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「福井地震」の版間の差分

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政府報告書を主な出典として全面改訂
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|center={{JPN}} 福井県嶺北地方([[坂井郡]][[丸岡町]]付近<!-- 気象庁発表の座標によると福井県坂井市丸岡町山久保、米国地質調査所発表の座標によると福井県坂井市坂井町上新庄、「福井大地震震源地」の碑は福井県坂井市丸岡町末政に立つ。 -->)
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|tsunami=なし<ref name="311kiroku">{{Cite web|url=https://www.fdma.go.jp/disaster/higashinihon/item/higashinihon001_18_03-04.pdf|title=東日本大震災記録集 3.4 過去の大災害との比較|publisher=[[消防庁]]|page=150|format=PDF|date=2013-03|accessdate=2019-07-03}}</ref>
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|type=[[地震#内陸地殻内地震|プレート内地震]]<br>[[断層#横ずれ断層|左横ずれ断層]]
|type=[[地震#内陸地殻内地震|地殻内地震]]<br>[[断層#横ずれ断層|左横ずれ断層]]型{{Sfn|中央防災会議|2011|p=25}}
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'''福井地震'''(ふくいじしん)は、[[1948年]]([[昭和]]23年)[[6月28日]]午後4時13分頃{{efn2|当時は[[夏時間]](サマータイム)が導入されており、サマータイムでは1時間進めて午後5時13分頃{{Sfn|福井市|1998|pp=4,62}}。}}{{Sfn|福井市|1998|pp=4,62}}に[[福井県]][[嶺北|嶺北地方]]北部([[福井市]]の北北東約10[[キロメートル|km]]、現在の[[坂井市]]丸岡町付近{{Sfn|中央防災会議|2011|p=20–21}})を[[震源]]として発生した[[地震]]である。地震の規模は[[マグニチュード]]7.1で、福井市では当時の[[震度階級]]としては最大の震度6(烈震){{efn2|name="sindo_name"|「烈震」「激震」などの呼称は、1996年(平成8年)に廃止された。}}を記録した。この地震により引き起こされた災害を'''福井震災'''<ref name="zusetsu">{{Cite book|和書|author=福井県編|title=図説福井県史|chapter=現代 2 福井震災|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/E02/E021.htm|year=1998|isbn=4-938772-10-8}}</ref>または'''福井大震災'''{{Sfn|服部|1995}}という。
[[File:Daiwa Department Store after Fukui Earthquake.JPG|thumb|地震直後の大和百貨店]]

[[File:Fukui Castle04bs4592.jpg|thumb|福井地震で一部が崩壊した[[福井城]]の石垣]]
1945年(昭和20年)7月の戦災([[福井空襲]])からの復興途上にあった福井市を直撃した都市[[直下型地震]]である<ref name="fukui_shimbun">{{Cite web|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/common/usr/fukui_erthquake/|title=激震 福井地震|publisher=[[福井新聞|福井新聞社]]|accessdate=2019-06-28}}</ref>。[[福井平野]]のほぼ全域に甚大な被害をもたらし<ref name="zusetsu"/>、隣の[[石川県]]内の被害も合わせると、死者は3,769人、負傷者は2万2000人以上、全壊した家屋はおよそ3万6000戸に上った。最も被害が大きかったのは、福井県[[坂井郡]][[金津町]](現[[あわら市]]東部)、[[丸岡町]]および[[春江町]](現[[坂井市]]南部)、[[吉田郡]][[森田町]](現福井市北部)で{{Sfn|福井市|1998|p=64}}、各町のほぼ全戸が倒壊した{{Sfn|福井市|1998|p=64}}。[[震央]]からやや離れた福井市内でも家屋の全壊率は79.0%{{Sfn|福井市|1998|p=62}}、福井平野全域で全壊率は60%を超えた<ref>{{Cite book|和書|author=福井県編|title=福井県史通史編6|chapter=第三章第一節 三 福井震災 地震の発生と被害状況|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html|year=1996}}</ref>。都市部では[[火災]]による焼失で被害が拡大した{{Sfn|福井市|1998|p=64}}。また、被災地域を流れる[[九頭竜川]]水系の堤防が地震による被害を受け、地震の約1ヶ月後の7月下旬に上流部で記録的大雨が降ったため、堤防が決壊するなどして[[水害]]が発生し、複合災害を引き起こした{{Sfn|服部|1995|p=77}}{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=174, 196}}{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=54}}。
[[File:Kuzuryu-gawa railway bridge.jpg|thumb|倒壊した[[北陸本線]][[福井駅 (福井県)|福井駅]]-[[森田駅]]間の九頭龍川鉄橋(九頭龍川橋梁)]]
'''福井地震'''(ふくいじしん)は、[[1948年]]([[昭和]]23年)[[6月28日]]16時13分29秒に発生し[[福井県]]を中心に[[北陸地方|北陸]]から[[北近畿]]を襲った[[地震]]である。'''福井大地震'''ともいう。


福井震災は、[[関東大震災]](大正12年/1923年)と[[濃尾地震|濃尾大震災]](明治24年/1891年)に次ぐ[[震災|大震災]]であった<ref name="kisho100nen">{{Cite book|和書|editor=福井県地方気象台・敦賀測候所百年誌編集委員会|title=福井県の気象百年 ―福井地方気象台・敦賀測候所創立百周年記念―|publisher=福井地方気象台・敦賀測候所|year=1997|pages=34-37}}</ref>。第二次大戦後に発生した震災としては、[[東日本大震災]](平成23年/2011年)と[[阪神・淡路大震災]](平成7年/1995年)に次いで、3番目に多い犠牲者を出した<ref name="fukui_shimbun"/>。非常に高い全壊率{{Sfn|中央防災会議|2011|p=172}}を記録した福井地震を契機に中央気象台震度階(後の[[気象庁震度階級]])が見直され、1949年(昭和24年)に震度7(激震){{efn2|name="sindo_name"}}が新設された<ref name="fukui_shimbun"/><ref name="kisho100nen"/>。
[[震源]]は福井県[[坂井郡]][[丸岡町]](現[[坂井市]]丸岡町)付近。戦後復興間もない[[福井市]]を直撃した都市[[直下型地震]]。規模は[[マグニチュード|M]]7.1([[モーメントマグニチュード|Mw]] 7.0)。


わずか3年ほどの間に戦災、震災、水害と度重なる災害に見舞われ、福井市街は灰燼に帰したが、その度に市民たちの不屈の気概と不断の努力によって[[フェニックス|不死鳥]]のように蘇り、力強い復興と発展を遂げたことから、福井市は市民憲章で「不死鳥のまち」を宣言している<ref name="phoenix_fukui">{{Cite web|url=https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/skensyou/p004642_d/fil/Phoenix50th.pdf|title=福井市市民憲章 不死鳥のねがい50年|publisher=不死鳥のねがい(福井市市民憲章)推進協議会事務局|format=PDF|date=2015-03|accessdate=2019-09-21}}</ref>{{Sfn|中央防災会議|2011|p=236}}。
== 概要 ==
* 発生日時:1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒(当時は[[夏時間|サマータイム]]が導入されており夏時間では17時13分)
* 震源地:福井県[[坂井郡]][[丸岡町]](現[[坂井市]]丸岡町)付近(北緯36度10分18秒、東経136度17分24秒)
* 震源の深さ:ごく浅い<ref>気象庁で測定し、結果、深さが10km未満だった場合にこのように表現される。</ref>(30kmとする説もある)
* 地震の規模:M7.1
* 津波は発生していない。


=== 地質学的知見 ===
== 地震の概要 ==
* 発生時刻:1948年(昭和23年)6月28日 月曜日 16時13分28.8秒<ref name="jmaEQlog">{{Cite web|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/bulletin/hypo.html|title=地震月報(カタログ編) 震源データ 1922-1950年|publisher=[[気象庁]]|accessdate=2019-06-30}}</ref>(当時導入されていた夏時間では17時13分)
北北西-南南東方向の左横ズレで、従来から把握されていた断層の活動ではなく、200m以上の厚い[[堆積層]]に埋もれて地表に現れていない[[活断層]]が活動した。当時、地表には断続的に福井県坂井郡芦原町北部から、金津町、坂井町、丸岡町、松岡町を通り福井市南東部付近まで続く<ref>[http://namaz.ge.fukui-nct.ac.jp/ronnbunn/date/h1/h1.htm 福井地震断層の研究] 平成元年度福井工業高等専門学校教育後援会研究奨励金による研究完了報告書</ref>総延長約25kmの地割れが生じ、のちに福井地震断層と命名された。後年の調査により福井平野東縁断層帯の西部の活動が関与している事が判明している<ref>{{PDFlink|[http://www.jishin.go.jp/main/chousa/katsudansou_pdf/58_fukui-heiya.pdf 福井平野東縁断層帯の長期評価について 平成16年12月8日 地震調査研究推進本部]}}</ref>。上下方向の移動量は、1000年で0.1-0.2m程度と推定されているが、活動間隔は不明である。
* 震央位置:福井県嶺北地方(坂井郡丸岡町付近)。ただし、震央位置は確定しておらず<ref name="fukui_shimbun20180627">{{Cite news|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/610257|title=震度7、戦後最大だった福井地震|newspaper=[[福井新聞]]|date=2018-06-27|accessdate=2019-09-22}}</ref>、諸説ある{{Sfn|服部|1995|p=71-72}}{{Sfn|丸岡町|2000|p=20}}。
** 気象庁発表の座標:{{ウィキ座標度分秒|36|10|18|N|136|17|24|E}}<ref name="jmaEQlog"/>
** 米国地質調査所発表の座標:{{ウィキ座標度分秒|36|09|50.4|N|136|13|19.2|E}}<ref name="USGS">{{Cite web|url=https://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/iscgem897413/executive|title=M 6.8 - near the west coast of Honshu, Japan|publisher=[[アメリカ地質調査所|United States Geological Survey]]|date=2015-05-13|accessdate=2019-07-03}}</ref>
** 「福井大地震震源地」の石標は福井県坂井市丸岡町末政({{ウィキ座標|36|08|12.4|N|136|16|41.3|E||地図}})に立っている<ref name="fukui_shimbun20180627"/>{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|pp=72-73, 99}}。
* 震源の深さ:15km<ref name="jmaEQlog"/>。ただし、「ごく浅い」{{efn2|気象庁で測定し、その結果、深さが10km未満だった場合にこのように表現される。}}とする記録から33kmとする報告まで、諸説ある{{Sfn|服部|1995|p=72}}。
* 地震の規模:[[気象庁マグニチュード|M<sub>j</sub>]]7.1<ref name="jmaEQlog"/>([[モーメント・マグニチュード|M<sub>w</sub>]]6.9<ref>{{Cite report|和書|url=https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/daikibojishinchousa/houkoku/Data.pdf|title=日本海における大規模地震に関する調査検討会 報告書 図表集|author=日本海における大規模地震に関する調査検討会|date=2014年9月|publisher=[[国土交通省]]|page=6|accessdate=2019-06-30}}</ref>またはM<sub>w</sub>6.8<ref name="USGS"/>)
* [[発震機構|発震機構解]]:北北西–南南東方向あるいは東北東–西南西方向の垂直横ずれ断層(初動解){{Sfn|中央防災会議|2011|pp=25,27}}


=== 各地の震度 ===
南南東方向への延長線上には[[濃尾地震]]を引き起こした[[根尾谷断層帯]]が存在し、更にその延長線は1945年[[三河地震]]の[[深溝断層]]方向と同一である<ref>金折裕司, 川上紳一, 矢入憲二、「[https://doi.org/10.11462/afr1985.1991.9_26 中部日本内陸に起きた被害地震(M≧6.4)の時空分布に認められる規則性 -活動周期と発生場所-]」 活断層研究 1991年 1991巻 9号 p.26-40, {{doi|10.11462/afr1985.1991.9_26}}</ref>。
東は茨城県[[水戸市]]、西は佐賀県[[佐賀市]]で震度1を観測するなど<ref name="shindo">{{Cite web|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/eqdb/data/shindo/Event.php?ID=26244|title=震度データベース検索 (地震別検索結果)|publisher=[[気象庁]]|accessdate=2019-07-03}}</ref>、関東甲信越地方から中国・四国地方まで{{Sfn|中央防災会議|2011|p=23}}の広い範囲で揺れが観測された。当時の震度階は0から6までの7段階であった。震度4以上の揺れを観測した地域は次の通り。


{| class="wikitable" style="line-height:1.3em"
== 各地の震度 ==
震度4以上の揺れを観測した地域は以下の通り。(当時定められていた震度階級、震度0〜6に基づく。当時はまだ震度7の表記は存在していなかった。)
|+ 震度4以上の揺れを観測した地域<ref name="shindo"/>
! style="white-space:nowrap;width=:5em" | 震度
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap;width=:4em" | 都道府県
!震度
! 市町村
!都道府県
!市区町村
|-
|-
! style="{{震度色|6}}" |6
! style="{{震度色|6}}" | 6(烈震)
|[[福井県]]
| [[福井県]]
|[[福井市]]
| [[福井市]]
|-
|-
! rowspan="11" style="{{震度色|4}}" |
! rowspan="11" style="{{震度色|4}}" | 4(中震)
|[[富山]]
| 福井
|[[富山市]]
| [[敦賀市]]
|-
|-
|[[石川県]]
| [[富山県]]
|[[金沢市]] [[輪島市]]
| [[富山市]]
|-
|-
|福井
| [[石川]]
|[[敦賀市]]
| [[金沢市]]、[[輪島市]]
|-
|-
|[[山梨県]]
| [[山梨県]]
|[[甲府市]]
| [[甲府市]]
|-
|-
|[[長野県]]
| [[長野県]]
|[[飯田市]]
| [[飯田市]]
|-
|-
|[[岐阜県]]
| [[岐阜県]]
|[[岐阜市]]
| [[岐阜市]]
|-
|-
|[[愛知県]]
| [[愛知県]]
|[[名古屋市]] [[田原市]]
| [[名古屋市]][[田原市]]
|-
|-
|[[三重県]]
| [[三重県]]
|[[亀山市]]
| [[亀山市]]
|-
|-
|[[滋賀県]]
| [[滋賀県]]
|[[彦根市]]
| [[彦根市]]
|-
|-
|[[京都府]]
| [[京都府]]
|[[京都市]] [[宮津市]]
| [[京都市]][[宮津市]]
|-
|[[奈良県]]
|[[奈良市]]
|-
|-
| [[奈良県]]
| [[奈良市]]
|}
|}
東は茨城県[[水戸市]]、西は佐賀県[[佐賀市]]で震度1を観測するなど、関東地方から九州地方にかけて震度1以上の揺れを観測した。


地震の直後、東京大学地震研究所は福井県を中心とする新潟から鳥取までの18府県に被害の状況を聞き取るアンケート調査をしていた。質問項目は揺れ方や建物の状況など最大30項目で、各地の小学校に郵送されたほか、調査員が現地に出向いて調べたりもしたとみられる。アンケート資料は分析がなされないまま散逸したとみられていたが、約590地点からの回答が記された集計表が2009年、地震研で見つかった。地震研の現メンバーらはアンケート調査の結果を再研究しており、地震発生70年の節目にあたる2018年の秋に、回答が明確な545地点震度分布をまとめた論文をまとめる予定<ref>{{Cite news|title=48年福井地震:阪神大震災に匹敵 震源地は震度7相当 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180628/k00/00m/040/071000c|accessdate=2018-06-30|language=ja-JP|work=毎日新聞(有料記事)}}</ref>。
地震発生後、[[東京大学地震研究所]]福井県を中心とする新潟から鳥取までの18府県に被害の状況を聞き取るアンケート調査をしていた。質問項目は揺れ方や建物の状況など最大30項目で、各地の小学校に郵送されたほか、調査員が現地に出向いて調べたりもしたとみられる。アンケート資料は分析がなされないまま散逸したとみられていたが、当時の[[気象庁|中央気象台]]の観測点よりも多い594地点からの回答が記された集計表が2009年、究所で見つかった。究所の現在の研究員らはアンケート調査の結果を再研究しており、地震発生70年の節目にあたる2018年の秋に、回答が明確な545地点について、震度分布をまとめた論文を発表する予定である<ref>{{Cite news|title=48年福井地震:阪神大震災に匹敵 震源地は震度7相当 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180628/k00/00m/040/071000c|accessdate=2018-06-30|language=ja-JP|work=毎日新聞(有料記事)}}</ref>。その論文発表要旨によれば、震源域付近は[[メルカリ震度階級|改正メルカリ震度階]]で平均震度X程度、震源域周辺の福井県北部と石川県南部は平均震度VIIIからIXで、平均震度VIIは北は富山県から南は滋賀県まで広がっていたと推定される<ref>{{Cite journal|和書|author1=原田智也|author2=佐竹健治|author3=古村孝志|author4=室谷智子|title=[講演要旨]地震直後に行われたアンケート調査による1948年福井地震の震度分布|publisher=歴史地震研究会|journal=歴史地震|issue=32|page=128|url=http://www.histeq.jp/kaishi_32/HE32_128_Harada.pdf|format=PDF|accessdate=2019-09-15}}</ref>。


== 被害 ==
=== メカニズム ===
福井地震の地震断層型は北北西–南南東方向(概ねN10-20°Wの走向{{Sfn|中央防災会議|2011|p=25}})の[[断層#横ずれ断層|左横ずれ]]で{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=6,9}}、[[福井平野]]の厚い[[沖積層]]に覆われて地表に現れていない[[活断層]]が活動したと推定される{{Sfn|中央防災会議|2011|p=20}}。地質学的には「[[断層#その他の特徴による分類|地震断層]]」とは「地震に伴って地表に現れた断層」とされており{{Sfn|中央防災会議|2011|p=6}}、この定義によれば、福井地震の明瞭な地震断層は認められていない{{Sfn|中央防災会議|2011|p=9}}。しかし、地割れ帯の分布やいくつかの測量結果から、福井平野東部の地下に、坂井郡芦原町北部から金津町、坂井町、丸岡町、[[松岡町 (福井県)|松岡町]]を通り、福井市南東部付近まで断続的に続く<ref>{{Cite web|url=http://namaz.ge.fukui-nct.ac.jp/ronnbunn/date/h1/h1.htm|title=福井地震断層の研究(平成元年度福井工業高等専門学校教育後援会研究奨励金による研究完了報告書)|publisher=福井工業高等専門学校|accessdate=2011-05-18|archiveurl=http://web.archive.org/web/20160420020719/http://namaz.ge.fukui-nct.ac.jp/ronnbunn/date/h1/h1.htm|archivedate=2016-04-20|deadlinkdate=2019年6月}}</ref>長さ27kmの「福井地震断層」及び、その約3km東側に平行に走る、長さ8kmの「福井東側地震断層」が存在していると推定される{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=9,18–19}}。2004年(平成16年)に[[地震調査研究推進本部]]の地震調査委員会は、福井平野東縁断層帯西部を福井地震の[[断層#その他の特徴による分類|震源断層]]の主断層として評価している<ref>{{Cite web|url=http://www.jishin.go.jp/main/chousa/katsudansou_pdf/58_fukui-heiya.pdf|title=福井平野東縁断層帯の長期評価について|date=2004-12-08|publisher=[[地震調査研究推進本部]]|page=1|format=PDF|accessdate=2019-06-29}}</ref>。
[[関東地震|大正関東地震]]([[関東大震災]])、[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの[[震災]]となった。2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は、日本の近代史上でも類をみない。特に現在の坂井市部分では、死者が人口の5%という(同じ際の福井市が1%、後年の大震災時の神戸市が約0.3%)大惨禍となった。


福井地震断層の南南東方向への延長線上には、[[濃尾地震]](1891年)を引き起こした[[根尾谷断層]]が存在し{{Sfn|中央防災会議|2011|p=20}}、さらにその延長線は[[三河地震]](1945年)を起こした[[深溝断層]]の方向と同一である<ref>{{Cite journal|和書|author1=金折裕司|author2=川上紳一|authorlink2=川上紳一|author3=矢入憲二|title=中部日本内陸に起きた被害地震(M≧6.4)の時空分布に認められる規則性 ―活動周期と発生場所―|date=1991-10|publisher=一般社団法人日本活断層学会|journal=活断層研究|volume=1991|issue=9|naid=130003355633|pages=26–40|doi=10.11462/afr1985.1991.9_26}}</ref>。
* 丸岡町にある [[丸岡城]]が倒壊した。

* [[北陸本線]][[細呂木駅]]と[[芦原温泉駅|金津駅]](現・芦原温泉駅)が倒壊した。また福井県内の同線上の車両も多数が脱線したり転覆する鉄道被害があった。また県内を走る[[福井鉄道]]や[[京福電気鉄道]](現在の[[えちぜん鉄道]])も大きな被害を受けた。国鉄北陸本線と京福電気鉄道の九頭竜川の両鉄橋が橋梁から倒壊し、物資や救援が遅滞した<ref>福井県立歴史博物館編『福井震災70年』2018年、33p</ref>。
吉田明夫、青木元らの研究によれば、1961年の[[北美濃地震]] (M7.0)、1969年の[[岐阜県中部地震]] (M6.6)、1984年の[[長野県西部地震]] (M6.8) と続いた一連の地震との関連性が指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author1=吉田明夫|author2=青木元|title=大地震の前に日本海沿岸の広域に現れた地震活動の静穏化|url=https://doi.org/10.5026/jgeography.111.2_212|date=2002-04|publisher=公益社団法人[[東京地学協会]]|journal=地学雑誌|volume=111|issue=2|naid=10008209578|doi=10.5026/jgeography.111.2_212|pages=212-221}}</ref>。また、1944年の[[昭和東南海地震]] (M7.9) の影響を受け、その震源域及び余震域から離れた地域で発生した[[誘発地震]]ではないかとの見方もあった<ref>{{Cite web|url=http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/eqvolc/201103_tohoku/inducedeq/|title=2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震|publisher=[[東京大学地震研究所]]広報アウトリーチ室|accessdate=2011-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131213011108/http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/eqvolc/201103_tohoku/inducedeq/|archivedate=2013-12-13}}</ref>。
* 地震振動で堤防高も沈下し、その後の[[九頭竜川]]決壊につながった。灯明寺において堤防が決壊し28,000人が被災した。<ref>福井県立歴史博物館編『福井震災70年』2018年、54p</ref>

* [[大和 (百貨店)|大和百貨店]]の福井店が全壊した<ref>倒壊した写真は雑誌『ライフ』の表紙に掲載された。『1948福井地震報告書』中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2011年、ip</ref>。
== 被害 ==
* 福井の産業の中心であった繊維工業では工場と織機の多数が損壊。また福井市内の織物倉庫は地震直後に発生した火災で三日三晩燃え続けた。
[[File:Fukui Castle04bs4592.jpg|thumb|福井地震で一部が崩壊した[[福井城]]の石垣]]
* 最も揺れが激しかったのは30~40秒ぐらいで、5~15秒の間に家屋が倒壊したと言われている。<ref>福井県地方気象台・敦賀測候所百年誌編集委員会『福井県の気象百年 福井県地方気象台・敦賀測候所創立百年記念』1997</ref>
当時の被災地人口29万8500人のうち、約7割にあたる21万4500人が罹災した{{Sfn|丸岡町|2000|p=76}}。死者の大部分が、当時の福井市から吉田郡、坂井郡にかけての地域に集中しており、その被害率は日本の近代史上でも類をみない{{Sfn|服部|1995|p=76}}。特に現在の坂井市に当たる地域では、死者の割合が人口の5%{{efn2|同震災時の福井市が1%、後年の阪神・淡路大震災時の神戸市が約0.3%であった。}}に及ぶ大惨禍となった。
* 地割れに挟まって死傷した例も報告されている。<ref>福井市『福井烈震誌』1978 p187~197(斎藤規堂)</ref><ref>齋藤与次兵衛 編集『坂井町誌』1973 p114</ref>


{| class="wikitable" style="text-align:right"
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ 福井・石川両県の被害<ref>宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』東京大学出版会、1987年</ref><ref>福井県消防長会『語り継ぐ災害の記録』2001</ref>
|+ 福井・石川両県の被害<ref>宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』東京大学出版会、1987年</ref><ref>福井県消防長会『語り継ぐ災害の記録』2001年。</ref>
! rowspan="2" | 都道府県 ||rowspan="2"|市郡名|| colspan="2" | 人的被害(人) || colspan="3" | 住宅被害(戸)
! rowspan="2" | 都道府県 ||rowspan="2"| 市郡名 ||rowspan="2"| 人口{{Efn2|1947年(昭和22年)10月1日時点の郡市域人口<ref>昭和22年臨時国勢調査「全国都道府県郡市区町村別人口」による。</ref>。}}<br/>(人) || colspan="2" | 人的被害(人) || colspan="3" | 住宅被害(戸)
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|-
! 死者 || 負傷者 || 全壊 || 半壊 || 焼失
! 死者 || 負傷者 || 全壊 || 半壊 || 焼失
122行目: 120行目:
! rowspan="8" | 福井
! rowspan="8" | 福井
!福井市
!福井市
| 930 || 10,000 || 12,425 || 4,418 || 1,859
| 77,320 || 930 || 10,000 || 12,425 || 4,418 || 1,859
|-
|-
!足羽郡
!足羽郡
| 134 || 344 || 2,328 || 980 || 2
| 30,926 || 134 || 344 || 2,328 || 980 || 2
|-
|-
!吉田郡
!吉田郡
| 861 || 4,992 || 6,713 || 707 || 156
| 48,922 || 861 || 4,992 || 6,713 || 707 || 156
|-
|-
!坂井郡
!坂井郡
| 1,747 || 6,305 || 13,707 || 3,399 || 1,832
| 122,203 || 1,747 || 6,305 || 13,707 || 3,399 || 1,832
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|-
!大野郡
!大野郡
| 6 || 0 || 0 || 0 || 0
| 97,763 || 6 || 0 || 0 || 0 || 0
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!今立郡
!今立郡
| 30 || 118 || 194 || 865 || 0
| 74,422 || 30 || 118 || 194 || 865 || 0
|-
|-
!丹生郡
!丹生郡
| 34 || 31 || 15 || 173 || 2
| 71,227 || 34 || 31 || 15 || 173 || 2
|-
|-
!小計
!小計
| 3,728 || 21,750 || 35,382 || 10,542 || 3,851
| - || 3,728 || 21,750 || 35,382 || 10,542 || 3,851
|-
|-
! colspan="2" | 石川
! rowspan="5" | 石川
!江沼郡
| 41 || 453 || 802 || 1,274 || 0
| 72,411 || 39 || 451 || 791 || 1,231 ||
|-
|-
!能美郡
! colspan="2" | 合計
| 3,769 || 22,203 || 36,184 || 11,816 || 3,851
| 64,747 || 0 || 1 || 7 || 35 ||
|-
!河北郡
| 74,759 || 0 || 0 || 1 || 2 ||
|-
!小松市
| 61,898 || 2 || 1 || 3 || 6 ||
|-
!小計
| - || 41 || 453 || 802 || 1,274 ||
|-
! colspan="2" | 合計
| - || 3,769 || 22,203 || 36,184 || 11,816 || 3,851
|}
|}

; 福井市の被害
* 全壊率 79.0%
* 出火件数 24件
* 焼失面積 641,440坪、鎮火まで5日。


=== 被害の特徴 ===
=== 被害の特徴 ===
[[福井平野]]一帯の地域では、全壊率が60%を超えるなど、被害は甚大だった。福井平野は[[九頭竜川]]の[[沖積平野]]であり、厚く、軟弱な地盤が分布していることが、高い倒壊率の原因と考えられる{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=44-45}}。一方、[[加越台地]]など、[[更新世]]に形成された安定した地盤や、基盤が浅い山麓部などは、全壊率が低かった{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=45-46, 49}}。最も揺れが激しかったのは30秒から40秒くらいで、5秒から15秒ほどの間に家屋が倒壊したといわれている<ref name="kisho100nen"/>。[[地割れ]]に挟まって死傷したという、当時としては珍しい例も報告されている<ref name="kisho100nen"/><ref>福井市『福井烈震誌』1978年。pp.187-197(斎藤規堂)</ref><ref>齋藤与次兵衛 編集『坂井町誌』1973年。p.114</ref>。震災に続いて[[#水害|豪雨水害]]が発生し、複合災害を引き起こしたことも特徴である{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=1, 3-4}}。
[[福井平野]]では、全壊率が60%を超えるなど被害は甚大だった。[[九頭竜川]]の堆積物により福井平野の地盤が弱いことと、福井市中心部は昭和20年の[[福井空襲]]で壊滅してから数年後、復興途上で[[バラック]]建築が多く、不安定な構造だったためにかなりの建物が倒壊している。震源地直近の丸岡城(丸岡町)も倒壊した。大和百貨店福井店も1階が潰れて全壊する被害を受け、福井地震の象徴として有名になったが、一方で隣接していた[[福井銀行]]は全く被害を受けなかった。地中の基礎となる鉄骨の差が、両者の被害に対照的な違いを生んだとも言える。福井銀行は地下10mまで90cm間隔で500本の杭をびっしりと打ってあった。頭取が元技術者であり強固に建てさせていたという。<ref>学習研究社(現:学研ホールディングス)出版・「ひみつシリーズ 地震のひみつ」福井地震の項目より。</ref>


==== 火災 ====
発生時刻が16時過ぎ(サマータイムでは17時過ぎ)で夕食の支度をしている家庭が多かったため、福井市中心部では、24件の火災が発生した。地震のため、道路が通行不能となったり、水道が破損したことにより、消火に時間を要したため被害が拡大した。片町の映画館「国際劇場」が倒壊、隣のマッチ工場から出火・延焼し、会社帰りの観客などが数百人規模で圧死・焼死した<ref>{{Cite web|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/feature/index.php?author=29&cat=69|title=特集記事:福井新聞|accessdate=2018-09-30|date=|publisher=福井新聞|archiveurl=http://web.archive.org/web/20140705093722/http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/feature/index.php?author=29&cat=69|archivedate=2014-07-05}}</ref>。農業地区でもほぼ全ての家屋が倒壊したものの、住民が屋外で農作業をしていたためか死者は少なかった。
福井市、丸岡町、金津町、春江町、松岡町、森田町では、地震の直接被害だけでなく、地震火災による延焼被害も著しく{{Sfn|中央防災会議|2011|p=80}}、そのうち福井市と丸岡町で最も火災被害が大きかった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=69}}。火災便覧によると、福井地震の総出火件数は57件{{efn2|『福井烈震誌』によると、総出火件数は55件(内訳は、福井市で30件、吉田郡・坂井郡・丹生郡の町部で22件、村部で3件){{Sfn|中央防災会議|2011|p=79}}。}}であったが、全壊率の高さの割には出火件数は比較的少なかった{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=73-74}}。福井市では、火災による焼失面積は市街地の6分の1にあたる約15万5000坪(51.2[[ヘクタール|ha]]){{Sfn|中央防災会議|2011|p=74}}<!-- 641,440坪{{要出典|date=2019年9月}}との情報もある。 -->に及んだ。これは[[東京ディズニーランド]]とほぼ同じ面積である。これまで、福井市街地は1945年7月の[[福井空襲]]で壊滅した3年後も未だ戦災復興の途上にあり、粗末な仮建築([[バラック]])が多かったために地震火災の被害拡大を助長したといわれてきた{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=67-68}}<ref name="CAO_bousai">{{Cite web|url=http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h25/71/past.html|title=過去の災害に学ぶ 37‐内閣府防災情報のページ > 1948年6月 福井地震 その1|author=中林一樹|publisher=[[内閣府]]政策統括官(防災担当)|accessdate=2019-08-31}}</ref>。一方で、空襲を免れた農村集落の本建築であっても全壊率が100%に近い地区があったこと、および当時の福井市街地の写真や震災直前に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が実施した建物調査などから、倒壊・焼失した建物の中には、仮設住宅のほかに瓦屋根や二階建ての恒久住宅も少なくなかったことが判明しており、震災発生時には戦災からの復興はほぼ完了していたとする見解もある{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=67-68}}<ref name="CAO_bousai"/>。実際には、福井市で確認されただけでも24件{{Sfn|中央防災会議|2011|p=71}}(うち19件は地震発生後10分以内の出火{{Sfn|中央防災会議|2011|p=73}})の火災が同時多発的に発生したこと、人々が動揺して適切な対応が取れなかったこと、地震により倒壊した家屋が道路を塞いで交通路を遮断したり、水道が破損して[[断水]]が発生したりしたために消防活動が制約を受けたことが、火災が拡大した特徴的な理由と考えられている{{Sfn|中央防災会議|2011|p=70}}。周辺の町では、春江町で5件、丸岡町と松岡町で4件、金津町と森田町で3件の出火があった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=111}}。[[芦原町]]だけは{{Sfn|中央防災会議|2011|p=112}}、出火したにもかかわらず、関東大震災時の地震火災を思い出した町民が「火を消せ」と叫びながら近所を走り回り、近隣住民と協力して初期消火に成功し、延焼被害を防ぐことができたという逸話がある{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=80, 84}}。


地震発生時刻は午後4時過ぎ(夏時間の午後5時過ぎ)で、就業時間後、ちょうど夕食を支度する時間帯であったため、家庭で火災が多発したとの報告がある{{Sfn|中央防災会議|2011|p=79}}<ref name="fnp2008">{{Cite web|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/feature/index.php?author=29&cat=69|title=特集記事:福井新聞|accessdate=2018-09-30|date=|publisher=福井新聞|archiveurl=http://web.archive.org/web/20140705093722/http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/feature/index.php?author=29&cat=69|archivedate=2014-07-05}}</ref>。しかし、当時の日本は[[夏時間|サマータイム]]制度下で、[[夏至]]直後の時期でもあり、[[日没|日の入り]]時刻は地震発生から約3時間後の午後7時過ぎ(夏時間の午後8時過ぎ)であったことを考慮すると、夕食を準備するにはまだ早い時間で、農家では田畑で農作業していた人も多かったため、むしろ家庭や農家からの出火は少なかったのが真相であろうと考える専門家<!-- 中林一樹教授(都市防災が専門、福井県出身) -->もいる{{Sfn|中央防災会議|2011|p=79}}<ref name="CAO_bousai"/>。
== 救援活動 ==
福井県の救援本部から '''福井市,全滅す,救援を乞う''' のラジオ放送が行われた<ref name=hdl.7849>服部勇、[http://hdl.handle.net/10098/7849 資料に見る福井大震災の概要] 福井大学地域環境研究教育センター研究紀要 「日本海地域の自然と環境」 福井大学積雪研究室研究紀要, 2, 71-81., {{hdl|10098/7849}}</ref>。翌日には大阪、京都からの救援物資と救援隊の派遣が行われた。また、[[災害救助法]]の適用が決定された<ref name=hdl.7849 />。[[天理教]]「ひのきしん」活動などがあった<ref>書名:福井震災展望、著者名:天理教福井教務支庁、発行年:1949年</ref>。


福井市片町にあった映画館「国際劇場」は、地震で倒壊した後、近隣の倉庫で配給用に備蓄されていた[[マッチ]]が地震動により摩擦して出火した火が類焼し、会社帰りの観客などが数百人規模で圧死・焼死した<ref name="fnp2008"/>。学校や研究施設などでは、化学薬品の漏洩混合による出火もあった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=84}}。
{{要出典範囲|救援活動は体系的ではなかったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の給水活動なども注目される。また、この時、紅陵大学(現[[拓殖大学]])の義援隊が、また東京学生同盟からは東大生の渡辺松美を中心とした救援隊が現地に入り、堤防復旧や、避難所での配食支援など今で言う[[災害ボランティア]]活動を行った記録がある。この時、渡辺が[[警察無線]]を借りて東京に送った内容は、渡辺の手記によると、「'''被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い'''」と言うもので、被害の壮絶さを物語っている|date=2018年9月}}。


==== 水害 ====
なお、1か月後の7月23日から25日にかけて発生した豪雨により復旧事業は障害を受けた。
{{See also|{{節リンク|九頭竜川|福井大震災と昭和の大改修}}}}
地震により、被災地域を流れる[[九頭竜川]]・[[日野川]]・[[足羽川]]の堤防が全延長140kmにわたって至るところで亀裂・陥没・崩壊し、九頭竜川では堤防高が最大4.5m沈下した{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=174, 206}}。地震の約1ヶ月後の7月23日夜から25日にかけ、本州南岸に停滞した[[梅雨前線]]と若狭沖に発生した低気圧の影響で<ref name="basin_history">{{Cite web|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/siryou/hen2/syou1/3meiziki2.html|title=九頭竜川流域誌 3.2 主要洪水の概要|publisher=国土交通省近畿地方整備局福井河川国道事務所|accessdate=2019-10-05}}</ref>、その上流部で降水量350mm以上の記録的大雨が降ったため、7月25日の夕方に九頭竜川左岸の[[中藤島村]]灯明寺において約300mにわたって堤防が決壊して濁流が福井市へと流れ込んだ{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=54}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=174}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=208}}。約7,000戸が浸水して約28,000人が被災し、浸水深は所により最大2.4m、浸水面積は約1,900haに及んだ{{Sfn|中央防災会議|2011|p=208}}。九頭竜川最下流部の[[木部村 (福井県)|木部村]](現[[三国町]])池見から川崎の間でも堤防が約1,500mにわたって決壊した<ref name="basin_history"/>{{Sfn|中央防災会議|2011|p=208}}。梅雨の降雨に引き続いて台風の季節を迎えることから、被災堤防を除去して築堤し直すのではなく、沈下した堤防の上に盛り土をする応急復旧的な改修が施された{{Sfn|中央防災会議|2011|p=174}}。


=== 建築物 ===
== 法制度などへの影響 ==
[[File:Daiwa Department Store after Fukui Earthquake.JPG|thumb|地震発生直後の大和百貨店]]
* この地震による混乱に対処するため、福井市で戦後初の[[公安条例]]である「災害時公安維持に関する条例」が制定された<ref>{{PDFlink|[https://www.chukyo-u.ac.jp/educate/law/academic/hougaku/data/2/3/matumoto.pdf 松本昌悦. "言論・出版の自由といわゆる 「猥褻性」(上): 表現の自由とその限界についての理論的考察.]"}} 中亰法學 2.3 (1968): 1-26.</ref>。この条例によって救援に入った学生らが警察当局に相次いで拘束されることになった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180628/k00/00e/040/315000c 福井地震70年 翌月施行「公安条例」 救援活動も拘束]毎日新聞公式サイト</ref>。
丸岡町では、国宝(当時)の[[丸岡城]]が天守閣、石垣ともに全壊した{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=22}}。幸いにも焼失は免れたため、残された部材を用いて1951年(昭和26年)から復興修理工事が進められ、1955年(昭和30年)3月に復元が完成した{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=22}}{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=230-231}}。
* 福井地震を契機に、気象庁は[[気象庁震度階級|震度階級]]に「[[震度7]] 激震(現在、呼称は廃止)」を新たに設定した。
* 地震から50周年となる1998年6月26日、27日、28日の3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれ、福井地震の教訓を元に各都市が防災について話し合った。
*福井地震の被害から [[建築基準法]]に地域別の設計震度が導入された。


福井市中心部では、[[大和 (百貨店)#福井店|大和百貨店福井店]](7階建て{{Sfn|中央防災会議|2011|p=77}})の1階がつぶれて全壊する被害を受け、福井震災の被害の象徴として有名になった{{efn2|この倒壊した百貨店の写真は雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』の表紙に掲載された{{Sfn|中央防災会議|2011|p=i}}。}}一方で、大名町交差点を挟んで向かい隣の{{Sfn|中央防災会議|2011|p=58}}<ref>[http://www2.pref.fukui.lg.jp/press/view.php?cod=47Ccda155840740888&key=%BF%CC%BA%D2 福井県 > 報道発表資料 > 写真展「カラー写真が伝える 震災前後の福井」を開催します!]の{{Cite web|url=http://www2.pref.fukui.lg.jp/press/atfiles/pa261558835844D6.pdf|title=添付資料 展示資料紹介(掲示用)|publisher=福井県|format=PDF|date=2019-06-06|accessdate=2019-08-31}}</ref>[[福井銀行]]本店(4階建て{{Sfn|中央防災会議|2011|p=77}})は{{要検証範囲|全く被害を受けることなく、地震発生翌日から営業している<ref>{{Cite news|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/306467|title=福井銀行本店、82年の歴史に幕 空襲、震災に耐えたシンボル|newspaper=[[福井新聞]]|date=2018-03-17|accessdate=2019-08-31}}</ref><!-- 左記の福井新聞記事には「全く被害を受けず、翌日から営業」と記されているが、{{Sfn|中央防災会議|2011|p=77}}には、福井銀行本店について「本館は全焼」「併設していた資料倉庫は延焼を免れた」とあり、{{Sfn|中央防災会議|2011|p=117}}には、県内の金融業の被害として「地震発生後、数日間、金庫が開けられなかった」「7月3日、銀行は一斉に開店した」とあることから、本当に翌日から営業していたのか疑問が残る。事実かどうか要検証。 -->|date=2019年9月}}。福井銀行本店ビルは地下10mまで90cm間隔で500本(短辺20本×長辺25本)の杭をびっしりと打ってあった<ref name="gakken">{{Cite book|和書|title=地震のひみつ|author1=[[力武常次]](監修)|author2=[[安倍北夫]](監修)|author3=[[藤木てるみ|藤木輝美]](漫画)|series=学研まんが[[ひみつシリーズ]]|edition=新訂版|publisher=[[学習研究社]]|date=1992-07|page=102|isbn=4-05-106297-X}}</ref>。頭取が元技術者であり、強固に建てさせていたという<ref name="gakken"/>。大和百貨店の東に隣接する酒伊ビルも、[[基礎]]に497本の松杭が打設されていたことで{{Sfn|中央防災会議|2011|p=232}}空襲と地震に耐え、2019年現在、[[三井住友信託銀行]]福井支店の社屋として利用されている<ref>{{Cite web|url=https://mappc.smtb.jp/b/smtb/info/643/|title=福井支店(店番:643)|publisher=三井住友信託銀行|accessdate=2019-10-05}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=ふくいけんの自然災害 いのちをまもるために|publisher=福井県土木部|date=2019-03|pages=19-20}}</ref>貴重な建築の一つである{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=232-233}}。
== 他の地震との関連 ==
吉田明夫、青木元らの研究によれば、1961年の[[北美濃地震]](M7.0)、1969年の[[岐阜県中部地震]](M6.6)、1984年の[[長野県西部地震]](M6.8)と続いた一連の地震との関連性が指摘されている<ref>吉田明夫、青木元、[https://doi.org/10.5026/jgeography.111.2_212 大地震の前に日本海沿岸の広域に現れた地震活動の静穏化] 地学雑誌 2002年 111巻 2号 p.212-221, {{doi|10.5026/jgeography.111.2_212}}</ref>。また、1944年の[[昭和東南海地震]](M7.9)の影響を受け、その震源域及び余震域から離れた地域で発生した[[誘発地震]]と考えられている<ref name="201103_tohoku">[http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/eqvolc/201103_tohoku/inducedeq/ 2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震] 東京大学地震研究所 広報アウトリーチ室</ref>。


== その他 ==
=== 医療機関 ===
多くの病院・医院、歯科医院、隔離病舎および保健所が被災し、全半壊・全焼した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=117}}。人口が集中する福井市および坂井郡の医療機関は、多くが全半壊し、診療不能の状態に陥った{{Sfn|中央防災会議|2011|p=141}}。被災地域内の基幹病院であった[[福井赤十字病院]]と福井中央病院([[福井県立病院]]の前身)は、いずれも福井市内にあり、地震によって大きな損害を被った{{Sfn|中央防災会議|2011|p=143}}。福井中央病院では、地震発生時に外科手術が行なわれていたが、執刀した院長は大きく揺れる手術台を押さえながら、余震が続く中、最後まで手術をやり終えた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=143}}。院長は病院前の仮救護所で、負傷者の応急処置と重症度の判別([[トリアージ]])を行わせた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=143}}。この現在の災害医療体制にも通じる処置は、福井空襲における戦時医療の経験が活かされたものと考えられている{{Sfn|中央防災会議|2011|p=143}}。
[[1945年]]の[[福井大空襲]]、1948年の福井地震、地震の1ヶ月後に集中豪雨で発生した九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受けてその度に復興を遂げてきた。このことから、福井市は「[[不死鳥]]の町」を合言葉にしている。

=== 教育機関 ===
福井県内の小・中学校および高等学校のうち、78校が全壊、21校が半壊、12校が全焼する被害を受けた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=117}}。県内の全児童・生徒の3分の1に相当する約72,500人が罹災し、夏季休暇が1か月繰り上げられ、地震発生と同時に長期休暇に入った{{Sfn|中央防災会議|2011|p=117}}。GHQから貸与された大型テントおよび天幕と、教科書会社から寄贈された教科書を使用して、8月初旬から授業が再開されたが、備品不足のため、二部・三部授業を余儀なくされた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=117}}。また、特別給食が実施された{{Sfn|中央防災会議|2011|p=117}}。

=== 交通機関 ===
当時は福井も[[モータリゼーション]](車社会化)以前の時代にあって、鉄道が人々の主要な交通手段であった{{Sfn|丸岡町|2000|p=66}}。

==== 鉄道 ====
[[File:Kuzuryu-gawa railway bridge.jpg|thumb|倒壊した国鉄北陸本線福井駅-森田駅間の九頭竜川鉄橋]]
路盤の沈下や線路の湾曲、駅舎・車両基地の倒壊、列車の脱線・転覆、橋梁の損壊などにより、被災地域の鉄道網は寸断された{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=33}}。主な被災区間は次の通り。

* 国鉄(省線)[[北陸本線]][[大土呂駅]] - [[加賀温泉駅|作見駅]]間 (40.2km) {{Sfn|丸岡町|2000|p=77}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=115}}。
* [[京福電気鉄道丸岡線|京福電鉄丸岡線]]全線 (7.6km) {{Sfn|丸岡町|2000|p=77}}、[[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]][[福井口駅]] - [[本荘駅]]間 (17.4km) {{Sfn|中央防災会議|2011|p=115}}および[[京福電気鉄道永平寺線|永平寺線]][[芦原温泉駅|金津駅]] - 油駅間 (13.2km) {{Sfn|丸岡町|2000|p=77}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=115}}。

福井平野を走行中だった北陸本線の列車3本が脱線・転倒した<ref name="kisho100nen"/>{{Sfn|荒井・小嶋|1999|p=222}}。うち、震央に最も近い区間である国鉄丸岡駅 - 金津駅間を走行中に脱線・転覆した旅客列車は満員で、多数の負傷者が出た{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=33}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=173}}{{Sfn|丸岡町|2000|p=154}}。また、[[九頭竜川]]に架かる国鉄北陸本線の九頭竜川鉄橋が倒壊、京福電鉄三国芦原線の中角鉄橋が落下したことにより、物資輸送や救援が遅滞した{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|pp=33-34}}。北陸本線の[[細呂木駅]]、金津駅、[[春江駅]]、大土呂駅は駅舎が倒壊し{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=41}}、金津駅では停車中の列車が駅舎の下敷きになった{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=33}}。

国鉄は九頭竜川以南を敦賀管理部、九頭竜川以北を金沢管理部が担当し{{Sfn|田中|1996|p=80}}、北陸本線の[[武生駅]]以南および[[動橋駅]]以北は地震発生当日の夜には復旧した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=115}}。7月1日に[[米原駅]] - 福井駅間が復旧・開通し{{Sfn|中央防災会議|2011|p=173}}、7月22日には[[森田駅]]以北が開通(この時点では、まだ北福井駅 - 森田駅間はバス代行輸送で対応{{Sfn|中央防災会議|2011|p=112}})した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=173}}。その後、8月22日に九頭竜川仮橋梁が完成{{Sfn|荒井・小嶋|1999|pp=222-223}}(本橋梁は翌年1月20日に完成{{Sfn|中央防災会議|2011|p=115}})し、北陸本線は地震発生から約2ヶ月で全線が復旧・開通した。

九頭竜川の橋梁が被災した京福電鉄三国芦原線は、8月21日には運行を回復した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=173}}。

[[福井鉄道]]は市内線で電車1両が市街地火災に巻き込まれて類焼したが<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASM865CR0M86PGJB00D.html |title=空襲3年後、街を襲った大地震 貴重なカラー写真は語る |newspaper=朝日新聞 |date=2019-08-15 |accessdate=2019-09-16}}</ref>、路線の被害は軽微であり、7月13日には全路線で運行した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=173}}。この被災車両([[福武電気鉄道デハ20形電車|モハ161-2]])は、無事だった台車とモーターが修理された上、再使用されて震災後も長く市民の足として活躍し、引退後は福井市へ譲渡され、1998年から[[下馬中央公園]]に静態保存されている<ref>{{Cite news|url=https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000015195|title=復興の象徴、震災電車の内部を公開 福井地震から70年を記念|newspaper=福井新聞|date=2018-06-22|accessdate=2019-10-05}}</ref>。

==== 道路 ====
震災発生当時は幹線国道([[北陸道#道(みち)としての北陸道|北陸道]])でさえ、郊外や農村地域では幅員5m程度で未[[舗装]]状態であった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=172}}。地震により、国道12号(現在の[[国道8号]])の40kmを含む、延長599kmの道路が陥没、亀裂などの被害を受け、300の橋梁が落橋、損壊するなどして被災し、さらに倒壊した家屋で道路を塞がれて交通障害が発生した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=172}}。特に、九頭竜川に架かる舟橋および中角橋、[[足羽川]]に架かる板垣橋および木田橋、[[日野川 (福井県)|日野川]]に架かる明治橋などが落橋したため、福井市内と周辺地域を結ぶ道路交通が遮断され、救援活動に深刻な影響が出た{{Sfn|丸岡町|2000|pp=154-155}}{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|pp=14-15}}。[[九頭竜橋|舟橋]]では、応急連絡手段として、[[渡し舟]]が復活した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=64}}。高木橋、舟橋、中角橋、長畝橋は7月20日頃までに仮橋梁が完成したが、7月24日の[[#水害|豪雨]]で流されてしまい<ref name="FS100"/>、再び仮橋が架けられて二次復旧したのは8月のことであった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=116}}。

=== 産業 ===
農業は、地震動で地盤が沈下し、また田植えの直後でもあったため、耕地や水稲が極めて大きな被害を受けた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=113}}。

福井県の製造業の主要部門である繊維工業では、1400近くの工場が被災し、1万4000台以上の[[織機]]および14万錘を超える撚糸機械が損壊するなど、全設備の54%が罹災した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=113}}。1948年度末までに、絹・人絹の織物機械は81%、撚糸機械は60%が復旧し、当時進行していたインフレの影響も受けて、震災後に福井県内の製造業、とりわけ紡績工業はめざましい発展を遂げた{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=113-114}}。

=== 通信 ===
被災地の加入電話3,340件のうち、91%にあたる3,032件が不通となり{{Sfn|中央防災会議|2011|p=118}}、地震発生から約1週間は、一般の電話連絡はほとんど不可能な状態であった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=118}}。地震発生翌日の午前7時には、金沢 - 福井間の公衆回線が開通し、警察・新聞社などの非常連絡や報道に活用された{{Sfn|中央防災会議|2011|p=118}}。

== 災害対応 ==
福井震災は、1947年10月に施行されたばかりの[[災害救助法]]が全国で初めて適用された大規模災害であった{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=130-131, 133-134}}{{Sfn|服部|1995|p=78}}。災害救助法第22条および同法施行令第7条に基づき、1948年1月15日に福井県災害救助隊を結成、福井市でも災害救助隊福井支隊が結成されていた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=134}}。しかし、これら災害救助隊は未だ準備・訓練を実施する段階にはなかったため{{Sfn|中央防災会議|2011|p=131}}、秩序立った活動ができず、応急措置にとどまった{{Sfn|荒井・小嶋|1999|p=225}}。

=== 皇室 ===
[[昭和天皇]]の名代として[[三笠宮崇仁親王]]殿下が7月5日に被災地に派遣され、福井県内各地を慰問された{{Sfn|丸岡町|2000|p=141}}<ref name="kenshi_fukkyu">{{Cite book|和書|author=福井県編|title=福井県史通史編6|chapter=第三章第一節 三 福井震災 復旧対策の展開と援助活動|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-3-01-01-03-02.htm|year=1996}}</ref>。

=== 日本政府 ===
日本政府は6月29日、中央災害救助対策協議会を設置し、現地に凍結してあった8,500石の米の凍結を解除するとともに食料品を放出、1世帯につき10万円の第一封鎖預金の自由支払いを許可する措置をとった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=131}}<ref name="kenshi_fukkyu"/>。応急措置がある程度完了すると、[[厚生省]]を中心に運営されてきた中央災害救助対策協議会の業務は、恒久的な復興を目指す災害復興対策委員会に切り替わっていった{{Sfn|服部|1995|p=79}}。

=== 連合国軍総司令部 (GHQ) ===
GHQ福井軍政部は、福井市に16の移動給水設備を設けて給水活動を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=122}}。

医療活動においても、当時は患者搬送のための[[救急車]]が未だ導入されておらず、戸板や[[リヤカー]]で運んでいたところ、軍政部のトラックが機動力を発揮して、多数の負傷者を医療機関まで一度に移送することを可能にし、負傷者の広域搬送に活躍した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=145}}。

GHQの日本占領期は一般民衆のデモや労働ストライキが盛んな時世にあった中で、震災直後から、[[日本共産党]]が救援活動に乗り出したり<ref name="bousai_info_np"/>、[[在日本朝鮮人連盟|在日朝鮮人連盟]]が県当局の救助活動の一環と称して旗を立てて偽の救援活動を始めたりしたが{{Sfn|中央防災会議|2011|p=122}}、朝鮮人による救援物資の盗難の疑いがあって捜査中であると、1948年6月度の月例報告がGHQ福井軍政部から上がるなど{{Sfn|中央防災会議|2011|p=122}}、災害時の混乱に乗じた政治的煽動や治安の悪化が懸念された<ref name="kenshi_kouan"/>。当時GHQ福井軍政部長(司令官)であったジェームズ・F・ハイランド中佐 (Lt. Col. James F. Hyland) は特に[[反共主義|反共姿勢]]が強く、労働組合や左翼勢力を排除して治安の維持を図るとの名目で、7月7日に福井市において「災害時公安維持に関する条例」を、福井県においては7月16日に「震災臨時措置条例」を、全国に先駆けて[[公安条例]]として制定させた<ref name="bousai_info_np">{{Cite web|url=http://www.bosaijoho.jp/reading/item_6768.html|title=2008年6月の周年災害/日本の災害・防災年表 ○昭和23年(1948)福井地震-震度7規定、建築基準法、地方公安条例を新たに制定(60年前)[復刻]|publisher=[[防災情報新聞社]]|date=2008-06|accessdate=2019-09-16}}</ref><ref name="kenshi_kouan">{{Cite book|和書|author=福井県編|title=福井県史通史編6|chapter=第三章第一節 三 福井震災 公安条例|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html|year=1996}}</ref>。この条例によって、救援に入った学生らが警察当局に相次いで拘束されることになった<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180628/k00/00e/040/315000c |title=福井地震70年 翌月施行「公安条例」 救援活動も拘束 |newspaper=毎日新聞|date=2018-06-28|accessdate=2019-09-16}}</ref>。

=== 福井県 ===
地震発生時、福井県知事[[小幡治和]]は公務のために大阪市に出張中であったが、宿泊先の旅館で地震発生のニュースを知り{{Sfn|中央防災会議|2011|p=144}}、直ちに大阪府および京都府の知事に災害救援を要請し、翌29日朝に帰庁した<ref name="kenshi_fukkyu"/><ref name="JOFG"/>。要請を受けた大阪府は28日午後11時40分に救護班と医薬品を載せたトラックを被災地に急派し{{Sfn|中央防災会議|2011|p=144}}、京都府からも救助隊と救援物資が特派された{{Sfn|服部|1995|p=78}}。急ぎ幹線道路の障害物が撤去され、翌29日の京阪神方面からの救援隊の通行に間に合わせた{{Sfn|荒井・小嶋|1999|p=225}}。

福井県は、災害救助法の規定に基づき{{Sfn|中央防災会議|2011|p=131}}、28日夕方に{{Sfn|中央防災会議|2011|p=148}}<!-- {{Sfn|中央防災会議|2011|p=131}}では「7月1日」とされているが、同文献中の他の箇所の記述{{Sfn|中央防災会議|2011|p=111}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}と照らし合わせると「同日夕方」と考えた方が矛盾しない。 -->福井県震災対策本部を設置した{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=131, 148}}。震災対策本部は、[[福井県庁]]に福井県本部、政府との折衝の要として東京・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に東京本部(7月4日設置{{Sfn|中央防災会議|2011|p=111}})、被害の著しかった坂井郡に対策本部丸岡出張所を置き、これら3つの拠点を中心に活動した<ref name="kenshi_fukkyu"/>。震災直後、福井県の救援本部から「福井市、地震にて全滅す、救援を乞う」というラジオ放送が行われた{{Sfn|服部|1995|p=78}}。

交通と通信が寸断されたため、福井市に設置された県震災対策本部では初めの数日間、九頭竜川以北の地域の情報を得ることができなかった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=142}}。

7月下旬に[[#水害|水害]]が発生したことを受けて、福井県は同月30日に県水害対策本部を設置し<ref name="FS100"/>、救助活動、避難所の設置、炊き出しや配給などを行なった<ref name="FS100"/>。

=== 福井市 ===
地震発生時、福井市長[[熊谷太三郎]]は在庁中であり、直ちに震災対策本部を設置した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=134}}。しかし、職員の多くは退庁した後であり、参集はままならず、市長を支隊長とする災害救助隊福井支隊(総務厚生部、公安部、消防部、衛生部、経済部、技術部、協力部の7部体制)の多くの部で本格的な活動が始まったのは翌日以降であった{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=134-135}}。

総務厚生部は、被害を受けた福祉施設の入居者を避難させたほか、震災孤児の保護、罹災した妊産婦のための臨時産院を設置した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=135}}。

公安部は、[[福井市警察]]署員が部員となって、大阪府、京都府、兵庫県などの各府県[[国家地方警察]]・[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]の応援を受けて、人命救助および治安警備、道路啓開に当たった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=135}}。6月29日から7月2日までの間は、消防団の応援を受けて、道路清掃、水路開削、死体収容にも当たった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=135}}。

消防部は、交通や通信が途絶する中、消防部隊の当番員を市内の火災現場に出動させ、消防活動に当たった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=135}}。延焼火災が発生した市内の映画館「国際劇場」と「東宝文化劇場」で下敷きになっていた観衆の救出活動を優先して展開したが、火勢により撤退を余儀なくされた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=135}}。6月29日午前3時頃に下火になったものの、全地域で火災が完全に鎮火するまでに5日を要した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=135}}。

衛生部は、病院・診療所が被災し、医師・看護師・助産婦なども罹災したため、県救護本部に負担がかかった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。福井県によって、県庁前に応急救護所、福井市内の7か所に臨時救護所が設置され、医療活動に当たった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。また、夏季であったこともあり、[[防疫]]活動も開始し、予防薬の配布、[[腸チフス]]の予防接種、井戸の消毒などを実施したほか、[[公衆便所|公衆トイレ]]を計21か所に設置した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。

経済部は、食糧などの救援物資の分荷・配給所を市公会堂前に設置した。翌29日午後からは、県震災対策本部の指示に基づき、[[炊き出し]]を開始した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。近隣市町村からは、米、ジャガイモのほか、衣料品、寝具、学用品も届けられた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。各都道府県や軍政部からも救援物資が送られた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。国内外から寄せられた義捐金は(当時の価値で)総額2,784万円に達した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。義捐金が被災世帯のみならず、被災した商店の店舗にも同等に配分された点は、福井震災の復興において特徴的な配分の仕方であった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。

技術部は、資材・機材の調達、災害調査の実施、河川の応急復旧、{{読み|崩岸|あず}}復旧、道路啓開による交通の確保に当たった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。

協力部は、本部に福井市情報部を設置し、市民掲示板の設置、市役所日報の発行、急ごしらえの広報車で市内を巡回して広報活動を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=136}}。

=== 赤十字社 ===
==== 日本赤十字社 ====
[[福井赤十字病院]]では、倒壊した病棟の建物から入院患者が救出され、搬送されてきた多数の負傷者に対しては病院前広場に設営したテントを臨時救護所として診療を行い、重傷者は[[公立丹南病院|国立鯖江病院]](旧鯖江陸軍病院)や[[武生市]](現[[越前市]])内の各病院に転送された{{Sfn|中央防災会議|2011|p=143}}。震災発生から1週間で4,812人の傷病者が診療を受けた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=143}}。

地震発生を知った日本赤十字社本部は各県の支部に[[災害医療]]態勢の準備を進めるよう指示したが、各県の支部は本部が指示するよりも前から活動を開始し、医師と看護師からなる救護班の編成が完了していた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=146}}。28日の夜には石川・富山・滋賀・大阪の各支部が救護班を派遣し、翌29日には東京本部と京都・兵庫・新潟・奈良・三重・愛知・滋賀・岐阜・石川・富山・山口の各支部が計26班を派遣し、福井市や丸岡・春江・金津などの地区で医療活動を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=146}}。また、被災した現場での医療活動のほかにも、現地の医療機関と連携して、重傷患者の受け入れ先となっていた国立鯖江病院や武生市内の医療機関にも応援を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=146}}。

==== アメリカ赤十字社 ====
[[アメリカ赤十字社]]極東支部は、28日に東京のラジオ放送で地震発生を知るや、直ちに非常招集を行い、被害状況の把握のため、翌朝にも情報収集班を現地に急派した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=146}}。現地の情報を受けて、7月9日と10日に計2トンの医療物資などを[[小松飛行場]]に空輸した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=147}}。

=== 報道機関 ===
当時、福井県の情報通信網は未発達で、一般家庭の固定電話の普及率は低く、公共放送もラジオ局のNHK福井放送局が1局あるのみであった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=144}}。

==== 新聞社 ====
[[朝日新聞大阪本社]]は「北陸方面に激震!大聖寺では被害多大」と題した号外を発行し、地震直後の中央気象台[[大阪管区気象台]]発表の地震速報に基づき、震源地が福井・石川両県付近であること、福井県境に近い[[大聖寺町|大聖寺]]で人家が多数倒壊し、死傷者が多数に上る見込みであることを伝えた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=139}}。また、福井市について同日夜7時の情報として「県庁、放送局、郵便局のみ残り、他は全市全滅した模様」と報じた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=139}}。

===== 福井新聞社 =====
[[福井新聞|福井新聞社]]は社屋が全壊・全焼し、印刷工場も焼失したため、地震発生当日の発行は不可能となった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=138}}。編集業務は翌29日から開始し、印刷・発行は金沢市の[[北國新聞|北国毎日新聞社]]が代行した{{Sfn|中央防災会議|2011|p=138}}。県内は交通網が寸断されたため、金沢に派遣される編集局員たちは大聖寺まで徒歩で行き、そこから列車に乗って金沢に向かった<ref name="FS100">{{Cite book|和書|title=福井を伝えて一世紀 福井新聞百年史|editor=福井新聞社社史編纂委員会編|publisher=福井新聞社|year=2000|pages=499-507}}</ref>。印刷した新聞は、社員および販売店員を動員した人海作戦を展開し、[[大聖寺駅]]から福井の本社まで人の足で運ばれた<ref name="FS100"/>。

同年9月中旬から本社新社屋の建設工事が進められ、代行印刷は12月23日(24日付の紙面)に終わり、24日(25日付の紙面)から自社印刷を再開した<ref name="FS100"/>。

==== 日本放送協会 ====
地震によって他の報道関係機関の建物がほとんど全て破壊された中で唯一、[[NHK福井放送局]]の社屋は無事であったが、放送機材が転倒し、自家発電装置も運転不能となり、通常の放送局の業務は一時停止した<ref name="JOFG">{{Cite book|和書|title=いつも放送があった JOFGの50年|editor=NHK福井放送局編|publisher=NHK福井放送局|year=1983|pages=57-72}}</ref>{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=125,138}}。地震発生を伝える第一報は、かろうじて電話が通じた[[NHK金沢放送局|金沢放送局]]を経由して、名古屋、東京へと伝達され、金沢と名古屋からは午後6時25分のニュースで{{Sfn|中央防災会議|2011|p=111}}、全国放送では午後7時のニュースで放送された<ref name="JOFG"/>{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=125,138}}。その第一報の内容は、「放送局そのほか一部の建物を除いて、福井市全滅、市内数か所より火災発生す」というものであった<ref name="JOFG"/>。放送が再開するまでの間は、名古屋と電話が通じていた麻生津電話中継所を仮スタジオにして、親局の[[NHK名古屋放送局|名古屋放送局]]を通じて全国に向けてラジオ放送が行われた<ref name="JOFG"/>。翌日以降に金沢、名古屋、大阪などから応援が来て取材体制が整うまでは、福井局のアナウンサー2人が自ら市内を歩き回って取材を行なった<ref name="JOFG"/>。翌日には名古屋や金沢からの応援で放送機材が運び込まれ、切れたアンテナの復旧作業も進められ、翌々日午後7時には放送業務を再開した<ref name="JOFG"/>。発災当初、他の通信連絡手段が不通となったため、県や自治体の中央および各府県に対する救援要請は、福井放送局から発信された<ref name="JOFG"/>。また、デマが飛び交うのを防止するため、放送ができない間は市内要所に[[張り紙|ビラ貼り]]をして正確な情報の普及に努めた<ref name="JOFG"/>。

震災に際して、NHK福井放送局は、名古屋放送局長の計らいで復旧用放送機材の搬入のついでに依頼されてやって来た井戸掘り業者が福井放送局前の庭に掘った[[井戸]]とポンプを利用して、市民に給水支援を行なったり、時刻を尋ねてきた市民に対して局長自ら放送局の窓口で現在時刻を知らせたり、市内のラジオ商組合からの要望を受けて当時の福井放送局長小山正三のつてで大阪のラジオ受信機メーカーから大量にラジオを取り寄せたり、名古屋から招いた演芸班を被害が甚大であった地域を中心に巡回させて落語や漫才、曲芸などを上演して地域の人々に娯楽を提供したりするなどして、市民・県民から喜ばれ、多くの信頼を集めた<ref name="JOFG"/>。このような福井放送局の活動に対して、米軍からは表彰として金一封が贈られ、NHK会長からも表彰された<ref name="JOFG"/>。

=== 学生団体 ===
東京学生同盟、医学生連合会、紅陵大学(現在の[[拓殖大学]])「義援隊」、[[明治大学]]などの若者たちから組織された学生救援隊が現地に入り、九頭竜川・足羽川の築堤復旧工事や、避難所での配食支援、倒壊した家屋の復旧作業、医学生による傷病者の救護など、今でいう[[災害ボランティア]]活動を行った記録がある<ref>{{Cite web|url=http://www.t-shinpo.com/756/756_6.html|title=今、防災について(21) 福井地震では学生支援隊が活躍|author=大間知倫|publisher=東大新報|year=1998|accessdate=2019-09-21}}</ref>。{{要出典範囲|このとき、学生団体代表の渡辺松美が[[警察無線]]を借りて東京に送った内容は、渡辺の手記によると、「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」というもので、被害の壮絶さを物語っている|date=2019年9月}}。なお、当時は[[医師法]]の公布前であり、医学生が救護に従事したが、同法の施行後は、医師免許を持たない医学生が診療を行うことは認められていない{{Sfn|中央防災会議|2011|p=149}}。

=== 宗教団体 ===
[[浄土真宗本願寺派]]は、福井市の西別院に臨時救護所を開設して、無料診療および巡回診療を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=149}}。[[真宗大谷派]]も東別院内に無料救護所を設けて診療を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=149}}。

[[金沢YMCA]]([[キリスト教青年会]])の救護班は、当日夜のうちに自動車で丸岡町に到達したものの、火災と交通障害のためにそれ以上は近づくことができず、一旦撤退した{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=144, 149}}。6月30日に再び丸岡入りし、そこから徒歩で九頭竜川を渡り、福井市の神明教会に救護所を設けて診療を行なった{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=144, 149}}。

[[天理教]]の「ひのきしん」活動があった<ref>{{Cite book|和書|title=福井震災展望|editor=天理教福井教務支庁|publisher=天理教福井教務支庁|year=1949}}</ref>。

== 日本国外の反応 ==
海外から寄せられた義捐金には[[ヘレン・ケラー]]からの寄付も含まれていた{{Sfn|田中|1996|p=85}}。

== 復興と教訓および社会に与えた影響 ==
特に被害の大きかった福井市、森田町、松岡町、春江町、丸岡町、金津町、芦原町は、[[特別都市計画法]]の適用を受け、大規模な復興都市計画の下、震災復興が進められた{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=56}}。

=== 国 ===
福井地震の経験を踏まえて、1949年(昭和24年)に地震観測法が改正され、中央気象台震度階に震度7「激震。家屋の倒壊が30%以上に及び、山崩れ、地割れ、断層などを生じる」が追加された{{Sfn|日本地震学会|1998|pp=4-5}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=227}}。地震学者の[[纐纈一起]]が調査したところ、この30%という数字は、時の中央気象台長[[和達清夫]]が発案し、当時の地震課長[[鷺坂清信]]と相談して決められたそうであるが、その制定経緯は、詳細が公になる前に両者とも物故しているため、今も謎が残る{{Sfn|日本地震学会|1998|pp=4-5}}{{Sfn|中央防災会議|2011|p=227}}。

福井地震の被害調査結果を踏まえて、1950年(昭和25年)に[[建築基準法]]が制定され、木造建築物に対する耐震設計基準が導入された{{Sfn|中央防災会議|2011|pp=151-161, 219}}。

=== 福井市 ===
福井市は戦災復興のため、1946年(昭和21年)10月に特別都市計画法の適用を受けて[[戦災復興都市計画]]を立案していたものの、財政難などにより、その実施は行き詰まっていた<ref name="kenshi_fukko">{{Cite book|和書|author=福井県編|title=福井県史通史編6|chapter=第三章第一節 三 福井震災 復興と都市計画|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html|year=1996}}</ref>。震災によって既成の市街地のほとんどが失われたことで、滞っていた戦災復興事業が一気に推し進められることになった{{Sfn|中央防災会議|2011|p=116}}。戦災復興事業を拡充して震災復興計画とし、結果的に「事前復興」する形で、迅速に復興事業が進められたのである{{Sfn|中央防災会議|2011|p=221}}。復興事業においては、大胆な区画整理と並行して、幅員44mの[[中央大通り|駅前大通り]]や幅員36mの[[本町通り (福井市)|本町通り]]が敷設されたのをはじめ、主要道路の拡幅および直線化、公園緑地の整備、[[墓地]]の統合移転、そして早くから[[下水道]]の整備が行われた{{Sfn|中央防災会議|2011|p=116}}。

==== 福井復興博覧会 ====
福井県および福井市の共同出資により{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=64}}、1952年(昭和27年)4月10日から6月25日までの77日間{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=64}}、[[福井高等工業学校|福井工業専門学校]]敷地{{Sfn|中央防災会議|2011|p=176}}(現在の[[福井大学]]文京キャンパス)を第1会場、[[足羽山|足羽山公園]]三段広場を第2会場として、福井市の戦災と震災からの復興を記念した福井復興博覧会が開催された<ref name="Senihaku">{{Cite journal|和書|author=瓜生由起|title=平成30年度特別展 福井震災70年 ― 記録と記憶を未来へつなぐ ―|url=http://www.pref.fukui.lg.jp/muse/Cul-Hist/info/kouhoushi/fm57.pdf|journal=ふくいミュージアム|number=57|pages=1-2|publisher=福井県立歴史博物館|format=PDF|date=2018-05-18|accessdate=2019-11-05}}</ref>。福井の地場産業である[[繊維]]を全体テーマとしていたため、通称「繊維博」とも呼ばれた<ref name="Senihaku"/><ref name="Expo_S27"/>。復興博覧会のポスターの1つは、博覧会事務局スタッフの縁で依頼された、画家の[[東郷青児]]が原画を担当し、原画の題名は「絹の精」とした{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|pp=66-67}}。来場者数は、のべ88万人を超えた<ref name="Senihaku"/><ref name="1952_Expo">{{Cite web|url=http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/tenji/tenrankai/fukko/fukko03.htm|title=1949~1952 歴史館ができるまで 1952 福井復興博覧会|publisher=福井市立郷土歴史博物館|accessdate=2019-11-05}}</ref>。博覧会の来賓として三笠宮崇仁親王殿下が福井を再訪された<ref name="Expo_S27">{{Cite web|url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/m-exhbt/20121112AM/20121112.html|title=「ふくいの勧業博覧会」 ふくいの博覧会その3 福井復興博覧会|publisher=[[福井県文書館]]|year=2012|accessdate=2019-11-05}}</ref>。第1会場の芸能センターでは[[美空ひばり]]のコンサートが行われた<ref name="Expo_S27"/><ref name="1952_Expo"/>。[[福井市自然史博物館]]の前身にあたる福井市立郷土博物館は、当博覧会の開催にあわせて設立された<ref name="CityMuse">{{Cite web|url=http://www.city.fukui.lg.jp/kankou/zoo/sisetu/p021225_d/fil/asuwayamanorireki.pdf|title=足羽山の履歴|publisher=福井市|format=PDF|date=2019-09-26|accessdate=2019-11-05}}</ref>。翌年には、同じく足羽山に福井市立郷土歴史館(現在の[[福井市立郷土歴史博物館]])が開館し<ref name="CityMuse"/>、郷土博物館とともに復興のシンボルとなった<ref>{{Cite web|url=http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/tenji/tenrankai/fukko/fukko04.htm|title=1952~2002 福井と歴史館の半世紀 1953 歴史館の誕生|publisher=福井市立郷土歴史博物館|accessdate=2019-11-05}}</ref>。博覧会全体の収支は結果的に4000万円を超える赤字となったものの、足羽山の整備、市立郷土博物館の新設、第1会場跡地の福井大学敷地への組み込みなどは、博覧会閉幕後にも受け継がれる大きな遺産となった{{Sfn|福井県立歴史博物館|2018|p=64}}。

==== 世界震災都市会議 ====
福井震災50周年事業として、1998年(平成10年)6月26日から28日までの3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれた<ref name="shinsai_kaigi">{{Cite web|url=http://www.townnet.com/tsunagu/sinsaif.html|date=1998-06|title=世界震災都市会議・福井震災50周年|author=名倉弘二|archiveurl=http://web.archive.org/web/20081014004023/http://www.townnet.com/tsunagu/sinsaif.html|archivedate=2008-10-14|deadlinkdate=2019-11-05|accessdate=2019-11-05}}</ref>。国内外の13の中小都市から市長や学者らを招いて、各都市が経験した震災の教訓を元に防災都市づくりについて話し合い、「福井市宣言」を採択した<ref name="shinsai_kaigi"/>。


== 関連項目 ==
{{commonscat|1948 Fukui earthquake}}
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Notelist2}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
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== 関連書籍 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author1=荒井克彦|author2=小嶋啓介|title=福井地震の被害について|url=https://doi.org/10.4294/zisin1948.52.1_219|date=1999-06|journal=地震 第2輯|volume=52|issue=1|pages=219–227|publisher=日本地震学会|naid=130006788558|accessdate=2019-09-16|ref={{SfnRef|荒井・小嶋|1999}}}}
* 谷口 仁士(編):「よみがえる福井震災」全2巻、現代史料出版、ISBN 978-4-906642-55-7 (1998年6月)。
* {{Cite journal|和書|author=田中和子|title=福井大震災における救援・復興活動:その教訓と提言の復習|url=https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/TD00000820|journal=福井大学地域環境研究教育センター研究紀要「日本海地域の自然と環境」|issue=3|pages=71–89|publisher=福井大学地域環境研究教育センター|naid=110009623754|date=1996-11|accessdate=2019-09-22|ref={{SfnRef|田中|1996}}}}
* {{Cite journal|和書|author1=田中和子|author2=服部勇|title=福井大震災からの恒久的復興対策の今日的意味|url=https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/TD00000827|date=1997-11|journal=福井大学地域環境研究教育センター研究紀要「日本海地域の自然と環境」|issue=4|pages=77–90|publisher=福井大学地域環境研究教育センター|naid=110009623688|accessdate=2019-07-03|ref={{SfnRef|田中・服部|1997}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[中央防災会議]]災害教訓の継承に関する専門調査会|title=1948 福井地震報告書|date=2011年3月|url=http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1948_fukui_jishin/index.html|ref={{SfnRef|中央防災会議|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|title=福井地震(1948年6月28日)50周年特集|url=http://www.zisin.jp/publications/pdf/nf-vol9.pdf|date=1998-09|journal=日本地震学会広報紙「なゐふる」|issue=9|publisher=[[日本地震学会]]|format=PDF|accessdate=2019-07-03|ref={{SfnRef|日本地震学会|1998}}}}
* {{Cite journal|和書|author=服部勇|title=資料に見る福井大震災の概要|url=http://hdl.handle.net/10098/7849|date=1995-09|journal=福井大学地域環境研究教育センター研究紀要「日本海地域の自然と環境」|issue=2|pages=71–81|publisher=福井大学地域環境研究教育センター|naid=110009625310|accessdate=2019-07-03|ref={{SfnRef|服部|1995}}}}
* {{Cite book|和書|title=特別展 福井震災70年 …記録と記憶を未来へつなぐ…(図録)|publisher=[[福井県立歴史博物館]]|url=http://www.pref.fukui.jp/muse/Cul-Hist/kikaku/kako/2018/20180628_fukuishinsai70.html|date=2018-06-28|ref={{SfnRef|福井県立歴史博物館|2018}}}}
* {{Cite book|和書|title=福井震災50周年記念誌「不死鳥の羽音」|publisher=福井震災50周年記念事業「世界震災都市会議」開催実行委員会(福井市)|date=1998-03-31|ref={{SfnRef|福井市|1998}}}}
* {{Cite web|url=https://www.jma-net.go.jp/fukui/topics/PDF_Jisin/Jisin_05.pdf|title=福井県の地震活動 令和元年(2019年)5月|publisher=[[福井地方気象台]]|format=PDF|date=2019-05|accessdate=2019-07-04}}
* {{Cite book|和書|author=丸岡町震災記念誌編纂委員会|title=丸岡町・福井大震災追想誌「お天守がとんだ」|publisher=福井県丸岡町|date=2000-04-22|ref={{SfnRef|丸岡町|2000}}}}

=== 文献目録 ===
* 小嶋啓介、荒井克彦「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.52.1_213 1948年福井地震に関する文献目録]」地震 第2輯 vol.52 (1999-2000) No.1 p.213-218, {{doi|10.4294/zisin1948.52.1_213}}

== 関連項目 ==
{{commonscat|1948 Fukui earthquake}}
* [[地震の年表 (日本)]]
* [[震度7]] - 福井地震を契機に新設された震度階


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{EQ-isc-link|897413}}{{en icon}}
* [http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1948_fukui_jishin/index.html 1948 福井地震] 内閣府中央防災会議-災害教訓の継承に関する専門調査会報告書
; 政府
* [http://toshichan.be.fukui-nct.ac.jp/yoshida/works/earthquake/fukuida/date/japanese/gaiyou.html 福井地震の概要]
* [http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1948_fukui_jishin/index.html 報告書(1948 福井地震)] - [[内閣府]][[中央防災会議]]災害教訓の継承に関する専門調査会
* [http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/kindai/index2.html ふくいの歴史アーカイブス > 近代福井の風景(昭和20年以降)] 福井市立郷土歴史博物館
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* [http://www.jiji.com/sp/v2?id=20100822earthquake_disaster_of_japan_08 特集日本の震災 福井地震(1948年)] 時事通信社
* [https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/siryou/index.html 九頭竜川流域誌 九頭竜川の治水の歴史] - [[国土交通省]][[近畿地方整備局]]福井河川国道事務所
* [http://showa.mainichi.jp/news/1948/06/post-ad56.html 昭和毎日 福井地震] 毎日新聞
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* [https://doi.org/10.4294/zisin1948.52.1_213 小嶋啓介、荒井克彦:1948年福井地震に関する文献目録] 地震 第2輯 Vol.52 (1999-2000) No.1 P213-218, {{DOI|10.4294/zisin1948.52.1_213}}
* 験震時報第十四巻別冊 昭和23年6月28日福井地震調査概報 - 旧[[運輸省]][[気象庁|中央気象台]]
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; 学術・文教
* {{PDFlink|[https://www.zisin.jp/publications/pdf/nf-vol9.pdf 日本地震学会広報紙 なゐふる 第9号 福井地震(1948年6月28日)50周年特集]|623&nbsp;KB}} - [[日本地震学会]]
* [https://gbank.gsj.jp/activefault/cgi/kishindan_segment_list?search_mode=2&kid=136 活断層データベース 起震断層の概要と構成活動セグメント 136 福井平野東縁起震断層] - [[産業技術総合研究所]][[地質調査総合センター]]
* {{PDFlink|[https://dil.bosai.go.jp/workshop/06kouza_kankyo/pdf/19_fukui.pdf 防災基礎講座:地域災害環境編 19. 福井平野-震度階7を新設させた激震災害の地]|1.9&nbsp;MB}} - [[防災科学技術研究所]]自然災害情報室
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* [http://toshichan.be.fukui-nct.ac.jp/yoshida/works/fukuieq/index.html 福井震災を知る] - [[福井工業高等専門学校]]吉田研究室
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; 新聞
* [https://www.fukuishimbun.co.jp/common/usr/fukui_erthquake/ 激震 福井地震] - [[福井新聞社]]
* [https://www.asahi.com/articles/ASM865CR0M86PGJB00D.html 空襲3年後、街を襲った大地震 貴重なカラー写真は語る] - [[朝日新聞社]]
* [https://mainichi.jp/articles/20180627/hpj/00m/040/004000d 福井地震70年:「不死鳥の街」の原点] - [[毎日新聞社]]
* [https://www.rodo.co.jp/series/70246/ 【国土を脅かす地震と噴火】59 福井地震㊤ 激震と火災で福井市壊滅] - 労働新聞社

; 画像・映像
* [https://artsandculture.google.com/search?q=Fukui%20earthquake&hl=ja Fukui earthquake] - [[Google アートプロジェクト|Google Arts & Culture]]
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009100192_00000 NHKアーカイブス 福井の”斜塔”とりこわし] - [[日本放送協会]] (NHK)
* {{YouTube|AEZfL6-n-F4|福井大震災 1948(昭和23)年}}


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2019年12月31日 (火) 15:00時点における版

福井地震
地震で倒壊した大和百貨店
福井地震の位置(日本の本州中央部内)
福井地震
福井地震の位置(日本内)
福井地震
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日 1948年(昭和23年)6月28日
発生時刻 気象庁発表
16時13分28.8秒(JST
米国地質調査所発表
16時13分31.0秒(JST)
震央 日本の旗 日本 福井県嶺北地方(坂井郡丸岡町付近)
座標 気象庁発表
北緯36度10分18秒 東経136度17分24秒 / 北緯36.17167度 東経136.29000度 / 36.17167; 136.29000
米国地質調査所発表
北緯36度09分50.4秒 東経136度13分19.2秒 / 北緯36.164000度 東経136.222000度 / 36.164000; 136.222000
震源の深さ ごく浅い
規模    気象庁マグニチュード (Mj)7.1
最大震度    震度6:福井県福井市
津波 なし[1]
地震の種類 内陸地殻内地震
左横ずれ断層[2]
余震
回数 本震後の1年間に983回(うち有感地震が652回)[3]
被害
死傷者数 死者・行方不明者3,769人[4]
負傷者22,203人
被害地域 福井県北部および石川県南部
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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福井地震(ふくいじしん)は、1948年昭和23年)6月28日午後4時13分頃[注 1][5]福井県嶺北地方北部(福井市の北北東約10km、現在の坂井市丸岡町付近[6])を震源として発生した地震である。地震の規模はマグニチュード7.1で、福井市では当時の震度階級としては最大の震度6(烈震)[注 2]を記録した。この地震により引き起こされた災害を福井震災[7]または福井大震災[8]という。

1945年(昭和20年)7月の戦災(福井空襲)からの復興途上にあった福井市を直撃した都市直下型地震である[9]福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし[7]、隣の石川県内の被害も合わせると、死者は3,769人、負傷者は2万2000人以上、全壊した家屋はおよそ3万6000戸に上った。最も被害が大きかったのは、福井県坂井郡金津町(現あわら市東部)、丸岡町および春江町(現坂井市南部)、吉田郡森田町(現福井市北部)で[10]、各町のほぼ全戸が倒壊した[10]震央からやや離れた福井市内でも家屋の全壊率は79.0%[11]、福井平野全域で全壊率は60%を超えた[12]。都市部では火災による焼失で被害が拡大した[10]。また、被災地域を流れる九頭竜川水系の堤防が地震による被害を受け、地震の約1ヶ月後の7月下旬に上流部で記録的大雨が降ったため、堤防が決壊するなどして水害が発生し、複合災害を引き起こした[13][14][15]

福井震災は、関東大震災(大正12年/1923年)と濃尾大震災(明治24年/1891年)に次ぐ大震災であった[16]。第二次大戦後に発生した震災としては、東日本大震災(平成23年/2011年)と阪神・淡路大震災(平成7年/1995年)に次いで、3番目に多い犠牲者を出した[9]。非常に高い全壊率[17]を記録した福井地震を契機に中央気象台震度階(後の気象庁震度階級)が見直され、1949年(昭和24年)に震度7(激震)[注 2]が新設された[9][16]

わずか3年ほどの間に戦災、震災、水害と度重なる災害に見舞われ、福井市街は灰燼に帰したが、その度に市民たちの不屈の気概と不断の努力によって不死鳥のように蘇り、力強い復興と発展を遂げたことから、福井市は市民憲章で「不死鳥のまち」を宣言している[18][19]

地震の概要

各地の震度

東は茨城県水戸市、西は佐賀県佐賀市で震度1を観測するなど[29]、関東甲信越地方から中国・四国地方まで[30]の広い範囲で揺れが観測された。当時の震度階は0から6までの7段階であった。震度4以上の揺れを観測した地域は次の通り。

震度4以上の揺れを観測した地域[29]
震度 都道府県 市町村
6(烈震) 福井県 福井市
4(中震) 福井県 敦賀市
富山県 富山市
石川県 金沢市輪島市
山梨県 甲府市
長野県 飯田市
岐阜県 岐阜市
愛知県 名古屋市田原市
三重県 亀山市
滋賀県 彦根市
京都府 京都市宮津市
奈良県 奈良市

地震発生後、東京大学地震研究所は、福井県を中心とする新潟から鳥取までの18府県に被害の状況を聞き取るアンケート調査をしていた。質問項目は揺れ方や建物の状況など最大30項目で、各地の小学校に郵送されたほか、調査員が現地に出向いて調べたりもしたとみられる。アンケート資料は分析がなされないまま散逸したとみられていたが、当時の中央気象台の観測点よりも多い594地点からの回答が記された集計表が2009年、同研究所で見つかった。同研究所の現在の研究員らはアンケート調査の結果を再研究しており、地震発生70年の節目にあたる2018年の秋に、回答が明確な545地点について、震度分布をまとめた論文を発表する予定である[31]。その論文発表要旨によれば、震源域付近は改正メルカリ震度階で平均震度X程度、震源域周辺の福井県北部と石川県南部は平均震度VIIIからIXで、平均震度VIIは北は富山県から南は滋賀県まで広がっていたと推定される[32]

メカニズム

福井地震の地震断層型は北北西–南南東方向(概ねN10-20°Wの走向[2])の左横ずれ[33]福井平野の厚い沖積層に覆われて地表に現れていない活断層が活動したと推定される[34]。地質学的には「地震断層」とは「地震に伴って地表に現れた断層」とされており[35]、この定義によれば、福井地震の明瞭な地震断層は認められていない[36]。しかし、地割れ帯の分布やいくつかの測量結果から、福井平野東部の地下に、坂井郡芦原町北部から金津町、坂井町、丸岡町、松岡町を通り、福井市南東部付近まで断続的に続く[37]長さ27kmの「福井地震断層」及び、その約3km東側に平行に走る、長さ8kmの「福井東側地震断層」が存在していると推定される[38]。2004年(平成16年)に地震調査研究推進本部の地震調査委員会は、福井平野東縁断層帯西部を福井地震の震源断層の主断層として評価している[39]

福井地震断層の南南東方向への延長線上には、濃尾地震(1891年)を引き起こした根尾谷断層が存在し[34]、さらにその延長線は三河地震(1945年)を起こした深溝断層の方向と同一である[40]

吉田明夫、青木元らの研究によれば、1961年の北美濃地震 (M7.0)、1969年の岐阜県中部地震 (M6.6)、1984年の長野県西部地震 (M6.8) と続いた一連の地震との関連性が指摘されている[41]。また、1944年の昭和東南海地震 (M7.9) の影響を受け、その震源域及び余震域から離れた地域で発生した誘発地震ではないかとの見方もあった[42]

被害

福井地震で一部が崩壊した福井城の石垣

当時の被災地人口29万8500人のうち、約7割にあたる21万4500人が罹災した[43]。死者の大部分が、当時の福井市から吉田郡、坂井郡にかけての地域に集中しており、その被害率は日本の近代史上でも類をみない[44]。特に現在の坂井市に当たる地域では、死者の割合が人口の5%[注 4]に及ぶ大惨禍となった。

福井・石川両県の被害[45][46]
都道府県 市郡名 人口[注 5]
(人)
人的被害(人) 住宅被害(戸)
死者 負傷者 全壊 半壊 焼失
福井 福井市 77,320 930 10,000 12,425 4,418 1,859
足羽郡 30,926 134 344 2,328 980 2
吉田郡 48,922 861 4,992 6,713 707 156
坂井郡 122,203 1,747 6,305 13,707 3,399 1,832
大野郡 97,763 6 0 0 0 0
今立郡 74,422 30 118 194 865 0
丹生郡 71,227 34 31 15 173 2
小計 3,728 21,750 35,382 10,542 3,851
石川 江沼郡 72,411 39 451 791 1,231
能美郡 64,747 0 1 7 35
河北郡 74,759 0 0 1 2
小松市 61,898 2 1 3 6
小計 41 453 802 1,274
合計 3,769 22,203 36,184 11,816 3,851

被害の特徴

福井平野一帯の地域では、全壊率が60%を超えるなど、被害は甚大だった。福井平野は九頭竜川沖積平野であり、厚く、軟弱な地盤が分布していることが、高い倒壊率の原因と考えられる[48]。一方、加越台地など、更新世に形成された安定した地盤や、基盤が浅い山麓部などは、全壊率が低かった[49]。最も揺れが激しかったのは30秒から40秒くらいで、5秒から15秒ほどの間に家屋が倒壊したといわれている[16]地割れに挟まって死傷したという、当時としては珍しい例も報告されている[16][50][51]。震災に続いて豪雨水害が発生し、複合災害を引き起こしたことも特徴である[52]

火災

福井市、丸岡町、金津町、春江町、松岡町、森田町では、地震の直接被害だけでなく、地震火災による延焼被害も著しく[53]、そのうち福井市と丸岡町で最も火災被害が大きかった[54]。火災便覧によると、福井地震の総出火件数は57件[注 6]であったが、全壊率の高さの割には出火件数は比較的少なかった[56]。福井市では、火災による焼失面積は市街地の6分の1にあたる約15万5000坪(51.2ha[57]に及んだ。これは東京ディズニーランドとほぼ同じ面積である。これまで、福井市街地は1945年7月の福井空襲で壊滅した3年後も未だ戦災復興の途上にあり、粗末な仮建築(バラック)が多かったために地震火災の被害拡大を助長したといわれてきた[58][59]。一方で、空襲を免れた農村集落の本建築であっても全壊率が100%に近い地区があったこと、および当時の福井市街地の写真や震災直前にGHQが実施した建物調査などから、倒壊・焼失した建物の中には、仮設住宅のほかに瓦屋根や二階建ての恒久住宅も少なくなかったことが判明しており、震災発生時には戦災からの復興はほぼ完了していたとする見解もある[58][59]。実際には、福井市で確認されただけでも24件[60](うち19件は地震発生後10分以内の出火[61])の火災が同時多発的に発生したこと、人々が動揺して適切な対応が取れなかったこと、地震により倒壊した家屋が道路を塞いで交通路を遮断したり、水道が破損して断水が発生したりしたために消防活動が制約を受けたことが、火災が拡大した特徴的な理由と考えられている[62]。周辺の町では、春江町で5件、丸岡町と松岡町で4件、金津町と森田町で3件の出火があった[63]芦原町だけは[64]、出火したにもかかわらず、関東大震災時の地震火災を思い出した町民が「火を消せ」と叫びながら近所を走り回り、近隣住民と協力して初期消火に成功し、延焼被害を防ぐことができたという逸話がある[65]

地震発生時刻は午後4時過ぎ(夏時間の午後5時過ぎ)で、就業時間後、ちょうど夕食を支度する時間帯であったため、家庭で火災が多発したとの報告がある[55][66]。しかし、当時の日本はサマータイム制度下で、夏至直後の時期でもあり、日の入り時刻は地震発生から約3時間後の午後7時過ぎ(夏時間の午後8時過ぎ)であったことを考慮すると、夕食を準備するにはまだ早い時間で、農家では田畑で農作業していた人も多かったため、むしろ家庭や農家からの出火は少なかったのが真相であろうと考える専門家もいる[55][59]

福井市片町にあった映画館「国際劇場」は、地震で倒壊した後、近隣の倉庫で配給用に備蓄されていたマッチが地震動により摩擦して出火した火が類焼し、会社帰りの観客などが数百人規模で圧死・焼死した[66]。学校や研究施設などでは、化学薬品の漏洩混合による出火もあった[67]

水害

地震により、被災地域を流れる九頭竜川日野川足羽川の堤防が全延長140kmにわたって至るところで亀裂・陥没・崩壊し、九頭竜川では堤防高が最大4.5m沈下した[68]。地震の約1ヶ月後の7月23日夜から25日にかけ、本州南岸に停滞した梅雨前線と若狭沖に発生した低気圧の影響で[69]、その上流部で降水量350mm以上の記録的大雨が降ったため、7月25日の夕方に九頭竜川左岸の中藤島村灯明寺において約300mにわたって堤防が決壊して濁流が福井市へと流れ込んだ[15][70][71]。約7,000戸が浸水して約28,000人が被災し、浸水深は所により最大2.4m、浸水面積は約1,900haに及んだ[71]。九頭竜川最下流部の木部村(現三国町)池見から川崎の間でも堤防が約1,500mにわたって決壊した[69][71]。梅雨の降雨に引き続いて台風の季節を迎えることから、被災堤防を除去して築堤し直すのではなく、沈下した堤防の上に盛り土をする応急復旧的な改修が施された[70]

建築物

地震発生直後の大和百貨店

丸岡町では、国宝(当時)の丸岡城が天守閣、石垣ともに全壊した[72]。幸いにも焼失は免れたため、残された部材を用いて1951年(昭和26年)から復興修理工事が進められ、1955年(昭和30年)3月に復元が完成した[72][73]

福井市中心部では、大和百貨店福井店(7階建て[74])の1階がつぶれて全壊する被害を受け、福井震災の被害の象徴として有名になった[注 7]一方で、大名町交差点を挟んで向かい隣の[76][77]福井銀行本店(4階建て[74])は全く被害を受けることなく、地震発生翌日から営業している[78][要検証]。福井銀行本店ビルは地下10mまで90cm間隔で500本(短辺20本×長辺25本)の杭をびっしりと打ってあった[79]。頭取が元技術者であり、強固に建てさせていたという[79]。大和百貨店の東に隣接する酒伊ビルも、基礎に497本の松杭が打設されていたことで[80]空襲と地震に耐え、2019年現在、三井住友信託銀行福井支店の社屋として利用されている[81][82]貴重な建築の一つである[83]

医療機関

多くの病院・医院、歯科医院、隔離病舎および保健所が被災し、全半壊・全焼した[84]。人口が集中する福井市および坂井郡の医療機関は、多くが全半壊し、診療不能の状態に陥った[85]。被災地域内の基幹病院であった福井赤十字病院と福井中央病院(福井県立病院の前身)は、いずれも福井市内にあり、地震によって大きな損害を被った[86]。福井中央病院では、地震発生時に外科手術が行なわれていたが、執刀した院長は大きく揺れる手術台を押さえながら、余震が続く中、最後まで手術をやり終えた[86]。院長は病院前の仮救護所で、負傷者の応急処置と重症度の判別(トリアージ)を行わせた[86]。この現在の災害医療体制にも通じる処置は、福井空襲における戦時医療の経験が活かされたものと考えられている[86]

教育機関

福井県内の小・中学校および高等学校のうち、78校が全壊、21校が半壊、12校が全焼する被害を受けた[84]。県内の全児童・生徒の3分の1に相当する約72,500人が罹災し、夏季休暇が1か月繰り上げられ、地震発生と同時に長期休暇に入った[84]。GHQから貸与された大型テントおよび天幕と、教科書会社から寄贈された教科書を使用して、8月初旬から授業が再開されたが、備品不足のため、二部・三部授業を余儀なくされた[84]。また、特別給食が実施された[84]

交通機関

当時は福井もモータリゼーション(車社会化)以前の時代にあって、鉄道が人々の主要な交通手段であった[87]

鉄道

倒壊した国鉄北陸本線福井駅-森田駅間の九頭竜川鉄橋

路盤の沈下や線路の湾曲、駅舎・車両基地の倒壊、列車の脱線・転覆、橋梁の損壊などにより、被災地域の鉄道網は寸断された[88]。主な被災区間は次の通り。

福井平野を走行中だった北陸本線の列車3本が脱線・転倒した[16][91]。うち、震央に最も近い区間である国鉄丸岡駅 - 金津駅間を走行中に脱線・転覆した旅客列車は満員で、多数の負傷者が出た[88][92][93]。また、九頭竜川に架かる国鉄北陸本線の九頭竜川鉄橋が倒壊、京福電鉄三国芦原線の中角鉄橋が落下したことにより、物資輸送や救援が遅滞した[94]。北陸本線の細呂木駅、金津駅、春江駅、大土呂駅は駅舎が倒壊し[95]、金津駅では停車中の列車が駅舎の下敷きになった[88]

国鉄は九頭竜川以南を敦賀管理部、九頭竜川以北を金沢管理部が担当し[96]、北陸本線の武生駅以南および動橋駅以北は地震発生当日の夜には復旧した[90]。7月1日に米原駅 - 福井駅間が復旧・開通し[92]、7月22日には森田駅以北が開通(この時点では、まだ北福井駅 - 森田駅間はバス代行輸送で対応[64])した[92]。その後、8月22日に九頭竜川仮橋梁が完成[97](本橋梁は翌年1月20日に完成[90])し、北陸本線は地震発生から約2ヶ月で全線が復旧・開通した。

九頭竜川の橋梁が被災した京福電鉄三国芦原線は、8月21日には運行を回復した[92]

福井鉄道は市内線で電車1両が市街地火災に巻き込まれて類焼したが[98]、路線の被害は軽微であり、7月13日には全路線で運行した[92]。この被災車両(モハ161-2)は、無事だった台車とモーターが修理された上、再使用されて震災後も長く市民の足として活躍し、引退後は福井市へ譲渡され、1998年から下馬中央公園に静態保存されている[99]

道路

震災発生当時は幹線国道(北陸道)でさえ、郊外や農村地域では幅員5m程度で未舗装状態であった[17]。地震により、国道12号(現在の国道8号)の40kmを含む、延長599kmの道路が陥没、亀裂などの被害を受け、300の橋梁が落橋、損壊するなどして被災し、さらに倒壊した家屋で道路を塞がれて交通障害が発生した[17]。特に、九頭竜川に架かる舟橋および中角橋、足羽川に架かる板垣橋および木田橋、日野川に架かる明治橋などが落橋したため、福井市内と周辺地域を結ぶ道路交通が遮断され、救援活動に深刻な影響が出た[100][101]舟橋では、応急連絡手段として、渡し舟が復活した[102]。高木橋、舟橋、中角橋、長畝橋は7月20日頃までに仮橋梁が完成したが、7月24日の豪雨で流されてしまい[103]、再び仮橋が架けられて二次復旧したのは8月のことであった[104]

産業

農業は、地震動で地盤が沈下し、また田植えの直後でもあったため、耕地や水稲が極めて大きな被害を受けた[105]

福井県の製造業の主要部門である繊維工業では、1400近くの工場が被災し、1万4000台以上の織機および14万錘を超える撚糸機械が損壊するなど、全設備の54%が罹災した[105]。1948年度末までに、絹・人絹の織物機械は81%、撚糸機械は60%が復旧し、当時進行していたインフレの影響も受けて、震災後に福井県内の製造業、とりわけ紡績工業はめざましい発展を遂げた[106]

通信

被災地の加入電話3,340件のうち、91%にあたる3,032件が不通となり[107]、地震発生から約1週間は、一般の電話連絡はほとんど不可能な状態であった[107]。地震発生翌日の午前7時には、金沢 - 福井間の公衆回線が開通し、警察・新聞社などの非常連絡や報道に活用された[107]

災害対応

福井震災は、1947年10月に施行されたばかりの災害救助法が全国で初めて適用された大規模災害であった[108][109]。災害救助法第22条および同法施行令第7条に基づき、1948年1月15日に福井県災害救助隊を結成、福井市でも災害救助隊福井支隊が結成されていた[110]。しかし、これら災害救助隊は未だ準備・訓練を実施する段階にはなかったため[111]、秩序立った活動ができず、応急措置にとどまった[112]

皇室

昭和天皇の名代として三笠宮崇仁親王殿下が7月5日に被災地に派遣され、福井県内各地を慰問された[113][114]

日本政府

日本政府は6月29日、中央災害救助対策協議会を設置し、現地に凍結してあった8,500石の米の凍結を解除するとともに食料品を放出、1世帯につき10万円の第一封鎖預金の自由支払いを許可する措置をとった[111][114]。応急措置がある程度完了すると、厚生省を中心に運営されてきた中央災害救助対策協議会の業務は、恒久的な復興を目指す災害復興対策委員会に切り替わっていった[115]

連合国軍総司令部 (GHQ)

GHQ福井軍政部は、福井市に16の移動給水設備を設けて給水活動を行なった[116]

医療活動においても、当時は患者搬送のための救急車が未だ導入されておらず、戸板やリヤカーで運んでいたところ、軍政部のトラックが機動力を発揮して、多数の負傷者を医療機関まで一度に移送することを可能にし、負傷者の広域搬送に活躍した[117]

GHQの日本占領期は一般民衆のデモや労働ストライキが盛んな時世にあった中で、震災直後から、日本共産党が救援活動に乗り出したり[118]在日朝鮮人連盟が県当局の救助活動の一環と称して旗を立てて偽の救援活動を始めたりしたが[116]、朝鮮人による救援物資の盗難の疑いがあって捜査中であると、1948年6月度の月例報告がGHQ福井軍政部から上がるなど[116]、災害時の混乱に乗じた政治的煽動や治安の悪化が懸念された[119]。当時GHQ福井軍政部長(司令官)であったジェームズ・F・ハイランド中佐 (Lt. Col. James F. Hyland) は特に反共姿勢が強く、労働組合や左翼勢力を排除して治安の維持を図るとの名目で、7月7日に福井市において「災害時公安維持に関する条例」を、福井県においては7月16日に「震災臨時措置条例」を、全国に先駆けて公安条例として制定させた[118][119]。この条例によって、救援に入った学生らが警察当局に相次いで拘束されることになった[120]

福井県

地震発生時、福井県知事小幡治和は公務のために大阪市に出張中であったが、宿泊先の旅館で地震発生のニュースを知り[121]、直ちに大阪府および京都府の知事に災害救援を要請し、翌29日朝に帰庁した[114][122]。要請を受けた大阪府は28日午後11時40分に救護班と医薬品を載せたトラックを被災地に急派し[121]、京都府からも救助隊と救援物資が特派された[109]。急ぎ幹線道路の障害物が撤去され、翌29日の京阪神方面からの救援隊の通行に間に合わせた[112]

福井県は、災害救助法の規定に基づき[111]、28日夕方に[123]福井県震災対策本部を設置した[124]。震災対策本部は、福井県庁に福井県本部、政府との折衝の要として東京・日本橋に東京本部(7月4日設置[63])、被害の著しかった坂井郡に対策本部丸岡出張所を置き、これら3つの拠点を中心に活動した[114]。震災直後、福井県の救援本部から「福井市、地震にて全滅す、救援を乞う」というラジオ放送が行われた[109]

交通と通信が寸断されたため、福井市に設置された県震災対策本部では初めの数日間、九頭竜川以北の地域の情報を得ることができなかった[125]

7月下旬に水害が発生したことを受けて、福井県は同月30日に県水害対策本部を設置し[103]、救助活動、避難所の設置、炊き出しや配給などを行なった[103]

福井市

地震発生時、福井市長熊谷太三郎は在庁中であり、直ちに震災対策本部を設置した[110]。しかし、職員の多くは退庁した後であり、参集はままならず、市長を支隊長とする災害救助隊福井支隊(総務厚生部、公安部、消防部、衛生部、経済部、技術部、協力部の7部体制)の多くの部で本格的な活動が始まったのは翌日以降であった[126]

総務厚生部は、被害を受けた福祉施設の入居者を避難させたほか、震災孤児の保護、罹災した妊産婦のための臨時産院を設置した[127]

公安部は、福井市警察署員が部員となって、大阪府、京都府、兵庫県などの各府県国家地方警察自治体警察の応援を受けて、人命救助および治安警備、道路啓開に当たった[127]。6月29日から7月2日までの間は、消防団の応援を受けて、道路清掃、水路開削、死体収容にも当たった[127]

消防部は、交通や通信が途絶する中、消防部隊の当番員を市内の火災現場に出動させ、消防活動に当たった[127]。延焼火災が発生した市内の映画館「国際劇場」と「東宝文化劇場」で下敷きになっていた観衆の救出活動を優先して展開したが、火勢により撤退を余儀なくされた[127]。6月29日午前3時頃に下火になったものの、全地域で火災が完全に鎮火するまでに5日を要した[127]

衛生部は、病院・診療所が被災し、医師・看護師・助産婦なども罹災したため、県救護本部に負担がかかった[128]。福井県によって、県庁前に応急救護所、福井市内の7か所に臨時救護所が設置され、医療活動に当たった[128]。また、夏季であったこともあり、防疫活動も開始し、予防薬の配布、腸チフスの予防接種、井戸の消毒などを実施したほか、公衆トイレを計21か所に設置した[128]

経済部は、食糧などの救援物資の分荷・配給所を市公会堂前に設置した。翌29日午後からは、県震災対策本部の指示に基づき、炊き出しを開始した[128]。近隣市町村からは、米、ジャガイモのほか、衣料品、寝具、学用品も届けられた[128]。各都道府県や軍政部からも救援物資が送られた[128]。国内外から寄せられた義捐金は(当時の価値で)総額2,784万円に達した[128]。義捐金が被災世帯のみならず、被災した商店の店舗にも同等に配分された点は、福井震災の復興において特徴的な配分の仕方であった[128]

技術部は、資材・機材の調達、災害調査の実施、河川の応急復旧、崩岸あず復旧、道路啓開による交通の確保に当たった[128]

協力部は、本部に福井市情報部を設置し、市民掲示板の設置、市役所日報の発行、急ごしらえの広報車で市内を巡回して広報活動を行なった[128]

赤十字社

日本赤十字社

福井赤十字病院では、倒壊した病棟の建物から入院患者が救出され、搬送されてきた多数の負傷者に対しては病院前広場に設営したテントを臨時救護所として診療を行い、重傷者は国立鯖江病院(旧鯖江陸軍病院)や武生市(現越前市)内の各病院に転送された[86]。震災発生から1週間で4,812人の傷病者が診療を受けた[86]

地震発生を知った日本赤十字社本部は各県の支部に災害医療態勢の準備を進めるよう指示したが、各県の支部は本部が指示するよりも前から活動を開始し、医師と看護師からなる救護班の編成が完了していた[129]。28日の夜には石川・富山・滋賀・大阪の各支部が救護班を派遣し、翌29日には東京本部と京都・兵庫・新潟・奈良・三重・愛知・滋賀・岐阜・石川・富山・山口の各支部が計26班を派遣し、福井市や丸岡・春江・金津などの地区で医療活動を行なった[129]。また、被災した現場での医療活動のほかにも、現地の医療機関と連携して、重傷患者の受け入れ先となっていた国立鯖江病院や武生市内の医療機関にも応援を行なった[129]

アメリカ赤十字社

アメリカ赤十字社極東支部は、28日に東京のラジオ放送で地震発生を知るや、直ちに非常招集を行い、被害状況の把握のため、翌朝にも情報収集班を現地に急派した[129]。現地の情報を受けて、7月9日と10日に計2トンの医療物資などを小松飛行場に空輸した[130]

報道機関

当時、福井県の情報通信網は未発達で、一般家庭の固定電話の普及率は低く、公共放送もラジオ局のNHK福井放送局が1局あるのみであった[121]

新聞社

朝日新聞大阪本社は「北陸方面に激震!大聖寺では被害多大」と題した号外を発行し、地震直後の中央気象台大阪管区気象台発表の地震速報に基づき、震源地が福井・石川両県付近であること、福井県境に近い大聖寺で人家が多数倒壊し、死傷者が多数に上る見込みであることを伝えた[131]。また、福井市について同日夜7時の情報として「県庁、放送局、郵便局のみ残り、他は全市全滅した模様」と報じた[131]

福井新聞社

福井新聞社は社屋が全壊・全焼し、印刷工場も焼失したため、地震発生当日の発行は不可能となった[132]。編集業務は翌29日から開始し、印刷・発行は金沢市の北国毎日新聞社が代行した[132]。県内は交通網が寸断されたため、金沢に派遣される編集局員たちは大聖寺まで徒歩で行き、そこから列車に乗って金沢に向かった[103]。印刷した新聞は、社員および販売店員を動員した人海作戦を展開し、大聖寺駅から福井の本社まで人の足で運ばれた[103]

同年9月中旬から本社新社屋の建設工事が進められ、代行印刷は12月23日(24日付の紙面)に終わり、24日(25日付の紙面)から自社印刷を再開した[103]

日本放送協会

地震によって他の報道関係機関の建物がほとんど全て破壊された中で唯一、NHK福井放送局の社屋は無事であったが、放送機材が転倒し、自家発電装置も運転不能となり、通常の放送局の業務は一時停止した[122][133]。地震発生を伝える第一報は、かろうじて電話が通じた金沢放送局を経由して、名古屋、東京へと伝達され、金沢と名古屋からは午後6時25分のニュースで[63]、全国放送では午後7時のニュースで放送された[122][133]。その第一報の内容は、「放送局そのほか一部の建物を除いて、福井市全滅、市内数か所より火災発生す」というものであった[122]。放送が再開するまでの間は、名古屋と電話が通じていた麻生津電話中継所を仮スタジオにして、親局の名古屋放送局を通じて全国に向けてラジオ放送が行われた[122]。翌日以降に金沢、名古屋、大阪などから応援が来て取材体制が整うまでは、福井局のアナウンサー2人が自ら市内を歩き回って取材を行なった[122]。翌日には名古屋や金沢からの応援で放送機材が運び込まれ、切れたアンテナの復旧作業も進められ、翌々日午後7時には放送業務を再開した[122]。発災当初、他の通信連絡手段が不通となったため、県や自治体の中央および各府県に対する救援要請は、福井放送局から発信された[122]。また、デマが飛び交うのを防止するため、放送ができない間は市内要所にビラ貼りをして正確な情報の普及に努めた[122]

震災に際して、NHK福井放送局は、名古屋放送局長の計らいで復旧用放送機材の搬入のついでに依頼されてやって来た井戸掘り業者が福井放送局前の庭に掘った井戸とポンプを利用して、市民に給水支援を行なったり、時刻を尋ねてきた市民に対して局長自ら放送局の窓口で現在時刻を知らせたり、市内のラジオ商組合からの要望を受けて当時の福井放送局長小山正三のつてで大阪のラジオ受信機メーカーから大量にラジオを取り寄せたり、名古屋から招いた演芸班を被害が甚大であった地域を中心に巡回させて落語や漫才、曲芸などを上演して地域の人々に娯楽を提供したりするなどして、市民・県民から喜ばれ、多くの信頼を集めた[122]。このような福井放送局の活動に対して、米軍からは表彰として金一封が贈られ、NHK会長からも表彰された[122]

学生団体

東京学生同盟、医学生連合会、紅陵大学(現在の拓殖大学)「義援隊」、明治大学などの若者たちから組織された学生救援隊が現地に入り、九頭竜川・足羽川の築堤復旧工事や、避難所での配食支援、倒壊した家屋の復旧作業、医学生による傷病者の救護など、今でいう災害ボランティア活動を行った記録がある[134]このとき、学生団体代表の渡辺松美が警察無線を借りて東京に送った内容は、渡辺の手記によると、「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」というもので、被害の壮絶さを物語っている[要出典]。なお、当時は医師法の公布前であり、医学生が救護に従事したが、同法の施行後は、医師免許を持たない医学生が診療を行うことは認められていない[135]

宗教団体

浄土真宗本願寺派は、福井市の西別院に臨時救護所を開設して、無料診療および巡回診療を行なった[135]真宗大谷派も東別院内に無料救護所を設けて診療を行なった[135]

金沢YMCAキリスト教青年会)の救護班は、当日夜のうちに自動車で丸岡町に到達したものの、火災と交通障害のためにそれ以上は近づくことができず、一旦撤退した[136]。6月30日に再び丸岡入りし、そこから徒歩で九頭竜川を渡り、福井市の神明教会に救護所を設けて診療を行なった[136]

天理教の「ひのきしん」活動があった[137]

日本国外の反応

海外から寄せられた義捐金にはヘレン・ケラーからの寄付も含まれていた[138]

復興と教訓および社会に与えた影響

特に被害の大きかった福井市、森田町、松岡町、春江町、丸岡町、金津町、芦原町は、特別都市計画法の適用を受け、大規模な復興都市計画の下、震災復興が進められた[139]

福井地震の経験を踏まえて、1949年(昭和24年)に地震観測法が改正され、中央気象台震度階に震度7「激震。家屋の倒壊が30%以上に及び、山崩れ、地割れ、断層などを生じる」が追加された[140][141]。地震学者の纐纈一起が調査したところ、この30%という数字は、時の中央気象台長和達清夫が発案し、当時の地震課長鷺坂清信と相談して決められたそうであるが、その制定経緯は、詳細が公になる前に両者とも物故しているため、今も謎が残る[140][141]

福井地震の被害調査結果を踏まえて、1950年(昭和25年)に建築基準法が制定され、木造建築物に対する耐震設計基準が導入された[142]

福井市

福井市は戦災復興のため、1946年(昭和21年)10月に特別都市計画法の適用を受けて戦災復興都市計画を立案していたものの、財政難などにより、その実施は行き詰まっていた[143]。震災によって既成の市街地のほとんどが失われたことで、滞っていた戦災復興事業が一気に推し進められることになった[104]。戦災復興事業を拡充して震災復興計画とし、結果的に「事前復興」する形で、迅速に復興事業が進められたのである[144]。復興事業においては、大胆な区画整理と並行して、幅員44mの駅前大通りや幅員36mの本町通りが敷設されたのをはじめ、主要道路の拡幅および直線化、公園緑地の整備、墓地の統合移転、そして早くから下水道の整備が行われた[104]

福井復興博覧会

福井県および福井市の共同出資により[145]、1952年(昭和27年)4月10日から6月25日までの77日間[145]福井工業専門学校敷地[146](現在の福井大学文京キャンパス)を第1会場、足羽山公園三段広場を第2会場として、福井市の戦災と震災からの復興を記念した福井復興博覧会が開催された[147]。福井の地場産業である繊維を全体テーマとしていたため、通称「繊維博」とも呼ばれた[147][148]。復興博覧会のポスターの1つは、博覧会事務局スタッフの縁で依頼された、画家の東郷青児が原画を担当し、原画の題名は「絹の精」とした[149]。来場者数は、のべ88万人を超えた[147][150]。博覧会の来賓として三笠宮崇仁親王殿下が福井を再訪された[148]。第1会場の芸能センターでは美空ひばりのコンサートが行われた[148][150]福井市自然史博物館の前身にあたる福井市立郷土博物館は、当博覧会の開催にあわせて設立された[151]。翌年には、同じく足羽山に福井市立郷土歴史館(現在の福井市立郷土歴史博物館)が開館し[151]、郷土博物館とともに復興のシンボルとなった[152]。博覧会全体の収支は結果的に4000万円を超える赤字となったものの、足羽山の整備、市立郷土博物館の新設、第1会場跡地の福井大学敷地への組み込みなどは、博覧会閉幕後にも受け継がれる大きな遺産となった[145]

世界震災都市会議

福井震災50周年事業として、1998年(平成10年)6月26日から28日までの3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれた[153]。国内外の13の中小都市から市長や学者らを招いて、各都市が経験した震災の教訓を元に防災都市づくりについて話し合い、「福井市宣言」を採択した[153]

脚注

注釈

  1. ^ 当時は夏時間(サマータイム)が導入されており、サマータイムでは1時間進めて午後5時13分頃[5]
  2. ^ a b 「烈震」「激震」などの呼称は、1996年(平成8年)に廃止された。
  3. ^ 気象庁で測定し、その結果、深さが10km未満だった場合にこのように表現される。
  4. ^ 同震災時の福井市が1%、後年の阪神・淡路大震災時の神戸市が約0.3%であった。
  5. ^ 1947年(昭和22年)10月1日時点の郡市域人口[47]
  6. ^ 『福井烈震誌』によると、総出火件数は55件(内訳は、福井市で30件、吉田郡・坂井郡・丹生郡の町部で22件、村部で3件)[55]
  7. ^ この倒壊した百貨店の写真は雑誌『ライフ』の表紙に掲載された[75]

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参考文献

文献目録

関連項目

外部リンク

国際地震センターには、この地震に関する文献目録データがある。(英語)

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