エンフィールド銃
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1853年式エンフィールド銃 | |
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種類 | 歩兵銃 |
製造国 |
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設計・製造 | エンフィールド造兵廠 |
仕様 | |
種別 | 前装(先込め)式小銃 |
口径 | .577口径(14.66mm) |
銃身長 |
39インチ(990mm)3バンド型 33インチ(838mm)2バンド型 |
ライフリング | 初期5条 後期6条 |
使用弾薬 | 前装式・プリチェット(ミニエー)弾 |
装弾数 | 単発 |
作動方式 | パーカッション式 |
全長 |
55インチ(1,397mm)3バンド型 49インチ(1,246mm)2バンド型 |
重量 | 3,890g |
発射速度 | 20〜30秒/発 |
銃口初速 | 267 m/s |
有効射程 | 900m |
歴史 | |
設計年 | 1853年 |
配備期間 | 1853 - 1866年 |
配備先 | イギリス軍 |
関連戦争・紛争 | インド大反乱、クリミア戦争、南北戦争、戊辰戦争、西南戦争 |
バリエーション | 他、多数 |
製造数 | 1,500,000 |
エンフィールド銃(エンフィールドじゅう、Enfield Rifle Musket)とはイギリスのエンフィールド造兵廠で開発されたパーカッションロック式の前装式小銃(施条銃)である。弾丸の形状が若干異なるがミニエー銃に分類される。1853年から1866年までイギリス軍の制式小銃として使用され、53年型、58年型、61年型などのバージョンが存在するほか、銃身長の異なるタイプ(2バンド・3バンド)が製造された。
1866年以降は一体型の実包を使うスナイドル銃(Snider-Enfield)への改造が進められた。日本では幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であった。明治時代初期の日本陸軍はこの銃で装備され、西南戦争頃まで使用された[1]。日本での俗称は「エンピール銃」、「鳥羽」、「ミニエー」など[1]。
歴史[編集]
1847年にフランスでミニエー弾が開発されると、欧米各国でミニエー銃の生産が始まった。中でもイギリスで開発されたエンフィールド銃は優秀で、1853年にイギリス軍の制式小銃として採用された。インド大反乱やクリミア戦争、太平天国の乱、ニュージーランドのマオリ族鎮圧などで使用され、その完成度の高さが証明された。
アメリカの南北戦争では、北軍の標準装備だったスプリングフィールド銃の生産数が需要に追いつかなかった事や当時の民間軍需品製造業者には粗悪品を平気で納入するケースが多かった事から“世界の工場”だったイギリスで大量生産され、信頼性が高いエンフィールド銃が輸入されるようになった。
また工業基盤が未熟だった南軍は開戦当初から輸入兵器に依存しており、なかでもエンフィールド銃はその命中精度と威力の高さから南軍でも大量に使用された。イギリス政府は南軍の劣勢が明らかになると南部への輸出を禁止したが、武器商人によって最終的に90万挺が輸出されている。
エンフィールド銃を歴史上有名にしたのは、その専用紙製薬莢がセポイの乱の原因になったとされている点である。紙製薬莢は、バラバラの状態では扱いにくく戦闘中に引火する危険も高かった黒色火薬を一発分の分量に小分けして、グリス(当時は動物性のもので牛・豚脂が代表的なものだった)の塗られた弾丸とセットにして紙で包み、その表面に蜜蝋と牛脂の混合物が塗られたものである。
この弾薬には、銃身と弾丸の間に紙を噛ませる事で、弾丸が銃身と摩擦する際の高熱で発生する鉛のこびりつきを予防するという大事な役割があり、表面に塗られた蜜蝋と牛脂は摩擦を低くするための潤滑の役割を果たしていた。また湿気を帯びると着火し難くなる黒色火薬を護るために薬包の表面をコーティングして防湿する事も、古くから用いられてきた一般的な方法だった。
この弾薬を使ってエンフィールド銃を装填する際には、まず口で薬包の端を食いちぎって火薬を銃口から流し込み、薬包に包まれたままの状態で弾丸を銃身の奥までRamrod(サク杖)と呼ばれる棒で押し込み、ニップルに雷管を被せて射撃体勢を取る[2][3]。
この弾薬の装填、すなわち「牛・豚脂を塗った紙筒を口にして歯で噛みちぎる」行為は、ヒンズー教とイスラム教双方にとっての禁忌であり、それまで犬猿の仲だったセポイ(インド人傭兵)内のヒンズー教徒とイスラム教徒が、イギリスを共通の神敵と見なして武装決起、セポイの乱の原因となったといわれている[4]。
前装式から後装式へ[編集]
19世紀中頃から様々な一体型薬莢が出現しはじめ、ヘンリー銃やドライゼ銃のような実用的な後装式(元込め)小銃が開発され普及し始めると、イギリス陸軍省はエンフィールド銃を後装式へ改造する案を公募し、アメリカ人ヤコブ・スナイダーが考案した銃尾装置を採用した。
スナイダーの案はエンフィールド銃の銃身後端を切断し、撃針が組み込まれた蝶番式ブリーチを備えたブロック式の銃尾装置を取り付け、一体型の薬莢であるボクサーパトロンを使用できるようにしたもので、銃身を改造する以外はエンフィールド銃の構成部品をそのまま流用していた。
この時期、各国で様々な方式による前装銃の後装式改造が行われているが、スナイダーの蝶番式は最もシンプルで腔圧によってブリーチが吹き飛ぶ心配の少ない構造であり、イギリス軍はこの銃尾装置を利用して、大量に装備されていたエンフィールド銃を安価に後装式に改造し、スナイドル銃として1866年に制式とした。
特色[編集]
16世紀に小銃が歩兵の主装備となってから、エンフィールド銃に代表されるミニエー式が出現するまでの間、マスケット(日本ではゲベール銃と呼んだ。ゲベールとはオランダ語で小銃の意味)と呼ばれた滑腔式のタイプとライフリング(銃身内に刻まれた螺旋状の溝)の有るヤーゲル銃(ヤーゲルとはオランダ語のJagerないしドイツ語のJägerに由来し、猟師・猟兵の意味。英語読みではジャガーライフル[5])タイプの2種類が使用されていた。
マスケット(ゲベール銃)は銃身の内径よりも小さめの球弾を使うため装填が簡単な反面、弾丸が銃身に密着していないため球弾の周りから発射時の高圧ガスが漏れてしまい射程距離が短くライフリングが無いために命中精度も低く、19世紀初頭までイギリス軍で使用された「ブラウン・ベス」マスケットの有効射程は100ヤード(91m)に過ぎなかった。
実際に「ブラウン・ベス」マスケットを使用して行ったテストでは密集した歩兵集団に見立てた50ヤード(45m)×6フィート(182cm)高の布標的に対する100ヤードからの立射での命中率は50〜75%に過ぎず、ベンチレストからの集弾は50ヤード(45m)の距離で5インチ(13cm)という結果が出ている。
このためマスケットは短い距離まで敵陣へ接近してから一斉射撃を浴びせて、混乱した敵陣に接触して銃剣で最終的に制圧する戦列歩兵用として大量に配備された。
一方のヤーゲル銃はライフリングのおかげで命中精度は高かったが、球弾をパッチと呼ばれる布片にくるみ、ライフルに喰い込ませながら装填するため非常な労力が必要で、再装填には時間がかかり戦列歩兵の用途には適さなかった。
またパッチを使う構造上、球弾の周りから発射時の高圧ガスが漏れてしまう問題点はマスケットと同様で射程距離も短い。
このため散兵や猟兵に持たせて敵の指揮官や砲兵を狙撃するために良く用いられたが、ライフリングを手作業で刻めるマイスターの職人芸に依存して製造されていたためマスケット銃よりも格段に高価であり少ない数しか配備されていなかった(イギリス軍もドイツ製ヤーゲル銃を輸入して装備していた)。
軍採用の例として、ヤーゲル銃の他に先駆者としてフランス製のステム・ライフルがあるが、これは装填した弾丸を銃口から槊杖で突いて変形させる手間を伴っており、簡便な方式とはとても言えなかった。
ミニエー式に使用される弾丸は椎の実型で多くは周囲には溝が切られ凹凸があり(この溝を持たないものもある)、これは銃身保護用にグリス状の脂が付着させるものである。
底部がスカート状に窪んでおり、窪みはコルクなど木栓を差し込むようになっている。これによって発射時の圧力で押し込まれた木栓がスカートを外側に膨張させると、弾丸周囲の溝の凸部は銃身内のライフリングに食い込みながら密着する。この工夫で圧力の漏れを無くし、ライフリングが弾頭を回転させる力を的確に与える事に成功している。後にエンフィールド弾として直接、鉄のキャップを食い込ませて木栓が要らない方式に改良されている[6]。
発射されるまでのミニエー式の弾丸は銃身の内径より小さい寸法であるために銃口から弾丸を押し込む際の労力は少なく、ライフリングを持つため命中精度が高くガス漏れを防いで射程距離を延長し弾速が上昇した事で威力が強化された。
また、産業革命による製鉄業と工作機械の発達は銃身にライフリングを安価に刻んで大量生産する事を可能とし、ミニエー式を歩兵銃として配備・運用する事が可能になった。
実際に、150年近く経ったエンフィールド銃を使って行われたベンチレスト射撃での集弾テストでは、50ヤードで1インチ(100ヤードでは2インチ)という結果が出ており、Brown Bessマスケットでの50ヤードで5インチという結果よりばらつきを1/5以下に収める集弾性を見せている[7]。骨董品の小銃でこの集弾性は奇跡と言っても良いが、約40年後に同じエンフィールド造兵廠で製造されたリー・エンフィールド小銃の集弾性とほぼ同等(リー・エンフィールドライフルの有効射程は2000ヤードもあるが)であり、米国などで最も手軽に入手できる旧東側製のSKSカービンが50ヤードで3インチ以内にまとまれば“Excellent!”と言われる事と比較してみれば、その優れた性能が分かるというものである。
エンフィールド銃がもたらした変化[編集]


高い命中率と1,000ヤードまで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、それまで100-300ヤードが精々かつ命中精度も50%程度だった従来のマスケット歩兵の概念を大きく変えてしまった。すなわち、エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が同数で交戦した場合、マスケット銃側は有効射程まで接近するため、数倍の射程と高い精度を持つエンフィールド銃の弾丸に晒されながら行進しなければならなかったことを意味する。
もし何もない1,000ヤード四方の平地でマスケット銃兵を相手にした場合でも、マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため、同等の精度となる100ヤードまでの900ヤードを進んで1回射撃するためには13分以上かかるが、エンフィールド銃はその13分の間に30〜40回も射撃できる。
このため、理論上では25人のエンフィールド銃装備の部隊ならば相手の有効射程に入る前にマスケット銃兵1,000人を全滅、あるいは士気低下による戦列崩壊をさせてしまう事ができた。
また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転し、弾体が極度に変形しつつ人体内部へ陥入することで、以前より酷い銃創が作られるという点だった。運よく致命傷を負わずに済んだ兵士達も、汚れた動物性油脂にまみれた弾丸や不潔な野戦病院の環境によって引き起こされる感染症で数日後に死亡してしまうため、当時の医療水準では治療不可能な銃創と感染症のリスクを避けて、手足に被弾した場合であっても不充分な消毒など未発達な野戦外科手術で無造作に切断される事が日常化してしまった。
このため従来の戦列歩兵に拠る野戦では徒に兵力を消耗することになるのだが、しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士がこの銃に晒された。
エンフィールド銃を始めとするミニエー銃の出現による戦力バランス変化の例として、西洋から輸入したライフルドマスケット銃で武装した常勝軍(洋槍隊)によりほぼ同数の戦力を持ちながら瓦解に至った太平天国の乱や、後述の西南戦争などがある。
日本におけるエンフィールド銃[編集]
日本で最も初期にエンフィールド銃を導入したのは薩摩藩とされ、薩英戦争後の軍制改革で4,300挺を購入したと伝えられており、輸入された当初はその弾丸の構造からミニエー銃(Minié rifle)の一種とされ、イギリス・ミニエーと呼ばれていた[8]。
1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まった。幕末の日本にも1864年頃から外国商人によって輸入され、戊辰戦争では最も広く使用された[1][9]。
この頃から、フランス製のミニエー銃と区別するために“エンピール銃”・“鳥羽ミニエー”[10]といった呼び名が付けられ、後に発足した日本陸軍ではエンピール銃の呼称が継承された。
当初エンフィールド銃は1挺あたり15両程度で購入されたが、後装式銃器の普及で急速に旧式化したエンフィールド銃の価格は、戊辰戦争の頃から暴落した。同時にスナイドル式銃尾装置によりエンフィールド銃を後装式へ改造する方法が欧米から伝えられ、国内での改造が諸藩や鉄砲鍛冶の間で流行した[11]
ただし、こうした改造を受けたエンフィールド銃の多くは、側方に設けられたヒンジにより機関部が右方向に開くために、タバコ入れに見立てられ莨嚢式(ろくのうしき)の方式名が与えられたスナイドル銃とは異なり、同時期にベルギーより輸入されていたアルビニー銃などと同様に前方に設けられたヒンジにより機関部が前方向に開く方式が使用された。これは前方開放型のアルビニー式がスナイドル式の側面開放型よりも改造が容易であったからに他ならない。スナイドル銃と区別する意味で前開き型には活罨式(かつあんしき)の方式名が与えられ、より正確には前方枢軸型活罨式と呼ばれた。
新生日本陸軍が発足すると、その歩兵操典に後装式を用いる版が採用された事から、日本陸軍の主力小銃は全て後装式に統一され、スナイドル銃(金属薬莢式)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢式)が後方装備とされた[12][13]。
廃藩置県後に新政府管理へ移管されたエンフィールド銃は、1874年(明治7年)頃から徐々にスナイドル銃への改造作業が始められていたが、1879年(明治10年)に西郷隆盛を首魁とする私学校徒が鹿児島の火薬庫に残されていたエンフィールド銃を強奪して決起して西南戦争が勃発する。
これに対して政府軍はスナイドル銃を主力とする鎮台兵を派遣して戦い、連射速度の違いから西郷軍は緒戦から多くの損害を出して圧倒され、日本最後の内戦は前装式銃の時代とともに終焉した[14]。
前装式のエンフィールド銃で戦った西郷軍の鎮圧に莫大な戦費と犠牲を費やした政府は、各地に退蔵されていたエンフィールド銃が不平士族や当時隆盛だった自由民権運動激派に強奪されて同様の反乱が発生する事を恐れ、西南戦争後の1878年(明治11年)から全国各地に残されていたエンフィールド銃を集めてスナイドル銃へ改造する作業[15]を行い、老朽化が激しく改造されずに残された物は軍の射撃訓練用として使用されつつ寿命を迎えて廃棄処分となり、民間へ払下げられる運命を辿った。
民間に払い下げられたエンフィールド銃は、雄猪や熊猟に使える強力な猟銃として長く親しまれ、現代でも地方の蔵の整理中などにエンフィールド銃の残骸が見つかる事が多々ある[16]。
脚注[編集]
- ^ a b c 小橋良夫. “日本大百科全書(ニッポニカ)「エンフィールド銃」”. コトバンク(朝日新聞). 2020年1月30日閲覧。
- ^ 参照:エンフィールド銃の装填・射撃までの操作概要
- ^ 参照動画:エンフィールド銃の装填・射撃までの操作と号令
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 356.
- ^ ジャガーライフルは18世紀初頭、アメリカ開拓時代に北米で初めて量産化された銃器として有名。後にこれが発展してケンタッキーライフルとなる。池田書店刊『ピストルと銃の図鑑』213P。
- ^ 池田書店刊『ピストルと銃の図鑑』240P。
- ^ 参照:アンティークのエンフィールド銃を使った集弾テスト
- ^ 池田書店刊『ピストルと銃の図鑑』224P。
- ^ 1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では、薩摩藩経由でエンフィールド銃を入手した長州藩諸隊に、幕府が動員した諸藩兵が惨敗し、これに衝撃を受けた徳川慶喜はフランスの支援を受けて慶応の軍制改革に着手した。 この当時、徳川慶喜を支援していたナポレオン3世は、メキシコ出兵の失敗による政治的失点を補うため、アジアでの植民地獲得活動を活発させており、ベトナム南部のコーチシナ全域を支配下に置く事に成功していた。 1867年(慶応3年)に幕府陸軍支援のために来日した仏軍事顧問団は、フランス本国でも採用されたばかりのシャスポー銃の採用を幕府陸軍に薦め、フランス政府は2,000丁を幕府に無償で寄贈したと伝えられている。しかし、1867年のパリ万博に薩摩藩が琉球王国と連名で出展し、幕府以上の存在感をフランス本国でアピールした事により、ロッシュ仏公使の幕府寄りの関与策が疑問視されるようになり、幕府が鳥羽・伏見の戦いで敗れた1868年に同公使は罷免されて帰国し、フランスの対幕府支援は中止された。
- ^ サイドプレートに刻印されていたメーカ刻印である"Tower"の日本語訛りとも、鳥羽・伏見の戦いに由来する、とも言われる。
- ^ この時期になると日本にも後装(元込め)式の銃器が流入し始めており、エンフィールド銃は旧式化し始めていた。 戊辰戦争に際して武装中立を目指して準備を進めていた長岡藩などは、スネル商会やファーブル・ブランド商社といった外国商人を経由して、エンフィールド銃のみならず、後装式のスナイドル銃やガトリング砲などの新式装備を独自に調達する事に成功していた。 1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いに惨敗し、恭順を表明した徳川慶喜に見捨てられた会津藩も、長岡藩と同時期に新式装備の調達を目指していたが、何も装備が届かないうちに開戦した。このため、白虎隊などは旧式のゲベール銃に手彫りのライフリングを施したミニエー式改造銃で戦ったとされている。 江戸が無血開城された事で新政府軍の進撃速度が早かった事もあり、多くの諸藩では新政府軍が通過した後になってようやく新式装備が届き、その多くは新政府によって弁済購入されて日本陸軍に継承された。
- ^ 1871年(明治4年)に発足した御親兵は新政府が諸藩の反発を抑えて廃藩置県を断行する軍事的な後ろ盾となり、後の日本陸軍へ発展して行くが、これに対する軍事教練は翌1872年から1869年版フランス式歩兵操典(後装式シャスポー銃と前装式ミニエー銃の混成体系)に基づいて開始された。
- ^ 発足当初の日本陸軍が採用した後装銃には各々長短があった。
- スナイドル銃は前装銃を改造したものだったため、薬室先端から弾丸がライフリングに喰い込む部分の調整が技術的に未確立な状態であり、エンフィールド銃では紙に包まれていた鉛の弾丸が、直接ライフリングと摩擦する構造に変更されていたため、初速を上げるとライフリングに鉛が付着して蓄積し、銃身の寿命を短くするため低初速でしか使用できず、弾道特性の向上は期待できなかった上に、撃発機構が管打ち式から流用されたサイドハンマー式であるため、射撃の際に銃身軸線へ大角度で打撃が与えられて干渉が生じ、どの要素も命中精度に悪影響を与えていた。
- しかし、スナイドル銃で使用されたボクサーパトロン(.577 Snider)は現代まで使用されている一体型薬莢であるボクサー型の原型となった完成度の高い弾薬であり、環境の影響を受けにくく、その信頼性は比類なきものだった上に、新品を購入しなくても中古のエンフィールド銃を改造して製造できるため、多数のエンフィールド銃在庫を抱えていた日本陸軍にとって最も現実的な選択だった。また、スナイドル銃の導入で諸藩をリードしていた薩摩藩が弾薬の国産化に成功していた点も大きなアドバンテージだった。
- ドライゼ銃は弾丸がサボットに包まれた状態でライフリングにより回転を与えられ、撃発機構は銃身軸線と並行して撃針が前後するボルトアクション式であるため、命中精度への悪影響は少なかったが、使用する弾薬が紙製薬莢のため環境の影響を受け易く、多湿・多雨な日本では発射薬の黒色火薬が湿気り易く、長い撃針が焼損して折れる問題と、手入れを怠るとボルトと銃身後端の隙間から高温・高圧の発射ガスが漏れ出す問題も解決できず、紀州藩でドライゼ銃が採用されたのと同時期にあたる1871年(明治4年)には、プロイセン王国が発展したドイツ帝国において金属薬莢式(ベルダン型)のモーゼル1871小銃が採用され、ドライゼ銃は引退している。
- ドライゼ銃の紙製薬莢は金属薬莢に比べて製造が容易だったため、紀州藩は工廠を設置して弾薬の国産化に成功しており、後の西南戦争勃発の時点で日本陸軍は200万発ものドライゼ弾薬備蓄を有していた。
- シャスポー銃はドライゼ銃と同じく紙製薬莢を使用しながら、ドライゼ銃の欠点の多くを解決し、当時最も優れた弾道特性を有していたが、環境の影響を受け易い欠点は克服できておらず、紙製薬莢の特性からドライゼ銃以上に湿気の影響に弱かった。またドライゼ銃の欠点を克服するために、当時はまだ高価だったゴム製のリングを使用しており、主力小銃として運用できるだけのゴムリングを確保するためには、フランスやイギリスといった特定のゴム産出国に依存しなければならない点でも評価を下げていた。
- 1874年(明治7年)にフランスでシャスポー銃を金属薬莢式(ベルダン型)に改造したグラース銃が実用化されると、紙製薬莢の問題を解決できる目処が付いたシャスポー銃は、将来の国産化候補として有力視されるようになり、シャスポー銃の構造を模倣した村田銃が開発された。これと同時に退蔵されていた紙製薬莢式のシャスポー銃も金属薬莢式に改造され“シャスポー改造村田銃”と呼ばれた。
- ^ エンフィールド銃はスナイドル銃と同水準の高い殺傷力(発射薬を増やせば更に強化される)を有し、命中精度はむしろ優れており、1発あたりで比較すればスナイドル銃と遜色の無い水準だった。前装銃は弾と火薬と雷管さえあれば使用できるため、鉛弾が尽きた西郷軍は政府軍の撃った銃弾(エンフィールド銃はスナイドル銃の弾丸は共通のサイズである)を拾い集めて再利用したり、木を削って作った弾まで代用として抵抗を続けた。
- ^ 後装銃は金属薬莢式弾薬がなければ銃器として機能しない。金属薬莢式弾薬は専用の製造設備がなければ生産できないため、こうした施設を有する勢力だけが戦闘を継続できる。
- ^ 日本で最初に飛行機で空を飛んだ人物であり日野式自動拳銃の開発者である日野熊蔵も、中学生の頃にエンフィールド銃を貰って来て玩具にしていたと伝えられている。
参照資料[編集]
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