秋保電気鉄道

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秋保電気鉄道
廃線跡を活用した宮城交通専用道路
廃線跡を活用した
宮城交通専用道路
路線総延長 16.0 km
軌間 1067 mm
電圧 600V 架空電車線方式直流
STRq BHFq
国鉄東北本線 長町駅
uexBHFq uexKBHFr
仙台市電 秋保電鉄前 / 長町駅前
exKBHFl exSTRlg
0.0 長町
exBHF
0.8 東北特殊鋼 -1946
exBHF
2.6 西多賀
exBHF
4.4 鈎取
exBHF
5.2 月ヶ丘
exBHF
6.2 旗立
exBHF
7.5 太白山
exTUNNEL1
太白トンネル
exBHF
8.4 萩の台
exBHF
10.3 茂庭
exBHF
13.5 北赤石
exBHF
15.2 磊々峡
exKBHFe
16.0 秋保温泉

秋保電気鉄道(あきうでんきてつどう)は、かつて宮城県仙台市(現・同市太白区)の長町と同県名取郡秋保村(現・仙台市太白区秋保町)の秋保温泉を結んでいた鉄道である。略称は秋保電鉄(あきうでんてつ)。1961年昭和36年)に全線が廃止された。

概要[編集]

Nuvola apps kview.svg 画像外部リンク
Searchtool.svg 1914年(大正3年) 秋保岩を運搬する秋保石材軌道の馬車軌道
smtせんだい時遊map」写真)
Searchtool.svg 秋保電鉄のお別れ式
仙台市戦災復興記念館所蔵)

温泉客の旅客輸送と、秋保石凝灰岩の一種)の貨物輸送を目的として、1914年大正3年)に長町 - 秋保温泉間で馬車軌道として開業。路線はおおむね、改正鉄道敷設法別表の「本州ノ部 21. 宮城県長町ヨリ青根附近ニ至ル鉄道」に沿って敷設されており、長町 - 赤石間は笹谷街道、赤石 - 秋保温泉間は二口街道という江戸時代からの街道に沿っていた。時刻表による長町 - 秋保温泉間の所要時間は2時間20分程度であったが、の調子に依存して前後した(馬は会社ではなく馭者個人の所有)。電化を完了して以後は秋保電気鉄道として運営された。所要時間は1時間程度にまで短縮した。

全線開通の後は、川崎町内の青根温泉へと至る路線延長が計画され、結局は実現しなかったが特許は取得していた[1][2]。 また2007年(平成19年)7月に仙台市内で発見された「仙山電気鉄道秋保笹谷峠間線路踏査図」(1922年(大正11年)作成)によって、路線を山形県まで延長する計画が存在していたことも判明した。これは川崎町から笹谷峠を越えて山形駅を経由、終点を神町駅とするもので、途中には野上(のじょう)、古関、笹谷の各駅が置かれる予定だった。[3]

戦後は車両メーカー手持ちの注文流れの新車を3台導入したが1953年(昭和28年)には経営が悪化、経営再建について宮城県と仙台市に協力を要請していた。そこで、仙台市は市内交通一元化と設備近代化のために、買収を計画する。かねてから設備の改善を仙台陸運局から指摘されていたことや、沿線である秋保村生出村(双方ともに現、仙台市太白区)、秋保村観光協会から、秋保電鉄買収の請願を出されていたことも要因だった。仙台市交通局に統合、インターアーバンとして仙台市電と一体化して直通運転するという具体案も出ていた(長町駅に市電との連絡線を設け、電車の直通試験が行われたこともあったほか、買収価格や詳細も決まっていたという話もある)が、市議会で買収反対派の巻き返しに会い、買収案は否決された。

営業末期には仙台市南部の住宅地として造成が開始された頃で、朝夕は通勤客で賑わい温泉観光より通勤電車としての姿も見え始めており、本格的な高速鉄道への規格向上も検討されたが結局は最後までトロリーポール集電、バッファ付きのねじ式連結器スタフ閉塞方式だった秋保電鉄は設備近代化されることなく廃止されている。同時期、仙台市電は全車ボギー車、パンタグラフ集電化、自動信号化(トロリーコンタクターによるポイント操作)を完了していたが、秋保電鉄は悪化した経営状況の中で鉄道線への設備投資を最小限に留めて仙台市内で路線バス事業を行っており、1959年(昭和34年)、仙台市内への路線拡充を望んでいた宮城県内のバス事業者仙南交通自動車と合併して社名が仙南交通となった。合併後ただちにバス転換の準備に入りわずか2年を経ずして鉄道線は廃止された。鉄道線廃止後、仙南交通は合併・統合を繰り返し宮城交通としてバス事業で盛業中である。

路線データ[編集]

廃止時点のもの

  • 路線距離(営業キロ):16.0km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:11駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(直流600V架空単線式)

歴史[編集]

  • 1911年明治44年) 秋保軌道として軌道特許申請
  • 1912年(大正元年)10月21日 軌道特許状下付[4]
  • 1913年大正2年)6月22日 秋保石材軌道株式会社設立[5][4]
  • 1914年(大正3年)12月23日 馬車軌道で長町 - 湯元(後の秋保温泉)間開業[6][4]
  • 1919年(大正8年)8月28日 軌道特許状下付(名取郡秋保村-柴田郡川崎村間)[1]
  • 1922年(大正11年)
    • 10月12日 軌道特許失効(名取郡秋保村-柴田郡川崎村間 指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[2]
    • 10月29日 秋保石材電気軌道へ改称[6]
  • 1925年(大正14年)
    • 6月14日 軌間762mmから1067mmに改軌、馬車軌道から電気鉄道に切り替え輸送力を増強
    • 9月17日 秋保電気軌道へ改称[6]
    • この頃に赤石駅を北赤石駅に改称[6]
  • 1926年(大正15年)
    • 湯元駅を秋保温泉駅に改称[6]
    • 旗立に遊園地を開設
  • 1931年昭和6年) バス事業開始[7]、遊園地を秋保温泉湯元に移転
  • 1935年(昭和10年) 長町裏町駅開業、富沢駅を西多賀駅に改称[6]
  • 1941年(昭和16年)
    • 燃料配給停止によりバス事業休止
    • 長町裏町駅を東北特殊鋼駅に改称[6]
  • 1944年(昭和19年)7月29日 秋保電気鉄道へ改称[6]
  • 1945年(昭和20年)1月1日 軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更
  • 1946年(昭和21年) 松場駅開業、東北特殊鋼駅廃止(両駅改廃月日不詳)[6]
  • 1949年(昭和24年) バス事業再開
  • 1950年(昭和25年) 車両のボギー化改造
  • 1953年(昭和28年)
    • 松場駅を磊々峡駅に改称[6]
    • 6月27日 仙台市議会、秋保電鉄買収案を否決
  • 1956年(昭和31年)4月1日 萩の台駅開業[6]
  • 1959年(昭和34年)7月1日 仙南交通自動車と合併、仙南交通設立。仙南交通秋保線へ改称[6]
  • 1961年(昭和36年)
    • 5月7日 秋保線営業運行最終日
    • 5月8日 秋保線廃止[6]、閉業式[8]
    • 営業運行は5月7日限りで終了しているが、設備の撤去工事ために8月まで臨時列車として運行
  • 1970年(昭和45年)10月1日 宮城バス、宮城中央バスと合併、宮城交通(初代)発足

運輸営業実績[編集]

年度毎の実績
年度 旅客
(千人)
貨物
(千t)
営業収入
(百万円)
営業費
(百万円)
損益
(百万円)
営業係数 従業員数
(人)
1951年(昭和26年) 1,845 4 20 20 1 94 100
1958年(昭和33年) 1,131 3 22 23 -1 104 110
1960年(昭和35年) 702 2 14 23 -9 162 56

年を経るごとに旅客輸送実績が低下している。客数減で営業収入を営業費が大きく上回るようになり、1960年(昭和35年)年度には従業員数をほぼ半減したにもかかわらず営業係数162(100円の売上高を上げるのに162円の経費が必要)と末期的症状をきたしているのが見て取れる。仙南交通との合併後、多額の投資を必要とする高速鉄道化を行わずに低廉な投資で済むバスに転換したのは賢明な選択だったと言える。[9]

戦前の運輸営業実績[編集]

駅一覧[編集]

Nuvola apps kview.svg 地図外部リンク
秋保電気鉄道
Searchtool.svg 駅所在地
地図の不具合を報告
初期の停車場
長町 - 富沢 - 鈎取 - 旗立 - 太白山 - 茂庭 - 赤石 - 湯元
1946年頃
長町 - 東北特殊鋼 - 西多賀 - 鈎取 - 月ヶ丘 - 旗立 - 太白山 - 茂庭 - 北赤石 - 松場 -湯元
1961年頃
長町 - 西多賀 - 鈎取 - 月ヶ丘 - 旗立 - 太白山 - 萩の台 - 茂庭 - 北赤石 - 磊々峡(らいらいきょう)- 秋保温泉
  • 長町駅は仙南交通(宮城交通)長町ターミナルを経て再開発ビルたいはっくるとなる。
  • 旗立駅 - 太白山駅の廃線跡は、宮城交通のバス専用道路として現在も活用されている。
  • 太白トンネルは現在も残っており、通行止めとなっているものの通り抜けは可能な状態である。
  • 途中の交換可能駅は西多賀、鈎取、月ヶ丘、太白山、茂庭、北赤石の各駅だった。
  • 終点の秋保温泉駅跡には、駅舎の一部が車庫として残っている。

接続路線[編集]

事業者名等は秋保線廃止時点のもの。仙台市電の秋保電鉄前は秋保線廃止後に長町車庫前、1970年頃に長町支所前と改称された[6]

車両[編集]

電車[編集]

電動客車の形式はすべて「マハ」を名乗っていた。通常は「モハ」や「デハ」が多いが、当線はおそらく全国で唯一「マハ」である。来歴は不詳。1951年(昭和26年)に改番を実施、東北地方鉄道協会による付番方式で電動客車「マハ」の形式を廃止、「モハ」に改めた。付随客車は従来通り「サハ」である。2軸の単車は100番台、木造ボギー車は1,000番台を付けた。半鋼製ボギー車は本来2,000番代だが当線では1,000番台を付けていた。ねじ式連結器を装備して電動車と付随車で連結運転し、折り返しでは機回しで車両の入れ替えを行った。1951年(昭和26年)頃まで客車・貨車を一緒に連結する混合列車が多かった。電動車は直接制御器装備で総括制御は不可能、集電装置はトロリーポールを1本屋根中央に装備し、折り返しでは後ろに180°まわして反対方向にセットするいわゆる「ポールまわし」を行った。電動車・付随車ともにハンドブレーキ常用でエアブレーキは装備していない。圧縮空気がないので警音器はフートゴングを使用する。

以下、順に記すが[10]( )内は各車両の改番の履歴。

電動客車(単車)[編集]

  • モハ402 (マハ2→モハ402) 秋保電気軌道からの生え抜き。1925年(大正14年)大阪鉄工所製で電化時から使用。
  • モハ405 (マハ5→モハ405) 1912年(明治45年)名古屋電車製作所製。元の新三河鉄道16を名古屋市電気局に合併後に1937年(昭和13年)譲受。
  • マハ6(初代) モハ405と同様に元の新三河鉄道17を名古屋市電気局に合併後に1937年(昭和13年)譲受。1950年(昭和25年)廃車、屋根をサハ404へ再使用。
  • モハ410 (マハ8→モハ408→モハ410) 日本鉄道自動車工業製の半鋼製車。仙台市電気部電車課(のちの仙台市交通局)45形として1942年(昭和17年)6月に発注されたが戦争のため完成が遅れた上に現車はエアブレーキではなくハンドブレーキ常用、ローラーベアリングではなくバビットメタル軸受、溶接ではなくリベットで組み立てた車体と本来の仕様と異なる。また当時仙台市交通部(仙台市電気部電車課を改組・改称)は路線延長に資金を投入する事になったため当車両を受け取らず注文流れになり、1946年(昭和21年)6月に当線に入線。ねじ式連結器を装備せず、単行運転した。
  • モハ411 (マハ10→モハ411) モハ410を参照。こちらは連結器を装備。
  • マハ11 モハ410を参照。1949年(昭和24年)伊予鉄道松山市内線へ譲渡。
  • モハ412 (マハ11(2代目)→モハ412) 仙台市交通部から1948年(昭和23年)6月譲受の元仙台市61。 1940年(昭和15年)三真工業所による市電車庫への出張改造工事で東京市電気局485の車体を改造の上で鶴見臨港鉄道軌道線11の台車を組み合わせた。 1954年(昭和29年)3月除籍。
  • モハ413 (マハ12→モハ413) 仙台市交通部から1948年(昭和23年)6月譲受の元仙台市63。元江ノ島電気鉄道22。 納涼電車11のマイネッケ台車を使用。1954年(昭和29年)3月除籍。
  • マハ15 (マハ15) 仙台市交通部から1948年(昭和23年)6月譲受の元仙台市65。元々は美濃電気軌道(のちの名古屋鉄道岐阜市内線)出自で、名鉄岐阜市内線の7。1912年(明治45年)製。放置されたあと1951年(昭和26年)解体。仙台市では名古屋鉄道竹鼻線(旧竹鼻鉄道)出自車両という事で購入したが解体時に車体から岐阜市内線の切符が大量に出てきた。台車はマハ6(2代目)→モハ406へ、屋根はサハ6→サハ403へ再利用。
  • モハ406 (マハ13→マハ6(2代目)→モハ406) 仙台市交通部から1948年(昭和23年)6月譲受の元仙台市66。マハ15と同様に美濃電気軌道由来で、名鉄岐阜市内線の6。マハ15と台車振替。1954年(昭和29年)3月除籍。
電動客車のボギー車化について[編集]

乗り心地の向上と老朽化した軌道への負担軽減をねらって2軸のブリル21E単台車から東京都交通局で余剰のKB-27形高床式台車(ブリル27GE系列)を軌間1,372mmから1,067mmに改軌して装備、ボギー車化した。エアブレーキを装備しないので機器類が少なく全長約8mの車体でボギー車化した結果床下は台車で一杯だった。5両を施工する予定だったが経費の面で4両で終了した。ボギー車化を担当した技術者は当時大学生で、のちに仙台市交通局に入局して400形の一部に使用された新型台車直角カルダン駆動方式やスリップ予防のために心皿位置を駆動輪側に寄せてより大きな荷重を掛けるマキシマムトラクション式を採用したり、木造単車1形の車体2台分に新型台車3台を使用した連接車300形を開発、さらに現在の仙台市営地下鉄建設の技術面での指揮を取ることになる。

電動客車(ボギー車)[編集]

  • モハ1401 (マハ1→モハ1401) 1925年(大正14年)大阪鉄工所製。秋保電気軌道からの生え抜き。電化時から使用。
  • モハ1403 (マハ3→モハ1403) モハ1401を参照。
  • モハ1407 (マハ7→モハ1407) 1926年(大正15年)蒲田車輌製作所製。元は常南電気鉄道→峡西電気鉄道(のちの山梨交通電車線)モハ110(付随客車6を番号振替)。1942年(昭和17年)譲受。1950年(昭和25年)電装品を伊予鉄道に売却して付随車化。同年再度電装してボギー車に改造。
  • モハ1408 (サハ5→モハ1408) モハ1407と同様に峡西電気鉄道(のちの山梨交通電車線)7を1942年(昭和17年)譲受。1951年(昭和26年)電装の上ボギー車に改造。

付随客車[編集]

  • サハ401 (サハ1→サハ401) 1925年(大正14年)丸山車輌製。秋保電気軌道からの生え抜き。
  • サハ402 (サハ2→サハ402) サハ401を参照。
  • サハ403 (サハ6→サハ403) 1951年(昭和26年)5月新製。屋根をマハ15から流用。
  • サハ404 1952年(昭和27年) 1月新製。屋根をマハ6(初代)から流用。
  • サハ406 (サハ3→サハ406) 1926年(大正15年)蒲田車輌製作所製。元は常南電気鉄道→峡西電気鉄道(のちの山梨交通電車線)6(実際は電動客車110を番号振替)で1942年(昭和17年)譲受。。

電気機関車[編集]

  • EB101 日立製作所製の10t電気機関車。凸形車体を持ち2動軸のB形で、定格出力22.4kwの主電動機を2個装備。当初1と2の2台が在籍したが1台は福博電気軌道(のちの西鉄福岡市内線の一部)へ譲渡。残った1台はEB1とEB101の両方の番号を名乗る。書類上で番号が混乱しており写真も時期によって両方の番号が存在している。貨車だけでなく混合列車も牽引していた。 

貨車[編集]

  • ワ501、有蓋車
  • 無蓋車

バス路線[編集]

1960年当時

  • 飯田団地線(仙台駅前 - 舟丁 - 飯田団地)
  • 西の平線(仙台駅前 - 愛宕橋 - 鹿野橋 - 西の平二丁目)
  • 秋保線(仙台駅前 - 舟丁 - 長町 - 西多賀 - 生出支所前 - 北赤石 - 秋保温泉湯元)

全路線、仙南交通を経て宮城交通バス路線となっている。

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ a b 「軌道特許状下付」『官報』1919年9月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 「軌道特許失効」『官報』1922年10月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 秋保電鉄延長計画 その1 - 鉄の廃路、2014年11月14日閲覧。
  4. ^ a b c 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第23回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 今尾『日本鉄道旅行地図帳』
  7. ^ 仙台市長町-秋保村湯本間17.8キロ(保有2台定員8人)『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  8. ^ 秋保線閉業式”. 2010年6月8日閲覧。
  9. ^ 寺田『ローカル私鉄廃線100線』、105頁。
  10. ^ 瀬古「秋保電気鉄道」、70頁-73頁。

参考文献[編集]

  • 今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』2 東北、新潮社2008年ISBN 978-4-10-790020-3
  • 瀬古龍雄「秋保電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.636、鉄道図書刊行会、1997年。
  • 寺田裕一『ローカル私鉄廃線100線』〈別冊歴史読本〉61、新人物往来社、2000年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]