狭山事件

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最高裁判所判例
事件名  強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領
事件番号 昭和49年(あ)第2470号
1977年(昭和52年)8月9日
判例集 刑集第31巻5号821頁
裁判要旨
甲事実について逮捕・勾留の理由と必要があり、甲事実と乙事実とが社会的事実として一連の密接な関連がある場合(判文参照)、甲事実について逮捕・勾留中の被疑者を、同事実について取調べるとともに、これに付随して乙事実について取調べても、違法とはいえない。
最高裁判所第二小法廷
裁判長 吉田豊
陪席裁判官 岡原昌男 大塚喜一郎 本林譲 栗本一夫
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑訴法60条1項,刑訴法198条1項,刑訴法198条2項,刑訴法199条
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最高裁判所判例
事件名  強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領被告事件の確定判決に対する再審請求事件についてした再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告
事件番号 昭和56(し)45
1985年(昭和60年)5月27日
判例集 集刑第240号57頁
裁判要旨
所論引用の各新証拠(判文参照)は、それ自体においても、また、旧証拠と総合評価しても、申立人に無罪を言い渡すべき明らかな証拠とはいえない。(いわゆる狭山事件第1次再審請求)
最高裁判所第二小法廷
裁判長 大橋進
陪席裁判官 木下忠良 牧圭次 島谷六郎 鹽野宜慶
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑訴法435条6号,刑訴法447条1項
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最高裁判所判例
事件名  再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件
事件番号 平成14(し)18
2005年(平成17年)3月16日
判例集 集刑第287号221頁
裁判要旨
刑訴法435条6号の証拠の明白性を否定するなどした原判断が是認された事例(いわゆる狭山事件第2次再審請求)
最高裁判所第一小法廷
裁判長 島田仁郎
陪席裁判官 横尾和子 甲斐中辰夫 泉徳治 才口千晴
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑訴法434条 同426条1号
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狭山事件(さやまじけん)は、1963年5月1日埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女被害者とする強盗強姦殺人事件。「誘拐殺人事件」と呼ばれる場合もあるが、誘拐罪では起訴されていない。

解説[編集]

1963年5月23日被差別部落出身で元養豚場勤務の鳶職手伝い・石川一雄(当時24歳)が逮捕され、のちに強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・窃盗[注釈 1]・森林窃盗[注釈 2]・傷害[注釈 3]・暴行[注釈 4]・横領[注釈 5]で起訴され、一審では全面的に罪を認めたが、一審の死刑判決後に一転して冤罪を主張。その後、無期懲役刑が確定して石川は服役した(1994年に仮釈放されている)。

本事件については、捜査過程での問題点が提起されており、石川とその弁護団及び支援団体が、冤罪を主張して再審請求をしている。また、石川が被差別部落の出身であったことから、この事件は部落差別との関係を問われ、大々的に取り扱われることとなった。したがって、部落解放同盟部落解放同盟全国連合会などの部落解放運動団体や、中核派革労協社青同解放派などの政治党派の立場からは、この事件に関する裁判を狭山差別裁判と呼ぶ。

ただし、一審当時から「石川さんを守る会」を通じて石川を支援していた日本国民救援会は冤罪説に立ちつつも

「そもそも「差別裁判」とは、部落出身者たることを秘して結婚した男を誘拐罪で逮捕し、懲役刑にした高松裁判のような事例を言うことは、「差別」のひどさを天皇に直訴した北原泰作らが書いているとおりである。正木ひろし弁護士も、「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになる」(七四年一一月一日付朝日新聞)と論じている。彼ら(部落解放同盟)の規定が間違っていることは改めて言うまでもない」[1]

と批判している。また、1977年には最高裁が上告棄却決定の冒頭で

「記録を調査しても、捜査官が、所論のいう理由により、被告人に対し予断と偏見をもつて差別的な捜査を行つたことを窺わせる証跡はなく、また、原判決が所論のいう差別的捜査や第一審の差別的審理、判決を追認、擁護するものでなく、原審の審理及び判決が積極的にも消極的にも部落差別を是認した予断と偏見による差別的なものでないことは、原審の審理の経過及び判決自体に照らし明らかである」

と述べ、やはり「狭山裁判差別説」を否定している[2]

石川一雄冤罪説に立たない革マルの立場からは、この事件に関する裁判を狭山無差別裁判と呼んでいる。

狭山事件に関しては、弁護側の見解に沿って記事を書かなかった新聞社が部落解放同盟等から吊し上げを受けた事例もあり(#狭山事件に関連する糾弾事件を参照)、マスコミの多くは、石川一雄を「元受刑者」ではなく「さん」「氏」付けで呼ぶようになっている。ただし、日本共産党においてはこの限りではない(歴史的経緯は#支援活動参照)。北九州土地転がし事件をスクープした『小倉タイムス』の瀬川負太郎もまた石川を敬称抜きで呼び、「冤罪かどうかさえ怪し」いと述べている[3]

事件の展開[編集]

1963年5月1日

  • 埼玉県狭山市大字上赤坂の富裕な農家[注釈 6]の四女で、川越高校入間川分校別科1年生の少女(当時16歳)が、午後3時23分に目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明になった。
  • 午後6時50分頃、心配した長男(当時25歳)が学校に行き所在を尋ねたが確認できず、午後7時30分ごろ帰宅したが少女はまだ戻っていなかった。
  • 午後7時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見した。それは四女の生徒手帳が同封されていた脅迫状であり、以下のように書かれていた。
    脅迫状の写真。封筒は角がすり減っていたことから、犯人が何日もポケットに入れて持ち歩いていたものと見られた[4][5]
    脅迫状の入っていた封筒。一度「少時様」と書いたのを消して新しい宛名に書き直している。

少時様 このかみにツツんでこい

子供の命がほ知かたら4月29日五月2日の夜12時に、

金二十万円女の人がもツてさのヤの門のところにいろ。

友だちが車出いくからその人にわたせ。

時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。―

刑札には名知たら小供は死。

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら[注釈 7]

子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら

子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける,

くりか江す 刑札にはなすな。

気んじょの人にもはなすな

  子供死出死まう。

もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら

そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。

封筒の宛名には、「少時様」という意味不明の文字を消した上で、被害者少女の父親の氏名が宛字で記されていた。脅迫文の冒頭にも「少時様」と書いたのを消した跡があった。同様に「4月29日」が「五月2日」、「前の門」が「さのヤの門」に書き換えられていたが、佐野屋に門は存在しなかった。
  • 午後7時50分ごろ、長男は堀兼駐在所に届け出、その後、駐在所から狭山警察署に連絡された。警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られた[注釈 8]
  • 脅迫状の指定時刻「五月2日の夜12時」が5月2日午前0時とも読めるため、5月1日23時40分、次女(当時23歳)が20万円分の現金に見せかけた偽造紙幣を持ち、身代金受け渡し場所として指定された狭山市大字堀兼の佐野屋酒店の入口前で犯人を待った。
    当時の佐野屋。○が佐野屋、◎が姉の立っていた場所、×が犯人の立っていた場所。

5月2日

  • 午前0時半過ぎになっても誰も現れなかったため、張り込みの刑事5~6名[6][7]を含む全員が引き揚げた。
  • 午前3時頃、狭山市大字入間川の畑付近で数匹の犬が一斉に吠えた。2日後、この付近から被害者の遺体が発見されている。
  • 23時55分頃、次女はあらためて佐野屋酒店の前に立ち、20万円分の偽造紙幣を用意して犯人を待った。付近の茶畑や民家の庭の植え込みには、張り込みの刑事が40人潜んでいた。

5月3日

  • 午前0時10分から15分頃に犯人が現場にあらわれた[8]。次女は犯人と約12分間にわたって会話したが、犯人は「警察に話したんべ。そこに2人いるじゃねえか」と張り込みに気づき、0時25分頃「おらぁ、帰るぞ」と逃げてしまった。このとき、張り込みの刑事40人は、脅迫状の「友だちが車出いくからその人にわたせ」との文言を真に受けて車通りにしか配置を行っておらず、犯人を取り逃がしてしまった。犯人の声について、次女は「年齢は26~27歳から33歳くらい。ごく普通の声で、どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声であった」と証言[9]。また、次女の脇にいた狭山市立堀兼中学校教育振興会会長は「中年の男」と証言[9]。張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と証言している[9]
  • 早朝よりの捜査によって、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑で見つかった。捜査官は、足跡の臭いを警察犬に追わせたが、1匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で追跡を停止した。もう1匹は、佐野屋から北側の川越方面に進んで停まった。夜明けに足跡の採取をおこなった結果、足跡は地下足袋(職人足袋)によるもので、権現橋方面に向かった後、市道をやや逆進し、さらに南側の畑に入っていた。
    犯人の足跡の臭いが途絶えた不老川(草刈橋からI養豚場方面を望む)
  • その権現橋のたもとにI養豚場があった。また、I養豚場の経営者の自宅もあった。I養豚場の経営者は被差別部落出身であり、従業員も被差別部落出身者が多かった[10]。I養豚場は、地元では愚連隊の溜まり場として知られ、被差別部落民からも警戒されていた [注釈 9]。権現橋はまた、被害者少女の通学路にもあたっていた。
    当時のI養豚場
  • 朝、埼玉県警は記者会見を開き、本事件を公開捜査にすることを発表。上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と発言、中勲捜査本部長も「犯人は土地鑑があることは今までの捜査でハッキリしている。近日中にも事件を解決したい」と発言した。
  • 朝から警察官45人と地元の消防団員45人による雑木林の山狩りがおこなわれた他、捜査員165人による聞き込みが実施された。14時25分頃、狭山市大字入間川字井戸窪の山林内にて被害者の自転車の荷掛けゴムひもが発見された。

5月4日

  • 10時半、殺害された少女の遺体が発見された。遺体は狭山市大字入間川の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていた。遺体には目隠しがしてあり、首と脚に細引き紐が巻かれ、手は手ぬぐいで後ろ手に縛られていた。うつぶせに埋められた遺体の上には荒縄が置かれ、遺体の頭部には玉石が載せられていた。
  • 19時から21時にかけて、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が、少女宅で司法解剖を行った。
  • 遺体は死後2~3日経過しており、死因は首を絞めたことによる窒息死であったが、警察側の五十嵐鑑定では「加害者の上肢(手掌、前膊或いは上膊)あるいは下肢(下腿等)による扼殺」とされ、弁護側の上田・木村鑑定等では、被害者の首に見られる蒼白帯から、幅広い布による絞殺とされた。死亡推定時刻について、確定判決では5月1日午後4時20分頃[11]とし、弁護側では5月2日[12]としている。
  • 少女は生前に姦淫されており、膣内から血液型B型でLe(a-b+)型の精液が検出された[13]。両足には生活反応のある(生前に受けたことを示す)傷があり、手の爪には犯人のものとみられる皮膚片が挟まっていた[14]。警察側鑑定では強姦とされ、弁護側鑑定では和姦とされた。
  • の中には粥状の食物が約250ml残っていた。法医学ではこれは最後に食事したときから2時間、長くても3時間以内に死亡したと推定される(それ以上経過すると胃の中の食物はほとんど腸に移動してしまうため)。
  • 胃の中にはジャガイモ・ナス・タマネギ・ニンジン・小豆・菜(葉)・米飯粒の半消化物のほか、トマトが残っていた。後に同級生が法廷で証言したところによると、被害者が当日12時頃、昼食として摂った調理実習のカレーライス(ならびにその付け合わせ)には、トマトは入っていなかった。
  • 後頭部には生前に負ったものと思しき裂創があり、おそらく転倒の際、角のある鈍体に衝突して生じたものと推定された。弁護側鑑定では、牛乳瓶2本分程度の出血があったとされた。
  • 腹部や下肢に引きずられた痕があった。
  • 処女膜には少なくとも1週間以上前にできたものとみられる亀裂があったが出血はなかった。ただし、処女膜の亀裂はスポーツ等によって生じた可能性もあり、事件前における性体験の有無は不明であった[注釈 10]
  • 死斑の状態から、初め6時間以上にわたり仰向けにされ、その後うつぶせにされたものと推定された。

逮捕と自供[編集]

1963年3月に発生した「吉展ちゃん誘拐事件」で警察は犯人を取り逃がしており(2年後の1965年に犯人検挙)、次いで起きた狭山での誘拐犯人取り逃がしについて強い批判を受けた。死体が発見された4日には柏村信雄警察庁長官が辞表を提出し、引責辞任した(10日)。埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させるも捜査は難航。死体発見の同日、特捜本部はI養豚場の経営者に聞き込みをおこなったところ、同養豚場からスコップが紛失していることを聞かされたため、この経営者に盗難の被害届を書かせた[15][16]。スコップの存在を知っていたのはI養豚場関係者に限られることや、I養豚場の番犬に慣れている者でなければスコップを盗み得ない状況にあったことから、警察はI養豚場関係者に的を絞り、特命捜査班を組織してI養豚場関係者に対する捜査を開始した。時の国家公安委員長篠田弘作は「こんな悪質な犯人は、なんとしても必ず生きたまま捕らえる」と発表した[17]。11日午後5時ごろ、I養豚場から盗まれたスコップが狭山市大字入間川字東里の小麦畑で発見された。このスコップは一見して農作業や土木工事に使われていたスコップではないことが明瞭であり、木部に食用の油が付着していたため、捜査当局はI養豚場の養豚用スコップと判断した[18][19]。そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから、遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。

同月23日、遺体遺棄現場近くの被差別部落に住む石川一雄(当時24歳、血液型B型)が傷害暴行窃盗などの容疑で別件逮捕された。同日におこなわれたポリグラフ検査で石川は、手拭、タオル、首の絞め方など9項目について、犯人しか知らない点を質問された折に異常な反応を示している[20]。また、被害者の遺体には他人の頭髪が付着していたが、これについて石川の頭髪と比較し、精密検査したところ、特徴がよく似ていることが判明した[20]

石川は小学校5年修了後[注釈 11]、農家の子守奉公や靴屋の店員見習い、製菓工場の工員、土工を経て、1962年10月末頃[21]から1963年2月28日まで[22]約4ヶ月間I養豚場に住み込みで働いていたことがあり、同養豚場の経営者家族や従業員たち27人中21名の血液型を検査したところ、B型は石川ただ1人であった[23][24]。さらに、その27人中14人の筆跡を鑑定したところ、石川の筆跡が脅迫状と一致するという結果が出た[24]

石川には前科はなかったが、13歳の時、列車の転覆事件の容疑者と目され、連行されて取り調べを受けたことがある[注釈 12][25][26]。また、14歳の頃、友人と共に狭山市柏原の民家から鳩を5~6羽盗み、狭山警察署で取り調べを受け、父親と一緒に浦和の裁判所に呼び出されたが起訴猶予になったことがある[27]。さらに、その翌年頃、狭山市入曽の農家の物置から俵を3俵盗み、やはり狭山警察署で調べられ、浦和の裁判所に呼び出されて起訴猶予になったこともある[27]。I養豚場を辞めた後しばらくは金銭問題による家庭内の不和から実家に帰ることができず、自動車の中で寝たり、山の中で寝たり、友人宅に泊めてもらったりしていたが、3月10日頃に所持金を使い果たしてどうしようもなくなり、詫びを入れて実家に戻してもらったという[28]。ただし実家に戻ってからも兄とは折り合いが悪く、兄から「家を出て行け」と言われたほか、姉の婚家に「どうしたら一雄を家から追い出せるか」と相談されたこともある[28]

石川の人となりについて、石川の元婚約者は自分の父親に対し「あまりしゃべらん陰気なひと」と語っていた[29]。また、石川はほとんど学校教育を受けていなかったが知的には正常で、知能指数は100だったことが確認されている[29]

共同通信社は、逮捕前から有力容疑者が石川であるという情報を入手しており、逮捕前日の22日、工事現場で働いていた石川を撮影している。また警察は、報道陣に対して逮捕当日から「筆跡などで石川が犯人であることに確信がある」と発表した。一方「彼が犯人だという確信はあるか」との記者の質問には、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これが白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」と答えたという[30]

逮捕直後の石川は「警察が犯人を逃がしておきながら、こんなところに入れやがって、お前なんか出たら殺してやる」と中勲(刑事部長)に食ってかかった[31]。脅迫状の筆跡と石川の筆跡の一致については「同じ日本語だから似ているのが当たり前だ」と、一致の事実を認めた上で開き直った[31]。また石川の母の証言によると、5月3日朝に石川は起床できず昼頃まで寝ていたというが、5月3日早朝は犯人が佐野屋付近で身代金を奪い損ねて逃走した日だったため、逃げ疲れて寝込んでいたものと警察では解釈した[31]。石川は競輪が好きで借金があったため、金に困っての犯行と思われた[32]。競輪好きの石川は西武園競輪場にもたびたび足を運んでいたため、脅迫状の中の文言

「もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら

子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ」

(もし車で行った友達が時間どおり無事に帰って来なかったら子供は西武園の池の中に死んでいるからそこへ行ってみろ)と結びつくと解釈された[33]

警察は20日以上にわたって取り調べを行ったが石川は自白をしなかった。この間、6月9日には、佐野屋付近の茶畑に残された地下足袋の足跡と、石川宅から押収された地下足袋の大きさや特徴が、完全に一致することが確認された[34]。石川は「この地下足袋は兄のもので、自分には小さすぎて履けない」と言っていたが、捜査本部で石川に履かせたところ、無理をせずに履けることが判明した[34]。石川が事件の前後この地下足袋を履いて仕事をしていた事実も突き止められた[34]

6月13日に別件で起訴された後、弁護士の保釈の申請が認められて6月17日に釈放されることになったが、釈放直後に警察は本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄容疑)で再逮捕した。

再逮捕された石川は、養豚場の元同僚たち2人が被害者を輪姦・殺害した、ただし自分は脅迫状を書いて届けて死体埋葬用のスコップを盗んだだけである、という自白(3人共犯説)を6月20日に行った[注釈 13]。さらに、6月21日には石川が描いた少女のカバンを捨てた場所の地図に基づいてカバンが発見された。6月23日には単独犯行を自白した[注釈 14]。6月26日には自供に基づいて自宅から万年筆が発見された。さらに、7月2日、石川の自供に基づいて腕時計を捨てたとされる場所の付近から、時計が発見された。

石川の再逮捕を受け、被害者の長兄は

「犯人は土工に違いないと思っています。というのは、死体の埋め方です。ふみ固められた農道を掘りかえし、しかも中に死体を入れておきながら、現場に土が少しももり上がっていない。いったい、このあまった土をどこへ持って行ったか。おそらく土工なら処分するのは簡単だったに違いない。
また、わたしは石川の犯行と信じて疑わない。とはいってもこの犯行は単独犯ではないとも思っている。という訳は荒ナワにある。いかに犯人とはいっても、死体をひとりでかつぐのはいやだったんじゃないだろうか……。そこで荒ナワをまきつけて棒でも入れて、二人でかついでいったんじゃないかと、思うのです」[35]

「石川の単独犯行といわれるが、私には納得のいかない点もある。Y(被害者)の死体にまかれていた縄はどうなるのか、一人で死体を短時間に隠したり、埋めたりすることができるだろうか。共犯が誰かいて死体を運びやすいよう縄をまきつけたとしか思えない」[36]

と語った。

石川一雄のアリバイ[編集]

脅迫状における「な」の筆跡
石川自筆の「な」の筆跡
脅迫状における「え」「江」の筆跡
石川自筆の「江」「エ」「え」の筆跡

逮捕される前の石川は、警察による事情聴取に対し、事件当日の行動を以下のように語っていた[37][38]

  • 8時頃 - 兄と一緒に近所で仕事を開始。
  • 16時頃 - 仕事を終えて帰宅。その後はどこにも外出せず、家で過ごす。
  • 21時頃 - 夕食後に就寝。

しかしこの申し立ては、家族と口裏を合わせた上での嘘であることが露見した[39]

犯行自供後、石川は事件当日の行動を以下のように語った[40]

  • 14時台 - 入間川駅(現・狭山市駅)で下車、牛乳を飲みながら歩き出す。
  • 15時台 - 50分ごろ、狭山市入間川の加佐志街道の十字路で、自転車で学校から帰宅する途中の被害者と遭遇。
  • 16時半頃 - 強姦と殺人を実行。
  • 17時台 - 死体処理について30分ほど思案した後、死体を芋穴のそばに運ぶ。脅迫状を訂正。
  • 18時台 - 荒縄を盗む。死体を芋穴に逆さ吊りにしてから被害者の家へ被害者の自転車で出発。
  • 19時台 - 被害者の家に向かう途中、山林で被害者の教科書と鞄を捨てる。30分ごろ被害者の家に到着し、玄関のガラス戸に脅迫状を差し込む。徒歩で帰る途中、I養豚場からスコップを盗む。
  • 20時台 - 盗んだスコップで穴を掘る。芋穴から死体を出して死体埋葬用の穴に埋める。スコップは麦畑に捨てる。
  • 21時台 - 自宅に帰って着替える。

死刑判決後、自供を撤回してふたたび無罪主張に転じてからは、事件当日の行動はこうだったと主張し始めた[40]

  • 7時過ぎ、「仕事に行く」と言って弁当持参で家を出る。しかし仕事に行かず、入間川駅から西武新宿行きの急行に乗り、西武園で下車、西武園で2時間以上を過ごした後、所沢のパチンコ屋で時間をつぶす。
  • 14時台 - 入間川駅で下車、仕事のズル休みが露見すると父に叱られると考え、西口で引き続き時間をつぶす。金子八百屋の知り合いから「パチンコかい?」と訊かれる。
  • 15時台 - 煙草とマッチを買う。入間川小学校(当時は入間川駅の西口にあった。現在は移転)の築山で休んでいたら雨が降ってきた。
  • 16時台 - 入間川駅西口前の荷小屋に到着。雨が本降りになったため19時過ぎまで3時間以上にわたり雨宿りをする。この間、16時頃に中学生の集団を見たほか、17時頃に残飯を積んでジョンソン基地から石川の自宅方面へ向かうI養豚場の車を見たという[注釈 15]
  • 19時頃 - 自宅に帰って着替える。
  • 22時頃 - 食事と入浴の後に就寝。床に入ってからしばらくすると、兄が単車に乗ってずぶ濡れで帰宅してきたという。

しかし無罪主張に転じてからのアリバイは家族の証言以外の裏付けがなく、遊園地でもパチンコ屋でも小学校でも荷小屋でも石川の姿は目撃されておらず、もともと家族と口裏を合わせてアリバイを偽っていた経緯もあり、裁判では事実と認定されていない。

冤罪説[編集]

カバン、万年筆、腕時計が石川の自供により発見されたことは、犯人しか知り得ない物証として各判決の決め手となった。そのため三大物証と呼ばれている。しかし、下記の点を根拠に冤罪説を主張する者もいる。

事件の舞台となった狭山の屋敷林の風景
  • 腕時計については当初捜索のために発表された品名はシチズン・コニー(埼玉県警から特別重要品触として5月8日に手配された物はコニー6型で側番号C6803 2050678と個体識別情報があった)となっていたものが、実際に発見されたのはシチズン・ペット。つまり別の物。

この点につき最高裁は、

「側番号は、捜査官が品触れを作成するために見本として使用した同種同型の腕時計の側番号を軽率にもそのまま記載したことが証拠上明らか」

と、側番号が違うのは捜査官の不注意ミスと述べた。さらに、

「かえって、関係証拠によると、本件腕時計はY(被害者)と姉Tの二人が互いに使用していたことがあり、その場合、それぞれ違ったバンド穴を使用していたというのであって、本件腕時計のバンドにはその事実を裏付ける形跡が窺える」

と述べ、発見された腕時計が被害者やその姉の使用品であることは間違いないとしている。

なお、1976年秋の証拠開示の結果、この品触れに載っていた側番号は確かに見本の時計のものであることが確認され、これにより「発見された時計は被害者のものではない」という弁護側上告趣意書の主張は誤りであることが判明した[41]。このことは「弁護側や、石川一雄の無実を信じて支援活動を続けている人びとにもショックを与え」た、とされる[42]

  • 発見された万年筆は中に入っていたインクがブルーブラック。被害者が当日にペン習字の授業で使っていたとされるインクはライトブルー

この点につき最高裁は、

「被害者又は万年筆やインクと無縁ではない申立人[注釈 16]によって本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がある以上,本件万年筆が被害者の万年筆ではない疑いがあるとはいえない」[43]

と述べ、被害者または石川がペン習字の授業の後、インクを詰め替えた可能性を認定した。

  • 石川の自宅は「自供」以前に何度も捜索されていたにも関わらず、人目につきやすい勝手口の鴨居から万年筆が突然「発見」されたのは「自供」後。

この点につき最高裁は、

「鴨居の高さや奥行などからみて、必ずしも当然に、捜査官の目に止まる場所ともいえず、捜査官がこの場所を見落すことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる」

と、警官が見落とした可能性を認定した。

  • 警察側が証拠とする脅迫状の筆跡が石川の筆跡と異なるものであることは明確であり、かつ、当時の石川には文字を書く能力がないに等しかった。

この点につき最高裁は、脅迫状の筆跡や用字上の特徴と石川の特徴を比べた上で、両者の特徴は同一であると結論づけた。石川の識字能力については、石川が14歳の時に3ヶ月間ひらがなや漢字を習っていたこと、顧客の氏名を漢字で書きこなしていたこと、報知新聞の競輪予想欄や読売新聞を読む力があったこと、友人から交通法規の本と自動車構造の本を借りて読んでいたこと[注釈 17]などを挙げて「他の補助手段を借りて下書きや練習をすれば、作成することが困難な文章ではない」と認定した。なお、国語学者の大野晋は、検察側証拠として提出された脅迫状について、東京高裁控訴審と第2次再審請求の2度にわたり筆跡鑑定を行い、脅迫状の筆跡及び文章が逮捕時の石川の稚拙な日本語能力では不可能なものであると分析し、「脅迫状は被告人が書いた物ではないと判断される」と結論づけた[44]。しかし、裁判所は大野晋、磨野久一(京都市教育委員会指導主事)、綾村勝次(書道家)による3鑑定書について

「これらの鑑定書の説くところは、一言にしていえば、不確定な要素を前提として自己の感想ないし意見を記述した点が多く見られ、到底前記三鑑定を批判し得るような専門的な所見とは認め難い」「被告人は、「りぼん」から当時知らない漢字を振り仮名を頼りに拾い出して練習したうえ脅迫状を作成したものと認められる(「刑」の字についてはテレビその他で覚えていた可能性も考えられることはすでに指摘したとおりであり、「西武」についても、被告人は西武園へしばしば行っていたのであるから、同様に前から知っていたであろうことは容易に推測されるところである。)」[45]

と退けた。 また、大野鑑定は石川の埼玉県警狭山署長あて上申書(1963年5月21日)と脅迫状だけを比較したものだったため、半沢英一から「上申書だけでなく、関源三さんあての手紙なども問題となるので、これらの筆跡資料も対象として立論がなされるべきだった」と批判された[46]

石川一雄の筆跡(1963年9月6日)。「つたえてください」を「ツたエてください」と書いている。なお、この手紙を書いた当時は1963年9月4日に第1審の初公判が始まったばかりだったが、石川自身は「昭和42年(1967年)ごろから、私は文字の読み書きを拘置所の中で、独力ではじめたのです。控訴審になってから、外部の人に無罪を訴えるためには、もはや自分自身の手に頼るしかないと思い、猛勉強をしたのです。そのころには、外部から手紙をもらうようになりました。当初は読めないから担当の看守に読んでもらったのですが、もちろん返事は書けません」と言っている[47][26]
石川一雄の筆跡(1963年10月26日)
石川一雄の筆跡(1963年11月5日)

有罪説[編集]

一方、有罪説の根拠として次のような事実が認定された。

1958年5月1日、石川が東鳩東京製菓株式会社保谷工場勤務時代に書いた早退届。定型書式は他人の筆跡で書かれているが、早退の理由「ずツ」(頭痛)と氏名「石川一夫」、時刻「十二」、さらに「五月1日」という日付を自筆で書いている。ひらがなで「つ」と書くべきところをカタカナで「ツ」と書き、さらに漢数字とアラビア数字を混ぜて書いているのは脅迫状と同じである、と埼玉県警鑑識課(1963年6月1日付)や科警研技官(1963年6月10日付)に鑑定された。
石川一雄が1958年から1959年にかけて東鳩東京製菓株式会社保谷工場に提出した4枚の早退届。
  • 脅迫状における「時」の字の「土」の部分は「主」の崩し字となっていた。石川による上申書でも「時」の「土」の部分が「主」と誤記されていた[43]
  • 脅迫状における以下の特徴が、石川自筆の早退届(逮捕前、東鳩東京製菓株式会社保谷工場勤務時代に書いたもの)や上申書にも表れていた。
  1. 平仮名で「つ」と書くべきところを片仮名で「ツ」と書くこと。[2]
  2. 日付の記載は漢数字とアラビア数字を混用すること。[2]
  3. 助詞「は」は「は」と「わ」を混用すること。[2]
  • 脅迫状では「一分出もをくれたら」「車出いツた」「死出死まう」などと「で」が「出」と表記されていた。石川自筆の手紙でも「来て呉れなくも言い出すよ」「あつかましいお願い出すが」などと「で」が「出」と表記されていた[2]
  • 石川は脅迫状を被害者の家族方に届けに行く途中、鎌倉街道自動三輪車に追い越されたと供述している。この自供の後、警察が証人を探したところ、確かに同時刻に鎌倉街道を自動三輪車で通ったという証人が見つかった(犯人しか知り得ない事実)。[2]
  • 石川は脅迫状を被害者の家族方に届けに行く途中、被害者宅の近隣農家に被害者宅の場所を訊いたと供述している。その近隣農家に面通しさせたところ、石川の背丈・顔貌・頭髪の様子と一致した[23][注釈 18]
  • 石川は脅迫状を被害者の家族方に届けに行く途中、被害者宅の2~3軒東隣の表道路に自動車が停まっているのを目撃したと供述している。調べてみると、そのころ被害者宅の2軒東隣に肥料商がライトバンを停めていた事実が判明した。[23]
  • 被害者の遺体を縛る時に用いた手ぬぐいは狭山市の「五十子米穀店」が165本配布したうちの1本であり、同じくタオルは東京都江戸川区の「月島食品工業株式会社」が配った8434本(いずれも一般の顧客ではなく商店の家族や雇用人に配布され[48]、このうち狭山市内では9軒のパン屋などに配布された[49])のうちの1本だったが、追跡の結果、石川はこれらを両方とも入手し得たごく少数の1人と判明した。すなわち、前者は石川の姉婿に2本(ただし姉婿は「1本しか貰わない」と述べた)と石川の隣人に1本が渡っており、後者は石川がかつて勤務していた東鳩東京製菓株式会社保谷工場の工場野球チームに約50本が渡っていた。石川はこの野球チームの元メンバーであった。[2][23]
  • 被害者の姉ならびに狭山市立堀兼中学校教育振興会会長[注釈 19](身代金受け渡しの際に姉の脇で犯人の声を聞いていた)が、犯人の声と石川の声を「そっくりだったです」「声全体から受ける感じがピッタリだった」と証言した。[50][2]
  • 石川は当初、家族と口裏を合わせて[39]「5月1日は兄とともに近所の家の屋根を直しに8時ごろから16時ごろまで仕事をしていた」「この日はどこへも出なかった」「そして夕飯を食べて21時ごろ寝てしまった」とアリバイを偽っていた[37][38]。のちにこのアリバイは覆され[39]、石川の虚偽が証明された。

刑事裁判の経過[編集]

1963年7月9日、当時の浦和地方裁判所(現:さいたま地方裁判所)に強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領で起訴されて浦和拘置所に移送された石川は、1963年9月4日から始まった一審で犯行を終始認め、判決の言い渡しまで否認をしなかった。

石川一雄が死刑判決を受けた浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所)

石川によると、当初罪を認めていたのは、警視の長谷部梅吉から

「石川君 何時まで強情張って居るのだい、殺したと言わないか、そうすれば一〇年で出してやるよ、石川君が言わなくても九件も悪い事をしてあるのだしどっちみち一〇年は出られないのだよ…」「石川君 殺したと言って 呉れ 吾は必ず一〇年で出してやるからな」[51]

と甘言で釣られたためであるというが、当の長谷部はこのような発言の存在を否定しており、石川の申立の信憑性は証明されていない[52]。なお、逮捕当初の石川は被害者の父に1963年6月27日付で

「このかみをぜひよんでくださいませ○○○○(被害者の父の氏名)さん私くしわ●●●●(被害者の氏名)さんごろしの石川一夫(ママ)です」

との書き出しで、

「●●(被害者の名)さんごろしのつみをぜひいちばんのつみにしてくださいませ この一夫(ママ)はよの中のためにわなりませんからぜひおもくしてください」

「○○○○(被害者の父の氏名)さん一夫をぜひいちばんのつみにしてください ●●(被害者の名)さんごろしの一夫です ○○○○(被害者の父の氏名)さん」

と訴えた謝罪の手紙を出している[53]他、川越警察署分室の留置場の壁板にも

「じようぶでいたら一週かに一どツせんこをあげさせてください。六・二十日石川一夫(ママ)入間川」

と詫び文句を爪書している。しかし、弁護人の中田直人らは自白や物証の疑わしさを衝き、また警察による違法捜査の可能性を指摘し、無罪を主張した。ただし一審の段階では石川が犯行を認めていたため、弁護人橋本紀徳の最終弁論もまた、本事件が石川の犯行であったことを前提に、石川に前科がなかったこと、出来心による犯行[注釈 20]であったこと、意図的に殺したのではなく誤って殺したことなどを強調し情状酌量を狙う内容となっていた[54]。なお、石川家には私選弁護人の報酬を支払う能力がなかったため、中田らは自腹で石川を弁護した。一審判決の直前、1964年3月7日、石川は知人である巡査長の関源三に

「私は必ず人を殺して反省をしないようでは神様が黙ってはおりません 又私はどのような「サバ」きを受けようが決して不服はありません」[55]

と書き送っている。
1964年3月11日に浦和地裁は石川に対し、死刑の判決を言い渡した。翌3月12日、石川は控訴し、同年4月30日、東京拘置所に送られた。控訴後、1964年3月26日、知人である巡査長の関源三[注釈 21]

「テレビやラジオ新聞でご存知のとうり(ママ)私は死刑の判決を受けました それも仕方のないこととあきらめておりますが控訴申立の手続だけはしておきました」[56]

と石川は書き送っている。また、1964年4月20日付で浦和地裁の裁判長に

「私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し三月一一日浦和の裁判所で死刑を言い渡された石川一雄でございます」

で始まる上申書を出しており、この段階では殺人の罪を争っていなかった。このころ拘置所で石川と同房だった者の証言によると、当時の石川は

「こういう判決だったけれども十年か十五年たてば出られるから、まだ今二十五で若いし、四十までにはおそくとも出られるから、出たらある人に金をもらう」[57][58]

と語り、三波春夫の歌のメロディで

「Yちゃん(被害者の名)殺しはサラリととけぬ」

という替え歌をうたっていたという[59][60]。また、この同房者によると、当時の石川は

「共犯がいる」

とも発言していたという[57][61][60][注釈 22]


ところが、1964年9月10日に東京高裁で開かれた控訴審(裁判長・久永正勝)の第1回公判では、石川は「お手数をかけて申し訳ないが、私は●●さん(被害者の名前)を殺してはいない。このことは弁護士にも話していない」と言い放ち、執拗な取り調べや虚偽の司法取引などにより自白を強要されたことを主張し、一審で認めた犯行を全面否認した。石川が突如として無罪主張に転じた背後には、石川の父親の友人で[62]、石川の補佐人として雇われていた川越出身の部落解放運動家・荻原佑介[注釈 23](自称「部落民連盟、日本監察保安隊」「同胞差別偏見撲滅部落民完全解放自由民主党」[63]代表)の示唆が関与していた。

石川の主張によると、自分が一審で犯行を認めたのは、認めれば10年で刑務所から出してやるという警察との「男の約束」を信じたためであるという。しかし、1964年9月に無罪主張に転じ、みずから「男の約束」を反故にした後も石川は知り合いの巡査部長の関にあてて

「又日高町に疎開されたそうですが私の家の者が何か関さんに悪くいったのでいずらくなって(ママ)移られたのですか。そうでなければ長年住みついたところを離れるわけがありませんね。もし父や兄がそんな事を言ってたのなら私は残念でなりません。だって関さんに(3人共犯の自白を─引用者註)話したのは関さんから言われたのではなく私から話したのですもの。今度父が面会に来たらそれとなく聞いてみて連絡します」[64]

と、みずから進んで自白した旨の友好的な手紙を書き送っている(1965年6月22日付)。また、1965年7月18日にも

「実は誠に申にくい(ママ)のですが、先日父が面会に来たので日記帳を宅下げしたのです。そしたら、それを中田先生の所へ持っていったらしく、中田先生から手紙が来て、関さんと絶対会ってはいけないと書いてあったのです。しかし私はそんなことなどかまわないでいましたら一昨日父が来て話すには、弁護士さんに言われたと思うが関さんと会ってはいけない、もし隠れて会ったのが解れば面会に来てやらないと言われたのです。私も日記帳に書き入れなければ良かったのにと今ではじだんだしてます。しかし後の祭りですね。また私としては関さんと会って川越に居た頃のことをお話ししたいのですがそんな訳で私の気持をおさっし下さい」[65]

と詫びるハガキを関に送っている。 しかし警察に対する石川の感情は後に悪化し、1966年11月22日付の荻原宛の手紙では

「私にかわって、内田武文(第一審の裁判長)を綿密にお調べの上、裁判をして、私同様に死刑にしてください」

「内田武文を絞首台にあげてください。また、長谷部(警視)、関(巡査部長)の両人も死刑にしてもらいます。この二人は、私がでてからやりますから、取り調べにあたった人の写真を全部送ってもらいたいのですが、警察に頼んでみてください」

と呪詛の念を吐露するに至った。

1974年10月31日東京高等裁判所は、弁護団の主張を斥けて「無期懲役」の判決を下した。死刑判決を選ばなかった理由について、東京高裁判決は「本件の犯行には右に述べた偶然的な要素の重なりもあって、被告人にとって事が予期しない事態にまで発展してしまった節があると認められること、それまで前科前歴もないこと、その他一件記録に現れた被告人に有利な諸般の情状を考量すると、原判決が臨むに死刑をもってしたのは、刑の量定重きに過ぎて妥当でない」と述べている。

二審判決後、弁護団は新証拠をあげて上告したが、1977年8月9日最高裁は上告を棄却した。その結果、石川の無期懲役が確定し、1977年9月8日千葉刑務所に下獄した。

石川一雄が服役した千葉刑務所

千葉刑務所での様子は、見沢知廉『囚人狂時代』、金原龍一『31年ぶりにムショを出た』、元死刑囚K・O(カービン銃ギャング事件主犯)『続・さらばわが友』に描写されている。K・Oによると、刑務所当局は石川の支援団体に気を遣い、石川には入所早々から日当たりの良い南側の独居房をあてがう特別待遇をおこない[66]、所内での禁止行為を石川にだけは特別に黙認していたという[67]。石川の愛読書は殺人関係の小説であった[68]。石川はまた、獄中で短歌を作り、「牽牛織女の再会ドッキング」(七夕)から「淫戯を想して」涎を垂らす旨の歌を詠んでいる[69]。 金原によると、千葉刑務所の周辺には週に約1回の頻度で部落解放同盟中核派社青同解放派などの支援団体の街宣車が訪れ、「冤罪事件に巻き込まれた石川さん! 今日も頑張ってください!!」などと大音量の拡声器で激励していたのが塀の中まで明瞭に聞こえていたという。石川は

「今日は社会党の代議士が会いに来た。面会ではケーキですよ」「今日カンパが300万円届きましてね。これで私の領置金は億を超えました。あなた、出たらぜひ私のところで秘書の仕事をしてください」

などと自慢していたために反感を買い、「冤罪を訴えているが実はやってるんじゃないか」と噂されることもあったと金原は伝えている[70]。また見沢によると、千葉刑務所時代の石川は月額数百万円のカンパを貰い、カンパ金で車やビルを買ったといわれる[71]。しかし石川は「いやあ、今月のカンパは少ねえなあ」と笑い、出所の翌日には700万円のオーディオ機器を買ったという[71]。このような石川の行動に対して『解放新聞』編集長の土方鉄は詩人の酒井真右に

"狭山""狭山"っていっくらゆったって(ママ)、とても石川君が、この堕落のザマじゃ奪還できる筈もねえよ。[72]

と嘆いており、部落解放同盟の内部にも石川を批判する声があった。

再審請求[編集]

弁護団はその後も異議申立て、再審請求を提出するが棄却・却下されている。

1994年12月21日石川が31年7ヶ月ぶりに仮出獄した。関東地方更生保護委員会はこの事実を公表したが、出所したことを公表するのは極めて異例である。他に公表したケースは、神戸連続児童殺傷事件の加害者、元少年A(犯行当時14歳)の関東医療少年院を仮退院した事例のみである。仮出獄後の石川は故郷の狭山市の実家に戻ったが、1995年12月18日に実家が全焼。その後、実家跡には部落解放同盟の「狭山再審闘争勝利現地事務所」が建てられ、事件当時の石川宅が復元保存されている。

もともと石川一雄は製菓工場時代に被差別部落出身ではない女性と知り合って婚約関係となっていたが、事件の4ヶ月前、1963年1月に急性肺炎で婚約者を失った過去がある[29]。しかし、仮出獄2周年の1996年12月21日には支援者である徳島県の被差別部落出身の女性(狭山事件の被害者女性と同年、1947年の生まれ)と結婚し、実家付近に8階建てのマンションを建て、不動産収入で老後を送っている。

2005年3月16日、最高裁第一小法廷は第二次再審請求の特別抗告を棄却した。この直前の2月13日、「ザ・スクープ スペシャル」(テレビ朝日)で、「見えない手錠をはずして! 狭山事件42年ぶりの真実」と題した特集が組まれ、冤罪説の立場から石川のロングインタビューなどが放送された。

2006年5月23日、支援者と石川が東京高等裁判所に第三次の再審を請求した。

2006年12月、石川は第18回多田謡子反権力人権賞を受賞した。石川は、現在も多くの支援者のもと、無罪を主張しつづけている。

2010年5月13日、東京高裁、東京高検および石川の弁護側と三者協議が行われ、検察側は裁判所の証拠開示勧告を受けて、確定判決で殺害現場とされた付近の畑で農作業をしていた男性の捜査報告書や、石川が犯行を自白した際の取り調べ録音テープ9本などあわせて36点の新たな証拠を開示した[73]

狭山裁判の歴史[編集]

狭山裁判関連テロ事件の歴史[編集]

  • 1969年11月14日、中核派が「狭山差別裁判糾弾」と称して浦和地裁を占拠。地裁に火炎瓶を投げ込む。
  • 1974年夏、東京都新宿区市谷富久町の、寺尾正二判事が住む法務省官舎に空気銃が撃ち込まれる[79]
  • 1974年10月27日22時頃、東京都新宿区市谷富久町の、寺尾正二判事が住む法務省官舎東側の塀に爆竹が仕掛けられる。寺尾への嫌がらせと見られた[79]
  • 1974年10月29日、石川一雄有罪に抗議して社青同解放派東京高裁長官室乱入事件を起こす。
  • 1976年9月17日、石川一雄有罪に抗議して社青同解放派東京高裁判事襲撃事件を起こす。同年9月26日、社青同解放派が集会の席上「革命的人民により、反革命裁判官寺尾に報復の鉄槌が下った」と声明を発表。
  • 1977年8月23日、中核派が狭山事件担当の最高裁調査官の自宅に時限式爆燃物を仕掛け、杉並駐在所ならびに狭山市・西宮市・広島市の派出所に放火。
  • 1977年9月、石川一雄在監中の東京拘置所へ無人の火炎自動車が突入。
  • 1979年10月30日、革労協が10.31狭山集会の前段闘争として検察庁合同庁舎へ火炎放射器でゲリラ攻撃をおこなう。
  • 1990年10月、判事として狭山事件一審を担当したことのある弁護士の自宅が放火され、雨戸などが焼かれる。
  • 1994年3月4日、東京高裁判事として狭山裁判第2次再審請求の審理に関わった近藤和義の自宅に革労協狭間派が金属弾を撃ち込む。革労協狭間派の機関紙『解放』(1994年3月15日付)が「第二次再審棄却を策謀せんとすることに対しての革命的鉄槌」との犯行声明を発表。

狭山事件に関連する糾弾事件[編集]

新潟日報糾弾事件[編集]

1973年11月、新潟日報社内の過激派系の社員が「狭山事件の当初報道が、警察情報により、石川青年を真犯人としていたのは許せない」と編集局長たちを数回にわたり糾弾した[80]1964年、狭山裁判の一審当時に新潟日報が共同通信の配信記事を使ったのが突如約10年もさかのぼり問題にされたものである[80]

過激派社員は「狭山事件の当初の報道が部落差別的でないというのなら、それを検討する場をつくれ。解放同盟の声を聞く機会をつくれ」と要求し、社内紛争に発展[80]1974年3月には19人の社員が譴責などの処分を受け、1974年6月には暴力事件で社側が告訴する事態に発展した[80]

1974年5月16日、新潟日報上越支社で、狭山裁判の支援署名を取りに来た社員に対し、支社長が署名を保留しつつ「あの人たちの中に日本人以外の人が含まれているのか」と質問すると、「あの人たちは日本人か」という意味に取られ、部落解放同盟上越支部から糾弾を受けた[80]

これを受け、6月28日、新潟日報社は編集局長名で「弁解書」を部落解放同盟上越支部に送付し、次のことを約束した[80]

  1. 貴同盟ならびに貴支部が、県内で行う行事その他を取材し、紙面に載せることを強化する[80]
  2. このため、特に上越支社報道部には貴同盟の担当者を設けるが、県単位の組織ができたときは本社報道部にも同様の記者を置く[80]
  3. 文化欄や解説欄などで、部落差別に関する評論や座談会、研修会などを積極的に取り上げていく[80]

もともと新潟日報では、1970年6月、県教育界の堕落を批判した記事における「常識通じゃない特殊部落」との表現が部落解放同盟新潟県連から問題視され、糾弾に発展し、反省文の発表と社内研修会を経て、「部落」の語を「地区」と言い換えることが検討された経緯があった[80]

1974年10月、部落解放同盟主催の部落解放研究全国集会にて、「新潟日報社における、マスコミ労働者が、かつての狭山報道を中心に、内部から、マスコミのあり方をただしている闘争は注目に値する」と過激派社員が高く評価された[80]

読売新聞糾弾事件[編集]

1974年2月8日読売新聞が西部本社版の紙面で東京高裁における狭山裁判の審理再開をとりあげた際、検察側の意見陳述を報道したところ、部落解放同盟の中間・遠賀地区協から抗議を受けた[81]

この記事は、検察側の意見陳述として

「『石川被告人の自白は完全なものとは言えないが、犯行の基本的部分では、核心に触れる供述をしており、十分信用できる』と弁護側の無罪論を全面否定した」

と、事実を客観的に報じたものだったが、部落解放同盟の中間・遠賀地区協は

「狭山裁判の内容を歴史的、客観的に説明せず、審理再開の内容だけを部分的、主観的に報道しており、社会的に部落問題で差別観念がある中で、否定的な役割を果たすものである」

と糾弾した[81]。要は、狭山事件の報道にあたっては常に部落解放同盟の主張に沿った解説を付けよとの要求であった[81]。 中間・遠賀地区協は2月9日に電話で抗議するとともに、社側を事情聴取し、さらに遠賀町当局に「読売西部本社糾弾要綱」なる文書を4000部印刷させて闘争を開始した[81]。この糾弾要綱は

「現在の読売新聞社西部本社の差別態度を、真に部落解放を正しく実現しうる本来の新聞社へと根本的に改造し、血の通った報道活動を実現させる。

そのためには社の幹部や記者などすべての構成員の遅れた意識を徹底的に粉砕し、正しい解放意識に基づいて考え、発言し、行動するよう、読売新聞社西部本社全構成員の意識改造を完全に図る」

「部落解放報道について、解放同盟との協議協力を確認させる」

との内容であった[81]

6月8日には北九州市職員の同席のもとに糾弾会が開かれ、5時間にわたり吊るし上げがおこなわれ、自己批判、研修、協議制度など5項目の要求がつきつけられた[81]。しかし思想改造や事前検閲制を要求する部落解放同盟に対し、読売新聞社西部本社は同意を拒否し、編集の自主性を主張した[81]

この事件につき、小倉タイムスの瀬川負太郎は「これではまったく戦前、新聞社を襲撃した右翼の論理と変らないではないか。またこの通りにことが運べば憲法が保障した思想・信条の自由、言論・出版の自由、結社の自由は有名無実になってしまう」[82]と部落解放同盟を批判している。

関係者の相次ぐ変死[編集]

1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。

さらに

  • 1963年5月 - 石川一雄宅と同番地に住む青年O(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になったこと[89]
  • 1967年2月14日 - 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡したこと(享年83)[89]
  • 1964年3月18日[89] - 身代金受け渡しの際に被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が石川の死刑判決の直後に脳出血で急死したこと[90]
  • 1968年1月28日[89] - 主任検事の原正が浦和市の自宅にて脳出血で急死したこと[90]
  • 1970年12月25日 - ハンガーストライキ4日目(1963年6月22日)の石川を診察したことのある川越署嘱託医が行方不明となった後、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見されたこと[91]
  • I養豚場時代の石川一雄の同僚で、石川と前後して別件逮捕され(1963年6月3日)、共犯容疑を追及され、1966年7月に証人として公判に出廷した被差別部落出身の青年T(逮捕当時23歳)が行方不明になったとされること[89]

を加算し、変死者を12人と数える場合もある。ただし、青年Tについては身元を隠して千葉県に移住したことが確認されている。

このことから、あたかも真犯人や真相を知る者が自責の念から自殺したかのように、あるいは口封じのために関係者を殺したかのように想像し、物証と取り調べ方法に関する不審点や差別問題を背景に冤罪説と結びつける向きもあるが、一連の変死と狭山事件との関係は何ら証明されておらず、憶測の域を出ない[92]。特に1963年5月11日の目撃通報者の自殺については、亀井トムにより「自殺を偽装した謀略殺人」との説が唱えられたこともあるが[93][94]、後には石川冤罪論者の半沢英一からも「この亀井トムさんの説は、根拠とする事実の認定からして間違っていました。例えば、T・Nさんの自殺当日に取られたT・Nさんの奥さんの供述調書が残っており、それによれば、T・Nさんは奥さんの眼前で、たしかに包丁で心臓をついて自殺しており、他殺でなかったことは確実です」[95]と批判されるに至っている。

亀井トムは被害者の日記における「夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい」(1963年4月27日)との記述を根拠として、財産分与をめぐる身内の犯行との説を唱え[96][97]、部落解放同盟[98]殿岡駿星もこの説を踏襲した。亀井によると、被害者の父は「農家の子は男も女も中卒で充分。もし高校に行きたければ自分で働いて行け」との持論の持ち主で、長兄も次兄も夜間高校出身だったが、被害者は兄弟姉妹の中でただ1人昼間の高校に行った、高校に行けば知的になる、そうすれば財産の6分の1はもらいますよと主張するようになる、これは長兄にしてみると非常に困ることだった、という[99]。一方、伊吹隼人は財産分与をめぐる身内の犯行との説を「なぜ高校に入学したばかりの少女を真っ先に殺害しなければならないのかの説明がつかない」と批判している[100]

その後、上告審の段階から部落解放同盟は真犯人探しの推理を避けるようになった。狭山事件最新弁護団の依頼で石川冤罪論の立場から筆跡鑑定をおこなった半沢英一は、家族真犯人説を示唆する小説を書きつつ[101]、「『狭山事件の真犯人』について私は、当時の警察の捜査が、思いこみによって非常に偏っていたことから、本質的な情報が収集されなかった可能性が高く、今となっては推定不可能だと考えています」と述べている[95]

支援活動[編集]

部落解放同盟と日本共産党の対立[編集]

事件発生当時、石川の兄から相談を受けた遠藤欣一(狭山市議、日本共産党)の紹介で日本共産党系列の自由法曹団の弁護士(東京合同法律事務所の中田直人と橋本紀徳。のち同事務所の石田享が参加)が石川の弁護人となり、日本国民救援会など、日本共産党の影響下にある団体が、極貧の石川家のために自費で支援活動をしていた。1963年に第1回部落問題研究者集会で中西義雄が狭山事件に触れたこともあるが、一審当時の石川は罪を自供していたため、部落解放同盟中央本部からは支援を受けられなかった(ただし中央本部とは別個に埼玉県連や群馬県連などが石川の家族を励ますとともに、埼玉県警捜査本部に抗議を申し立てたことはある[102])。1964年9月に二審が始まり、石川が無罪主張に転じた時、石川の弁護士の中田直人らは部落解放同盟中央本部を訪れ、支援を要請したが顧みられなかった[1]

その後、1965年の同和対策審議会答申に積極的な評価を与える部落解放同盟と、否定的な評価を与える日本共産党の間で軋轢が生じる。1965年5月29日、東京高裁第2回現場検証に野本武一や清水喜久一ら埼玉や東京の部落解放同盟代表が参加[103]。1965年10月5日、部落解放同盟第20回全国大会で、石川の無実を前提とする公正裁判要求の決議が出る[103]

1968年10月6日、部落解放同盟は「狭山事件第1回現地調査」を行なったことを公表[104]。1969年3月3日と3月4日、部落解放同盟は第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択し、「差別裁判」を盛んに主張するようになった。1969年7月10日、部落解放同盟が中央本部に石川青年救援対策本部を設置し、パンフレット「狭山事件の真相」を発行[103]。これを受け、1969年11月、被差別部落出身の学生運動家の沢山保太郎らが「狭山差別裁判糾弾」を掲げ「浦和地裁占拠闘争」を開始。1970年3月13日、部落解放同盟第25回全国大会で「狭山差別裁判糾弾」の方針を決定[103]。1970年5月18日、部落解放同盟が部落解放国民大行動に取り組み、狭山差別裁判反対を訴えて、6月17日まで日本全国を行進[103]。1972年1月26日、部落解放同盟と協力関係にある日本社会党が第35回大会で狭山闘争支援を決議[103]

このように、石川支援の軸足が日本共産党から日本社会党へ移るにつれ、一審における石川の弁護人の中田直人らは部落解放同盟から「差別弁護士」「日共系弁護士」という攻撃を受けるようになり、1973年には石川自身からも「日共系弁護士」と公然と非難され[105]、1974年4月には、中核派機関誌『武装』誌上で石川から「三月公判に於ける弁護士の不誠意・斗魂のなさといいましょうか、勉強不足には耳をふさぎ目をそむけたくなる」と非難を受け、1974年10月の二審終了後、1975年2月には石川から解任され、

「石川君じしんが、反共・反民主主義的破壊活動をこととする「部落解放同盟」朝田派の立場にくみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなった以上、石川君の弁護人となることによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできません」

と辞任声明を発表するに至る。なお、中田らの辞任に先立つ1970年には既に朝田善之助(部落解放同盟委員長=当時)の依頼で山上益朗が狭山弁護団に加わっていた。

石川は、逮捕当時はほぼ文盲だったと支援者から言われている(ただし裁判では文盲と認定されておらず、逮捕直後には既に克明な日記を書きこなし、その日記は後に『石川一雄獄中日記』として刊行された)。その後、石川は東京拘置所の看守の助けで必死で文字を学び、精力的に支援者への手紙や、短歌をしたためるようになった。1975年、第1回部落解放文学賞「短歌」部門で特別賞を受賞している。

なお、石川を積極的に支援してきた部落解放同盟では、石川の実兄を埼玉県連合会の狭山支部長に迎えている[106]

日本共産党と新左翼セクト間の対立[編集]

新左翼セクトの多くは、狭山闘争を沖縄闘争三里塚闘争と並ぶ重要な闘争と位置づけた。とりわけ解放同盟は狭山闘争を重視し、行進や署名運動などを盛んにおこなった。そして、いわゆる「解放教育」でも、狭山事件を差別裁判であるとする内容が盛り込むようになっていった。解放子ども会や一部の学校などでは「差別裁判うち砕こう」の歌[107]の授業や、「狭山同盟休校」(授業ボイコット)などが盛んに行なわれた。こういった形態での「狭山闘争」を、日本共産党などは「狭山妄動」として激しく非難した。全解連の機関紙「解放の道」によると、1970年7月、朝田善之助は水上温泉における部落解放全国青年集会(全青)で「証拠調べなぞいらん、差別性を明らかにしてやればよい」 と放言したこともあったという[108]

その後、日本共産党は『赤旗』1975年1月11日付に論文「「一般刑事事件」民主的運動」を掲載し、

「「解同」朝田派は、この事件(狭山事件)を頭から「差別裁判」と規定したうえ、これを反共キャンペーンの材料とし、わが党にたいして、共産党は"差別裁判でないと主張、えん罪事件にわい小化した"などのひぼうをおこなっている。これは、「差別裁判」というかれらの独断的な規定をうけ入れないものは、「差別者」だとする立場からの問答無用の議論である。また、わが党中央は、狭山事件について、無実の「えん罪」であると規定したことはなく、この点からいっても、まったく見当ちがいもはなはだしい中傷である」

と発言。後に『赤旗1977年12月2日号と3日号で、日本共産党中央部落対策委員会の田井中一郎名義で見解を発表し、「解放同盟が支援活動を混乱させてしまった」と強く非難した[109]。さらに、田井中は

「かれら(部落解放同盟)の論法でいくなら、部落住民にかんする事件は、真犯人であろうとなかろうと、すべてが「部落差別」を基礎とする「差別裁判」ということになるのである。しかも、かれらは「差別裁判」だと決めつけることによって「石川青年の即時釈放」を要求し、かれらに同調しないものや、証拠にもとづく公正な裁判を要求してたたかっていた人たちまで「差別裁判」の加担者だと攻撃した。これが、部落住民なら、どんな犯罪をおかしても裁判をうけたり、罰せられたりすべきではないとする、きわめて反社会的な主張であることはあきらかである。

 もともと、ある裁判の基本性格を「差別裁判」と断定するには捜査、起訴、審理、判決という訴訟の過程に、ことさら差別観念をあおったり、未解放部落住民であることを最大の理由として処罰するなどの明確な事実がなければならないが、「狭山裁判」をそうしたものと断定する根拠はないのである。

 また「解同」はこの事件自体があたかも「部落解放運動」への弾圧事件だったかのようにみせかけている。だが「狭山事件」は、松川事件のような政治的背景のある謀略事件と全く性格がちがい、石川被告は、事件当時、部落解放運動とはなんのかかわりももっておらず、警察や検察当局がこの事件から部落解放運動の組織や活動の弾圧にすすむということもなかったのである。」[109]

と主張し、石川の冤罪に差別があったことを疑った。また、「解同」が中核派社青同解放派などのトロツキストと野合していると批判した。さらに、石川自身も解放同盟に与し、共産党を非難したとして、共産党系団体は支援活動から離れ、一審以来の弁護士も弁護団から離脱した[1]。 解放同盟らによる、狭山事件が「差別裁判」であるとする主張を受け、新左翼が支援に乗り出し、中核派などが解放同盟との共闘を盛んに強めてゆく。このため、狭山闘争の集会では、「日共差別者糾弾」「反革命カクマル殲滅」といったアジテーションも盛んに行なわれてゆくようになった。また、社青同解放派による東京高裁長官室乱入事件東京高裁判事襲撃事件が起きている。「寺尾と刺し違える覚悟」で法廷闘争に臨み、有罪判決を耳にしたときに「そんなことは聞きたくない!」と激怒した石川は、東京高裁判事襲撃事件を知ったとき、感謝感激したという。新左翼と部落解放同盟との共闘は、部落解放同盟と日本共産党との対立を激化させる原因のひとつとなった。また、新左翼陣営の内部でも中核派ブント系・社青同解放派民学同の間で主導権争いがおこなわれていた。ただし革マルは石川を「真犯人に酷似している石川」と呼び、石川冤罪説に対して距離をおく立場をとった。

2005年10月30日に埼玉県狭山市で開かれた狭山事件再審請求集会の様子

一方、日本共産党と連帯関係にある全国部落解放運動連合会(全解連)は、狭山裁判は差別裁判ではないとの立場をとった。同時に、いわゆる「解放教育」について、部落解放同盟などが推し進めている同盟休校は教育権の蹂躙であり、また保育園児にまで「石川兄ちゃんかえせ」「日共粉砕」などと叫ばせているとして、解放同盟を激しく非難した[110]。部落解放同盟による「狭山同盟休校」は1976年から始まり、同年5月22日には日本全国19都府県連で1500校10万人の児童生徒が休校に参加した[111]。この「狭山同盟休校」は1984年まで続いた後、「狭山集団登校」「狭山ゼッケン登校」として存続した[112]。また、中核派系の部落解放同盟全国連合会(全国連)でも小中学生の「狭山集団登校」をおこなっている[113]

全解連の後身である全国人権連は、

「献身的な弁護士らが「石川は犯人ではない」と主張しましたが、石川本人が「自白」を維持したことから一審は敗訴。弁護士解任は、「解同」などが狭山事件を「差別裁判」と規定し「日共系排除」という反共主義をまるだしに大衆的裁判闘争に障がいを持ち込んだことにあります。(中略)74年には石川自身も、反共・部落排外主義の「解同」の立場にくみし、一審以来献身的に尽力してきた中田直人主任弁護人ら7名を一方的に非難・誹謗するに至ったため、75年2月、中田弁護人らはこの裁判闘争から手をひかざるをえなくなったものです。」

との見解を示し、石川が当初は起訴事実を認めていたこと、および石川が「反共の「解同」に与した」ことを非難している[114]。また、人権連の事務局長で茨城県人権連書記長の新井直樹は日本国民救援会の見解に立ち、ブログの中で狭山事件を「えん罪事件」と呼んでいるが[115]、人権連としては狭山事件について見解をまとめたことはない。

狭山事件を題材、モデルとした作品[編集]

映画
  • 狭山の黒い雨(1973年、監督:須藤久) - 部落解放同盟が製作した映画。なお、須藤監督は1971年に映画『歴史よお前は誰のために』における「穢多」の語の多用のために部落解放同盟から糾弾された経緯があり、その反省の証として監督させられたのが本作品『狭山の黒い雨』であった[116]1973年には、淀川長治サンケイ新聞のインタビューでの発言が問題視されて部落解放同盟から糾弾された際、本作品を部落問題の観点から批評することを約束させられている[116]
  • 狭山事件(1974年) - 日本共産党系の団体が製作した映画。冤罪を主張しているが、部落解放同盟に「差別映画」と攻撃された。
  • 造花の判決(1976年、監督:梅津明治郎) - 部落解放同盟が製作した映画。盛んに上映運動が行なわれたが、強姦の描写があることが問題視された。
  • 狭山裁判(1976年、監督:阿部俊三
  • フィルム・レポート 狭山事件 真犯人は誰か(1976年)
  • フィルムレポート第二集 差別と権力犯罪 これでも石川さんが犯人か(1977年、監督:瀬戸要、福田元彦、小島茂)
  • 狭山事件 18年目の新証言―悲鳴・人影はなかった―(1982年、監督:松良星二
  • 狭山事件 石川一雄・獄中27年(1991年、監督:小池征人
  • SAYAMA みえない手錠をはずすまで(2013年、監督:金聖雄
演劇
ビデオ
歌曲
  • 『差別裁判うち砕こう』[118]
  • 『水平賛歌』 - 部落解放同盟の支部員が作った歌。水平社宣言の文言と「かえせ石川君」のスローガンとが盛り込まれている。

その他、宮崎駿によるアニメーション映画『となりのトトロ』について「狭山事件をモデルにしており、トトロは死神の象徴。サツキやメイは実は死んでいる」との都市伝説もあるが[119]スタジオジブリは公式にこの説を否定している[120]

参考文献[編集]

いずれも石川が冤罪であるとの立場からのもの。部落解放同盟や中核派など特定のイデオロギーに支配された政治団体によるプロパガンダ目的の刊行物もあり、必ずしも中立的な内容の本ではないことに注意を要する。

状況証拠のみで死刑判決が出た類例事件[編集]

当事件に関連する諸説[編集]

当事件に関連する説には以下などがあるが、説のすべての網羅ではない。いずれも信憑性につきWikipediaはいかなる保証もしない。
  • 伊吹隼人 - 被害者の家に怨恨を持つ何者かを主犯として想定[121]。この主犯の指示で養豚場の1名ないし2~3名[122]の従業員(ただし石川一雄以外)が極めて計画的に誘拐・強姦殺人を行った可能性が高い、との説を唱えている[122][123]。また、被害者宅の元使用人も協力(場所貸しなど)したほか[124]、被害者の中学時代の男友達もおびき出しに手を貸したものと推測している[125]
  • 甲斐仁志 - 被害者と肉体関係があった中年男による、不倫の清算を目的とした単独犯行との説を提唱[126]。その中年男は、被害者の中学時代の教師か長兄の詩の仲間であろうと考える[127]
  • 亀井トム(亀井兎夢) - 財産争いを理由に、被害者の長兄が養豚場経営者の兄弟を雇って妹を殺害せしめたとの説を提唱[128]。被害者宅の元使用人も共犯であったと推測[128]。かつて部落解放同盟がこの説を一部変更して提唱していた。脅迫状については、犯人たちがコナン・ドイルの『ライゲートの大地主』をヒントにして「まず脅迫文の下書きを主犯がつくり、それを共犯者にうつさせ、その共犯の筆跡を練習して露骨な不統一をなくすようにしてから、こんどは主犯が自分の書く部分を先に書き、共犯の書きこむ部分をあけておき、あとから共犯にそこに書きこましたもの」[129]と推測している。このほか、「本当の身代金受け渡しは1963年5月1日に被害者宅の門前でおこなわれたが、結果として犯人を取り逃してしまった。警察はその失態をごまかすため、脅迫状の文言を一部改竄して5月2日の佐野屋前における身代金受け渡し劇を演出し、被害者の死に対して警察が責任をとらないで済むよう仕向けた上で、無実の石川一雄をスケープゴートに選んで冤罪に陥れた」などとも主張[130]。『狭山事件への告発状』(三一書房、1978年)の中で、被害者の長兄と上田明(埼玉県警本部長)と中勲(埼玉県警本部刑事部長・捜査一課課長)の3人を証拠隠滅・偽証・同教唆・公務員職権濫用・特別公務員職権濫用・同幇助・殺人未遂・同幇助の容疑で刑事告発[131]。これ以後、被害者の長兄は狭山事件研究者からの取材を一切拒むようになった。
  • 殿岡駿星 - 亀井同様に被害者の長兄を真犯人と想定。さらに、長兄が被害者と近親相姦の関係にあったとも推測。妹との暗い秘密の発覚を恐れて殺害し、目くらましのために「営利誘拐・強姦殺害事件」を偽装したと見る。自説の裏付けを取るため、長兄に質問状を送りつけたが、「書状は確かに受け取りました。その設問にはお答えする事は出来ません。平成2年4月18日」と葉書で回答を拒否された[132]。著書『犯人─「狭山事件」より』の冒頭では「名乗るべきは真犯人 あなただ 己の罪を告白すれば神も許すというのに 二十数年間も無実の獄にいる人をよもや忘れてはいまい あなたは沈黙を続けている それなら私があなたに代わってその罪を懐疑的に綴らねばならない……小説という鬼面をつけて」と呼びかけている[133]
  • 苫米地英人 - 被害者の「小中高の担任の先生」「捜査に積極的に協力した先生」[注釈 28]を真犯人と推測した[134]

関連項目[編集]

  • 枝野幸男 - 再審請求弁護団の一員であり、2000年11月27日には現地を視察したこともあるが[135]、2011年1月、第79代内閣官房長官就任に伴い、三権分立の観点から弁護団を脱退した[136]
  • 樺島正法 - 朝田善之助の法律顧問で、狭山弁護団の一人。橋下徹のボス弁として知られる。
  • 鎌田慧 - 「狭山事件の再審を求める市民の会」事務局長。アポイントメントも取らず被害者の長兄の家に押しかけて面会を強要し、「今でも石川一雄さんが犯人だと思っているんですか」と詰問したことを『狭山事件 石川一雄、四十一年目の真実』(草思社、2004年)の中で記している。
  • 小嵐九八郎 - 狭山闘争のデモで逮捕されたことがある[137]
  • 小松川事件 - 在日朝鮮人による女子高生レイプ殺人事件。狭山事件と同様に差別問題が絡む事件とされ、マイノリティに対する同情から大江健三郎秋山駿大岡昇平木下順二旗田巍吉川英治渡辺一夫など当時の進歩的文化人や在日朝鮮人同胞が助命嘆願運動をおこなった。犯人とされた男は自供したが物証はなく、一部では冤罪説も喧伝された[138][139]
  • 斎藤まさし - 1974年に狭山闘争で逮捕されたことがある。
  • 首都圏女性連続殺人事件 - 狭山事件と同様、自白のみがほぼ唯一の証拠であり、「小野悦男さん救援会」事務局代表の山際永三が被告人の小野悦男を狭山事件の石川一雄になぞらえた[140]。また、「小野悦男さん救援会」代表の長谷川健三郎(救援連絡センター運営委員)は狭山闘争の参加者の一人であり[141]、長谷川によると、警察は小野が被差別部落出身ではなく部落解放同盟が救援に乗り出すことはないと確認した上で「小野さんへのでっちあげをすすめた」という[142]。新聞記者の中島俊もまた、千葉県警やマスコミは部落解放同盟への懸念から小野の親類や友人に被差別部落関係者がいないか徹底的に調べ、被差別部落と無関係であることを確かめてから「クロ説を二人三脚で突っ走った」と述べている[143]
  • 中山武敏
  • 平口広美 - 漫画家でAV男優・AV監督。部落問題への関心から『冤罪・狭山事件』(現代書館、1984年)の挿絵を描いたほか、部落解放同盟中央本部発行の月刊誌『狭山差別裁判』の表紙を描いている。
  • 福島瑞穂 - 再審請求弁護団の一員。
  • 和島岩吉

外部リンク[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1962年11月19日、I養豚場の雇い主の指図により建築現場から杉柱材16本を盗み出した件。ならびに、1963年1月下旬頃、農家から鶏3羽を盗んで食べた件。ならびに、1963年3月6日、農家から鶏2羽を盗んで食べた件。ならびに、1963年3月7日、作業衣1着を盗んだ件。
  2. ^ 1963年1月7日、I養豚場の雇い主らと共謀し、茅120束を盗んだ件。
  3. ^ 1962年11月23日頃、愚連隊仲間と共に17歳の少年に集団暴行を加え、全治5日間の顔面打撲傷を与えた件。
  4. ^ 1963年1月7日頃、愚連隊仲間と共に前出の17歳の少年に集団暴行を加えた件。ならびに、1963年2月19日頃、交通トラブルに関連して農協職員の顔面を2回殴打した件。
  5. ^ 割賦で買ったオートバイの代金の支払いが済まぬまま、1962年6月中旬、これを知人に売り渡した件。
  6. ^ 被害者の家は、家屋5棟、宅地1反3畝、畑2町3反、山林1町3反、土地1万1190坪を所有する地主であった。『日刊ゲンダイ1976年8月13日付(第23号)による。
  7. ^ この「きなかったら」は狭山の土地言葉の一つ。狭山付近で育った伊吹隼人によると、狭山から通う農家や職人・労務者の息子などの大半が「こなかったら」を「きなかったら」と言い、作文の際にも「こなかったら」を「きなかったら」「きなかたら」などと書いていたという(『検証・狭山事件』p.126)。埼玉県では「来る」「する」が上一段化される傾向が強く、「キナイ」「シナイ」から「キル」「シル」まで聞くことができる、と秋山雪雄『標準語と方言』(教育出版、1973年)p.75にもある。
  8. ^ この点について、事件当時の所沢警察署長・細田行義は、脅迫状の発見・届出に先立つ午後6時半過ぎ頃に埼玉県警から「女子高生行方不明、誘拐の可能性あり」との連絡を受けたと証言している(細田証言)。ただしこの証言は裁判では採用されていない。亀井トム『狭山事件 無罪の新事実』による。
  9. ^ 狭山事件二審第16回公判調書によると、石川一雄の兄も「みんなIのところの若い者がね、人を脅迫したり結局は暴力を振ったりするという」ので、一雄に「(I養豚場を)やめるように」言って退職させ、自分のもとで鳶の手伝いをさせた、という。
  10. ^ この処女膜の亀裂について、下田雄一郎『史上最大のミステリーを推理せよ!狭山事件』p.154のように「亀裂が基部に達していることから『過剰な運動や手淫、生理用具の挿入』の場合とは異なるとされた。つまり性体験があったと推測された」とする資料もある。
  11. ^ 充分な学校教育を受けなかったことについて、石川当人は「被差別部落出身だからというわけではなく、そんな時代でした」と発言している(時流ワイド ●狭山事件 50年無実訴え 直聞インタビュー 石川一雄さん(3/6ページ) 2013年10月10日付 中外日報)。
  12. ^ 狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.73では「昭和29年頃、入曽~入間川間で起った電車転覆未遂事件の容疑者として逮捕されたことがあり、この妨害事件が起った時、父と私は花嫁女学校(通称山学校)で働いてい、雇い主のTさんが証明してくれたから犯人にされずに済んだ」と述べている。山学校とは「山の学校」「お山の学校」とも呼ばれ、事件当時武蔵野中学校・高等学校学校法人武蔵野学院)の林間学校施設であった。また同学校創設者高橋家の住宅も施設内に所在し、一家が在住していた。同施設の敷地は、旧制武蔵野高等女学校及び武蔵野家政女学校が埼玉県新座郡朝霞町に所有していた実習施設「朝霞農園」の代替地として同学校に提供された土地である。同農園は1935年、同地を含む一帯に帝国陸軍被服廠を設置するため陸軍省に接収された(現在陸上自衛隊朝霞駐屯地の一部となっている)。戦時中、山学校に高橋家と同学校在校生が疎開、戦中・戦後を通じて教育施設として機能していた。戦後、在校生の疎開は終わったが高橋家の人々はそのまま山学校に居を定め、1966年に林間学校施設が神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖畔に移転した後も高橋家の人々が在住していた。以後も同学校が所有しており、2010年に「武蔵野学院狭山の杜」として再整備され、武蔵野学院大学ほか学校法人武蔵野学院が設置する各学校の自然教育施設として使用されている。一部雑誌等において事件当時の山学校について「人が住んでいない建物」「男女の密会場所」などと紹介しているものがあるが、一貫して同学校が管理・使用し、また高橋家の人々が在住し続けており、無人・廃屋のような状態になったことはない。
  13. ^ ただし冤罪論の立場からは、石川が「3人共犯」の自供を始めたのはカバンが発見された後とされ、「3人共犯」の供述調書の日付が6月20日になっているのは警察のでっちあげである、と主張されていた。「3人共犯」の自供日について、部落解放同盟中央本部『狭山差別裁判 第3版』(部落解放同盟中央出版部、1972年)p.311では6月23日としており、北川鉄夫『狭山事件の真実』p.217では「早くて6月21日」、p.269では「6月23日頃」、p.288では6月23日としている。その根拠は石川一雄自身の手記「真実の記録」(『部落』1971年7月号)であったが、2013年現在では部落解放同盟中央本部も3人共犯の自供がなされた日を「6月20日」頃としている(狭山事件年表)。
  14. ^ 「6月23日には単独犯行を自白」というのは部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『無実の獄25年 狭山事件写真集』p.126(解放出版社、1988年)による。しかし、部落解放同盟中央本部『狭山差別裁判 第3版』(部落解放同盟中央出版部、1972年)p.312では、単独犯行の自白は6月26日になされたことになっており、両書の記述には矛盾がある。
  15. ^ これについて石川は「私がIさん方に仕事をして居る頃は土、日曜日以外は五時頃上げてきた事は一度もありませんでしたがこの日はこの様な時間に来たので私は今ではヘンに思われて成りません」と荻原佑介あて書簡(1965年11月22日)に記している。 狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.230による。
  16. ^

    「石川が家へ来てから字を書く所は見ておりませんし,石川の書いたものも見たことはないが,家へ来たとき,青インクの小瓶を箱に入ったまま持っていたし,万年筆も持っていて,1回石川とジョンソン基地へ残飯上げに行ったとき,入門証を書くとき,石川から万年筆を借りて書いたことはあったが,石川がボールペンを持っているかどうかは知りません」(I養豚場経営者の検察供述調書。1963年6月8日)

  17. ^

    「石川は、私の家に居るとき、読んでいたものは歌の本とか週刊明星が主でしたが、私が野球が好きで報知新聞をとっていると、この新聞の競輪予想欄を見ては、しるしをつけていたし、私の家でとっている読売新聞も読んでおりました。また、去年の12月ごろ、石川が自動車の免許証を取りたいと言っていたとき、私が免許証をとるとき使った交通法規の本と自動車構造の本を石川に貸してやったら、それを少し読んでいるのは見ました」(I養豚場経営者の検察供述調書。1963年6月8日)

  18. ^ 当時、被害者宅やその所在地を尋ねたとされる近隣農家には表札はなく、石川自身は2008年頃のインタビューで「脅迫状届けに行くのに、被害者の自転車に乗って近所の家で尋ねること自体が変でしょう。そこがもし、被害者の家だったらどうするんですか?」と反論している(伊吹隼人『狭山事件─46年目の現場と証言』p.162による)
  19. ^ この教育振興会会長の長男は被害者の中学校時代の同級生であり、長男が生徒会長、被害者が副会長という間柄であった。被害者は日記の中でこの長男に好意を吐露している。なお、この教育振興会会長の兄(農業、市会議員)は「少時」と同じ発音の名前であり、なおかつ当時小さな子供がいたため、脅迫状の「少時様」に擬せられたこともある。『週刊文春』1963年6月10日号「平和な村を襲った殺人犯パズル狂騒曲のあと」、ならびに亀井トム『狭山事件 無罪の新事実』p.160-166による。
  20. ^ 石川には夢遊病的な前歴があり、18歳の夏には昼寝中に起き上がって全裸で近所をかけずり回ったことがあると狭山裁判第一審第8回公判で自ら証言している。
  21. ^ 関は1916年3月、埼玉県入間郡勝呂村(現・坂戸市)生まれ。事件当時は石川一雄と同じ被差別部落に住んでおり、亀井トムからは「部落出身らしい警察官」と呼ばれている。『狭山事件』(辺境社、1972年)p.43, p.290を参照。
  22. ^ ただし石川はこの同房者の発言について「そのようなことを言った覚えはないんですけれども、何か聞き間違いじゃないでしょうか」「Yちゃん事件の共犯じゃなく、パイプのこと(ジョンソン基地からパイプを盗み出して売却した件。起訴されていない─引用者註)を話したのをあなたが、そういうふうに受取ったような私は気がする(ママ)んですけれども」「パイプを盗んだ時七人位共犯がいたんです。実際に盗んだのは三人ですが、一応ここでも以前述べましたが、Iさん(I養豚場経営者の兄)という人の名前だけは話すまいと思ったんです」と反論している(狭山事件二審第28回公判調書。部落解放同盟中央出版局発行「狭山事件公判調書」第二審第2分冊(第十四─二十八回公判)p.1261。伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.65)。
  23. ^ 1912年2月生まれの荻原は、農業のかたわら油の行商などで生計を立てつつ埼玉県の入間郡水平社に参加し、当時から一貫して反共国粋主義を掲げ、一人一党の部落解放運動を展開、1953年頃からさまざまな選挙に次々と立候補し、川越市長選挙などに落選を繰り返していた。この荻原は、被害者やその母について

    「男好きの淫奔な女性で死亡まで肉体関係をしていたという色男が十人位いた」「被害者●●●●は(中略)体格は一人前の女に成長し、性格は死ぬまで○○○○をしていた○○が十人もいたという多情多感、○○な母に似て中学一年生位の時から既に男性に積極的で」

    云々と誹謗中傷した証拠申立書(1964年10月26日)を埼玉県警本部長の上田明に送りつけ、それによって石川の無実を証明しようと図ったのみならず、被害者が男を誘ったのだとして強姦の事実そのものを否定しようとしていた。亀井トム『狭山事件権力犯罪の構造』(三一書房、1975年)による。
  24. ^ 公明党衆院議員の沖本泰幸1972年5月10日の衆院法務委員会

    「現場近くに住む犯人らしい男が自殺したというような情報に対して、篠田国家公安委員長は、こんな悪質な犯人は何としても生きたままふんづかまえてやらなければと歯ぎしりをしたと、これは埼玉新聞の五月七日の記事でありますけれども、こういうふうに言っている事実があります。こういうことで、結局、****(被害者宅の元使用人)の自殺の背景や要因を十二分に捜査せずに、生きたまま逮捕するというところに全力を尽くしたという辺に問題があるのじゃないかというような点が一点あるわけです」

    と発言し、警察庁刑事局長の高松敬治から

    「**という人が自殺をした。これについて何も調べないでやったというふうなお話でございますけれども、これにつきましては、当時の記録を見てみますとかなり調べております。それでこの事件に**は関係がないということの結論を出しているわけでございます。これは全然ほったらかして、単なる見込み捜査で石川に行ったということでは絶対にございません」

    と反論を受けたことがある。この元使用人の血液型もB型であり、筆跡についても1963年5月7日付『東京タイムズ』に「似ている点がかなり認められる」と報じられたが、自殺の翌日、1963年5月7日の産経新聞夕刊に複数の近隣者の証言として「一日は午前中から親類、知人がなん人かお祝い品をもってきていた。午後四時ごろから、親類のひと二人をまじえてGさんは酒をのんでいた。しかしGさんは酒があまり強くないので、七時ごろはひとりで寝てしまった」とのアリバイが報じられており、捜査本部からはシロと断定された。元埼玉県警刑事部長の中勲の証言によると、この元使用人は性的不能に悩んで医師に相談していたことからも犯人の適格性を欠くと判断されたという(狭山裁判第二審第39回公判における証言)。
  25. ^ 彼女は日記を書き残していたが、その内容は、彼女の長兄によると「常識では考えられないことが書いてあった」という。ただし具体的な内容は公表されていない。『週刊朝日』1970年12月18日号「狭山事件の黒いナゾ」、伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.132を参照。
  26. ^ この人物は石川家の隣に住み、事件がまだ捜査段階でI養豚場関係者への取り調べが続いていた頃、2度にわたり石川家に乱入し「おらのことを喋ったろう」と言って戸を蹴り倒したことがある。また、この人物は、
    1. 狭山事件の前に石川一雄の兄から犯人と同じ9文7分の地下足袋を借りていること。
    2. 佐野屋の前から逃走した犯人と同じように足が速いこと。
    3. 佐野屋に現れた犯人の発言「おらぁ、帰るぞ」と符合するかのように「おら」という口癖があったこと。
    4. 被害者の遺体を縛るのに使われていた「すごき結び」という縛り方に慣れていたこと。
    5. 事件後にアルコール中毒で精神不安定となり、2度にわたり精神科に入院していたこと。
    などから、亀井トムにより真犯人に擬せられたことがある。事実、事件当時の1963年5月15日には兄弟と共に「近日逮捕」と報じられたこともあるが、同5月19日にはアリバイありと発表され、逮捕を免れている。伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.71-72を参照。
  27. ^ 狭山市大字北入曽字堀難井「北上地区」に所在した踏切。当該人物の自殺後、脱輪した乗用車と電車の衝突事故が起きたため閉鎖され(伊吹隼人「狭山事件現地インタビュー集 Vol.1」P103参照)、そのまま再開されることなく廃止されている。入曽駅~入間川駅間において廃止された踏切はこの一ヶ所のみである(駅構内踏切を除く)。
  28. ^ 事件当日に被害者を目撃した旨の証言をしている被害者の堀兼中学校三年生の時の担任教諭が事件に関与していると推測する説が幾つかあり、その中で同教諭の担当教科を「体育」と紹介しているものが見られるが、同教諭は体育の教師ではない。

出典[編集]

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