日本とポルトガルの関係

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日本とポルトガルの関係

日本

ポルトガル

日本とポルトガルの関係では、日本ポルトガルの関係について概説する。なお、1580年から半世紀ほどポルトガルはスペインに事実上併合されている時期があるが、ポルトガルの統治機構などは維持されているため、本稿ではその時期も含めて記述する。

歴史[編集]

鎖国まで[編集]

天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)
朱印船(狩野内膳画の南蛮屏風より)

大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。そして1543年種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている[1]。ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり[2]、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった[3]。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。

日本布教区布教長[4]
  1. フランシスコ・ザビエル1549年 - 1551年
  2. コスメ・デ・トーレス(1551年 - 1570年
  3. フランシスコ・カブラル1571年 - 1580年
日本司教[5]
  1. セバスティアン・モラーレス1588年 - 1593年
  2. ペドロ・マルティンス(1593年 - 1598年
  3. ルイス・セルケイラ(1598年 - 1614年

しかし1587年には豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡された。江戸時代に入っても徳川家康によってこの政策は踏襲されている(1614年のキリスト教禁止令)。1620年には平山常陳事件が起き、幕府のキリスト教に対する不信感は決定的なものとなり、貿易も平戸と長崎に制限して行われるようになった。1636年の第4次鎖国令では、貿易に関係のないポルトガル人およびその家族をマカオへ追放し、布教と貿易の分離を目的として、貿易は出島のみで行うこととした。1637年に島原の乱が起こると、キリスト教徒の結束を恐れた幕府は布教を行う可能性のあるポルトガルとの貿易を取りやめることとし、また、オランダ商館の要求を受け入れた幕府は、ついに1639年の第5次鎖国令でポルトガル船の入港を完全に禁止した。1640年にはマカオから日本へ貿易再開を嘆願する使節が派遣されたが、全員捕えられ処刑されている。

鎖国」中は日本とポルトガルは直接的な接触を行うことは無かったが、東南アジア各地に残された日本人町ではポルトガル人との交易も暫くの間続いた。また、オランダ風説書などのオランダ人によってもたらされた情報によってポルトガルとスペインの動向はある程度江戸幕府も把握しており、英国船リターン号1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前に英国王がポルトガル女王と結婚した事実なども把握していた。

開国後[編集]

ペリー黒船来航によって1854年日米和親条約1858年安政五カ国条約が結ばれ日本が開国すると、1860年にはポルトガルも日本と日葡和親条約日葡修好通商条約を調印し、215年ぶりに通商が再開されるとともに、正式な外交関係が結ばれることとなった。この時期にはポルトガルはかつてのアジア植民地を既に大部分失っており、アジアでの経済・貿易活動は専らマカオとポルトガル領ティモールを中心に行われるようになった。

第一次世界大戦では、日本とポルトガルは連合国陣営としてともに参戦している。1922年ワシントン会議には日葡両国を含めた9カ国が出席し、ともに九カ国条約を批准した。

第二次世界大戦が始まるとポルトガルは中立を宣言したが、日本軍にティモール島を占領され、自国への攻撃拠点となることを恐れたオーストラリア、及び周辺の権益(オランダ領東インド)を保有するオランダによってポルトガル領ティモールは保障占領される。一方香港やオランダ領東インドを占領した日本軍は、当初は中立を謳ったポルトガル領には侵攻しなかったが、ポルトガル政府の黙認の元1942年には日本軍がティモール島全島を掌握し、終戦までの3年間日本による支配が行われた。この間外交関係は一時途絶している。

戦後[編集]

1952年に日本はサンフランシスコ平和条約発行により主権を回復し、翌1953年に日本とポルトガルは外交関係を回復した。同年にポルトガルが日本(東京)に、1954年には日本がポルトガル(リスボン)に公使館を設置した。以後、ポルトガルはアントニオ・サラザール独裁体制(エスタド・ノヴォ)からカーネーション革命を経て民主化と欧州共同体(EC)加盟[6]へと大きく変化し、マカオ返還や東ティモール独立などでアジアでの領土もすべて失ったが、日本との友好関係は安定している。

1993年にはポルトガル人種子島来航(鉄砲伝来)450周年記念行事が行われてマリオ・ソアレス大統領が日本を訪問し、2010年には19世紀以来の両国修好150周年を記念してポルトガル映画祭などが開催された。

経済関係[編集]

16-17世紀と異なり、現在の両国関係が互いの政治状況に与える影響は小さく、経済関係も比較的小規模である。2010年のドル建て貿易額は日本からの輸出が4億7985万8000ドル、ポルトガルからの輸出が2億7063万5000ドルで、日本側の大幅な輸出超過であるが、対ポルトガル輸出が日本の全輸出額に占める割合は0.06%に過ぎず、日本の輸入に占めるポルトガルからの輸出は0.04%である。EU加盟27カ国に絞っても、ポルトガルは日本にとって輸出額で18番、輸入額で19番目の相手国に留まっている[7]。ポルトガルの全輸出入に占める対日貿易のシェアは2009年で約0.5-0.6%で[8]、EU域内の貿易が輸出入とも全体の約74%を占める中での対日貿易の寄与は小さい。日本からの輸出は乗用・貨物自動車や自動車部品、電気機器のシェアが高く、ポルトガルからは乗用自動車や衣料品、加工トマト、コルクなどが主に輸出される。特に天然コルクは日本で高いシェアを持っている[9]

その中、日産自動車が2011年2月に電気自動車用のリチウムイオン電池生産工場をポルトガルのアヴェイロで着工した。これはルノートランスミッション組立工場の敷地内に置かれ、2012年12月からの生産を予定しており、欧州日産自動車が約175億円を投資する大型商談となっている[10]

文化交流[編集]

日本の鎖国以後両国の経済関係は小さくなったが、文化、学術面では比較的大きなつながりが、特に日本国内にある。ポルトガルは日本と最初に直接交渉を持ったヨーロッパの国家で、当時に移入された文物はボタンタバコなど、今でもポルトガル語起源の名前で呼ばれ、日本社会に定着している。学術面でもイエズス会宣教師のルイス・フロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』、『フロイス日本史』など、戦国時代の日本を窺い知ることができる貴重な記録を残している。その他に特筆されるべき人物として、江戸時代の鎖国を経た19世紀の日本開国後、1899年から1929年まで日本で暮らし、徳島で没したヴェンセスラウ・デ・モラエスは、多くの日本、及び日本人に関する随筆を残している。

また、ポルトガルの旧植民地で、現在でもポルトガル語公用語とするブラジルに19世紀末から多くの日本人移民が渡り、1980年代からその子孫である日系ブラジル人が日本の製造業工場に労働者として渡った事から、日本人がポルトガル語と接する機会は増えた。1993年に発足した日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)には多くのブラジル人選手が参加し[11]ボランチなどのサッカー用語も日本に定着した。他にも音楽や格闘技などでブラジルやポルトガルの文化が日本に紹介され、ファドは日本にも愛好者がいる。なお、ブラジルポルトガル語とポルトガル本国の言語(イベリアポルトガル語)は発音や語彙の違いが指摘され、日本で教えられるポルトガル語の多くはブラジル系であるが、意思疎通自体には概ね問題はないため、ポルトガル人にも通じる。

年表[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本人とポルトガル人の接触という面においては、マラッカ諸島をポルトガルが植民地化した頃より商人同士のつながりがあったようである
  2. ^ トルデシリャス条約で明確に決定されている。
  3. ^ 九州はキリスト教徒の普及が全国で最も進み、キリシタン大名なども存在するため、貿易・布教活動のし易い環境にあった。
  4. ^ 全員ポルトガル人である。
  5. ^ 府内司教区は1588年1月、日本列島を管轄として設置された。初代府内司教のセバスティアン・モラーレスはイエズス会士であったが、着任前に洋上で病死していた。府内のキリスト教徒共同体は1587年に破壊されており、着任した司教はみな日本では長崎を拠点とし、日本司教を名乗った。
  6. ^ 現在のEUの前身。
  7. ^ ジェトロの統計による。
  8. ^ 外務省資料、ジェトロ統計より試算。
  9. ^ 製品の5割、原材料の9割がポルトガル産で、ポルトガルから唯一の日本進出企業もコルク製品メーカーである。
  10. ^ レスポンス 2011年2月12日付記事 「日産、ポルトガルで電池工場の建設に着手」
  11. ^ ポルトガル人選手(二重国籍による同国籍取得者を除く)でJリーグに所属したのは過去3名のみで、うちパウロ・フットレ1998年横浜フリューゲルス入団前にポルトガル代表の中心選手として活躍した経験を持っていた。
  12. ^ 三井銀行頭取の柳満珠雄が初代会長、岩波ホール総支配人の高野悦子が常任理事。高野は2006年に会長就任。
  13. ^ 法的には、1976年に出されたインドネシアによる併合宣言が無効とされた東ティモールが2002年の独立達成までポルトガル領だった。

参考文献[編集]

  • 金七紀男『ポルトガル史』(増補新版)彩流社、2010年
  • 松方冬子『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』 中公新書、2010年
  • 松方冬子『オランダ風説書と近世日本』 東京大学出版会、2007年
  • マヌエラ・アルヴァレス、ジョゼ・アルヴァレス(金七紀男訳)『ポルトガル日本交流史』彩流社、 1992年
  • ジョゼ・アルヴァレス(金七紀男訳)『日葡修好通商条約と外交関係史 1860~1910』彩流社、 2010年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]