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==概説==
==概説==
幕末の期間に関する厳密な定義はないが、[[1853年]][[7月8日]]([[嘉永]]6年[[6月3日 (旧暦)|旧暦6月3日]])の[[黒船]]、即ち[[マシュー・ペリー]]が率いる[[アメリカ海軍]]の[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ号]]、サラトガ号、[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]、[[ミシシッピ (砲艦)|ミシシッピ号]]による艦隊の来航から、[[1867年]][[11月9日]]([[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|旧暦10月14日]])に[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行って[[江戸幕府|徳川幕府]]が日本の全国政権としての地位を失い、翌[[1868年]][[5月3日]]([[4月11日 (旧暦)|旧暦4月11日]])に[[江戸城]]が[[明治政府]]軍に[[江戸開城|明け渡されて]]徳川幕府が崩壊する時までとする見方が、一般的である。[[大政奉還]]、旧幕府軍による抵抗が終わった[[箱館戦争]]の終結([[1869年]])、[[幕藩体制]]が完全に終わった[[廃藩置県]]([[1871年]][[8月29日]])なども終期となりうる。
幕末の期間に関する厳密な定義はないが、[[1853年]][[7月8日]]([[嘉永]]6年[[6月3日 (旧暦)|旧暦6月3日]])の[[黒船]]、即ち[[マシュー・ペリー]]が率いる[[アメリカ海軍]]の[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ号]]、[[ミシシッピ (砲艦)|ミシシッピ号]]、[[サラトガ (スループ)|サラトガ号]]、プリマス号による艦隊の来航から、[[1867年]][[11月9日]]([[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|旧暦10月14日]])に[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行って[[江戸幕府|徳川幕府]]が日本の全国政権としての地位を失い、翌[[1868年]][[5月3日]]([[4月11日 (旧暦)|旧暦4月11日]])に[[江戸城]]が[[明治政府]]軍に[[江戸開城|明け渡されて]]徳川幕府が崩壊する時までとする見方が、一般的である。[[大政奉還]]、旧幕府軍による抵抗が終わった[[箱館戦争]]の終結([[1869年]])、[[幕藩体制]]が完全に終わった[[廃藩置県]]([[1871年]][[8月29日]])なども終期となりうる。


幕末は、徳川将軍家の当主が[[征夷大将軍]]に就き、幕府の主宰者として君臨する幕藩体制が衰えて死に行く過程である。その一方で、[[鎖国]]すなわち[[海禁政策]]を抛棄して開港し、[[外国]]との[[通商]][[貿易]]の開始によって[[日本]]が世界的な[[資本主義]][[市場経済]]と[[植民地主義]]に組み込まれ、社会自体が劇的に変化していく発端でもある。この幕末の過程は、多くの[[文学]]作品に描かれており、たとえば[[島崎藤村]]の長編小説『[[夜明け前]]』などが挙げられる。
幕末は、徳川将軍家の当主が[[征夷大将軍]]に就き、幕府の主宰者として君臨する幕藩体制が衰えて死に行く過程である。その一方で、[[鎖国]]すなわち[[海禁政策]]を抛棄して開港し、[[外国]]との[[通商]][[貿易]]の開始によって[[日本]]が世界的な[[資本主義]][[市場経済]]と[[植民地主義]]に組み込まれ、社会自体が劇的に変化していく発端でもある。この幕末の過程は、多くの[[文学]]作品に描かれており、たとえば[[島崎藤村]]の長編小説『[[夜明け前]]』などが挙げられる。
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嘉永6年(1853年)、[[アメリカ合衆国]]が派遣した[[ペリー]]提督率いる4隻の[[黒船]]が[[浦賀]]沖に来航し、[[江戸幕府]]に開国を迫る[[大統領]]国書をもたらした。[[老中]]首座の[[阿部正弘]]([[備後福山藩]]主)は、[[海防参与]][[徳川斉昭]]([[水戸藩]]主)らや、[[松平春嶽|松平慶永]]([[越前藩]]主、のち春嶽)・[[島津斉彬]]([[薩摩藩]]主)ら[[親藩]]・[[外様大名]]をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動のなか、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]が死去。子の[[徳川家定|家定]]が13代将軍に就任する。
嘉永6年(1853年)、[[アメリカ合衆国]]が派遣した[[ペリー]]提督率いる4隻の[[黒船]]が[[浦賀]]沖に来航し、[[江戸幕府]]に開国を迫る[[大統領]]国書をもたらした。[[老中]]首座の[[阿部正弘]]([[備後福山藩]]主)は、[[海防参与]][[徳川斉昭]]([[水戸藩]]主)らや、[[松平春嶽|松平慶永]]([[越前藩]]主、のち春嶽)・[[島津斉彬]]([[薩摩藩]]主)ら[[親藩]]・[[外様大名]]をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動のなか、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]が死去。子の[[徳川家定|家定]]が13代将軍に就任する。


翌[[安政]]元年([[1854年]])[[正月]]に再来したペリー艦隊は、重ねて開国を要求。全権の[[林復斎]]らとの交渉により、'''[[日米和親条約]]'''が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。同年、[[ロシア帝国]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]艦隊の間でも[[川路聖謨]]らの交渉により[[日露和親条約]]が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。開国以前より継続していた活動は[[安政の改革]]と呼ばれ、[[勝海舟]]もこの動きの中から注目される。
翌[[安政]]元年([[1854年]])[[正月]]に再来したペリーは、重ねて開国を要求。全権の[[林復斎]](大学守)らとの交渉により、'''[[日米和親条約]]'''が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。同年末までに、[[ロシア帝国]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]と[[川路聖謨]]らの交渉により[[日露和親条約]]が、英国の[[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|スターリング]]と[[水野忠徳]]の交渉で[[日英和親条約]]が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。開国以前より継続していた活動は[[安政の改革]]と呼ばれ、[[勝海舟]]もこの動きの中から注目される。


日米和親条約では、薪水の給与のための[[下田]]・[[函館|箱館]]開港と並んで、両国の必要に応じて[[総領事]]が置かれることとなり、米国は[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]を下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった[[堀田正睦]]は徳川斉昭の反対を承知しながらハリスを下田より上府させ、結果として斉昭は海防参与を辞す。ハリスは江戸で[[第二次アヘン戦争]]における[[清]]の敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を締結する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながら通商条約締結は不可避と判断した。
日米和親条約では、薪水の給与のための[[下田]]・[[函館|箱館]]開港と並んで、両国の必要に応じて[[総領事]]が置かれることとなり、米国は[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]を下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった[[堀田正睦]]は徳川斉昭の反対を承知しながらハリスを下田より上府させ、結果として斉昭は海防参与を辞す。ハリスは江戸で[[第二次アヘン戦争]]における[[清]]の敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を締結する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながら通商条約締結は不可避と判断した。
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===安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)===
===安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)===
安政5年(1858年)4月[[大老]]に就任した[[井伊直弼]]([[彦根藩]]主)は、条約問題と将軍継嗣問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま[[井上清直]]と[[岩瀬忠震]]を全権として'''[[日米修好通商条約]]'''を締結させた。[[領事裁判権]]を認め、[[関税自主権]]を喪失し、かつ片務的[[最恵国待遇]]を課した拙速な[[不平等条約]]であり、同様な条約が[[イギリス]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・ロシアとも結ばれた([[安政五ヶ国条約|安政の五ヶ国条約]])。開市開港は段階的に行うとされたが、この時期については[[ロンドン覚書]]調印により時期をずらすことになる。また将軍職については、5月[[紀州藩|紀州]][[徳川家茂|慶福]]を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、[[江戸城]]へ入った(将軍就任は10月)。
安政5年(1858年)4月[[大老]]に就任した[[井伊直弼]]([[彦根藩]]主)は、条約問題と将軍継嗣問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま[[井上清直]]と[[岩瀬忠震]]を全権として'''[[日米修好通商条約]]'''を締結させた。[[領事裁判権]]を認め、[[関税自主権]]を有さず、かつ片務的[[最恵国待遇]]を課した[[不平等条約]]であり(但し、領事裁判権はむしろ幕府が求めたものであり、関税に関してもこの時点では妥当なものであった。むしろ問題は金銀等価交換を認めたことであった→[[幕末の通貨問題]])、同様な条約が[[イギリス]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・ロシアとも結ばれた([[安政五ヶ国条約|安政の五ヶ国条約]])。開市開港は段階的に行うとされたが、この時期については[[ロンドン覚書]]調印により時期をずらすことになる。また将軍職については、5月[[紀州藩|紀州]][[徳川家茂|慶福]]を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、[[江戸城]]へ入った(将軍就任は10月)。


こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・[[徳川慶勝]]([[尾張藩]]主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受けることとなった。また、[[京都]]を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも井伊の指示を受けて、老中[[間部詮勝]]([[鯖江藩]]主)らが取り締まりを行った。これにより、橋本左内・[[梅田雲浜]]・[[頼三樹三郎]]らが処刑され、また[[長州藩]]([[萩]])で私塾・[[松下村塾]]を開いていた[[吉田松陰]]なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「'''[[安政の大獄]]'''」と呼ぶ。特に幕府・[[関白]]を介さず、朝廷から直接[[水戸藩]]へ勅書が出された件(→[[戊午の密勅]])は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。
こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・[[徳川慶勝]]([[尾張藩]]主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受けることとなった。また、[[京都]]を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも井伊の指示を受けて、老中[[間部詮勝]]([[鯖江藩]]主)らが取り締まりを行った。これにより、橋本左内・[[梅田雲浜]]・[[頼三樹三郎]]らが処刑され、また[[長州藩]]([[萩]])で私塾・[[松下村塾]]を開いていた[[吉田松陰]]なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「'''[[安政の大獄]]'''」と呼ぶ。特に幕府・[[関白]]を介さず、朝廷から直接[[水戸藩]]へ勅書が出された件(→[[戊午の密勅]])は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。
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===公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)===
===公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)===
開国・貿易開始以降、内外の金銀比価が違ったために発生した金貨が大量に流出。その対策として発行された[[万延小判]]の品位の低さなどにより諸物価高騰、開国策・不平等条約への批判が噴出し、外国人排斥の[[攘夷]]思想が次第に隆盛し、各地で異人斬りが横行する。また、[[国学]]思想から来る[[尊王]]思想と結びついて「'''[[尊王攘夷]]'''」運動として幕府批判へつながっていった。
開国・貿易開始以降、内外の金銀比価が違ったために金貨が大量に流出した。その対策として低品位の[[万延小判]]を発行したが、既存小判を含有金量に応じて増歩通用としたために混乱を招き、外国商人が主力輸出商となった[[生糸]]などを高値で買い付けたことによる、品不足と物価高騰が生じた。このため、開国策への批判が噴出し、外国人排斥の[[攘夷]]思想が次第に隆盛し、各地で異人斬りが横行する。また、[[国学]]思想から来る[[尊王]]思想と結びついて「'''[[尊王攘夷]]'''」運動として幕府批判へつながっていった。


井伊死後、老中の[[久世広周]]([[関宿藩]]主)・[[安藤信正]]([[磐城平藩]]主)らが幕政を主導し、失墜した幕府の権力を復活させるため、朝廷との提携([[公武合体]])を模索する。新将軍家茂と、孝明天皇の皇妹・[[和宮親子内親王]]との婚姻である。和宮は[[有栖川宮熾仁親王]]との婚約がすでにあり、外国人のいる関東へ行かせたくないと難色を示した孝明天皇も、公武合体には基本的に賛成であり、岩倉具視らの進言もあって最終的に家茂への降嫁を認めた。しかし、幕権強化のために朝廷を利用することは尊王派の怒りを買い、[[文久]]2年([[1862年]])正月、老中安藤は江戸城坂下門外で襲撃され、一命は取り留めたが後に失脚した([[坂下門外の変]])。
井伊死後、老中の[[久世広周]]([[関宿藩]]主)・[[安藤信正]]([[磐城平藩]]主)らが幕政を主導し、失墜した幕府の権力を復活させるため、朝廷との提携([[公武合体]])を模索する。新将軍家茂と、孝明天皇の皇妹・[[和宮親子内親王]]との婚姻である。和宮は[[有栖川宮熾仁親王]]との婚約がすでにあり、外国人のいる関東へ行かせたくないと難色を示した孝明天皇も、公武合体には基本的に賛成であり、岩倉具視らの進言もあって最終的に家茂への降嫁を認めた。しかし、幕権強化のために朝廷を利用することは尊王派の怒りを買い、[[文久]]2年([[1862年]])正月、老中安藤は江戸城坂下門外で襲撃され、一命は取り留めたが後に失脚した([[坂下門外の変]])。
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幕府をさらに追い込むべく[[三条実美]]・[[姉小路公知]]ら尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍[[上洛]]運動を起こす。文久3年([[1863年]])家茂は将軍としては200年ぶり(3代[[徳川家光|家光]]以来)の上洛をするが、5月10日の攘夷決行を約束させられた。
幕府をさらに追い込むべく[[三条実美]]・[[姉小路公知]]ら尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍[[上洛]]運動を起こす。文久3年([[1863年]])家茂は将軍としては200年ぶり(3代[[徳川家光|家光]]以来)の上洛をするが、5月10日の攘夷決行を約束させられた。


約束の日である5月10日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、[[関門海峡]]を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし同月末に外国船に反撃され、砲台を占拠されるなど、実際には攘夷の困難さを身をもって知ることとなる[[四国艦隊下関砲撃事件]])。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士[[高杉晋作]]は、新たに武士以外の身分を含む[[奇兵隊]]を結成、それに続いて[[長州藩諸隊|諸隊]]が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。
約束の日である5月10日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、[[関門海峡]]を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし同月末に外国船に反撃され、砲台を占拠されるなど、実際には攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→[[下関戦争#長州藩の攘夷決行|下関事件]])。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士[[高杉晋作]]は、新たに武士以外の身分を含む[[奇兵隊]]を結成、それに続いて[[長州藩諸隊|諸隊]]が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。


また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから7月2日薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→[[薩英戦争]])。[[鹿児島市]]街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟ることとなった。この交渉によりイギリスと薩摩は接近、イギリスは幕府が自由貿易の利益を独占している現状に外様大名は不満がある点を知る。横浜開港により江戸への物資廻走が滞り、経済真混乱や物価の高騰により生糸輸出制限をしていた幕府に対し自由貿易の条約遵守を求めるイギリスは態度を変化させていた。
また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから7月2日薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→[[薩英戦争]])。[[鹿児島市]]街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟ることとなった。この交渉によりイギリスと薩摩は接近、イギリスは幕府が自由貿易の利益を独占している現状に外様大名は不満がある点を知る。横浜開港により江戸への物資廻走が滞り、経済真混乱や物価の高騰により生糸輸出制限をしていた幕府に対し自由貿易の条約遵守を求めるイギリスは態度を変化させていた。
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逆賊となった長州藩に[[長州征討|長州への征伐]]が発令され、総大将に[[徳川慶勝]]([[尾張藩]]主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での[[勝海舟]]との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、[[椋梨藤太]]ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し[[長府]][[功山寺]]にて挙兵([[功山寺挙兵]])。翌年初頭、藩中枢部の籠もる[[萩城]]を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中[[小笠原長行]]([[唐津藩]]世子)・[[勘定奉行]][[小栗忠順]]ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。
逆賊となった長州藩に[[長州征討|長州への征伐]]が発令され、総大将に[[徳川慶勝]]([[尾張藩]]主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での[[勝海舟]]との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、[[椋梨藤太]]ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し[[長府]][[功山寺]]にて挙兵([[功山寺挙兵]])。翌年初頭、藩中枢部の籠もる[[萩城]]を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中[[小笠原長行]]([[唐津藩]]世子)・[[勘定奉行]][[小栗忠順]]ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。


一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった[[兵庫津|兵庫]]([[神戸港]])問題を巡って、英国[[公使]][[ハリー・パークス|パークス]]が主導する英仏蘭米連合艦隊が[[慶応]]元年([[1865年]])9月、兵庫沖に迫った([[兵庫開港要求事件]])。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は関の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中[[阿部正外]]・[[松前崇広]]らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税の改正というイギリスの目的も達成された([[改税約書]])ことで四国艦隊は兵庫沖から去った。
一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった[[兵庫津|兵庫]]([[神戸港]])問題を巡って、英国[[公使]][[ハリー・パークス|パークス]]が主導する英仏蘭米連合艦隊が[[慶応]]元年([[1865年]])9月、兵庫沖に迫った([[兵庫開港要求事件]])。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中[[阿部正外]]・[[松前崇広]]らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税の改正というイギリスの目的も達成された([[改税約書]]。輸入関税が引き下げられたことにより、日本の輸入は急増し、また大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受ける)ことで四国艦隊は兵庫沖から去った。


こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使[[ハリー・パークス]]、[[アーネスト・サトウ]]の助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士[[坂本龍馬]]や、同じく土佐浪士で[[下関市|下関]]に逼塞していた三条実美らに従っていた[[中岡慎太郎]]らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年([[1866年]])正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、'''[[薩長同盟]]'''の密約が締結された。
こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使[[ハリー・パークス]]、[[アーネスト・サトウ]]の助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士[[坂本龍馬]]や、同じく土佐浪士で[[下関市|下関]]に逼塞していた三条実美らに従っていた[[中岡慎太郎]]らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年([[1866年]])正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、'''[[薩長同盟]]'''の密約が締結された。
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==国際関係==
==国際関係==
「'''[[開国]]の時代'''」が幕末であるが、この幕末には多くの[[不平等条約]]が締結された。従って、徳川幕府や、これを倒した[[明治政府]]は、不平等条約の撤廃を目指した。

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===日米関係===
[[嘉永]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1854年]] [[3月31日]])に調印された[[日米和親条約]]に基づき、[[安政]]3年 [[7月21日 (旧暦)|7月21日]]([[1856年]][[8月21日]])初代[[在日本アメリカ合衆国大使|米国領事]][[タウンゼント・ハリス]]が来日した。ハリスはまず日米和親条約の追加条項の交渉を行い、それが下田協約として締結されると、[[安政]]4年 [[12月11日 (旧暦)|12月11日]] ([[1858年]][[1月25日]])から[[日米修好通商条約]]の交渉を開始し、同年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1858年]][[7月29日]])に調印にいたった(この時点でハリスは[[公使]]に昇進し、公使館を江戸[[善福寺 (東京都港区)| 善福寺]]に開いた)。この交渉において、[[岩瀬忠震]]は批准書の交換を米国で行うことを提案し、受け入れられた([[万延元年遣米使節]])。使節は[[万延]]元年閏[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1860年]][[5月17日]])に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン]][[アメリカ合衆国|大統領]]に謁見・批准書を渡した。また途中多くの近代的施設を見学し、西洋文明の一端に触れた。

このように開国初期における日本の対外関係は米国が中心であった。ハリスは欧州特に英国とは異なる外交路線を採用しており、英国公使[[ラザフォード・オールコック]]からは「幕府寄り過ぎる」とみなされることもあった。日米修好通商条約の交渉中、ハリスは「調印が遅れれば英国が軍事力を背景により厳しい条件での条約を押し付けてくるので、米国と日本にとって有利な条件で条約を結ぶべき」と幕閣に述べており、実際幕府が一般品の関税として12.5%を提示したのに対し、ハリスはより高い20%を提案・合意した。これは同年に[[清]]が押し付けられた[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の7.5%に比べるとずっと有利でった([[安政五カ国条約]]はいわゆる「[[不平等条約]]」であるが、調印時点で幕府にとって特に不利な条約だった訳ではない。関税は妥当であり、[[領事裁判権]]を認めることを、幕府はむしろ歓迎した。また、天津条約と異なり外国人の国内旅行が制限されるなど外国人にとって不平等な条項も含まれていた)。[[攘夷]]運動が盛んになり、各国の公使館が江戸から横浜に引き上げた後も、ハリスは江戸に留まった。幕府の内情にも通じており、[[両都両港開市開港延期問題|新潟・兵庫・江戸・大坂の開港・開市の延期]]を幕府が求めた際も、これに同意している。

しかし、[[1861年]]4月に[[南北戦争]]が始まった後は、米国の日本に対する影響力は小さくなった。ハリスに代わり、[[文久]]2年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]] ([[1862年]][[5月17日]])に新公使 [[ロバート・プルイン]]が着任した。プルインも当初はハリスの独自外交を踏襲した。しかし、米国商船が長州藩から砲撃を受けた後は([[下関戦争#長州藩の攘夷決行|下関事件]])、英仏との協調路線に変更した。プルインは[[富士山 (スループ)|富士山丸]]発注に関して問題を起こし、幕府の信頼を失ってしまったため、[[慶応]]元年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]([[1865年]][[4月28日]])[[アントン・ポートマン]]を代理公使として、任期半ばで帰国した。慶応元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1866年]][[1月18日]])に3代公使として[[ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグ]]が着任したが、目立った業績はない。

===日英関係===
[[1849年]]に[[広東]]領事(1854年から香港総督)となったジョン・バウリング([[:en:John Bowring|John Bowring]])は、海軍力を背景とする交渉により、和親条約ではなく一挙に日本との通商条約の締結を目指していた。しかし、クリミア戦争の発生によって、英国はアジア地域に十分な軍事力を振り分けることができなくなってしまった。東インド艦隊司令官[[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|スターリング]]は、敵国となったロシアのプチャーチンを追って長崎に入港したが、このとき[[長崎奉行]][[水野忠徳]]は半ば強引に[[日英和親条約]]を結んだ。結果として英国は米国と同じ権利しか獲得することが出来ず、通商条約締結という思惑は実現しなかった。この条約に対してバウリングは反対したが、ロシアと戦争状態にある現状では箱館を英国船が利用出来るメリットがあるとされ、結局批准されている。その後も[[アロー戦争]]があり、英国は日本との外交にリソースを割くことができず、[[日英修好通商条約|通商条約]]に関しても、米国に遅れをとることとなった。初代[[駐日英国大使|英国公使]](着任時は総領事)[[ラザフォード・オールコック]]は、[[安政]]6年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]([[1859年]][[7月11日]])に[[江戸城]]に登城、批准書の交換が行われた。公使館は[[高輪]][[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]]とされた。

[[万延]]元年([[1860年]])、攘夷派との妥協策として、幕府は安政五カ国条約で約束されていた[[両都両港開市開港延期問題|兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市延期]]を条約締結国に申し入れた。米国公使ハリスはこれを受け入れたが、オールコックは「条約は遵守すべき」として反対であり、「そのような重大な変更は、条約締結国に使節を派遣して議論すべき」とした。[[文久]]元年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]([[1861年]][[7月5日]])には、英国公使館が襲撃され、オールコックは難を逃れたが、公使館員2人が負傷した([[東禅寺事件#第一次東禅寺事件|第一次東禅寺事件]])。事件後の[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]と[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[1861年]][[8月14日]]、[[8月15日]])オールコックは、[[老中]][[安藤信正]]、[[若年寄]][[酒井忠ます]]との秘密会談を持ち、幕府権力の低下を素直に打ち明けられた(また、この会談でオールコックは[[ロシア軍艦対馬占領事件]]に解決のために英国海軍が支援することを提案し、実行されている)。この結果、オールコックは開港・開市に反対することは得策でないと考えを変え、ヨーロッパに派遣される[[文久遣欧使節]](開市開港延期交渉使節)を積極的に支援することとした。オールコックは自身の賜暇帰国を利用して、使節と共に英国本国政府との交渉に当たり、文久2年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]([[1862年]][[6月6日]])[[ロンドン覚書]]に調印、開港・開市の5年間の延期が認められた。またオールコックは使節一行が[[ロンドン万国博覧会 (1862年)| ロンドン万国博覧会]]の開会式に出席できるように取り計らい、またフランス公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|ベルクール]]らと協力して、使節一行が欧州の進んだ文明・工業を学べるように手配した。

オールコックが賜暇帰国中、英国代理公使は[[ジョン・ニール]]が務めたが、この間に日英関係は最大の危機を迎えた。文久2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1862年]][[6月26日]])、英国公使館は再び襲撃された([[東禅寺事件#第二次東禅寺事件|第二次東禅寺事件]])。さらに、文久2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]](1862年[[9月14日]])に[[生麦事件]]が発生した。幕府に攘夷派取り締まりを促すために、英国東インド艦隊司令[[ジェームズ・ホープ]]は、必要があれば日本の海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を考慮することを提案した。この提案は[[1863年]][[1月9日]]にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で勅令を得ている。英国は、第二次東禅寺事件の賠償金として1万ポンド、生麦事件の賠償金として10万ポンドを幕府に要求した。交渉は難航したが、賠償金支払日を文久3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]](1863年[[6月18日]])にすることで決着した。ところが、そのころ京都では[[徳川家茂]]が[[孝明天皇]]に[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]を持って攘夷を実行するこを約束しており、この影響を受けて幕府は支払いの延期を通告した。ニールは激怒し、幕府に対する軍事行動を新任の東インド艦隊司令[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]に委ねた。まさに戦争直前の状態となったが、[[老中]][[小笠原長行]] の独断によって、攘夷実行前日の[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]に賠償金11万ポンドが一括して支払われ、幕府と英国間の戦争は避けられた。幕府との交渉が成立した後、ニールは自ら鹿児島に赴いて薩摩藩との交渉を行うこととした。が、交渉は決裂して、[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]、戦闘が発生した([[薩英戦争]])。[[10月5日 (旧暦)|10月5日]] には薩英戦争の講和成立が成立したが、この交渉は、薩摩と英国が接近するきっかけとなった。

5月10日の攘夷実行命令に基づき、長州藩は下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を開始し、関門海峡は通行不能となっていた。文久4年2月(1864年3月)、賜暇が終わり日本に戻ったオールコックは、長州藩への武力攻撃を行い、「攘夷が不可なることを知らしめる」こととした。オールコックは仏・蘭・米の公使の合意を得、[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]、 四カ国連合艦隊は、下関の砲台を砲撃、さらに陸戦隊を上陸させ占領した([[下関戦争]])。しかし、この行動は、本国政府からは「やり過ぎ」と見なされ、オールコックは本国に召喚されてしまった。なお、この事件を通じて、英国は長州藩との間にも関係を構築した。

下関戦争の賠償金は300万ドルという巨額なものとなったが、支払いは幕府が行うこととなった。新任の公使[[ハリー・パークス]]は、賠償金を減額してでも、兵庫を早期開港させたほうが英国にとってメリットが大きいと考えた。当時、将軍徳川家茂以下の主要幕閣は京都に滞在していた。このため、パークスは条約勅許(この考えは通訳の[[アーネスト・サトウ]]が[[伊藤博文]]から聞いていた)と兵庫の早期開港を求めるため、仏・蘭・米を誘い、軍艦8隻を引き連れて、[[慶応]]元年 [[9月16日 (旧暦)|9月16日]] ([[1865年]][[11月4日]])に兵庫沖に来航し、強圧的な交渉を行った([[兵庫開港要求事件]])。結果、兵庫の早期開港は認められなかったものの、[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[11月22日]]) に[[安政五カ国条約]]に対する勅許がおりた。加えて、関税の見直しに関する合意も得、翌慶応2年 [[5月13日 (旧暦)|5月13日]] ([[1866年]][[6月25日]])に[[改税約書]]が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられた。結果として、日本の輸入は急増し、一部の産業は大打撃を受けることとなった。

パークスは、本国の方針に従い、あくまで内政不干渉の立場を維持した。しかし、影響力を持った何人かの大名の領地を自分自身で訪問した他、部下のサトウや[[アルジャーノン・ミットフォード|ミットフォード]]、さらには民間人の[[トーマス・グラバー]]らを使って、「[[志士|維新の志士]]」たちとも積極的に接触した。但し、[[徳川慶喜]]に関しては非常に高く評価しており、幕府の瓦解を予想していたわけではない。が、同時にそのような事態に備えて、天皇宛のビクトリア女王の信任状を予め本国政府に要求していた。このため、新政府成立後の慶応4年閏[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[1868年]][[5月22日]])、いち早く新政府を承認することができた。

戊辰戦争に関しては、英国は局外[[中立]]を宣言し、他国もこれに追従した。また、パークスは新政府軍の江戸城総攻撃に関しては「無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは[[万国公法]]に反する」として反対し、[[江戸無血開城]]の一因となったとも言われている。

===日仏関係===
日本とフランスの間に和親条約は結ばれておらず、[[安政]]5年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]([[1858年]][[10月9日]])の[[日仏修好通商条約]]が両国間の最初の条約となった。翌安政6年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1859年]][[9月6日]])、初代領事(後公使)[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール]] が着任した。ベルクールは基本的には英国と共同歩調をとっており、[[生麦事件]]後に英国が軍事行動を起こすことがあれば、横浜の防衛はフランスが引き受けることとなっていた。しかし、生麦事件の交渉の後、ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようになった。[[文久]]3年([[1863年]])秋に幕府は横浜の鎖港を言い始めたが、各国の公使がこれを拒否する中、ベルクールだけは理解を示し、[[横浜鎖港談判使節団]]の派遣を支援した。文久4年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[1864年]][[4月27日]])、ベルクールはその任務を後任の[[レオン・ロッシュ]]に譲ったが、老中はフランス政府にベルクールの留任を嘆願するほどであった。このため、ロッシュも幕府と親密な関係を築くことができ、フランスは幕府の政策により積極的に関与していくことになる。

[[元治]]元年8月(1864年9月)、幕府は[[翔鶴丸]]の修理を[[横浜]]停泊中の[[フランス]]軍艦乗員に依頼した。この際のフランス側の作業の誠実さから、幕府はフランスを強く信頼するようになり、[[横須賀製鉄所]]の建設をフランスに依頼し、翌[[慶応]]元年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]] ([[1865年]][[10月13日]])に着工された。建設資金は240万ドルと見積もられた。当初はこの支払のため、幕府が直接生糸を輸出することが計画されたが、英国の反対にあい実現しなかった。

さらにロッシュは[[小栗忠順]]に要望され、600万ドル の借款を支援し、慶応2年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]([[1866年]][[9月28日]])に契約は一旦成立した。小栗はこの600万ドルで幕府の軍備増強を行い、薩摩・長州を打倒し幕府を中心とした中央集権国家を作り、日本の近代化を達成する計画だった。[[11月5日 (旧暦)|11月15日]] ([[12月11日]])、ロッシュは[[徳川慶喜]]の依頼により幕政改革を提言し、そのいくつかは[[慶応の改革]]として実現した。しかし、本国の外務大臣が交代し、対英協調策をとるようになったことから、借款は中止され、ロッシュは本国から見放される形となった。[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗北後、徳川慶喜は江戸に戻ったが、ロッシュは3度にわたり登城し、慶喜に再起を促した。しかし慶喜はこれを拒否した。まもなくロッシュは公使を罷免され、後任のマキシミリアン・ウートレーは英国との共同路線をとった。

===日蘭関係===
オランダは鎖国中も[[出島]]での交易を許されていたが、[[弘化]]元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1844年]][[8月14日]])に入港したパレンバン号は、オランダ国王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]の親書を携えており、開国を求めたが、幕府はこれを拒否した。[[嘉永]]5年6月([[1852年]]7月)、[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]が到着、[[出島]]の[[カピタン|オランダ商館長]]となったが、これは開国を見越した人事であり、クルティウスは外交官として活動できる資格を有していた。クルティウスは[[オランダ風説書]]でペリーの来航を予告するとともに、東インド総督・バン・トゥイストの通商条約素案を提出したが、交渉には至らなかった。

嘉永6年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]([[1853年]][[7月8日]])にペリーが来航、翌年の再訪を告げて立ち去ったが、幕府は開国に備えクルティウスを通じ、軍艦の発注と乗員の訓練の申し出を行った。この申し出は、翌嘉永7年2月に来航したスムービング号のファヴィウス艦長と[[長崎奉行]][[水野忠徳]]の間でより具体化し、嘉永7年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]](1854年11月11日)、オランダにコルベット2隻([[咸臨丸]]及び[[朝陽丸]])が発注された。さらに、安政2年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]10月24日([[1855年]][[12月3日]])には[[長崎海軍伝習所]]が設立され、オランダは練習船としてスムービング号を寄贈した(後の[[観光丸]])。[[ヘルハルト・ペルス・ライケン]](第一次)、[[ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ]](第二次)を団長とする教官団が派遣された。この功績が認められ、安政2年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]([[1856年]][[1月30日]])には[[日蘭和親条約]]が調印され、クルティウスは駐日オランダ理事官となった。

安政5年([[1858年]])春、クルティウスと秘書官のポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)は江戸に出て、通商条約の交渉を開始し、日米修好通商条約には1ヶ月程遅れたが、安政5年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]] ([[1858年]][[8月18日]])[[日蘭修好通商条約]]調印にこぎつけた。ポルスブルックは文久3年6月([[1863年]]7月)に公使となったが、[[下関戦争]]や[[兵庫開港要求事件]]の際は、英仏米と共同歩調をとった。また、ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に 積極的に関与した。

長崎海軍伝習所は、安政6年([[1859年]])に資金不足を理由に閉鎖されてしまったが、文久2年([[1862年]])には幕府海軍最大の軍艦となる[[開陽丸]]をオランダが受注。軍艦引受をかねて、[[榎本武揚]]ら15人の留学生がオランダに派遣された。慶応3年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1867年]][[5月20日]])、開陽丸は幕府へと引き渡された。

海軍伝習所から派生した[[長崎英語伝習所]]や[[長崎養生所]]は、名前を変えて現在も存続している。そこでは、[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]、[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|ポンペ]]、[[アントニウス・ボードウィン|ボードウィン]]、[[クーンラート・ハラタマ|ハラタマ]]らが教育に尽力し、幕末・明治初期の人材育成に貢献した。

===日露関係===
地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。[[安永]]7年([[1778年]])には[[ヤクーツク]]の商人[[パベル・レベデフ=ラストチキン]]が[[蝦夷]][[厚岸町|厚岸]]に来航しており、[[寛政]]4年([[1792年]])には[[アダム・ラクスマン]]が通商を求めてきた。

[[嘉永]]6年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]([[1853年]][[8月22日]])、ペリーより約1ヶ月遅れて[[エフィム・プチャーチン]]が長崎に来航し、[[日露和親条約]]の交渉が始まったが、調印は[[安政]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]([[1855年]][[2月7日]])と、後から交渉が始まった[[日英和親条約]]より遅れた。これは日露和親条約で日露国境の問題が話し合われたためであるが、[[樺太]]の国境に関しては決着せず両国の混在地とされた。その後、安政6年7月([[1859年]]8月)の[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー|ムラヴィヨフ]]来航、[[文久]]2年7月([[1862年]]8月)の[[文久遣欧使節]]ロシア訪問時にも話し合いが持たれたが決着せず、ようやく[[慶応]]3年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]([[1867年]][[3月30日]])に[[日露間樺太島仮規則]]が仮調印されたが、幕府はこれを批准しなかった。国境問題は、[[明治]]8年([[1875年]])[[5月7日]]の[[樺太・千島交換条約]]によって一応の決着を見た。

ロシアは他国と異なり、総領事館を[[箱館]]においていたため、日本の内政問題に関わることは殆ど無かった。しかし[[文久]]元年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[1861年]][[3月14日]])から約半年間、ロシア軍艦[[ポサードニク (コルベット)| ポサードニク]]が対馬芋先を占拠する事件がおきている。幕府は単独では対処できず、英国の介入によりロシア軍艦を退去させることとなった。


==出来事 ==
==出来事 ==
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== 施設 ==
== 施設 ==
* 幕府
* [[適塾]]
* [[松下村塾]]
** [[昌平坂学問所]]
** [[蛮書和解御用]]・[[蕃書調所]]・[[開成所]]
* [[講武所]]
* [[海軍伝習所]]
** [[横浜仏語伝習所]]
* [[昌平坂学問所]]
** [[長崎英語伝習所]]
* [[長崎海軍伝習所]]
** [[長崎養生所]]
* [[神戸海軍操練所]]
** [[講武所]]
* [[三重津海軍所]]
** [[長崎海軍伝習所]]
** [[軍艦操練所|築地軍艦操練所]]
* [[蛮書和解御用]]
* [[横浜仏語伝習所]]
** [[神戸海軍操練所]]
** [[横須賀製鉄所]]
** [[関口製造所]]
* 諸藩
** [[三重津海軍所]]
** [[集成館事業|集成館]]
* 私塾
** [[適塾]]
** [[松下村塾]]


== 幕末の思想 ==
== 幕末の思想 ==
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** [[千代田形]] - 幕府建造。唯一の国産蒸気軍艦。
** [[千代田形]] - 幕府建造。唯一の国産蒸気軍艦。
* 外国製艦船
* 外国製艦船
** [[観光丸]] - オランダより幕府に寄贈された元オランダ軍艦。
** [[観光丸]] - オランダより幕府に寄贈された元オランダ軍艦。外輪
** [[咸臨丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。
** [[咸臨丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。
** [[朝陽丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。
** [[朝陽丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。
** [[電流丸]] - 佐賀藩がオランダに発注し新造。
** [[電流丸]] - 佐賀藩がオランダに発注し新造。
** [[回天丸]] - 幕府が輸入した元ドイツ軍艦。
** [[回天丸]] - 幕府が輸入した元ドイツ軍艦。外輪
** [[高雄丸]] - 秋田藩が輸入した元アメリカ船。
** [[高雄丸]] - 秋田藩が輸入した元アメリカ船。
** [[富士山 (軍艦)|富士山丸]] - 幕府がアメリカに発注し新造。
** [[富士山 (軍艦)|富士山丸]] - 幕府がアメリカに発注し新造。
** [[開陽丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。幕末前後に日本最大の軍艦だった。
** [[開陽丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。幕末前後に日本最大の軍艦だった。
** [[東艦]] - 幕府が輸入契約した元アメリカ軍艦。明治政府が取得。幕末前後に日本唯一の[[装甲艦]](甲鉄艦)だった。
** [[東艦]] - 幕府が輸入契約した元アメリカ[[アメリカ連合国|南軍]]軍艦(フランス製)。明治政府が取得。幕末前後に日本唯一の[[装甲艦]](甲鉄艦)だった。


=== 要塞 ===
=== 要塞 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[野田勝一]]、[[富田政信]]編『維新資料』 
*[[野田勝一]]、[[富田政信]]編『維新資料』 
*[[福地源一郎|福地桜痴]]『幕末政治家』[[1900年]]([[岩波文庫]]、[[2003年]] ISBN 4-00-331861-7)
*[[福地源一郎|福地桜痴]]『幕末政治家』[[1900年]]([[岩波文庫]]、[[2003年]] ISBN 4-00-331861-7)
*[[日本歴史学会]]編『明治維新人名辞典』[[吉川弘文館]]、[[1981年]] ISBN 978-4-642-03114-1
*[[日本歴史学会]]編『明治維新人名辞典』[[吉川弘文館]]、[[1981年]] ISBN 978-4-642-03114-1
*[[宮崎十三八]]他編『幕末維新人名辞典』[[新人物往来社]]、[[1994年]] ISBN 978-4-404-02063-5
*[[宮崎十三八]]他編『幕末維新人名辞典』[[新人物往来社]]、[[1994年]] ISBN 978-4-404-02063-5
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*『幕末大全 上巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ73〉、[[2004年]] ISBN 978-4-056-03402-8
*『幕末大全 上巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ73〉、[[2004年]] ISBN 978-4-056-03402-8
*『幕末大全 下巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ74〉、2004年 ISBN 978-4-056-03403-5
*『幕末大全 下巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ74〉、2004年 ISBN 978-4-056-03403-5
*[[小西四郎]]『開国と攘夷』[[中公文庫]]〈日本の歴史19〉、改版[[2006年]] ISBN 978-4-122-04645-0
*[[小西四郎]]『開国と攘夷』[[中公文庫]]〈日本の歴史19〉、改版[[2006年]] ISBN 978-4-122-04645-0
*[[井上勝生]]『幕末・維新』[[岩波新書]]〈シリーズ日本近現代史1〉、2006年 ISBN 978-4-004-31042-6
*[[井上勝生]]『幕末・維新』[[岩波新書]]〈シリーズ日本近現代史1〉、2006年 ISBN 978-4-004-31042-6
*[[アーネスト・サトウ]]著『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫) ISBN 978-4003342510
*[[萩原延壽]]著 『遠い崖―サトウ日記抄』全14巻  [[朝日新聞社]]/新版 [[朝日文庫]]、2008年
*[[佐野真由子]]著 『オールコックの江戸』 [[中公新書]]、[[2004年]]。ISBN 978-4121017109
*西堀昭著[http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/657/1/KJ00000160085.pdf 『初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(1)』]横浜国立大学・横浜経営研究13巻4号(1993)、P357-365
*西堀昭著[http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/690/1/KJ00000160139.pdf 『初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(2)』]横浜国立大学・横浜経営研究14巻4号(1994)、P389-397
*鵜飼政志著 [http://www.h-web.org/mrugai/private/1999a.html 『幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー』]
*鵜飼政志著[http://www.h-web.org/mrugai/private/1999ba.html 『一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策』]
*鵜飼政志著[http://www.h-web.org/mrugai/private/2002d.pdf 『イギリスの対露情報収集活動 - 一八六五~六年のサハリン島視察』]
*[http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/ed-end01frame.htm 甲斐素直 歴史随筆 維新の風雲財政録 幕末編]


== 幕末の日本見聞記 ==
== 幕末の日本見聞記 ==

2011年5月3日 (火) 05:17時点における版

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っている時代(江戸時代)の末期を指す。通常は、黒船来航1853年)から戊辰戦争1869年)までの時代を指す。

概説

幕末の期間に関する厳密な定義はないが、1853年7月8日嘉永6年旧暦6月3日)の黒船、即ちマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍サスケハナ号ミシシッピ号サラトガ号、プリマス号による艦隊の来航から、1867年11月9日慶応3年旧暦10月14日)に徳川慶喜大政奉還を行って徳川幕府が日本の全国政権としての地位を失い、翌1868年5月3日旧暦4月11日)に江戸城明治政府軍に明け渡されて徳川幕府が崩壊する時までとする見方が、一般的である。大政奉還、旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)、幕藩体制が完全に終わった廃藩置県1871年8月29日)なども終期となりうる。

幕末は、徳川将軍家の当主が征夷大将軍に就き、幕府の主宰者として君臨する幕藩体制が衰えて死に行く過程である。その一方で、鎖国すなわち海禁政策を抛棄して開港し、外国との通商貿易の開始によって日本が世界的な資本主義市場経済植民地主義に組み込まれ、社会自体が劇的に変化していく発端でもある。この幕末の過程は、多くの文学作品に描かれており、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』などが挙げられる。

政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、不平等条約が締結された幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国1854年)から第二次世界大戦敗北1945年)までを「近代」とする見方も存在する。このうち、不平等条約の締結から完全撤廃まで、即ち1854年から1911年までの時期は「幕末・明治」として一括されて呼ばれる事も多い。

幕末の思想の特徴は、幕藩体制の根拠を説明しあるいは批判するもの、またその体制に代わり得るあたらしい国家像を模索することである。更に、天皇や徳川将軍といった権威と権力の源泉についてのあらたな意味づけを模索している点も、大きな特徴の一つである。

幕末時代に最も力と意味を持った思想潮流は、「尊王攘夷」の思想であると言われている。新たな国家像や天皇像もまた、この思想との関わり構築されていった。

政治史

条約締結と将軍継嗣問題(1853年 - 1858年)

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭水戸藩主)らや、松平慶永越前藩主、のち春嶽)・島津斉彬薩摩藩主)ら親藩外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動のなか、将軍徳川家慶が死去。子の家定が13代将軍に就任する。

安政元年(1854年正月に再来したペリーは、重ねて開国を要求。全権の林復斎(大学守)らとの交渉により、日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。同年末までに、ロシア帝国プチャーチン川路聖謨らの交渉により日露和親条約が、英国のスターリング水野忠徳の交渉で日英和親条約が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。開国以前より継続していた活動は安政の改革と呼ばれ、勝海舟もこの動きの中から注目される。

日米和親条約では、薪水の給与のための下田箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、米国はハリスを下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった堀田正睦は徳川斉昭の反対を承知しながらハリスを下田より上府させ、結果として斉昭は海防参与を辞す。ハリスは江戸で第二次アヘン戦争におけるの敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を締結する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながら通商条約締結は不可避と判断した。

堀田は孝明天皇勅許を求めるべく、京都において関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(廷臣八十八卿列参事件)、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題)。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した。また島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。

安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)

安政5年(1858年)4月大老に就任した井伊直弼彦根藩主)は、条約問題と将軍継嗣問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま井上清直岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を締結させた。領事裁判権を認め、関税自主権を有さず、かつ片務的最恵国待遇を課した不平等条約であり(但し、領事裁判権はむしろ幕府が求めたものであり、関税に関してもこの時点では妥当なものであった。むしろ問題は金銀等価交換を認めたことであった→幕末の通貨問題)、同様な条約がイギリスフランスオランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。開市開港は段階的に行うとされたが、この時期についてはロンドン覚書調印により時期をずらすことになる。また将軍職については、5月紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は10月)。

こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受けることとなった。また、京都を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも井伊の指示を受けて、老中間部詮勝鯖江藩主)らが取り締まりを行った。これにより、橋本左内・梅田雲浜頼三樹三郎らが処刑され、また長州藩)で私塾・松下村塾を開いていた吉田松陰なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に幕府・関白を介さず、朝廷から直接水戸藩へ勅書が出された件(→戊午の密勅)は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。

安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、安政7年3月3日1860年3月24日)、江戸城登城の途中の井伊を桜田門外にて襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。

公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)

開国・貿易開始以降、内外の金銀比価が違ったために金貨が大量に流出した。その対策として低品位の万延小判を発行したが、既存の小判を含有金量に応じて増歩通用としたために混乱を招き、外国商人が主力輸出商品となった生糸などを高値で買い付けたことによる、品不足と物価の高騰が生じた。このため、開国策への批判が噴出し、外国人排斥の攘夷思想が次第に隆盛し、各地で異人斬りが横行する。また、国学思想から来る尊王思想と結びついて「尊王攘夷」運動として幕府批判へつながっていった。

井伊死後、老中の久世広周関宿藩主)・安藤信正磐城平藩主)らが幕政を主導し、失墜した幕府の権力を復活させるため、朝廷との提携(公武合体)を模索する。新将軍家茂と、孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王との婚姻である。和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約がすでにあり、外国人のいる関東へ行かせたくないと難色を示した孝明天皇も、公武合体には基本的に賛成であり、岩倉具視らの進言もあって最終的に家茂への降嫁を認めた。しかし、幕権強化のために朝廷を利用することは尊王派の怒りを買い、文久2年(1862年)正月、老中安藤は江戸城坂下門外で襲撃され、一命は取り留めたが後に失脚した(坂下門外の変)。

いっぽう、長州藩の長井雅楽が主導する「航海遠略策」が幕府の賛同を得て公武一和の具体策として浮上する。長井は老中久世・安藤らから朝廷への周旋を依頼される。しかし、同藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)や久坂玄瑞久留米神官真木和泉ら尊王攘夷派は反対、長井は失脚させられ、以後長州の藩論は尊王攘夷の最過激派へと転換される。

また同じ時期、薩摩藩主の父で前藩主斉彬の弟・島津久光が、亡き兄の遺志を継ぎ、幕政改革を志して兵を率いて上京した。この動きを倒幕への準備と見誤った同藩の尊攘派が久光によって鎮圧される事件が発生したものの(→寺田屋騒動)、久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職松平容保会津藩主)を京都守護職とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた(→文久の改革)。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中、生麦村で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→生麦事件)。

幕府をさらに追い込むべく三条実美姉小路公知ら尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を起こす。文久3年(1863年)家茂は将軍としては200年ぶり(3代家光以来)の上洛をするが、5月10日の攘夷決行を約束させられた。

約束の日である5月10日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし同月末に外国船に反撃され、砲台を占拠されるなど、実際には攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→下関事件)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊を結成、それに続いて諸隊が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。

また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから7月2日薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→薩英戦争)。鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟ることとなった。この交渉によりイギリスと薩摩は接近、イギリスは幕府が自由貿易の利益を独占している現状に外様大名は不満がある点を知る。横浜開港により江戸への物資廻走が滞り、経済真混乱や物価の高騰により生糸輸出制限をしていた幕府に対し自由貿易の条約遵守を求めるイギリスは態度を変化させていた。

尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年)

この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化。逆に尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件(朔平門外の変)も起き、犯行に関与したとみられた薩摩藩など公武合体派の勢力が一時低下した。尊攘派の擡頭により朝廷・幕府政治の混乱が起きていることを憂えた孝明天皇の意をくみ、中川宮朝彦親王は極秘に会津藩・薩摩藩に長州藩の追放を命ずる。文久3年8月18日(1863年9月30日)に、宮廷の御門を制圧した会津・薩摩は、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州への撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変七卿落ち)、長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した。

いっぽう文久3年12月には徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城宇和島藩主)・島津久光による初の諸侯会議となる参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた。幕府を代表する慶喜は神奈川鎖港を主張。この時期に至って条約の破棄はできないとする春嶽・久光は帰国して翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。

この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光吉村寅太郎池内蔵太土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石岡山藩士)、さらには河内大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。また土佐藩では一藩勤皇を唱えた武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。

さらに水戸藩では元治元年(1864年)3月、藤田小四郎武田耕雲斎天狗党筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。

このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに同じ頃、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。

薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年)

逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での勝海舟との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中小笠原長行唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。

一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭米連合艦隊が慶応元年(1865年)9月、兵庫沖に迫った(兵庫開港要求事件)。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は下関戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中阿部正外松前崇広らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税の改正というイギリスの目的も達成された(改税約書。輸入関税が引き下げられたことにより、日本の輸入は急増し、また大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受ける)ことで四国艦隊は兵庫沖から去った。

こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使ハリー・パークスアーネスト・サトウの助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。

幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。6月に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。

大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年)

家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受け将軍就任。しかし同月に天然痘に罹った孝明天皇が同月25日に崩御。翌・慶応3年1月9日に睦仁親王が践祚した(明治天皇)。

慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、6月22日には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから9月7日盟約は解消。結局土佐藩は10月3日単独で山内容堂が老中に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・藝州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之正親町三条実愛らによって、慶応3年10月14日1867年11月9日)に討幕の密勅が下された。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を採用し、同じ10月14日に大政奉還を明治天皇に奏請しており(在京各藩士には前日に二条城にて諮問していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。

しかし、慶喜は将軍職は10月24日に辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。慶応3年12月9日1868年1月3日)に、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂は猛反対するが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。

戊辰戦争(1868年 - 1869年)

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌・慶応4年(1868年)の正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始した。1月3日鳥羽街道伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩安濃津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。旧幕軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の干支戊辰)に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日旧暦9月8日)には慶応から明治に改元された。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道中山道北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東北越南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。

幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索するが(いわゆる「蝦夷共和国」)、箱館戦争の結果翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名知藩事となり、家臣とも分離された。明治4年旧暦7月14日1871年8月29日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。

国際関係

日米関係

嘉永7年3月3日1854年 3月31日)に調印された日米和親条約に基づき、安政3年 7月21日1856年8月21日)初代米国領事タウンゼント・ハリスが来日した。ハリスはまず日米和親条約の追加条項の交渉を行い、それが下田協約として締結されると、安政4年 12月11日1858年1月25日)から日米修好通商条約の交渉を開始し、同年6月19日1858年7月29日)に調印にいたった(この時点でハリスは公使に昇進し、公使館を江戸 善福寺に開いた)。この交渉において、岩瀬忠震は批准書の交換を米国で行うことを提案し、受け入れられた(万延元年遣米使節)。使節は万延元年閏3月25日1860年5月17日)にワシントンブキャナン大統領に謁見・批准書を渡した。また途中多くの近代的施設を見学し、西洋文明の一端に触れた。

このように開国初期における日本の対外関係は米国が中心であった。ハリスは欧州特に英国とは異なる外交路線を採用しており、英国公使ラザフォード・オールコックからは「幕府寄り過ぎる」とみなされることもあった。日米修好通商条約の交渉中、ハリスは「調印が遅れれば英国が軍事力を背景により厳しい条件での条約を押し付けてくるので、米国と日本にとって有利な条件で条約を結ぶべき」と幕閣に述べており、実際幕府が一般品の関税として12.5%を提示したのに対し、ハリスはより高い20%を提案・合意した。これは同年にが押し付けられた天津条約の7.5%に比べるとずっと有利でった(安政五カ国条約はいわゆる「不平等条約」であるが、調印時点で幕府にとって特に不利な条約だった訳ではない。関税は妥当であり、領事裁判権を認めることを、幕府はむしろ歓迎した。また、天津条約と異なり外国人の国内旅行が制限されるなど外国人にとって不平等な条項も含まれていた)。攘夷運動が盛んになり、各国の公使館が江戸から横浜に引き上げた後も、ハリスは江戸に留まった。幕府の内情にも通じており、新潟・兵庫・江戸・大坂の開港・開市の延期を幕府が求めた際も、これに同意している。

しかし、1861年4月に南北戦争が始まった後は、米国の日本に対する影響力は小さくなった。ハリスに代わり、文久2年4月19日1862年5月17日)に新公使 ロバート・プルインが着任した。プルインも当初はハリスの独自外交を踏襲した。しかし、米国商船が長州藩から砲撃を受けた後は(下関事件)、英仏との協調路線に変更した。プルインは富士山丸発注に関して問題を起こし、幕府の信頼を失ってしまったため、慶応元年3月23日1865年4月28日アントン・ポートマンを代理公使として、任期半ばで帰国した。慶応元年12月2日1866年1月18日)に3代公使としてロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグが着任したが、目立った業績はない。

日英関係

1849年広東領事(1854年から香港総督)となったジョン・バウリング(John Bowring)は、海軍力を背景とする交渉により、和親条約ではなく一挙に日本との通商条約の締結を目指していた。しかし、クリミア戦争の発生によって、英国はアジア地域に十分な軍事力を振り分けることができなくなってしまった。東インド艦隊司令官スターリングは、敵国となったロシアのプチャーチンを追って長崎に入港したが、このとき長崎奉行水野忠徳は半ば強引に日英和親条約を結んだ。結果として英国は米国と同じ権利しか獲得することが出来ず、通商条約締結という思惑は実現しなかった。この条約に対してバウリングは反対したが、ロシアと戦争状態にある現状では箱館を英国船が利用出来るメリットがあるとされ、結局批准されている。その後もアロー戦争があり、英国は日本との外交にリソースを割くことができず、通商条約に関しても、米国に遅れをとることとなった。初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックは、安政6年6月12日1859年7月11日)に江戸城に登城、批准書の交換が行われた。公使館は高輪東禅寺とされた。

万延元年(1860年)、攘夷派との妥協策として、幕府は安政五カ国条約で約束されていた兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市延期を条約締結国に申し入れた。米国公使ハリスはこれを受け入れたが、オールコックは「条約は遵守すべき」として反対であり、「そのような重大な変更は、条約締結国に使節を派遣して議論すべき」とした。文久元年5月28日1861年7月5日)には、英国公使館が襲撃され、オールコックは難を逃れたが、公使館員2人が負傷した(第一次東禅寺事件)。事件後の7月9日7月10日1861年8月14日8月15日)オールコックは、老中安藤信正若年寄酒井忠ますとの秘密会談を持ち、幕府権力の低下を素直に打ち明けられた(また、この会談でオールコックはロシア軍艦対馬占領事件に解決のために英国海軍が支援することを提案し、実行されている)。この結果、オールコックは開港・開市に反対することは得策でないと考えを変え、ヨーロッパに派遣される文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を積極的に支援することとした。オールコックは自身の賜暇帰国を利用して、使節と共に英国本国政府との交渉に当たり、文久2年5月21日1862年6月6日ロンドン覚書に調印、開港・開市の5年間の延期が認められた。またオールコックは使節一行が ロンドン万国博覧会の開会式に出席できるように取り計らい、またフランス公使ベルクールらと協力して、使節一行が欧州の進んだ文明・工業を学べるように手配した。

オールコックが賜暇帰国中、英国代理公使はジョン・ニールが務めたが、この間に日英関係は最大の危機を迎えた。文久2年5月29日1862年6月26日)、英国公使館は再び襲撃された(第二次東禅寺事件)。さらに、文久2年8月21日(1862年9月14日)に生麦事件が発生した。幕府に攘夷派取り締まりを促すために、英国東インド艦隊司令ジェームズ・ホープは、必要があれば日本の海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を考慮することを提案した。この提案は1863年1月9日にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で勅令を得ている。英国は、第二次東禅寺事件の賠償金として1万ポンド、生麦事件の賠償金として10万ポンドを幕府に要求した。交渉は難航したが、賠償金支払日を文久3年5月3日(1863年6月18日)にすることで決着した。ところが、そのころ京都では徳川家茂孝明天皇5月10日を持って攘夷を実行するこを約束しており、この影響を受けて幕府は支払いの延期を通告した。ニールは激怒し、幕府に対する軍事行動を新任の東インド艦隊司令キューパーに委ねた。まさに戦争直前の状態となったが、老中小笠原長行 の独断によって、攘夷実行前日の5月9日に賠償金11万ポンドが一括して支払われ、幕府と英国間の戦争は避けられた。幕府との交渉が成立した後、ニールは自ら鹿児島に赴いて薩摩藩との交渉を行うこととした。が、交渉は決裂して、7月2日、戦闘が発生した(薩英戦争)。10月5日 には薩英戦争の講和成立が成立したが、この交渉は、薩摩と英国が接近するきっかけとなった。

5月10日の攘夷実行命令に基づき、長州藩は下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を開始し、関門海峡は通行不能となっていた。文久4年2月(1864年3月)、賜暇が終わり日本に戻ったオールコックは、長州藩への武力攻撃を行い、「攘夷が不可なることを知らしめる」こととした。オールコックは仏・蘭・米の公使の合意を得、8月5日、 四カ国連合艦隊は、下関の砲台を砲撃、さらに陸戦隊を上陸させ占領した(下関戦争)。しかし、この行動は、本国政府からは「やり過ぎ」と見なされ、オールコックは本国に召喚されてしまった。なお、この事件を通じて、英国は長州藩との間にも関係を構築した。

下関戦争の賠償金は300万ドルという巨額なものとなったが、支払いは幕府が行うこととなった。新任の公使ハリー・パークスは、賠償金を減額してでも、兵庫を早期開港させたほうが英国にとってメリットが大きいと考えた。当時、将軍徳川家茂以下の主要幕閣は京都に滞在していた。このため、パークスは条約勅許(この考えは通訳のアーネスト・サトウ伊藤博文から聞いていた)と兵庫の早期開港を求めるため、仏・蘭・米を誘い、軍艦8隻を引き連れて、慶応元年 9月16日1865年11月4日)に兵庫沖に来航し、強圧的な交渉を行った(兵庫開港要求事件)。結果、兵庫の早期開港は認められなかったものの、10月5日11月22日) に安政五カ国条約に対する勅許がおりた。加えて、関税の見直しに関する合意も得、翌慶応2年 5月13日1866年6月25日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられた。結果として、日本の輸入は急増し、一部の産業は大打撃を受けることとなった。

パークスは、本国の方針に従い、あくまで内政不干渉の立場を維持した。しかし、影響力を持った何人かの大名の領地を自分自身で訪問した他、部下のサトウやミットフォード、さらには民間人のトーマス・グラバーらを使って、「維新の志士」たちとも積極的に接触した。但し、徳川慶喜に関しては非常に高く評価しており、幕府の瓦解を予想していたわけではない。が、同時にそのような事態に備えて、天皇宛のビクトリア女王の信任状を予め本国政府に要求していた。このため、新政府成立後の慶応4年閏4月1日1868年5月22日)、いち早く新政府を承認することができた。

戊辰戦争に関しては、英国は局外中立を宣言し、他国もこれに追従した。また、パークスは新政府軍の江戸城総攻撃に関しては「無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反する」として反対し、江戸無血開城の一因となったとも言われている。

日仏関係

日本とフランスの間に和親条約は結ばれておらず、安政5年9月3日1858年10月9日)の日仏修好通商条約が両国間の最初の条約となった。翌安政6年8月10日1859年9月6日)、初代領事(後公使)ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール が着任した。ベルクールは基本的には英国と共同歩調をとっており、生麦事件後に英国が軍事行動を起こすことがあれば、横浜の防衛はフランスが引き受けることとなっていた。しかし、生麦事件の交渉の後、ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようになった。文久3年(1863年)秋に幕府は横浜の鎖港を言い始めたが、各国の公使がこれを拒否する中、ベルクールだけは理解を示し、横浜鎖港談判使節団の派遣を支援した。文久4年3月22日1864年4月27日)、ベルクールはその任務を後任のレオン・ロッシュに譲ったが、老中はフランス政府にベルクールの留任を嘆願するほどであった。このため、ロッシュも幕府と親密な関係を築くことができ、フランスは幕府の政策により積極的に関与していくことになる。

元治元年8月(1864年9月)、幕府は翔鶴丸の修理を横浜停泊中のフランス軍艦乗員に依頼した。この際のフランス側の作業の誠実さから、幕府はフランスを強く信頼するようになり、横須賀製鉄所の建設をフランスに依頼し、翌慶応元年8月24日1865年10月13日)に着工された。建設資金は240万ドルと見積もられた。当初はこの支払のため、幕府が直接生糸を輸出することが計画されたが、英国の反対にあい実現しなかった。

さらにロッシュは小栗忠順に要望され、600万ドル の借款を支援し、慶応2年8月20日1866年9月28日)に契約は一旦成立した。小栗はこの600万ドルで幕府の軍備増強を行い、薩摩・長州を打倒し幕府を中心とした中央集権国家を作り、日本の近代化を達成する計画だった。11月15日12月11日)、ロッシュは徳川慶喜の依頼により幕政改革を提言し、そのいくつかは慶応の改革として実現した。しかし、本国の外務大臣が交代し、対英協調策をとるようになったことから、借款は中止され、ロッシュは本国から見放される形となった。鳥羽・伏見の戦いに敗北後、徳川慶喜は江戸に戻ったが、ロッシュは3度にわたり登城し、慶喜に再起を促した。しかし慶喜はこれを拒否した。まもなくロッシュは公使を罷免され、後任のマキシミリアン・ウートレーは英国との共同路線をとった。

日蘭関係

オランダは鎖国中も出島での交易を許されていたが、弘化元年7月2日1844年8月14日)に入港したパレンバン号は、オランダ国王ウィレム2世の親書を携えており、開国を求めたが、幕府はこれを拒否した。嘉永5年6月(1852年7月)、ヤン・ドンケル・クルティウスが到着、出島オランダ商館長となったが、これは開国を見越した人事であり、クルティウスは外交官として活動できる資格を有していた。クルティウスはオランダ風説書でペリーの来航を予告するとともに、東インド総督・バン・トゥイストの通商条約素案を提出したが、交渉には至らなかった。

嘉永6年6月3日1853年7月8日)にペリーが来航、翌年の再訪を告げて立ち去ったが、幕府は開国に備えクルティウスを通じ、軍艦の発注と乗員の訓練の申し出を行った。この申し出は、翌嘉永7年2月に来航したスムービング号のファヴィウス艦長と長崎奉行水野忠徳の間でより具体化し、嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、オランダにコルベット2隻(咸臨丸及び朝陽丸)が発注された。さらに、安政2年10月24日10月24日(1855年12月3日)には長崎海軍伝習所が設立され、オランダは練習船としてスムービング号を寄贈した(後の観光丸)。ヘルハルト・ペルス・ライケン(第一次)、ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(第二次)を団長とする教官団が派遣された。この功績が認められ、安政2年12月23日1856年1月30日)には日蘭和親条約が調印され、クルティウスは駐日オランダ理事官となった。

安政5年(1858年)春、クルティウスと秘書官のポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)は江戸に出て、通商条約の交渉を開始し、日米修好通商条約には1ヶ月程遅れたが、安政5年7月10日1858年8月18日日蘭修好通商条約調印にこぎつけた。ポルスブルックは文久3年6月(1863年7月)に公使となったが、下関戦争兵庫開港要求事件の際は、英仏米と共同歩調をとった。また、ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に 積極的に関与した。

長崎海軍伝習所は、安政6年(1859年)に資金不足を理由に閉鎖されてしまったが、文久2年(1862年)には幕府海軍最大の軍艦となる開陽丸をオランダが受注。軍艦引受をかねて、榎本武揚ら15人の留学生がオランダに派遣された。慶応3年4月17日1867年5月20日)、開陽丸は幕府へと引き渡された。

海軍伝習所から派生した長崎英語伝習所長崎養生所は、名前を変えて現在も存続している。そこでは、フルベッキポンペボードウィンハラタマらが教育に尽力し、幕末・明治初期の人材育成に貢献した。

日露関係

地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。安永7年(1778年)にはヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキン蝦夷厚岸に来航しており、寛政4年(1792年)にはアダム・ラクスマンが通商を求めてきた。

嘉永6年7月18日1853年8月22日)、ペリーより約1ヶ月遅れてエフィム・プチャーチンが長崎に来航し、日露和親条約の交渉が始まったが、調印は安政元年12月21日1855年2月7日)と、後から交渉が始まった日英和親条約より遅れた。これは日露和親条約で日露国境の問題が話し合われたためであるが、樺太の国境に関しては決着せず両国の混在地とされた。その後、安政6年7月(1859年8月)のムラヴィヨフ来航、文久2年7月(1862年8月)の文久遣欧使節ロシア訪問時にも話し合いが持たれたが決着せず、ようやく慶応3年2月25日1867年3月30日)に日露間樺太島仮規則が仮調印されたが、幕府はこれを批准しなかった。国境問題は、明治8年(1875年5月7日樺太・千島交換条約によって一応の決着を見た。

ロシアは他国と異なり、総領事館を箱館においていたため、日本の内政問題に関わることは殆ど無かった。しかし文久元年2月3日1861年3月14日)から約半年間、ロシア軍艦 ポサードニクが対馬芋先を占拠する事件がおきている。幕府は単独では対処できず、英国の介入によりロシア軍艦を退去させることとなった。

出来事

年代順の詳細な経過については「幕末の年表」を参照。

施設

幕末の思想

主権
対外関係

組織

幕末の兵器

幕府・各藩は海防のため、後には倒幕のために、競って西洋の最新兵器を揃えようとした。 しかし長い鎖国の間に西洋の軍事技術との差は開いて自製は困難であったから、ほとんどは外国商人から購入してまかなった。

小銃

大砲

艦船

  • 国産艦船
  • 外国製艦船
    • 観光丸 - オランダより幕府に寄贈された元オランダ軍艦。外輪。
    • 咸臨丸 - 幕府がオランダに発注し新造。
    • 朝陽丸 - 幕府がオランダに発注し新造。
    • 電流丸 - 佐賀藩がオランダに発注し新造。
    • 回天丸 - 幕府が輸入した元ドイツ軍艦。外輪。
    • 高雄丸 - 秋田藩が輸入した元アメリカ船。
    • 富士山丸 - 幕府がアメリカに発注し新造。
    • 開陽丸 - 幕府がオランダに発注し新造。幕末前後に日本最大の軍艦だった。
    • 東艦 - 幕府が輸入契約した元アメリカ南軍軍艦(フランス製)。明治政府が取得。幕末前後に日本唯一の装甲艦(甲鉄艦)だった。

要塞

参考文献

幕末の日本見聞記

来日した外国人により、多数の見聞録が書かれ、写真が遺されている。原典訳の大著シリーズ『異国叢書』(雄松堂出版)は、数十冊刊行した。

岩波文庫で、(大半の訳文は古いが)著名な外交官の回想記が重版されており、講談社学術文庫でも、上記も含め相当数が再刊されている。渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)に、詳細に紹介されている。

写真も多くあり、小沢健志編『幕末写真の時代』(ちくま学芸文庫、1996年)、横浜開港資料館編『F.ベアト写真集1.幕末日本の風景と人びと』、『同2.外国人カメラマンが撮った幕末日本』(明石書店、2006年)が読み易い。近年はデジタル技術の発達で彩色再現が可能となっており、それを用いた出版書籍(例:『過ぎし江戸の面影』 双葉社スーパームック、2011年)もある。  

関連項目

外部リンク