref>。

引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で、「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった<ref name="河村2011-79">[[#河村2011|河村2011]]、79頁。</ref>。「ハイセイコーとファンの集い」で増沢は11月にレコード吹き込みを済ませていた<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、126-127頁。</ref>楽曲『[[さらばハイセイコー]]』を披露した<ref name="河村2011-79"/>。この楽曲は引退式でも放送された<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、68頁。</ref>。

『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巌が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章を[[ポリドール・レコード]]関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、[[猪俣公章]]が作曲を担当した<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>。1975年1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオの[[ヒットチャート]]で1位を獲得<ref name="週刊日録20世紀 1973年-5"/>し、50万枚を売り上げた<ref name="さらばハイセイコー-7">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、7頁。</ref>。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた<ref name="さらばハイセイコー-7"/>。

翌7日、ハイセイコーは北海道[[新冠町]]の明和牧場で[[種牡馬]]生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、154-157頁。</ref>、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、177頁。</ref>。

=== 種牡馬時代 ===
[[ファイル:Katsurano haiseiko.jpg|thumb|初年度産駒の[[カツラノハイセイコ]]。ハイセイコーの勝てなかった東京優駿を勝った]]
ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった<ref name="山野1978-14">[[#山野1978|山野1978]]、14頁。</ref><ref>[[#朝日新聞be編集グループ(編)2006|朝日新聞be編集グループ(編)2006]]、186頁。</ref>。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として、[[競馬ファン]]と馬産地とを結びつけたことを挙げている。それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった<ref name="後藤2000-39">[[#後藤2000|後藤2000]]、39頁。</ref>。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意し、ファンの訪問に備えた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、69頁。</ref>。{{和暦|1976}}公開の映画『[[トラック野郎#望郷一番星|トラック野郎・望郷一番星]]』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた<ref>[[#朝日新聞be編集グループ(編)2006|朝日新聞be編集グループ(編)2006]]、187-188頁。</ref>。

ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の[[繁殖牝馬]]と交配した。小柄な馬が多く生まれたこと<ref name="後藤2000-38">[[#後藤2000|後藤2000]]、38頁。</ref>や産駒の出来不出来の差が激しい<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、77頁。</ref>といった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していったが、初年度の産駒から[[カツラノハイセイコ]](東京優駿、天皇賞(春)優勝)などの活躍馬が複数現れたことで人気が高まり、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した<ref name="後藤2000-38">[[#後藤2000|後藤2000]]、38頁。</ref>。血統研究家の[[吉沢譲治]]は、「もしもカツラノハイセイコが出ていなかったら、その後のハイセイコーがどうなっていたか分からない」と述べている<ref name="吉沢1990">[[#吉沢1990|吉沢1990]]、9頁。</ref>。カツラノハイセイコの活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられ、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられた<ref name="調教師の本4">[[#調教師の本IV|調教師の本IV]]、110-111頁。</ref>。同馬を管理した[[庄野穂積]]のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到していたという<ref name="調教師の本4" />。1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた<ref name="さらばハイセイコー-7"/>。

1980年代に入り世界的な広がりを見せていた[[ノーザンダンサー]]の血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める<ref name="吉沢1990" />。散発的ではあったが相変わらず活躍馬を出し、中央・地方を問わず産駒が走るハイセイコーの人気は、依然生産者の間では高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、種牡馬ハイセイコーは終わったという見方が広まっていった<ref name="吉沢1990" />。しかし1989年に[[サンドピアリス]]が[[エリザベス女王杯]]に優勝すると、1990年には[[ハクタイセイ]]が[[皐月賞]]親子制覇を達成、牝駒の[[ケリーバッグ (競走馬)|ケリーバッグ]]も[[桜花賞]]で2着と健闘した。また地方競馬でもアウトランセイコーが大井の[[黒潮盃]]を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばを回復した。この現象について、明和牧場代表の国宇守は「牧草が変わったわけでもなければ、世話する人が変わったわけでもない。環境は昔からみんな同じです。どうしてなのか、私たちにもわかりません。しかし、そこがまた怪物の怪物たるゆえんなのでしょう」と述べている<ref name="吉沢1990" />。また阿部珠樹は、当時のハイセイコーの「かなり低下していた配合相手の水準を考えると、奇跡的なことといっていいだろう」と評価している<ref>[[#阿部2001|阿部2001]]、63頁。</ref>。1990年、ハイセイコーは地方競馬の[[リーディングサイアー]]を獲得した。

;年度別の種付け頭数および誕生産駒数 <ref name="JBIS">[http://www.jbis.or.jp/index.html JBISサーチ]([[日本軽種馬協会]])</ref>
{| class="wikitable" style="text-align:right"
!style="text-align:center"|年度!!1975!!1976!!1977!!1978!!1979!!1980!!1981!!1982!!1983!!1984!!1985!!1986!!1987!!1988!!1989!!1990!!1991!!1992!!1993!!1994!!1995!!1996
|-
|style="text-align:center"|種付け頭数||72||44||38||29||65||64||71||70||50||75||63||61||57||57
||37||45||40||43||17||3||1|| -
|-
|style="text-align:center"|誕生産駒数|| - ||57||32||26||19||40||48||58||45||34||54||51||41||46||36||24||34||29||19||9||1||0
|}


==== 顕彰馬に選出 ====
==== 顕彰馬に選出 ====
[[1984年]]には[[JRA競馬博物館|競馬の殿堂]]の[[顕彰馬]]に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した[[大川慶次郎]]は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、種牡成績良さと、何より競馬人気の向上に大き貢献した点を評価したとしている。
[[1984年]]には[[JRA競馬博物館|競馬の殿堂]]の[[顕彰馬]]に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した[[大川慶次郎]]は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大き貢献」が選定の決め手になったとしている<ref name="大川1998-241"/>


=== 晩年 ===
=== 晩年 ===
[[画像:Tomb of Haiseiko.jpg|thumb|right|200px|ハイセイコーの墓(ビッグレッドファーム明和)]]
[[ファイル:Tomb of Haiseiko.jpg|thumb|ハイセイコーの墓(ビッグレッドファーム明和)]]
ハイセイコーは[[1997年]]の交配を最後に種牡馬を引退し<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、78頁。</ref>、明和牧場で余生を過ごした。[[2000年]][[5月4日]]午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された<ref name="さらばハイセイコー-6">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、6頁。</ref>。競走馬時代の[[主戦騎手]]で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその場にしばらく無言で佇んだという<ref name="さらばハイセイコー-6"/>。5月18日、新冠町のレ・コード館で「お別れの会」が催され、およそ500人が参列した<ref name="さらばハイセイコー-8">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、8頁。</ref>。
種牡馬引退後は[[北海道]]・[[新冠町]]の明和牧場で余生を過ごしたが、[[2000年]][[5月4日]]、心臓麻痺により死亡した。このとき増沢は偶然所用で北海道に来ており、訃報を聞いてすぐに駆けつけたという。墓は最期を迎えた[[ビッグレッドファーム]]明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には'''「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」'''と記されている。今も献花に訪れるファンは多い。


ハイセイコーの墓は最期を迎えた[[ビッグレッドファーム]]明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には'''「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」'''と記されている。
死後、[[道の駅サラブレッドロード新冠]](新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には[[銅像]]が建立され、ハイセイコーの大井競馬での出世レースであった青雲賞は、[[2001年]]より「[[ハイセイコー記念]]」と改称された。また、2000年8月には「[[さらばハイセイコー]]」が追悼版[[コンパクトディスク|CD]]として再発売された。なお、2001年以降毎年命日(5月4日)に北海道新冠町で「ハイセイコーフェスティバル」が開催されていたが、町の行政予算の関係で[[2004年]]度から当面中止されることになった。


死後、[[道の駅サラブレッドロード新冠]](新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には[[銅像]]が建立され、ハイセイコーが大井競馬場時代に優勝した青雲賞は、[[2001年]]より「[[ハイセイコー記念]]」と改称された<ref name="大井が生んだ怪物"/>。また、2000年8月には「[[さらばハイセイコー]]」が追悼版[[コンパクトディスク|CD]]として再発売された。<!--3年で終わったイベントで、あえて記述すべきかどうか疑問を感じるのでコメントアウトします/新冠町では2001年から2003年にかけ、命日の5月4日にハイセイコーの偉業を後世に伝えるイベント「ハイセイコーフェスティバル」が開催された<ref>{{Cite web|date = 2004-03-01|url = http://www.tomamin.co.jp/2004/tp040311.htm|title = 【新冠】ファンらに人気のハイセイコーフェスは3年で幕|work = [[苫小牧民報]]|publisher =苫小牧民報社|language = 日本語|accessdate = 2011年11月1日}}</ref>。-->2004年2月には[[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]]の「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中山競馬場で施行された。
2004年2月には[[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]]の「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中央初出走となった中山競馬場で施行された。


== 競走成績 ==
== 成績 ==
=== 競走成績 ===
{| style="font-size: 95%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
{| style="font-size: 95%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
|-
!colspan="3"|年月日!![[競馬場]]!!競走名!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!人気!!着順!!距離!!タイム!![[騎手]]!!着差!!勝ち馬/(2着馬)
|align="center"|年月日
|align="center"|競馬場
|align="center"|レース名
|align="center"|人気
|align="center"|着順
|align="center"|距離 (m)
|align="center"|斤量 (kg)
|align="center"|馬場
|align="center"|タイム
|align="center"|着差
|align="center"|騎手
|align="center"|勝ち馬/(2着馬)
|-
|-
|align="right"|[[1972年|1972]].[[7月12日|7.12]]
|style="text-align: right;"|[[1972年|1972]]
|style="text-align: right;"|7.
|align="center"|[[大井競馬場|大井]]
|style="text-align: right;"|12
||未出走
|[[大井競馬場|大井]]
|align="right"| (1)
|未出走
||<font color="#ff0000">1
|6
||ダ1000
|3
|align="center"|53
|3
|align="center"|重
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|<span style="color: red">59.4</span>
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|8
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1000m(重)
|align="center"|辻野豊
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|red|R 59.4}}
|align="center"|(ジプシーダンサー)
|辻野豊
|8馬身
|(ジプシーダンサー)
|-
|-
|align="right"|[[7月26日|7.26]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|
|align="center"|大井
|style="text-align: right;"|26
||53万上
|大井
|align="right"| (1)
|53万上
||<font color="#ff0000">1
|8
||ダ1000
|5
|align="center"|53
|5
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.00.5
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|16
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1000m(良)
|align="center"|福永二三雄
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.00.5
|align="center"|(セツテベロナ)
|福永二三雄
|大差
|(セッテベロナ)
|-
|-
|align="right"|[[9月20日|9.20]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|9.
|align="center"|大井
|style="text-align: right;"|20
||秋草特別
|大井
|align="right"| (1)
|秋風特別
||<font color="#ff0000">1
|7
||ダ1200
|4
|align="center"|54
|4
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.12.4
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|8
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1200m(良)
|align="center"|福永二三雄
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.12.4
|align="center"|(ジプシーダンサー)
|福永二三雄
|7馬身
|(トサエンド)
|-
|-
|align="right"|[[10月9日|10.9]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|10.
|align="center"|大井
|style="text-align: right;"|9
||ゴールドジュニア
|大井
|align="right"| (1)
|ゴールドジュニア
||<font color="#ff0000">1
|5
||ダ1400
|1
|align="center"|54
|1
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|<span style="color: red">1.24.9</span>
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|10
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1400m(良)
|align="center"|福永二三雄
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|red|R 1.24.9}}
|align="center"|(ゴールドイーグル)
|福永二三雄
|大差
|([[ゴールドイーグル]])
|-
|-
|align="right"|[[11月11日|11.11]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|11.
|align="center"|大井
|style="text-align: right;"|11
||白菊特別
|大井
|align="right"| (1)
|白菊特別
||<font color="#ff0000">1
|8
||ダ1400
|5
|align="center"|56
|5
|align="center"|重
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.24.9
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|7
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1400m(重)
|align="center"|[[高橋三郎]]
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.25.8
|align="center"|(カヤエイコウ)
|[[高橋三郎]]
|7馬身
|(カヤエイコウ)
|-
|-
|align="right"|[[11月27日|11.27]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|
|align="center"|大井
|style="text-align: right;"|27
||<font color="#0000ff">青雲賞
|大井
|align="right"| (1)
|[[ハイセイコー記念|青雲賞]]
||<font color="#ff0000">1
|10
||ダ1600
|8
|align="center"|54
|10
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.39.2
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|7
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1600m(不)
|align="center"|高橋三郎
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.39.2
|align="center"|(トサエンド)
|高橋三郎
|7馬身
|(ゴールデンタテヤマ)
|-
|-
|align="right"|[[1973年|1973]].[[3月4日|3.4]]
|style="text-align: right;"|[[1973年|1973]]
|style="text-align: right;"|3.
|align="center"|[[中山競馬場|中山]]
|style="text-align: right;"|4
||<font color="#0000ff">弥生賞
|[[中山競馬場|中山]]
|align="right"| (1)
|[[弥生賞]]
||<font color="#ff0000">1
|10
||芝1800
|6
|align="center"|55
|6
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.50.9
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|1 3/4
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(良)
|align="center"|[[増沢末夫]]
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.50.9
|align="center"|(ニューサント)
|[[増沢末夫]]
|1 3/4馬身
|(ニューサント)
|-
|-
|align="right"|[[3月25日|3.25]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|
|align="center"|中山
|style="text-align: right;"|25
||<font color="#0000ff">スプリングS
|中山
|align="right"| (1)
|[[スプリングステークス|スプリングS]]
||<font color="#ff0000">1
|10
||芝1800
|3
|align="center"|56
|3
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.51.0
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|2 1/2
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(良)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.51.0
|align="center"|(クリオンワード)
|増沢末夫
|2 1/2馬身
|(クリオンワード)
|-
|-
|align="right"|[[4月15日|4.15]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|4.
|align="center"|中山
|style="text-align: right;"|15
||<font color="#ff0000">皐月賞
|中山
|align="right"| (1)
|'''[[皐月賞]]'''
||<font color="#ff0000">1
|16
||芝2000
|4
|align="center"|57
|7
|align="center"|重
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|2.06.7
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|2 1/2
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(重)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.06.7
|align="center"|([[カネイコマ]])
|増沢末夫
|2 1/2馬身
|(カネイコマ)
|-
|-
|align="right"|[[5月6日|5.6]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|5.
|align="center"|[[東京競馬場|東京]]
|style="text-align: right;"|6
||<font color="#0000ff">NHK杯
|[[東京競馬場|東京]]
|align="right"| (1)
|[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]
||<font color="#ff0000">1
|14
||芝2000
|5
|align="center"|56
|7
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|2.02.3
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|頭
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(良)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.02.3
|align="center"|(カネイコマ)
|増沢末夫
|アタマ
|(カネイコマ)
|-
|-
|align="right"|[[5月27日|5.27]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|
|align="center"|東京
|style="text-align: right;"|27
||<font color="#ff0000">東京優駿
|東京
|align="right"| (1)
|'''[[東京優駿]]'''
||3
|27
||芝2400
|align="center"|57
|align="center"|良
|align="center"|2.28.7
|align="center"|0.9
|align="center"|増沢末夫
|align="center"|[[タケホープ]]
|-
|align="right"|[[10月21日|10.21]]
|align="center"|[[京都競馬場|京都]]
||<font color="#0000ff">京都新聞杯
|align="right"| (1)
|2
|2
|5
||芝2000
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|57
|3着
|align="center"|不
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2400m(良)
|align="center"|2.08.4
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.28.7
|align="center"|0.1
|align="center"|増沢末夫
|増沢末夫
| -0.9秒
|align="center"|トーヨーチカラ
|[[タケホープ]]
|-
|-
|align="right"|[[11月11日|11.11]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|10.
|align="center"|京都
|style="text-align: right;"|21
||<font color="#ff0000">菊花賞
|[[京都競馬場|京都]]
|align="right"| (1)
|[[京都新聞杯]]
||2
|13
||芝3000
|3
|align="center"|57
|3
|align="center"|稍
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|3.14.2
|{{Color|blue|2着}}
|align="center"|0.0
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(不)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.08.3
|align="center"|タケホープ
|増沢末夫
| -0.1秒
|トーヨーチカラ
|-
|-
|align="right"|[[12月16日|12.16]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|11.
|align="center"|中山
|style="text-align: right;"|11
||<font color="#ff0000">有馬記念
|京都
|align="right"| (1)
|'''[[菊花賞]]'''
||3
|15
||芝2500
|3
|align="center"|54
|4
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|2.36.6
|{{Color|blue|2着}}
|align="center"|0.2
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝3000m(稍)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3.14.2
|align="center"|ストロングエイト
|増沢末夫
| -0.0秒
|タケホープ
|-
|-
|style="text-align: right;"|
|align="right"|[[1974年|1974]].[[1月20日|1.20]]
|style="text-align: right;"|12.
|align="center"|東京
|style="text-align: right;"|16
||<font color="#0000ff">AJCC
|中山
|align="right"| (1)
|'''[[有馬記念]]'''
|14
|7
|12
|style="text-align: right;"|1人
|3着
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2500m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.36.6
|増沢末夫
| -0.2秒
|[[ストロングエイト]]
|-
|style="text-align: right;"|[[1974年|1974]]
|style="text-align: right;"|1.
|style="text-align: right;"|20
|中山
|[[アメリカジョッキークラブカップ|AJCC]]
|10
|3
|3
|style="text-align: right;"|1人
|9着
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2400m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.29.6
|増沢末夫
| -2.1秒
|タケホープ
|-
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|3.
|style="text-align: right;"|10
|中山
|[[中山記念]]
|9
|9
|7
||芝2400
|7
|align="center"|58
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|良
|{{Color|red|1着}}
|align="center"|2.29.6
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(不)
|align="center"|2.1
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.52.1
|align="center"|増沢末夫
|増沢末夫
|align="center"|タケホープ
|大差
|(トーヨーアサヒ)
|-
|-
|align="right"|[[3月10日|3.10]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|5.
|align="center"|中山
|style="text-align: right;"|5
||<font color="#0000ff">中山記念
|京都
|align="right"| (1)
|'''[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]'''
||<font color="#ff0000">1
|15
||芝1800
|3
|align="center"|58
|6
|align="center"|不
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|1.52.1
|6着
|align="center"|大差
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝3200m(良)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3.23.6
|align="center"|(トーヨーアサヒ)
|増沢末夫
| -1.4秒
|タケホープ
|-
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|6.
|style="text-align: right;"|2
|阪神
|[[宝塚記念]]
|11
|8
|10
|style="text-align: right;"|2人
|{{Color|red|1着}}
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2200m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|red|R 2.12.9}}
|増沢末夫
|5馬身
|(クリオンワード)
|-
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|23
|[[中京競馬場|中京]]
|[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]
|10
|5
|5
|style="text-align: right;"|1人
|{{Color|red|1着}}
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.00.4
|増沢末夫
|1 3/4馬身
|(アイテイエタン)
|-
|-
|align="right"|[[5月5日|5.5]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|10.
|align="center"|京都
|style="text-align: right;"|13
||<font color="#ff0000">天皇賞(春)
|京都
|align="right"| (1)
|[[京都大賞典]]
|11
|6
|6
|6
||芝3200
|style="text-align: right;"|2人
|align="center"|58
|4着
|align="center"|良
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2400m(良)
|align="center"|3.23.6
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.30.3
|align="center"|1.0
|align="center"|増沢末夫
|増沢末夫
| -0.7秒
|align="center"|タケホープ
|[[タニノチカラ]]
|-
|-
|align="right"|[[6月2日|6.2]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|11.
|align="center"|京都
|style="text-align: right;"|9
||<font color="#0000ff">宝塚記念
|東京
|align="right"| (2)
|オープン
||<font color="#ff0000">1
|8
||芝2200
|5
|align="center"|55
|5
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|1人
|align="center"|<span style="color: red">2.12.9</span>
|{{Color|blue|2着}}
|align="center"|5
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(良)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.50.0
|align="center"|(クリオンワード)
|増沢末夫
| -0.3秒
|ヤマブキオー
|-
|-
|align="right"|[[6月23日|6.23]]
|style="text-align: right;"|
|style="text-align: right;"|12.
|align="center"|[[中京競馬場|中京]]
|style="text-align: right;"|15
||<font color="#0000ff">高松宮杯
|中山
|align="right"| (1)
|'''有馬記念'''
||<font color="#ff0000">1
|9
||芝2000
|1
|align="center"|61
|1
|align="center"|良
|style="text-align: right;"|3人
|align="center"|2.00.4
|{{Color|blue|2着}}
|align="center"|1 1/4
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2500m(稍)
|align="center"|増沢末夫
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.36.7
|align="center"|(アイテイエタン)
|増沢末夫
| -0.8秒
|タニノチカラ
|}

*1 タイム欄の{{color|red|R}}はレコード勝ちを示す。
*2 太字の競走は[[八大競走]]。

=== 種牡馬成績 ===
==== 年度別成績 ====
;年度別種牡馬成績(日本総合、サラ系)<ref name="JBIS"/><ref group="†" name="JBIS注">サイアーランキング、AEIは平地・障害の集計、それ以外は平地のみの集計。</ref>

{|class="wikitable" style="text-align:right"
!rowspan="2"|年!!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金
|-
|-
!頭数!!回数!!頭数!!回数
|align="right"|[[10月13日|10.13]]
|align="center"|京都
||<font color="#0000ff">京都大賞典
|align="right"| (2)
||4
||芝2400
|align="center"|62
|align="center"|良
|align="center"|2.30.3
|align="center"|0.7
|align="center"|増沢末夫
|align="center"|[[タニノチカラ]]
|-
|-
||1978年||35||201||23||37||169||0.76||8956万4600円
|align="right"|[[11月9日|11.9]]
|align="center"|東京
||オープン
|align="right"| (1)
||2
||芝1800
|align="center"|60
|align="center"|良
|align="center"|1.50.0
|align="center"|0.3
|align="center"|増沢末夫
|align="center"|ヤマブキオー
|-
|-
||1979年||59||518||40||79||43||1.64||3億1431万8300円
|align="right"|[[12月15日|12.15]]
|align="center"|中山
||<font color="#ff0000">有馬記念
|align="right"| (3)
||2
||芝2500
|align="center"|56
|align="center"|良
|align="center"|2.36.7
|align="center"|0.8
|align="center"|増沢末夫
|align="center"|タニノチカラ
|-
|-
||1980年||71||775||46||96||28||1.74||4億531万9000円
|-
|-
||1981年||72||788||45||78||14||2.03||4億8473万6600円
|-
||1982年||85||851||46||96||26||1.44||4億6183万8300円
|-
||1983年||98||927||47||100||34||1.12||3億9986万5300円
|-
||1984年||114||1046||64||137||6||1.65||6億7504万8000円
|-
||1985年||117||976||54||115||27||1.21||4億8872万200円
|-
||1986年||113||1105||67||149||13||1.60||6億3777万4700円
|-
||1987年||114||1025||70||142||14||1.44||6億2516万3200円
|-
||1988年||106||866||52||109||35||1.06||4億7441万7400円
|-
||1989年||106||957||53||106||28||1.16||5億3881万3600円
|-
||1990年||110||988||59||125||13||1.69||8億5993万7900円
|-
||1991年||98||877||50||100||60||0.87||4億1327万1600円
|-
||1992年||84||804||46||111||76||0.87||3億5150万2,00円
|-
||1993年||79||730||45||76||96||0.78||2億7872万2000円
|-
||1994年||69||618||35||62||131||0.63||1億8535万9000円
|-
||1995年||61||565||31||57||131||0.78||1億9907万1000円
|-
||1996年||48||532||27||52||164||0.84||1億7107万8000円
|-
||1997年||36||476||19||49||248||0.59||9193万5000円
|-
||1998年||23||324||14||29||284||0.62||4628万円
|-
||1999年||14||215||7||17||481||0.28||1703万2000円
|-
||2000年||7||106||5||13||559||0.29||902万6000円
|-
||2001年||5||47||2||2||769||0.06||120万8000円
|-
||2002年||2||5||0||0||821||0.02||16万円
|}
|}
(レース名の赤字は[[八大競走]]、青字は重賞。タイムの赤字はレコードタイム)
通算22戦13勝(地方競馬6戦6勝、中央競馬16戦7勝)


;年度別種牡馬成績(地方競馬および中央競馬<ref group="†" name="JBIS注"/>、サラ系)<ref name="JBIS"/>
*おもな勝ち鞍(太字は当時の八大競走)
{|class="wikitable" style="text-align:right"
**(GI相当)- '''皐月賞'''、宝塚記念
!rowspan="3"|年!!colspan="7"|地方競馬!!colspan="7"|中央競馬
**(GII相当)- 弥生賞、スプリングステークス、NHK杯、中山記念、高松宮杯
|-
**(地方G2相当)- 青雲賞(大井)
!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金!!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金
|-
!頭数!!回数!!頭数!!回数!!頭数!!回数!!頭数!!回数
|-
||1978年||26||166||18||30||163||0.98||4956万5000円||9||35||5||7||170||0.68||3999万9600円
|-
||1979年||36||358||26||60||73||1.46||1億295万6500円||23||160||14||19||39||1.53||2億1136万1800円
|-
||1980年||46||543||30||74||40||1.56||1億4683万3000円||28||232||16||22||30||1.51||2億5848万6000円
|-
||1981年||49||576||32||57||39||1.44||1億4573万9000円||27||212||13||21||18||1.97||3億3899万7600円
|-
||1982年||63||629||31||71||15||1.48||1億9572万6500円||26||222||16||25||40||1.38||2億6611万1800円
|-
||1983年||69||721||37||85||11||1.48||2億917万7500円||32||206||10||15||55||0.87||1億9068万7800円
|-
||1984年||78||763||46||103||3||2.01||2億9628万7000円||41||283||18||34||25||1.35||3億7876万1000円
|-
||1985年||79||698||38||90||22||1.08||1億4977万6000円||42||278||16||25||29||1.19||3億3894万4200円
|-
||1986年||75||802||48||117||4||1.68||2億1735万100円||42||303||19||32||24||1.43||4億2042万4600円
|-
||1987年||74||769||51||113||6||1.63||2億1790万7000円||45||256||21||29||23||1.24||4億725万6200円
|-
||1988年||64||588||36||84||12||1.48||1億7935万円||46||278||18||25||47||0.81||2億9506万7400円
|-
||1989年||62||602||38||83||12||1.52||1億9474万円||50||355||15||23||40||0.87||3億4407万3600円
|-
||1990年||76||765||47||106||'''1'''||2.13||3億6501万3000円||40||223||12||19||24||1.49||4億9492万4900円
|-
||1991年||72||708||44||90||16||1.37||2億3083万7000円||29||169||6||10||85||0.69||1億8243万4600円
|-
||1992年||65||666||37||100||30||1.25||1億9483万7000円||23||138||9||11||102||0.74||1億5666万5000円
|-
||1993年||62||619||37||67||52||1.08||1億4509万8000円||20||111||8||9||116||0.74||1億3362万4000円
|-
||1994年||55||526||31||58||65||1.13||1億1931万9000円||16||92||4||4||203||0.47||6604万円
|-
||1995年||53||486||26||49||86||1.00||9816万1000円||8||79||5||8||157||1.44||1億0091万円
|-
||1996年||42||479||25||46||104||1.16||8912万3000円||9||53||3||6||189||1.03||8195万5000円
|-
||1997年||34||472||19||49||105||1.43||8923万5000円||2||4||0||0||544||0.15||270万円
|-
||1998年||23||324||14||29||198||1.08||4628万円|| - || - || - || - ||350||2.24|| -
|-
||1999年||13||213||7||17||311||0.69||1703万2000円||1||2||0||0||558||0.00||0円
|-
||2000年||7||106||5||13||394||0.69||902万6000円|| - || - || - || - || - || - || -
|-
||2001年||5||47||2||2||624||0.14||120万8000円|| - || - || - || - || - || - || -
|-
||2002年||2||5||0||0||701||0.05||16万円|| - || - || - || - || - || - || -
|}

==== 主な産駒 ====
;八大競走およびGI優勝馬
*[[カツラノハイセイコ]](1976年生、東京優駿、天皇賞(春))
*[[サンドピアリス]](1986年生、[[エリザベス女王杯]])
*[[ハクタイセイ]](1987年生、皐月賞)

;重賞優勝馬
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*ハイセイキング(1976年生、[[九州ダービー栄城賞|栄城賞]])
*タツユウチカラ(1977年生、[[中日新聞杯]])
*イソノスピード(1979年生、[[ゴールドカップ (浦和競馬)|ゴールドカップ]]、三条記念)
*セイコーリマン(1979年生、[[金盃]])
*[[キングハイセイコー]](1981年生、羽田盃、東京ダービー)
*[[ライフタテヤマ]](1982年生、[[札幌記念]]、[[ウインターステークス]]、[[シンザン記念]])
*ワイドセイコー(1982年生、[[東海桜花賞]])
*ヤマニンアーデン(1983年生、シンザン記念)
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*マルカセイコウ(1983年生、[[京阪杯]])
*ジヨージアセイコウ(1983年生、[[南部駒賞]])
*アジサイクイーン(1986年生、スプリンターズ賞)
*[[アウトランセイコー]](1987年生、羽田盃、東京ダービー)
*[[ケリーバッグ (競走馬)|ケリーバッグ]](1987年生、桜花賞2着、優駿牝馬3着)
*カンキヨウトントン(1987年生、[[花吹雪賞]])
*コツマナンキン(1988年生、[[北関東クイーンカップ|クイーンカップ]])
*ノズカソウハ(1992年生、百万石賞、スプリンターズカップ2回、JTB賞)
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ファイル:Katsurano haiseiko.jpg|カツラノハイセイコ
ファイル:Sand piaris.jpg|サンドピアリス(ゼッケン6番)
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==== 母の父としての主な産駒 ====
;GI優勝馬
*[[マイネルマックス]](1994年生、[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]])

;重賞優勝馬
*ハナセール(1988年生、[[浦和記念]]、[[東京盃]]、[[日本テレビ盃]]、[[サンタアニタトロフィー|関東盃]]、[[オーバルスプリント|テレビ埼玉杯]]、[[報知オールスターカップ]])
*[[シルクムーンライト]](1990年生、[[北九州記念]])
*ヤマノセイコー(1990年生、[[かしわ記念]]、[[埼玉栄冠賞|埼玉新聞杯]]、[[道営記念]]、[[ステイヤーズカップ]]、旭岳賞)
*ストロングライフ(1995年生、[[梅見月杯]])
*[[タマモストロング]](1995年生、[[マーチステークス]]、[[かしわ記念]]、[[白山大賞典]]、[[さくらんぼ記念]])
*マイネルコンドル(1997年生、[[札幌2歳ステークス|札幌3歳ステークス]])
*シャコーオープン(2000年生、[[東京記念]]、[[船橋記念]])

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ファイル:Tamamo Strong 20001125P1.jpg|タマモストロング
</gallery>

== 人気(ハイセイコーブーム) ==
ハイセイコーの人気、ブームは社会現象ともいえるほどの規模に達し<ref>[[#岩川1991|岩川1991]]、33-34頁。</ref><ref name="優駿2000-10-18">[[#『優駿』2000年10月号|『優駿』2000年10月号]]、18頁。</ref><ref name="ニッポンの名馬-93">[[#ニッポンの名馬|ニッポンの名馬]]、93頁。</ref>、競馬に興味のない人にまで名が知れ渡り<ref name="ニッポンの名馬-93"/>、ブームに巻き込んでいった<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>。国民的アイドルホースとなったハイセイコーは、[[オグリキャップ]]が登場するまで日本競馬史において比較対象すらない存在であった<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>。ハイセイコーが立役者となって作り出した競馬ブームは「[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]」と呼ばれ<ref>[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、46頁。</ref>、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]</ref>。

[[朝日新聞]]の[[コラム]]『[[天声人語]]』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、[[テンポイント]]とともにハイセイコーを挙げている<ref>[[#朝日新聞論説委員室2011|朝日新聞論説委員室2011]]、18頁。</ref>。赤木駿介は、ハイセイコーブームとは「表面的な物質享楽と、加速度的なインフレーションの谷間に落ちて」何かに飢えていた大衆が、マスコミの露骨な商業主義を感じ取りつつも、「一個の動物でしかすぎないサラブレッドに、純粋なるものを求めた」ものであり、「世相の反映であり、70年代の1つの象徴といえよう」と評している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、88頁。</ref>。競馬評論家の[[井崎脩五郎]]は、「1970年の3月6日に生まれ、1970年代を突っ走り、1979年の日本ダービーを自らの産駒が勝ったハイセイコーこそ、この10年の代表馬であったと、当然のことのように思い返すのではないだろうか。」と述べている<ref>[[#井崎1993|井崎1993]]、158頁。</ref>。

=== ブーム形成の要因・背景 ===
前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた<ref name="結城2008"/>。このことについて[[日刊競馬]]解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている<ref>{{Cite web|author = 吉川彰彦|date = 2005-10-18|url = http://www.nikkankeiba.co.jp/koei/yoshikawa/backnumber/yoshikawa-column051018.html|title = 「英雄のいた日」|work = あさっての馬|publisher = [[日刊競馬]] |language = 日本語|accessdate = 2011年1月1日}}</ref>。

当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元[[日刊スポーツ]]記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している<ref>[[#遠山1993|遠山1993]]、190-191頁。</ref><ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34-35頁。</ref>。[[読売新聞]]記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、[[高度経済成長]]期の学歴社会において、判官びいきを伴った共感を集めたのだと述べている<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、172-173頁。</ref>。


山野浩一は、ハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、ハイセイコーの活躍を地方競馬出身で「雑草育ち」の馬が中央競馬のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している<ref>[[#山野1978|山野1978]]、 13頁。</ref>。父の[[チャイナロック]]はハイセイコーが中央競馬へ移籍した1973年には[[リーディングサイアー]]となるなど成功を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝をあげていた。ハイセイコーは前述のように、誕生した年の夏に「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と生産者によって喧伝されるほど将来を期待された馬で<ref name="横尾2000-35">[[#横尾2000|横尾2000]]、35頁。</ref><ref name="横尾1986-22">[[#横尾1986|横尾1986]]、22頁。</ref>、地方競馬でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方競馬の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34頁。</ref>。前述のように江面弘也によると、武田牧場は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた<ref name="江面2011-123"/>。さらに江面によると、2代目の馬主であるホーズマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央競馬へ移籍した時点ですでに将来[[種牡馬]]となることが想定されていた<ref>[[#江面2005|江面2005]]、112頁。</ref>。
== 受賞 ==
[[JRA賞|優駿賞]]大衆賞(1973年)


== ハイセイコーブーム ==
[[ファイル:Tanaka 1973.jpg|thumb|ハイセイコーブームは、[[田中角栄]]の総理在任中に起こった]]
ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では[[田中角栄]]が第64代[[内閣総理大臣]]に就任した。朝日新聞be編集グループ(編)[[#朝日新聞be編集グループ(編)2006|『サザエさんをさがして その2』]]は、田中角栄が世間の注目を集めていたことが、ハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し<ref>[[#朝日新聞be編集グループ(編)2006|朝日新聞be編集グループ(編)2006]]、186頁。</ref>、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34頁。</ref>。[[日本経済新聞]]記者の[[野元賢一]]は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している。<ref>[[#野元2005|野元2005]]、17頁。</ref>田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している<ref>[[#遠山1993|遠山1993]]、193頁。</ref>。
=== ブームの推移 ===
競馬マスコミは中央競馬への移籍当初からハイセイコーを「'''怪物'''」「'''地方出身の野武士'''」と評し、その人気を煽り立てた。なぜそうしたのか、日刊競馬解説者の[[吉川彰彦]]は[[2005年]]の時点で「今思ってもやはり不思議」であると述懐している<ref>[http://www.nikkankeiba.com/column-backnumber/yoshikawa/yoshikawa-column051018.html 馬とペン「英雄のいた日」]</ref>。また赤木駿介は、当時のマスコミはすでに選手としてのピークを超えていた[[長嶋茂雄]]にかわるスポーツ界の新たな[[ヒーロー]]を探しており、まず競馬界が注目され、スターホース候補としてハイセイコーに白羽の矢が立ったためだとしている。また、[[集団就職]]などで地方から上京し、都会で働いていた者たちには、地方競馬から出てきて中央競馬の一流馬たちに戦いを挑むハイセイコーに自身の姿を投影する者が多く、これがブームの根底を支えることになったとも言われる。


赤木駿介は、マスコミが[[プロ野球]]の[[読売ジャイアンツ]]と[[ON砲]]に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、57-58頁。</ref>、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、15頁。</ref>。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、35頁。</ref>。
NHK杯でデビュー以来無敗の10連勝を達成すると全国的な知名度と人気を獲得。「競馬を知らない者でもハイセイコーの名は知っている」「野良猫でもハイセイコーは知っているらしい」とまで言われた。また「東京都ハイセイコー様」という宛て先だけで鈴木厩舎まで郵便物が届くほどであった。この時期には競馬専門誌や[[スポーツ新聞]]ばかりでなく一般の[[新聞]]や[[雑誌]]もハイセイコーの特集記事を掲載するようになっていく。挙げ句には[[勝馬投票券|馬券]]を買えない少年層をメインターゲットとする『[[週刊少年マガジン]]』の表紙までをもハイセイコーの顔写真が飾った<ref>週刊少年マガジン1973年6月17日号(26号)。</ref>。これは写真・漫画イラストを問わず、競走馬が少年漫画雑誌の表紙を飾った最初の事例である。


横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年は[[オイルショック]]が起こり[[インフレーション]]に見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している<ref>[[#横尾2000|横尾2000]]、36頁。</ref>。歴史学者の[[本村凌二]](雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している<ref name="週刊日録20世紀 1973年-5">[[#週刊日録20世紀 1973年|週刊日録20世紀 1973年]]、5頁。</ref>。
東京優駿に敗れたことで、一般メディアの取材攻勢は沈静化し、ハイセイコーブームは落ち着きを見せたが、一般社会での人気は相変わらずで、引退まで数多くのマスコミに取り上げられ、またハイセイコーが競走馬を引退したあとまでもさまざまな現象を巻き起こした。


東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」<ref name="赤木1975-164">[[#赤木1975|赤木1975]]、164頁。</ref><ref name="河村2011-80"/>、「落ちた偶像」<ref name="赤木1975-164"/>、「"敗"セイコー」<ref name="河村2011-80"/>などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく<ref name="阿部2003-65"/><ref name="優駿2000-10-18"/><ref name="競馬 黄金の蹄跡-37"/>、むしろ高まっていった<ref name="週刊日録20世紀 1973年-4"/><ref name="阿部2001-61"/>。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、205-206頁。</ref>、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している<ref name="片山2004-173">[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、173頁。</ref>。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直したあと、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している<ref name="高見沢1995-53"/>。
また、それまで「競馬は博打」とのイメージが大きかったが、この馬の活躍で競馬ファンが急増し、それとともに「競馬はロマン」というイメージが形成され、競馬が[[カルチャー]]としても認知されるきっかけになった。しかしこのハイセイコーブームは引退後は急速に沈静化し、本格的な競馬ブームの到来は[[1980年代]]後半に怪物と称された[[オグリキャップ]]と、「天才騎手」[[武豊]]が相前後してデビューするのを待たなければならなかった。


=== 現象 ===
=== 現象 ===
遠山彰は、ハイセイコー人気が高まる中、女性や子供のファンからファンレターやプレゼントが届いたことをきっかけに「男ばかりのギャンブルの世界」が変質し始めたと分析している<ref>[[#遠山1993|遠山1993]]、190-191頁。</ref>。競馬評論家の[[原良馬]]によると変化は「汚い」「暗い」「怖い」という目で見られていた競馬場にも及び、ハイセイコーが活躍した頃から女性ファンの姿が見られるようになったと述べている<ref>[[#共同通信社2007|共同通信社2007]]、153頁。</ref>。片山一弘も、「中年男のものだった競馬場に…若い女性が集まり、黄色い声援が飛び交うようになった」ことを指摘し、ハイセイコーの出現によって日本の競馬が、ギャンブルからレジャーに転換したと評価している<ref name="片山2004-173"/>。高見沢秀は、それまでギャンブルに過ぎなかった日本の競馬が、ハイセイコーの出現によってカルチャーとエンターテインメント、ギャンブルを横断する独特のジャンルへと変貌したと分析している<ref>[[#高見沢1995|高見沢1995]]、48頁。</ref>。『[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]』は、ハイセイコーブームが従来の「[[公営競技]]=[[賭博|ギャンブル]]=悪」というイメージを脱し、競馬が健全な娯楽として認知される基盤を築く一因となったと評価している<ref>[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]、262頁。</ref>。管理調教師であった鈴木勝太郎<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、173頁。</ref>は、ハイセイコーの登場により競馬新聞を人前で読むのがはばかられるような雰囲気が解消され、「あの馬のおかげで、競馬そのものが真っすぐな方向に変わったように思います」と述べている。横尾一彦も同様に、「ようやく『私は競馬ファンです』と胸を張れる時代がやってきた」と述べている<ref>{{Cite web|author = 横尾一彦|date = |url = http://www.tokyocitykeiba.com/03/colmun_vol02.php|title = 大井が生んだ大スター、怪物ハイセイコー|work = TCKコラム|publisher = 東京シティ競馬|language = 日本語|accessdate = 2011年11月14日}}</ref>。
; 集客力・注目度
:中央競馬移籍後初戦の[[弥生賞]]に出走した際には、12万人の観衆が[[中山競馬場]]に来場し、本馬場入場の際にファンがスタンドで後ろから押圧され馬場へこぼれ落ちる騒動が起きた。また、高松宮杯出走時には[[中京競馬場]]に当時の中央競馬非主要6競馬場([[函館競馬場|函館]]、[[札幌競馬場|札幌]]、[[新潟競馬場|新潟]]、[[福島競馬場|福島]]、中京、[[小倉競馬場|小倉]]の各[[競馬場]])に史上最多となる68469人の観客が入場し(同競馬場近くを走る[[国道1号]]は大渋滞したという)、パドックでは増沢が「弥生賞以上だった」とのちに回顧するほどの熱烈な声援が飛んだ。
:ハイセイコーが出走したレースのテレビ中継の[[視聴率]]はそれぞれNHK杯で20.2パーセント ([[日本放送協会|NHK]]) 、日本ダービーで20.0パーセント(フジテレビ)、9.6パーセント (NHK) を記録した。
:引退後も、明和牧場には多くのファン(赤木駿介によると、1975年はのべ30万人)が訪れ、新冠町はハイセイコーの故郷として全国的に有名になった。新冠町がハイセイコーの名前を冠した農作物を発売すると爆発的な売り上げを記録したという。
; 「さらばハイセイコー」
:ハイセイコーの引退直後に増沢末夫が[[ポリドール・レコード|ポリドール]]から「[[さらばハイセイコー]]」(作詞・[[小坂巌]]、補作詞・[[山田孝雄 (作詞家)|山田孝雄]]、作曲・[[猪俣公章]])をリリースし、約45万枚の売り上げを記録した。
; 各種媒体における露出
:日本ダービー当日には[[朝日新聞]]紙上で漫画『[[サザエさん]]』の題材となった<ref>[http://be.asahi.com/20060304/W24/20060215TBEH0003A.html サザエさんをさがして-ハイセイコー-競馬を日なたに出した](asahi.com [[2006年]][[2月15日]])</ref>。また、1973年7月にデビューした『[[スター誕生!]]』出身の[[演歌歌手]]・[[藤正樹]]には“演歌の怪物” “演歌のハイセイコー”の[[キャッチフレーズ]]が与えられた。引退後も、[[1976年]]8月公開の[[映画]]『[[トラック野郎]]望郷一番星』(監督:鈴木則文。[[東映]])に友情出演した。ちなみに、この映画の配給収入は12億2800万円を記録した。死後も、[[2007年]]6月に発売された[[MCU (ラッパー)|MCU]]のアルバム『[[A.K.A]]』に収録されている「1973」という曲に'''皐月賞 ハイセイコーが楽勝'''というリリック(歌詞)で登場している。
; 半弟・アアセイコー
:ハイセイコーの半弟に[[アアセイコー]](父[[ファラモンド]])がいる。競走成績がふるわなかったにもかかわらず、ハイセイコーの存在が種牡馬入りの原動力となった。種牡馬名をあいうえお順に並べると、先頭に来るのが特徴である。父が「丈夫さが売りのチャイナロック」ではなく「気性難が売りのファラモンド」ということもあって種牡馬としては失敗に終わり<ref>ただし、そのファラモンド自身は種牡馬として[[カブラヤオー]]、[[ミスカブラヤ]]、ゴールドスペンサーなどを輩出した実績のある種牡馬である。</ref>、近年の活躍馬の血統にはほとんど名前が残ってはいないが、2004年に[[川崎記念]]を制した[[エスプリシーズ]]の3代父に数少ないその名を見ることができる。


ハイセイコーのファン層は子供や女性、老人など[[勝馬投票券|馬券]]を購入せず、ハイセイコー以外の競走馬に関心を抱かない人々にまで広がった<ref name="阿部2000-62">[[#阿部2001|阿部2001]]、62頁。</ref>。片山一弘は、こうした点でハイセイコーは「競馬という枠組みを超えたスーパースター」であったと評している<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、173頁。</ref>。鈴木康弘はハイセイコーのファンがギャンブルを抜きに、愛情をもってハイセイコーに接したことに感動を覚えたと回顧している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、206-207頁。</ref>。ファンの中にはハイセイコーを見ようと厩舎を訪れるファンも多く<ref name="片山(編・著)2004-172">[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、172頁。</ref>、夏休みの時期には親に連れられて子供のファンが多く厩舎を訪れたという<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、206頁。</ref>。
=== ブームがハイセイコーに与えた影響 ===
ブームがピークを迎えた日本ダービー直前期には、鈴木勝太郎の厩舎や自宅に連日多くの報道陣が訪れるようになり、その数は最大で一日30〜40人にものぼった。報道も加熱する一方で、ハイセイコーの熱心なファンであった女子中学生をマスコミが鈴木宅に招待して記念撮影をしたり、調教を終えて引き上げるハイセイコーを写真に撮ろうと[[カメラマン]]が殺到し、驚いたハイセイコーが暴れるなど、行き過ぎた取材も見られるようになった。


ハイセイコーのもとには多くのファンレターが届き、「東京都 ハイセイコー様」という宛名だけで[[葉書|はがき]]が届いたという伝説も生まれた<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、171頁。</ref>。引退後も、[[年賀状]]や[[クリスマスカード]]、誕生祝いなどが届いた<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、175頁。</ref>。浅草の[[ブロマイド]]屋のもとにはハイセイコーのブロマイドを求める声が多く寄せられ、写真を撮らせてほしいとブロマイド屋が厩舎を訪れたこともあった<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、35頁。</ref>。
また、ファンからの電話もひっきりなしにかかるようになり、鈴木の家族や厩舎スタッフはその応対に追われ、なかには脅迫じみた電話もあったために交代で寝ずの番を強いられることとなった。このようなマスコミの取材姿勢に対し、非難の声を上げる競馬関係者もいた。タケホープを管理する[[稲葉幸夫]]は、東京優駿の翌日に行われた取材のなかで報道関係者に対し「ハイセイコーが負けたことは、やはりあなた方に責任があるのではないか。」と語り、マスコミを非難した。


ブームが高まるとハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった<ref>[[#山野1978|山野1978]]、12頁。</ref>。阿部珠樹はハイセイコーが少年雑誌の表紙に登場したことについて、「それまで健全な市民社会の対極にあるものとみなされていた競馬の世界では、考えられないことだった」と述べている<ref name="阿部2003-65"/>。ハイセイコーが東京優駿に出走した1973年5月27日には、ギャンブル嫌いの漫画家[[長谷川町子]]が、[[朝日新聞]]朝刊に連載中の『[[サザエさん]]』でハイセイコーを取り上げた<ref>[[#朝日新聞be編集グループ(編)2006|朝日新聞be編集グループ(編)2006]]、186-187頁。</ref>。
またタケホープの騎手であった[[嶋田功]]は、ハイセイコーが連勝を重ねるなかでマスコミとファンによって「負けてはならない馬」として偶像化されたために、陣営が常に強い調教を課し、レースにおいて全力で走らせることを余儀なくされたことを日本ダービーにおけるハイセイコーの敗因として挙げた。


『[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]』は、1973年にはハイセイコーブームにより馬券売上額が33.55%、入場者数が15.64%、それぞれ前年よりも増加したと評価し<ref>[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]、84頁。</ref>、1974年においてもハイセイコーがタケホープ、キタノカチドキ、タニノチカラとともに中央競馬を盛り上げたことにより、馬券売上額が前年よりも17.52%増加したと評価している<ref>[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]、86頁。</ref>。レース単位でみると、1973年には前述のようにNHK杯で中央競馬史上最多となる16万9174人の観客が入場した<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、26-27頁。</ref>{{#tag:ref|この記録は、{{和暦|1990}}の東京優駿で更新(19万6517人)された<ref>[[#岩川1991|岩川1991]]、32頁。</ref>。|group="†"|name="NHK杯"}}ほか、菊花賞の馬券売上額が98億4813万5400円と同レース史上最高となり<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、40頁。</ref>、有馬記念での馬券売上額は中央競馬史上最高の124億4197万にのぼった(そのうち、ハイセイコーがらみの馬券はおよそ45%にあたる56億5231万9900円を占めた)。有馬記念が施行された12月16日の開催1日の馬券売上額も154億6847万3600円と史上最高であった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、44-45頁。</ref>。翌1974年の有馬記念では前年の記録をさらに更新し、同レースの売上額が136億4668万円、レース当日の売上額が172億7956万8600円を数えた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、65頁。</ref>。日本経済が1973年から1974年にかけて起こった[[オイルショック#第一次オイルショック|第一次オイルショック]]の影響から国内消費の低迷に見舞われる中、中央競馬の馬券売上額はハイセイコーの引退後も上昇を続け、「不況に強いギャンブル」という神話が誕生した<ref>[[#青木1995|青木1995]]、28頁。</ref>。野元賢一は、1970年代前半における中央競馬の馬券売上増加を支えたのはハイセイコーであると評している<ref>[[#野元2005|野元2005]]、11頁。</ref>。
=== ハイセイコーブームに対する評価 ===
[[詩人]]の[[寺山修司]]はハイセイコーに関する詩を数多く発表している。ただ、ハイセイコーブームについてはシニカルな見方をしており、『[[優駿]]』誌上で発表したダービー観戦記では『[[裸の王様]]』を引き合いに出し、ハイセイコーを王様、ブームを煽り虚名を着せたマスコミを詐欺師、タケホープを「王様は裸だ!」と叫んだ子供にたとえた。


== 評価 ==
== 特徴・評価 ==
=== 客観的評価 ===
=== 身体面に関する特徴・評価 ===
中央競馬移籍後のハイセイコーを診察した獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの身体面の長所として身体面では体型とバランスの良さを挙げ、体の使い方に無駄がないため疲労がたまりにくいと分析している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、85頁。</ref>。主戦騎手の増沢末夫も、ハイセイコーの第一印象として馬体のバランスの良さを挙げ<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、186頁。</ref>、「あんなに丈夫でタフは馬を、いままで知らない」とも述べている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、188頁。</ref>。
*右回りの競馬場(中山、京都、大井)に比べ左回りの東京競馬場では成績が悪く(右回り11戦5勝、左回り5戦2勝、東京4戦1勝、中京1戦1勝)、また優勝したレースについても右回りの場合と比べ苦戦する傾向があった。そのため、一般に左回りは苦手であったとされている(このことは鈴木勝太郎調教師も認めている<ref name="nipponderbymonogatari">文春Numberビデオ「日本ダービー物語」</ref>)。手前を変える動作が悪いことと、東京の長い直線が不得手と思われた(後続馬に差される→ダービー・アメリカジョッキークラブカップ)。
*2200メートル以下のレースでは15戦13勝2着2回とほぼ完璧な成績であるのに対し、2400メートル以上では7戦0勝2着2回3着2回着外3回と良績を残していない。このことから、同馬は本質的に2000メートル前後の距離を得意とする中距離馬であったと考えられる。
*ライバルのタケホープとは9回対戦し、対戦成績はハイセイコーが5勝4敗と勝ち越している。ただし、[[八大競走]]においてはタケホープの3勝1敗。タケホープは先着した3レースですべて優勝している。


鈴木康弘によると、ハイセイコーは心臓をはじめとする内臓が強く、調教を終えると厩舎に戻る前に息が整った。食欲も旺盛であった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、193頁。</ref>。サラブレッドの安静時の心拍数は毎分30ないし35拍で一流の競走馬は毎分25ないし30拍といわれる<ref>{{Cite web|author = |date = |url = http://www.equinst.go.jp/JSES/qanda/qanda-naiyo1.html|title = ◆馬と人の心臓の比較した資料が欲しい|work = Q&A
=== マスコミによる評価 ===
|publisher = 日本ウマ科学会|language = 日本語|accessdate = 2011年11月3日}}</ref>ところ、ハイセイコーの心拍数は毎分28拍であった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、46頁。</ref>。大井競馬場時代のハイセイコーに騎乗したことのある[[高橋三郎]]によると、1971年11月のある日、ハイセイコーが調教後に疲れた様子を見せたので[[輸液#輸液製剤|リンゲル液]]を注射したところ、リンゲル液が寒さで冷えており、ハイセイコーが体を震わせてショック状態に陥ったことがあった。そのまま倒れると死亡する可能性があったため関係者が10人がかりで支えたところ、崩れ落ちそうになりながらも持ちこたえたという。高橋は「普通の馬だったら保たなかったと思う。よっぽど心臓が強かったんだろうね」と語っている<ref>[[#高見沢1995|高見沢1995]]、50頁。</ref>。
*弥生賞およびスプリングステークスのレース内容がさほど目立つものではなかったため、マスコミの評価は二分することとなった。[[大川慶次郎]]や[[大橋巨泉]]が、勝ち方は地味であるものの結果的には連勝していることをもって「[[シンザン]]の再来」と肯定的な評価を下す一方、「タイムが速くない」「末脚に見栄えがしない」と否定的な評価を下す論もあった。なお、シンザンの管理[[調教師]]であった[[武田文吾]]は、シンザンになぞらえてハイセイコーを評価する風潮について「そもそも[[クラシック (競馬) |クラシック]]を一つも取っていない馬と五冠馬(シンザンはクラシック三冠を含め八大競走を5勝したため、このように呼ばれる)とを比較するのは間違っている。マスコミが煽るからハイセイコーは異常人気になっている。」と苦言を呈した。
*NHK杯優勝により、ハイセイコーは地方競馬時代と合わせてデビュー10連勝を達成した。なお、デビュー以来無敗の10連勝は[[トキノミノル]]以来<ref>ただし、トキノミノルは中央競馬の前身にあたる[[国営競馬]]時代での達成である。</ref>であり、この勝利を境に一時はマスコミから「第2のトキノミノル」とも呼ばれた。
*京都新聞杯で敗戦を喫したころから、マスコミはハイセイコーの競走能力に関して冷ややかな見方を示すようになり、とくにアメリカジョッキークラブカップにおいて大敗を喫した際には、マスコミから「落ちた偶像」「ハイセイコーもただの馬」などとこき下された。しかし中山記念に優勝すると一転、「怪物復活」などと賞賛された(マスコミによるこの評価の仕方は、後年のアイドルホースである[[オグリキャップ]]でも同様のものが見られた)。
*競馬マスコミのなかでも血統論者からは、「ダービー・有馬記念・菊花賞・天皇賞はハイセイコーにとって長過ぎた」という評価が多い。理由は母の父にカリムがいるように、母方の血統が短距離指向の構成となっているためである。事実、ハイセイコーが勝った最長距離レースは宝塚記念の2200メートル。比類なきスタミナとパワーを売りとした[[チャイナロック]]産駒としては珍しいスピード偏重形であった。また、ベストの距離は1600メートル〜1800メートル戦であったのではないかという見方も根強い。ただし、ハイセイコーの時代は重賞体系が現在のように距離別で細分化されていたわけではなく、距離の適不適を問わずにまずは八大競走に参戦し、勝利を上げることこそが競走馬最良の証とされていた時代であった。逆にライバルの[[タケホープ]]は重厚なステイヤー血統で、長距離レースではこれがものをいった。
**敗れこそしたが、ハイセイコーが菊花賞でタケホープと3000メートルの長丁場で激闘を繰り広げ、着差がハナ差という僅差であったことは、血統論者が指摘していた長距離適性の不足を補うだけの驚異的な身体能力を、この馬は持っていたということを示したものであった。そのため、多くの血統論者がこの菊花賞で「ハイセイコー敗れてなお強し」と評価してこの馬の能力の高さを認めることになった。
**ハイセイコーの代表産駒である[[カツラノハイセイコ]]の母系の血統は、タケホープに負けず劣らず重厚なスタミナ重視型の構成である。これとハイセイコーのスピード能力が絶妙にマッチしたことにより、カツラノハイセイコはスピード・スタミナの両面に恵まれ、ダービーや天皇賞をといった長距離に勝つと同時に、短距離の[[マイラーズカップ]]にも勝利している。ちなみに、当時不受胎が続いていたカツラノハイセイコの母・コウイチスタアの種付け候補には当初タケホープが挙げられていたが、タケホープの父・インディアナの血統面の重さが嫌われ、馬格とスピードを兼ね揃えていたハイセイコーが選ばれたという。


関係者の証言によるとハイセイコーの馬体は生まれた時から大きく<ref name="岩川1991-34"/>、デビュー前の時点ですでに他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備え<ref name="大井が生んだ怪物"/>、4歳の時点で古馬のように完成されていた<ref name="高見沢1995-51">[[#高見沢1995|高見沢1995]]、51頁。</ref>{{#tag:ref|詩人の[[寺山修司]]は、ハイセイコーは大井競馬場に在籍していた頃によく似た[[馬齢#日本における馬齢表記|古馬]]とすり替えられたのだと主張した<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、35頁。</ref>。朝日新聞元記者の遠山彰によると、ハイセイコーが中央競馬へ移籍した当時、ハイセイコーは実は5歳馬だという噂が流れていた<ref>[[#遠山1993|遠山1993]]、190-191頁。</ref>。|group="†"}}。一方でその馬体は、膝下が短く、洗練された気品にはやや欠けていたとも評されている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34頁。</ref>。体格の大きなハイセイコーの走りは[[重戦車]]にたとえられた<ref>[[#山本2005|山本2005]]、160頁。</ref>。1974年[[12月21日]]に測定されたハイセイコーの馬体のサイズは、体長163[[センチメートル]]、体高171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートルである<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、180頁。</ref>。
== 身体・精神面の特徴 ==
* ハイセイコーは大井競馬所属時は[[馬の毛色#黒鹿毛|黒鹿毛]]、中央競馬所属時は[[馬の毛色#鹿毛|鹿毛]]で登録されている。[[馬の毛色]]は目視で判断するが、成長に伴い毛色が変化することもあるからである(例えば[[馬の毛色#芦毛|芦毛]]の馬は生まれた時から白くはない)。大井競馬場ではハイセイコー像の除幕式が行われた[[2000年]][[12月31日]]に、大井時代のハイセイコーの毛色にちなみ黒鹿毛馬限定の競走を行っている。
*鈴木康弘によると、ハイセイコーは夏の暑さに対して非常に強かったという。実際に4歳時5歳時ともに東京競馬場で夏を過ごしたものの、大きく体調を崩すことはなかった。鈴木によると、夏場は大量の水を飲み大量の汗をかいて、[[新陳代謝]]が活発なところをみせていたという。その反面、皮下脂肪がつきやすい体質であったために冬場の体調は今ひとつよくなかったという。
*疲労の色をまるで見せない、非常にタフな馬であったとされる。とくに[[心臓|心]][[肺]]機能が非常に優れており、調教やレースで疾走したあともすぐに息が整ったという。
*初めて立ち入る場所を強く警戒する([[競走馬#物見|物見]]をする)ところがあり、周囲の様子を探るそぶりを見せた。これが日本ダービーを前にNHK杯に出走する大きな要因となった。


ハイセイコーは後脚の力が強く、「滑らかさよりも力で走る」タイプの競走馬だった<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、36頁。</ref>。後脚の[[蹄鉄]]は装着してから1週間ほどで擦り減ってしまったといわれている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、35頁。</ref>。橋本邦治は、このような特徴を持つ競走馬は長い距離を走るとスタミナを消耗する傾向にあり、ハイセイコーの場合も「2000m以上は駄目」と評価されるような競走成績に繋がったと分析している<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、36頁。</ref>。鈴木勝太郎はハイセイコーの引退後、当初抱いていた印象について、胴の詰まった体型からこなせる距離は1800mまでで、2000m以上で行われる[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬のクラシック]]では苦しいと感じたと証言し、予想を覆す活躍を見せたハイセイコーを「大した馬だよ」と評している<ref name="高見沢1995-51"/>。
=== 馬体データ ===
体長163[[センチメートル]]、体高171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートル(1974年[[12月21日]]測定)


厩務員の大場によると、ハイセイコーは皮下脂肪がつきやすい体質で、冬場は苦手とした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、164頁。</ref>。逆に暑さには強く、夏が近づくと水を大量に飲み、大量に汗をかいた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、175頁。</ref>。
== エピソード ==
*デビュー前の能力検定で[[ダート]]800[[メートル]]を当時としては破格の48秒台で走破し、とても敵わないと回避する馬が続出したため、デビュー戦となるはずであったレースが不成立になった。
*最初のハイセイコーの馬主は瀧澤春という女性である。10連勝後にハイセイコーの体調があまり良くなく、中央に売った経緯がある。中央移籍時の金額は1億円である。
*大井競馬場でハイセイコーの[[厩務員]]を務めていた山本武夫はハイセイコーの中央移籍に激しく反発し、移籍が決定した翌日に大井競馬場を去り、[[金沢競馬場]]の厩務員となった。大川慶次郎は著書のなかで、愛着のある馬と収入<ref>厩務員は担当する競走馬が稼いだ賞金の5パーセントを手にすることができる。</ref>を奪われることとなった山本の心情を慮っている。
*弥生賞出走時、レース前に勝負鉄(レース用の[[蹄鉄]])を打ったところテンションが高くなったため、以後勝負鉄は早朝に打たれるようになった。また、厩舎サイドはレース前に中山競馬場の芝コースで調教を行う予定を立てていたが、降雨のために馬場状態が悪化して使用できなかった。
*皐月賞では第4コーナーで進路が外に膨らむ場面があり、レース後増沢は「あれで2馬身は損をした」と語った。
*菊花賞において、レースを実況した[[関西テレビ放送|関西テレビ]]アナウンサーの[[杉本清]]は、タケホープがハイセイコーを差し切っていたのが判っていたが、ハイセイコーの生産牧場との二元中継をしていたため、差し切ったとは言わずに「ほとんど同時」と実況した。
*1973年11月、ハイセイコーの海外遠征計画が報道されたことがある。計画の内容は1974年5月にアメリカ合衆国へ渡り、[[ワシントンD.C.インターナショナル]]や[[スーパーグランプリステークス]]に出走するというものであり、現地での管理調教師や[[主戦騎手]]も決定しているとされたが実現しなかった。
*ハイセイコーの死に伴い、主戦騎手だった増沢末夫は当時の人気ぶりを示すエピソードとして友人から「増沢、今この馬のほうが長嶋と王より人気があるんじゃないか?」と言われた話を紹介している。


=== 知能・精神面に関する特徴・評価 ===
== 種牡馬としてのハイセイコー ==
獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの精神面の長所として気の荒さを挙げている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、85頁。</ref>。大井競馬場時代の厩務員山本武夫は、ハイセイコーの性格について「気の荒すぎるところがあり、いったん、いうことをきかなくなったら、テコでも動かなくなる」と評している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、53頁。</ref>。ただし荒い反面、気の弱いところもあった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、171-172頁。</ref>。調教師の鈴木勝太郎は、気性の激しいハイセイコーに対応した調教方法を考案した。まず15-15と呼ばれる軽めの調教を1週間ないし10日に一度行い、他の馬がいないタイミングを見計らって調教を行うなどの工夫をした<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、128-129頁。</ref>。ハイセイコーには、他の馬と並んで走ると負けまいとして走り過ぎる傾向があった<ref name="週刊日録20世紀 1973年-5"/>。
大柄な馬体の中距離馬・ハイセイコーは、[[内国産馬|国産馬]]としては鳴り物入りで北海道での種牡馬生活を開始した。外国産種牡馬全盛時代という逆境を抱えていたが、ハイセイコーは早くも跳ね返す<ref>もっとも、初期の産駒は馬格の悪い馬が多かった。</ref>。初年度[[産駒]]からダービー馬を輩出。カツラノハイセイコは[[1979年]]に父の勝てなかった日本ダービーを制覇。さらに[[1981年]]に天皇賞(春)を勝つ活躍をした。種牡馬としての金看板を得たあとも、[[サンドピアリス]]([[1989年]][[エリザベス女王杯]])・[[ハクタイセイ]]([[1990年]]皐月賞)と計3頭のGI・八大競走勝利馬を輩出した。また、地方競馬では[[キングハイセイコー]]と[[アウトランセイコー]]が[[羽田盃]]、[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]に勝ち、[[三冠 (競馬)#南関東三冠|南関東三冠]]のうち二冠を制覇した。産駒はとくに地方競馬で活躍し、前述のように1990年には地方競馬の[[リーディングサイアー]]となった。


ハイセイコーは初めて訪れる場所を警戒するところがあった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、192頁。</ref>。増沢によると、もともと警戒心や注意力の強いサラブレッドの中でも、ハイセイコーはひときわそうした傾向が強かった<ref name="岩川1991-36">[[#岩川1991|岩川1991]]、36頁。</ref>。鈴木勝太郎はマスコミの取材やファンの来訪を拒まなかったが、神経質なハイセイコーへの配慮から、カメラ撮影に関してのみ厩舎内では行わず決められた場所で行うよう要望を出した<ref>[[#阿部2001|阿部2001]]、60頁。</ref>。
ハイセイコー産駒の特徴は、父であるチャイナロックの産駒の傾向と似通っており、タフで[[故障]]しにくいことと、芝・ダート、勾配の有無、馬場の軽重を問わないパワーを兼ね備えている点にある。一見すると馬格が足りずダート適性がなさそうに見える産駒でも、いざ走らせると重いダートを平然とこなすパワー型の馬が多かった。大川慶次郎は、父親と似ていない馬はよく走る(例:小柄な馬体のカツラノハイセイコ・[[馬の毛色#芦毛|芦毛]]のハクタイセイ)反面、似ている馬はまるで走らず当たり外れが大きかったと評している。さらにもうひとつ、産駒には季節を問わず連戦を平気でこなす馬が多く、下級条件に甘んじていても出走手当が安定的に確保しやすいことから、地方競馬の馬主からは損をさせない種牡馬として人気が高かった。


明和牧場元取締役の浅川明彦は競走馬引退後のハイセイコーについて、怖いくらいの威厳を放ち、担当厩務員以外の者の言うことは聞かず、他の馬と喧嘩をすることもしばしばであったと振り返っている<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、174-175頁。</ref>。浅川によると明和牧場でのハイセイコーは体調がいいと人に触られるのを嫌がる反面、体調が悪いと注射にも素直に応じるところを見せた。浅川はハイセイコーについて、神経質さが良い方向に出て、警戒心と注意力に優れた頭のいい馬であったと評している<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、37頁。</ref>。
また[[予想 (競馬)|予想]]との関連では、産駒が何の前触れもなく好走、激走して穴を開けることが多く、穴党のファンはこれを「忘れた頃にやってくるハイセイコーの大爆発」と呼んで注目していた。


ハイセイコーは引退式でコースを1周した後、速度を落としつつ第1コーナーを過ぎたところで突如立ち止まって首を振り、騎乗していた増沢を振り落した<ref name="河村2011-80"/>。増沢によると、それまで第1コーナーと第2コーナーの中間地点をゆるやかに通った後はそのまま地下道を通ってコースから出る習慣があったため、引退式でもハイセイコーはコースから出ようとして方向転換を計り、そのことが落馬につながった。増沢はこのエピソードを著書で紹介し、ハイセイコーを「じつに利口な馬」と評している<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、123頁。</ref>。競走馬時代、普段の調教では調教助手の吉田が騎乗したが、増沢が騎乗するとハイセイコーは興奮するしぐさを見せた。これについて鈴木勝太郎は、増沢がレースで騎乗することをハイセイコーが理解しているためだと説明した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、128-129頁。</ref>。
ちなみに、ライバルの[[タケホープ]]は重厚過ぎる長距離血統が足枷となって種牡馬としてはこれといった活躍馬を輩出できず、種牡馬としてのライバル対決はハイセイコーに軍配が上がった。


弥生賞当日、発送前に蹄鉄をレース用のものに打ち替えようとしたところ、ハイセイコーは落ち着きをなくし、興奮する様子を見せた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、194-195頁。</ref>。そのため、以降のレースでは当日の早朝に打ち替えが行われるようになった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、199頁。</ref>。
中央競馬在籍馬としては、[[1999年]][[4月11日]]に出走した[[ファイブハッピー]]が最後の産駒である。


=== 走行・レースぶりに関する特徴・評価 ===
=== おもな種牡馬成績 ===
ハイセイコーは前述のように荒い気性と気の弱さを併せ持っていたが、競馬では他の馬と並んで走ると抜かせまいとする勝負根性を発揮した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、171-172頁。</ref>。増沢は、そうした根性、闘争心こそがハイセイコーの真骨頂だと述べている<ref name="優駿2000-10-18"/>。
*[[1984年]] - 地方競馬3位、中央競馬21位、中央・地方総合6位。
*[[1986年]] - 地方4位、中央20位。
*[[1987年]] - 地方6位、中央23位。
*1990年 - 地方1位、中央23位、中央・地方総合13位。


ハイセイコーはストライドの大きな馬で、マスコミは「ひと跳び8メートル」と報じた<ref name="調教師の本Ⅱ-181"/>。高橋三郎は、馬体もストライドも大きいハイセイコーにはダッシュ力はなかったと評し<ref name="大井が生んだ怪物"/>、増沢末夫も一瞬の切れ味を発揮するタイプではなく、相撲の[[寄り (相撲)#がぶり寄り|がぶり寄り]]のようにジリジリと伸びるタイプだと評している<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、112頁。</ref>ハイセイコーが連勝していた時期に増沢は、「物凄い末脚を使う馬が出てくるとこわい」とコメントし<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、30頁。</ref>、鈴木勝太郎も「一瞬の切れ味の鋭い馬」を警戒していた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、31-32頁。</ref>。高橋はダッシュ力のなさを指摘する一方で、一度加速がつくと他の馬を引き離すほどの速さで走ることができたとも振り返っている<ref name="大井が生んだ怪物"/>。ハイセイコーがスピードに乗った時の感触を増沢は、「ぐーんと躰が沈みこんでいく」と表現した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、28頁。</ref>。増沢によると跳びの大きい馬は雨が降って状態の悪い馬場を苦手とする傾向があるが、ハイセイコーは得意とした<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、108-110頁。</ref>。これについて鈴木勝太郎は前述のように、体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走り方をすることから状態の悪い馬場を苦手とすることはないという見解を示している<ref name="赤木1975-201"/>。
=== おもな産駒 ===
*[[カツラノハイセイコ]](東京優駿、天皇賞〈春〉)
*[[ハクタイセイ]](皐月賞)
*[[サンドピアリス]](エリザベス女王杯)
*[[キングハイセイコー]](羽田盃、東京ダービー)
*[[アウトランセイコー]](羽田盃、東京ダービー)
*[[ケリーバッグ (競走馬)|ケリーバッグ]](桜花賞2着、優駿牝馬3着)
*[[ライフタテヤマ]]([[札幌記念]])
*[[ヤマニンアーデン]]([[シンザン記念]])
*[[マルカセイコウ]]([[京阪杯]])
このほかにも金沢競馬場で活躍した[[ノズカソウハ]]など、地方競馬で数多くの重賞勝ち馬を輩出した。


高橋三郎によると、ハイセイコーはダートコース向きの走り方をしていた<ref>{{Cite web|author = 有吉正徳|date = 2009-08-08|url = http://doraku.asahi.com/earth/showashi/100729_02.html|title = 「怪物」ハイセイコー人気|work = 昭和史再訪セレクション|publisher = 朝日新聞社|language = 日本語|accessdate = 2011年11月4日}}</ref>。鈴木勝太郎も、中央競馬へ移籍してきたハイセイコーを調教で走らせてみて、ダートコースでの競走能力を実感したという<ref>[[#阿部2001|阿部2001]]、59-60頁。</ref>。後藤正俊は、ハイセイコーの現役時代に[[ダートグレード競走]]が設けられていたら、「[[セクレタリアト]]級のぶっちぎり勝ちを続け、ダート史上最強馬として違った形の歴史を作っていたことだろう」と推測している。<ref name="後藤2000-39"/>。競馬記者の大島輝久はハイセイコーのダートにおける競走能力を高く評価し、「アメリカのダート競馬で走らせてみたかった」と述べている<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、18頁。</ref>。
[[ブルードメアサイアー|母の父]]にハイセイコーを持つ活躍馬は以下のとおり。

*[[マイネルマックス]]([[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]など重賞4勝)
大川慶次郎は、ハイセイコーは左回りのコースを苦手としていたと述べている<ref name="大川1998-241">[[#大川1998|大川1998]]、241頁。</ref>。主戦騎手であった増沢も、かつてNHK杯で抱いた「左回りは右回りほど走らないのではないか」という疑念はハイセイコーの引退後も変わらないと述べている<ref>[[#栗林1982|栗林1982]]、51頁。</ref>。
*[[タマモストロング]]([[マーチステークス]]、[[かしわ記念]]など交流重賞4勝)

*[[シルクムーンライト]]([[北九州記念]])
増沢は、首を下げたまま走るハイセイコーとは騎乗時に人馬一体の感覚を味わえなかったとし、「決して乗りやすい馬ではなかった」と評している<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、123-124頁。</ref>。一方鈴木勝太郎は、クビを少し下げてひたすら前に進もうとする走行フォームが懸命に走っているという印象を人々に与え、共感を呼んだのではないかと述べている<ref name="阿部2000-62"/>。
このほかにも[[障害競走]]で活躍したロンゲット、地方競馬の重賞常連の[[ハナセール]]、[[ヤマノセイコー]]、[[ミヤシロブルボン]]などの活躍馬を輩出している。

増沢は騎乗した16戦全てで先行策をとった。増沢はハイセイコーの引退後、「1回くらいは追い込んでみてもよかったのではと思う」と述べつつ、それを実行しなかった理由について、「あれで負けたのなら、仕方がない」とファンが納得するレースをするために手堅い戦法をとらざるを得ず、「実験」ができなかったと弁明している<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、124頁。</ref>。

=== 投票における評価 ===
1991年発行の『[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]』が競馬関係者を対象に行ったアンケートでは、「思い出の馬」部門で第5位に選ばれた<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、46頁。</ref>{{#tag:ref|このアンケートには「最強馬部門」もあったが、ハイセイコーは票を獲得していない。|group="†"}}。また、[[日本馬主協会連合会]]が馬主に向けて行ったアンケートでは、「一番好きな競走馬」で第1位<ref name="joa">[[#日本馬主協会連合会40年史|日本馬主協会連合会40年史]]、198頁。</ref>、「一番印象に残る競走馬」で第4位<ref>[[#日本馬主協会連合会40年史|日本馬主協会連合会40年史]]、199頁。</ref>、「一番の名馬と思う競走馬」で第6位<ref name="joa" />、さらに「一番印象に残っているレース」で「ハイセイコーが出走した全レース」が第4位に選ばれた<ref>[[#日本馬主協会連合会40年史|日本馬主協会連合会40年史]]、195頁。</ref>{{#tag:ref|ほか11位タイに「ハイセイコーvsタケホープの第40回日本ダービー」。上位3つは、[[トウカイテイオー]]の[[第38回有馬記念]]、[[オグリキャップ]]の[[第35回有馬記念]]、[[シンザン]]の[[第10回有馬記念]]と、いずれも単独の競走であった。14位タイに「オグリキャップが出走した全レース」が入っている。|group="†"}}。

『[[優駿]]』が1985年に読者を対象に行った歴代最強馬を問うアンケートでは、第18位に選出されている<ref>[[#『優駿』1985年9月号|『優駿』1985年9月号]]、130-131頁。</ref>。2000年にJRAが行った「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では15302票票を獲得し、8位となった。

== タケホープとのライバル関係 ==
ハイセイコーの競走生活においては、タケホープとのライバル関係が注目を集めた<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、37頁。</ref>。ハイセイコーの出走した東京優駿、菊花賞、天皇賞(春)を勝ったタケホープは、ハイセイコーの終生のライバルと呼ばれ、ハイセイコーのファンからは敵役として憎まれた<ref name="大井が生んだ怪物">{{Cite web|author = 原良馬|date = 2008-09-15|url = http://jra-van.jp/fun/relay/20080915.html|title = 第17回 心に残る名馬たちNo.5 タケホープ|work = 競馬かわらVAN|publisher = JRAシステムサービス |language = 日本語|accessdate = 2011年11月5日}}</ref>。

タケホープが東京優駿を勝った時、多くの者は「無欲のチャンレンジが生んだフロック勝ち」と受けとめた<ref>[[#江面2005|江面2005]]、115頁。</ref>。同馬の管理調教師であった稲葉幸夫も、ハイセイコーに勝てるという気持ちをさほど強くは抱いておらず、レース後には「あれだけの人気馬を負かしてしまって、すまないなあ」という思いすらしたという<ref name="赤木1975-108">[[#赤木1975|赤木1975]]、108頁。</ref>。しかし東京優駿をフロックで勝ったという見方に稲葉は反発し、菊花賞出走時には「ハイセイコーを負かして、なんとか、フロックのダービー馬という声を消したい」と願うようになっていた<ref name="赤木1975-108"/>。タケホープは菊花賞も勝ったことでようやくハイセイコーのライバルとして認知されるようになったが、同時に「アイドルホースの仇役」という役回りも担うこととなった<ref>[[#江面2005|江面2005]]、115-116頁。</ref>。

タケホープの主戦騎手を務めた[[嶋田功]]は、東京優駿を前に受けた取材で「ハイセイコーも4本脚なら、タケホープもおなじ4本脚だ」とコメントした。その場に居合わせたという渡辺敬一郎によると、ふざけた口調ながらも嶋田の眼は笑っていなかった<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、68頁。</ref>。当時タケホープの体調は非常によく、嶋田は厩舎関係者に「勝てる」と宣言していた<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、69頁。</ref>。嶋田は当初、東京優駿ではまだ勝てないだろうと考えていたが、ハイセイコーがNHK杯に出走すると知って「これで東京優駿まで余力が残らない」と推測し、しめたという気持ちになったという<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、70頁。</ref>。

菊花賞以降、タケホープは出走したすべてのレースでハイセイコーと対戦した。山野浩一<ref name="山野1978-14"/>や江面弘也<ref name="江面2005-116">[[#江面2005|江面2005]]、116頁。</ref>は、ハイセイコー陣営が意図的にタケホープに合わせたローテーションを組んだのだと述べている。1973年(菊花賞の後)<ref name="さらばハイセイコー-8"/>と、1974年(有馬記念の後)<ref name="河村2011-79"/>には、2頭による[[マッチレース]]が企画されたが、実現には至らなかった。

対戦を重ねるうちに、タケホープは長距離で、ハイセイコーは中距離で強さを発揮することが明らかとなっていった。稲葉はタケホープが天皇賞(春)を勝った後、同馬について、父インディアナの個性を受け継いだステイヤーで「2400m以上ならどの馬にも負けない自信を持ってます」とコメントしている<ref name="さらばハイセイコー-55">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、55頁。</ref>。東京優駿と菊花賞、3200mの天皇賞をすべて勝ったのは[[シンザン]]以来史上2頭目であった<ref name="山野1978-14"/>。一方、ハイセイコーについては2000m以下のレースで14戦12勝2着2回と連対を外したことがないにもかかわらず2400m以上のレースでは一度も勝ったことがなく「極端に弱かった」ことが指摘されており<ref>[[#競馬モンスター列伝|競馬モンスター列伝]]、192頁。</ref>、鈴木勝太郎も前述のように東京優駿の敗因として距離が長すぎた可能性を挙げ<ref name="横尾2000-37"/><ref name="横尾1986-23-24"/>、天皇賞(春)で敗れた後には「やっぱり距離のカベとしかいいようがない」とコメントしている<ref name="さらばハイセイコー-55"/>。嶋田功はハイセイコーに対し、「中距離戦では絶対にかなわない」という思いを抱いていたと述べている<ref name="さらばハイセイコー-8"/>。阿部珠樹は、距離別のレース体系が整備された時代であったなら、ハイセイコーはマイルから中距離のレースに出走し続けただろうと推測している<ref name="阿部2001-61"/>。

1974年1月に行われたアメリカジョッキークラブカップがタケホープ1着、ハイセイコー9着という結果に終わり、3月になって中山記念に2頭が出走したとき、嶋田功は「今度はタケホープが1番人気になるだろう」と予想していた。しかし1番人気になったのはハイセイコーで、嶋田は「どうしてあの馬ばかりが人気を集めるのか」と憤りを覚えたという<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、50頁。</ref>。2頭の関係は「人気のハイセイコー、実力のタケホープ」と評された<ref>{{Cite web|author = |date = |url = http://www.jra.go.jp/50th/html/gjpro/06.html|title = 昭和48年日本ダービー タケホープ|work = 思い出の名レース|publisher = 日本中央競馬会 |language = 日本語|accessdate = 2011年11月13日}}</ref>。

2頭の引退レースとなった1974年の有馬記念では、ハイセイコーのファンはタニノチカラに敗れたにもかかわらずタケホープに先着したことを喜び<ref name="江面2005-116"/>、両陣営もレース後には優勝したタニノチカラのことではなく互いの着順の先後についてコメントした<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、66頁。</ref>。

タケホープが東京優駿に出走できたのは、その前に出走した[[日本の競馬の競走体系#中央競馬|条件戦]]の4歳中距離特別を勝って獲得賞金額を上積みしたからであった。この時、2着のサクラチェスとの着差はハナ差であったため、「サクラチェスの鼻がもう少し長かったなら、わが国の競馬の歴史が変わっていただろう」ともいわれる<ref>[[#山本2005|山本2005]]、163頁。</ref>。後にハイセイコーの初年度産駒[[カツラノハイセイコ]]が父の勝てなかった東京優駿を勝った時、2着となったリンドプルバンには嶋田が騎乗しており、東京優駿の前に出走した4歳中距離特別で勝利を収めていた。江面弘也はこれを「競馬の神の粋な演出」と表現している<ref name="江面2005-116"/>。

種牡馬としては、ハイセイコーが重賞優勝馬を複数輩出したのに対し、タケホープは重賞優勝馬を送り出すことができなかった。江面弘也は、ハイセイコーが産駒にスピードを伝えた一方、タケホープは「スピード化という時代の波に飲み込まれ」る形になったと分析している<ref name="江面2005-116"/>。

== 血統 ==
父の[[チャイナロック]]はハイセイコーの誕生までに[[タケシバオー]]([[1969年]][[天皇賞|天皇賞(春)]]優勝)、[[メジロタイヨウ]](1969年天皇(秋)優勝)、[[アカネテンリュウ]](1969年[[菊花賞]]優勝)と3頭の[[八大競走]]優勝馬を輩出し、[[1973年]]には[[中央競馬]]の[[リーディングサイアー]]を獲得した[[種牡馬]]である。

母のハイユウは競走馬時代に[[地方競馬]]([[南関東公営競馬|南関東]])で16勝を挙げ<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34頁。</ref>、レコードタイムを3度記録した<ref>{{Cite web|author = 柏木集保|date = |url = http://www.nikkankeiba.com/jra50/09/09.html|title = 日刊競馬で振り返る名馬 - ハイセイコー|work = |publisher = [[日刊競馬]] |language = 日本語|accessdate = 2011年11月7日}}</ref>馬であった。祖母ダルモーガンは{{和暦|1952}}に輸入された「[[豪サラ#1950年代の豪サラ|豪サラ]]」<ref>[[#調教師の本Ⅱ|調教師の本Ⅱ]]、181頁。</ref>で、産駒にはハイユウのほか、ショウゲツ([[CBC賞]]優勝)やオオクラ(天皇賞(春)2着)がいる。

阿部珠樹は、[[ブルードメアサイアー]]のカリムは短距離で本領を発揮した馬で、ハイセイコーの競走成績(2000mの京都新聞杯を除き、敗れたレースの距離がすべて2100m以上)からはカリムの影響が明確に読み取れると分析している<ref name="阿部2001-61"/>。

=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = ハイセイコー
|inf = ([[ハイペリオン系]]/Son-in-Law4×5=9.38%)
|f = *[[チャイナロック]]<br />China Rock<br />1953 栃栗毛
|m = ハイユウ<br />1961 黒鹿毛
|ff = Rockfella<br />1941 黒鹿毛
|fm = May Wong<br />1934 栗毛
|mf = *カリム<br />Karim<br />1953 鹿毛
|mm = *ダルモーガン<br />Dalmogan<br />1950 黒鹿毛
|fff = [[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]
|ffm = Rockfel
|fmf = Rustom Pasha
|fmm = Wezzan
|mff = [[ネアルコ|Nearco]]
|mfm = Skylarking
|mmf = Beau Son
|mmm = Reticent
|ffff = [[ゲインズバラ (競走馬)|Gainsborough]]
|fffm = [[シリーン (1919年生)|Selene]]
|ffmf = Felstead
|ffmm = Rockliffe
|fmff = [[サンインロー|Son-in-Law]]
|fmfm = Cos
|fmmf = Friar Marcus
|fmmm = Woodsprite
|mfff = [[ファロス (競走馬)|Pharos]]
|mffm = Nogara
|mfmf = Mirza
|mfmm = Jennie
|mmff = [[ボーペール|Beau Pere]]
|mmfm = Banita
|mmmf = Hua
|mmmm = Timid [[ファミリーナンバー|F-No.]][[12号族|12-g]]
|}}

=== 兄弟 ===
* マイデン(1967年生、牡、父リンボー) - 35戦3勝。
* ハクセイコー(1968年生、牡、父ダイハード) - 14戦6勝。東京ダービー3着。種牡馬。
* ハイエース(1973年生、牡、父ラークスパー) - 52戦8勝。
* サイセイコー(1974年生、牡、父チャイナロック) - 未出走
* アアセイコー(1977年生、牡、父ファラモンド) - 28戦7勝。種牡馬


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>

=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}

=== 出典 ===
{{Reflist|3|colwidth=30em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
*赤木駿介『実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬』勁文社、1975年
|author = 青木玲
*大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』ゼスト、1997年 ISBN 4-916090-52-7
|year = 1995
*[[東京スポーツ]] 2010年5月27日号(同年5月26日発行)
|title = 競走馬の文化史 優駿になれなかった馬たちへ
|publisher = [[筑摩書房]]
|isbn = 4-480-87273-6
|ref = 青木1995
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[赤木駿介]]
|year = 1975
|title = 実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬
|publisher = [[勁文社]]
|ref = 赤木1975
}}
*{{Cite book|和書
|author = 朝日新聞論説委員室
|year = 2011
|title = 天声人語 2010年7月-12月
|publisher = [[朝日新聞出版]]
|isbn = 4022508469
|ref = 朝日新聞論説委員室2011
}}
* {{Cite journal|和書
|author = 阿部珠樹
|year = 2001
|month =
|title = サラブレッドヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち ハイセイコー
|journal = [[優駿]]2001年4月号
|pages = 58-63頁
|publisher = 中央競馬ピーアール・センター
|ref = 阿部2001
}}
*{{Cite book|和書
|author = 阿部珠樹
|year = 2003
|title = 有馬記念物語 世界最大のレースの魅力を追う
|series = プレイブックスインテリジェンス
|publisher = [[青春出版社]]
|isbn = 4413040805
|ref = 阿部2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[井崎脩五郎]]
|year = 1993
|title = 幸運は駿馬のたてがみ
|publisher = [[双葉社]]
|ref = 井崎1993
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* {{Cite journal|和書
|author = 岩川隆
|year = 1991
|month =
|title = オグリキャップとハイセイコー
|journal = [[優駿]]1991年3月号
|pages = 32-41頁
|publisher = 中央競馬ピーアール・センター
|ref = 岩川1991
}}
* {{Cite journal|和書
|author = 江面弘也
|year = 2005
|month =
|title = 珠玉の好敵手 第1回 ハイセイコーVSタケホープ
|journal = [[サラブレ]]2005年2月号
|pages = 111-117頁
|publisher = [[エンターブレイン]]
|ref = 江面2005
}}
* {{Cite journal|和書
|author = 江面弘也
|year = 2011
|month =
|title = 偉大なる顕彰馬の蹄跡-日本競馬に歴史を刻んだ名馬たち- vol.14 ハイセイコー
|journal = 優駿2011年12月号
|pages = 122-125頁
|publisher = 中央競馬ピーアール・センター
|ref = 江面2011
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[大川慶次郎]]
|year = 1997
|title = 大川慶次郎殿堂馬を語る
|publisher = ゼスト
|isbn = 4916090527
|ref = 大川1997
}}
*{{Cite book|和書
|author = 大川慶次郎
|year = 1998
|title = 大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生
|publisher = 日本短波放送
|isbn = 4931367291
|ref = 大川1998
}}
**この記事では「12章 昭和40年代後半の優駿群像」(229-250頁)を参照。
**文庫版あり(角川書店、2000年、ISBN 4043542011)
*{{Cite web
|author = [[柏木集保]]
|date =
|url = http://www.nikkankeiba.com/jra50/09/09.html
|title = 日刊競馬で振り返る名馬 - ハイセイコー
|work =
|publisher = [[日刊競馬]]
|language = 日本語
|accessdate = 2011年11月7日
}}
* {{Cite journal|和書
|author = [[河村清明]]
|year = 2011
|month =
|title = ハイセイコーブームの全貌
|journal = [[競馬最強の法則]]2011年2月号
|pages = 77-81頁
|publisher = [[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]
|ref = 河村2011
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[共同通信社]]
|year = 2007
|title = 日本人はどう走ってきたのか 団塊世代の「夢」の検証
|publisher = [[講談社]]
|isbn = 4062141574
|ref = 共同通信社2007
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|year = 1982
|month =
|title = 証言 - 無敗馬がダービーで敗れた日
|journal = [[優駿]]1982年6月号
|pages = 48-51頁
|publisher = 中央競馬ピーアール・センター
|ref = 栗林1982
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|author = 後藤正俊
|year = 2000
|month =
|title = [追悼] ハイセイコー さらば"昭和の怪物"よ [種牡馬時代] サイヤーとしても見せた類い稀な怪物ぶり
|journal = [[優駿]]2000年7月号
|pages = 38-39頁
|publisher = 中央競馬ピーアール・センター
|ref = 後藤2000
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|month =
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|pages = 48-53頁
|publisher = [[教育出版]]
|ref = 高見沢1995
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|ref = 遠山1993
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|work = 重賞名馬ストーリー
|publisher = [[大井競馬場|東京シティ競馬]]
|language = 日本語
|accessdate = 2011年10月26日
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|title = 競馬よ! 夢とロマンを取り戻せ
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|month =
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|year = 2005
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|publisher = 東邦出版
|isbn = 4809404617
|ref = 東邦出版(編)2005
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* {{Cite journal|和書
|author =
|year =
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|title =
|journal = [[優駿]]
|issue = 1974年2月号
|pages =
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|ref = 『優駿』1974年2月号
}}
* {{Cite journal|和書
|author =
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|month =
|title =
|journal = 優駿
|issue = 1974年3月号
|pages =
|publisher = [[中央競馬ピーアール・センター]]
|ref = 『優駿』1974年3月号
}}
* {{Cite journal|和書
|author =
|year =
|month =
|title =
|journal = 優駿
|issue = 1974年12月号
|pages =
|publisher = [[中央競馬ピーアール・センター]]
|ref = 『優駿』1974年12月号
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*{{Cite book|和書
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|year = 1983
|title = 日本ダービー50年史
|publisher = 日本中央競馬会
|isbn =
|ref = 中央競馬ピーアール・センター(編)1983
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* {{Cite journal|和書
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|issue = 1985年9月号
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* {{Cite journal|和書
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|publisher = 産業経済新聞社
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*{{Cite book|和書
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*{{Cite book|和書
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|year = 2005
|title = 日本中央競馬会50年史
|publisher = 日本中央競馬会
|isbn =
|ref = 日本中央競馬会50年史
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*{{Cite book|和書
|year = 2005
|title = 競馬モンスター列伝 ターフに降臨した"絶対王者"たちの系譜!
|publisher = [[洋泉社]]
|series = 洋泉社MOOK ムックy047
|isbn = 4896919564
|ref = 競馬モンスター列伝
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*{{Cite book|和書
== 関連項目 ==
|year = 2010
*[[鈴木勝太郎]]
|title = ありがとうオグリキャップ
*[[増沢末夫]]
|publisher = 産業経済新聞社
*[[高橋三郎]]
|series = Gallop臨時増刊
*[[岩崎誠一]](競輪界のハイセイコーと言われた元[[競輪選手]])
|isbn =
|ref = ありがとうオグリキャップ
}}
*{{Cite book|和書
|year = 2010
|title = ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち
|publisher = 朝日新聞出版
|series = アエラムック AERA Sports
|isbn = 4022744278
|ref = ニッポンの名馬
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*{{Cite web
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|url = http://www.jra.go.jp/50th/html/gjpro/06.html
|title = 昭和48年日本ダービー タケホープ
|work = 思い出の名レース
|publisher = 日本中央競馬会
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|accessdate = 2011年11月13日
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*{{Cite web
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|url = http://column.keibalab.jp/kaitai/263.html
|title = 2010年9月19日セントライト記念/ローズS
|work = 現役関係者コラム|publisher = KEIBA LAB
|language = 日本語
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*{{Cite web
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|date =
|url = http://www.equinst.go.jp/JSES/qanda/qanda-naiyo1.html
|title = ◆馬と人の心臓の比較した資料が欲しい
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|publisher = 日本ウマ科学会
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|accessdate = 2011年11月3日
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/09.html 時代を駆け抜けた名馬たち 顕彰馬ハイセイコー 史上空前の人気馬] - [[日本中央競馬会]]
*[http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/09.html 時代を駆け抜けた名馬たち 顕彰馬ハイセイコー 史上空前の人気馬] - [[日本中央競馬会]]
*[http://www.kyushuotani.ac.jp/m3/jo/wakaba/n38/haiseiko.htm ハイセイコー研究―メディアから見るハイセイコー現象―]{{リンク切れ|date=2011年7月}}


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2011年11月30日 (水) 11:42時点における版

ハイセイコー
ファイル:Statue of Haiseiko.jpg
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
白斑 流星、右後一白
生誕 1970年3月6日
死没 2000年5月4日(30歳没・旧31歳)
チャイナロック
ハイユウ
母の父 カリム
生国 日本の旗 日本北海道新冠町
生産者 武田牧場
馬主 (株)王優
→ホースマンクラブ
調教師 伊藤正美(大井
鈴木勝太郎東京
厩務員 山本武夫(大井)
→大場博(東京)
競走成績
生涯成績 22戦13勝
地方競馬6戦6勝)
中央競馬16戦7勝)
獲得賞金 2億1956万6600円
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ハイセイコー日本競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年顕彰馬に選出。

※馬齢は旧表記に統一する。

生涯

誕生・デビュー前

1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った[1]。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きくひときわ目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った[2]。夏になると武田は、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった[3][4]

ハイセイコーは母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める[5](株)王優に所有され、ハイユウを管理していた大井競馬場調教師伊藤正美によって管理されることになった[3]1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた[6]。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている[6]1972年(昭和47年)5月、担当厩務員の山本武夫はハイセイコーについて、金沢競馬場の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの能力試験を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った[7]

競走馬時代

3歳時(1972年)

1972年6月にデビューする予定であったが、ハイセイコーとの対戦を避けようと出走を回避する馬が続出し、予定していたレースが不成立となった[6]。翌7月12日大井競馬場で行われた未出走戦でデビュー。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコード59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけ優勝した。従来のレコードはヒカルタカイ南関東公営競馬の初代三冠馬中央競馬に移籍し天皇賞(春)宝塚記念を優勝)が記録した1分0秒3で、この記録を騎乗していた辻野豊に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された[8]。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランス取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している[6]

その後11月末にかけ、ハイセイコーは常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成した。4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した。 5戦目の白菊特別を勝った頃から、調教師の伊藤は「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった[3]

4歳時(1973年)

中央競馬へ移籍

1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円[† 1]で売却された。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており[2]、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた[5]。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった[9]競馬評論家大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった[10]

1月16日、ハイセイコーは東京競馬場鈴木勝太郎厩舎に入厩した[3][11]。この時ハイセイコーは、初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せた。この用心深い性格が、後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる[12]。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった[13]

弥生賞・スプリングステークス
ファイル:Nakayama-Racecourse05.jpg
中山競馬場に立つハイセイコー像

陣営は移籍初戦として東京4歳ステークス(2月11日に東京競馬場で施行)に出走させようとしたが叶わず[14][† 2]3月4日弥生賞が移籍初戦となった。

「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は、当初から大きな話題を集め[16]、弥生賞当日、中山競馬場にはおよそ12万3000人の観客が入った。発送前、ハイセイコーがパドックから競走の行われるコースへ移動した際には、観客の一部が観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも起こっている。これはあまりの人の多さに、金網近くにいた観客が苦しくなって起こした行動であった[17]。この現象について増沢は、「長いことこの商売やってるけど、あんなこと後にも先にも二度とないんじゃないかな」と語っている[18]弥生賞でハイセイコーの人気を目の当たりにした増沢は、「この人気にこたえなくては、いけないんだ」と騎手になって初めてプレッシャーを感じたという[19]

陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めて[† 3]であったため若干の不安も抱いていた[21]。レースが始まると、調教の時とは異なり走りそうな手応えがなく、増沢は「勝てないのではないか」という思いに襲われたという[22]。序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは、単勝1番人気に応える形で勝ったものの、終始増沢に前進を促され、増沢に手応えを感じさせないままに終わった[23]レースぶりは陣営に不安を与え[24]、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された[25]

弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週3月25日スプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手安田伊佐夫が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した[26]。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された[27]。増沢はこの頃には「みんなが大騒ぎするほど強い馬なんだろうか」と思うようになっていたが、同時にハイセイコーの、実力に見合わないほどの人気の高まりも感じており、「勝たなければ、何といわれるかわからない」とますます重圧を感じるようになっていったという[28]

スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した[29]。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」[30]としつつ、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」評し、「五冠王シンザンのイメージがオーバーラップしつつある」と述べた[31]。これに対しシンザンの管理調教師であった武田文吾は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに"5冠"を制しているのだ」と反論した[32]

陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)点を認識した[33]。調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと指摘した[34]。対策として陣営は、ハミ吊り(ハミの上に舌が乗らないよう、ハミを上顎に引き上げる馬具[35])を装着することにした[36]

皐月賞

4月15日中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞に出走。当日は雨で馬場状態は重となった。ハイセイコーが初めて経験する[37]芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれた[38][† 4]が、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり[† 5]、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した[42]。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった[4][43]。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった[44]。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した[45]

皐月賞優勝によってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え[5][46]、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった[47]。同時にマスコミはハイセイコーの強さを煽り立て[5]、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになった[48]。山野浩一は、ハイセイコーの人気と実力とが調和を保っていたのは皐月賞の頃までであったと分析している[47]

NHK杯
NHK杯当日、東京競馬場には中央競馬史上最多(当時)の16万9174人が入場した

皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営はローテーションを巡って、具体的には東京優駿の前にトライアルNHK杯に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した[49]。大川慶次郎は、2月に東京4歳ステークスに出走できなかったことの影響の大きさを指摘している[50]

NHK杯当日、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には国鉄と私鉄の駅に、東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた[43][17]。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった[51][† 6]。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった[53]。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し[43][54]、先頭に立てないままゴールまで残り200メートルとなると、レースを実況していたフジテレビのアナウンサー盛山毅は「ハイセイコー敗れるのか、あと200、あと200しかないよ!」と口走った[5]。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた[55]。このレースでのハイセイコーの単勝支持率(全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合)は83.5%で[43][17]、配当金は単勝、複勝とも100円の元返しとなった[43][56]

鈴木勝太郎の子で調教助手を務めていた鈴木康弘は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている[57]

このレースで増沢は、ハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」[† 7]という印象を抱いた。2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった[58]。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出した[17]が、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた[59]。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し[60]、獣医師は疲労の蓄積を指摘した[61]

NHK杯に勝ったことでハイセイコーの人気はピークを迎え[48]、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した[62]。阿部珠樹は、ファンの間に「ハイセイコーは何があっても負けない」という宗教的信念が生まれたと当時を振り返っている[63]

東京優駿

東京優駿当日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた[64]。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時[† 8])の66.6%に達した[64][65]。このレースで増沢は、展開次第で逃げることも視野に入れつつ先行策をとって3、4番手を進もうとしたが、第1コーナー手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ[66]、さらにインコースに入りすぎてしまった[67]。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、向こう正面でハイセイコーを馬群の外へ誘導した[68]第3コーナーに差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、タケホープイチフジイサミに交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた[69]。赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにし、東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれた[70]。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの視聴率はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった[5][71]

レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し[64][72]、増沢はレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした[64][65]。この時増沢は「自分の乗り方にミスはなかったと思う」とも述べていた[73]が、後に自らの騎乗について「1コーナーではさまれて、向正面では内に入り過ぎてしまった。あれだけの人気馬だから、もっといいポジションをとらなければいけないと思って、向正面で苦労しながら外に持ち出して行った。考えてみれば行くのが早すぎた。」と分析している[67]。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げている[74]

鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけたときに「もう、だめだ、5着もあぶないだろう……」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている[75]。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた栗田勝はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中でもっとも実力があるのはハイセイコーだと述べた[76]

レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られた[77]が、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった[78]

東京優駿の敗戦は不敗神話の崩壊[79]、「怪物性」が馬脚を現した[63]、偶像が虚像と化した[65]と評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた[80]。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく[48][81][82]、むしろ高まっていった[63][79]。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べている[83]

京都新聞杯・菊花賞

夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである。また、北海道の調教コースは半径が小さく、大型馬のハイセイコーが走ると脚を痛める危険もあった[84]。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができた[85]

秋になると陣営はクラシック最後の一冠である菊花賞を目標に据え、前哨戦である京都新聞杯に出走させることを決定し、9月18日にハイセイコーを東京競馬場から栗東トレーニングセンターへ輸送した[86]10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したハイセイコーであったが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、ホウシュウエイトがインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした[87]。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る京都競馬場のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした[88]

11月11日、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた[89]。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5馬身から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、ハナ差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた[90]。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功が「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていた[91]が、調教師の稲葉幸夫によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた[92]11月14日、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った[93]

有馬記念

12月16日、ハイセイコーは有馬記念に出走した[94](タケホープは出走を回避)。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走るタニノチカラベルワイドをマークした[95]結果、逃げたニットウチドリや同馬を第3コーナーでいち早く追いかけたストロングエイトを交わすことができず、3着に敗れた[96](優勝馬はストロングエイト、2着はニットウチドリ)。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした[97]。タニノチカラに騎乗した田島日出雄は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で[98]、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた[99]。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し[100]スポーツニッポン記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した[101]

1974年の優駿賞年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「大衆賞」が与えられ表彰された[102]。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった[103]

5歳時(1974年)

陣営は1974年(昭和49年)の初戦として1月20日アメリカジョッキークラブカップを選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた[104]。スポーツニッポンの記者蔵田峻によるとパドックを周回するハイセイコーを見て、蔵田自身を含め複数のマスコミ関係者がハイセイコーの体調は良くないと判断したという[105]

3月10日に出走した中山記念でも1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちした。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた[106]。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという[107]

中山記念の後、ハイセイコーは天皇賞(春)に備えて4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送された。鈴木康弘によるとハイセイコーの体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員がストライキを起こし、レースの施行日が一週間延期された間に調子を落としてしまったという[108]。一方、鈴木勝太郎は後に、この時のハイセイコーはレース出走が続いたことで疲労が蓄積して「最悪のデキ」にあり、「正直出走させたくなかった」と振り返っている[109]5月5日に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず[† 9]、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた[111]。前年の11月20日に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、ワシントンDCインターナショナルなどに出走するという計画[112]は、この敗戦により中止された[113]

6月2日宝塚記念に出走。このレースでハイセイコーは、デビュー以来始めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという[114]。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。増沢は、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている[115]。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした[116]。タケホープは天皇賞(春)出走後に屈腱炎を発症し、休養に入っていた[117]

ハイセイコーは中京競馬場で、ファンの歓迎を受けた

さらに同月23日、高松宮杯に出走。鈴木康弘によると、当初は宝塚記念出走後すぐに東京競馬場へ戻る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せを行うべく出走に踏み切ったという[118]。レース当日、中京競馬場には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入り[119]、厩務員の大場が弥生賞とも比べものにならないほどだったと語る歓迎を受けた[120]。増沢も後に、「今までもずいぶん騒がれました。でもこんな大歓声を聞いたのは初めてです」[121]、「感激した。あのときのことを、いまでも思い出すと、興奮するくらいだ」と振り返っている[122]。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった[123]。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め[124]、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した[125]。増沢はゴール前で2着馬アイテイエタンが追い上げる蹄音が聞こえ、肝を冷やしたという[126]。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した[127]。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、メジロアサマの記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった[128]

6月27日にハイセイコーは東京競馬場へ戻り[129]、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け[130]、秋になって10月13日京都大賞典に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという負担重量が響く形で4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400万円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた[131]

京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営[132]は、天皇賞(秋)へのステップレースとして11月9日のオープン戦を選び、このレースでハイセイコーは2着となった。しかしレース後に鼻出血が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった[133]。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた[134]。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果[† 10]からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた[135]

12月15日、引退レースの有馬記念に出走。タニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った[136]。増沢はこのレースについて、体調がいま一つであったため、2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている[137]。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた[138]

引退式

1975年(昭和50年)1月6日、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した[139]。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のこと[140]で、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった[141]

引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で、「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった[142]。「ハイセイコーとファンの集い」で増沢は11月にレコード吹き込みを済ませていた[143]楽曲『さらばハイセイコー』を披露した[142]。この楽曲は引退式でも放送された[144]

『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巌が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章をポリドール・レコード関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、猪俣公章が作曲を担当した[18]。1975年1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオのヒットチャートで1位を獲得[145]し、50万枚を売り上げた[146]。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた[146]

翌7日、ハイセイコーは北海道新冠町の明和牧場で種牡馬生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ[147]、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した[148]

種牡馬時代

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初年度産駒のカツラノハイセイコ。ハイセイコーの勝てなかった東京優駿を勝った

ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった[149][150]。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として、競馬ファンと馬産地とを結びつけたことを挙げている。それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった[151]。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意し、ファンの訪問に備えた[152]1976年(昭和51年)公開の映画『トラック野郎・望郷一番星』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた[153]

ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の繁殖牝馬と交配した。小柄な馬が多く生まれたこと[154]や産駒の出来不出来の差が激しい[155]といった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していったが、初年度の産駒からカツラノハイセイコ(東京優駿、天皇賞(春)優勝)などの活躍馬が複数現れたことで人気が高まり、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した[154]。血統研究家の吉沢譲治は、「もしもカツラノハイセイコが出ていなかったら、その後のハイセイコーがどうなっていたか分からない」と述べている[156]。カツラノハイセイコの活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられ、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられた[157]。同馬を管理した庄野穂積のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到していたという[157]。1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた[146]

1980年代に入り世界的な広がりを見せていたノーザンダンサーの血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める[156]。散発的ではあったが相変わらず活躍馬を出し、中央・地方を問わず産駒が走るハイセイコーの人気は、依然生産者の間では高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、種牡馬ハイセイコーは終わったという見方が広まっていった[156]。しかし1989年にサンドピアリスエリザベス女王杯に優勝すると、1990年にはハクタイセイ皐月賞親子制覇を達成、牝駒のケリーバッグ桜花賞で2着と健闘した。また地方競馬でもアウトランセイコーが大井の黒潮盃を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばを回復した。この現象について、明和牧場代表の国宇守は「牧草が変わったわけでもなければ、世話する人が変わったわけでもない。環境は昔からみんな同じです。どうしてなのか、私たちにもわかりません。しかし、そこがまた怪物の怪物たるゆえんなのでしょう」と述べている[156]。また阿部珠樹は、当時のハイセイコーの「かなり低下していた配合相手の水準を考えると、奇跡的なことといっていいだろう」と評価している[158]。1990年、ハイセイコーは地方競馬のリーディングサイアーを獲得した。

年度別の種付け頭数および誕生産駒数 [159]
年度 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996
種付け頭数 72 44 38 29 65 64 71 70 50 75 63 61 57 57 37 45 40 43 17 3 1 -
誕生産駒数 - 57 32 26 19 40 48 58 45 34 54 51 41 46 36 24 34 29 19 9 1 0

顕彰馬に選出

1984年には競馬の殿堂顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した大川慶次郎は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が選定の決め手になったとしている[160]

晩年

ハイセイコーの墓(ビッグレッドファーム明和)

ハイセイコーは1997年の交配を最後に種牡馬を引退し[161]、明和牧場で余生を過ごした。2000年5月4日午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された[162]。競走馬時代の主戦騎手で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその場にしばらく無言で佇んだという[162]。5月18日、新冠町のレ・コード館で「お別れの会」が催され、およそ500人が参列した[163]

ハイセイコーの墓は最期を迎えたビッグレッドファーム明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と記されている。

死後、道の駅サラブレッドロード新冠(新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には銅像が建立され、ハイセイコーが大井競馬場時代に優勝した青雲賞は、2001年より「ハイセイコー記念」と改称された[6]。また、2000年8月には「さらばハイセイコー」が追悼版CDとして再発売された。2004年2月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中山競馬場で施行された。

成績

競走成績

年月日 競馬場 競走名


人気 着順 距離 タイム 騎手 着差 勝ち馬/(2着馬)
1972 7. 12 大井 未出走 6 3 3 1人 1着 ダ1000m(重) R 59.4 辻野豊 8馬身 (ジプシーダンサー)
26 大井 53万上 8 5 5 1人 1着 ダ1000m(良) 1.00.5 福永二三雄 大差 (セッテベロナ)
9. 20 大井 秋風特別 7 4 4 1人 1着 ダ1200m(良) 1.12.4 福永二三雄 7馬身 (トサエンド)
10. 9 大井 ゴールドジュニア 5 1 1 1人 1着 ダ1400m(良) R 1.24.9 福永二三雄 大差 ゴールドイーグル
11. 11 大井 白菊特別 8 5 5 1人 1着 ダ1400m(重) 1.25.8 高橋三郎 7馬身 (カヤエイコウ)
27 大井 青雲賞 10 8 10 1人 1着 ダ1600m(不) 1.39.2 高橋三郎 7馬身 (ゴールデンタテヤマ)
1973 3. 4 中山 弥生賞 10 6 6 1人 1着 芝1800m(良) 1.50.9 増沢末夫 1 3/4馬身 (ニューサント)
25 中山 スプリングS 10 3 3 1人 1着 芝1800m(良) 1.51.0 増沢末夫 2 1/2馬身 (クリオンワード)
4. 15 中山 皐月賞 16 4 7 1人 1着 芝2000m(重) 2.06.7 増沢末夫 2 1/2馬身 (カネイコマ)
5. 6 東京 NHK杯 14 5 7 1人 1着 芝2000m(良) 2.02.3 増沢末夫 アタマ (カネイコマ)
27 東京 東京優駿 27 2 5 1人 3着 芝2400m(良) 2.28.7 増沢末夫 -0.9秒 タケホープ
10. 21 京都 京都新聞杯 13 3 3 1人 2着 芝2000m(不) 2.08.3 増沢末夫 -0.1秒 トーヨーチカラ
11. 11 京都 菊花賞 15 3 4 1人 2着 芝3000m(稍) 3.14.2 増沢末夫 -0.0秒 タケホープ
12. 16 中山 有馬記念 14 7 12 1人 3着 芝2500m(良) 2.36.6 増沢末夫 -0.2秒 ストロングエイト
1974 1. 20 中山 AJCC 10 3 3 1人 9着 芝2400m(良) 2.29.6 増沢末夫 -2.1秒 タケホープ
3. 10 中山 中山記念 9 7 7 1人 1着 芝1800m(不) 1.52.1 増沢末夫 大差 (トーヨーアサヒ)
5. 5 京都 天皇賞(春) 15 3 6 1人 6着 芝3200m(良) 3.23.6 増沢末夫 -1.4秒 タケホープ
6. 2 阪神 宝塚記念 11 8 10 2人 1着 芝2200m(良) R 2.12.9 増沢末夫 5馬身 (クリオンワード)
23 中京 高松宮杯 10 5 5 1人 1着 芝2000m(良) 2.00.4 増沢末夫 1 3/4馬身 (アイテイエタン)
10. 13 京都 京都大賞典 11 6 6 2人 4着 芝2400m(良) 2.30.3 増沢末夫 -0.7秒 タニノチカラ
11. 9 東京 オープン 8 5 5 1人 2着 芝1800m(良) 1.50.0 増沢末夫 -0.3秒 ヤマブキオー
12. 15 中山 有馬記念 9 1 1 3人 2着 芝2500m(稍) 2.36.7 増沢末夫 -0.8秒 タニノチカラ
  • 1 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 2 太字の競走は八大競走

種牡馬成績

年度別成績

年度別種牡馬成績(日本総合、サラ系)[159][† 11]
出走 勝利 順位 AEI 収得賞金
頭数 回数 頭数 回数
1978年 35 201 23 37 169 0.76 8956万4600円
1979年 59 518 40 79 43 1.64 3億1431万8300円
1980年 71 775 46 96 28 1.74 4億531万9000円
1981年 72 788 45 78 14 2.03 4億8473万6600円
1982年 85 851 46 96 26 1.44 4億6183万8300円
1983年 98 927 47 100 34 1.12 3億9986万5300円
1984年 114 1046 64 137 6 1.65 6億7504万8000円
1985年 117 976 54 115 27 1.21 4億8872万200円
1986年 113 1105 67 149 13 1.60 6億3777万4700円
1987年 114 1025 70 142 14 1.44 6億2516万3200円
1988年 106 866 52 109 35 1.06 4億7441万7400円
1989年 106 957 53 106 28 1.16 5億3881万3600円
1990年 110 988 59 125 13 1.69 8億5993万7900円
1991年 98 877 50 100 60 0.87 4億1327万1600円
1992年 84 804 46 111 76 0.87 3億5150万2,00円
1993年 79 730 45 76 96 0.78 2億7872万2000円
1994年 69 618 35 62 131 0.63 1億8535万9000円
1995年 61 565 31 57 131 0.78 1億9907万1000円
1996年 48 532 27 52 164 0.84 1億7107万8000円
1997年 36 476 19 49 248 0.59 9193万5000円
1998年 23 324 14 29 284 0.62 4628万円
1999年 14 215 7 17 481 0.28 1703万2000円
2000年 7 106 5 13 559 0.29 902万6000円
2001年 5 47 2 2 769 0.06 120万8000円
2002年 2 5 0 0 821 0.02 16万円
年度別種牡馬成績(地方競馬および中央競馬[† 11]、サラ系)[159]
地方競馬 中央競馬
出走 勝利 順位 AEI 収得賞金 出走 勝利 順位 AEI 収得賞金
頭数 回数 頭数 回数 頭数 回数 頭数 回数
1978年 26 166 18 30 163 0.98 4956万5000円 9 35 5 7 170 0.68 3999万9600円
1979年 36 358 26 60 73 1.46 1億295万6500円 23 160 14 19 39 1.53 2億1136万1800円
1980年 46 543 30 74 40 1.56 1億4683万3000円 28 232 16 22 30 1.51 2億5848万6000円
1981年 49 576 32 57 39 1.44 1億4573万9000円 27 212 13 21 18 1.97 3億3899万7600円
1982年 63 629 31 71 15 1.48 1億9572万6500円 26 222 16 25 40 1.38 2億6611万1800円
1983年 69 721 37 85 11 1.48 2億917万7500円 32 206 10 15 55 0.87 1億9068万7800円
1984年 78 763 46 103 3 2.01 2億9628万7000円 41 283 18 34 25 1.35 3億7876万1000円
1985年 79 698 38 90 22 1.08 1億4977万6000円 42 278 16 25 29 1.19 3億3894万4200円
1986年 75 802 48 117 4 1.68 2億1735万100円 42 303 19 32 24 1.43 4億2042万4600円
1987年 74 769 51 113 6 1.63 2億1790万7000円 45 256 21 29 23 1.24 4億725万6200円
1988年 64 588 36 84 12 1.48 1億7935万円 46 278 18 25 47 0.81 2億9506万7400円
1989年 62 602 38 83 12 1.52 1億9474万円 50 355 15 23 40 0.87 3億4407万3600円
1990年 76 765 47 106 1 2.13 3億6501万3000円 40 223 12 19 24 1.49 4億9492万4900円
1991年 72 708 44 90 16 1.37 2億3083万7000円 29 169 6 10 85 0.69 1億8243万4600円
1992年 65 666 37 100 30 1.25 1億9483万7000円 23 138 9 11 102 0.74 1億5666万5000円
1993年 62 619 37 67 52 1.08 1億4509万8000円 20 111 8 9 116 0.74 1億3362万4000円
1994年 55 526 31 58 65 1.13 1億1931万9000円 16 92 4 4 203 0.47 6604万円
1995年 53 486 26 49 86 1.00 9816万1000円 8 79 5 8 157 1.44 1億0091万円
1996年 42 479 25 46 104 1.16 8912万3000円 9 53 3 6 189 1.03 8195万5000円
1997年 34 472 19 49 105 1.43 8923万5000円 2 4 0 0 544 0.15 270万円
1998年 23 324 14 29 198 1.08 4628万円 - - - - 350 2.24 -
1999年 13 213 7 17 311 0.69 1703万2000円 1 2 0 0 558 0.00 0円
2000年 7 106 5 13 394 0.69 902万6000円 - - - - - - -
2001年 5 47 2 2 624 0.14 120万8000円 - - - - - - -
2002年 2 5 0 0 701 0.05 16万円 - - - - - - -

主な産駒

八大競走およびGI優勝馬
重賞優勝馬

母の父としての主な産駒

GI優勝馬
重賞優勝馬

人気(ハイセイコーブーム)

ハイセイコーの人気、ブームは社会現象ともいえるほどの規模に達し[164][81][165]、競馬に興味のない人にまで名が知れ渡り[165]、ブームに巻き込んでいった[18]。国民的アイドルホースとなったハイセイコーは、オグリキャップが登場するまで日本競馬史において比較対象すらない存在であった[18]。ハイセイコーが立役者となって作り出した競馬ブームは「第一次競馬ブーム」と呼ばれ[166]、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる[167]

朝日新聞コラム天声人語』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、テンポイントとともにハイセイコーを挙げている[168]。赤木駿介は、ハイセイコーブームとは「表面的な物質享楽と、加速度的なインフレーションの谷間に落ちて」何かに飢えていた大衆が、マスコミの露骨な商業主義を感じ取りつつも、「一個の動物でしかすぎないサラブレッドに、純粋なるものを求めた」ものであり、「世相の反映であり、70年代の1つの象徴といえよう」と評している[169]。競馬評論家の井崎脩五郎は、「1970年の3月6日に生まれ、1970年代を突っ走り、1979年の日本ダービーを自らの産駒が勝ったハイセイコーこそ、この10年の代表馬であったと、当然のことのように思い返すのではないだろうか。」と述べている[170]

ブーム形成の要因・背景

前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた[16]。このことについて日刊競馬解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている[171]

当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元日刊スポーツ記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している[172][173]読売新聞記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、高度経済成長期の学歴社会において、判官びいきを伴った共感を集めたのだと述べている[174]

山野浩一は、ハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、ハイセイコーの活躍を地方競馬出身で「雑草育ち」の馬が中央競馬のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している[175]。父のチャイナロックはハイセイコーが中央競馬へ移籍した1973年にはリーディングサイアーとなるなど成功を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝をあげていた。ハイセイコーは前述のように、誕生した年の夏に「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と生産者によって喧伝されるほど将来を期待された馬で[3][4]、地方競馬でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方競馬の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった[176]。前述のように江面弘也によると、武田牧場は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた[5]。さらに江面によると、2代目の馬主であるホーズマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央競馬へ移籍した時点ですでに将来種牡馬となることが想定されていた[177]

ハイセイコーブームは、田中角栄の総理在任中に起こった

ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では田中角栄が第64代内閣総理大臣に就任した。朝日新聞be編集グループ(編)『サザエさんをさがして その2』は、田中角栄が世間の注目を集めていたことが、ハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し[178]、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べている[179]日本経済新聞記者の野元賢一は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している。[180]田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している[181]

赤木駿介は、マスコミがプロ野球読売ジャイアンツON砲に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり[182]、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている[183]。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている[184]

横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年はオイルショックが起こりインフレーションに見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している[185]。歴史学者の本村凌二(雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している[145]

東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」[186][80]、「落ちた偶像」[186]、「"敗"セイコー」[80]などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく[48][81][82]、むしろ高まっていった[79][63]。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり[187]、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している[188]。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直したあと、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している[60]

現象

遠山彰は、ハイセイコー人気が高まる中、女性や子供のファンからファンレターやプレゼントが届いたことをきっかけに「男ばかりのギャンブルの世界」が変質し始めたと分析している[189]。競馬評論家の原良馬によると変化は「汚い」「暗い」「怖い」という目で見られていた競馬場にも及び、ハイセイコーが活躍した頃から女性ファンの姿が見られるようになったと述べている[190]。片山一弘も、「中年男のものだった競馬場に…若い女性が集まり、黄色い声援が飛び交うようになった」ことを指摘し、ハイセイコーの出現によって日本の競馬が、ギャンブルからレジャーに転換したと評価している[188]。高見沢秀は、それまでギャンブルに過ぎなかった日本の競馬が、ハイセイコーの出現によってカルチャーとエンターテインメント、ギャンブルを横断する独特のジャンルへと変貌したと分析している[191]。『日本中央競馬会50年史』は、ハイセイコーブームが従来の「公営競技=ギャンブル=悪」というイメージを脱し、競馬が健全な娯楽として認知される基盤を築く一因となったと評価している[192]。管理調教師であった鈴木勝太郎[193]は、ハイセイコーの登場により競馬新聞を人前で読むのがはばかられるような雰囲気が解消され、「あの馬のおかげで、競馬そのものが真っすぐな方向に変わったように思います」と述べている。横尾一彦も同様に、「ようやく『私は競馬ファンです』と胸を張れる時代がやってきた」と述べている[194]

ハイセイコーのファン層は子供や女性、老人など馬券を購入せず、ハイセイコー以外の競走馬に関心を抱かない人々にまで広がった[195]。片山一弘は、こうした点でハイセイコーは「競馬という枠組みを超えたスーパースター」であったと評している[196]。鈴木康弘はハイセイコーのファンがギャンブルを抜きに、愛情をもってハイセイコーに接したことに感動を覚えたと回顧している[197]。ファンの中にはハイセイコーを見ようと厩舎を訪れるファンも多く[198]、夏休みの時期には親に連れられて子供のファンが多く厩舎を訪れたという[199]

ハイセイコーのもとには多くのファンレターが届き、「東京都 ハイセイコー様」という宛名だけではがきが届いたという伝説も生まれた[200]。引退後も、年賀状クリスマスカード、誕生祝いなどが届いた[201]。浅草のブロマイド屋のもとにはハイセイコーのブロマイドを求める声が多く寄せられ、写真を撮らせてほしいとブロマイド屋が厩舎を訪れたこともあった[202]

ブームが高まるとハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった[203]。阿部珠樹はハイセイコーが少年雑誌の表紙に登場したことについて、「それまで健全な市民社会の対極にあるものとみなされていた競馬の世界では、考えられないことだった」と述べている[48]。ハイセイコーが東京優駿に出走した1973年5月27日には、ギャンブル嫌いの漫画家長谷川町子が、朝日新聞朝刊に連載中の『サザエさん』でハイセイコーを取り上げた[204]

日本中央競馬会50年史』は、1973年にはハイセイコーブームにより馬券売上額が33.55%、入場者数が15.64%、それぞれ前年よりも増加したと評価し[205]、1974年においてもハイセイコーがタケホープ、キタノカチドキ、タニノチカラとともに中央競馬を盛り上げたことにより、馬券売上額が前年よりも17.52%増加したと評価している[206]。レース単位でみると、1973年には前述のようにNHK杯で中央競馬史上最多となる16万9174人の観客が入場した[207][† 6]ほか、菊花賞の馬券売上額が98億4813万5400円と同レース史上最高となり[209]、有馬記念での馬券売上額は中央競馬史上最高の124億4197万にのぼった(そのうち、ハイセイコーがらみの馬券はおよそ45%にあたる56億5231万9900円を占めた)。有馬記念が施行された12月16日の開催1日の馬券売上額も154億6847万3600円と史上最高であった[210]。翌1974年の有馬記念では前年の記録をさらに更新し、同レースの売上額が136億4668万円、レース当日の売上額が172億7956万8600円を数えた[211]。日本経済が1973年から1974年にかけて起こった第一次オイルショックの影響から国内消費の低迷に見舞われる中、中央競馬の馬券売上額はハイセイコーの引退後も上昇を続け、「不況に強いギャンブル」という神話が誕生した[212]。野元賢一は、1970年代前半における中央競馬の馬券売上増加を支えたのはハイセイコーであると評している[213]

特徴・評価

身体面に関する特徴・評価

中央競馬移籍後のハイセイコーを診察した獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの身体面の長所として身体面では体型とバランスの良さを挙げ、体の使い方に無駄がないため疲労がたまりにくいと分析している[214]。主戦騎手の増沢末夫も、ハイセイコーの第一印象として馬体のバランスの良さを挙げ[215]、「あんなに丈夫でタフは馬を、いままで知らない」とも述べている[216]

鈴木康弘によると、ハイセイコーは心臓をはじめとする内臓が強く、調教を終えると厩舎に戻る前に息が整った。食欲も旺盛であった[217]。サラブレッドの安静時の心拍数は毎分30ないし35拍で一流の競走馬は毎分25ないし30拍といわれる[218]ところ、ハイセイコーの心拍数は毎分28拍であった[219]。大井競馬場時代のハイセイコーに騎乗したことのある高橋三郎によると、1971年11月のある日、ハイセイコーが調教後に疲れた様子を見せたのでリンゲル液を注射したところ、リンゲル液が寒さで冷えており、ハイセイコーが体を震わせてショック状態に陥ったことがあった。そのまま倒れると死亡する可能性があったため関係者が10人がかりで支えたところ、崩れ落ちそうになりながらも持ちこたえたという。高橋は「普通の馬だったら保たなかったと思う。よっぽど心臓が強かったんだろうね」と語っている[220]

関係者の証言によるとハイセイコーの馬体は生まれた時から大きく[2]、デビュー前の時点ですでに他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備え[6]、4歳の時点で古馬のように完成されていた[221][† 12]。一方でその馬体は、膝下が短く、洗練された気品にはやや欠けていたとも評されている[224]。体格の大きなハイセイコーの走りは重戦車にたとえられた[225]。1974年12月21日に測定されたハイセイコーの馬体のサイズは、体長163センチメートル、体高171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートルである[226]

ハイセイコーは後脚の力が強く、「滑らかさよりも力で走る」タイプの競走馬だった[227]。後脚の蹄鉄は装着してから1週間ほどで擦り減ってしまったといわれている[228]。橋本邦治は、このような特徴を持つ競走馬は長い距離を走るとスタミナを消耗する傾向にあり、ハイセイコーの場合も「2000m以上は駄目」と評価されるような競走成績に繋がったと分析している[229]。鈴木勝太郎はハイセイコーの引退後、当初抱いていた印象について、胴の詰まった体型からこなせる距離は1800mまでで、2000m以上で行われる中央競馬のクラシックでは苦しいと感じたと証言し、予想を覆す活躍を見せたハイセイコーを「大した馬だよ」と評している[221]

厩務員の大場によると、ハイセイコーは皮下脂肪がつきやすい体質で、冬場は苦手とした[230]。逆に暑さには強く、夏が近づくと水を大量に飲み、大量に汗をかいた[231]

知能・精神面に関する特徴・評価

獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの精神面の長所として気の荒さを挙げている[232]。大井競馬場時代の厩務員山本武夫は、ハイセイコーの性格について「気の荒すぎるところがあり、いったん、いうことをきかなくなったら、テコでも動かなくなる」と評している[233]。ただし荒い反面、気の弱いところもあった[234]。調教師の鈴木勝太郎は、気性の激しいハイセイコーに対応した調教方法を考案した。まず15-15と呼ばれる軽めの調教を1週間ないし10日に一度行い、他の馬がいないタイミングを見計らって調教を行うなどの工夫をした[235]。ハイセイコーには、他の馬と並んで走ると負けまいとして走り過ぎる傾向があった[145]

ハイセイコーは初めて訪れる場所を警戒するところがあった[236]。増沢によると、もともと警戒心や注意力の強いサラブレッドの中でも、ハイセイコーはひときわそうした傾向が強かった[237]。鈴木勝太郎はマスコミの取材やファンの来訪を拒まなかったが、神経質なハイセイコーへの配慮から、カメラ撮影に関してのみ厩舎内では行わず決められた場所で行うよう要望を出した[238]

明和牧場元取締役の浅川明彦は競走馬引退後のハイセイコーについて、怖いくらいの威厳を放ち、担当厩務員以外の者の言うことは聞かず、他の馬と喧嘩をすることもしばしばであったと振り返っている[239]。浅川によると明和牧場でのハイセイコーは体調がいいと人に触られるのを嫌がる反面、体調が悪いと注射にも素直に応じるところを見せた。浅川はハイセイコーについて、神経質さが良い方向に出て、警戒心と注意力に優れた頭のいい馬であったと評している[240]

ハイセイコーは引退式でコースを1周した後、速度を落としつつ第1コーナーを過ぎたところで突如立ち止まって首を振り、騎乗していた増沢を振り落した[80]。増沢によると、それまで第1コーナーと第2コーナーの中間地点をゆるやかに通った後はそのまま地下道を通ってコースから出る習慣があったため、引退式でもハイセイコーはコースから出ようとして方向転換を計り、そのことが落馬につながった。増沢はこのエピソードを著書で紹介し、ハイセイコーを「じつに利口な馬」と評している[241]。競走馬時代、普段の調教では調教助手の吉田が騎乗したが、増沢が騎乗するとハイセイコーは興奮するしぐさを見せた。これについて鈴木勝太郎は、増沢がレースで騎乗することをハイセイコーが理解しているためだと説明した[242]

弥生賞当日、発送前に蹄鉄をレース用のものに打ち替えようとしたところ、ハイセイコーは落ち着きをなくし、興奮する様子を見せた[243]。そのため、以降のレースでは当日の早朝に打ち替えが行われるようになった[244]

走行・レースぶりに関する特徴・評価

ハイセイコーは前述のように荒い気性と気の弱さを併せ持っていたが、競馬では他の馬と並んで走ると抜かせまいとする勝負根性を発揮した[245]。増沢は、そうした根性、闘争心こそがハイセイコーの真骨頂だと述べている[81]

ハイセイコーはストライドの大きな馬で、マスコミは「ひと跳び8メートル」と報じた[61]。高橋三郎は、馬体もストライドも大きいハイセイコーにはダッシュ力はなかったと評し[6]、増沢末夫も一瞬の切れ味を発揮するタイプではなく、相撲のがぶり寄りのようにジリジリと伸びるタイプだと評している[246]ハイセイコーが連勝していた時期に増沢は、「物凄い末脚を使う馬が出てくるとこわい」とコメントし[247]、鈴木勝太郎も「一瞬の切れ味の鋭い馬」を警戒していた[248]。高橋はダッシュ力のなさを指摘する一方で、一度加速がつくと他の馬を引き離すほどの速さで走ることができたとも振り返っている[6]。ハイセイコーがスピードに乗った時の感触を増沢は、「ぐーんと躰が沈みこんでいく」と表現した[249]。増沢によると跳びの大きい馬は雨が降って状態の悪い馬場を苦手とする傾向があるが、ハイセイコーは得意とした[250]。これについて鈴木勝太郎は前述のように、体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走り方をすることから状態の悪い馬場を苦手とすることはないという見解を示している[40]

高橋三郎によると、ハイセイコーはダートコース向きの走り方をしていた[251]。鈴木勝太郎も、中央競馬へ移籍してきたハイセイコーを調教で走らせてみて、ダートコースでの競走能力を実感したという[252]。後藤正俊は、ハイセイコーの現役時代にダートグレード競走が設けられていたら、「セクレタリアト級のぶっちぎり勝ちを続け、ダート史上最強馬として違った形の歴史を作っていたことだろう」と推測している。[151]。競馬記者の大島輝久はハイセイコーのダートにおける競走能力を高く評価し、「アメリカのダート競馬で走らせてみたかった」と述べている[253]

大川慶次郎は、ハイセイコーは左回りのコースを苦手としていたと述べている[160]。主戦騎手であった増沢も、かつてNHK杯で抱いた「左回りは右回りほど走らないのではないか」という疑念はハイセイコーの引退後も変わらないと述べている[254]

増沢は、首を下げたまま走るハイセイコーとは騎乗時に人馬一体の感覚を味わえなかったとし、「決して乗りやすい馬ではなかった」と評している[255]。一方鈴木勝太郎は、クビを少し下げてひたすら前に進もうとする走行フォームが懸命に走っているという印象を人々に与え、共感を呼んだのではないかと述べている[195]

増沢は騎乗した16戦全てで先行策をとった。増沢はハイセイコーの引退後、「1回くらいは追い込んでみてもよかったのではと思う」と述べつつ、それを実行しなかった理由について、「あれで負けたのなら、仕方がない」とファンが納得するレースをするために手堅い戦法をとらざるを得ず、「実験」ができなかったと弁明している[256]

投票における評価

1991年発行の『優駿増刊号 TURF』が競馬関係者を対象に行ったアンケートでは、「思い出の馬」部門で第5位に選ばれた[257][† 13]。また、日本馬主協会連合会が馬主に向けて行ったアンケートでは、「一番好きな競走馬」で第1位[258]、「一番印象に残る競走馬」で第4位[259]、「一番の名馬と思う競走馬」で第6位[258]、さらに「一番印象に残っているレース」で「ハイセイコーが出走した全レース」が第4位に選ばれた[260][† 14]

優駿』が1985年に読者を対象に行った歴代最強馬を問うアンケートでは、第18位に選出されている[261]。2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」では15302票票を獲得し、8位となった。

タケホープとのライバル関係

ハイセイコーの競走生活においては、タケホープとのライバル関係が注目を集めた[262]。ハイセイコーの出走した東京優駿、菊花賞、天皇賞(春)を勝ったタケホープは、ハイセイコーの終生のライバルと呼ばれ、ハイセイコーのファンからは敵役として憎まれた[6]

タケホープが東京優駿を勝った時、多くの者は「無欲のチャンレンジが生んだフロック勝ち」と受けとめた[263]。同馬の管理調教師であった稲葉幸夫も、ハイセイコーに勝てるという気持ちをさほど強くは抱いておらず、レース後には「あれだけの人気馬を負かしてしまって、すまないなあ」という思いすらしたという[264]。しかし東京優駿をフロックで勝ったという見方に稲葉は反発し、菊花賞出走時には「ハイセイコーを負かして、なんとか、フロックのダービー馬という声を消したい」と願うようになっていた[264]。タケホープは菊花賞も勝ったことでようやくハイセイコーのライバルとして認知されるようになったが、同時に「アイドルホースの仇役」という役回りも担うこととなった[265]

タケホープの主戦騎手を務めた嶋田功は、東京優駿を前に受けた取材で「ハイセイコーも4本脚なら、タケホープもおなじ4本脚だ」とコメントした。その場に居合わせたという渡辺敬一郎によると、ふざけた口調ながらも嶋田の眼は笑っていなかった[266]。当時タケホープの体調は非常によく、嶋田は厩舎関係者に「勝てる」と宣言していた[267]。嶋田は当初、東京優駿ではまだ勝てないだろうと考えていたが、ハイセイコーがNHK杯に出走すると知って「これで東京優駿まで余力が残らない」と推測し、しめたという気持ちになったという[268]

菊花賞以降、タケホープは出走したすべてのレースでハイセイコーと対戦した。山野浩一[149]や江面弘也[269]は、ハイセイコー陣営が意図的にタケホープに合わせたローテーションを組んだのだと述べている。1973年(菊花賞の後)[163]と、1974年(有馬記念の後)[142]には、2頭によるマッチレースが企画されたが、実現には至らなかった。

対戦を重ねるうちに、タケホープは長距離で、ハイセイコーは中距離で強さを発揮することが明らかとなっていった。稲葉はタケホープが天皇賞(春)を勝った後、同馬について、父インディアナの個性を受け継いだステイヤーで「2400m以上ならどの馬にも負けない自信を持ってます」とコメントしている[270]。東京優駿と菊花賞、3200mの天皇賞をすべて勝ったのはシンザン以来史上2頭目であった[149]。一方、ハイセイコーについては2000m以下のレースで14戦12勝2着2回と連対を外したことがないにもかかわらず2400m以上のレースでは一度も勝ったことがなく「極端に弱かった」ことが指摘されており[271]、鈴木勝太郎も前述のように東京優駿の敗因として距離が長すぎた可能性を挙げ[64][72]、天皇賞(春)で敗れた後には「やっぱり距離のカベとしかいいようがない」とコメントしている[270]。嶋田功はハイセイコーに対し、「中距離戦では絶対にかなわない」という思いを抱いていたと述べている[163]。阿部珠樹は、距離別のレース体系が整備された時代であったなら、ハイセイコーはマイルから中距離のレースに出走し続けただろうと推測している[63]

1974年1月に行われたアメリカジョッキークラブカップがタケホープ1着、ハイセイコー9着という結果に終わり、3月になって中山記念に2頭が出走したとき、嶋田功は「今度はタケホープが1番人気になるだろう」と予想していた。しかし1番人気になったのはハイセイコーで、嶋田は「どうしてあの馬ばかりが人気を集めるのか」と憤りを覚えたという[272]。2頭の関係は「人気のハイセイコー、実力のタケホープ」と評された[273]

2頭の引退レースとなった1974年の有馬記念では、ハイセイコーのファンはタニノチカラに敗れたにもかかわらずタケホープに先着したことを喜び[269]、両陣営もレース後には優勝したタニノチカラのことではなく互いの着順の先後についてコメントした[274]

タケホープが東京優駿に出走できたのは、その前に出走した条件戦の4歳中距離特別を勝って獲得賞金額を上積みしたからであった。この時、2着のサクラチェスとの着差はハナ差であったため、「サクラチェスの鼻がもう少し長かったなら、わが国の競馬の歴史が変わっていただろう」ともいわれる[275]。後にハイセイコーの初年度産駒カツラノハイセイコが父の勝てなかった東京優駿を勝った時、2着となったリンドプルバンには嶋田が騎乗しており、東京優駿の前に出走した4歳中距離特別で勝利を収めていた。江面弘也はこれを「競馬の神の粋な演出」と表現している[269]

種牡馬としては、ハイセイコーが重賞優勝馬を複数輩出したのに対し、タケホープは重賞優勝馬を送り出すことができなかった。江面弘也は、ハイセイコーが産駒にスピードを伝えた一方、タケホープは「スピード化という時代の波に飲み込まれ」る形になったと分析している[269]

血統

父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにタケシバオー1969年天皇賞(春)優勝)、メジロタイヨウ(1969年天皇(秋)優勝)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬リーディングサイアーを獲得した種牡馬である。

母のハイユウは競走馬時代に地方競馬南関東)で16勝を挙げ[276]、レコードタイムを3度記録した[277]馬であった。祖母ダルモーガンは1952年(昭和27年)に輸入された「豪サラ[278]で、産駒にはハイユウのほか、ショウゲツ(CBC賞優勝)やオオクラ(天皇賞(春)2着)がいる。

阿部珠樹は、ブルードメアサイアーのカリムは短距離で本領を発揮した馬で、ハイセイコーの競走成績(2000mの京都新聞杯を除き、敗れたレースの距離がすべて2100m以上)からはカリムの影響が明確に読み取れると分析している[63]

血統表

ハイセイコー血統ハイペリオン系/Son-in-Law4×5=9.38%) (血統表の出典)

*チャイナロック
China Rock
1953 栃栗毛
父の父
Rockfella
1941 黒鹿毛
Hyperion Gainsborough
Selene
Rockfel Felstead
Rockliffe
父の母
May Wong
1934 栗毛
Rustom Pasha Son-in-Law
Cos
Wezzan Friar Marcus
Woodsprite

ハイユウ
1961 黒鹿毛
*カリム
Karim
1953 鹿毛
Nearco Pharos
Nogara
Skylarking Mirza
Jennie
母の母
*ダルモーガン
Dalmogan
1950 黒鹿毛
Beau Son Beau Pere
Banita
Reticent Hua
Timid F-No.12-g


兄弟

  • マイデン(1967年生、牡、父リンボー) - 35戦3勝。
  • ハクセイコー(1968年生、牡、父ダイハード) - 14戦6勝。東京ダービー3着。種牡馬。
  • ハイエース(1973年生、牡、父ラークスパー) - 52戦8勝。
  • サイセイコー(1974年生、牡、父チャイナロック) - 未出走
  • アアセイコー(1977年生、牡、父ファラモンド) - 28戦7勝。種牡馬

脚注

注釈

  1. ^ この金額は、当時の東京優駿の優勝賞金(3600万円)を上回っていた[5]
  2. ^ 大川慶次郎はその原因として、移籍馬は移籍から1か月間はレースに出走できないという当時の中央競馬のルールを挙げている[15]
  3. ^ 陣営は弥生賞前の2月22日にハイセイコーを中山競馬場に移送して芝コースを走らせる予定であったが、雨天のため実現せず、ぶっつけ本番で走らせざるを得なくなった[20]
  4. ^ 陣営の中でも、騎手の増沢[39]や調教助手の鈴木康弘[40]は、走行時のストライドの大きいハイセイコーは状態の悪い馬場を苦手とするのではないかという懸念を抱いていた。鈴木康弘が不安を鈴木勝太郎に打ち明けたところ、勝太郎は体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走法から苦手とすることはないという見解を示した[40]
  5. ^ 調教師の鈴木勝太郎は増沢に、「馬が行く気になったら、かまわないから行かせろ」と指示しており、増沢はやや折り合いを欠きながら進もうとするハイセイコーを無理に抑えようとはしなかった[41]
  6. ^ a b この記録は、1990年(平成2年)の東京優駿で更新(19万6517人)された[52]引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "NHK杯"が異なる内容で複数回定義されています
  7. ^ 大井競馬場、中山競馬場は右回りで、東京競馬場は左回りである。
  8. ^ この記録は、2005年(平成17年)にディープインパクト(73.4%)によって更新された。
  9. ^ 増沢によると、気性の荒いハイセイコーにはスローペースになると自ら前方へ進出しようとして制御に従おうとしない傾向があり、長距離のレースでは不安がつきまとった[110]
  10. ^ 天皇賞(秋)の優勝馬は、ハイセイコーに先着したことのないカミノテシオであった。
  11. ^ a b サイアーランキング、AEIは平地・障害の集計、それ以外は平地のみの集計。
  12. ^ 詩人の寺山修司は、ハイセイコーは大井競馬場に在籍していた頃によく似た古馬とすり替えられたのだと主張した[222]。朝日新聞元記者の遠山彰によると、ハイセイコーが中央競馬へ移籍した当時、ハイセイコーは実は5歳馬だという噂が流れていた[223]
  13. ^ このアンケートには「最強馬部門」もあったが、ハイセイコーは票を獲得していない。
  14. ^ ほか11位タイに「ハイセイコーvsタケホープの第40回日本ダービー」。上位3つは、トウカイテイオー第38回有馬記念オグリキャップ第35回有馬記念シンザン第10回有馬記念と、いずれも単独の競走であった。14位タイに「オグリキャップが出走した全レース」が入っている。

出典

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外部リンク