白鳥事件

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最高裁判所判例
事件名 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件
事件番号 昭和46年(し)第67号
1975年(昭和50年)5月20日
判例集 刑集29巻5号177頁
裁判要旨
刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される。
第一小法廷
裁判長 岸上康夫
陪席裁判官 藤林益三下田武三岸盛一団藤重光
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑訴法435条6号
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白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日北海道札幌市で発生した警察官射殺事件である。

逆コース」の最中に発生した事件であり、日本共産党による謀殺を主張する検察に対し、冤罪を主張する同党や自由法曹団が鋭く対立した。1963年(昭和38年)10月17日に日本共産党札幌軍事委員会[注 1]委員長への懲役刑が確定したものの[2][3]警察捜査の過程での証拠の捏造や自作自演が指摘されており、受刑者無罪を訴えて1965年(昭和40年)に再審請求し、更に最高裁判所特別抗告したが、新たな証拠が提出されたことなどにより、最終的に1975年(昭和50年)に最高裁判所に棄却されている。

なお、再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「白鳥決定」と呼ばれる。

日本共産党による冤罪キャンペーンや松本清張の『日本の黒い霧』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まったが、後年になって日本共産党の組織的犯行を示唆する資料や内部証言が公にされてきている[1]

概要[編集]

1952年(昭和27年)当時、「51年綱領」の採択を経て武装闘争路線を採っていた日本共産党による警察官襲撃事件が全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の村上国治や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」北海道大学の学生らを中心に中核自衛隊を組織していた(ただし、鉄砲玉のような役割は労働者にやらせていた)。これに対し札幌市警察本部警備課課長であった白鳥一雄警部は市内の丸井百貨店で開催されていた丸木位里・赤松俊子の原爆の図の展示会を「占領軍の指示」として中断させたほか、ビラまきや座り込みデモを行う共産党員を多数検挙していた[4][5][6]

同年1月21日午後7時30分頃、札幌市(現在の中央区)南6条西16丁目の路上で、自転車に乗る男が、同じく自転車で帰宅途上の白鳥に向けて後ろから拳銃を発砲し、心臓に銃弾を受けた白鳥は絶命した。犯人はそのまま自転車で逃走した[1][4]。白鳥の体内から摘出された銃弾と現場に残された薬莢から、暗殺に使われたのは32口径ブローニング拳銃[注 2]とされた[7]

自転車上で片手で拳銃を発射し急所に命中させるという、極めて難易度の高い犯行であったが、白鳥には事件前から「昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。この恨はきっとはらす。おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。」などと書かれた脅迫状が相次いで届いていたことから、捜査当局は日本共産党による犯行とみて捜査を開始した[5][8]

事件発生後、共産党員が市内で「見よ、天誅遂に下る![注 3]」と書かれたビラを配布した。これに対し、事件の翌々日に党北海道地方委員の村上由が「『天誅を下す』なんて言葉はわれわれの辞書にはない」「われわれ地方委員会では二、三日中にデッチ上げということをはっきりさせたい」と関与を否定する声明を出したが、その翌日には「誰が白鳥事件の犯人であるかは知らない。党と事件の関係については何とも言えない。白鳥氏殺害は官憲の弾圧に抵抗して起きた愛国者の英雄的行為で個人的なテロではない。かく闘うことは愛国的行動である。白鳥を殺害した犯人は白鳥自身である」と、党の関与を曖昧にしながら一転して犯行を称賛する声明を出した[5][6]

事件直後の党指導部では、態度を決めかねたのか「共産党のやったことではないという日和見的な意見を克服して、党の意思の革命的統一を図る必要がある」「共産党のやったことではないということに、合法的宣伝は統一する」と指示が錯綜し、事件後に気勢を上げて過激なビラを撒いたり職安事務官を襲撃して川に投げ込むなどの「暴走」を始める党末端との違いが浮き彫りとなった[5]

政権与党の対応は素早いもので、事件翌日の吉田茂首相は「現下の国際情勢を反映いたしまして、共産分子の国内の破壊活動は熾烈なるものがあると考えられるのであります。まことに治安上注意を要する次第であります。かかる事態に対処して、本国会に所要の法律案を提出する所存であります」と施政方針演説を行い[10]、同年4月には破壊活動防止法を制定させた。当時共産党員による事件が連日報道され、日本共産党への国民の支持が失われていったが、それらの事件群の中には冤罪事件である菅生事件も含まれる[5]

市井では、「白鳥に不正を察知されたと考えたヒロポン中毒の信金理事長が殺し屋を差し向けた[注 4]」「軍用拳銃の闇市への横流しを知りすぎた白鳥が消された。証拠の弾丸をすり替えて事件を共産党のせいにした」などと怪情報が流された[12][13]

事件発生から4か月後、静岡県で行き倒れ警察の保護を受けた後に寿司屋で働いていた青年が、保釈中に逃走した北海道庁細胞所属の共産党員と判明する。その青年が検事らの情に絆されて札幌の共産党組織の情報を提供したことにより事態が急展開する[8][11]。党関係者が白鳥殺害に関与しているとの情報を得た警察は、札幌地区委員らを逮捕した。このうち共犯として逮捕されていたTが「生きることに怠惰であってはいけない」などと訴えかけた検事の説得を受けて転向し[6]、「1月3日から1月4日頃に村上国治ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述した。

その過程において、面子にかけても犯人を逮捕しなければならなかった警察は、容疑者の誤認逮捕容疑者と別人の共産党員)をおかしたり、期限切れで釈放すると見せかけて迎えに来た父親の目の前で別件で再逮捕するなど手段を選ばずに容疑者を長期拘留捜査するなど、強引な捜査を行いながら調書を作成していったという。逮捕者の中には生涯精神を病む者も出た一方で、日本共産党も組織防衛に奔って釈放された党員らを「査問」し、身の危険を感じた党員が逃亡して警察の庇護を受けるということも起きた[8][11]

しかし、村上国治らの逮捕後も犯行に用いられたとされるブローニング拳銃は発見されず、事件の2年前に行われた射撃訓練で射出され被害者の体内で摘出されたものと線条痕が一致するとされた銃弾のみが、裁判に提出された唯一の物証となった。この弾丸はTの立ち合いによる捜索で、幌見峠で発見されたものである[14][15]

直接の実行犯とされた党員らは日本共産党の密航船群「人民艦隊」で不法出国し、当時日本と国交が無かった中華人民共和国へ逃亡している[16][17]

白鳥警部[編集]

事件の被害者となった白鳥一雄は、北海道芽室町に生まれ、帯広中学(現・北海道帯広柏葉高等学校)を卒業後、1937年北海道庁巡査になった。戦時中は日本陸軍特務機関系のハルピン学院でロシア語を学んだ後に特高警察の外事係として活動しており、戦後も公安警察官として左翼活動の監視に加えて在日朝鮮人密貿易風俗営業の取り締まりを行っていた。1948年3月に札幌市警の警備課長に就任した白鳥は警察内部においても秘密主義を徹底しており、上司も白鳥が日本共産党の秘密組織についてどこまで掴んでいたか報告を受けておらず、皮肉にもそのことが事件後の捜査を困難なものにした[4][11][12][18]

事件を担当し、生前の白鳥とも直接の面識があった検事が語ったところによれば、白鳥は物静かで礼儀正しいが、シベリア抑留での経験によるものか、共産主義を憎悪する精神は熾烈なものがあったという[18]

家庭内では仕事の話をすることもなく良き父親を通しており、事件当日も3歳と5歳の娘に「きょうは給料日だし、お土産を買って早く帰るよ」と出かけて行った[5]。事件後の司法解剖では、白鳥の胃袋に直前に飲食したものはなく、上衣のポケットには月給袋が手つかずのまま納められていた[19]。享年36[20]

当時の札幌の情勢[編集]

当時札幌では、日本警察国家地方警察本部自治体警察である札幌市警察本部、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)、そして裏社会の間で、互いに反目したり協力しながら公安情報を収集するある種の「シンジケート」が形成されていた。白鳥はCICがアジトにしていたすすきののとあるバーに頻繁に通っており、そこにはギャングや右翼も出入りしていたという[12]

事件を取材していた北海日日新聞(現・北海タイムス)の編集部長は、「白鳥警部は左翼関係の情報収集力にかけてはピカ一だった。CICとしては彼を消せば元も子もなくなってしまう。CICが重宝にしている子飼いの白鳥をやっつけるはずがない」と語っている[13]

裁判[編集]

検察側は村上国治を殺人罪共謀共同正犯で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。

第1審札幌地裁は共同謀議を認定し、村上国治を無期懲役、共犯1人を懲役5年・執行猶予5年と判決している。途中から公判分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、1957年(昭和32年)5月に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審札幌高等裁判所1960年(昭和35年)6月の判決で村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は控訴棄却している。1963年(昭和38年)10月17日、最高裁判所上告を棄却して判決が確定した[3]

唯一の物証である弾丸については、弁護側が発射から発見まで2年が経過しているにもかかわらず応力腐食割れが生じていないことを指摘しており、さらに「施条痕が白鳥警部の遺体から発見された銃弾と一致したとする鑑定結果はアメリカ軍による鑑定」との証言が上告棄却後に得られ、捏造の可能性が疑われた[14][15][21]。なお、この弾丸が「発見」された捜索では、Tの証言通りに訓練の際に実験した不発の手製手りゅう弾も発見されており、Tの証言を補強する証拠とされたが、これについては弁護側からも否定されていない[11]

日本共産党は冤罪キャンペーンを張り、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた。党の支援を受けた村上国治は、無罪を主張して1965年(昭和40年)に再審請求を行い、最高裁判所への特別抗告まで争った[1]

しかし、獄中の村上国治が弁護士を経由して「とくに潜らせた人間は絶対に活動させぬよう、出来れば国外へやってもらいたいと支店へ伝えてもらいたい[22]」と証拠隠滅の為に実行犯グループを国外へ逃がすよう指示した書面が警察当局に押さえられており、それが裁判資料として提出されたことなどから、札幌高裁は1969年(昭和44年)6月18日に「弾丸の証拠価値は、(中略)たんに『原判決当時に比べいささか薄らいだ』というに止まらず、大幅に減退したと言わざるを得ない」と認めつつも、「各事件に、申立人が関与している事実は証拠上明白」「明白な事実をことさらに否定しようとする申立人の供述には、その信ぴょう性に疑問をいだかざるをえない」として村上の申立を棄却し[23]、最高裁も1975年(昭和50年)5月20日に札幌高裁の決定を支持して村上の特別抗告を棄却した[1][15][24][25]

なお、村上は1969年(昭和44年)11月14日に半分近い刑期を残して仮釈放を受けている[11]

白鳥決定[編集]

上述の通り最高裁判所は再審請求を棄却したが、「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」との判断を示し、事件にちなんで「白鳥決定[26]」と通称されるようになる。従前の再審裁判では証拠を完全に覆すに足る証言や証拠を求められることが通例であり、その厳しさは「開かずの扉」と呼ばれるほどであったが、この白鳥決定以後は裁判時の証拠や証言に対して「ある程度の合理的疑いが存在する場合」も再審の対象とし得ると扱われるようになった[27]

後年の推移[編集]

  • 事件に関与して中国に逃亡した党員たちの多くは、文化大革命を経て日中国交正常化後に帰国したが、不起訴にされている。一方、日本共産党は『赤旗』でこの者たちを「反党盲従分子」と攻撃した[11]
  • 1955年(昭和30年)頃、実行犯として指名手配された3人は中華人民共和国へ不法出国により亡命した[28]。このうちの2人が1988年(昭和63年)に病死して[注 5]鶴田倫也だけが生き残った。鶴田は北京外国語大学で「唐沢明」という名義で日本語教師をしており、定年後は構内の教職員宿舎に居住していた。1997年(平成9年)6月、時事通信の記者が北京市内で鶴田との接触に成功したが、鶴田は事件の真相を語らなかった。このとき、一向に事件について語ろうとせず「ここ(中国)にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田に対し記者が「わかりました。この件については自分の判断でやります」と言うと、鶴田は「俺は昔から新聞記者は嫌いだったんだ!」と捨て台詞を吐いた。このころ渡部富哉らによる鶴田帰国支援運動が別途行われていたところであるが、時事通信の取材後に鶴田は消息不明となり、ICPOを通じて照会を求めた日本の警察庁に対して中国側は「鶴田なる人物は中国にはいない」と回答した。鶴田は心臓疾患を患い2012年(平成24年)1月頃から体調を崩し、3月14日に北京で死亡したことが報道されている[11][29][30][31]。鶴田は「唐沢明として革命公墓に入ると骨を調べられる。DNA鑑定もできないように海に流せ」と遺言を残し、実行されたという[11]
  • 白鳥の妻は鶴田生存の報を聞くと「生きてらっしゃるのですか」と驚いたが、「いまさら憎んでもしょうがないでしょう。亡くなった人間が帰ってくるわけでもないし。月日もたって思い出したくありません。そっとしておいてください」と答えた[29]
  • 1998年(平成10年)、事件当時の北海道地方委員会軍事部門幹部であった川口孝夫が、軍事活動を知りすぎて党に日本を追放された旨を主張する『流されて蜀の国へ』という回顧録を1998年に自費出版した。川口はその際の北海道新聞のインタビューで、「謀略ではなかったと言ってよい」と松本清張などが提唱した米軍謀略説を否定し党員の犯行であったことを認めている。川口は「事件に関与していないが、事件後に報告を受けました」として中核自衛隊の元隊員Tの証言が自分が受けた報告と合致することを認め、さらに党の真相調査に対して「事実」を報告していたことも明かされた。なお、村上が裁判闘争を続けたことについては「彼は、私の入党責任者。『左』の路線の時も、すごい活動家だった。間違いを犯したのは共産党の方針が間違っていたためで。彼個人の責任とは考えません。彼も晩年は気の毒な人でした」とした。共産党は同紙の取材に対し「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない」と言及を避けたが、その後川口に対して激しいバッシングを行った[32][33][34]
  • 2002年(平成14年)に司法博物館にあった白鳥事件の裁判資料を有志が整理して公開されたが、博物館が松本市に移管されるとお蔵入りになった[1]
  • 2011年(平成23年)3月27日、HBC北海道放送が事件関係者へのインタビューなどを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー『インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~』(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送し、同年5月に第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞[35]を、同6月に第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞[36]を受賞している。番組の終盤には、鶴田との接触を持ち、中国共産党とのパイプを持つ人物へのインタビューの録音が流されるが、その人物は関係者が全員死なないと話せないと証言を拒んでいる。
  • 2012年(平成24年)2月24日、裁判で用いられた自供を行い、自身も暗殺計画に参加したとして殺人幇助などの罪で執行猶予判決を受けたTは、「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と中核自衛隊の犯行であったことを改めて認め、説明責任を果たすため手記を公表予定と読売新聞の取材で述べていた[37]。元仲間から「ユダ」「裏切り者」と謗られてきたTは、同年10月に小樽商科大学で開催された『白鳥事件を考える集い』に参加し、「若く幼稚な正義感から白鳥警部殺害に関与してしまった。当時は白鳥氏には妻子がいることに思いが及ばず、白鳥警部のご家族に多大のご迷惑をかけたことを、今となっては遅きに失するが心よりお詫びしたい。また、この事件で多くの札幌市民を不安に陥れたことを深く反省している」と謝罪の言葉を述べた[11]
  • 海外逃亡をつづけた上述の3人の公訴時効は停止している。鶴田は2012年、佐藤博はそれ以前に病死したと報じられたが、両名は中国公安当局による死亡確認を得られていないことを理由に逮捕状が更新され続けており、効力を有する日本の逮捕状としては最古のものとなっている(逮捕状の有効期限は原則7日)[20][38][39]

エピソード[編集]

北海道大学教授の布施鉄治イールズ闘争世代であり反骨の学者と知られていたが、「白鳥運動」に取り組もうとしていた者に対して、「白鳥にかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。自分の親友もいた。おそらくは中国へ脱出したのだ。冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。これが現地北海道の常識だから深入りしないように」と釘を刺していた。松川・青梅・芦別事件などでは無罪判決が出され、そのほとんどが冤罪事件とされる戦後の公安事件の中にあって、白鳥事件は「検察最後の砦」であり、近年に至るまで北海道でのタブーとされていた[11][34]

1998年に党による犯行をみとめた元軍事部門幹部の川口(上述)に対して、日本共産党は「歴史の暗部の断層にうごめいて生き血を吸い、腐肉を喰らう男」と川口を誹謗し、事件に関連して中国に逃亡した者からも「軍事方針の直接の実行部隊幹部であったことを自認し、非合法の軍事方針を実践していたことを確認しておりながら、彼は下部組織の犯行であって自分は関与していないと白を切っている」と批判の声が上がった。中国への逃亡の後に帰国した人物は、「当時の共産党は組織原則が厳しく、党員は絶対服従することが義務付けられていた」「白鳥事件についても村上国治が上部組織の許可なしに計画実行することなどあり得ない」「川口がこの事件の直接の策謀者だと信じている」と見解を述べている[40]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 共産党札幌委員会の地下組織[1]
  2. ^ 国家地方警察本部科学捜査研究所の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していた1910年型の誤りでないかといわれる[7]
  3. ^ ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれたものの2種類があり、うち「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるために警察が撒いたものだとする主張がある[9]。一方、後述のTは「国治さんは古いタイプの人間だから『降る』と『下る』のどちらの文字を使ったと思うかと聞かれたら、『降る』の方じゃないかという気がします」と述べている[6]
  4. ^ 理事長はその後服毒自殺した[11]
  5. ^ アルコール依存症の状態であったという[11]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 渡部富哉 (2012年3月18日). “「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実”. ちきゅう座. 2017年11月30日閲覧。
  2. ^ 渡部富哉(2012年)230頁
  3. ^ a b 立花書房編『新 警備用語辞典』立花書房、2009年、203頁。
  4. ^ a b c 衆議院会議録情報 第013回国会 行政監察特別委員会 第10号”. kokkai.ndl.go.jp. 2018年9月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 後藤篤志(2013年)72-88頁。
  6. ^ a b c d 今西, 一、河野, 民雄「白鳥事件と北大-高安知彦氏に聞く-」『商学討究』第63巻第1号、2012年7月25日、 1–50。
  7. ^ a b 後藤篤志(2013年)17頁。
  8. ^ a b c 後藤篤志(2013年)89-107頁。
  9. ^ 渡部富哉 (2012年3月23日). “「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実③”. ちきゅう座. 2017年11月30日閲覧。
  10. ^ 衆議院会議録情報 第013回国会 本会議 第6号”. kokkai.ndl.go.jp. 国会会議議事録検索システム. 2018年11月26日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 今西, 一; 河野, 民雄; 大石, 進 (2013-12-25). “シンポジウム・歴史としての白鳥事件”. 商学討究 64 (2/3): 3–95. https://barrel.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=135&item_id=237&item_no=1 2019年8月31日閲覧。. 
  12. ^ a b c 後藤篤志(2013年)17-21頁。
  13. ^ a b 後藤篤志(2013年)169-173頁。
  14. ^ a b 後藤篤志(2013年)173-186頁。
  15. ^ a b c 木谷明 (2013-11-27). 「無罪」を見抜く. 岩波書店. pp. 103-107. 
  16. ^ 第029回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号”. 国会会議録検索システム (1968年7月4日). 2017年12月1日閲覧。
  17. ^ 後藤篤志(2013年)161-168頁。
  18. ^ a b 渡部富哉(2012年)60-61頁
  19. ^ 後藤篤志(2013年)17頁。
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  38. ^ 更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警」『』、2012年11月24日。2018年9月1日閲覧。
  39. ^ “更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警”. 共同通信社. 47NEWS. (2012年11月24日). http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112401000993.html 2013年4月18日閲覧。 
  40. ^ 後藤篤志(2013年)220-222頁。

参考文献[編集]

  • 村上国治『壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡集』白鳥事件中央対策協議会、日本青年出版社、1969年。
  • 宮川弘『白鳥事件の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ』東洋書房、1968年。
  • 村上国治『網走獄中記:白鳥事件-獄中18年たたかいの記録』日本国民救援会中央本部、1974年。
  • 山田清三郎『白鳥事件研究 昭和史の発掘』白石書店、1977年3月。
  • 長岡千代『国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて』光陽出版社、1997年11月。ISBN 978-4876622122
  • 山田清三郎『白鳥事件』新風舎、2005年10月。ISBN 978-4797498516
  • 渡部富哉『白鳥事件 偽りの冤罪』同時代社、2012年12月。ISBN 978-4886837363
  • 後藤篤志『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』筑摩書房、2013年9月。ISBN 978-4480818379

関連書[編集]

  • 大石進『私記白鳥事件』日本評論社 (2014/11/12)
  • 長崎誠三『作られた証拠: 白鳥事件と弾丸鑑定』アグネ技術センター (2003/01)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]