昇平丸

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ShoheiMaru.JPG
艦歴
起工 1853年5月
進水 1854年4月
竣工 1854年12月
その後 1870年3月座礁
建造所 桜島瀬戸村造船所
性能諸元
艦種 三本マスト 木造パーク型帆船
排水量 370 トン(推定)
全長 17(31.0m
全幅 4間(7.3m)
兵装 大砲10門

昇平丸(しょうへいまる)は、幕末薩摩藩が建造した洋式軍艦である。後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称した。

概要[編集]

寛永12年(1635年)、幕府は諸大名水軍力を抑止するために、武家諸法度の一つとして大船建造の禁(大船建造禁止令)を制定し、500以上の船の建造が禁止された(後に商船のみ緩和)。19世紀に入り、日本沿岸にロシアを始めとする西欧諸国の艦船が現れるようになっても、幕府は大名に対して軍用の大船及び洋式船の建造を許可しなかった。

藩主に就任以降、富国強兵政策を採っていた薩摩藩主島津斉彬は、嘉永5年12月27日に幕府に対して当時薩摩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に、琉大砲船(洋式軍艦)の建造願いを提出した。嘉永6年(1853年)4月29日に建造の許可が降りると、同5月29日に桜島瀬戸村造船所で起工した。

琉大砲船の建造に着手した直後の嘉永6年(1853年)6月、アメリカ合衆国マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航(黒船来航)すると、幕府は老中阿部正弘の主導で、8月8日に水戸藩に「旭日丸」の建造を、9月8日に浦賀奉行に「鳳凰丸」の建造を命じ、9月15日には大船建造禁止令を解除した。

琉大砲船は嘉永7年(1854年)4月3日に進水し、19か月後の安政元年(1854年)12月12日に竣工した[1]。 嘉永7年(1854年)5月10日に竣工した鳳凰丸に続いて日本で2番目の洋式軍艦である。

琉大砲船は安政2年(1855年)1月26日に昇平丸と命名され[2]、同年2月、江戸に回航し、同年8月13日に幕府に献上された。その後は品川に置かれ、長崎海軍伝習所への伝習生派遣など、主として練習艦として使用された。

1854年嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(「日本惣船印」)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同年7月9日老中阿部正弘により布告された[3]。 昇平丸が幕府献上のために江戸へ回航された際、日の丸が船尾部に掲揚されたが[4]、これが日の丸を日本の船旗として掲揚した第一号であるとされている。[5][6]

一方で上記の説は俗説に過ぎず、日の丸の船印は浦賀奉行の提案によるものであり、徳川斉昭の強い支持もあって鳳凰丸竣工に際し日本船の総印として規定され、その後の昇平丸にも適用されることになったとの見解もある[7]

明治維新後の明治2年(1869年)、昌平丸は咸臨丸と共に開拓使所管となり、輸送船として使われたが、明治3年(1870年)3月、松前沖で嵐に遭遇し、北海道上ノ国木の子村の猫澤海岸で高波により座礁して破船した[8]

脚注[編集]

  1. ^ 西日本重工業(株)長崎造船所『三菱長崎造船所史. 続篇』
  2. ^ 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』上, 原書房, 1968, p. 733。
  3. ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照。
  4. ^ 吉野真保編『嘉永明治年間録 四巻』安政二年二月薩州ニ於テ製造ノ船琉砲船江戸海ニ着ス琉砲船長十五間檣三本出し共裾黒の帆標帆三段ふ掛け中程ふ裾黒の吹流し付艫の方日の丸並轡の紋船標小織布交の吹貫を立つ
  5. ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照
  6. ^ 松本健一『「日の丸・君が代」の話』
  7. ^ 安達(1995年)、281-283頁。
  8. ^ 明治3年『開拓使公文鈔録』

参考文献[編集]

外部リンク[編集]