所感派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

所感派(しょかんは)とは、日本共産党1950年昭和25年)以降に内部分裂した際の派閥の一つ。徳田球一野坂参三志田重男伊藤律らの属した親中華人民共和国派(主流派)。対立派閥として宮本顕治らの国際派野田弥三郎らの日本共産党国際主義者団などがある。

派閥形成と北京機関の設置[編集]

1950年(昭和25年)1月6日コミンフォルム(欧州共産党情報局、共産党国際情報局)の同日付機関誌「恒久平和と人民民主主義のために」に発表された論文『日本の情勢について』で、日本共産党政治局員である野坂参三の、連合軍に対する“解放軍”定義、占領下における平和革命論が批判されていた。これはスターリンの意向に沿うものであった。

日本共産党政治局は一週間後の12日、論文『“日本の情勢について”に関する所感』を発表して反論した。所感派という名称はこの論文名に由来する。しかしコミンフォルムに続いて中国共産党も日本共産党を批判したことから、党内は批判を受け入れるかどうかで意見が分かれ、それぞれ「所感」に賛同する者は「所感派」、中国共産党やコミンフォルムの批判を容認する者は「国際派」などと、互いに名乗ったり呼ばれたりするようになった。なおこの時点ではまだ組織分裂には至っていない。同年のレッドパージの直後、徳田・野坂らは全党に諮る事なく、国内での指導を放棄し、所感派だけで中華人民共和国へ渡航(事実上亡命)、北京に指導部(北京機関)を設置する。

再統一と軍事方針 [編集]

所感派が北京機関を置いた翌年の1951年(昭和26年)に開催された日本共産党第5回全国協議会(五全協)では、徳田らが起草した「日本共産党の当面の要求」(51年綱領)が提案され、批判の声もあったものの、そのまま採択された。これによって党は再統一され、「軍事方針」と呼ばれる武装闘争路線を採るようになった。

武装闘争は「軍事方針」に従い、「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織が建設され、派出所襲撃、火炎瓶闘争などを行った。これに対し、政府は1952年(昭和27年)に破壊活動防止法を制定。共産党は世論の支持を失い、同年の総選挙では全員が落選。軍事路線を指導した徳田は帰国することなく1953年(昭和28年)に病気で客死した。

解散の経緯[編集]

野坂は1955年(昭和30年に帰国して宮本と和解し、日本共産党第6回全国協議会(六全協)で、武装闘争を「極左冒険主義」とし、「党が国内の政治情勢を評価するにあたって自分自身の力を過大評価し、敵を過小評価した」と武装闘争に立ち上がる情勢判断の誤りを自己批判した。

六全協後、党の実権を握った宮本は、党の再統一を優先するとして、六全協の方針に従うかぎり個々の党員の行為は不問とする方針を示した。これを受けて所感派系党員も主流派である宮本派に吸収されていった。同時に非合法闘争の記録は固く封印された。

その後、党内で宮本のヘゲモニー(指揮権)が確立されるとともに反宮本派への小規模な粛清が繰り返され、宮本路線への反対者は順次党からはじき出されていった。あるものは離党しあるものは除名を受けるなどして党を離れたが、これらの中には1960年代新左翼に合流したものもあった。また、六全協の決定に反発し党の再統一を拒んだグループもあり、大武礼一郎(日本共産党大阪府委員)らが結成した日本共産党(行動派)や、除名された福田正義らが1969年(昭和44年)11月に結成した日本共産党(左派)はその一例である。

ちなみにこの一連の動きは、日本が自由民主主義体制から対米従属体制に変えられる逆コースの真っ最中でもあったというのが、所感派にとっての認識である。

派閥名の不思議な交錯[編集]

ここで不思議な交錯がある。所感派という派閥が形成された発端はコミンフォルム論文への反発を表明した「所感」論文であり、国際派という派閥(実態は少数意見)の多くはコミンフォルム論文に一部理解を示した事をもって「国際派」とされるのである。また、コミンフォルム論文は野坂を名指しで批判している。ところが直後に中国共産党が論文を出すと所感派は「国際派」には秘密に、非正規の党指導グループを結成して手回しよく中央委員会を骨抜きにし、中国に亡命し、スターリンの指示を仰いで路線を決めていく。名指し批判されたはずの野坂もこの所感派の代表である。宮本顕治ら少数派は国内に留まり、結果的にスターリンや中国共産党の側(事実上国際とはこちら)の指示命令には従わないのである。

参考文献[編集]