中山忠光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
中山忠光(『近世文武英雄伝』(大蘇芳年(月岡芳年)画)

中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日1845年5月18日)- 元治元年11月15日1864年12月13日))は、江戸時代末期(幕末期)の公家

生涯[編集]

権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子中山忠愛は同母兄、明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。正室は平戸藩主・松浦熈(祖父・松浦清の息子)の娘富子。富子との間には子女はいないが、長府藩潜伏中、現地女性の恩地登美(トミ)を侍妾とし、仲子(南加、嵯峨公勝夫人)をもうけている。

早くより真木保臣吉村虎太郎尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。文久3年(1863年)2月、朝廷国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。7月18日、水戸藩吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。8月13日大和行幸が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。

しかし八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により追討を命じられた彦根藩紀伊藩兵などにより鎮圧。忠光は大坂へ脱出し長州に逃れた。長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変下関戦争第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。享年20。墓所は山口県下関市中山神社境内にある。明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位

なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。

忘れ形見・仲子とその末裔[編集]

中山神社内の愛新覚羅社の由緒書きによると、長府藩潜伏中に寵愛した侍妾恩地トミは、忠光が暗殺された後に遺児仲子を産んだ。忠光の正室・富子が仲子を引き取り養育する事になり、公家の姫として育てるために、忠光が暗殺された長府藩の藩主家・毛利氏の養女となり公家・中山家に引き取られた。富子は亡き夫の忘れ形見の仲子を大事に育て上げ、維新後に仲子は嵯峨公勝夫人となった。また、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身のは、忠光の曾孫にあたる。

参考文献[編集]

  • 栗田藤平『雷鳴福岡藩』 弦書房、2004年
  • やすおか史誌編輯委員会編、『やすおか史誌』、下関市安岡合併五十周年実行委員会、1990年。
  • 山田風太郎『人間臨終図巻』徳間書店、1986年。