日本のモータースポーツ

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日本のモータースポーツ(にほんのモータースポーツ)では、日本におけるモータースポーツの歴史と現状について述べる。

歴史

1930年代以前

日本で行われた自動車競技で記録として残る最古のものは、1908年に開催されたニューヨーク〜パリ間レースである。ニューヨークを出発してシアトルから渡航してきた車両を横浜から迎え入れ、日本海に抜ける為に敦賀まで480kmを縦断するものだった[1][2]。但し、これはあくまでコースの一部が日本を通過したに過ぎない。 日本国内で主催・開催された自動車競技で最古に記録されるものは1914年に東京の目黒競馬場にてアメリカ在住の日本人が4台の自動車を持ち込みデモンストレーションランを行ったが、興行的に失敗に終わっている。1922年には東京・洲崎にて報知新聞社の主催で「第1回日本自動車レース」が開催され、1926年まで計11回開催された。[3] また1927年の中部巡回モーターサイクルレースなど、オートバイによるレースもこの頃開催された記録が残っている[4]

1936年には多摩川河川敷に日本初の常設サーキットである多摩川スピードウェイがオープンし、同年6月には同サーキットにて「第1回全日本自動車競走大会」が開催された。このレースにはまだ当時浜松市で自動車修理工場を経営していた本田宗一郎も参加し、また日産自動車ダットサンで事実上のワークス参加をしていた[5]ことで有名。同レースは1939年まで計5回開催されたが、第二次世界大戦の勃発に伴い日本国内もモータースポーツの開催が厳しい状況となり、中断を余儀なくされていった。

1940 - 1950年代

太平洋戦争により自動車を含む日本の産業基盤が大きく破壊されたことから、戦後の日本においては自動車よりも部品点数が少なく容易に生産が可能なオートバイによるレースの方が先に復活への動きを始めた。1949年には全日本モーターサイクル選手権大会開催を主な目的に日本小型自動車競走会が発足し、同年11月には多摩川スピードウェイで全日本モーターサイクル選手権大会を開催している。[6] これが契機となり、翌1950年には小型自動車競走法が成立、同年10月に船橋オートレース場で初のオートレースが開催された。

さらに1953年には名古屋市を中心とした中京地区の公道を舞台とした「名古屋TTレース」や、富士山を舞台にした「富士登山軽オートバイ競走大会」が開催されたほか(同大会はその後4年間に渡り開催された)、1955年には群馬県浅間山山麓にて「第1回浅間高原レース」が開催。同レースは日本の主なオートバイメーカーがワークス・チームを組織してレースに参戦した初のレースとなり、以後1959年まで計3回開催され、日本のオートバイメーカーの技術力向上に大きく貢献した。また本田技研工業(ホンダ)が1959年よりマン島TTレースへの参戦を開始するなど、国外のレースへ参戦する動きも徐々に始まっている。

自動車によるレースについても、日産自動車1958年オーストラリアモービルガストライアルに参戦し、難波靖治ダットサン・210を駆りクラス優勝を遂げたほか、1959年に「第1回日本アルペンラリー」が開催される[7]など、主にラリーの世界から復興が始まった。

1960年代

1960年代に入ると、日本でも本格的な常設サーキットを開設する気運が高まり、1962年にはホンダが三重県鈴鹿サーキットを開設。これにより自動車によるレースが本格的に復活する環境が整い、翌1963年より日本グランプリがスタート。これに加え1965年には船橋サーキット1966年には富士スピードウェイがオープンし、これらのサーキットを舞台にトヨタ自工(当時)・日産を中心としたメーカーのワークス・チームによる戦いが繰り広げられた。

またこれらのサーキットでは、ロードレース世界選手権(WGP)の日本グランプリを始めとしてオートバイによるレースも多く行われた。既にホンダが1959年よりWGPへの参戦を開始していたが、これにヤマハ発動機ら他のメーカーも追随し、激しい戦いが繰り広げられた。1961年には日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)が発足し、1967年には全日本ロードレース選手権がスタートした。このほか1950年代の浅間火山レースの流れからモトクロスも盛んとなり、やはり1967年には全日本モトクロス選手権がスタートしている。

なおこの頃の日本の自動車レースは、ほとんどが現代で言うところのツーリングカーレースで、一部プロトタイプレーシングカーによるレースが含まれるという状態であった。1964年ホンダF1F1への参戦を開始したほか、1966年には三菱重工がコルトフォーミュラを開発し日本グランプリに参戦するなど、一部でフォーミュラカーの開発・製造を行う動きもあったものの、大勢とはならなかった。

この頃の特筆すべき事項としては、まだ4輪レーシングカーを走らせるテクニックが未熟であったという要因から、オートバイを走らせることでスピード感等への慣れに一日の長があった2輪ライダーが数多く4輪のレーシングドライバーに転向したことが挙げられる。当時2輪から4輪に転向した有力ドライバーは生沢徹高橋国光長谷見昌弘星野一義など多数に及び、特に日産は積極的に2輪ライダーを自社のドライバーとして採用した(これにはホンダのワークスライダーから日産のドライバーに転向した田中健二郎の影響も大きい)。一方トヨタは浮谷東次郎式場壮吉福澤幸雄といったライダー上がりではないドライバーを積極的に起用するなど、大きく方針が分かれていた。

1970年代

1970年代は、日本のモータースポーツにとっては「冬の時代」であった。1970年にはトヨタ・日産の2大メーカーが日本グランプリからの撤退を発表し同年の日本グランプリが中止に追い込まれたほか、1973年に発生した第一次オイルショックの影響で自動車メーカーが一斉にワークス活動を中止したことから、それまで自動車メーカーと契約してワークスマシンに乗ることで生活を成り立たせていたドライバーの多くが路頭に迷うこととなった。

しかしその中から、独自にレーシングガレージを設立してプライベーターとしてレース活動を継続しようとするものが複数現れた。既に1968年に日産・大森ワークスのドライバーである鈴木誠一が東名自動車(現・東名パワード)を設立したりしていたが、1972年にはシグマオートモーティブ(現在のサードの前身)、1973年にはノバエンジニアリング1974年にはトムス1975年には童夢が設立されるなど、現在でも日本のモータースポーツ界において有力チームとして活動している企業が相次いでこの時期に誕生している。

またレースシリーズとしても、1971年に富士グランチャンピオンレース(富士GC)がスタートしたほか、1973年にF2規定による全日本F2000選手権(現在のフォーミュラ・ニッポンにつながる国内トップフォーミュラシリーズの源流)が発足。このほか1973年に全日本カート選手権、1979年には日本F3チャレンジカップ(現・全日本F3選手権)、1980年にはFJ1600がそれぞれスタートするなど、若手ドライバーの育成に不可欠な下位カテゴリーもこの時期に発足したものが少なくない。なお1976年にはF1・日本グランプリが初めて開催されたが、翌1977年の日本グランプリで観客の死亡事故が発生したことや、興行的には大きな赤字が出ていたことも影響し、開催はわずか2回で打ち切られている。

オートバイレースも、1966年にホンダがWGPから撤退したこともあり、やはり自動車レース同様に一時下火となったが、その中でも全日本ロードレース選手権を始めとするシリーズは継続して開催されたほか、1978年には鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)がスタートしている。またホンダも1978年にWGPへの復帰を決め、翌1979年から現在に至るまでWGPに継続参戦している。

なおこの頃は暴走族の活動が最盛期を迎えており、日本におけるモータースポーツの認知度がまだ低かったことも重なり、「モータースポーツは暴走行為を助長するものであり好ましくない」との論調が一部マスコミで展開されるなど、暴走族の存在がモータースポーツにもマイナスの影響を及ぼしていた(一時はこれを遠因として富士スピードウェイの廃止が親会社の三菱地所によって検討されたりもした)。

1980年代

1980年代に入ると、日本の自動車メーカーもオイルショックによる影響から完全に立ち直り、徐々にワークス活動を再開し始めた。まずその動きは、富士GCの併催レースとして行われたシルエットフォーミュラレースから始まり、1983年に全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC))が発足すると、トヨタ・日産らが同シリーズに独自開発のグループCカーを投入し始めた。また1985年にはツーリングカーレースの全日本ツーリングカー選手権(JTC)も発足し、これに全日本F2選手権(1978年に全日本F2000から改称)→全日本F3000選手権(1987年より)を加えた国内トップカテゴリーは大きな人気を博した。ただその一方で、1970年代の日本のモータースポーツを代表する存在だった富士GCシリーズが1989年に終了するなど、衰退するカテゴリーも出てきている。

自動車メーカー側も、日産がニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(NISMO)、マツダマツダスピード三菱自動車ラリーアートといったレース専門子会社を設立するなどレース活動に本腰を入れ始めた。2輪でもホンダが1982年にレース子会社のホンダ・レーシング(HRC)を設立している。これに加え折からのバブル景気にも乗って、80年代後半になるとレイトンハウスキャビンを筆頭にモータースポーツへのスポンサードを行う企業が激増。このため各レースにエントリーする車の台数も非常に多くなり、当時の全日本F3選手権では予選を2組に分けて実施していたほどであった。

ホンダも1980年よりF2へのエンジン供給を再開し、1983年にはスピリットへのエンジン供給を皮切りにF1での活動を再開。1987年からは鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが開催されるようになり、同年にロータスからF1デビューを果たした中嶋悟の存在、フジテレビによるF1全戦中継(F1グランプリ)の開始などの影響から空前のF1ブームが巻き起こった。

ホンダ以外のメーカーも海外のレースへ積極的に参戦するようになり、トヨタ・日産・マツダはル・マン24時間レース世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WSPC)に参戦したほか、トヨタは関連会社のトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)を通じて世界ラリー選手権(WRC)に、三菱はラリーアートを通じてダカール・ラリーに参戦。富士重工業(スバル)もF1のコローニチームにエンジンを供給したりした。2輪ではホンダ・ヤマハ・スズキの3メーカーがWGPにワークス参戦し激しい戦いを繰り広げた。

また鈴鹿8耐などを中心に、それまではあくまでレースの表彰台等に華を添える存在でしかなかったレースクイーンが数多く登場。芸能界への登竜門として注目を集めるようになり、実際岡本夏生などレースクイーンから芸能界への転身を果たす人間が複数現れるに連れてさらに人気が上昇するようになった。

1990年代

1990年代に入ると日本のモータースポーツもバブル崩壊による影響を受けることとなる。1992年には世界的なグループCカテゴリーの衰退の影響を受けてJSPCがシリーズを終了したほか、全日本F3000・全日本F3などもエントリー数が激減。「第2のマカオグランプリ」を狙って1990年にスタートした「インターナショナルF3リーグ」もわずか4回で開催休止に追い込まれた。2輪の世界でも全日本ロードレース選手権のGP500クラスが1993年を最後に終了、翌年よりトップカテゴリーがスーパーバイクとなるなどの影響が出ている。自動車メーカーも経営難に陥るところが増え、ホンダが1992年にF1から撤退、日産・マツダが1992年のJSPC終了を機に大幅にワークス活動を縮小するなど、メーカーのワークス活動にも影響が及んだ。

バブル時代に計画されたサーキットが次々とオープンしたのも90年代前半の特徴で、オートポリス、TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)、十勝インターナショナルスピードウェイなどがこの時期にオープンしているほか、旧西日本サーキットがMINEサーキットとしてリニューアルされたのもこの時期である。ただオートポリスはオープン後間もなく経営難となり運営会社が破産、TIサーキット英田も後に親会社が倒産するなど、自動車メーカー同様にバブル崩壊による影響が及んでいる。

その一方で、1990年にはN1耐久シリーズ(現在のスーパー耐久)、1994年には全日本GT選手権(JGTC)がスタート。同じく1994年には世界的なツーリングカーカテゴリー再編の動きに乗り、全日本ツーリングカー選手権が2L NAエンジンの4ドアセダンで争われる新規定(JTCC)に移行するなど、新たなカテゴリーも多数生まれた。ただし、JTCCはレギュレーションの解釈を巡りメーカー間で対立が生まれたなどの要因で、1998年を最後にシリーズが消滅している。フォーミュラカーの世界でも、1990年にF4、1991年にフォーミュラ・トヨタがスタートしているほか、1996年には全日本F3000がフォーミュラ・ニッポンへとリニューアルした。

またラリーの世界では、既に1980年代よりWRCに参戦していたトヨタ(TTE)の後を追うように、三菱がランサーエボリューション、スバルがインプレッサをWRCに投入して参戦を本格化。プジョーシトロエンといったメーカーと激戦を繰り広げた。

2輪の世界では、WGPにおいて原田哲也(1993年、250ccクラス)、坂田和人(1994年・1998年、125ccクラス)、青木治親(1995年・1996年、125ccクラス)といったライダーがシリーズチャンピオンを獲得。125ccクラスでは日本人が表彰台を独占する光景もよく見られた。従来「マシンは一流だがライダーは三流」と海外のメディア等で揶揄されることの多かった日本においても、世界選手権の舞台でタイトル争いのできるライダーが育つようになったことが証明された。その要因としてポケットバイクレースの普及による若年層からの才能育成がある。彼らは互いに競い合いながら成長し、激戦の全日本選手権を経て海外に進出。メーカーワークスの支援を受ける者以外にもプライベーターとして活躍し、海外チームと契約する者なども現れ、WGPにおける一大勢力となった。

2000年代

21世紀に入りまず大きく変化があったのがラリー界である。これまで警察の規制等の関係から、一般公道を使用した速度無制限のスペシャルステージを持つラリーの開催は国内では難しいと言われていたが、2001年にWRCへの昇格を目指したイベントとして日本アルペンラリーラリー北海道の2イベントが開始。2004年にはラリー北海道がWRCイベントに昇格しラリージャパンとして開催された。これに加え、WRCの下位カテゴリーであるプロダクションカー世界ラリー選手権(PWRC)において、2005年2007年新井敏弘がシリーズチャンピオンを獲得(これは日本人ドライバーとしては、FIA認定の世界選手権タイトルを獲得した初のケースとなる)。これにより、従来日本国内ではサーキットレースに比べ影の薄かったラリーに注目が集まりつつある。

サーキットレースでは、従来の全日本GT選手権が海外への本格的な進出もにらみ2005年SUPER GTと名前も新たに体制を一新した。2009年からはフォーミュラ・ニッポンとSUPER GT・GT500クラスでエンジン仕様の共通化が図られる予定ともなっており、トップカテゴリーの再編が徐々に進行している。一方で、1992年のJSPC終了以後中断していたプロトタイプレーシングカーによるレースシリーズの復活を目指し、2006年には全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)がスタートしたが、参加チーム数の少なさなどから翌2007年でシリーズは打ち切られている。

国外に目を向けると、ホンダが2000年よりB・A・Rへのエンジン供給の形でF1参戦を再開。これに加えトヨタも2002年よりトヨタF1をF1に参戦させた。さらにホンダは2006年よりB・A・Rを買収する形でフルワークス参戦を再開し、2008年までの2年間は日本の2大メーカーがワークスチームでF1に参戦するというこれまでにない状況が生まれた。さらに鈴木亜久里率いるスーパーアグリF1チームも2006年〜2008年にかけてホンダの支援を受けてF1に参戦した。このほか米国でもチャンプカーインディカー・シリーズ等にトヨタ・ホンダがエンジン供給を行ったり、NASCARにトヨタが積極的に参入したりといった動きが見られる。WRCにおいては三菱やダイハツがワークス活動を停止し、スズキも2008年のみで本格的なワークス参戦を終了するなど、ホンダのF1撤退をきっかけに金融危機2009年に自動車メーカー各社がモータースポーツ活動縮小を余儀なくされている。

若手ドライバーの育成に日本の自動車メーカーが本格的に取り組み始めたのも、この時期の特筆すべき事項の一つである。既に1990年代よりホンダが鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)、トヨタがフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)といったレーシングスクールを開設していたほか、1999年にはホンダがフォーミュラ・ドリーム(FD)をスタートさせていたが、2005年にはトヨタが、それまで欧州と日本で別れていた若手ドライバーの育成プログラムをトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)として一本化したほか、2006年にはトヨタ・ホンダに日産を加えた3メーカーが共同でフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)を発足させた。これに伴う形で2007年には日産もニッサン・ドライバー・デベロップメント・プログラム(NDDP)と題した育成プログラムを開始している。

またこの時期、従来のモータースポーツとは全く異なる新しい流れとして「ドリフト競技」が誕生した。2001年にスタートした全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)は、従来のモータースポーツファンとは異なる、いわゆるドリフト族達の熱狂的な支持を得ることに成功し、2005年には下位カテゴリーとしてD1ストリートリーガルを新設、2004年からはアメリカでもシリーズ戦が開催されるなど、今やロードレース・ラリー・ジムカーナ等に続く新たな4輪モータースポーツのカテゴリーとして定着しつつある。

オートバイレースでは、2004年藤波貴久トライアル世界選手権のシリーズチャンピオンとなったことで、これまでモトクロス・ロードレースに比べ認知度の低かったトライアル競技への注目が集まるようになった。

現状

自動車

現在日本の4輪モータースポーツは、原則として国際自動車連盟(FIA)に加盟するモータースポーツ統括団体(ASN)として日本自動車連盟(JAF)が管轄している。なお厳密に言えば、SUPER GTはFIA直轄のシリーズのためJAFの関与は限定的なものにとどまる。ドリフト競技は従来FIA/JAFの管轄外で行われていたが、2013年からはJAFがドリフト競技を公認対象に加えており[8]、既存のドリフト競技シリーズ(D1グランプリ、ドリフトマッスル等)との関係が今後注目される。

カテゴリーとしては、スーパーフォーミュラ(旧:フォーミュラ・ニッポン)とSUPER GT(GT500クラス)という2大カテゴリーを頂点に、フォーミュラカー路線では全日本F3選手権やフォーミュラチャレンジ・ジャパンF4FJ1600スーパーFJなど、ツーリングカー路線ではSUPER GT(GT300クラス)・スーパー耐久などのカテゴリーが存在している。またこれとは別個に、全日本ラリー選手権などのラリー、全日本ジムカーナ選手権を頂点とするジムカーナ全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)を頂点とするドリフト競技といった流れも存在する。

観客動員という点では、SUPER GT等のツーリングカーレースが人気を博する一方で、スーパーフォーミュラを頂点とするフォーミュラカーレースは動員が芳しくない状況が続いている。このためスーパーフォーミュラやF3の各チームはSUPER GTに比べスポンサーの獲得に苦戦する状況となっており、特にF3においては近年参戦台数が大きく減少する一因となっている。

オートバイ

現在日本の2輪モータースポーツは、国際モーターサイクリズム連盟(FIM)に加盟するモータースポーツ統括団体である日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)が管轄している。基本的に全日本格式のものだけであり、エリア選手権等は管轄下ではあるが関与自体は限定的なものである。なお日本における最大のオートバイレースイベントといえる鈴鹿8時間耐久ロードレースに関してはFIM世界耐久選手権の1ラウンドではあるが、MFJ管轄となっている。

カテゴリーとしては全日本ロードレース選手権全日本モトクロス選手権全日本トライアル選手権MOTO1オールスターズ、全日本エンデューロ選手権の全日本格式となる各選手権と、MFJレディースロードレースを始めとして各サーキット単位で行われるエリア選手権が存在する。さらにサーキット等が独自に行っているレース等も存在している。

観客動員に関しては、かなりの苦戦を強いられている。特に鈴鹿8時間耐久ロードレースを含め全日本ロードレースは最盛期ともいえる80年代後半〜90年代前半以降観客離れに歯止めがかからない状況となっている。

問題点

日本のモータースポーツも決して順風満帆なわけではなく、数多くの問題点を抱えている。ここではその中からいくつか代表的なものを挙げる。

国際化への対応

日本のモータースポーツ界は、国内に複数の大手自動車メーカーや多数のレーシングガレージが存在することから非常に技術レベルの高い戦いが繰り広げられる一方で、世界の趨勢と異なる発展を見せる部分がある。フォーミュラ・ニッポンが国際F3000やGP2等との関わりを絶ち日本独自のレギュレーションによる運営を行っていたり、SUPER GTがドイツツーリングカー選手権(DTM)やFIA GT選手権等他国のGTレースと全く異なるマシンを使うレースとなっていたりする点にもそれが現れているが、このことをもって「海外のレースとの交流が困難となり、国際化という観点から問題がある」としてレース主催者等を批判する意見がある。

フォーミュラ・ニッポンでは2000年〜2002年にかけてアジア圏のドライバーのためのスカラシップ枠を用意し、アレックス・ユーンナレイン・カーティケヤンといったドライバーがシリーズ参戦したこともあったが、この試みは大きな成果を挙げることなく中断。また日本国内のレースシリーズの海外進出も、SUPER GTが毎年マレーシアセパンサーキットでシリーズ戦を行っているのと、D1グランプリがアメリカでシリーズ戦を行っているのが数少ない成功例で、それ以外はほとんどが失敗に終わっている。逆に国外のレースの日本進出も、ル・マン24時間レースとの交流を大きな柱とした全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)がわずか2年で終了に追い込まれたのを筆頭に、これまでのところ不調に終わっている。

欧米の有力チーム(シュニッツァー・モータースポーツなど)を日本のレースシリーズに呼び込む試みも過去何度か行われているものの、欧米とは距離が離れているという地理的要因から遠征経費がかさむという問題や、参戦自体が日本市場に対する欧米の自動車メーカーの販売政策に左右されるという問題が有り、いずれも一時的なものに終わっている。

アジア圏では、多くの国でモータースポーツが盛んになったのがここ最近の話ということもあり、交流を図れるようなレースシリーズ自体がマカオグランプリなど数が限られている。マカオグランプリには毎年日本からトムスなど数チームが遠征を行っており、これが現在継続している海外との交流例の一つといえる。過去には韓国フォーミュラ・コリアに一時日本からシャシーを供給したり、フォーミュラ・BMWアジアのシリーズ戦をオートポリスで開催したりしたこともあるが、いずれも現在は中断している。

若手ドライバーの育成

近年自動車メーカーが自ら若手ドライバーの育成に取り組む事例が増えているが(トヨタのトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)など)、最近は佐藤琢磨がイギリスF3からF1へとステップアップした影響もあり、これらの育成プログラムの対象ドライバーの多くが日本国外のレースに参戦している。これは「若いうちに海外のレースを経験させることで、将来的にF1などにステップアップした場合に早く環境に順応できるようにする」ことが目的といわれているが、これに対し一部では「有能なドライバーが海外に流出してしまい、日本のレース界のレベル低下につながる」「日本のレースをないがしろにしている」との批判も出ている。

興行体制

日本のモータースポーツを興行という側面から見た場合に問題となるのが、「多くのレースシリーズにおいて、統一したレースプロモーターやディレクターが存在しない」という点である。

日本のレース興行は元々各サーキットが独自にシリーズを運営する形から始まったため、1970年代には富士スピードウェイが富士GCを中心とするスポーツカー路線を取ったのに対し、鈴鹿サーキットは全日本F2000を中心とするフォーミュラカー路線で対抗するなど、サーキット同士が対立する事態もしばしば発生した。実際1976年には、鈴鹿サーキットが富士GCで使われるのと同じスポーツカーによるレースを企画した際に富士スピードウェイが強く反発し、「鈴鹿のレースに出場したドライバーは富士GCへの参戦を禁止する」とドライバーに通達したことすらある[9]

これらの要因から、現在もフォーミュラ・ニッポンを始めとする多くのレースでは、各サーキットが独自にレースディレクターや審判長を用意してレースを運営している。このため、異なるサーキットで同じような事故やレギュレーション違反が起こった場合に、サーキットによって処罰内容が違うといった事態が起こることがあり、チームやドライバーなどから問題視されている[10]。レース参加者の間からは当然ながら「インシデント時の判断基準を統一して欲しい」といった要望が以前から挙がっており、実際SUPER GTでは、2005年にJAFの管轄から離脱したのをきっかけに統一したレースディレクター職を設け、2008年からは「ドライビングスタンダードオブザーバー」として服部尚貴を起用しより正確な判定の実現を目指すなどの対策を行っていたりするが、各サーキットのオフィシャルの運営体制の違いや経営に対する利害なども絡み、現在もこの問題は解消されていない。

関連項目

脚注

  1. ^ “自動車黎明期の日本の道路事情(1)「日本を縦断した冒険野郎 東海道~北陸道」(上)”. トヨタ博物館. (2002年6月). http://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine52/magazine52_11.pdf 2012年11月13日閲覧。 
  2. ^ “The Greatest Race – 1908 New York to Paris (Page #3)”. sportscardigest.com. (2011年9月28日). http://www.sportscardigest.com/the-greatest-race-1908-new-york-to-paris/3/ 2012年11月13日閲覧。 
  3. ^ サーキット徒然草 12周目:日本自動車競走事始め
  4. ^ http://yukky.txt-nifty.com/bikeblog/2006/12/tt__0625.html
  5. ^ http://www.nissan-motorsports.com/JP/HISTORY/HISTORY/index.html
  6. ^ オートレース50年の歴史
  7. ^ http://yusuisha.at.infoseek.co.jp/alpcnt.html
  8. ^ スピード行事競技開催規定付則:ドリフト競技開催要項 - 日本自動車連盟
  9. ^ 「F1走る魂」(海老沢泰久著、文藝春秋)p.37
  10. ^ JGTC Inside Report - ■特集:審査委員の判定、競技運営をめぐって