帝銀事件

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帝銀事件
The scene of Teigin incident.JPG
事件発生直後の現場の様子
場所 東京都豊島区長崎(現豊島区長崎1丁目)
標的 帝国銀行
日付 1948年昭和23年)1月26日
概要 毒物殺人事件
死亡者 12名
犯人 平沢貞通とされている
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帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年(昭和23年)1月26日東京都豊島区長崎帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年に統合閉鎖され現存しない)で発生した毒物殺人事件。

太平洋戦争後の混乱期GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない。

概要[編集]

事件発生[編集]

事件発生時の帝銀椎名町支店

1948年(昭和23年)1月26日月曜日午後3時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物[1]を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人現金16万4410円くらいと、安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行板橋支店の金額1万7450円の小切手[2]を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できないばかりか、現場保存も出来なかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。

捜査本部が捜査員に配布した「帝銀毒殺犯人捜査必携(昭和23年6月 警視庁帝銀毒殺事件捜査本部)」。犯人のモンタージュ写真や小切手の筆跡、その他、犯人像の説明に「職歴・・・・・・医療防疫(含消毒)其の他薬品取扱に経験あり(軍の関係は特に)」云々とあり、捜査の主流が旧軍関係者犯人説であったことがわかる。
  • 全員に飲ませることができるよう遅効性の薬品を使用した上で、手本として自分が最初に飲み、さらには「の琺瑯質[3]を痛めるからを出して飲むように」などと伝えて確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませたりと、巧みな手口[4]を用いたことが生存者たちによって明らかにされた。男が自ら飲んだことで、行員らは男を信用した。また、当時の日本は、上下水道が未整備で伝染病が人々を恐れさせていた背景がある。16人全員がほぼ同時に第一薬を飲んだが、ウィスキーを飲んだときのような、胸が焼けるような感覚が襲った。約1分後、第二薬を男から渡され、苦しい思いをしていた16人は競うように飲んだ。行員の一人が「口をゆすぎたい」と申し出て、男は許可した。全員が台所の水場などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて気を失った。内の一人の女性が失神を繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚。
  • 近くの長崎神社前交番から巡査が駆けつけると、16人が倒れていた。しばらくは犯罪だとわからず、近所の人々まで銀行内に入り、交番の巡査は目白の本署に「中毒事件」として一報を入れた。16人のうち10人はすでに絶命しており、6人がわずかに息のある状態だった。当夜までにさらに2人が死亡し、死者は最終的に12人となった[5]
  • 盗まれた金16万4410円と小切手1万7450円は、新円切り替えが行われた戦後の混乱期では、現在[いつ?]の貨幣価値に換算すると100倍ほどになる[6]

未遂類似事件[編集]

 裁判所の判決では以下の2つの未遂事件も、帝銀事件と同一犯のしわざと認定した。

  • 安田銀行荏原支店
    1947年(昭和22年)10月14日火曜日、閉店直後の安田銀行荏原支店に、「厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局」という名刺を出した男性が訪ねてきて、「赤痢感染した患者が、午前中に預金に訪れていることが判明したので、銀行内の行員と金を消毒しなければならない」と言った。支店長は相手を待たせて、交番巡査を呼びにやって赤痢発生について聞くと、当の巡査は「まったく寝耳に水の話だがで確認する」と言って出て行く。巡査が戻る間に、帝銀事件とまったく同じような手口で薬を飲ませるも、死者は出ず。名刺自体は本物だった。警察は犯人が松井と以前面会し、その際に名刺を受け取っていたと断定した。後にこの名刺が「帝銀事件」の捜査の有力な手掛りとなった。(「捜査と裁判」を参照)
    死者がでなかった理由について、第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第九部)は「青酸加里の分量が少な過ぎたため」の失敗とした。中村正明は、犯人は薬についてシロウトである、と述べる(『科学捜査論文「帝銀事件」』)。
    なお、第二審判決書(昭和26年9月29日、東京高等裁判所第六刑事部)によると、同支店の用務員だったK(判決書では実名)は「私は飲む気になれなかったので皆のするように飲む真似をして茶碗の中の液を手に注ぎ背後に廻して拭いてしまい、小使室に帰った。それから一応お巡さんに聞いてみようと思い、近くの交番へ行き」云々と証言した。犯人は飲むふりだけする人間がいた場合の対策をまったく想定していなかったこと、仮に毒の分量が充分でも確実に失敗していたであろうことがわかる。事件発生当時、推理小説を連載中だった作家の坂口安吾は、エッセイの中で帝銀事件は「まったく、偶然の成功ですよ」「一人のまない人間がいても、すぐ失敗する」と犯人の頭の悪さを指摘した(坂口安吾「哀れなトンマ先生」)。
  • 三菱銀行中井支店
    1948年(昭和23年)1月19日月曜日、閉店直後の三菱銀行中井支店に男があらわれ、「厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課」という名刺を出し、同支店長に近所で集団赤痢が発生しその家の者がこの銀行に預金に来たから銀行を消毒する、と言い、支店長ほか15名全行員と、たまたまそこに来ていた高田馬場支店長に薬を飲ませようとした。が、高田馬場支店長が「私はこの銀行の者ではないし、ちょっと来合わせただけだから」と言って薬を飲むのを断りそうに見えたため、男は郵便小為替1枚に水をふりかけて消毒のまねをしただけで、出て行った。後に“山口技官”という人物は実在せず、この名刺は犯人が西銀座の露天の名刺屋で作らせたものであることが判明している。以上の経緯は第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第九部)による。

 未遂事件で失敗を重ねた犯人は、こりずに同様の手口で帝国銀行椎名町支店で犯行を行い、3度目にようやく成功した。椎名町支店では、偶然、飲むまねだけする者も、断る者もいなかったからである。作家の坂口安吾は「もしも椎名町で、殆ど有りうべからざる偶然の成功がなければ、恐らく、この先生はむなしく数十軒の銀行を遍歴し、その度毎に新手の術を会得しつゝ永遠に遍歴しつゞけたかも知れません。その程度にトンマな先生のように私は思いました」云々と手練れのプロの犯行ではないことを指摘している(「哀れなトンマ先生」)。

捜査と裁判 [編集]

帝銀事件の捜査陣の組織図(平沢貞通逮捕時)。藤田次郎刑事部長以下の捜査本部の主流は旧軍関係者による犯行説で、平沢貞通を追ったのは名刺班だけであった。

帝銀事件の捜査時は、日本国憲法の施行からまもない過渡期、いわゆる応急措置法の時代[7]で、警察と検察が何ごとも力をあわせて捜査を行った。帝銀事件の捜査本部は目白署に置かれ、毎日、捜査会議が目白署で行われた。検事(高木一)も毎日、地検から目白署の会議に行き、刑事の報告を聞いた(高木1981[8]、p.179)。

旧軍関係者を捜査[編集]

事件発生後、犯人から受け取った名刺を帝国銀行椎名町支店の支店長代理Yが紛失していたことが判明(当時、支店長は病気で不在)。彼の記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いに熟知した陸軍中野学校の関係者や旧陸軍731部隊関東軍防疫給水部本部)関係者を中心に捜査が行われていた。“9研”こと陸軍第9研究所(登戸研究所)に所属していた伴繁雄から有力情報を入手して、事件発生から半年後の1948年(昭和23年)6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出た。陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、関係者の口は硬く、捜査は行き詰まっていった。一説に、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられたという主張もあるが、真相は不明である[9]

画家の平沢貞通を逮捕[編集]

捜査本部の脇役的存在でしかなかった居木井為五郎警部補の名刺班は、類似事件で悪用された松井蔚(まついしげる)の名刺の地道な捜査を進めていた(この名刺班には後に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の解決で名を馳せる刑事平塚八兵衛もいた)。松井は名刺を渡した日付や場所や相手を記録に残していたため捜査も進んでいった。100枚あった名刺で松井の手元に残っていたのが8枚、残る92枚のうち62枚の回収に成功し、紛失して事件に関係無いと見られた22枚を確認。そして、行方が最後まで確認できない8枚のうちの1枚を犯人が事件で使用したとされた。そのなかで、松井と名刺交換した人物の一人であるテンペラ画家の平沢貞通が容疑者として浮上した。

平沢貞通

居木井は、平沢貞通の容疑事実を28箇条にまとめた報告書を藤田刑事部長に提出し、平沢逮捕の許可を直談判した[10]。捜査本部の主流は依然として旧軍関係者犯人説だったが、藤田は、いったん平沢を逮捕して取り調べ、白黒の決着をつけることとした[11]。名刺班は1948年(昭和23年)8月21日、平沢を北海道小樽市逮捕した。

平沢が逮捕・起訴された理由は、

  • 松井蔚と青函連絡船の中で名刺を交換していたが、平沢は松井の名刺を持っていなかった。平沢は財布ごと盗まれたとして盗難届を出していたが、不自然な点があった[12]
  • 平沢は「事件発生時刻は現場付近を歩いていた」と供述したが、そのアリバイが証明できなかった。
  • 過去に銀行で詐欺事件を起こしている。
  • 「犯人適格性」がいろいろあてはまる[13]
  • 事件直後に被害総額とほぼ同額を預金していたが、その出所を明らかにできなかった
    平沢の逮捕後、主任弁護人の正木亮や家族の懇願にもかかわらず、平沢は預金の出所について嘘を述べるばかりで説明できなかった[14]
    この出所不明の大金について、後年、事件直前の昭和22年10月ないし11月に平沢から15万円で絵を買ったと証言する画商が名乗り出たが、偽証と認定され逮捕される「帝銀偽証事件」が起きた(帝銀事件#死刑確定後)。
    この預金は春画を描いて売った代金とする説もある。平沢本人は一度公判で否定し、その後認めたものの、誰に売ったかすでに思い出せない状態になっていた[15]。この春画の代金であるかどうかは現在も不明 [16]

などであった。

取り調べ[編集]

犯人の行動を再現させられる平沢

平沢の逮捕直後も、捜査本部の主流は平沢シロ説であり、平沢の逮捕を断行した名刺班の面々は事実上の謹慎処分となった[17]。本来なら平沢の送致後も、取り調べは居木井ら名刺班が行うはずであったが、居木井らは送致後の取り調べからはずされ、検事の高木一が一貫して取り調べを行うという前例のない事態になった。しかし、平沢の逮捕後、平沢が銀座の日本堂時計店で詐欺事件を起こしていたことが判明すると、捜査本部は一挙に平沢クロ説へと傾いた。

警視庁は平沢を、帝銀事件と未遂事件の被害者に面通ししたが、当初は、この人物だと断言した者は一人もいなかった[18]。ただし目撃者の証言は、面通しを繰り返すうちに変化した。安田銀行荏原支店の未遂事件で犯人と比較的長い時間、会話した支店長Wと警察官I、三菱銀行中井支店の未遂事件で犯人と会話した支店長Oは、犯人は平沢であると述べた[19]。第一審の法廷で、証人として呼ばれた事件の生き残りの4人のうち、帝国銀行椎名支店・支店長代理だったY(当時44歳)は宣誓のうえ「私は、被告人平沢が犯人だと確信を持って言えます」と断言し、T(男性、当時20歳)も「今日は、平沢が犯人だと断定します」と述べた[20]。いっぽうM(女性、当時23歳)とA(女性、当時19歳)は、平沢が犯人と似ていることは認めながらも、それぞれ「私には、今日も、被告人が犯人と同一人物であるとは思われません」「被告人を犯人と断定することはできません」と法廷でも証言はぶれなかった[15]

逮捕当初、平沢は一貫して否認していたが、拷問に近い取り調べの末[21][22]、逮捕されて1か月後の9月23日から自供を始め、10月12日に帝銀事件と他の2銀行の未遂類似事件による強盗殺人と強盗殺人未遂起訴された。

なお、上記の通りこの取調べはかなり厳しいものであったと言われ、平沢は逮捕された4日後の8月25日に自殺を図っている。またその後も2回自殺を図ったとの事である[要出典]

1948年(昭和23年)10月29日に行われた帝銀事件捜査本部打上げ式において、田中栄一警視総監は「本事件に対してGHQ公安課の絶大な御協力を頂いた」との挨拶を述べ、同事件捜査本部長であった藤田次郎刑事部長も「本事件発生直後から逮捕に至るまで、また逮捕後においても、最高司令部公安課当局(PSD)の懇切な指導と援助を賜った」、「公安課のイートン主任警察行政官の指示で作成したモンタージュ写真が、平沢逮捕の上で有力な手がかりとなった」との内容の挨拶を述べている[23]。この式にはGHQ公安当局の担当者も出席しており、占領下で発生した帝銀事件の捜査にGHQが大きく関与していたことが伺える。

裁判で無罪を主張[編集]

帝銀事件一審(東京地裁)第1回公判での平沢

1948年12月20日より東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張した。

1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁刑事第9部(1審)で死刑判決(裁判官は江里口清雄、横地恒夫、石崎四郎)。

裁判長の江里口は、審理にあたり「一般市民は被告人の自供があるからと言っているが、はなはだ危険」という旨を述べ、慎重な態度で平沢をじっくり尋問し、録音テープを何度も聞き返すなどした上で、死刑判決を下した。江里口は後年、最高裁判所判事に就任した時に「帝銀事件以外に死刑判決を出したことはない。あの事件に比べると、どんな事件にもどこかに救いがある」と述べた[24]

1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁第6刑事部(2審)で控訴棄却(裁判官は近藤隆蔵、吉田作穂、山岸薫)。

1955年(昭和30年)4月6日、最高裁大法廷(第3審)上告棄却(裁判官は田中耕太郎ら14名)。平沢の死刑が確定した。

死刑確定後[編集]

平沢が逮捕されて以来、平沢の妻子と幼い孫は、世間からの心ない迫害と、マスコミの非常識な取材攻勢にさらされた[25]。平沢の家族は平沢姓から籍を抜いた[26]

1962年、作家の森川哲郎は「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げ、平沢の無実を立証するための再審請求、死刑執行の阻止などの活動に取り組んだ。森川は趣意書(1962年6月28日)で「私たちの運動は、平沢貞通氏が白であるとか黒であるとか、個人や局部に限定された単純な運動ではない」「この運動は、自覚した民衆が立ち上がって、権力のおかした一つの誤判事件に抵抗していく過程の中で、民衆の意識の中に、自らの人権を確立し、民主主義を深く把握し成長させていくという意義をもっている」と述べた[27]。平沢の家族は「救う会」の活動とは距離を置いた[28]

支援者らは、平沢の供述は、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べ[21]と、狂犬病予防接種副作用によるコルサコフ症候群後遺症としての精神疾患虚言症)によるものであり、供述の信憑性に問題がある、また、大村徳三博士の鑑定によれば、死刑判決の決め手となった自白調書3通は、取調べに関与していない出射義夫検事が白紙に平沢の指紋を捺させたものである、として、再審請求を17回、恩赦願を3回提出するが受け入れられなかった。

1968年(昭和43年)に再審特例法案が国会に提出。この法案は、連合国軍領下の裁判で死刑が確定した死刑囚に再審の道を開くことを目的としたものであったが結果的に廃案。翌年以降、法案提出を契機として中央更生保護審査会により平沢ら7人の恩赦が審査されたが、拘禁性精神病にかかった受刑者などに無期懲役への減刑が行われたのみで、平沢のおかれた状況に変化はなかった[29]

  • 平沢は獄中で3度自殺を図ったが、すべて未遂に終わった。
  • 日本画の大家である横山大観弟子だった平沢は、死刑確定後も獄中で、支援者だった宇都宮市の洋品店店主から画材の差し入れをうけて絵を描き続けていた[30]
  • 松本清張小宮山重四郎などの支援者が釈放運動を行った。
  • 帝銀事件の捜査内部の対立は、判決確定後もずっと尾を引いた。名刺班だった居木井為五郎と平塚八兵衛、主任検事をつとめた高木一らは、後年のインタビューや手記等でも平沢クロ説を曲げなかった[31]。一方、捜査二課で自称「秘密捜査班」だった成智英雄は、731部隊の軍医S説を公表した(後述)。捜査一課係長で配下の名刺班に手を焼いた甲斐文助は、引退後の晩年、捜査の主流だった旧軍関係者筋の調査に関する膨大なメモ(『甲斐捜査手記』通称「甲斐メモ」)を民間にリークした[32]。「甲斐メモ」は1989年に平沢の支持者らが提起した第19次再審請求で新証拠として裁判所に提出されるなど、平沢冤罪説論者を中心に利用されている。
  • 1962年(昭和37年)に「仙台送り」と言われる宮城刑務所に移送。この後支援者らの説得で平沢は恩赦を求めたが棄却。タイム誌は東北に送ることで環境を悪くし自然死を早めようとしているのではないかと報道[33]
  • 宮城への移送は当時「死刑推進派」と目された衆議院議員中垣國男法務大臣に就任した4ヵ月後に行われた。
  • 1965年(昭和40年)3月15日、画商のNと当時の「平沢貞通氏を救う会」事務局長が東京地検によって逮捕・起訴された(帝銀偽証事件)。平沢が事件直後に預金した出所不明の金について、「救う会」による再審請求にあたり、Nが東京高裁において宣誓のうえ「昭和二十二年の十月末か十一月上旬頃」平沢の自宅で絵画16点を15万円で買い受けたと証言した。が、東京高裁第六刑事部はこれを偽証と認定し、2人は逮捕され有罪判決を受けた[34]
  • 判決確定から30年が経過した1985年(昭和60年)に、支援グループは刑法31条に定められた刑の時効の規定(刑の確定後、一定期間刑の執行を受けない場合は時効が成立する)を根拠として平沢の死刑が時効であることの確認を求める人身保護請求を起こしたが、裁判所は「拘置されている状態は逃亡と異なり、執行を受けられない状態ではない」としてこれを退けた。
  • 弁護団の団長:初代は山田義夫、2代目は磯部常治、3代目は中村高一、4代目は遠藤誠2002年平成14年)1月22日死去)、5代目は保持清が務めた。

最終的に、歴代法務大臣も死刑執行命令に署名しないまま、1987年(昭和62年)5月10日、午前8時45分、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。95歳没。

平沢死後と現在[編集]

平沢の死後も養子・平沢武彦[35]と支援者が名誉回復の為の再審請求を続け、1989年(平成元年)からは東京高等裁判所に第19次再審請求が行われていたが、養子の武彦は2013年(平成25年)10月1日に亡くなっているのが発見された[36]。この為、2013年12月2日付にて東京高等裁判所が『請求人死亡』を理由に第19次再審請求審理手続きを終了とする決定を下した[37]

2015年(平成27年)11月24日、平沢の遺族が第20次再審請求を東京高裁に申し立てた[38]

平沢冤罪説に立つ発達心理学者の浜田寿美男は「帝銀事件というと平沢さんの事件と言われていますが、実はそうではない」と述べ、帝銀事件本体と、平沢貞通が疑われて巻き込まれた「平沢事件」は別の事件と位置づけられる、と主張する[39]

毒物の謎[編集]

遺体解剖吐瀉物茶碗に残った液体分析は、東京大学慶應義塾大学で行われたが、液体の保存状態が悪く、青酸化合物であることまでは分かったものの、東大の古畑種基と慶大の中舘久平の鑑定が食い違い、100 %正確な鑑定結果は出ていない。

青酸カリ説[編集]

第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第9部)では毒物を「青酸加里」とした。犯人は第1薬として青酸カリを、第2薬として水を飲ませた、とされる。が、青酸カリ説を疑う声は当時も今も多い。

  • 裁判所が判決で採用した「青酸カリ」説は、純粋な青酸カリウム(KCN)ではなく、事実上、青酸ナトリウム(NaCN)や炭酸カリウムとの混合物で毒性もいくぶん弱い「市販のいわゆる青酸カリ」を想定している点に注意[40]
  • 事件発生の直後に現場の被害者を検視した古畑種基は「おそらく青酸カリ、ないしは青酸ナトリウムなど青酸化合物によるもの」と述べた[41]
  • 青酸カリをなめただけで一瞬で死ぬというのはフィクションの中だけのことで、実際には青酸カリを飲むと胃の中で胃酸と反応して猛毒の青酸ガスが発生し、このガスが食道を抜けて肺に到達すると死ぬ。その間の時間、被害者は生きている[42]
  • 中村正明は著書の中で、当時の調査結果から毒物は青酸カリウム(シアン化カリウム)と推定できること、一般に即効性と思われている青酸カリウムでも帝銀事件のような情況を引き起こしうること、安田銀行荏原支店での未遂を失敗と考えるなら犯人は薬学についてシロウトであること、を説明している[43]
  • 青酸カリの入手経路について、平沢を取り調べた検事の高木一によると、調査の結果、犯行に使われたのは満洲から引き揚げてきた平沢の近親者が持っていた自殺用の青酸カリと判明し、その分量までわかっていた(戦争末期には外地や戦地の民間人が自決用の青酸カリを持っているのは普通で、終戦前後には集団自決も多発している)。取り調べで平沢は青酸カリの入手先についてあれこれ嘘を並べた。高木は平沢の嘘を一つ一つ、つぶした。平沢は最後に「(『レ・ミゼラブル』の)大僧正のご慈悲をお願いします」と哀願した。家族を巻き込みたくない、という平沢の「最後の父性愛」を感じた高木は、あえて最後まで追求しなかった。このため、後に平沢冤罪説論者から「青酸カリの入手先もはっきりしていない」と言い立てられることになった。(高木1981[8]、pp.181-182)。
  • 1935年の浅草青酸カリ殺人事件でもわかるとおり、当時の日本では青酸カリは誰でも買える安価な薬剤であった。この浅草青酸カリ殺人事件の被害者も即死ではなく、倒れるまで一定の時間がかかっている[44]
  • 陸軍登戸研究所で毒物の研究開発に従事した伴繁雄は、平沢は冤罪で真犯人は旧陸軍の関係者であると主張する一方で、使用毒物については専門家の立場から「一般市販の工業用青酸カリ」と断言している[45]
  • 帝銀事件後、警察から話を聞かれた石井四郎は「青酸加里は分量により時間的に生命を保持させられるか否か出来る。致死量多くすればすぐ倒れる。分量により五分̶̶八分、一時間三時間翌日、どうでも出来る(之は絶対的のものである)」[46]と、もし青酸カリであってもプロが精確に分量を調整すれば遅効性の毒として使えることを専門家として証言した。このとき石井は、ソ連に包囲されたときの自決用にドラム缶半分くらいの青酸カリを軍医中尉2人に分け与えたこと、犯人は「俺の部下にいるような気がする」という心証も刑事に述べている[47]
  • 平沢の死刑判決後、再審弁護団は「犯人は、被害者が第一薬を飲んだあと第二薬を飲むまで1、2分間は死なないことを、あらかじめ知っていた。真犯人は平沢貞通のような毒の素人ではない。また第一薬は即効性の青酸カリではありえない」と主張した。この主張に対し、裁判所は以下の趣旨の反論を述べた(以下「東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定」の記述内容による)。たしかに、多数の被害者に同時に毒を飲ませることは必要である。もし毒をバラバラに飲ませたのでは、全員が飲み終らぬうちに先に飲んだ者が苦痛を訴えたり倒れたりして、あとの者は警戒して毒を飲まず、犯人は目的を達せられない。そこで犯人は、全員に一斉に飲ませるための口実として、第一薬(実は毒)を飲んだあと一定の時間をおいて第二薬(実は水)を飲まねばならない、と嘘の説明をした。そのうえで、時間を正確にはからねばならいから、と時計を見ながら一斉に飲む合図をした。被害者は、その嘘にまんまと騙された。被害者の全員が同時に第一薬(毒)を口にした時点で、犯人の目的は達成された。つまり、犯人は「被害者が第一薬を飲んだあと第二薬を飲むまで1、2分間は死なないこと」を知っている必要は、全くなかったのである。もし仮に被害者が1分以内にバタバタ倒れ始めたとしても、犯人が金品を悠々と奪い去ったという結果は、変わることはなかったろう。

アセトンシアノヒドリン説[編集]

 平沢冤罪論者の一部は、帝銀事件で使われた毒は日本陸軍が秘密裏に開発したアセトンシアノヒドリンという特殊な薬であり、毒とも軍とも関係がなかった平沢がこの毒薬を入手できたとは考えにくい、と主張する。以下、日本語では、アセトンシアノヒドリンは「アセトシアノヒドリン」、青酸ニトリルは「青酸ニトリール」など表記のゆれがあることに注意。

読売新聞とGHQ[編集]

当時、読売新聞の記者が、陸軍9研(登戸研究所)でアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)という薬を開発していた事実を突き止める。即座に威力を発揮する即効性の青酸カリに対して、アセトシアノヒドリンは飲んで1分から2分ほどで効果が現れる遅効性であり、遺体解剖しても青酸化合物までしか分析できないことが判明したが、突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で[48]、報道も取材の方向を転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。 後年、GHQの機密文書が公開され、1985年(昭和60年)、読売新聞で以下の事実が報道された。

  • 犯人の手口が軍秘密科学研究所が作成した毒薬の扱いに関する指導書に一致
  • 犯行時に使用した器具が同研究所で使用されていたものと一致
  • 1948年(昭和23年)3月、GHQが731部隊捜査報道を差し止めた[49]

ただし、アセトシアノヒドリンであっても事件の経緯からすると謎が残る(少なくとも5分は経過していると思われる)。もし効能や致死量を熟知したプロの犯行なら、生存者を4人も出すという失敗(事件発覚時の生存者は前述のとおり6人)を犯した理由を説明する必要がある(生存者が証言者になることはわかりきっている。もしアセトンシアノヒドリンなら、犯人は致死量を余裕で超える量を投与して全員を毒殺できたはずである)。

余談ながら、アセトシアノヒドリン説・平沢シロ説を追い続けた読売新聞のT記者は、帝銀事件のあとの1948年11月、生き残った4人のうちの1人であるMと結婚した(MはT姓に改姓)[50]。事件の当日、犯人の顔を正面から見たMは、法廷でも、平沢を犯人とは思えない、と証言した。Mの証言は夫の仕事とも夫の論拠とも無関係であったが、高木一検事や世間は、Mの否定的証言は夫の影響にちがいない、とあらぬ疑いをかけた[51]

伴繁雄の「変節」[編集]

捜査本部が旧軍関係者を中心に調べていた1948年4月、伴繁雄(登戸研究所の関係者)は捜査員に対し、過去に自分が行った人体実験をふまえ「青酸カリとは思えない。絶対ニトリールである」と述べたとされる[52]。ただし法廷での証言では、伴は専門家として、毒物は青酸カリだったと断言している。昭和24年(1949)12月19日の証人尋問で、伴は毒物科学捜査会議の結論について「毒物は、純度の比較的悪い工業用青酸カリで、入手の比較的容易な一般市販の工業用青酸カリであると断定しました」と述べ、裁判長から「本件毒物がアセトンシアンヒドリンとは考えられないか」と念をおされると、伴は「アセトンシアンヒドリンは無色無味無臭で水と同じのため、犯人が飲ませる際に飲み方について説明する必要はないはず」と答えた(証人訊問調書)。なお登戸研究所で青酸ニトリール開発主任だった土方博は、すでに1948年6月22日の時点で捜査員に対し「嘔吐することは青酸カリでもニトリールでも普通である。青酸カリは苛性ソーダのような刺激の味があるので、帝銀事件で呑ませたとすれば、味から言って、青酸カリではないかと思う。ニトリールは青臭い臭いはするが味はない。ニトリールの症状はカリよりも症状を出すのが遅い」と証言している[53]

バイナリー方式説[編集]

次にあがったのが、安定した(人間に毒性を持たない)シアン化物(シアン配糖体)と、その成分を毒性化する酵素の2薬を使用した、バイナリー方式と言うもので、ジャーナリスト吉永春子が自著の中で言及した。シアン配糖体は身近な食用植物に含まれている。また、これにより発生するのはシアン化水素で、体内の分と結びつくことでシアン化水素水溶液となる。このシアン化水素は一般に入手可能なシアン化化合物より遥かに毒性が強い。

この吉永の説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後に米軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていること、などである。

吉永の主張は、731部隊とは直接関係がない米軍による人体実験である、というものだった。実際、日本ではこの分野の化学兵器研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。

ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、もし人体実験のデータ収集が目的ならなぜわざわざ都内の市街地という目立つ場所を選んだのか(もし仮に軍政下の沖縄の住民や在日米軍基地内の日本人従業員を犠牲者にすれば、米軍の病院に搬送し遺体解剖や治験のデータを収集できたはずである)、などさまざまな疑問が残る。

再審弁護団の見解[編集]

 帝銀事件再審弁護団に第19次の時から参加した弁護士の渡邉良平は、犯人が使用した第1薬と第2薬の組み合わせについて、

  • 青酸化合物(青酸カリ)+ 水 (判決が認定した説)
  • 薄い青酸化合物 + 水 (九研にいた伴繁雄が裁判で証言した説)
  • アセトンシアンヒドリン(旧陸軍で研究された毒物) + 水
  • 青酸配糖体(アミグダリン等)+ 酵素 (吉永春子が提起)
  • 青酸化合物 + 酸(塩酸など)
  • 酸(塩酸など)+ 青酸化合物

の諸説を挙げて説明したうえで「弁護側としては,これが間違いなく犯行毒物だといえる毒物は,少なくとも現段階の証拠ではいえない」ものの「弁護団としては青酸カリと水だというこの判決認定は,これ自体は間違いだと確信しています」と根拠を挙げて述べている[54]

真犯人として指摘されている人物[編集]

冤罪説では、さまざまな真犯人像が語られてきた。

  • やはり平沢貞通が犯人だが、実情は判決とは違うという説。「複数犯人説」(平沢は従犯ににすぎず主犯は別にいる)や「平沢部分関与説」(稚拙な未遂事件は平沢のしわざだが帝銀事件はプロの別人の犯行だった)、「犯行忘却説」(平沢はコルサコフ氏症候群のため犯行の記憶を消失し自分も本気で冤罪と信じた)[55]なども含む。
  • 陸軍中野学校出身の特務機関員説。平沢逮捕後もしばらくのあいだ捜査本部の主流はこの線だった[56]
  • 平沢の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビに出演し、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。
  • 731部隊の軍医・S中佐説。捜査に携わっていた成智英雄(当時、捜査二課の通称「秘密捜査班」特命捜査主任)は後年に発表した手記で「帝銀事件は平沢のように毒物に関する知識を何も持たない人物には不可能で、真犯人は元秘密部隊にいた人物」とし、さらに「731部隊の内50数人を調べた結果、経歴・アリバイ・人相が合致するのはS中佐(事件時51歳、事件翌年に病死)しかいない」と書いている。ただし、この説には問題が多い[57]
  • 東京都内在住のある歯科医が真犯人とする説。上掲の複数の説と重なる部分がある[58]
  • 千葉県居住で1954年(昭和29年)に死去した医師H説。平沢貞通らが主張。「東京高等裁判所 昭和31年(お)13号 決定」によると、獄中の平沢貞通は弁護士とともに「いわゆる帝銀事件の真犯人は平沢でなくH(原文では氏名を実名表記)であることが新に発見されたから、平沢に対しては無罪の言渡を為すべき理由があり、旧刑事訴訟法第四百八十五条第六号により再審請求をする」と主張したが、却下された。

事件を題材にした作品[編集]

エッセイ
  • 坂口安吾「帝銀事件を論ず」[59]:事件の直後に書かれたエッセイ(初出:『中央公論』第63年第3号、1948年(昭和23年)3月1日発行)。戦後の荒廃した世相とからめて、犯人像を「帝銀事件はとくに智能犯というほどのものではない」「戦争という悪夢がなければ、おそらく罪を犯さずに平凡に一生を終った、きわめて普通な目だたない男」と述べる。
  • 坂口安吾「哀れなトンマ先生」[60]:犯人が2つの未遂事件で失敗したあと、椎名町で「成功」したのは「殆ど有りうべからざる偶然」の結果にすぎず、「私は犯人のノンキさ、トンマさ、バカさに、確信をもっていました」と述べる。
  • 宮本百合子「目をあいて見る」[61](初出:「サン・ニュース」1948年(昭和23年)5月10日号): 帝銀事件について、日本人の「おどろくような権力への屈従癖が惨劇の発端をなしている」と指摘。
ノンフィクション
  • (平沢貞通本人の著作は「平沢貞通#著書」を参照のこと)
  • 平沢×子(×は伏せ字。原著では実名)「帝銀容疑者平沢画伯を父にもった娘の手記」(1948年):平沢貞通の三女の手記。雑誌『家庭生活』昭和23年(1948年)11月号に掲載。平沢の犯行自供後も「私はお父さまを信頼しています。あのやさしいお父さまが、どうしてそんな恐ろしいことをなされましよう。お父さま。しつかりして下さい」云々と父を信じる思いを吐露し、また激変してしまった家族の生活と苦しみを訴える。
  • 川本不二雄『未完の告白―平沢貞通懺悔録』(蜂書房、1948年11月15日発行):平沢と同じ小樽中学(旧制)出身で長年の友人でもある著者に、逮捕後の平沢が語った生々しい「懺悔」の記録。なお、平沢の妻は自著(後述)のなかで『未完の告白』の内容はでたらめだと抗議している。
  • 平沢マサ『愛憎を越えて―宿命の妻・平沢マサの手記』(都書房、1949年3月30日発行):はしがきに「私は一番平沢の身近かな存在として三十五年間の結婚生活を通して率直に平沢の、特に芸術家としての性格と生活を知つて頂き、合せて高木検事の控訴状(原文のママ。「公訴状」の誤記)の中にあります犯罪動機の温床のようにいわれて居る家庭の状況もいつわりなく、ありのままにお目にかけて皆様の御批判を頂きたいと存じ、この貧しい一書を綴りました」とあるとおり、妻から見た平沢の半生と、平沢逮捕後に一変した家族の運命を赤裸々に述べる。獄中の平沢とやりとりした手紙や、川本不二雄『未完の告白』(蜂書房、1948年)への抗議も収録。
  • 松本清張日本の黒い霧』(1961年):連合軍占領下の謀略事件などとともに取り上げられている。旧日本軍の細菌戦部隊関係者が犯人である可能性を指摘した。
  • 佐々木嘉信(著)・平塚八兵衛(述)『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(1975年。2004年に新潮文庫より再刊):平沢を逮捕した当事者が、捜査の裏側の事情についても(例えば警察内部の派閥の対立や、内偵段階での平沢の家族の証言、帝銀事件以外の平沢の怪しい行動など)述べている。
  • 高木一「帝銀事件と白鳥事件」、野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)pp.176-190:平沢の「取調べは私だけで行いました。警視庁には一切、手をつけさせず、初めから終りまで私がやりました」という主任検事の回想。他の出版物や裁判記録にはない秘話も明かされている。帝銀事件は「戦争直後という異常な時代の、異常な犯罪」で「捜査自体は、それほど苦労した事件ではないんです。普通の強盗殺人事件を、まっとうに捜査しただけの話です」と述べる。
  • 合田士郎『そして、死刑は執行された』(1987年): 死刑囚監房掃夫による本。帝銀事件の本ではないが、平沢とのエピソードがある。
  • 吉永春子『謎の毒薬―推究帝銀事件』(1996年):使用毒物を青酸カリではないとした。
  • 中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」-法医学精神分析学脳科学化学からの推理』-(2008年):平沢犯人説・毒物青酸カリウム説を採用している。
  • 北芝健『ニッポン犯罪狂時代』(2009年) :平沢の第4代主任弁護士をつとめた遠藤誠は、内科医をしていた著者の父親の患者だった。著者が、平沢は冤罪であるかどうか遠藤に聞くと、耳を疑うような答えが返ってきたエピソードが記されている。
  • 南野真宏『訳あり物件の見抜き方』(2015年):著者である宅建士が、訳あり物件を探求するきっかけとして、帝銀事件跡のマンションを知らずに借りて調停・裁判に至ったエピソードが記されている。
小説
映画
テレビドラマ
ドキュメンタリー番組
  • 「毒の伝説・帝銀事件46年目の真実」(朝日放送『驚きももの木20世紀』1994年11月25日放送)
  • 「もうひとつの再審請求 帝銀事件・絵探しの旅」(TBS『JNN報道特集』2007年12月2日放送)

脚注[編集]

  1. ^ 青酸カリ(シアン化カリウム)説、青酸ニトリル(アセトンシアノヒドリン)説がある。
  2. ^ 被害金額は、東京地裁の第一審判決書(昭和25年8月31日)による。
  3. ^ 琺瑯質(ほうろうしつ)は「エナメル質」のこと。後藤仁敏「琺瑯質かエナメル質か、間葉性エナメル質かエナメロイドか」(『鶴見大学紀要 第51号 第3部』2014年、pp.71−86)によると、1950年以前、つまり帝銀事件が起きたころの日本語では「琺瑯質」が一般的であった。「エナメル質」という言葉が広まったのは帝銀事件のあとの1950年代からで、特に藤田恒太郎著『歯の組織学』(1957年刊)の影響が大きかった。ただし、東京歯科大学だけは「琺瑯質」を1994年まで使い続けた。ネットなどで流布している俗説「琺瑯質という歯科用語は、現在の東京歯科大学とその前身の東京歯科医専の出身者しか使わない特殊な用語で、これは真犯人が東京歯科医専の系統の歯科医である証拠」は誤り。
  4. ^ 反対に、犯人の稚拙さを指摘する声もある。(1)類似の未遂事件で2度も失敗した犯人が同様の手口で3度目に帝銀椎名支店で成功したのは偶然の結果にすぎない(作家の坂口安吾は事件直後のエッセイ「哀れなトンマ先生」で「一人のまない人間がいても、すぐ失敗する。/たまたま一人便所にいても失敗する。外から誰かが這入ってきても失敗する。オレは、もう、昨日チブスの注射をしたんだい、という給仕が現れてもダメなのであります」「翌日小切手を受取りに行くのもズブトイというより、トンマ、マヌケ、なのです。バカモノなのです」「私は、この犯人は、マヌケからマグレ当りに成功し、マグレ当りだから、警察が、なかなか、つかまえられないのだと思っていました」と述べた)。(2)毒の分量を間違え生存者を4人も出した。犯人がもし毒殺のプロなら、犯人の顔を見ている生存者を4人(事件直後、近くの交番の巡査がかけつけた時点での生存者は6人)も残すという失敗を犯した理由は、謎である。陸軍登戸研究所第四科で毒物「青酸二トリール(アセトンシアノヒドリン)」の製造にたずさわったN(原書では実名表記)は犯人が被害者らに毒を飲ませた「その手口は非常にうまい」と述べつつ、帝銀事件を「もし私がやるとすれば,相手方の年齢・体格をみて,各個違った量を与えて,一人も生き残りを出さないように全部殺す自信がある。スポイトでやった目分量が技術達者な者とはいえない。だから生存者ができた」と述べた(塚本百合子「『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた“ギブ・アンド・テイク”」、『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報, 5』2019年9月25日、p.10)。同じ第四科で青酸ニトリールの製品化にたずさわったS(原書では実名表記)は、もし使用毒物が即効性の青酸カリならそれを使って16人も殺すというリスクをあえて犯すのは「よく青酸カリの特徴を研究した大家か,もしくは全然素人」だけだと述べた(前掲「塚本2019」p.11)。
  5. ^ 『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫版、2004年、p.94
  6. ^ 昭和23年の公務員の月給は35歳の家族2人暮らしで手取り5200円余、女性事務員の月給は平均2000円だった。盗まれた18万円余りの金額は当時としては大金だった。出典:『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫版、2004年、p.124
  7. ^ 現行の刑事訴訟法は、帝銀事件発生の半年後、1948年(昭和23年)7月10日に公布され、容疑者の裁判が始まったあとの1949年(昭和24年)1月1日から施行された。帝銀事件は、容疑者の自白を「証拠の女王」とした旧刑事訴訟法のもとで捜査が行われた最後の事件の一つである。
  8. ^ a b 高木一(たかぎ・はじめ)「帝銀事件と白鳥事件」、野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)pp.176-190
  9. ^ 小説家の松本清張は帝銀事件について謀略史観・GHQ圧力説を展開し、清張原作の映画やドラマでもそのように描かれたため、一般の認知度は高い。ただし当時の関係者によると、GHQが捜査中止命令を出した云々の俗説は間違いで、捜査本部は最後まで旧陸軍の特務機関筋も捜査していた、という証言が多い。一次資料である捜査一課係長・甲斐文助の「甲斐メモ」(『甲斐捜査手記』)を読むと「平沢逮捕当日も,警察は旧軍関係者を追っていたことが分かります。平沢が小樽から東京へ移送された8月23日の捜査手記には『関係者面通しにより犯人と断定する者なし』,翌日は『殆ど全員傍証固めにより黒白を決するため終日努力するも決せず』とあり,警察が確証を持って平沢を逮捕したわけではないことがわかります」(明治大学平和教育登戸研究所資料館・企画展「帝銀事件と登戸研究所」資料)。名刺班の一員として平沢を逮捕した平塚八兵衛は当時を回想して「一部に、捜査本部が特務機関を捜査してたのが、一挙に平沢に転換した、といわれたが、それは捜査の実態を知らねえからだ。吉展ちゃん事件のときもそうだったが、必ず捜査内部の対立があるもんだ。それを外部に公表できねえから、誤解されるわけだ。」(『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫版,2004年,p.138-p.139)。逮捕後の平沢の取り調べを独占的に行った検事の高木一も当時を回想して「八月ごろになって、名刺の線を追っていた居木井為五郎警部の方から平沢が出てきたわけです。そのころ、警視庁が二つに割れていましてね平沢説が居木井班で、もう一つは鈴木清君の班で軍の関係者という見方でした。居木井君は、巻き物みたいなものに、二八項目の容疑事実をあげて持って来ました。警視庁の藤田刑事部長は、私の大学の同期だったのですが、『困ったことになった』と話していました」「逮捕する段階でも、シロともクロとも断定していたわけではありません」「クロの意見をもっている者に捜査をやらせるとクロの捜査資料しか持ってこないし、シロの意見の人の場合もシロしか集めない傾向がなきにしもあらずです」「居木井君の班は、平沢逮捕後は捜査班からはずし、証拠の整理をしてもらったんです。そして、シロ説をとる者に全力捜査をさせました」と、平塚八兵衛の回想と符合する証言をしている(野村二郎『法曹あの頃(下)』p.179)。高木一は、米国人ジャーナリストの取材に対して、GHQは捜査に介入したことはなく実際には「協力」してくれたのだ、と述べ、藤田次郎刑事部長らとともにGHQの監視ぬきで731部隊石井四郎から事件と犯人像についての意見を聞いた秘話を明かした(ウイリアム・トリプレット著、西岡公・訳『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』「第2部 GHQ文書が明かす新事実」、講談社、1987年)。平沢冤罪説論者のあいだですらGHQ圧力説を否定する意見がある。731部隊関係者真犯人説を追い続けた読売新聞のT記者(原書では実名)はリアルタイムで第一線で取材にあたった当事者として、捜査二課「秘密捜査班」(通称)の「成智(英雄)が旧七三一部隊関係者の捜査をやめるよう(GHQから)圧力を受けたという憶測が流れたが、これは真実ではない。同様に、読売新聞の記者たちが旧七三一部隊員の調査から手を引くよう(GHQから)命令を受けたという噂も、事実ではない」とGHQから捜査や報道に圧力があったとする説はゴシップにすぎないと否定した(前掲『帝銀事件の真実』p.135)。成智英雄自身もGHQからの圧力を否定している(前掲『帝銀事件の真実』第2部)。このようにGHQ圧力説への反論も多いものの、真相は今も不明である。
  10. ^ 『週刊新潮』昭和60年(1985)5月23日号で、居木井為五郎は当時を回想し「捜査本部は七三一部隊に的を絞っていたために全然相手にしてくれない。最後には『お前は気が違ったんじゃないか』とまで面罵されましたよ」「藤田刑事部長が、平沢逮捕の断を下してくれた」と語っている。
  11. ^ 藤田次郎と東大で同期だった検事の高木一の証言によると、当時の藤田は「困ったことになった」と話し、平沢逮捕に踏み切った背景について「とにかく決着をつけねばならない状態でした。捜査は純粋なものだし、きちんと始末をつけ、それから前進しようといって、結局、居木井君を北海道に二度目に行かせた折に平沢を逮捕することになりました。/逮捕する段階でも、シロともクロとも断定したわけではありません」と述べている(野村二郎『法曹あの頃(下)』p.179)
  12. ^ 平沢は事件前の1947年(昭和22年)、常磐線・三河島駅前の交番に、財布をすられたという被害届を出している。平沢は、1万円(当時の最高紙幣である百円札でも100枚になる)くらいもの当時の大金をポケットからすられたが、スリは代わりに扇子を平沢のポケットに放り込んだ、と言い、「八重菊」というゴム印のはいった扇子を交番に提出した。帝銀事件のあと、警察はその扇子を調べた。平沢の次女が嫁いだ近所の店が50本作って配ったうちの1本であることがわかった(『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫、2004年)p.111-p.112)。
  13. ^ 平沢の逮捕・送致後の取り調べは、当時37歳の検事・高木一(東大法科卒。捜査本部の藤田次郎刑事部長と東大で同期)が独占的に行った。高木は、現場で犯人が取った行動が容疑者の性格・知識・能力が合致するかどうか「犯人適格」をいろいろ検査した。椎名町支店の犯人は誰か欠けていては困るので全員を集めるとき「オール・メンバー・カム・ヒア」と言ったが、これは平沢が自宅の朝食で家族を呼び集めるときの口ぐせだった。中井での未遂事件の犯人は企業名「井華」(せいか)を「いか」と誤読していたが平沢も「いか」と誤読した。高木は後年の回想で「これらは一つの例にすぎませんけど、こうしたテストを積み重ねると、犯人の適格性が出てくるんですね」と述べている。出典:野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)p.180-p.181。
  14. ^ 正木亮は法廷弁論の中で、平沢を「実に嘘つきであります」と批判し、平沢が疑惑の預金の出所について「この点さえ真実を述べれば事件は寸刻を出でずして片付くのであります」「本当に本件に関係のない金なら弁護人にだけはそっと知らして呉れたらよさそうなものである」と不満を述べつつ、「もしも平沢貞通が大正十四年に狂犬病の予防注射を打つことがなかったならば不幸なるコルサコフ病に罹ることもなく、また今日のような嘘つきにもならなかったのであるとされております」「(平沢に)嘘つきだという悪名をかぶせはしますけれども、証拠のはっきりしないものを死刑にすることはよくないということに気がつくようになりました」と弁護した。出典: 正木亮『死刑 消えゆく最後の野蛮』(日本評論社、昭和39年)p.111-p.125。平沢の次女は「私たちだって努力しました。私は父に会ってお金の出所をはっきり言えないなら、お父さんを犯人と思ってよいのかと問うたら、父は黙って下を向いたままうなだれていました」と述べている。出典: 佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』(批評社、2002年)p.50
  15. ^ a b 遠藤誠・編著『帝銀事件と平沢貞通氏』三一書房、1987年。本書の増補改訂版『帝銀事件の全貌と平沢貞通』は2000年に現代書館から刊行。
  16. ^ 松本清張は著書『小説帝銀事件』において、春画を描いたことがわかれば平沢の画家としての名声は地に落ちることになるからあえて否定したのではないかと推測している。ただ、もしそうなら、「殺人犯の家族」という汚名に苦しむ家族の懇願をはねつけてまでなぜ平沢は「画家の名声」にこだわったのかを合理的に説明する必要がでてくる(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」』2008年)。実際、大量殺人犯の汚名は春画どころではなく平沢のそれまでの画業は抹殺された(平沢貞通#エピソード)。なお2000年(平成12年)には北海道小樽市と神奈川県横浜市でそれぞれ平沢のものと鑑定された春画が発見されている(詳細は「救う会」HPの「小樽で平沢貞通氏の春画発見!」を参照)。ただし、これらの春画に平沢の署名はなく、また戦後の経済難の時代にこのていどの春画が高い値段で売れたとは考えにくいとする意見もある(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。
  17. ^ 平沢クロ説の立役者となった名刺班の居木井為五郎警部補(役職は当時)は「昭和二十三年八月二十三日、平沢を逮捕して東京へ帰ってきてからだって捜査本部の空気はまったく冷たいもんでね。堀崎一課長は、〝今日中に自白すれば留置するが、しなければ釈放だ〟っていうんだ。自白なんか、させられねえだろうって腹があったんだろうな」と、平沢逮捕直後も捜査本部の主流は平沢シロ説だったことを打ち明けている(『週刊新潮』昭和60年5月23日号)。平沢の逮捕後、捜査一課の甲斐文助係長(平沢貞通の再審弁護団が重視する『甲斐捜査手記』通称「甲斐メモ」の作者)が車のなかで「課長さん申し訳ない。気違いヤローらがよけいな者(平沢のこと)を引っぱってきて、人騒がせさせて・・・・・・」と謝り、同乗していた「気違いヤロー」こと平塚八兵衛と乱闘寸前になる一幕もあった。この係長も、のちにぬけぬけと平沢逮捕の功績にあずかった(『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫、2004年)p.152-p.153)
  18. ^ 平沢が東京に連行された直後、駒込署で行われた非公式の面通しでは1人が「似ている」、もう1人は「違う」だった。警視庁では9人の目撃者が面通しをしたが、帝銀の3人の生存者と他の2人は「違う」と断定し、あとの4人は「似ている」と証言した。当初の面通しの11人中「違う」は6人、「似ている」が5人だった(新潮文庫版『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』、p.142)。警視庁での面通しの方法は、適切とはいえなかった。例えば、帝銀事件の犯人と正面から最も長い時間会話した支店長代理のY(出典の原書では実名)が平沢の顔を横から見ようとすると、平沢はいきなり「さあ、タテからでもヨコからでも見てくれっ」と叫んで椅子から立ち上がったため、Yは驚いて部屋から逃げ出した(新潮文庫版『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』、p.140-p.141)。後にYは「私は、被告人平沢が犯人だと確信を持って言えます」と断言した。
  19. ^ 「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」に「以上の目撃者の供述を通じて、犯人と直接応待し、数分あるいはそれ以上犯人と話をし、充分その特徴を把握する機会があったと認められる者、すなわち、安田銀行荏原支店長W(原文では実名)、同事件の際同支店に立ち寄った警察官I(原文では実名)、三菱銀行中井支店長O(原文では実名)、帝国銀行椎名町支店長代理Y(原文では実名)が、いずれも犯人は請求人である旨その同一性を確認する供述をしていることに留意すべきである。」とある。ちなみに警察官Iは、9月23日の取り調べで平沢の顔を見て高木一検事に「間違いありませぬ」と耳打ちして退席したが、平沢はこの日から自白を始めた。平沢の弁護人だった正木亮は、平沢の眼前で「間違いありませぬ」と耳打ちさせるこのような首実検のやりかたは平沢に心理的圧力をかけるデモンストレーションにほかならない、と批判した(正木亮『死刑 消えゆく最後の野蛮』昭和39年、pp.115-116)。
  20. ^ T(原書では実名)は後年の回想で、今も確信がゆらいでいないこと、同僚だった証言者M(旧姓。原書では実名表記)の否定的見解については「でも、まあ、みんな違う方向から犯人を見たわけですからね」と述べた(ウイリアム・トリプレット著、西岡公・訳『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.159)。
  21. ^ a b 平塚八兵衛らが取り調べをしたともされるが、平塚八兵衛自身の証言によると、彼は平沢の取り調べはしていない。「傍流」にすぎなかった名刺班が、捜査本部の方針とは別に平沢を逮捕して大きなニュースとなったため、警察内部の嫉妬と反発を買った。平塚逮捕後も捜査本部はシロ説が主流であり、警視庁は、居木井為五郎と平塚を含む名刺班の4人に対して、北海道への出張の疲れをとるため自宅で休養するように、という口実で、事実上の謹慎処分をくだした。平塚らは平沢の送致後、取り調べからはずされ、最初から検事だけが取り調べるという前例のない事態になった。のみならず、ある警察幹部は平沢逮捕後も「平沢シロ説」を立証するため刑事を北海道に派遣するなど、捜査内部の対立はのちのちまで続いた(『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫版,2004年)。平沢の取り調べを担当した検事の高木一も、平沢はクロと信ずる者が捜査するとクロの捜査資料しかもってこない懸念があるため「居木井君の班は、平沢逮捕後は捜査班からはずし」たと述べている(『法曹あの頃(下)』P.179)。高木一は後年「平沢が警察の留置場に勾留されていた最初の四八時間は、居木井刑事が取り調べを行った。その後、検察当局が身柄の管理を引き継いでからは、高木みずからが取り調べにあたった」と証言している(ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.186)。
  22. ^ 平沢側は裁判で、取り調べが拷問に近かったと主張した。最高裁判所は聴取書を精査したうえでこの主張を退け、判決文(最高裁判所大法廷「昭和26(れ)2518」判決。昭和30年4月6日)の中で「論旨摘録の各聴取書に記載されたような検事の取調が行われたことは、認めることができるが、所論引用の聴取書によってその経過を委しく調べてみても、これをもって強制拷問とはいえないのみならず、また他に特別な強制手段を行ったという形跡も認めることはできない」と述べた。なお、裁判の前は、平沢自身が拷問はなかったと述べた。平沢が自供を始めたあとの10月8日、UPI通信社のベテラン特派員であるアーネスト・ホーブレクトは同僚のイアン・ムツとともに平沢と約1時間にわたり独占インタビューを行ったが、平沢が警察から手ひどい扱いを受けた徴候は認められず、平沢の手つきはしっかりしており(平沢は拘留中の自殺未遂で自分の手を傷つけていた)、平沢自身が英語で「警察は自分を礼儀正しく扱い、自白を引き出そうとして拷問的手段を用いるようなこともなかった」と強調したうえ高木一主任検事を「ハイエストクラス・ジェントルマン」と賞賛した。米国人記者が見た平沢は「取調べを受けている係官たちとは、きわめて友好的な関係にあるように思われた」。ホーブレクトによる記事は「ニホンタイムス」紙(現「ジャパンタイムズ」)の一面を飾った(ウイリアム・トリプレット『帝銀事件の真実』1987年、p.50-p.53)。当時の調取書にも(当然のことながら)「拷問に近い取り調べを行った」とは書いていない。平沢の逮捕後、取り調べを行った検事の高木一は、公正を期すため平沢クロ説で固まった居木井為五郎の班(名刺班。平塚八兵衛もいた)を取り調べからはずし平沢シロ説をとる者に全力捜査をさせたこと、平沢の取り調べに際し本人・家族・弁護士に「弁解、反駁があればいいなさい」と話したがシロの材料は出ずクロの材料ばかり出てきたこと、「途中で、自殺未遂みたいなこともありましたが、そのときの状況も、署名はしないけれど、全部そのまま調書にしました。自殺しようとしたのが芝居であるか、本当に自殺しようとしたのかも判定しなければなりませんから・・・・・・。」と取り調べの様子は全て調書に書いたこと、を述べている(野村二郎『法曹あの頃(下)』)。
  23. ^ 警視庁機関誌『自警』1948年12月号
  24. ^ 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)
  25. ^ 平沢の三女は、平沢自供報道直後、雑誌『家庭生活』昭和23年11月号に「帝銀容疑者平沢画伯を父にもった娘の手記」を寄稿し、すさまじい迫害を受ける家族の苦しみを訴えた。
  26. ^ 平沢は、妻とのあいだに二男三女をもうけていた。長女と次女はそれぞれ昭和11年と昭和19年に結婚して籍を離れていたが、平沢の逮捕後、長男は1948年12月18日に、二男は1948年11月15日に、三女は1949年2月4日に除籍した(コラム 帝銀事件とは何だったのか-49 Vol.49 原渕 勝仁さん)。妻は1962年に協議離婚した。
  27. ^ 帝銀事件ホームページ」の中の「平沢貞通氏を救う会趣意書 1962年6月28日 森川哲郎事務局長記」。
  28. ^ 平沢の次女は「『平沢貞通を救う会』(自分の実父なので「氏」を抜く)が父を救うなどと言っているため、父がいつまでも本当のことを言わない、そのため家族はいつまでも苦しまねばならない」と不満を述べ、また「救う会」が帝銀偽証事件を起こした時も「自分は黒を白と言ってまで父を助けてもらおうとは思わない」と語った(佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』、p.50)。ジャーナリストのウイリアム・トリプレットは「『救う会』が平沢の娘たちから、沈黙ではなく支持を取りつけることができていたら、『救う会』による平沢釈放の訴えはもっと重みを増していたはずだ」と残念がり「彼女たちが実父を支援しようとしなかったのは、西洋人の目にはどう見ても疑わしい行動に映るものだった」と述べる(ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.220)。ただし「救う会」の活動は別として、平沢の家族は「救う会」代表の森川哲郎や森川武彦(平沢武彦)とは良好な関係を保った。1996年ごろに撮影された、平沢貞通の長女が森川哲郎に親しげに語りかけるプライベートビデオが残っている(「コラム 帝銀事件とは何だったのか-50 Vol.50 原渕 勝仁さん」)。また、諸般の事情で縁を切ったとはいえ、平沢を思う家族の気持ちには変わりがなかった。平沢の三女は米国人と結婚し米国に渡ったが、1980年代前半、米国から獄中に父に手紙を寄せ、自分は父のことを思っており元気でいてほしい、自分はアメリカでの生活を満喫している、と伝えてきた。返信用のアドレスは記されていなかった。(『帝銀事件の真実』p.221)
  29. ^ 「女死刑囚に初恩赦」『朝日新聞』昭和44年(1969年)9月5日朝刊、12版、15面
  30. ^ 片岡健『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』鹿砦社
  31. ^ 高木一は後年のインタビューで、「公判は、そうもめることもなかったのですか」という質問に対し、自信満々に「実態については、審理にたずさわった人は、誰も不審をもっていません。記録をみればわかりますが、傍証も、物証もあります。(犯人が帝銀事件の犯行現場に持参した)注射器具を入れたケースもありますし、薬物を茶わんに入れるとき使ったスポイトも、入手先はわかっているし、犯行のとき使った山口二郎の名刺も、印刷所はわかっています」と述べた(野村二郎『法曹あの頃(下)』p.182-p.183)。『週刊読売』1993(平成5)年7月11日号のインタビュー記事には「現在、平沢・クロ説には、疑問を呈する声が少なくない。しかし、居木井さんは、立場上、当然かもしれないが、真犯人と信じきっていた」とある。
  32. ^ 甲斐文助が死去する2ヶ月余り前、甲斐の自宅を訪ねて本人から『甲斐捜査手記』を手渡された佐伯省は、その経緯を自著『帝銀事件はこうして終わった』p.191に書いている。
  33. ^ Noose or Pneumonia? Time(英語) 目撃者の証言との不一致、アリバイの存在、自白を強要された可能性があることなど、当時分かっていたことが書かれている。
  34. ^ 帝銀偽証事件で「平沢貞通氏を救う会」と画商Nの虚偽が明らかになった理由は、平沢の妻子が嘘の口裏をあわせず真実を語ったためで、その経緯は「東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定」(裁判長判事・兼平慶之助、判事・関谷六郎、判事補・小林宣雄)に詳しい。帝銀偽証事件について、後に「救う会」弁護士の遠藤誠は「森川哲郎さんに対する弾圧」「哲郎さんを殺した者は、東京地検と東京高裁・最高裁という名の国家権力そのものである」と批判した(遠藤誠『帝銀事件と平沢貞通氏』p.175-p.177)。平沢を取り調べ自白に追い込んだ主任検事(当時)の高木一は、帝銀偽証事件について「あの事件は、被告が悪いというのではなく、一つの時代的風潮でしょう。人権尊重という主張で、ああいうことはありうることでしょう」と一定の理解を示した(野村二郎『法曹あの頃(下)』p.183)。
  35. ^ 平沢の晩年、「救う会」事務局長・森川哲郎は将来を憂慮した。法律では平沢が亡くなっても遺族が申し立てを引き継げるが、平沢の肉親に再審請求を続けたいと願う者はいない。森川は当時22歳の息子・森川武彦を平沢の養子とした。1981年1月24日に養子縁組が成立したあと、森川は涙ながらに「平沢の釈放を実現したいと願うあまり、自分は息子を犠牲にしてしまった」と家族にわびた。森川は翌年の末、58歳の若さで亡くなった。出典:ウイリアム・トリプレット著、西岡公・訳『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』(講談社、1987年)p.96-P.97
  36. ^ 帝銀事件・平沢元死刑囚の養子?死亡 東京の自宅で 朝日新聞 2013年10月2日。また「帝銀事件とは何だったのか-35 Vol.35 原渕 勝仁さん」に「再審請求人の平沢武彦氏は2013年10月1日、一人暮らしの自宅で孤独死しているのを発見されている。発見したのは、このわたくしである」云々とある(2021年3月27日閲覧)。
  37. ^ 帝銀事件の再審請求終了 養子死亡で東京高裁 弁護団は異議 産経新聞 2013年12月3日閲覧
  38. ^ “帝銀事件、20回目の再審請求”. 朝日新聞デジタル. (2015年11月25日). http://www.asahi.com/articles/DA3S12084462.html 2015年12月2日閲覧。 
  39. ^ 浜田寿美男「二十次再審請求に提出された自白・目撃供述の心理学鑑定書」、『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報, 5』(明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月25日)pp.121-162
  40. ^ 帝銀事件の使用毒物を鑑定した法医学者の中館久平は「普通青酸加里として市販されているものは、曹達が半分位、寧ろナトリュームの方が多く入っている。純粋の青酸加里は、作るのも困難だし、素人では勿論専門家でも容易に入手できない」(第二審判決書) と公判調書で証言した(文中「曹達」「ナトリューム」はそれぞれ「ソーダ」「ナトリウム」の意)。青酸カリウムであれ青酸ナトリウムであれ、青酸塩(シアン化物)は空気に触れるとすぐに空気中の二酸化炭素と反応して炭酸カリウムになり、そうなると色は白濁したり番茶のような色になり毒性もいくぶん弱まることも中館は公判調書のなかで指摘している。もし帝銀事件の使用毒物が、判決書のとおり、市販のいわゆる「青酸カリ」であり、犯人が自宅でそれを保管していた状況も判決書どおりであったなら、帝銀事件の被害者の状況は化学的に矛盾なく説明できるとされる(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。
  41. ^ 古畑種基の四男で東大名誉教授の古畑和孝は、帝銀事件発生当日を回想し、父・種基が夜行列車で神戸に向かう仕度を家でしていると「突然、東京地検から緊急要請の電話での懇請があった。父は事情を説明するものの、地検は引き下がらない。『先生のお宅の近くの帝銀椎名町支店で、事件が発生した。行員が倒れている。是非とも検視していただきたい。』と矢の催促だ。事の重大性をある程度把握した父は『正式の鑑定は出来ないが、それではとにかく現場に行こう』と承諾した。(中略)何人もの行員がすでに絶命していた。また複数の重症の行員もいた。父の取り敢えずの検視に基づく一応の鑑定では『おそらく青酸カリ、ないしは青酸ナトリウムなど青酸化合物によるものだ』というものだった」出典:『わが道』(11)中学~高校時代に出くわした極めて大きな社会的事件①帝銀事件 (1447)2020年12月13日(日)23:48
  42. ^ 齋藤勝裕『毒の科学 身近にある毒から人間がつくりだした化学物質まで』(SBクリエイティブ、2016年)
  43. ^ 中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』(東京図書出版会,2008)ISBN-13: 978-4862232755
  44. ^ 平沢を取り調べた検事の高木一は、昭和23年10月12日に東京地方裁判所に送った公判請求書の中で、平沢が「曽テ新聞紙上ニテ読知セル『増子校長毒殺事件』ニ暗示ヲ得」て犯罪を思いついた、と書いている
  45. ^ 伴繁雄は、平沢逮捕前の1948年4月の聞き取り調査では「アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)説」を捜査員に語ったとされる(いわゆる「甲斐メモ」の記述。本人は後に、雑談を誤解されたものとしてこれを否定)。平沢逮捕後の9月6日、捜査会議に出席した伴繁雄は「帝銀毒殺事件の技術的の検討及び所見」という書類を土方博(元・日本陸軍技術少佐)と連名で提出し「使用毒物は純度の比較的悪い工業用青酸カリで、入手の比較的容易な一般市販の工業用青酸カリであると断定する」と結論づけ、その主張を終生、変えなかった。
  46. ^ 捜査一課係長・甲斐文助『帝銀事件捜査手記』第5巻(再審弁護団所蔵)
  47. ^ 藤田次郎刑事部長ら10人の日本人警察官たちは、捜査本部に隣接する目白警察署長の宿舎で石井四郎から話を聞いた。このとき同席した検事の高木一が後年、米国人ジャーナリストのウィリアム・トリプレットの取材で語ったところによると、GHQ関係者は1人も同席しておらず、石井は協力的で善良な役に立つ人間に見えた、という。トリプレットは「タカギが語ったところに従えば、GHQが、米国軍側とイシイとの取引を隠蔽するために七三一部隊の捜査を中止させたのだという主張はもう通らなくなるし少なくともそう思われる」と述べている(トリプレット『竹の花の咲くとき』小林敏久訳。遠藤誠『帝銀事件と平沢貞通氏』1987年、pp.393-397に引く。『竹の花の咲くとき』は1987年に西岡公の訳で『帝銀事件の真実』として講談社から刊行)
  48. ^ これは間違いで、これと反対に、警察の捜査本部は731部隊ともつながりがある旧陸軍の関係者の捜査を最後まで続けるため、GHQを利用して新聞報道を差し止めたのが真相とする説もある。詳細は以下の注の「GHQ公安部調査官ジョンソン・マンロウの覚書」を参照。
  49. ^ 精確に言うと、日本の警察が、GHQの権威を利用して新聞報道を差し止めた、というのが真相である。1948年3月12日付の「GHQ公安部調査官ジョンソン・マンロウの覚書」によれば、その前日の3月11日、GHQと日本の警察の合同会議の席上、帝銀事件の捜査本部の藤田次郎刑事部長は以下の発言をした。自分たちは千葉県津田沼にあった陸軍化学研究所(陸軍習志野学校関連の機関を指すと思われる)の関係者を調べていること、警察は秘密裏に津田沼研究所に関与したY大佐とN少佐(原文では実名)の助力を得られることになったがそれを嗅ぎつけた読売新聞の記者にN少佐の自宅を見張られ困っていること、もし新聞に毒物研究所についての捜査をすっぱ抜かれるとせっかくの情報源が絶たれてしまうこと、を藤田は訴え、GHQの助力を要請した(遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』2000年、p.377-p.379)。読売新聞記者として731部隊を追った遠藤美佐雄も、後年の手記で、ある時、藤田刑事部長(記者クラブと良好な関係を築いており、新聞記者にとってネタ元であった)から電話で「いま君のやろうとしている事件から手を引いてくれないか。権威筋(暗にGHQを指す)からの命令でね」「いろいろ関係があって石井部隊(731部隊のこと)を君一流のスッパ抜きでやられては困るのでとにかくやめてくれ。この埋め合わせは他でするよ」と頼まれて報道をやめたこと、帝銀事件の映画で描かれたように読売新聞のデスクが米軍当局から直接「手を引け」と言われたのかどうか実情については何とも言えないこと、を述べている(前掲『帝銀事件の全貌と平沢貞通』、p.353-p.354)。
  50. ^ 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』p.326
  51. ^ 文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「帝銀事件の悪夢」に載せるM(結婚後はTに改姓)の談話。2021年3月26日閲覧
  52. ^ 『甲斐捜査手記』第5巻。ただし伴自身は青酸カリ説であり、後年の手記で、自分が捜査員に雑談のなかで話したことが別の意にとられてしまった、と弁明している
  53. ^ 塚本百合子「『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた“ギブ・アンド・テイク”」p.11
  54. ^ 渡邉良平「帝銀事件の毒殺の手口と毒物の謎をめぐって」、『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報, 5』(明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月25日)pp.177-192
  55. ^ 平沢冤罪説に立ち再審弁護団とも深くかかわった原渕勝仁は、平沢がコルサコフ氏症候群だったため「平沢の自白は証拠にならないということなのだが、逆に考えてみると、平沢には自分が犯行に及んだことも記憶から消失していた。だから自分はやってないと本気で死ぬまで〝嘘〟を主張し続けたともうがった見方ができなくもない。弁護団会議で、そのような平沢に不利になるような話をすることはタブーなのだが(下略)」と「帝銀事件とは何だったのか-28」の中で述べている。ただし原渕の叙述の真意は(残念ながら)「心理学的アプローチは事件を解決する決定打にはならない」という点にある。
  56. ^ 佐伯省によると、731部隊のS中佐(次項)を真犯人と主張した捜査二課の「成智主任は、他の捜査官は傍流だと言っているが、本当は犯人に対する人々の目を七三一部隊に向けさせるために、お人好しの成智が特命捜査主任などというもっともらしい名称を与えられて利用されただけで、主流の鈴木清捜査統括主任は上海で人体毒殺実験をやった陸軍中野学校出の特務機関員を本命とみて捜査していたのである」と指摘している。出典、佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』批評社、2002年(ISBN:978-4826503457)p.156。なお、名刺班だった平塚八兵衛も特務機関筋を調査し、戦時中「大陸(中国)で羽振りだった特務機関の顔役」に銀座で会って話を聞いたことを書いている。出典;『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫版、p.102-p.103
  57. ^ 秦郁彦によると、成智英雄がいうS中佐ことS・S(原書では実名)という姓名の人物は日本陸軍の軍医将校名簿には存在しない。該当しそうな似た名前の人物は、軍医大佐のS・K(精神科。原書では実名。1902年生まれ)と、軍医中佐のS・N(皮膚科医。原書では実名。1898年生まれ)の2人だけで、2人とも経歴は731部隊とは無関係だった。成智とその賛同者は明らかにS・Nのほうを念頭に置いていたと考えられるため、秦は1987年秋、F県(原書では実名表記)にあるS・Nの本籍地まで行って写真を入手し、帝銀事件の生き残りの1人M(旧姓。結婚後はT姓。原書では実名表記)に見てもらったが「犯人ではない」という返事を得た。出典:秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻(文藝春秋社、1993年)pp.191-194。秦郁彦より数ヶ月前、小池新もSの「親族に会い、写真も見せてもらったが、七三一部隊とは無関係で、帝銀事件犯人の似顔絵とは似ても似つかなかった。最終的に私は、Sが実際にいたとしても、それは実在の人物の名前と経歴を偽った別人と推理した」。出典:小池新「死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの――GHQ占領下の日本を揺るがした大量毒殺「帝銀事件」#3」2021/01/17(2021年3月24日閲覧)
  58. ^ 佐伯省『疑惑α―帝銀事件 不思議な歯医者』(講談社出版サービスセンター、1996年)、およびその増補改訂版である佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』(批評社、2002年)。なお後者の本のp.280には著者の言葉として、その歯科医は「平成元年(一九八五)」に82歳で亡くなり「今年、十三回忌のはずです」とあるが、平成元年なら1989年のはずである。
  59. ^ 帝銀事件を論ず - 青空文庫
  60. ^ 哀れなトンマ先生 - 青空文庫
  61. ^ 目をあいて見る - 青空文庫

関連項目[編集]

外部リンク[編集]