パーダーボルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
紋章 地図
Wappen der Stadt Paderborn Karte Paderborn in Deutschland
基本情報
連邦州: ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区: ドルトムント行政管区
郡: パーダーボルン郡
行政区分: 大規模郡都市
面積: 179.5 km²
人口:

143,659人(2013年12月31日現在) [1]

人口密度: 800 人/km²
標高: 海抜 94–347 m
郵便番号: 33041–33106 (旧: 4790)
市外局番: 05251, 05252, 05254, 05293
緯度経度: 北緯 51度43分
東経 08度46分
ナンバープレート: PB
自治体コード: 05 7 74 032
市の構成: 中核地域と7市区
市庁舎の住所: Am Abdinghof 11
33098 Paderborn
公式ウェブサイト: www.paderborn.de
行政
上級市長: ハインツ・パウス (Heinz Paus) (CDU) (2006年)
多数派政党: CDU
負債: 127,000,000 € (2004年)

パーダーボルン(Paderborn, /paːdərˈbɔrn/)は、ドイツ連邦共和国中西部、リッペ川ドイツ語版英語版上流域沿岸に位置する都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州に属し、パーダーボルン郡郡庁所在地である。人口は、141,730人(2006年1月31日)、面積は、179.38 km²パーダーボーンパダーボーンパデルボルンとカタカナ表記されることもある。北緯51度43分 東経8度45分

大司教座大聖堂神学校のある宗教都市であり、古くはカール大帝の宮廷の所在地であった。

パーダーボルンの名は、当初の市域が、リッペ川支流のパーダー川(全長約4km)の水源となる複数の泉 (Born) に囲まれていたことに由来する。その後、市域は大幅に拡大し、今日ではパーダー川全体が市の境界内に含まれている。

地勢[編集]

ドイツ中西部、ヴェストファーレン低地(ミュンスター平野)の南東端に位置し、東と南は丘陵地がせまる。ドルトムントから東北東に約100km、ハノーファーから南西に約100km、カッセルから北西に約70kmに位置する。

市域の南部に大聖堂を中心とする人口密集地があり、北部は開けた農業地域である。東部には、セメント、機械、食品、材木などの工業地域がある。

歴史[編集]

799年ローマから亡命してきた教皇レオ3世を、フランク王国のカール大帝はパーダーボルンの宮廷へ迎え、両者の間で会談が行われた。そこでは、カール大帝が教皇のローマへの帰還に尽力すること、カール大帝を皇帝として戴冠すること、パーダーボルンに司教座を設置することが取り決められた。約半年後、レオ3世はフランク王国の軍に護衛されて、ローマへと無事帰還した。さらに、翌800年、カール大帝自身もローマへ行き、レオ3世の手で戴冠されて「ローマ皇帝」となった。このきっかけとなったパーダーボルンは、「神聖ローマ帝国誕生の地」と呼ばれることもある(補注。神聖ローマ帝国の始まりは実質的には962年オットー1世の戴冠からであるが、原理上はカール大帝の戴冠から始まる)。805年、司教座設置。カール大帝の宮廷跡地に大聖堂を建設する。836年ル・マンの大聖堂に埋葬されていた聖リボリウス(4、5世紀に西ヨーロッパでキリスト教の布教活動をしていた人物)の遺骨を譲り受け、パーダーボルンの大聖堂に埋葬された。これを機縁として、パーダ・ボルンとル・マンは、欧州最古の姉妹都市となった。

パーダーボルン大聖堂

1225年から1275年にかけて、大聖堂の大改築が行われ、今日見られるようなハレンキルヘ (Hallenkirche)と呼ばれるドイツ後期ゴシック様式の聖堂に生まれ変わった。1295年にはハンザ同盟に加盟、ブレーメンフランクフルトを結ぶ交易路の中継点として繁栄した。パーダボルン司教は、神聖ローマ帝国の諸侯(領主司教)としてパーダーボルンを中心とする司教領を支配したが、都市部では商人層が力をつけ自治が発達した。1613年から1618年にかけて、後期ルネサンス様式の市庁舎が建設された。

1802年帝国代表者会議主要決議に基づき、パーダーボルン司教領は廃止され、プロイセン王国に編入された。しかし、1807年ティルジットの和約によりプロイセンはパーダーボルンを含むエルベ川以西の領土を失い、この地域にはナポレオンによってヴェストファーレン王国がつくられた。1815年ウィーン会議の後、再びプロイセン領に戻り、パーダーボルンはヴェストファーレン州東部の主要都市となった。1850年に西方のハムまでの鉄道が開通し、1853年には東南のカッセルまで開通した。パーダーボルン教区1821年に復活し、1930年大司教区へと昇格した。第二次世界大戦では、1945年1月17日3月27日の爆撃で、約8割の建造物が破壊されたが、戦後、歴史建造物の多くは再建・修復された。そして、1964年からはカール大帝の宮廷跡の発掘が始まった。1975年に、周辺自治体との合併により、人口10万人を超える都市になった。

名所[編集]

スポーツ[編集]

姉妹都市[編集]

出身者[編集]

引用[編集]

外部リンク[編集]