雲行丸

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「雲行丸」の略図。ただし、記憶に基づいて後に作成されたもので、あまり正確ではない。

雲行丸(うんこうまる)は、幕末薩摩藩が建造した蒸気船越通船(おっとせん)と呼ばれる和洋折衷船に試作蒸気機関を搭載したもので、日本で建造された最初の蒸気船である。

越通船[編集]

薩摩藩主島津斉興の長男だった島津斉彬は、早くから西洋の技術に関心を持っていた。1851年嘉永4年)に藩主に就任すると、集成館事業を興すなど積極的に西洋技術の導入を進めた。斉彬はその一環として、西洋式の造船技術も導入しようとした。

1851年に薩摩藩支配下の琉球ジョン万次郎が上陸すると、彼が護送途中で薩摩に滞在している間に、斉彬は洋式船についての知見を学びとろうと試みた。斉彬の命により、藩士の田原直助や船大工らがジョン万次郎から教授を受け、スクーナー捕鯨船の模型などを製作、洋式船の操縦術なども学んだ。

このジョン万次郎の情報を参考に、田原らが設計・建造したのが越通船と呼ばれる小型木造帆船である。要目は、池田文庫所蔵の『越通船図』によると長さ8余(約14.5m)・幅1間3(約2.7m)・主マスト6間4尺余(約12.1m)である[1]。構造は和洋折衷で、西洋風に肋材で強化された船体を持つ一方、甲板の張り方や和船式であった。2本マストで、和船風の四角い横帆を中心からずらして張った変則的なラグセイル帆装を有した[2]

越通船は湾内での輸送用に使われ、1854年9-10月頃(嘉永7年8月)に3隻は江戸へと回航された。なお、田原直助は後により本格的な洋式帆船「昇平丸」の設計に関わっている。

蒸気機関試作[編集]

島津斉彬は蒸気船にも関心を抱き、1848年(嘉永元年)にオランダ人フェルダムの技術書(1837年刊行)を入手、蘭学者箕作阮甫へと翻訳を依頼した[2]。同書は1849年9-10月頃(嘉永2年9月)に『水蒸船略説』として仕上がった。なお以前にも蒸気機関・蒸気船の存在は日本にも伝わりつつあり、すでに1843年(天保14年)には幕府がオランダ商館長に蒸気船の長崎建造を照会するなどしていた[3]

1851年(嘉永4年)、藩主となった斉彬は、『水蒸船略説』を参考にした蒸気機関の試作を命じた。同年春には江戸の薩摩藩邸、同年冬には薩摩本国においても試作品の製造が始まった。この試作が難航するうちに黒船来航を迎えて蒸気船の威力が広く実感されると、蒸気船導入の要請はさらに強まった。幕府はオランダから日本最初の蒸気船「観光丸」の寄贈を受けて長崎海軍伝習を開始したが、薩摩藩も長崎に人員を派遣して「観光丸」や小型蒸気艇の見学を行い、蒸気機関試作の参考とした[4]

苦難の末に江戸製の試作蒸気機関はなんとか完成にこぎつけ、1855年8月15日(安政2年7月3日)に藩邸内で諸大名を招いての公開試運転が行われた。さらに越通船へ搭載しての試験も行われることになり、翌月までに越通船のうちの1隻へと試作機関が装着された。推進方式は外輪船方式であった。当初は特別な船名は無かったが、後に「雲行丸」と命名された[4]

運用と評価[編集]

1855年10月3日(安政2年8月23日)、完成した試作蒸気船(後の「雲行丸」)は、江戸の薩摩藩邸前の海で試運転を実施した。品川沖に停泊中の薩摩藩製軍艦「昇平丸」付近まで航行し、成功と認められた[4]。1857年(安政4年)には薩摩本国へと回航されることになり、同年秋には本国でも試験航海を行っている[5]

こうして一応は稼働に成功し日本最初の国産蒸気船となった「雲行丸」であったが、技術的な完成度は低かった。特に蒸気漏れが激しく、後に鹿児島湾内に係留された同船を観察したオランダ人ホイセン・ファン・カッテンディーケによれば、設計出力12馬力と推定されるところ実力は2-3馬力に過ぎなかったという[6]。最高速力は6丁の小舟並みと記録され、4-5ノット程度と推定される[5]。「雲行丸」と並行して薩摩本国で試作された機関は、さらに不具合が多く、船載試験も行われたものの失敗に終わった[7]

しかし、不完全ではあっても、ほとんど独学で初めて蒸気機関と蒸気船を製造したという意味では、「雲行丸」建造は画期的な事業だったと評価される。ホイセン・ファン・カッテンディーケも、簡単な図面を頼りに蒸気機関を完成させた人物には非凡な才能があると驚いている[6]

その後、「雲行丸」は輸送船や連絡船として使用された。この間、長崎でオランダ人の指導の下で蒸気機関の改修工事を受けたとも言われる。明治維新後は使用されない状態となり、明治20年代にスクラップとして売却された。蒸気機関は海軍兵学校の教材となっていたが、やはり明治時代中ごろに廃棄処分となってしまった[8]。現存するのは、記憶によって作成された不正確な絵図や、少数の機関図面だけである。

脚注[編集]

  1. ^ 石井(1995年)、105頁。
  2. ^ a b 石井(1995年)、106頁。
  3. ^ 安達裕之 『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』 平凡社〈平凡社選書〉、1995年、173頁。
  4. ^ a b c 石井(1995年)、107頁。
  5. ^ a b 石井(1995年)、109頁。
  6. ^ a b カッテンディーケ(著)、水田信利(訳) 『長崎海軍伝習所の日々』 平凡社〈東洋文庫〉、1964年、95-96頁。
  7. ^ 石井(1995年)、108頁。
  8. ^ 石井(1995年)、110頁。

参考文献[編集]

  • 石井謙治 『和船 II』 法政大学出版局〈ものと人間の文化史〉、1995年。
  • 元綱数道 『幕末の蒸気船物語』 成山堂書店、2004年。

関連項目[編集]

  • 先登丸 - 1862年(文久2年)に江戸幕府が完成させた蒸気船。
  • 凌風丸 (佐賀藩) - 1865年(慶応元年)に佐賀藩が完成させた蒸気船。一般に日本最初の国産実用蒸気船と言われる。
  • 千代田形 - 1866年(慶応2年)に江戸幕府が完成させた日本最初の国産蒸気軍艦。
  • 前原巧山 - 1858年(安政5年)に宇和島藩にて村田蔵六(後の大村益次郎)と共に、純国産の蒸気船を日本で最初に開発したと言われる人物。