宣銅烈
ファイル:선동열 투수코치.jpg 宣 銅烈 | |
基本情報 | |
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国籍 | 韓国 |
出身地 | 光州広域市 |
生年月日 | 1963年1月10日(61歳) |
身長 体重 |
184 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1985年 |
初出場 |
KBO / 1985年7月2日 NPB / 1996年4月5日 |
最終出場 |
KBO / 1995年10月 NPB / 1999年10月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
この表について
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ソン・ドンヨル | |
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各種表記 | |
ハングル: | 선동열 |
漢字: | 宣銅烈 |
発音: |
ソン・ドンヨル ソン・ドンニョル |
ローマ字: | Seon Dong-ryeol |
本人表記: | Sun, Dong Yeol |
宣 銅烈(ソン・ドンヨル、ソン・ドンニョル[1][2]、1963年1月10日 - )は、大韓民国の光州広域市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。
韓国史上最高の投手と言われ、出身地近くにある山にちなんで無等山爆撃機(ムドゥンサンポッキョッキ・무등산 폭격기)、または韓国の至宝(국보급 투수)との異名を持つ。
日本時代は丸顔と温厚な人柄から名古屋のアンパンマンと呼ばれた。
来歴
韓国球界時代
光州第一高等学校では全国大会で優勝、高麗大学校1年の時はAAA世界野球選手権大会で優勝を経験し、実業団野球の韓国化粧品に入団。そこでも1982年のIBAF世界野球選手権大会で優勝、最優秀選手に選ばれた。1984年、ロサンゼルスオリンピックで韓国代表が4位になった時のメンバーでもある。実業団の選手は2年間はプロ入りができないとする規定があったが、韓国野球委員会から特例が認められ(ただし前半戦は出場停止の処分が下された)、1985年のシーズン後半からヘテ・タイガースで試合に出場。同年25試合に登板し[3]、防御率1.70で最優秀防御率のタイトルを獲得。 翌86年には262回2/3を投げ[3]、防御率は1点を切る0.99で2年連続で防御率1位[3]、24勝を挙げて最多勝も獲得した[3]。
当時「宣が投げたら打てない」[3]、「宣銅烈の先発試合は見なくても結果がわかる」と言われる程、圧倒的な存在感を漂わせた。滅多に本塁打も打たれず、彼との対戦で勝利はもとより、本塁打を打つのすら奇跡と言われ、彼が本塁打を打たれたら翌朝のスポーツ紙の1面を飾るのは当然であった程。この傾向は抑えに転身した後はもっと著しくなり、彼がブルペンで投球練習を開始するのを見ただけで、リードされた相手は試合を諦めたとまで言われている。
150km/hを超え、最速155km/hの速球(1991年の日韓プロ野球スーパーゲーム第2戦で記録)と、一見して速球と区別が付かない2種類の高速スライダー、抜群の制球力で圧倒的な成績を収めた。
中日入団から現役引退まで
その後、日本球界入りの意向を表明。韓国プロ野球から日本球界への来日移籍選手第一号となった。巨人との争奪戦の末、1995年オフに中日ドラゴンズに入団。1996年4月5日の広島との開幕戦で1点リードの9回裏に来日初登板を果たすが、ルイス・ロペスに同点打を浴び、いきなりセーブ失敗。4月16日の対巨人戦では3点リードの8回裏に登板するも、3番・シェーン・マックと5番・落合博満に本塁打を浴びてセーブ失敗(但し、直後の9回表に打線が勝ち越したために来日初勝利をあげている)。このように、母国でのスタイルを貫いてムキに力で抑えようとして痛打され1年目は開幕からの不調が続いたことに加え、シーズン直前に母親が急逝したこともあって不本意な結果となった。
しかし、オフ返上など背水の陣で臨んだ2年目の1997年に大変身。同年のオールスターゲームに出場。同年は当時の日本記録となる38セーブを挙げ、佐々木主浩(横浜)と共に最多セーブ投手[4]に輝く。同年に宣が記録した38セーブの1個目は、横浜との開幕戦で、ナゴヤドーム初の公式戦。ナゴヤドームで初めてセーブを記録した投手である。この年はチームが最下位と低迷する中、最多勝を獲得した山本昌とともに奮闘した。
1999年、この年も抑えの切り札として28セーブを挙げ中日の11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、シーズン中盤の6月に3連続で救援失敗をするなど安定感が薄らいだ事などから、この年のシーズン限りでの現役引退を表明。引退会見では6月の時点で引退を申し入れたものの、当時の監督であった星野仙一から慰留されていた事や、選手兼任コーチとして契約するという球団側の提案も打診されたが固辞したことも明らかにしており、「それを乗り越えて優勝に貢献できたが、この辺でやめた方がファンにいいイメージを残したまま選手生活を終えられると決意した」と語っている。中日のリーグ優勝の際に胴上げ投手となり、ダイエーとの日本シリーズ第4戦でも登板するなど、華々しい引退となった。その後のボストン・レッドソックスからの入団要請は辞退した。
引退後
引退後は韓国野球委員会で活動していたが、2003年には自費で中日にコーチ留学。二軍コーチとして研修を受けた後、2004年には三星ライオンズ首席コーチとして韓国プロ球界に復帰。
2005年、監督に就任し、三星をリーグ制覇に導き、2005年のアジアシリーズに出場した。背番号18は起亜タイガースの永久欠番。2006年も三星は韓国リーグを制覇、再び2006年のアジアシリーズの韓国代表として来日した(結果は1勝2敗の予選リーグ敗退)。
2006 ワールド・ベースボール・クラシックにおいては投手コーチとして韓国チームの快進撃に貢献した。そのWBCアジア予選の対日本戦で、韓国チームの投手・裵英洙がイチローに死球を当てたことについて、「あそこから流れが変わったので内心嬉しかった」と朝鮮日報に語っているが「内心嬉しかった」の部分だけ報道されている(韓国ではイチローの発言が捻じ曲げて報道されていたため、誤解が生まれ、イチローに対して怒りを覚えていたためと思われる。詳しくはイチローの「30年発言」を参照)[5]。北京五輪・野球韓国代表チームでは首席兼投手コーチを務めることになった。
2008年1月2日、北京五輪野球代表チーフコーチを辞任したことが発表された。理由は精神的なストレスとのこと。メンバー提出後の大幅なスタメン変更など起用法などで嫌気がさしていたものと思われている。2009年9月29日、三星と新たな5年契約を結び、2010年以降の監督続投が決まったが、契約期間を4年残して突如2010年12月30日に辞任した[6]。
2011年10月18日、2012年シーズンより起亜タイガースの監督に就任することが発表された。起亜の前身ヘテから通算すると、1995年以来17年ぶりの古巣復帰となる。背番号は三星監督時代と同じ『90』。2012年は5位だったが、2013年、2014年と2年連続8位と成績は低迷した。2014年10月19日、契約期間2年で再契約したものの、同年10月25日、前述の成績不振を理由に辞任した。
2015年、プレミア12韓国代表の投手コーチに就任し優勝に貢献した。
人物
中日では李尚勲(サムソン・リー)、李鍾範と合わせて3人の韓国人選手が在籍したことから韓国三銃士と呼ばれた。
韓国のエースと呼ばれながら尊大なところがなく、チームメイトとも仲良くやっていた。中日時代の正捕手の中村武志には絶大な信頼を寄せており、中村のサインに首を振ることはなかった。また、三星の監督となってからも中日時代のチームメイトであった落合英二、種田仁を三星のコーチに招聘している。
来日初年度の不振の原因の一つに「言語の違いによるコミュニケーション不全」があると考えた宣はそのオフから日本語を学び始め、翌年には日常会話をこなせるまでになり(現在でも韓国内での日本のTV取材にはだいたい韓国語で応じているが日本語でも対応できる)、シーズン中は頻繁に松坂屋に出かけて買い物をしたり、シーズンオフには山本昌をはじめチームメートとオーバーホールに行くほど溶け込んでいた。日本語は散歩の途中に分からない看板の文字をメモして自宅に戻って辞書で調べたり、カラオケや麻雀をする中で覚えたという。かつての中日時代のチームメートで、後に韓国球界入りした門倉健とは今でも親交があり、2010年の韓国オールスター戦に出場した際に、門倉と同じくアゴが特徴の他チームの選手2人と並んで「アゴ三兄弟」として多くのフラッシュを浴びていた門倉に「アゴ、まだ若いなあ」と日本語で声を掛けている。
李承燁が鳴り物入りで来日し千葉ロッテマリーンズに入団しながら不振に終わった2004年のシーズンオフ、「李は通訳を介してチームメイトと話している」と聞いて「仲間とはできるだけ直接話すように」と日本語の学習を勧めた。そして、李が日韓通算400号本塁打を記録した際には「冷ややかな視線に耐えた。もはや読売の英雄」と語り、「誰でも日本では冷ややかな視線を体験する。私も振るわないときはストライクゾーンが狭かった。認められることが難しいものの、日本の野球で認められれば全てが楽になる。イ・スンヨプも今年その軌道に乗った」と宣は言ったのだが、多くの韓国選手が体験する差別は確かに存在するとした。と、差別があったと発言してもいないにもかかわらず、差別があったことを認めたかのように中央日報では報道されてしまっている。また、自身が97年、日本で救援登板のプロ野球記録をめぐり競争するレベルに至ると、冷ややかだったチームの同僚や職員が丁寧にあいさつしはじめ、ストライクゾーンも広くなった、と回顧し「スンヨプは無条件に45本塁打をこえるだろう。打率も3割3分台に乗せたし、韓国ではほぼ4割打者も同然」とし「これから誰もスンヨプを認めないわけにはいかない。私の考えでは、読売が5〜6億円以上のお金を渡してスンヨプをキープしようとするだろう」と語った。[7]
また、野球の分野でも非常に研究熱心な人物であり、2006年のキャンプに三星の監督として北海道日本ハムファイターズと練習試合を行ったとき、かつて対戦したことのある新庄剛志の特徴などをしっかりと覚えていた。
知日家・親日家としても知られ、また高校野球のファンでもある。また、プロ野球マスターズリーグにも参加したことがある。親日家のエピソードとして、李鍾範が「日本では韓国人だという理由で待遇が悪かった」など起用法に不満を漏らしたところ、「実力不足を言い訳するな!」と一喝し戒めている。帰国した際に「日本人から何かしらの差別を受けはしなかったか?」と訊かれ「無い。差別は無かった。差別差別と騒ぐのは、実力と努力の足りなかった人間の言い訳だ」や「日本野球は素晴らしかった」と周囲に語っていた。さらに、その後の日韓代表戦にて韓国代表が日本代表に勝った時、韓国のマスコミに「一回勝ったからと言って、韓国球界が日本球界をこえた事にはならない。日本は代表レベルのチームをいくつも作れるが、韓国はまだ1チームぐらいしか作れない。層の厚さに、まだまだ差がある」と冷静に戦力を分析していた。だが、こうした発言から「親日発言ばかりする売国奴」として、反日家に実家の旅館を放火されたこともある。北京オリンピックアジア予選の対日本戦において、韓国チームがメンバー表の提出後に大幅なスタメン変更をしたため、中日時代の監督でもあった日本代表監督の星野仙一に彼自ら直接謝罪している[8]。
なお、中日入団時に韓国航空会社のアシアナ航空から名古屋(名古屋飛行場・中部国際空港) - ソウル(金浦国際空港・仁川国際空港)間の航空機永久無償利用権を授与されている。また、名古屋市から「なごや観光大使」に任命されている。
日韓両国で100セーブポイント(セーブではない)を達成した初の投手である。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | ヘテ | 25 | 3 | 1 | 0 | -- | 7 | 4 | 8 | -- | .636 | 424 | 111.0 | 74 | 2 | 20 | 4 | 3 | 103 | 3 | 0 | 30 | 21 | 1.70 | 0.85 |
1986 | 39 | 22 | 19 | 8 | -- | 24 | 6 | 6 | -- | .800 | 972 | 262.2 | 153 | 2 | 52 | 5 | 7 | 214 | 3 | 2 | 38 | 29 | 0.99 | 0.78 | |
1987 | 31 | 11 | 7 | 4 | -- | 14 | 2 | 6 | -- | .875 | 604 | 162.0 | 89 | 2 | 47 | 1 | 3 | 144 | 1 | 1 | 21 | 16 | 0.89 | 0.84 | |
1988 | 31 | 12 | 9 | 1 | -- | 16 | 5 | 10 | -- | .762 | 674 | 178.1 | 116 | 3 | 35 | 0 | 7 | 200 | 0 | 1 | 29 | 24 | 1.21 | 0.85 | |
1989 | 36 | 12 | 8 | 6 | -- | 21 | 3 | 8 | -- | .875 | 618 | 169.0 | 82 | 2 | 48 | 0 | 7 | 198 | 4 | 1 | 27 | 22 | 1.17 | 0.77 | |
1990 | 35 | 16 | 8 | 6 | -- | 22 | 6 | 4 | -- | .786 | 724 | 190.1 | 121 | 1 | 50 | 1 | 8 | 189 | 5 | 0 | 35 | 24 | 1.13 | 0.90 | |
1991 | 35 | 22 | 12 | 3 | -- | 19 | 4 | 6 | -- | .826 | 761 | 203.0 | 135 | 8 | 25 | 0 | 8 | 210 | 1 | 1 | 42 | 35 | 1.55 | 0.79 | |
1992 | 11 | 2 | 1 | 1 | -- | 2 | 0 | 8 | -- | 1.000 | 119 | 32.2 | 20 | 0 | 10 | 0 | 2 | 42 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0.28 | 0.92 | |
1993 | 49 | 1 | 0 | 0 | -- | 10 | 3 | 31 | -- | .769 | 433 | 126.1 | 48 | 2 | 20 | 0 | 6 | 164 | 0 | 0 | 11 | 11 | 0.78 | 0.54 | |
1994 | 27 | 8 | 3 | 0 | -- | 6 | 4 | 12 | -- | .600 | 404 | 102.1 | 81 | 5 | 21 | 0 | 8 | 94 | 3 | 2 | 31 | 31 | 2.73 | 1.00 | |
1995 | 48 | 0 | 0 | 0 | -- | 5 | 3 | 33 | -- | .625 | 381 | 109.1 | 49 | 1 | 14 | 3 | 3 | 140 | 6 | 0 | 9 | 6 | 0.49 | 0.58 | |
1996 | 中日 | 38 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 3 | -- | .833 | 248 | 54.0 | 62 | 4 | 22 | 3 | 3 | 67 | 1 | 0 | 35 | 33 | 5.50 | 1.56 |
1997 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 38 | -- | .500 | 232 | 63.1 | 36 | 0 | 12 | 0 | 1 | 69 | 0 | 1 | 9 | 9 | 1.28 | 0.76 | |
1998 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 29 | -- | 1.000 | 187 | 48.2 | 31 | 4 | 11 | 0 | 0 | 58 | 1 | 0 | 8 | 8 | 1.48 | 0.86 | |
1999 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 28 | -- | .333 | 131 | 31.0 | 31 | 1 | 10 | 1 | 0 | 34 | 4 | 0 | 9 | 9 | 2.61 | 1.32 | |
KBO:11年 | 367 | 109 | 68 | 29 | -- | 146 | 40 | 132 | -- | .785 | 6114 | 1647.0 | 968 | 28 | 342 | 14 | 62 | 1698 | 27 | 8 | 274 | 220 | 1.20 | 0.80 | |
NPB:4年 | 162 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 4 | 98 | -- | .714 | 798 | 197.0 | 160 | 9 | 55 | 4 | 4 | 228 | 6 | 1 | 61 | 59 | 2.70 | 1.09 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はKBOにおける歴代最高
年度別監督成績
- レギュラーシーズン
年度 | 球団 | 順位 | 公式戦順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | 三 星 |
1 | 1 | 126 | 74 | 48 | 4 | .607 | - |
2006 | 1 | 1 | 126 | 73 | 50 | 3 | .593 | - | |
2007 | 4 | 4 | 126 | 62 | 60 | 4 | .508 | 11.5 | |
2008 | 4 | 4 | 126 | 65 | 61 | 0 | .516 | 18.0 | |
2009 | 5 | 5 | 133 | 64 | 69 | 0 | .481 | 17.0 | |
2010 | 2 | 2 | 133 | 79 | 52 | 2 | .594 | 5.0 | |
2012 | 起 亜 |
5 | 5 | 133 | 62 | 65 | 6 | .488 | 16.0 |
2013 | 8 | 8 | 128 | 51 | 74 | 3 | .408 | 23.5 | |
通算:8年 | 1031 | 530 | 479 | 22 | .525 |
- ポストシーズン
年度 | 球団 | ステージ | 対戦相手 | 結果 | 星取表 |
---|---|---|---|---|---|
2005 | 三 星 |
韓国シリーズ | 斗山 | 4勝 | ○○○○ |
2006 | ハンファ | 4勝1敗1分け | ○●○○△○ | ||
2007 | 準プレーオフ | 1勝2敗 | ●○● | ||
2008 | 準プレーオフ | ロッテ | 3勝 | ○○○ | |
プレーオフ | 斗山 | 2勝4敗 | ●○○●●● | ||
2010 | プレーオフ | 斗山 | 3勝2敗 | ○●●○○ | |
韓国シリーズ | SK | 4敗 | ●●●● |
- ステージの太字は勝利したシリーズ
タイトル
- KBO
- 投手三冠王:4回 (1986年、1989年 - 1991年)
- 最優秀防御率:8回 (1985年 - 1991年、1993年)
- 最多勝:4回 (1986年、1989年 - 1991年)
- 最多奪三振:5回 (1986年、1988年 - 1991年)
- 最多セーブ:2回 (1993年、1995年)
表彰
- KBO
- NPB
- 月間MVP:1回 (1997年5月)
- JA全農Go・Go賞:1回 (救援賞:1997年7月)
記録
- NPB
- 初登板:1996年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、9回裏に2番手で救援登板、2回1失点
- 初奪三振:同上、9回裏に江藤智から
- 初セーブ:1996年4月7日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、9回裏に7番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初勝利:1996年4月16日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、8回裏に2番手で救援登板・完了、2回3失点
- 初先発:1996年6月6日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、2回4失点
- オールスターゲーム出場:1回 (1997年)
背番号
- 18 (1985年 - 1995年、現在は起亜の永久欠番)
- 20 (1996年 - 1999年)
- 90 (2005年 - 2010年、2012年 - 2014年)
関連情報
歌
応援歌
脚注
- ^ 宣銅烈コーチ「台湾戦で必ず勝利する」 北京五輪アジア予選 東亜日報 2007年11月29日
- ^ 최혜원(崔惠媛) 이름, 바로 쓰고 바로 부르기 国立国語院
- ^ a b c d e ベースボールマガジン、2011年11月号 P90-P91
- ^ 当時は最多セーブポイント数で最優秀救援投手を表彰していたため、タイトル獲得は佐々木(41SP)のみ。
- ^ 【WBC】イチローにぶつけた裴英洙が「烈士」扱い?
- ^ <野球>三星の宣銅烈監督が電撃辞任 - 2010年12月30日
- ^ 宣銅烈「冷ややかさに耐えた李承燁」中央日報
- ^ http://beijing2008.nikkansports.com/baseball/asia/p-bb-tp0-20071205-291562.html
- ^ 丸目蔵人『アジオン・ラヴァーズ』、1996年12月、大村書店、P170