アーネスト・サトウ

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アーネスト佐藤から転送)
アーネスト・サトウ
Ernest Satow
アーネスト・サトウ(1869年、パリにて)
アーネスト・サトウ(1903年、自伝書)
第6代駐日イギリス公使
任期
1895年 – 1900年
前任者パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ
後任者クロード・マクドナルド
第14代駐イギリス公使
任期
1900年 – 1906年
前任者クロード・マクドナルド
後任者ジョン・ジョーダン
個人情報
生誕 (1843-06-30) 1843年6月30日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドロンドン、クラプトン(en)
死没 (1929-08-26) 1929年8月26日(86歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドデヴォン州、オタリー・セント・メアリー
国籍イギリスの旗 イギリス
非婚配偶者武田兼
子供武田久吉
出身校ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
職業外交官通訳

サー・アーネスト・メイソン・サトウ英語: Sir Ernest Mason Satow枢密顧問官GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日[1])は、イギリス外交官。イギリス公使館通訳、駐日公使、駐公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(さとう あいのすけ)または 薩道 愛之助(読み同じ)。雅号に薩道静山[2]。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者武田久吉は次男。

生涯[編集]

日本着任まで[編集]

1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレット(旧姓、メイソン)の三男としてロンドン北部クラプトン(en, 旧ミドルセックス州 現在のハックニー区)で生まれた。サトウ家は非国教徒ルーテル派の宗教心篤い家柄であった。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったが、階級差別の激しい当時、中産階級出身の非国教徒が学位を取れる保証がなかったため[3]プロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学、1859年首席で卒業、宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学、ローレンス・オリファント卿著・『エルギン卿遣日使節録』[4] を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生(首席合格、年俸 200ポンド)として入省、駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により清の北京で漢字学習に従事した。

第一次日本駐在[編集]

着任[編集]

「敷和」と書かれたサトウ直筆(署名は「静山」)の揮毫

1862年9月8日文久2年8月15日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。当初、代理公使のジョン・ニール[注釈 1] がサトウに事務仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができなかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された。このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。サトウが来日した直後の9月14日8月21日)、生麦事件が勃発した。生麦事件およびその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題のため、ニールは幕府との交渉にあたったが、サトウもこれに加わった。但し、当時のサトウの日本語力では交渉の通訳はできず、幕府およびイギリス公使館がそれぞれのオランダ語通訳を介しての交渉であった。サトウが初めて「日本語通訳」としての仕事をしたのは、1863年6月24日(文久3年5月9日)付けの小笠原長行のニールへの手紙(5月10日をもって攘夷を行うと、将軍・徳川家茂孝明天皇に約束したことを知らせる内容)を翻訳したことであった。

この頃、六甲山を訪れているが、その際に鋲を打った登山靴を持ち込んでいて、これが日本にはじめて持ち込まれた登山靴と言われている。

薩英戦争前後[編集]

1863年8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かった。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。サトウ自身も薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会ったが(その後の略奪にも加わっている)、その際に五代友厚・松木弘安(寺島宗則)が捕虜となっている。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃する。

1864年元治元年)、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任した駐日公使オールコックから昇進に尽力することを約束されたので、引き続き日本に留まることを決意した。オールコックはサトウを事務仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなった[注釈 2]。 また、ウィリスと同居し親交を深めた。

オールコックは日本国内の攘夷的傾向(前年の長州藩による外国船砲撃や幕府による横浜鎖港の要求など)を軍事力を用いてでも打破しようと考えていたが、7月に長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)と志道聞多(井上馨)がヨーロッパ留学から急遽帰国してきたため、サトウは彼らを長州まで送り届けた。結局伊藤らは藩主毛利敬親を説得できなかったが、このときからサトウと伊藤の文通が始まっている。下関戦争では四国艦隊総司令官となったキューパー提督付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による前田村砲台の破壊に同行し、長州藩との講和交渉では宍戸刑馬と変名していた高杉晋作を相手に通訳を務めた(伊藤・井上も通訳として臨席)[注釈 3]

通訳官に[編集]

1865年慶応元年)4月、通訳官に昇進。このころから伊藤や井上馨との文通が頻繁になる。この往復書簡で、長州藩の内情や長州征討に対するイギリス公使館の立場などを互いに情報交換した。サトウはこのころから「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い始めた。10月には新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に同行した。11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行し、神戸・大坂に上陸[注釈 4]、薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員(西郷隆盛も来船したが、偽名を使っていた)と交わった。このころから、日本語に堪能な英国人として、サトウの名前が広く知られるようになった。

『英国策論』[編集]

1866年(慶応2年)3月から5月にかけて週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(横浜で発行)に匿名で論文を掲載。この記事が後に『英国策論』という表題で、サトウの日本語教師をつとめた徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳出版され、大きな話題を呼ぶ。西郷隆盛らも引用したとされ、「明治維新の原型になるような一文」ともされる[5]

『英国策論』の骨子は以下の通り。

  1. 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
  2. 独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
  3. 現行条約を廃し、新たに天皇および連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

横浜の大火の後、公使館が江戸高輪泉岳寺前に移ると、近くの門良院で来日したばかりの2等書記官アルジャーノン・ミットフォードと同居した。パークスの訓令により、予定されている大名会議や長州征討の事後処理について、また兵庫開港問題や一橋慶喜の動向などについて情報収集するために長崎を訪問した[注釈 5]

1866年末から1867年(慶応3年)始めにかけて、鹿児島・宇和島・兵庫を訪問、大坂から来た西郷隆盛と会い、薩摩藩の考えを聞いた。宇和島藩では藩物頭で樺崎砲台大銃司令の入江佐吉の家に宿泊して歓待され[注釈 6]、前藩主・伊達宗城が『英国策論』を読んでいたことを知った。このころはまだ不十分な日本語ながらハリー・パークスの通弁として地方視察に同行し、各地で談判の通弁に当るたびに記念に金の輪を腕に増やしていた姿が目撃されている[6]

慶喜の外国公使謁見[編集]

将軍となった徳川慶喜が大坂での外国公使謁見を申し出たため[注釈 7]、その件および兵庫開港問題などについて情報収集するために2月に兵庫・大坂を訪問し、その際薩摩の小松帯刀とも会った。4月にパークスが慶喜に拝謁した際には、サトウはその通訳を務めたが、パークスは慶喜に対して非常に肯定的な評価を持った。このため、薩長との関係が深いサトウは不安を抱いたようで、後に西郷隆盛の来訪をうけた際には、幕府とフランスが提携しつつあり、これに対抗するためイギリスは薩摩を援助する用意があるとまで発言しているが、西郷は外国の助けは不要と謝絶した。また西郷から「議事院」など将来にわたる日本の政治体制について話をきいた。

大坂からの帰路は、チャールズ・ワーグマンと共に陸路(東海道)を通った[注釈 8]掛川宿日光例幣使の家来に「夷狄」という理由で襲われたが、無事であった(アーネスト・サトウ襲撃事件[注釈 9]

7月、日本海側の貿易港選定のため、パークスに随行して箱館経由で日本海を南下し、新潟佐渡[注釈 10]七尾を調査した。サトウは七尾でパークスと別れ、ミットフォードと共に陸路(北陸道)を通って大坂まで旅した[注釈 11]。 ミットフォードと二人で阿波を訪問する予定であったが[注釈 12]、長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、阿波経由で土佐に向かうこととなり、パークスも同行した。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし[注釈 13]、前藩主・山内容堂にも謁見した。土佐藩船「夕顔」[注釈 14] で下関経由で長崎に向かい桂小五郎と初めて会った[注釈 15]。 関係者との協議でイカルス号水夫殺害事件における土佐藩や海援隊への嫌疑は晴れた。

江戸で開成所教授・柳河春三と親交を持ったが、春三は後に『中外新聞』を発行しており、柳河との関係を通じて戊辰戦争中佐幕派の情報収集にもあたった。

維新前後[編集]

1867年12月、大政奉還の詳細を探知するためと、兵庫開港の準備のためにミットフォードとともに大坂に行き[注釈 16]、後藤象二郎・西郷隆盛[注釈 17]・伊藤博文らと会談した。

1868年(慶応4年)1月、兵庫開港準備に伴う人事で通訳としての最高位である日本語書記官に昇進した。王政復古の大号令が出されたために京都を離れ大坂城に入った慶喜とパークスの謁見で通訳を務めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、慶喜が大坂城を脱出すると、旧幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。直後に岡山藩兵が外交団を銃撃するという神戸事件が勃発したが、解決のため兵庫に派遣されてきた新政府使節・東久世通禧とパークスらとの会談で通訳にあたった[注釈 18]。 その後、戦病傷者治療のために大坂・京都に派遣されたウィリスに同行し、西郷隆盛・後藤象二郎・桂小五郎・品川弥二郎大久保利通[注釈 19] らと会談した。神戸に戻り、神戸事件の責任者である岡山藩士・滝善三郎の切腹に臨席した。外交団が明治天皇に謁見を行おうとした矢先に堺事件が起きたが、同事件解決後に京都に赴き、三条実美岩倉具視を訪問、天皇謁見の際もパークスに随行した[注釈 20]

イギリス外交団が横浜に戻った後も江戸で主に勝海舟などから情報収集にあたった。大坂でパークスの信任状奉呈式に同行し、このとき初めて天皇に謁見した。北越戦争下にある新潟視察とロシアによる国後島・択捉島占領の真偽を確認するために蝦夷地を旅行した[注釈 21]1869年明治2年)、パークスとともに、東京で天皇に再度謁見した。

賜暇帰国と再来日[編集]

賜暇[注釈 22] で帰国するためオタワ号で横浜を出港、上海・香港・シンガポール・ボンベイ・スエズ・アレクサンドリアを経由してイギリスに到着した。1870年(明治3年)11月、賜暇を終えて日本に戻った。

1871年(明治4年)、鹿児島から上京してきた西郷隆盛と会った[注釈 23]。 代理公使アダムズらと箱根・江ノ島に旅行した。廃藩置県後、アダムズと岩倉具視との会談で通訳をした(議題は、廃藩置県断行の状況や農民に対する課税問題、神仏分離令など)。アダムズとオーストリアの退役外交官ヒューブナー(de:Alexander von Hübner)が明治天皇と謁見する際に通訳をした[7]。アダムズと木戸孝允との会談で通訳をした[注釈 24]。木戸孝允と会い新しい官制である太政官三院八省制について説明をうけた。アダムズとともに岩倉具視と会い、条約改正準備のための遣外使節団派遣やキリスト教解禁問題、日清修好条規をめぐる攻守同盟疑惑について話し合った。関東一円を旅行した。このころ、日本人女性武田兼[注釈 25] と結婚した。1872年(明治5年)、アダムズとともに甲州を旅行、さらにワーグマンを加えて日光を旅行した。鎌倉・江ノ島を旅行した。参議・大隈重信、工部大輔・山尾庸三とともに西国巡遊の旅行をした。横浜港を出港し途中、下田・鳥羽に寄港して伊勢神宮に参拝。大阪・神戸を経由して讃岐の金毘羅宮に参拝。長崎まで行き大阪に引き返す途中、厳島神社に参拝した。京都を旅行した後、中山道を経由して東京に帰った。箱根を旅行した。1875年(明治8年)、二度目の賜暇で帰国した。

三度目の来日と西南戦争[編集]

1877年(明治10年)1月に日本に戻ったが、パークスの命で直ちに鹿児島視察に派遣された。鹿児島滞在中に西南戦争が勃発した。出陣直前の西郷隆盛に会ったが、ほとんど話すことはできなかった。

1878年(明治11年)7月、信州北陸方面へ旅行。長野県大町市から北アルプスを横断する立山新道を経て富山県富山市へ至っている[8]

1880年(明治13年)に長男・栄太郎、1883年(明治16年)に次男・久吉(後の武田久吉)が生まれた。同年まで日本に滞在し、三度目の賜暇で帰国した。

その後はシャム駐在総領事代理(1884年 - 1887年)、ウルグアイ駐在領事(1889年 - 1893年)、モロッコ駐在領事(1893年-1895年)を歴任した。

駐日特命全権公使[編集]

1895年(明治28年)7月28日、サトウは駐日特命全権公使として日本に戻った。東京には5年間勤務したが、途中の1897年(明治30年)にはヴィクトリア女王の即位60周年式典のために一時帰国している。日清戦争に勝利した日本は、1895年4月17日に下関条約を結んだが、4月23日には三国干渉により遼東半島へ返還した。サトウはその後の帝国陸軍海軍の成長を目の当たりにすることになる。サトウはまた、日本での領事裁判権1899年(明治32年)に撤廃されるのにも立ち会った。領事裁判権の撤廃は1894年(明治27年)7月16日に調印された日英通商航海条約に含まれていた。

なお、サトウの後任として日本に着任したクロード・マクドナルドが、在任中の1905年(明治38年)に公使から大使に昇進し、初代の駐日英国大使となった。

駐清公使[編集]

1900年から1906年の間、駐清公使として北京に滞在、義和団の乱の後始末を付け、日露戦争を見届けた。北京から帰国の途上、日本に立ち寄った。

晩年[編集]

1906年、枢密院顧問官。1907年、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使。引退後はイングランド南西部デヴォン州に隠居し、著述に従事。キリシタン版研究の先駆けとなって、研究書を刊行するなどし、のちの南蛮ブームに影響を与えた。駐日英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたものである。

姓名[編集]

「サトウ」はスラヴ系の希少姓で、スウェーデン領生まれソルブ系ドイツ人だった父の姓である。日本の「佐藤」姓との関係はないが、親日家のサトウは漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗った。日本人になじみやすく、親しみを得られやすい姓だったことが、『日本人との交流に大きなメリットになった』と自ら語っていたという。

家族[編集]

武田兼(1870年)

父親のデーヴィッドはラトビアリガの出身で、11歳から2年間ボーイとして船上で働き、1825年にロンドンに移住、ルーテル派の信者となり、同じ教会に通う代書人メイソン家の長女マーガレットと結婚、ロンドン塔近くのジューリー通り(Jewry Street。オールド・ジューリーと並ぶイギリスにおける最も古いユダヤ人街のひとつで、古くは貧しいユダヤ人の居住地域だった[9][10])に居住、土地家屋を売買する金融業を営み、1846年にイギリス国籍を取得した[11][12]。デーヴィッドには六男五女の子女があり、一族からは海軍軍人、貿易商、外交官などを輩出しているが[11]、兄弟のうち大学へ進学したのはアーネスト一人である[3]。兄のエドワードもアーネスト同様、オリファントの書物を読んで東洋に興味を持ち赴いたが、1865年上海で病死した[3]

サトウは戸籍の上では生涯独身であったが、1871年(明治4年)に武田兼(カネ, 1853-1932)を内妻とし、3人の子をもうけた[13]。兼は、伊皿子の指物師の娘という説と、イギリス公使館などに出入りしていた植木職人・倉本彦次郎の娘とする説がある[12][14](絶家していた兼の親戚武田家復興のため武田姓を名乗ったとされる[15])。1884年には麹町区富士見町4丁目(現・千代田区富士見2丁目)にあった敷地面積約500坪の旧旗本屋敷を購入して一家の住まいとし、サトウ帰国後も一族が暮らし続けた[2][16]。サトウの日記には、兼のことは「O.K」、家族のことは「富士見町」の隠語で記されている[14]

兼とは入籍しなかったものの子供らは認知して経済的援助を与えていた。第一子の女児は1873年に幼くして病没したが、二人の男児には経済援助と共に、英語を学ぶよう推奨している。次男の武田久吉が27歳でロンドンに留学する際はその手配をし、植物学者として学ぶのを助けた。三年ほどの滞在の間、双方とも登山を趣味としていたために時折連れ立って登山に出かけた。長男の栄太郎(1880-1926)もケンブリッジ大学入学のため渡英したが結核とわかり、進学を諦めて療養のため1900年にアメリカのコロラド州ラサル(LaSalle)へ移住。農業に従事し、Alfred T. Satowを名乗り現地の女性と結婚、サトウダイコンの生産者として暮らした[17][18]。病のため生涯同地を離れることはなかったが、1906年に日本訪問を終えて英国に戻る途中に米国に立ち寄った父親と再会した[14]

また、アーネストは最晩年は孤独に耐えかね「家族」の居る日本に移住しようとしたが、病に倒れ果たせなかった。家族に宛てて日本語で多くの手紙を出しており、横浜開港資料館に所蔵されている。 孫に次男久吉の娘である長女の武田澄江、次女の林静枝がいる。[19]

給与[編集]

サトウは通訳官としての年俸が当初僅か400ポンドであったと述べている[20]。当時の為替相場は1ポンド=2.5両であったため、年俸は1000両ということになる(なお近藤勇は年俸に換算して480両)。万延小判の発行により、1両の価値は従来の1/3程度になっていたとは言え、少ない額ではない。

なお、サトウの場合、当初は通訳生として採用されたために年俸は200ポンドであり、通訳官に昇進し400ポンド、さらに500ポンドと増加し、通訳としてのトップである日本語書記官に昇進した時点で700ポンドとなっている。

図書蒐集[編集]

日本語は来日後に宣教師や日本人から会話等を学び、書道も俗体から御家流の書、書家の高斎単山(1818-1890)から唐様の書まで学び、約半年後には幕府からの書簡をほぼ正確に訳すまでになっていた[21]。訪れた先では必ず本屋に立ち寄るという愛書家であり、日本に関する内外の書籍を蒐集し、とくに珍書稀本のコレクターとして知られる[21]。もっとも古いものとして宝治二年(1248年)の往生拾因(原刻初印本)があり、サトウの蔵書コレクションは大英図書館ケンブリッジ大学図書館に保管されている[21]。蒐集した古書をもとに、明治14年(1881年)には奈良時代からの日本印刷文化史をまとめた『日本古印刷史』を英文で上梓している[21]。日本で約4万冊を蒐集し、1万冊がケンブリッジに、3万冊が大英博物館に、少数がオックスフォードとロンドン大学に寄贈された。この他数千冊が日本大学に収蔵されている。

著書[編集]

日本語訳[編集]

(長岡祥三訳、新人物往来社、1989年、新版2008年)ISBN 4404035268
  • 『アーネスト・サトウ公使日記 第2巻 明治31年1月1日 - 明治33年5月4日』
(長岡祥三・福永郁雄訳、新人物往来社、1991年、新版2008年)ISBN 4404035276

原文著作(英文翻刻版)[編集]

叙勲[編集]

伝記・研究文献ほか[編集]

長岡祥三・関口英男訳、雄松堂出版「東西交流叢書」 2003年。ISBN 4-8419-0316-X
副題「イギリス外交官の見た明治維新の舞台裏」
  • 孫崎享 『アーネスト・サトウと倒幕の時代』現代書館 2018年。ISBN 978-4-7684-5844-0
  • 小山騰 『アーネスト・サトウと蔵書の行方 『増補浮世絵類考』の来歴をめぐって』勉誠出版 2020年。ISBN 978-4-585-20078-9
  • Nozomu Hayashi & Peter Kornicki (ed.), Early Japanese books in Cambridge University Library. A catalogue of the Aston, Satow, and von Siebold collections
    University of Cambridge Oriental publications No. 40, Cambridge University Press, 1991 ISBN 0521364965
ピーター・コーニッキー、林望共編 『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録 アストン、サトウ、フォン・シーボルト コレクション』

関連作品[編集]

小説
映像作品

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時、公使オールコックは一時帰国していた。
  2. ^ このころ、文久遣欧使節に随行した市川渡(清流)の著した『尾蝿欧行漫録』を英訳、一部がロンドンで東洋学の雑誌『ザ・チャイニーズ・アンド・ジャパニーズ・レポジトリー』に連載された。
  3. ^ 長州藩と休戦協定を結び連合艦隊が退去した後も下関監視の任務を帯びたバロッサ号に乗船し、しばしば下関・小倉に上陸した。伊藤とはしばしば面談し、下関での通商や長州征伐問題などについて話し合っている。その後、長州藩の修好使節とともに横浜に帰着した。
  4. ^ 神戸郊外の摩耶山や布引の滝などを訪れている。
  5. ^ 長崎では、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘楠本イネに会った。
  6. ^ 入江佐吉は、宇和島藩校皇学教授であった鈴木重樹(穂積陳重の実父)の同僚だった。
  7. ^ パークスはこの時点で幕府を日本の正当政府と認めることに懐疑的であり、従って慶喜への謁見も態度を決めかねていた。
  8. ^ 途中、護衛と監視のために同行した幕府役人の外国方や別手組といざこざをおこしている。吉田宿でサトウ一行を追い抜いた外国奉行川勝広道に急用ありと幕府役人に早籠を仕立てることを要求したが結局早飛脚を送ることで決着した。
  9. ^ 日光例幣使側に犯人処罰を要求し、2名が死罪、4名が遠島などになった。
  10. ^ 佐渡では一時公使一行と別れて、徒歩で佐渡を横断した。
  11. ^ 金沢で会った加賀藩士が『英国策論』を読んでいたことを知った
  12. ^ サトウの日本語教師をつとめ、『英国策論』の翻訳にあたった徳島藩士沼田寅三郎を介して徳島藩主蜂須賀斉裕から招待を受けた。
  13. ^ このとき後藤から「議事院」など将来にわたる日本の政治体制について話をきき、ほぼ同じ時期に薩土盟約の両当事者(西郷と後藤)に会ったこととなった。交渉に時間がとられたため薩土盟約が解消された。
  14. ^ この船には坂本龍馬も同乗していたが船中でサトウと話した形跡はない。
  15. ^ 伊藤博文・坂本龍馬とも会っている。当時龍馬は偽名を使っていたため、サトウの日記には才谷梅太郎と書かれている。
  16. ^ 大坂ではええじゃないかを目撃している。
  17. ^ 藩主島津忠義と三千の藩兵を擁し上京してきていた。
  18. ^ このときの明治天皇から外交団に宛てた文書を翻訳している。内容は「慶喜の政権返上を認め、今後は天皇の称号が、条約に用いられた大君の称号にとってかわる」というものであった。
  19. ^ 神戸事件の処理(パークスは穏便な処理を考えていたが、サトウは厳罰を主張していた)と将来の条約改正の必要性について話し合った。
  20. ^ 天皇への謁見のために御所に向かったが、ここで2人の攘夷派に襲撃された。1人は同行していた中井弘蔵後藤象二郎が斬殺し、1人は捕らえられた。英国人公使館員は無事であったが、サトウの馬は軽い傷を負っていた。この日の謁見は中止されたが、3日後に実現した。ただし、このときはサトウは謁見していない。パークス以外で謁見を受けたのはミットフォードのみであった。彼はサトウが謁見を受けられなかった理由を「英国の宮廷で同様な経験がなかった」ためであろうと想像している。なお、ミットフォード自身はこの時点で爵位を持っていなかったが、貴族の家系の出身であり、従兄弟のリーズデイル伯爵に後嗣が無かったため、1902年にリーズデイル男爵家を起こしている。
  21. ^ イギリス軍艦ラットラー号に乗船し横浜を出港、箱館・岩内・小樽を経由して宗谷に至るが、ここでラットラー号が座礁してしまい、フランス軍艦デュプレクス号に救助され横浜に帰着し、所期の目的は果たせなかった。
  22. ^ 当時アジア地域で勤務する外交官は勤続年数が5年を過ぎると1年の休暇を申請できた。
  23. ^ サトウの日記には、このときの西郷は非常に無口で、「いつまで東京にいるかわからない」と言ったと書かれている。
  24. ^ この会談では、士族の特権解消にともなう家禄整理と藩札処分について話し合った。
  25. ^ 東京三田伊皿子の指物師の娘という説、公使館出入りの植木職人倉本彦次郎の娘という説がある。

出典[編集]

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説”. コトバンク. 2018年2月4日閲覧。
  2. ^ a b 幕末を動かした英外交官が日本人妻へ送った500通のラブレター”. 週刊朝日 (2014年9月1日). 2020年11月1日閲覧。
  3. ^ a b c 井戸桂子「アーネスト・サトウにとっての日光中禅寺」『駒沢女子大学研究紀要』第16巻、駒沢女子大学、2009年12月、31-46頁、doi:10.18998/00001064ISSN 13408631NAID 110007522793 
  4. ^ ローレンス・オリファント著、岡田章雄訳「エルギン卿遣日使節録」新異国叢書〈9〉。雄松堂書店(1978年) ASIN: B000J8FCNI
  5. ^ 司馬遼太郎ドナルド・キーンの対談『日本人と日本文化』(1984年4月、中公文庫)P174
  6. ^ 佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと 今井一良、日本英学史学会英学史研究15号、1982、P.20(PDF-P.6)
  7. ^ ヒューブナーは各国大使を務めた高級外交官で、退官後に世界旅行した紀行本がベストセラーとなり、1888年に伯爵が与えられた。日本滞在については邦訳『オーストリア外交官の明治維新――世界周遊記「日本篇」』がある。
  8. ^ 「大山町史」第6章 交通・通信の発達 p550 大山町史編纂委員会編 1964年発行
  9. ^ THE STORY OF ENGLAND’S JEWS The First Thousand Years Marcus Roberts,National Anglo-Jewish Heritage Trail,2007
  10. ^ The City of London, page1 Marcus Roberts,National Anglo-Jewish Heritage Trail
  11. ^ a b 『明治維新を見た外国人 アーネスト・サトウのその後を追う』第2章旅立ち 山崎震一、マイナビ, 2014/11/29
  12. ^ a b 『幕末維新を動かした8人の外国人』第7章 倒幕の理論家サトウ 小島英記、東洋経済新報社, 2016/01/15
  13. ^ 企画展「近代日本学のパイオニア」-武田家と戸田家の寄贈資料から”. 開港のひろば. 横浜開港資料館 (2014年10月22日). 2020年11月1日閲覧。
  14. ^ a b c 『明治維新を見た外国人 アーネスト・サトウのその後を追う』第1章序章 山崎震一、マイナビ, 2014/11/29
  15. ^ 朝日新聞、明治28年8月2日
  16. ^ Vol.24 法政大学 市ケ谷キャンパス内史跡 アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡と市ケ谷キャンパス”. 読売新聞 (2011年10月27日). 2020年11月1日閲覧。 “1976年に法政大学が購入し、同大市ヶ谷図書館が建設された。”
  17. ^ Sir Ernest Satow's Private Letters to W.G. Aston and F.V. Dickins: The Correspondence of a Pioneer Japanologist from 1870 to 1918 Ernest Mason Satow, Lulu.com, 2008
  18. ^ Alfred T Satow 1920 United States Census[リンク切れ]
  19. ^ 『横浜150年の歴史と現在』横浜開港資料館、読売新聞東京本社横浜支局,2010
  20. ^ 自著『一外交官の見た明治維新』
  21. ^ a b c d 『蒐書家・業界・業界人』 反町茂雄八木書店, 1979
  22. ^ 1902年戴冠式受賞者英語版

関連人物[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

外交職
先代
パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ
駐日英国公使
6代:1895年 - 1900年
次代
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