国際派 (日本共産党)

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国際派(こくさいは)とは日本共産党1950年代に内部分裂した際の派閥の一つ。宮本顕治志賀義雄らの属した反主流派。徳田球一志田重男野坂参三らの属した派(所感派、主流派)に対抗した。

経緯[編集]

1950年1月6日コミンフォルム(欧州共産党情報局、共産党国際情報局)の機関誌に発表された論文『日本の情勢について』で、政治局員野坂参三の連合軍に対する解放軍規定、占領下における平和革命論が批判された。続いて中華人民共和国人民日報からも批判されるに至り、第18回拡大中央委員会で宮本らは国際批判を受けいれる態度を表明した(国際派という名称はこれにちなむ)。 党内は批判を受け入れるかどうかで、所感派、国際派などに分裂した。

所感派の徳田球一野坂参三レッドパージで追放されたことをきっかけに国際派に属すると思われるメンバーを排除(宮本顕治は九州に派遣された)して臨時中央指導部を編成し、みずからは北京に亡命し、北京機関と呼ばれた指導部を構成した。その後コミンフォルムによる分派認定を受けた国際派が(当時の共産主義運動は国際的に一つに結束しており、コミンフォルムから分派と認定されると共産党としての正統性を失う状況にあった)自己批判することで統一を回復し、その結果、1951年第5回全国協議会(五全協)で所感派の武装闘争路線が採用され、党はとりあえず再統一された。しかし、世論の支持を失い、総選挙では全員が落選し、党勢は衰えた。その後、徳田は1953年に北京で病死、野坂は1955年に帰国して国際派の宮本と和解し、第6回全国協議会(六全協)で軍事方針を否定し、合法活動路線に戻った[1]

以降、宮本が実質的に党の指導者になった。

この一連の動きは「逆コース」真っ只中でのことである。

参考文献[編集]

脚注[編集]