千代田形

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千代田形
Chiyodagata.jpg
千代田形(1868年)
基本情報
建造所 石川島造船所
運用者 江戸幕府
艦種 砲艦
艦歴
起工 文久2年5月7日
進水 文久3年7月2日
就役 慶応2年5月
退役 1869年 (練習船へ転用)
最期 解体
除籍 1888年1月28日
要目
排水量 140トン
全長 31.3m
垂線間長 29.7m
4.8m
吃水 2m
機関 60馬力 (45 kW)
最大速力 5ノット (9 km/h)
燃料 石炭
乗員 35名
兵装 150mm砲 1門
ボートホイッスル筒(小型榴弾砲) 2門
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設計者のひとり肥田浜五郎

千代田形(ちよだがた)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦。幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦で、江戸湾・大坂湾防御のため量産化が計画されていたため千代田「形」と名付けられたが、結局2番艦以降が建造されることはなかった。江戸脱走以降の艦長は森本弘策

艦歴[編集]

  • 4月11日 江戸城無血開城にともなって新政府軍への譲渡を約束されていたが、海軍副総裁榎本武揚がこれを拒否し、旧幕府艦隊として館山に向かう。
  • 閏4月13日 軍艦取扱方勝海舟が館山に行き、榎本と談判の結果、旧幕府艦隊は品川に帰還する。
  • 5月29日 長崎丸太江丸と共に館山に到着。旧幕府脱走兵らを収容して奥州へ運送。
  • 8月19日 榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊の一艦として品川沖を脱出。
  • 9月20日 仙台到着の後、長崎丸と共に庄内藩の援護に向かう。しかし、庄内藩は既に新政府軍に降伏していたため、飛島に停泊するが、風雨で長崎丸が座礁。千代田形一隻では人員を輸送できず、飛島に閉じ込められる。庄内藩からは降伏勧告が出されるが、拒否。
  • 11月になり旧幕府軍がチャーターしていたフランス船が飛島沖を通りかかり、同船に人員を載せることで、11月11日、ようやく蝦夷地箱館港に入港。
  • 明治2年(1869年)
  • 3月25日 宮古湾海戦。千代田形は箱館に待機。
  • 4月9日 新政府軍、蝦夷地へ上陸を開始。
  • 4月24日 新政府軍艦隊の箱館接近に対し応戦。
  • 4月29日 夜中、箱館港で暗礁に乗り上げ座礁。大砲の火門に釘を打つ、機関の破壊などの破壊工作をして全員脱出。しかしこれは、艦長森本弘策の判断ミスであり、この後潮が満ちて千代田形は離礁する。
  • 4月30日 漂流中に新政府軍によって発見・拿捕される(この事によって森本は一兵卒に格下げされた)。
  • 5月 艦籍を政府軍に移す。艦名「千代田形(艦)」。海軍兵学寮の練習艦として使用する。
  • 明治21年(1888年)1月28日除籍。除籍後は千葉県に交付、日本水産会社に貸与され「千代田丸」となる。

艦長[編集]

日本海軍
  • 磯辺包義 大尉:明治4年6月25日(1871.8.11) - 明治4年7月23日(1871.9.7)[1]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年、665頁。

参考文献[編集]

  • 石井勉『徳川艦隊北走記』學藝書林、1977年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

軍艦の部屋