弘田三枝子
弘田 三枝子 | |
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出生名 | 竹永 三枝子 |
生誕 | 1947年2月5日 |
出身地 | 日本・東京都世田谷区池尻 |
死没 | 2020年7月21日(73歳没) |
ジャンル | ポップス、ジャズ、歌謡曲、R&B |
職業 | 歌手 |
活動期間 | 1961年 - 2020年 |
レーベル |
東芝音楽工業 日本コロムビア キングレコード |
公式サイト | 弘田三枝子オフィシャルブログ「ミコブロ」 |
弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子、1947年2月5日 - 2020年7月21日[1])は、日本のポップス、歌謡歌手[2]。愛称はMICO(ミコ)[2]、(パンチの)ミコちゃん[3][4]。
歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された[5]。後のミュージシャン(都はるみ、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた[6]。ジャズで鍛えたスキャットを得意とし、決まったコードの中で様々な絵が描けるので、あらかじめ決めないでスリルを感じながらその場でスキャットを奏でて楽しんでいたという。
晩年まで、空き時間に最新曲をiPodで聴き漁るなどして、採り入れ、学ぶ姿勢を失わなかったという。自らの歌唱待ちの舞台袖で椅子をすすめられても勉強になるといって立ったまま他の歌手の唄に耳を傾ける姿や、自ら先輩に良くしてもらったことを理由にスタッフをはじめ後輩らにも謙虚な姿勢で接する姿は、多くの同業者・スタッフに好意的に受け止められていた。
経歴
世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り[7]、幼稚園の頃FENのラジオに魅せられて歌手になることを決意。母の協力のもと、7歳の頃から自らの意思でティーブ・釜萢の「日本ジャズ学校」に週1回バスで通い、英語の発音の基礎からスパルタ教育を受け、8歳から進駐軍のキャンプで歌っていたともいい[4]、駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた[7]。曲を提供されて自分の世界にもっていくために、家での練習(本人曰く「小稽古」)の際、歌詞を理解してメロディーを体に入れてから(本人曰く「儀式」)、自ら考案した記号を譜面に記載したうえで、自ら歌唱したテープを確認し歌をものにしたうえで収録に臨んだという。
ダイナマイト娘
1961年に東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー[2][8](草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。翌1962年には各社競作で出された「ヴァケイション」(コニー・フランシスのカバー)[9]が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山版は3万枚の小ヒットだった。同年NHK紅白歌合戦に初出場。1973年の森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていたエラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に「養女にしたい」とまで言われている[10]。
1964年10月に日本コロムビアへ移籍[2]。新幹線で移動中、グレンミラー楽団を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。その結果、1965年7月に、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した[2][11]。3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌い、トリを務めた[11]。その足でニューヨークに渡り、譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等のオリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム「ニューヨークのミコ」を制作した。
2か月ほど渡米・渡欧。その成果として1968年5月30日にはリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作し[12][13]、日本におけるリズム・アンド・ブルースの先駆けとなった。
カムバック
弘田は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年10月20日、「人形の家」でオリコンチャート首位となり[4]、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した[14]。他方、1966年に雑誌スイングジャーナルの人気投票「女性歌手」部門でトップに立ち、小規模なジャズライブを中心に活動していた弘田が、カムバックという形で再度表立った活動を始めたことに対して、コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという。
ダイエット本出版
カムバックに際し、弘田はダイエットによる大幅な減量をしていたが[3]、この経験も踏まえ1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版した[15]。この本はベストセラーとなり「芸能人のダイエット本の先駆け」[16]、「タレントダイエット本の元祖」と評され、150万部を超えたともいわれる[17]。同年のベストドレッサー賞を受賞した。この後、イヴ・サン=ローランとタイアップしていき、ファッションリーダーとしても活躍していくこととなった。
後の2019年11月28日にNHKで放送された「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」の「ストレスの原因?単位のお名前」の回において、「カロリー」という言葉を日本に普及させた人物として紹介された[18]。
渡米
その後、渡米し1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』[19]を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した[20][21]。
1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する[22][23]。
平成以降
2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売[24]。「Everything」「接吻」「SWEET MEMORIES」「いとしのエリー」 「駅」など、はじめて日本の楽曲をカバーした。ジャマイカでツインズ=スライ&ロビーと初めてのレゲエを吹き込む。
2015年10月21日、レコードデビュー55周年記念として32年ぶりの新曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。ボーナス・トラックに「人形の家」のピアノバージョンを収録した。
2020年7月20日、千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されるも、翌21日午後10時31分、心不全のため73歳で死去[25]。葬儀は親族のみで密葬として行い、6日後の27日に訃報が発表された[1]。同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたという[26]。同年6月15日に公開されたYouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が公の場での最後の肉声となった[27]。2019年11月12日夜に開催され、同年12月9日に放送された第46回日本歌手協会歌謡祭第1夜での「レオのうた」が最後のテレビ出演に[28]、同年12月8日の名古屋市の星神社で催された御本殿竣功奉告祭が最後のライブになった。
2020年11月20日、第62回日本レコード大賞特別功労賞受賞[29]。
評価
小説家の小林信彦は、「戦後の17年は無駄ではなかった」「大天才」と、弘田に賛辞を贈った。
1991年発行の評論本『日本のポピュラー史を語る』(村田久夫・小島智著)によれば、「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出した」と評価されている[30]。
ポップスやジャズなどジャンルの垣根を超えた歌声を評価された反面[31]、歌唱スタイルの変化に対して好意的ではない見解を示す向きもあった[32]。
1970年代後半以降はヒット曲が出なかったことなどから、活動後期は小規模のライブがメインでメディア露出が減っていた。そのため、訃報時にテレビ局の若手制作者がその存在をよく知らず、話題として取り上げない判断をしたワイドショーもあった[33]。取り上げたスポーツ紙等も、スキャンダルを前面に押し出す内容がほとんどを占めた。追悼メッセージを寄せた人物もほぼ60歳代以上に限られた。
- 山下達郎は、「戦後最高の力量をもつシンガーのひとりの方でございますのに、こんなご時世もあってでしょうかね、メディアにはほとんどのぼりません。ホントに残念なことであります」と追悼するメディアが少ないことを残念がり、『悲しきハート』については、オリジナル歌手のスーザン・シンガーよりも「はるかにすぐれたバージョン。16歳とは思えない素晴らしい歌唱力」と絶賛している[34]。
- 桑田佳祐「存在自体がポップ。ビート感満載のポップスで笑顔・ダンスをテレビ画面いっぱいに表現していた。チャーミングでみんなの憧れでとにかくナンバーワンだった。(一連のカバー曲は)明るい未来へ向かうアンセムのようだった」[35]
- 中尾ミエ「同時期にデビューした戦友。すごいパワーで、この人にはかなわないと思った。『人形の家』からはパンチがなくなった」[32]
- 菊地史彦「もし弘田三枝子がいなければ、戦後ポップスはひどくつまらなかっただろう」[36]
このような弘田に対する訃報時のマスメディアの対応に対し、何のリスペクトもない、と業を煮やした都築響一は、自身の番組「SUPERDOMMUNE 『都築響一のスナック芸術丸』」にて、2020年8月13日に7時間にもわたる追悼特番を組んだ[37]。
人気ものまね芸人のミラクルひかるが「ものまね王座決定戦」にて弘田三枝子の「ヴァケーション」を物真似し、その映像が後にYoutubeなどにも広がった為(本人との比較映像なども出現した)、若年層や往時を知らない層にも認知されるきっかけになった。
ディスコグラフィ
- カヴァー・ポップス作品
- 子供ぢゃないの(1961年11月、原曲はヘレン・シャピロのDon't Treat Me Like a Child)は、発売後ひと月で6万枚の売り上げを達成した。片面のカヴァー曲「悲しき片思い」(原曲は同じくヘレン・シャピロのYou Don't Know)もヒットした。漣健児訳詞。
- すてきな16才(1962年2月、原曲はニール・セダカのHappy Birthday Sweet Sixteen)伊東ゆかりとの競作
- ヴァケーション(1962年10月、原曲はコニー・フランシス、『第13回NHK紅白歌合戦』出演曲)伊東ゆかりなどとの競作。曲調が一部異なる。
- 弘田三枝子盤は20万枚を売り上げた。オリジナルは夏休みの歌であるが、日本語版は11月発売であったこともあり、春夏秋冬の休みについて歌っている。漣健児訳詞。
- 渚のデイト(1963年5月、原曲はコニー・フランシスのFollow The Boys)
- 悲しきハート(1963年7月、原曲はスーザン・シンガーのLock Your Heart Away 、『第14回NHK紅白歌合戦』出演曲
- 私のベイビー(1963年12月、原曲はザ・ロネッツのBe My Baby)伊東ゆかりとの競作。漣健児訳詞。
- 砂に消えた涙(1964年12月、原曲はミーナのUn Buco Nella Sabbia)伊東ゆかり、ザ・ピーナッツなど数名の歌手との競作。
- ナポリは恋人(1965年2月、原曲はジリオラ・チンクェッティのNapoli, Fortuna Mia)伊東ゆかり、ザ・ピーナッツとの競作。
- 夕陽のなぎさ(1965年5月、原曲はブルース・ジョンストンのMaksha At Midnight)NHK総合テレビで1965年10月16日に放映された番組『若さとリズム』第1回放映の中で歌われた。この回は2007年1月14日に『NHKアーカイブス』にてデジタル補正されて再放映されている。
- 夢みるシャンソン人形(1965年8月、原曲はフランス・ギャルのPoupée de Cire, Poupée de Son)
- 中尾ミエとの競作。
- オリジナル作品
シングル
# | 発売日 | A/B面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 規格品番 |
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東芝レコード | |||||||
1 | 1962年 6月 |
A面 | 寝不足なの | 永六輔 | 中村八大 | JP-5125 | |
B面 | ブルージン・ブルース | ||||||
2 | 1963年 3月 |
A面 | 明日をみつめて | 青島幸男 | 桜井千里 | 森岡賢一郎 | JP-1548 |
B面 | そっと一人に | 小林郁夫 | |||||
3 | 1964年 5月 |
A面 | 若い街角 | 岩谷時子 | 原六朗 | 大沢保郎 | TR-1071 |
B面 | 気ンなるあいつ | 前田武彦 | 三保敬太郎 | ||||
4 | 1964年 8月 |
A面 | ひとつぶの真珠 | 安井かずみ | 宮川泰 | TR-1110 | |
B面 | きっとね | 岩谷時子 | 服部良一 | ||||
日本コロムビア | |||||||
5 | 1965年 8月 |
A面 | 恋のクンビア | 三浦康照 | 和田香苗 | 河村利夫 | JPS-12 |
B面 | 愛の言葉を | 原信夫 | 大西修 | ||||
6 | 1965年 9月 |
A面 | 道 | 三枝伸 | 山屋清 | JPS-21 | |
B面 | ほゝえみを忘れないで | 和田香苗 | 河村利夫 | ||||
7 | 1966年 3月 |
A面 | 愛のゴーゴー | 呉正泰 | 中島安敏 | JPS-38 | |
B面 | 砂の上のひめごと | なかにし礼 | |||||
8 | 1966年 5月 |
A面 | 瞳の中の私 | 星加ルミ子 | 高井達雄 | 森岡賢一郎 | JPS-42 |
B面 | 悲しみは空の彼方に | 漣健児 | |||||
9 | 1966年 6月 |
A面 | 夜明けの海 | 滝口暉子 | 和田香苗 | 河村利夫 | JPS-45 |
B面 | 夢みる乙女 | 加藤和枝 | 原信夫 | 大西修 | |||
10 | 1966年 10月 |
A面 | 恋はノン・ストップ | 滝口暉子 | 鈴木邦彦 | 森岡賢一郎 | SAS-791 |
B面 | 帰ってね、きっと | 青柳都子 | |||||
11 | 1967年 3月 |
A面 | 世界の国からこんにちは | 島田陽子 | 中村八大 | 河村利夫 | SAS-869 |
B面 | 若さが燃えてる | 白鳥朝詠 | 山屋清 | ||||
12 | 1967年 4月 |
A面 | 黒いブーツと皮ジャンパー | 橋本淳 | いずみたく | SAS-879 | |
B面 | 帰らぬ少年兵 | 二条冬詩夫 | T.Phillips | 河村利夫 | |||
13 | 1967年 6月 |
A面 | 南国の愛の星 | くるみ広彰 | くるみ敏弘 | SAS-907 | |
B面 | どうすりゃいいの | 鈴木よしお | 越部信義 | ||||
14 | 1967年 7月10日 |
A面 | 渚のうわさ | 橋本淳 | 筒美京平 | P-1 | |
B面 | 風とオトコのコ | ||||||
15 | 1967年 11月1日 |
A面 | 枯葉のうわさ | P-3 | |||
B面 | 悲しみの足音 | ||||||
16 | 1968年 3月15日 |
A面 | 涙のドライヴ | P-10 | |||
B面 | さざ波のバラード | ||||||
17 | 1968年 7月1日 |
A面 | 渚の天使 | P-24 | |||
B面 | 恋のエンジェル・ベイビー | 林春生 | |||||
18 | 1968年 9月15日 |
A面 | 可愛い嘘 | 橋本淳 | P-37 | ||
B面 | 砂に埋めた手紙 | 林春生 | |||||
19 | 1968年 12月1日 |
A面 | 虹に瞳を | 二条冬詩夫 | B.Lane | 河村利夫 | P-46 |
B面 | グロッカ・モーラの様子はいかが | ||||||
20 | 1969年 7月1日 |
A面 | 人形の家 | なかにし礼 | 川口真 | P-65 | |
B面 | あなたがいなくても | ||||||
21 | 1969年 12月10日 |
A面 | 私が死んだら | P-79 | |||
B面 | 鏡の中の天使 | ||||||
22 | 1970年 4月25日 |
A面 | 燃える手 | 筒美京平 | P-89 | ||
B面 | 鍵を捨てたの | ||||||
23 | 1970年 8月25日 |
A面 | ロダンの肖像 | 川口真 | P-97 | ||
B面 | 恋愛専科 | ||||||
24 | 1970年 12月15日 |
A面 | できごと | 我谷和夫 | 佐藤健 | 服部克久 | P-108 |
B面 | ささやき | 片桐和子 | 和田昭治 | ||||
25 | 1971年 3月10日 |
A面 | バラの革命 | 島村葉二 | いずみたく | 渋谷毅 | P-114 |
B面 | 失われた月光 | 岩谷時子 | |||||
26 | 1971年 11月10日 |
A面 | 裏庭の出来事 | 山上路夫 | 村井邦彦 | P-150 | |
B面 | 恋人時代 | ||||||
27 | 1972年 4月1日 |
A面 | 美しかった場所 | 村井邦彦 | 馬飼野俊一 | P-169 | |
B面 | 恋はフィーリング | ||||||
28 | 1972年 9月25日 |
A面 | 都会の女 | 橋本淳 | 三原綱木 | 高田弘 | P-182 |
B面 | 誘惑 | 三原綱木 | |||||
29 | 1972年 12月10日 |
A面 | バラキのテーマ | 吉岡オサム | R.Ortolani | 山屋清 | P-205 |
B面 | ダニエルとマリアのテーマ | N.Piovani | |||||
30 | 1973年 4月10日 |
A面 | 花の咲く朝 | 千家和也 | 馬飼野康二 | P-217 | |
B面 | 危険な関係 | ||||||
31 | 1974年 4月1日 |
A面 | 蝶の雨 | なかにし礼 | P-339 | ||
B面 | ひとりぼっちの海 | ||||||
32 | 1975年 2月25日 |
A面 | 女の癖 | 安井かずみ | 川口真 | P-392 | |
B面 | 別れた男 | ||||||
33 | 1975年 10月1日 |
A面 | 胸さわぎ | 千家和也 | 川口真 | 高田弘 | P-429 |
B面 | あなたの口紅 | 川口真 | |||||
34 | 1976年 5月1日 |
A面 | 絵空事 | 藤公之介 | 川口真 | 萩田光雄 | P-455 |
B面 | 後悔 | ||||||
35 | 1977年 1月1日 |
A面 | 川の向こうに | 中里綴 | 川口真 | PK-39 | |
B面 | 他人事みたいに | ||||||
36 | 1977年 7月1日 |
A面 | マイ・メモリィ | 弘田三枝子 | 鈴木宏昌 | PK-68 | |
B面 | 「ドーベルマン刑事」のテーマ | ||||||
東芝EMI | |||||||
37 | 1980年 9月5日 |
A面 | ミスター・シャドー | おかどいくこ | 高木エリカ[注 1] | 若草恵 | ETP-17010 |
B面 | ボディー・トーク | 萩田光雄 | |||||
キングレコード | |||||||
38 | 1983年 3月21日 |
A面 | 愛のNOKORIGA | 茅野遊 | 大野雄二 | 大野雄二 大谷和夫 |
K07S-389 |
B面 | IN THE MOOD | 高木エリカ | |||||
39 | 1983年 9月21日 |
A面 | O-KAY[注 2] | MICO | 川口真 | K07S-478 | |
B面 | も・いちど | 中村安佐子 | MICO | ||||
40 | 1984年 2月21日 |
A面 | Without You | P.Ham / T.Evans | 鈴木宏昌 | K07S-527 | |
B面 | 愛のブルー・トレイン | 中村安佐子 | M.Giuliani | 中村暢之 | |||
日本コロムビア | |||||||
41 | 2006年 11月1日 |
01 | 恋のクンビア21[注 3] | 三浦康照 | 和田香苗 | DJ GOMI | COCA-15939 |
02 | (English ver.) | タケナカテイイチ | |||||
42 | 2015年 10月21日 |
01 | 悲しい恋をしてきたの | 森雪之丞 | 合田道人 | 北島直樹 | COCA-17059 |
02 | ひいふうみいよう | 合田道人 | 鳴海周平 |
コラボレーション
- ピチカート・ファイヴ
- 『pizzicato five in the bag』RECORD TWO収録曲『Darlin' Of Discotheque』(2000年1月29日)作詞・作曲:小西康陽。原曲はピチカート・ファイヴが1999年4月21日に発売したマキシシングル『Darlin' of Discothèque』の表題曲。
- 『REMIXES 2000』収録曲『パーフェクト・ワールド(A night at Organ b. MIX)』(2000年3月18日)作詞・作曲:小西康陽。原曲はピチカート・ファイヴが1999年10月21日に発売したシングル。アップテンポな原曲を須永辰緒がジャズにアレンジ。
オリジナルアルバム
- ヒット・キット・パレード(1962年2月/JP0-1150)モノラル
- ヒット・キット・パレード 第2集(1962年7月/JP0-1197)モノラル
- スタンダードを唄う(1963年3月/JP0-1288(モノラル)・JSP-3086(ステレオ)):『第15回NHK紅白歌合戦』出演曲「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」含
- ヒット・キット・パレード 第3集(1963年4月/JP0-1285)モノラル
- 日本民謡を唄う(1963年11月/TR-5001(モノラル)・TP-5001(ステレオ))
- ヒット・アルバム(1963年11月/JLP-3005)モノラル
- ヒット・キット・ミコ 第1集(1965年3月20日/JPS-5029)
- ヒット・キット・ミコ 第2集(1965年10月20日/JPS-5067)
- ニューヨークのミコ(1966年1月20日/JPS-5072)
- ミコ・ミュージカルを唄う(1967年4月5日/JPS-5110)
- ポップス・デラックス・シリーズ(1968年2月10日/JDX-10)
- 弘田三枝子70~ポピュラー・ビッグ・ヒッツ(1970年2月10日/JPS-5203)
- ミコより愛をこめて(1971年7月25日/JDX-52)
- 弘田三枝子の世界(1972年6月25日/JDX-76)
- 愛の歌~弘田三枝子オリジナル・アルバム(1972年12月10日/JDX-92)
- JAZZ TIME~弘田三枝子ベスト・ジャズ・アルバム(1973年7月25日/NCB-7022)
- The Nearness Of You(1974年6月25日/JDX-7028)
- Good Old Days Forever(1974年9月25日/JDX-7036)
- イエスタデイ・ワンス・モア(1974年10月1日/4PX-9010)4chステレオ
- 愛のめぐり逢い(1975年5月25日/4PX-9024)4chステレオ
- 私の好きな唄~帰り来ぬ青春(1975年9月25日/JDX-7064)
- My Funny Valentine(1976年5月10日/SP-7008)
- IN MY FEELING(1977年3月25日/SP-7009)
- Step Across(1978年/25AH-555)
- MIEKO HIROTA 76/45(1980年/DOR-0086)
- TOUCH OF BREEZE(1983年3月21日/K28A-385(LP)・K35X-4(CD))
- 華麗度 ~ MICO is Kaleidoscope(1998年6月25日/MSI-10121(CD))
- 東京27時(1999年5月21日/COCP-50087(CD)・SCL-5019(LP))小西康陽、Fantastic Plastic Machineなど参加したミニアルバム。
- 弘田三枝子・これくしょん マイ・メモリィ~ミコより愛をこめて(2001年8月1日/COCP-31461/6(CD))歌手生活40周年記念企画盤
- 弘田三枝子 MICO TODAY(2005年10月25日・2013年5月25日廉価版/MSIL-190/1(CD))新録音盤。
- 弘田三枝子 グレイテスト・ヒッツ Go Go MICO(2015年12月16日/COCP-39369-70(CD))デビュー55周年記念
- ゴールデン☆ベスト 弘田三枝子(2019年2月20日/COCP-40706(CD))ラスト・アルバムとなった
ライヴアルバム
- 弘田三枝子リサイタル(1964年8月/TR-7004)モノラル
- ミコ・イン・コンサート(1966年9月10日/JPS-5093)
- 1966年3月17日・都市センターホールにて収録。
- ミコR&Bを歌う(1968年9月1日/JPS-5155)
- 1968年5月30日・サンケイホールにて収録。
- ミコR&Bを歌う 第2集(1969年11月25日/JPS-5192)
- 1969年7月16日・京都会館第1ホールにて収録。
- MIKO LIVE(1972年6月10日/QB-9018・復刻版2013年12月18日(タワーレコード限定)/TWCP-68)4chステレオ
- 1971年12月・クラブ“リヴィエラ"にて収録。
- MIKO LIVE at RIVERA~ミコ・ライブ'73(1973年4月25日/JDX-99)
1972年12月22日・クラブ“リヴィエラ"にて収録。
- Recital At The Festival "The Golden Orpheus '73" (Live From Bulgaria)
1973年ブルガリア音楽祭にゲスト出演した模様を収録(ブルガリア国内でのみ発売)。
- MIEKO IN PERSON~弘田三枝子リサイタル(1976年7月25日/PP-7007~8)
- 1976年5月11日・中野サンプラザにて収録。
サントラ
テレビ
CM
- アスパラで生き抜こう(1962年、田辺製薬(現:田辺三菱製薬))
- アスパラでやり抜こう(1962年、田辺製薬(現:田辺三菱製薬))
- ネスカフェ43粒スプーンに一杯(1962年、ネスレ日本)
- ルックチョコレートの歌(1962年、不二家)
- ワンサカ娘'64(1964年、レナウン)
映画
- マイメモリィ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事)
- ドーベルマン刑事のテーマ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事)ソウルミュージックをベースにしつつも、タイトルのイメージを崩さないようにするため、詞をできる限り少なくし、スキャットでまとめたという
ナレーション
- X+Y presents Midnight Ebisu [Analog] (2005年11月3日/THLP364)「春風のうわさ」「渚のうわさ」収録。都築響一プロデュースのナレーションレコード。
タイアップ曲
年 | 楽曲 | タイアップ |
---|---|---|
1963年 | 明日をみつめて | 松竹映画「魚河岸の旋風娘」主題歌 |
1964年 | 若い街角 | 日本テレビ系テレビドラマ「横丁正義隊」主題歌 |
気ンなるあいつ | フジテレビ系テレビドラマ「気ンなるあいつ」主題歌 | |
1969年 | 虹に瞳を | 映画「フィニアンの虹」主題歌 |
グロッカ・モーラの様子はいかが | 映画「フィニアンの虹」挿入歌 | |
1977年 | 川の向こうに | TBS系テレビドラマ「私は忘れたい」主題歌 |
マイ・メモリィ | 東映映画「ドーベルマン刑事」挿入歌 | |
「ドーベルマン刑事」のテーマ | ||
1984年 | Without You | 三菱自動車「ランサー・フィオーレ」CMソング |
出演
テレビ番組
音楽・バラエティ番組
テレビドラマ
- シャボン玉ミコちゃん(1962年、朝日放送[注 4]/TBS)
- ハイステップ・ミコちゃん(1962年、フジテレビ)
- 花の番地(1962年、朝日放送/TBS)
- ただいま見習中 泣きベソ天使(1966年、フジテレビ)
- 泣いてたまるか(TBS) - 第7話(1967年7月3日)
- 発車、オーライ!(1967年、関西テレビ)
- おやじさん(1967年、NETテレビ)
みんなのうた
- 「デビークロケットの歌」(1962)
- 「赤い河の谷間」(1963)
- 「バナナを食べる時の歌」(1963)
- 「ドロップスの歌」(1963)
- 「お江戸日本橋」(1963)
- 「A・A・B・C〜ア・ア・ビ・チ〜」(1965、合唱:ヴォーカル・ショップ)
- 「すてきな夢を」(1965、合唱:東京放送児童合唱団)
- 「学校へ行く道」(1966)
- 「オバケなんてないさ」(1966)
- 「ちびっこカウボーイ」(1966、合唱:ひばり児童合唱団)
- 「ママとゴーゴー」(1966、合唱:杉並児童合唱団)
- 「ジロマジトンド・ジロトンド」(1966、合唱:杉並児童合唱団)
- 「怪獣がやってくる」(1967、合唱:みすず児童合唱団)
- 「アマリリス」(1968、合唱:シンギングエンジェルス)
- 「ちゃっきり節」(1973、合唱:ザ・シャデラックス)
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 紅組司会 | 確認済みの現存フィルム | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1962年(昭和37年)/第13回 | 初 | ヴァケーション | 03/25 | 飯田久彦 | 森光子 | 紅組最年少出場(当時) | |
1963年(昭和38年)/第14回 | 2 | 悲しきハート | 01/25 | 田辺靖雄 | 江利チエミ | モノクロキネコ | トップバッター |
1964年(昭和39年)/第15回 | 3 | アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド | 16/25 | 植木等 | 江利チエミ | ||
1965年(昭和40年)/第16回 | 4 | 恋のクンビア | 14/25 | ジャニーズ | 林美智子 | カラー、モノクロキネコ | |
1967年(昭和42年)/第18回 | 5 | 渚のうわさ | 17/23 | バーブ佐竹 | 九重佑三子 | モノクロ(状態が悪い) | |
1969年(昭和44年)/第20回 | 6 | 人形の家 | 13/23 | 橋幸夫 | 伊東ゆかり | モノクロ | 後半トップバッター ※ |
1970年(昭和45年)/第21回 | 7 | ロダンの肖像 | 08/24 | 美川憲一 | 美空ひばり | カラーキネコ | |
1971年(昭和46年)/第22回 | 8 | バラの革命 | 22/25 | 布施明 | 水前寺清子 | カラー |
※ポピュラーヒットメドレーにて、「ラブ・ミー・トゥナイト」、「西暦2525年」をザ・ピーナッツ、伊東ゆかりらと歌唱
映画
- 魚河岸の旋風娘(1963年3月3日)若林三重子役 : 松竹入社第一回作品。主題歌「明日をみつめて」「そっと一人に」と、「おてもやん」「ソーラン節」を歌唱。
- 独立美人隊(1963年4月28日)西本道子役 : 「ブルージン・ブルース」を歌唱。
- 女弥次喜多 タッチ旅行(1963年7月13日)堀江和子役 : 「タッチ旅行の歌」「ギャンブル節」を歌唱。この作品を最後に、再び歌手活動へ復帰。
- 栄光の黒豹(1969年12月17日)歌手役 : 「人形の家」を歌唱。
- 華やかな女豹(1969年12月31日)森下まゆみ役
- 開運旅行(1971年3月3日)歌手役 : 「できごと」を歌唱。
著書
- ミコのカロリーBook、集団形星、1970年
- マインド・ビューティ痩身法 : より美しくへの挑戦、講談社、1986年
弘田三枝子を題材とした楽曲
演じた人物
脚注
注釈
出典
- ^ a b “弘田三枝子さんが死去 73歳「ヴァケーション」「夢みるシャンソン人形」など”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2020年7月27日) 2020年7月27日閲覧。
- ^ a b c d e 湯浅学. “チーム・クンビアって? 弘田三枝子(MICO)”. 日本コロムビア. 2020年2月20日閲覧。
- ^ a b “[あすを若く]=60 やせる カッコよさ結構(連載)”. 読売新聞・朝刊: p. 19. (1972年3月15日). "ミコちゃんの作戦 【二十代】<歌手・弘田三枝子さん(二五)の場合=一年間に六十キロから三十八キロにやせた。現在身長一メートル六一、四十五キロ>" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ a b c 馬飼野元宏 (2015年10月20日). “46年前の本日、弘田三枝子「人形の家」がオリコン・チャートで1位を獲得”. 大人のMusicCalendar. 2020年2月20日閲覧。
- ^ “12月22日の「テイスト・オブ・ジャズ」[「テイスト・オブ・ジャズ」プログラム情報 [テイスト・オブ・ジャズ]]”. 日経ラジオ社 (2018年12月21日). 2020年2月20日閲覧。
- ^ a b 公式プロフィール
- ^ a b “[お顔拝借]弘田三枝子 いそがしい16歳”. 読売新聞・夕刊: p. 12. (1963年5月29日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “弘田三枝子 ヒロタミエコ”. JAPAN MUSIC NETWORK, Inc.. 2020年2月20日閲覧。
- ^ https://www.discogs.com/Connie-Francis-Vacation/release/1397789
- ^ “弘田三枝子『エラ・フィッツジェラルドさんとの出会い』”. 弘田三枝子オフィシャルブログ『ミコブロ』powered by Ameba. 2020年9月9日閲覧。
- ^ a b “堂々と歌った弘田三枝子 大観衆をうならす ジャズ・フェスティバル”. 読売新聞・夕刊: p. 7. (1965年7月10日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “【CD】昭和アーカイブス ミコR&Bをうたう 弘田三枝子”. タワーレコード. 2020年2月20日閲覧。
- ^ Mieko Hirota – ミコR&Bを歌う Mieko Hirota On Stage Exciting R&B Vol.1 - Discogs
- ^ “第11回 日本レコード大賞”. 日本作曲家協会. 2020年2月20日閲覧。
- ^ “ミコのカロリーBook”. 国立国会図書館. 2020年2月20日閲覧。
- ^ ホネホネロック(東城薫)「夢と挫折のダイエット70年史」『カロリー貯金ダイエット』ベストセラーズ、2018年5月26日。 Google books
- ^ 朝倉匠子『35歳からのダイエット革命』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年5月29日。 Google books
- ^ 日本放送協会. “ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! - NHK”. 日本人のおなまえっ! - NHK. 2020年8月21日閲覧。
- ^ Mieko Hirota with Billy Taylor Trio – Mieko In New York - Discogs
- ^ “シンガー・ソングライターへ一歩 燃える弘田三枝子 絶対あたるはずよ”. 読売新聞・夕刊: p. 11. (1980年8月28日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ Mieko Hirota – ミスターシャドー - Discogs
- ^ “6年ぶりにLP がんばります 弘田三枝子”. 読売新聞・夕刊: pp. 10,11. (1963年3月28日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ Mieko Hirota – Touch Of Breeze - Discogs (発売一覧)
- ^ “[ALBUM] 2006/06/21発売 弘田三枝子・じゃずこれくしょん”. 日本コロムビア. 2020年2月20日閲覧。
- ^ “歌手の弘田三枝子さん死去 ヴァケーションなどがヒット”. 朝日新聞デジタル (2020年7月27日). 2020年12月17日閲覧。
- ^ “歌手の弘田三枝子さんが逝去。享年73歳 - TOWER RECORDS ONLINE”. tower.jp. 2020年9月9日閲覧。
- ^ “つのだ☆ひろ「メリー・ジェーン」、弘田三枝子「人形の家」、第46弾日本歌手協会リレー歌謡祭 - YouTube”. www.youtube.com. 2020年8月27日閲覧。
- ^ “日本歌手協会”. www.nkk.or.jp. 2020年8月30日閲覧。
- ^ TBS『第62回『輝く!日本レコード大賞』』 。2020年11月29日閲覧。
- ^ 村田久夫・小島智編『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』シンコーミュージック、1999年10月14日、246-251頁。ISBN 4-401-613-40-6。
- ^ 【弘田三枝子さんを悼む】洋楽カバーでは”本家超え”の歌声…パンチの効いた”うなり”も独特で唯一無二の魅力を放っていた東京中日スポーツ 2020年7月27日
- ^ a b 中尾ミエ、整形の歴史含め弘田三枝子さん悼む「きれいになっちゃったら、パンチがなくなってきちゃったんで」スポーツ報知 2020年7月31日
- ^ 急逝した弘田三枝子さん 現役テレビマンは知らなくても…日刊ゲンダイ 2020年8月1日
- ^ 山下達郎「戦後最高の力量をもつシンガーのひとり」亡くなった弘田三枝子さんをしのぶ中日スポーツ 2020年8月2日
- ^ サザン桑田佳祐、弘田三枝子さんを悼む「ナンバーワンでした。チャーミング。みんなの憧れ」スポーツ報知 2020年8月1日
- ^ Company, The Asahi Shimbun. “もし弘田三枝子がいなければ、戦後ポップスはひどくつまらなかっただろう - 菊地史彦|論座 - 朝日新聞社の言論サイト”. 論座(RONZA). 2020年8月11日閲覧。
- ^ “SUPERDOMMUNE 「都築響一のスナック芸術丸|第五十八夜〜追悼特番:虹の彼方の弘田三枝子」MIEKO HIROTA R.I.P. 7HOURS!!!!!!!”. Peatix. 2020年8月21日閲覧。
関連項目
- 1961年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手
- R&B
- 川口真
- 筒美京平
- 伊東ゆかり
- 楠トシエ
- さるとびエッちゃん - 主人公の猿飛エツ子の親友・広岡三枝子(ミコちゃん)の名前の由来。
- 中尾ミエ - 弘田と同時期のデビューで逝去直後に追悼コメントを発表した。
- 小林信彦