大分交通別大線

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別大線
506号車佐野植物公園 2009年
506号車
佐野植物公園 2009年
軌間 1067 mm
電圧 600V 架空電車線方式直流

#は当線廃止後の設置

STR
久大本線
ABZql BHFq STRq STRlg
日豊本線
uexKBHFa STR
大分駅
uexBHF STR
外濠 -1942?
uexBHF STR
竹町
uexBHF STR
県庁前 -?
uexTBHFl uexSTRlg STR
0.8
0.0*
官公街勧銀
uexBHF uexSTR STR
1.3 新川
uexSTR uexBHF STR
茶屋町 -1923?
uexBHF uexSTR STR
1.8 浜町
uexSTR uexBHF STR
0.4* 堀川 -1929
uexBHF uexSTR STR
2.3 春日浦
uexSTR uexBHF STR
陳列所前 -1923?
uexSTR uexBHF STR
1.0* 蓬莱 -1929
uexBHF uexSTR STR
2.7 王子町
uexSTR uexBHF STR
駄ノ原 -1923?
uexSTR uexBHF STR
1.5* 聯隊前 -1929
exKBSTl
uexmKRZ eABZlg
2.9 専売公社
uexSTR uexSTR STR
大分港
uexSTR uexBHF STR
金谷橋 -1929
uexBHF uexSTR STR
3.5 西大分 1929-
uexSTR uexBHF BHF
2.3* 西大分 -1929
uexTBHFl uexSTRrf STR
3.8
2.7*
かんたん[1]
uexDST STRc2 STR3
牛ヶ谷信号場 -?
uexBHF STR+1 STRc4
5.8 白木
uexHST STR
5.9 白木海水浴場(臨) -?
uexDST STR
6.9 仏崎信号場
uexSTR eBST
仏崎信号場
uexBHF STR
7.7 田ノ浦
uexBHF STR
8.6 別院前
uexBHF STR
10.1 篠崎 -1941
uexBHF STR
10.5 両郡橋
uexBHF BHF
11.1 東別府駅
uexBHF STR
11.5
0.0
浜脇
uexSTRc2 uexABZg3 STR2 STRc3
uexSTR+1
STRc1 STR+4
11.8 松原通 -?
uexBHF uexSTR STR
12.0 永石通
uexBHF uexSTR STR
12.2 流川通
uexSTR uexKBHFe STR
1.0
別府 -1922
uexSTR STR
12.6
0.0
←←北浜
uexTBHFl uexBHFq uexKBHFr BHF
0.3
弥生通 -?
uexSTR2 uexSTRc3 STR
0.5
別府駅
uexSTRc1 uexSTR+4 STR
uexBHF STRc2 STR3
12.8 仲間通
uexBHF STR+1 STRc4
13.1 富士見通
uexBHF STR
13.5 境川
uexBHF STR
14.1 餅ヶ浜
uexBHF STR
14.8 国際観光港
uexBHF STR
15.4 春木川
uexBHF STR
15.8 深町
uexBHF STR
16.2 六勝園
uexSTR HST
別府大学#
uexBHF STR
16.5 聖人ヶ浜
uexBHF STR
16.7 遺族会館前
uexBHF STR
17.0 照波園
uexBHF STR
弁天前 -1943
uexBHF STR
17.8 亀陽泉前
uexBHF STR
18.1 亀川新川
uexKBHFe BHF
18.4 亀川駅
STR
日豊本線

別大線(べつだいせん)は、かつて大分県大分市大分駅前から別府市亀川駅前までを、国道10号別大国道)に沿って結んでいた大分交通軌道線。通称別大電車

1900年(明治33年)九州初の路面電車として開業し、末期まで黒字であったが、バス乗用車の発達に伴い別大国道の混雑が問題視されるようになり、大分県警の要請を受けて1972年(昭和47年)に廃線となった。

路線データ[編集]

1969年3月当時

  • 路線距離:大分駅前 - 亀川駅前間18.4km
  • 軌間:1,067mm
  • 複線区間:かんたん[1] - 両郡橋間除く11.8km
  • 電化区間:全線(直流600V)
  • 閉塞方式:タブレット閉塞式

歴史[編集]

京都電気鉄道名古屋電気鉄道大師電気鉄道小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道として開業。また余剰電力は周辺の商店街へも供給され当時としては数少ない街灯も点灯した。

前史(豊州電気鉄道から大分交通設立まで)[編集]

別府-大分間の軌道敷設は1890年(明治23年)に大分県一等警部だった平塚恰[2]が企画したことから始まる。

1894年(明治27年)11月に軌道敷設特許状が下付されると、1896年(明治29年)8月に豊州電気鉄道を設立。社長には平塚から誘われた愛媛の実業家菊地清治[3]が就任した[4]。ところが同じ別府-大分間を馬車鉄道で計画し、その後合同した秦誠一郎が破産し撤退、菊地も会社を離れてしまった。代わりに1898年(明治31年)11月に就任したのが大分町の中山東太郎。しかし1899年(明治32年)9月の臨時株主総会で中山をはじめ役員は総辞職してしまい、社長は福岡県小倉町の神崎岩蔵が就くことになった[5]。この神崎社長時代の1900年(明治33年)5月にようやく別府-大分間に電車が通ることになった。ところが当初は物珍しさから見物客は殺到したものの、電車の速度が遅く従来の馬車から客を奪うまでいかなかった。また一般の人にはまだ電気に対する知識がないため、デマには会社が悩まされていた。一方電灯事業を開始し、1901年(明治34年)より路線延長工事に着手するなど新たな事業資金の捻出のため増資や社債の発行などしていたが思うようにはいかず借入金だよりとなった。その後業績はあがらず借入金は増大し神崎社長は1902年(明治35年)7月で退任。ほとんどの役員も交替した。

次に社長になったのは大分町の後藤喜太郎[6]。ところが後藤も1903(明治36年)8月には甲斐治平に交替することになった。1904年(明治37年)11月大分地裁は豊州電気鉄道の破産を決定した。この訴訟をおこしたのは愛媛の実業家佐々木長治[7]であり1901年(明治34年)から取締役になっていたが1903(明治36年)3月に辞任し貸付金の返済を求めてのものであった。これは仲裁により和議となる。佐々木の債権を株に書き換え新会社豊後電気鉄道を設立し豊州電気鉄道の電車事業及び電燈事業を承継することとなった。

豊州電気鉄道は1906年(明治39年)1月臨時株主総会で解散を決議し5月清算を完了した。一方1906年(明治39年)1月4日豊後電気鉄道[8]を設立。社長は佐々木が就任。一切の事業を承継し1月5日登記を完了した。そして佐々木は大卒社員を採用し経営にあたらせるようにした。彼らは別府や大分で電車の展示会や構造説明会を開き一般の人への電気への啓蒙につとめた。また仏崎に長州観音を奉置し参詣客に対し運賃割引の特典をあたえるなど旅客誘致策をすすめた。一方日露戦争後の好景気により石炭価格が高騰し発電の燃料費が問題となっていた。そこで1907年(明治40年)5月に設立したばかりの大分水電と交渉の結果9月に事業権を譲受した。これを機に佐々木は社長を退き[9]代わりに大分水電よりきた長野善五郎[10]が社長に就任した[11]。水力発電所を手に入れ、電車及び電灯供給の電気のコストは削減され、経営は好転していった。

明治末から九州各地に電気事業者の数は増えていった。やがて東京大阪の資本と提携し群小電気会社を買収していく電気会社があらわれてくるようになった。その中で九州水力電気が1915年(大正4年)9月に大分水力電気(明治44年設立)を傘下に収めて大分県下の電気事業者の大半をおさえると豊後電気鉄道もその流れにのり12月の臨時株主総会で九州水力電気との合併を決議。1916年(大正5年)4月1日より九州水力電気の経営するところとなった。なお合併により長野は九州水力電気の取締役についた。

年表[編集]

  • 1894年(明治27年)11月30日 軌道敷設特許[12]
  • 1896年(明治29年)8月5日 豊州電気鉄道設立[12]
  • 1897年(明治30年)4月28日 工事施工許可[12]
  • 1900年(明治33年)5月10日 豊州電気鉄道により大分町(後、堀川) - 別府町(後、別府桟橋)間開業[12]
  • 1900年(明治33年)11月16日 電灯及び電力供給事業許可[13][14]
  • 1901年(明治34年)2月19日 軌道敷設特許[13]
  • 1901年(明治34年) 6月18日 工事施工許可[13]
  • 1901年(明治34年)11月29日 荷揚橋 - 堀川間開業
  • 1902年(明治35年)4月15日 南新地(後、竹町) - 荷揚橋間開業[13]
  • 1904年(明治37年)8月20日 電灯供給開始(別府町及び浜脇町)[13][14]
  • 1904年(明治37年)11月 破産宣告(のち和議)[15]
  • 1906年(明治39年)1月4日 豊後電気鉄道設立。豊州電気鉄道の一切の事業を承継[15]
  • 1906年(明治39年)5月5日 豊州電気鉄道解散[15]
  • 1916年(大正5年)3月28日豊後電気鉄道解散[16]
  • 1916年(大正5年)4月1日 九州水力電気に合併し、同社路線となる
  • 1917年(大正6年)7月7日 外堀 - 南新地間開業
  • 1918年(大正7年)12月18日 大分駅前 - 外堀間開業(1919年2月24日説あり[17]
  • 1921年(大正10年)4月1日 警察署前(後、官公街勧銀前) - 新川間開業
  • 1922年(大正11年)4月2日 新川 - かんたん[1]間開業。外堀 - 警察署前間複線化
  • 1925年(大正14年)12月30日 警察署前 - 堀川 - かんたん間の旧線廃止
  • 1927年(昭和2年)7月1日 別府大分電鉄として分離独立[18]
  • 1928年(昭和3年)2月21日 軌道特許状下付(別府市大字別府-速見郡亀川町間)[19]
  • 1928年(昭和3年)2月25日 軌道特許状下付(別府市北町-同市不老町間)[20]
  • 1929年(昭和4年)5月1日 別府桟橋前 - 境川間、北浜 - 別府駅前間開業。警察署前 - かんたん間、東別府駅前 - 別府桟橋間複線化
  • 1930年(昭和5年)12月1日 境川 - 亀川間開業(複線)
  • 1938年(昭和8年)11月19日 両郡橋 - 東別府駅間複線化
  • 1942年(昭和17年)3月3日 亀川 - 亀川駅前間開業(複線)
  • 1945年(昭和20年)4月20日 交通統合により大分交通へ合併、同社の別大線となる
  • 1956年(昭和31年)10月19日 北浜 - 別府駅前間廃止
  • 1958年(昭和33年)2月25日 大分駅前 - 警察署前間線路移設
  • 1961年(昭和36年)10月26日 仏崎付近で豪雨による土砂崩れのため電車205号が埋没。31人死亡
  • 1966年(昭和41年)10月1日 一部車両(503 - 507号)をワンマン運転化
  • 1968年(昭和43年)9月1日 大分市内線ワンマン運転化
  • 1971年(昭和46年)2月 大分県警察が大分交通に電車軌道の撤去を要請
  • 1971年(昭和46年)12月 別大電車の廃止が決定
  • 1972年(昭和47年)3月23日 大分交通労使が別大電車の廃止で合意
  • 1972年(昭和47年)4月5日 全線廃止

運行形態[編集]

系統は3つあり、全線運行する大分駅前 - 亀川駅前と、市内系統として大分駅前 - かんたん、そしてラッシュ時のみ運行されていた東別府 - 亀川駅前があった。

停留所一覧[編集]

1969年3月当時

大分駅前 - 竹町 - 官公街勧銀前 - 新川 - 浜町 - 春日浦 - 王子町 - 専売公社前 - 西大分 - かんたん[1] - 白木 - 仏崎(信号場) - 田ノ浦 - 別院前 - 両郡橋 - 東別府駅前 - 浜脇 - 永石通 - 別府桟橋 - 北浜 - 仲間通 - 富士見通 - 境川 - 餅ヶ浜 - 国際観光港 - 春木川 - 深町 - 六勝園 - 聖人ヶ浜 - 遺族会館前 - 照波園 - 弁天前 - 亀陽泉前 - 亀川新川 - 亀川駅

接続路線[編集]

車両[編集]

廃止時[編集]

  • 在籍33両
  • 150型・200型・300型・500型はトムリンソン式密着連結器を備えた総括制御車
  • 100型以外は間接自動制御車
100型 (101-116)
半数は150型に改造され廃止時は102, 104-107, 110, 111, 115であった
11,887×3,087×2,336mm、自重14.2t、定員80(座席32)名、日車C系台車
150型 (151, 153, 158, 159, 161, 163, 164, 166)
旧100型を改造し+50番を付けた
12,387×3,087×2,336mm、自重15.3t、定員80(座席32)名、日車C系台車
200型 (201-204)
205は上記の1961年の土砂崩れ災害により事故廃車
12,920×3,788×2,300mm、自重17.6t、定員90(座席40)名、日立KL21B台車
300型 (301, 302)
12,920×3,828×2,300mm、自重16.9t、定員90(座席42)名、東洋TK201台車
500型 (501, 502)
12,920×3,894×2,300mm、自重17.0t、定員90(座席38)名、近車KD202台車
500型ワンマン車 (503-507)
12,920×3,894×2,300mm、自重17.2t、定員90(座席38)名、近車KD202台車
1000型連接車 (1001AB)
[9,250×2]×3,894×2,280mm、自重[10.9×2]t、定員140(座席56)名、川崎611AB台車
1100型永久連結車 (1101AB, 1102AB)
25,600×3,894×2,280mm、自重33.2t、定員200(座席80)名、近車KD50台車(シュリーレン方式)

それ以前[編集]

旧1型(13両)
付随客車(5両)
新1型(10両?)
7580型 (7581-7585)
名古屋市電

保存車[編集]

また、大分交通本社には敷石とレールを使ったモニュメントがある。

譲渡車[編集]

504, 505号
岡山電気軌道3501, 3502号となるが、1982年に車体更新され7201, 7202号となる。

関連商品[編集]

  • DVD:「さようなら別大電車」DVD 別府8ミリクラブ 撮影(吉永カメラ・2007年発売)※1972年製作、別府市北浜の吉永カメラでのみ販売中

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 萏(「かん」は「草冠に函」、「たん」は「草冠に勹に臼」)。中国語で「の花」、転じて美しいものを形容する言葉である。また、萏湾は別府湾の旧名である。
  2. ^ 『改正官員録. 明治16年4月』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  3. ^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  4. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治30年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治33年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  7. ^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  8. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  9. ^ 非常勤となり大正3年死亡『大分交通40年のあゆみ』28-29頁
  10. ^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  11. ^ 『大分県交通史』86頁
  12. ^ a b c d 『大分県交通史』73頁
  13. ^ a b c d e 『大分県交通史』75頁
  14. ^ a b 『電気事業要覧. 第〔5〕回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  15. ^ a b c 『大分県交通史』85頁
  16. ^ 『大分交通40年のあゆみ』31頁
  17. ^ 『大分交通40年のあゆみ』126頁
  18. ^ 3月14日許可「軌道譲渡許可」『官報』1927年3月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「軌道特許状下付」『官報』1928年2月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「軌道特許状下付」『官報』1928年5月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献[編集]

  • 大分合同新聞(編) 『郷愁の別大電車』 大分合同新聞社2005年
  • 田尻弘行 『大分交通別大線』 ネコ・パブリッシング〈RMライブラリー85〉、2007年
  • 奈良崎博保「大分交通・別大線」、『鉄道ピクトリアル』No. 1601964年7月号臨時増刊:私鉄車両めぐり5、1964年、 pp. 68-78, 92, 93。(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年
  • 和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺9頁。
  • 『大分県交通史』九州交通新聞社、1978年
  • 『大分交通40年のあゆみ』大分交通、1985年

関連項目[編集]