坪井智哉
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石狩レッドフェニックス 監督 #77 | |
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![]() 2018年10月24日 | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 東京都江東区 |
生年月日 | 1974年2月19日(49歳) |
身長 体重 |
177 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1997年 ドラフト4位 |
初出場 | NPB / 1998年4月3日 |
最終出場 | NPB / 2011年6月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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坪井 智哉(つぼい ともちか、1974年2月19日 - )は、東京都江東区出身[1]の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、コーチ、監督、野球解説者。
2014年に現役引退後、2015年から2021年まで横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチを務めた。
父親は元プロ野球選手の坪井新三郎。親子ともにPL学園高校を卒業。後に社会人野球を経てプロ野球選手となった。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
幼少期は愛知県名古屋市、大阪府三島郡島本町で過ごした。父は元プロ野球選手で内野手の坪井新三郎(中日、太平洋-クラウン)[2][3][4]。
プロ野球選手の息子という環境もあり、幼少時代から遊び道具がボールとグラブとカラーバットといった状況で自然と野球を始めていた。父親が右投右打で、親戚にも左利きの人物がいなかったため「自分も右利きだろう」と考えていたが、野球のセンスが全くなく、「オマエの一番投げやすい方法で投げてみろ」と父親に言われて投げたのが左だったことから自分が左利きだったことを初めて知った[5]。
坪井は小学生の時にKKコンビに憧れ、自身もPL学園に進学する。PL学園では1年生の秋から外野手としてベンチ入りし、その後投手として活躍していた。坪井の1学年上には入来祐作、1学年下には今岡誠、2学年下には松井稼頭央が在籍していたが、自身は在学中に甲子園に出場することはできなかった。
高校卒業後は青山学院大学に進学する(2学年上に小久保裕紀、同級生に川越英隆、1学年下に井口資仁、澤崎俊和、2学年下に高須洋介などが所属していた)。1993年に小久保裕紀らを擁して春季1部リーグを制し、全日本大学野球選手権大会を優勝し、大学野球日本一を勝ち取っている。東都大学リーグ通算86試合出場、286打数70安打、打率.245、7本塁打、47打点を記録。大学時代に振り子打法に切り替え、手応えを感じ、1995年秋季のリーグでチームメイトの高須洋介に次ぐ打率.409(リーグ2位)を記録し、ベストナインに選出された。
しかし、この年のドラフトで指名されなかったため、大学卒業後は社会人野球の強豪である東芝に就職(東芝での背番号は24)。主に1番打者として活躍し、第51回東京スポニチ大会で打率.476を記録し、新人賞を獲得。都市対抗野球では2年連続ベスト8。第23回社会人野球日本選手権大会でチームは準決勝で敗退するが坪井は14打数9安打、打率.634を記録して首位打者賞と大会優秀選手賞(外野手部門)に選出された。この年(1996年)の暮れに社会人ベストナインも獲得している。翌1997年の第24回社会人野球日本選手権大会では準決勝で三菱重工神戸に敗れるが、2年連続で大会優秀選手賞(外野手部門)に選出される。同年、第19回アジア野球選手権大会に出場する日本代表に選ばれた(福留孝介・二岡智宏らも選出)。
1997年度プロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから4位指名を受け、契約金8000万円、年俸1200万円で契約を合意し、入団。
阪神時代[編集]
1998年(1年目)は、監督の吉田義男の下、1月28日の一・二軍振り分けで新人選手の中で唯一の一軍に振り分けられる[注 1]。キャンプ・オープン戦で結果を残して開幕一軍を勝ち取った。
開幕の外野陣はレフト・パウエル、センター・新庄剛志、ライト・桧山進次郎であり、4月前半は代打、守備固めの起用だったが、パウエルと平塚克洋が故障したため[6]、4月19日に1番ライトでプロ入り初スタメン入り。パウエル復帰後の5月前半はスタメンから外れるが、桧山の不振で5月20日からスタメンに復帰し、定着後はセンターやレフトで出場するようになる。7月4日の広島東洋カープ戦(広島市民)で、1回表に紀藤真琴から左中間へプロ初本塁打となる初回先頭打者ランニング本塁打を放つ。プロ初本塁打がランニング本塁打は2リーグ制以後、武上四郎・緒方耕一に次いで史上3人目だが、初回先頭打者ランニング本塁打は史上5人目の記録で、新人では史上初の快挙であった。7月19日以降は1番・ライトに完全定着する。8月27日に規定打席に到達し、打率.318でリーグ3位となり、9月になると更に打率を上げた。横浜の鈴木尚典、広島の前田智徳、坪井の3人が打率.330近くを記録する熾烈な首位打者争いとなった(最終的に首位打者は打率.337を記録した鈴木、坪井は打率.327でセ・リーグ3位の打率を記録)[7]。この年に記録した135安打は、1948年に後藤次男が記録した129安打を更新する球団史上新人最多安打記録だった(後に2016年に髙山俊が9月30日の巨人戦でシーズン136安打を記録し、更新[8]。さらに2019年に近本光司 が9月5日の対DeNA戦(横浜)でシーズン137本目の安打を打ち球団の新人安打記録を更新[9])。なお、この年は10試合連続安打を記録しているが、阪神の新人選手で10試合以上安打を記録したのは球団史上初であった(後に2001年に赤星憲広が12試合連続安打、2016年に髙山俊が10試合連続安打、2019年に近本光司が12試合連続安打を記録)[10]。また球団新人最多(当時)となる11度の猛打賞を記録している[11](後に2016年に髙山俊がシーズン13度の猛打賞を記録し、球団記録を更新)。シーズン打率.327は1950年以降に始まったセ・パ両リーグの2リーグ制分立後の新人最高打率(セ・リーグ歴代1位)である[注 2]。加えて、両リーグで規定打席到達者は71人いたが坪井だけが併殺打0であった。規定打席に到達した新人選手の併殺打0はNPB史上初である。この年は坪井以外の新人選手も活躍した新人豊作年で、川上憲伸、高橋由伸、小林幹英が活躍し、新人王争いが激化したシーズンだった。最優秀新人は川上憲伸が受賞したが、坪井ら3人は新人王に値する活躍をしたと認められ、高橋、小林とともに連盟の特別表彰を受けた。
1999年は、新たに監督に就任した野村克也の下、巨人との開幕戦で1番センターのスタメンを勝ち取るも開幕戦から数試合連続(18打席連続ノーヒット)ヒットが出ず、開幕から不振に苦しんだ。5月以降になると6度の4安打を記録するなどヒットを量産し、徐々に調子を取り戻し、最終的に新人から2年連続3割打者となる打率.304を記録(新人から2年連続打率3割達成は史上4人目の記録。他の達成者は長嶋茂雄、横田真之、高橋由伸がいる)。得点圏打率も.343と1番打者として打線を牽引し、自己最多となる161安打を記録した。守備でも活躍が光りセ・リーグトップとなる11補殺を記録している。
2000年は、前半戦は好調を維持し打率3割を記録し、監督推薦枠でのオールスター初出場を果たす。オールスター戦では石井貴から本塁打を放ち優秀選手に選ばれている。シーズンでは新人から3年連続の打率3割達成を期待されていたが、厳しい内角攻めで死球に繋がったり左肘を故障したこともあり、オールスター以降に調子を落とす。結局、新人から3年連続打率3割達成はならず、打率.272でセントラル・リーグの打者最多となる12死球を記録した。仮にこの年のシーズンに打率3割以上を記録していたら、1960年の長嶋茂雄以来の快挙であった(長嶋茂雄は新人の1958年から1961年まで4年連続で3割を記録しており、その4年間で3年連続首位打者)。同年オフには痛めた左肘の手術を受けた[12]。
2001年は、開幕から新人の赤星憲広の抜擢・大活躍、濱中治の台頭や桧山進次郎の復調に加え、前年オフに手術した左肘の悪化・本人の極度のスランプ・度重なる怪我により、出場機会が激減。以降は怪我に悩まされるシーズンが続くようになる。スランプの時期には打撃フォームを改造し、極端なオープンスタンスや振り子打法をやめてノーマルなスタイルに変化するなど試行錯誤していたが結果を残せなかった。また、プロ入り初めて規定打席に届かなかった。
2002年は、外野手のレギュラー候補に名を連ね、新たに監督に就任した星野仙一からも「今年は坪井の復活に期待してほしい」と復活を期待されていたが、5月に内野ゴロで一塁ベースを踏んだ際に足を捻挫し、そのまま一軍登録を抹消される。回復が遅いこともあり再診断した結果、剥離骨折と判明し、シーズンのほとんどを二軍(ウエスタン・リーグ)で過ごす。シーズン終了後、野口寿浩との交換トレードにより日本ハムファイターズへ移籍。球団は本人にトレード要員であることを伝えていなかったため、報道後に電話で「テレビで見たと思うけど…」とトレード通告をした。本人は「(日本ハムへの)トレードの話は家にいるときにたまたまテレビで流れててビックリした」と日本ハム移籍後に語っている。 当時の人気選手だった坪井のトレードに球団首脳は渋い表情だったが星野監督は「金本が入って(坪井の)出場機会が減る。坪井の野球人生にとってもいい話」、「(交換相手の)野口は、どうしても欲しかった。矢野がけがをしても困らないためにな。彼が入ったことで、矢野も『負けるわけにはいかない』と刺激になるだろう」と坪井と野口のトレードを成立させた[13][14]。
日本ハム時代[編集]
2003年は、開幕は6番ライトでスタメンだったが、4月当初は森本稀哲、エンジェル・エチェバリア、島田一輝、西浦克拓らの併用もあり、スタメン起用は多くなかった。しかし西浦の一塁手起用や、森本の打撃不振により、右翼手のレギュラーを勝ち取る。阪神時代の巧みな打撃が復活し、序盤から絶好調で前半戦終了時点でパ・リーグ2位の打率.355(251打数89安打)[15]を記録し、ファン投票外野手部門3位で通算2度目のオールスター出場を果たす。オールスター後も打撃が絶好調で8月中旬まで同僚の小笠原道大と激しい首位打者争いを演じる。9月に入ると前年の骨折で痛めた足首痛が再発し、9月の月間打率が1割台と調子を落としたが最終的に新人時代に記録した打率.327を更新し、自己最高の打率.330を記録し、復活を果たした。阪神入団1年目の1998年に打率.327、日本ハム入団1年目の2003年に打率.330を記録し、プロ野球史上初の両リーグ入団1年目でシーズン打率3割越えを達成(現在も達成者は坪井のみ)。
2004年は、3月27日の対大阪近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)で1番打者としてスタメン出場し、岩隈久志から中越え二塁打を放ち、日本ハム北海道移転後のチーム公式戦初安打となる。2番・SHINJO(新庄剛志)が送りバントで進め、3番・小笠原道大の内野ゴロでホームに還り、北海道移転後のチーム公式戦初得点も記録。6月に入るまでは3割以上の打率を記録していたが、結膜炎などの病気もあり、スタメンを外れると6月〜7月で月間打率2割前後と落ち込み、規定打席を割ってしまう。後半に復帰し、活躍したが2年連続打率3割を記録できなかった。病気に泣かされたが自己最多の11本塁打を記録している。また、9月20日の福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)では、プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となったこの試合前にSHINJO(新庄剛志)の発案により「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称したパフォーマンスに参加し、5名の同僚外野手で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりもの(仮面)を被り、シートノックを受けた(アカレンジャー:森本稀哲、アオレンジャー:島田一輝、キレンジャー:新庄剛志、モモレンジャー:石本努、ミドレンジャー:坪井)[16]。
2005年は、ヤクルトスワローズからFA宣言し、海外移籍を目指していた稲葉篤紀が海外移籍を断念し、日本ハムへ移籍。外野手争いが熾烈になった。相手チームの先発が左投手の時はスタメンを外されることが多くなるが、対左投手の成績は58打数18安打、打率.310を記録している。交流戦で調子を落としたものの、7月〜9月に復調する。特に9月は41打数18安打で打率.439を記録。規定打席には届かなかったがチームで唯一の打率3割を記録する。また、守備でもパ・リーグ2位となる11補殺を記録するなど攻守での活躍も光った。株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。
2006年は、オープン戦で故障。この年に坐骨神経痛を発症し、苦しいシーズンを迎えることになる。シーズンを通してほとんど打席に立てない日が続き、4〜5月は1打席も立てない状況になっていた。そして8月6日の対西武ライオンズ戦の守備で、左中間に飛んだ打球をダイビングキャッチで捕球しようとしたが取れず、そのまま地面に叩きつけられてしまう。この時に右肩を負傷(のち骨折と判明)し、一軍登録を抹消された。シーズン終了後に球団からトレード要員通告を受けるが、高年俸(当時の推定年俸9000万)や故障がちなどの理由でトレードがまとまらず、球団から戦力外通告を受けた。現役続行を希望し、12球団合同トライアウトを2度受けたが契約に至らず、アメリカ行きを決意し、チームを調査しているなか、12月27日に推定9000万円から2000万円への大幅減俸の上、日本ハムと異例の再契約を結んだ[17]。
2007年は、開幕戦を7番レフトでスタメン出場した。前半戦は好調で打率3割以上を記録しており、主に左翼手としてスタメン出場した。交流戦以降は工藤隆人の台頭もあり、終盤はスタメン出場は減ったが、代打で17打数7安打、打率.421と代打でも結果を残した。最終的に100試合に出場し、選手生命の危機からの復活を果たす。規定打席に満たないものの打率.283を記録。大事な場面での勝負強さを発揮し、この年はプロ入り初のサヨナラ安打を記録している[17]。
2008年は、悩まされていた坐骨神経痛の影響で年間通してほとんど打席に立てない状況が続き、26試合の出場に終わるが、クライマックスシリーズ第1ステージの2戦目で稲葉篤紀の代わりにスタメン起用され、1試合4安打の大活躍をするなどの存在感を見せた。
2009年は、開幕から左の代打の切り札としての地位を確立し、スタメン起用は減ったがパ・リーグ最多の55回の代打起用、49打数15安打8打点で代打打率.306を記録する。
2010年は、外野陣が稲葉・糸井・森本・陽岱鋼など起用選手がほぼ固定されてしまい、出場機会を求めて一塁手としての練習もしていた。なお一塁手挑戦に関し、「大学時代に1イニング守ったぐらいしか経験がない」と語っている。試合では稲葉が一塁へコンバートされたこともあり、一軍で一塁手としての起用はなかったが、練習では本職の外野と併用し続けていた。 序盤は代打として活躍し打率も3割をキープし、3月22日の福岡ソフトバンクホークス戦に二岡智宏の代打として出場し、久米勇紀から右翼線へ2点適時二塁打を放ち史上434人目となるプロ入り通算1000試合出場を果たした。しかしその後、肉離れや坐骨神経痛の再発などで出場試合数が激減。中盤に一軍登録を抹消される。二軍では打率.341と高打率を残すもなかなか一軍に呼ばれなかった。二軍では数試合一塁手としてスタメン出場した。終盤に再び一軍へ昇格するも、昇格と同時に来季の構想から外れていることを球団から通告されていた[18]。翌年に日本ハムのユニホームを着てプレーできないことを知りながら試合に出場していたが、昇格してから1本もヒットが打てなかった。
同年10月2日に球団は2度目の戦力外通告を行うと同時に二軍打撃コーチ就任を要請したが、残り26本に迫った通算1000本安打を達成したいことと、坐骨神経痛や肉離れなどの今まで苦しんできた怪我が治ったからにはまだ現役でやれるという本人の強い気持ちもあり[19]、球団は本人の意見を尊重し、退団が決まった[20]。さらに退団が決定した時に球団は「2006年の時みたいに今回は再契約しない」と通告されていた。また、退団会見で親交のあるイチローに「(現役続行は)アホな選択だったかな?」とメールしたことも明かし、イチローから「怪我が治って自分の力を試したいと思うのは当然」と返信がきたのも現役続行への後押しになったことも話している[21]。
オリックス時代[編集]

(2011年6月25日 神戸総合運動公園サブ球場にて)
2011年1月17日にかねてから獲得の報道があったオリックス・バファローズが獲得を発表した。1年契約で、背番号は00に決定[22]。坪井獲得に岡田彰布監督は「(二軍監督時代に)阪神で一緒に戦った選手やし、数字以外の目に見えない力もプラスになる」と、若手選手の模範役としても期待している獲得だったと語っている[23]。
オリックスの準本拠地であるほっともっとフィールド神戸で新入団を受けての取材で「岡田監督の目指す野球にできるだけ貢献できるように自分のプレーをしたい」と話している[24]。2011年開幕当初から調子が上がらず二軍生活が続いていたが、6月28日に一軍登録され、当日の埼玉西武ライオンズ戦で代打として出場し、移籍後初打席・初安打・初打点となる中越え適時二塁打を記録する。しかし、7月4日にチーム事情の関係[25]で一軍登録抹消されて以降、一度も昇格することなくシーズン終了。一軍では3試合の出場で8打数2安打とまずまずの結果だった。しかし、その後10月9日に球団から戦力外通告を受ける[26]が、坪井は現役続行を希望してトレーニングを続けていた。日本球団から声が掛からなかったため、2012年から米独立リーグに参戦。2014年8月14日に日本球界に復帰することなく現役引退を発表したため、一軍最終出場は2011年6月30日付となっている。
独立リーグ時代[編集]
2012年、アメリカ・アリゾナ州で行われているウィンターリーグに特別招待選手として参加[27]。ノース・アメリカン・リーグに加盟しているチコ・アウトローズに所属し、リーグ打撃成績で打率.483(リーグ2位)の好成績を残す。公式戦終了後はアメリカでトレーニングを続け、3月7日に日本に帰国。自身の公式ブログでアメリカの独立リーグ数球団から獲得の誘いがあったことを明かした[28]。5月中旬、ノース・アメリカン・リーグのサンラファエル・パシフィックスでプレーするために渡米[29]。パシフィックスでは主に2番でスタメン出場していたが、7月4日の試合中に打球をダイビングチャッチした際に左肩を捻挫し、7月7日に解雇される。その後トライアウトを受けて8月7日に独立リーグ・アメリカン・アソシエーションのゲーリー・サウスショア・レイルキャッツに入団が決定したことを発表したが[30]、チーム方針転換のため10日に解雇される[31]。同月中にノース・アメリカン・リーグのリオグランデバレー・ホワイトウィングスに所属し、8月14日の試合から出場[32]。その後、2012年シーズン終了後は所属先未定となっていたが、2013年もアメリカで現役続行するためにリハビリを続けると公式ブログで表明する[33]。
2013年6月からユナイテッドリーグ・ベースボールのエディンバーグ・ロードランナーズでプレーすることが決まる[34]。だが同月27日、ハムストリングを痛めて解雇された[35]。
2014年、アトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズでプレーすることで大筋合意した[36]。このリーグは米国・独立リーグの中で最もメジャーに近く、前ロッテの渡辺俊介や前オリックスの梶本勇介も同リーグに所属していた。開幕から1、2番打者としてスタメン出場して結果も残していたが、ある試合で一塁に出塁した際に偽装スタートを何度か切ったら「打者が集中できないから走る格好などするな」と怒りを買い、出場選手登録を抹消された。またランカスターは球団が選手に対し、地元の人の家にホームステイする形で住居を供給していたが、坪井には当初からホームステイ先が与えられず、ホームステイ先が決まるまでは自費でホテル暮らしをしたり、同情したチームメイトのホームステイ先に転がり込むものの監督にバレて家を追い出されるといった苦労を経験した。
そして同年8月14日に現役引退を発表。引退理由については「他のチームでプレーすることも考えたが、このリーグが独立リーグの中で一番レベルが高く、ここよりレベルを落としたチームでプレーしても上(メジャー)へ上がれる可能性はない。その可能性がなくなって(試合にも)使われないなら、もう野球をやる意味がない。ここまで甘えさせてもらった家族の生活もある。(辞めることに)後悔はない。」と語っている。翌日に、自身のブログでも現役引退についての記事を投稿した[37]。坪井が現役引退を発表した時に和田豊監督は「野武士のような感じで、(元広島)前田みたいなタイプだった。とことん突き詰めていってね。最初はイチローと比較されるのを嫌がっていたけどね」と振り返ったり坪井の1年遅れ(1999年)でプロ入りした福原忍投手は「ニュースで知りました。僕もお世話になったので寂しいですね。やりきったんだとは思いますけれど」と古巣阪神の同僚らが新聞にコメントを発表[38]。現役時代の元同僚や後輩から労いのメールを貰い、栗山英樹や、谷繁元信、中畑清らからも、『お疲れ様』『辛かっただろ』と暖かい言葉をかけてもらったこと。巨人の原辰徳監督からは現役時代は話したこともなかったのに、『坪井くん!キミは本当に野球が好きなんだね!そういう人材は野球界の宝だ、君の経験を還元していかなければいけないよ』と言ってもらってたことも話している[39]。
引退後[編集]
引退発表後は、公式戦のテレビ中継にゲスト解説として出演するなど、古巣である阪神タイガースや北海道日本ハムファイターズの試合を中心に野球解説者として活動していた。2014年9月11日には古巣阪神の本拠地、甲子園球場のマウンドで始球式を行った[40]。
2014年10月31日、自身の公式ブログとツイッターで、2015年に横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチ補佐に就任することを発表した[41]。背番号は日本ハム時代に着けていた7にちなんで[42]77が用意された[43]。監督がアレックス・ラミレスに変わった2016年も引き続き、打撃コーチを務める[44]。監督のラミレスは坪井のコーチとしての手腕を「特に左打者には準備をしっかりさせてくれている」と評価している[45]。のちに「補佐」ではなく一軍打撃コーチとして選手を指導。2021年10月29日に、自身の公式インスタグラムを更新し、同年限りでの退任を発表した[46]。
DeNA退団後は「ゆっくり外から野球を見るつもりだった」が、2022年より始動する独立リーグ・北海道フロンティアリーグの石狩レッドフェニックスの老田よし枝球団代表より要請を受け[42]、2022年2月17日、同球団の初代監督に就任したことが発表された[47][注 3]。背番号はDeNA時代と変わらず77[42]。初年度はリーグ戦1位ながら、チャンピオンシップ(2位と対戦、アドバンテージ1勝あり)で2位の士別サムライブレイズに敗れてリーグ優勝を逃した[48]。2023年もリーグ戦1位を勝ち取り[49]、リーグチャンピオンシップでは前年の雪辱を果たしてリーグ優勝を達成した[50]。チームとして初めて出場したグランドチャンピオンシップには「北海道のリーグがレベルが低いと言われる中でも勝てるチームをつくってきた」という自負を持って臨み、初戦は愛媛マンダリンパイレーツに1-4で惜敗したが「奮闘が光った」と評された[51][注 4]。シーズン終了後の10月22日に留任が発表された[52]。
監督業の傍らSTVラジオの野球解説者としても活動する。
選手としての特徴[編集]
左右に打ち分けるセンスを持ち[53]、バットコントロールが優れている[53][54][55]。
入団1年目の活躍もあり阪神の球団新人記録を多く保持していた。
- 新人最多連続試合安打:10試合(2001年に赤星が更新)
- 新人最多猛打賞:11回(2016年に髙山が更新)
- 新人最多安打:135安打(2016年に髙山が更新し、髙山の記録を2019年に近本が更新)
- 新人最多マルチヒット:40回(2019年に近本が更新)
- 新人最高打率:.327(現在も坪井が保持)
人物[編集]
東芝時代、練習では金属バットを使わず木製バットを使っていた。当時の社会人野球は高校野球と同様、公式試合では金属バットを使っていた(現在は木製バットが使われている)。坪井は「プロを目指していたので、僕は木製バットで練習をやっていました。東芝の監督やコーチにも金属バットで練習しろといわれたけど、生意気いわせてもらって木で練習していました。金属バットは軽いし飛ぶし、バットを振り回してしまうんですよね」と語っている[56]。
私生活では食生活などにも徹底管理をしていた。「大好きなものが体にすごく悪かったり、大嫌いなものが体にめちゃめちゃ良かったり。栄養士の先生に教えてもらいながら嫌々、食べたこともあります。妻と“三人四脚”でやってきて、今の自分があると思っているので、そのことに関しては胸を張りたい」 と話している[4]。
幼少時代からドラフト会議でプロに指名されて喜んでいる選手をテレビで観ても、「これからが大変なのに、あんなに喜んでいる場合じゃないぞ」と父親に言われて育ってきたこともあり、ドラフト指名された時は、「あぁ、これから大変だなと思った記憶しかないんです。全然、喜ぶ気にはなれませんでした。特に社会人(東芝)からの入団だけに、即戦力として求められている。ずっと東芝にいれば一生安泰だろうけど、プロは3年やってダメならクビだろうなという気持ちにしかなれなかったですね。」と語っている[5]。
坪井の長男(坪井洸之介)は父に憧れ、野球を始めた当初は右打ちだったが左打ちに変更している。そして父親が叶えられなかった甲子園出場を目指し、創志学園高等学校の硬式野球部に入部したが[57]、3年間で甲子園に出場することはできなかった。プロ志望届も提出せず[58]、創志学園卒業後は中央大学にスポーツ推薦で合格し入学[59]。
阪神時代はメディアの人間を寄せ付けない空気を出していた。本人は「僕は弱い人間なので、活字になったモノを目にしてしまうと、人より落ち込み度が高いと思う。自分を守るために本音は言いませんでした」ことと、その空気を変えたのが阪神時代のチームメイトで、2004年に日本ハムへ移籍してきた新庄剛志だった。坪井は新庄のパフォーマンスに参加するようになってから殻を破れたと話す。「自分の殻に閉じこもって、ただ野球をやっているだけじゃダメだって、いつも言われていましたし、球団も“ファンサービス・ファースト”というチームカラーでしたからね」と話している[4]。
大のコーヒー好きであり、札幌市に本社を置きラジオ番組(地域FM局にて、現在は放送終了)を放送していた財務コンサルタント事業を行っている株式会社グーゲンへの番組出演をきっかけに、石狩市の徳光珈琲とグーゲンの共同計画で「§坪井珈琲§」(2種)をネットやグーゲン本社にて販売している[60]。
2007年1月5日にTBSテレビで放映されたドキュメンタリー番組『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』にて、日本ハムを解雇されてから再雇用されるまでのいきさつが紹介された。同番組のラストは日本ハムとの再契約の際の記者会見で意気込みを語る姿で「もう這い上がるしかないですから」と語っている。
札幌ドームの偉い人から『坪井選手の野球に取り組んでる姿が好きです。いつでも施設を使ってください』とメッセージをもらい、「野球バカでも、一生懸命やってたらこうやって助けてくれる人がいるんだなぁ〜、と当時しみじみ想い、感動したことを思い出させてくれる。」と自身のブログで語っている[61]。
現役引退後に週刊ベースボールのインタビューで「今まで対戦したなかでNo.1の投手は?」と聞かれた際に、「松坂大輔や金子千尋など素晴らしい投手はたくさんいたが、特に斉藤和巳は負けない投手で、彼の背中から炎が見えるようだった」「マウンド上に立っている斉藤は背後に何かが見える感じ」「彼がどのような気持ちで投げていたか分からないですけど、すごく伝わるものがありました。あんなにマウンド上で大きく、近く感じた投手はいません。」「味方が点を取らなくても、自分が点を取られない。0対0の試合展開でも、最終的に1対0で勝つ。特に沢村賞を獲得したシーズンは凄かったですね。」と語っている[62]。また、自身のブログでも「No.1投手は斉藤和巳」と述べている。
前述の通り、2016年に髙山俊が自身の記録した新人シーズン最多安打を塗り替えたが、坪井は自身の135安打が当時の球団新人記録だとは知らず、髙山がヒットを重ね、坪井の球団記録に近づいたという報道が相次いで流れたことで知ったという。また坪井は髙山について、「高山を初めて見た時『1年目から3割打てる選手』と思った。それくらいの力がある。阪神はヨソと違って重圧がすごい。その中での好成績だから胸を張っていい」とも語っている[63]。
野球では左投左打であったが、箸は右手で持つ[64]。
交友[編集]
交友関係では、新庄剛志、入来祐作、稲葉篤紀、イチローとは特に仲が良い。阪神時代からの仲である新庄がメジャーリーグから北海道日本ハムファイターズに入団する決め手の1つに「(日本ハムには)全く知らない選手ばかりいる中で、阪神時代からの仲である坪井がいたことが大きかった」と語っている。坪井も「新庄さんとまた野球ができることは本当に嬉しいですよ」と話している。2006年の日本シリーズでチームが日本一になった瞬間、選手たちがベンチからマウンドのマイケル中村の周りに行き喜ぶなか、坪井だけはマウンドを通り過ぎ外野に向かった。外野で森本稀哲と抱き合った後に一人で泣きながらベンチにゆっくりと戻ってくる新庄のもとへ真っ先に駆け寄り新庄と抱き合った。また、新庄剛志が2020年にプロ野球選手として現役復帰を目指すことを宣言し、合同トライアウトに向けて試合形式で練習している際にも新庄の練習先に向かい、新庄にバッティングのアドバイスをしている[65]。
阪神時代にはPL学園時代の後輩だが、プロでは先輩となる今岡誠とも仲が良かった。
入来祐作とはPL学園時代に寮で同室であった(当時のPL学園野球部は先輩と相部屋で過ごす決まりがあった)。坪井はプロ入り後、「(練習が厳しくて)もし、入来さんが同室じゃなかったらどうなっていたか分からない」と話している。また、坪井が2006年オフに戦力外通告を受けて2回目のトライアウトに向けてトレーニングを行う中、バッティング練習に打撃投手として一役買ったように坪井との親交は深い。入来は高校時代から「坪井は実の弟よりかわいい奴だよ」と知り合いに話していたようにPL学園時代から坪井をかわいがっていた。
稲葉篤紀とは大学時代から共通の友人がいて面識があった。稲葉がプロ入り後に「実は(稲葉さんの)バットが欲しいんですけど……」と坪井が稲葉に電話したことがあった。電話をとった稲葉の第一声が「おう、ツボ、どうした?」だった。当時アマチュア時代の坪井に「そういう反応で電話を取ってくれるプロ野球選手がいるんだな」と思ったのは今でも覚えています。人との壁がない。いい人というイメージしかないですね。と稲葉とのエピソードを現役引退後に話している[66]。
また、稲葉が2005年に日本ハムへ移籍した時は「ようこそ!」と稲葉の加入を歓迎した。坪井がオリックスを戦力外になり米国独立リーグ挑戦時には稲葉に連絡し、2014年限りで現役引退すると決めたときは稲葉から連絡をもらった。逆に稲葉が現役引退を発表した時、稲葉の膝の調子がよくないことを知っていた坪井は、「体をいたわってゆっくり休んでください」「長い間、お疲れさまでした」とメールを送っている。坪井は稲葉の引退に「たとえ膝が悪くて守備ができなくても、代打一本、もしくはDHだったらまだまだできるんじゃないか」という思いが半分、もう半分は「そういえば、全力疾走ができなくなったら辞める時だと言っていたなぁ」という思いでした。半分半分です。でもまぁ、体の痛みを我慢しながらやっていたと思うので、僕からは「お疲れさま」としか言えないですね。と稲葉の現役引退を惜しんでいた[67]。
イチローとの関係[編集]
坪井がイチローの存在を知ったのは高校の時で、愛工大名電高校に入学した知人を通し、「鈴木っていうすごいやつがいる」という話を聞いていた。イチローも坪井の知人を通し、「PL学園に坪井ってやつがいるよ」という話を聞いていて高校時代からそれぞれの存在は認識していた。そして坪井がプロ入りした1998年に当時阪神の打撃コーチを務めていた福本豊が、オープン戦でウォーミングアップしていた時にたまたまイチローが近くにいて、「同じ左バッターの新人だからいろいろ教えてやってくれ」と坪井を紹介した。その後食事に行った時に連絡先を交換した[68]。この時がイチローとの初対面になる。イチローは坪井の第一印象は?と聞かれ「僕と同じように足上げて打ってて、『俺(坪井)の方が先だ』っていう話が出回って、『コイツふざけんな』って」と話しているように、会う前の印象は決していいものではなかったが、坪井と食事に行き、直接話していて感じたのは「好奇心が大きな人」と坪井に対する印象が変わったことを話している[69]。 そして親交が深まり、2001年のオフシーズンから毎年1月頃にはイチローの古巣・オリックスのスカイマークスタジアムで合同自主トレを行うほどの仲になった。この合同自主トレは坪井が阪神から日本ハム・オリックスに移籍した後にも続けられていた。イチローは、坪井が2006・2010年に日本ハムから、2011年にオリックスから戦力外通告を受け、現役にこだわってトレーニングを続けていた坪井をメールで励ましていた。2011年にオリックスに入団が決まり、ほっともっとフィールド神戸で新入団を受けての取材対応を予定した坪井に合わせ、イチローも自主トレを敢行している。この時にイチローは「背番号51をつけてほしかったね」と、坪井のオリックス入団を祝福。「アイツ(坪井)は野球が大好き。そういう選手が現役でプレーできる立場をつかんだわけだから、その事実がよかった」と話している[70]。
坪井はイチローのことを「野球生活の中で一番影響を受けた人物」と話し、引退を決断した時に家族以外で最初に報告したのはイチローで、「3.4時間ずっとしゃべってました。相談ではなく引退の報告というか、意志を伝えにいきました。野球人生の中で、一番影響を受けた人物ですし、尊敬している。イチローは独立リーグの環境の悪さとか、びっくりしていました」と引退会見で明かした[4][71]。
坪井が現役引退することを本人から直接聞いたイチローは、「技術を突き詰めていく、自分の能力の行けるところまで、っていうのは(坪井から)常に感じていた。それはいくつになってもそう、今年もそうだった。野球が好き、と言っても、子供の、リトルリーグのそういう感覚じゃない。ストレスがないものではない」[72]と坪井の野球に対する姿勢に共感していたと同時に、「(坪井は)好きで野球をやっている。それ(引退)を決めるのが大変なタイプ」[73]、「けがで(十分に)やれなかったのは残念」[74]と坪井の現役引退を残念がっていた。
坪井自身も引退会見で「できるなら10年、20年、30年野球を続けたい。今でも野球は大好き」と現役引退に未練ものぞかせていた[71]。
イチローが2018年5月3日、マリナーズと“スペシャルアシスタントアドバイザー[75]”〈会長付特別補佐[76][77]〉の契約を結び、選手としては同年の残り試合は出場しないことが発表された。これにより半永久的にマリナーズに留まることとなった[78][79][80][81][82]。この報道に対して坪井は「僕はプレーヤーとしての彼を見ていたいので、応援するというスタンスに変わりはない」、「映像を見ていてもまだできると思う。単純にプレーしている姿を見たいし応援したい」とコメントし、2018年にイチローがマリナーズに復帰することが決定した際には祝福メールを送り、今もオフには熱い談議を交わす仲である[83]。
2019年3月21日をもってイチローが現役引退すると発表した際、「僕の野球人生に凄く影響を与えてくれた人」「ただただ驚いている。50歳までできると思っていた。毎年一緒に練習をしていて、今も勉強のために自主トレを見させてもらっている。動きは変わらないし、まだできると思っている。春先が悪いのはいつものことだから心配していなかった」とオープン戦の不調は気にしていなかったが、突然の引退発表に驚いていた。 また、打撃コーチ就任後のコーチングへのアドバイスをもらっていたことも明かし、「45歳であれだけ動けるのは驚異でしかない。打席に立てばまた打ち出すんじゃないかって期待もある。でも彼が決めたことだから」とイチローの現役引退を惜しんだ[84]。阪神タイガースに所属していた若手時代から近くでイチローの姿を見てきた坪井は、「友達であり、野球選手として付き合ってきた。いろいろなことを考えていて私生活も全て野球に捧げてきた人」とイチローの現役時代を振り返った。3月20日のマリナーズ開幕戦では東京ドームに駆けつけ「国民的ヒーローなんだとあらためて感じた。昨夜の会見も全て見たけどさすがですね」と敬意を表した[85]。
振り子打法に変更[編集]
青山学院時代にバッティングフォームを阪神入団時のような振り子打法に切り替えた。当時の監督である河原井正雄は、「坪井はインコースの球に差し込まれるケースが多かった。本人は否定していたが、それを克服しようと試行錯誤し、たどり着いたのが少し体を開いた状態で打つようになったフォーム(振り子打法)だった」と語っている。
坪井が振り子打法に切り替えたのは大学3年時で、当時は佐々木誠のように足を大きく上げ、タイミングを取るスタイルだったが、変化球に弱く三振が多いことに悩んでいた。打撃で悩んでいた同時期にイチローが振り子打法で大ブレイクするのを見て、「変化球に対応するには、あの打法がええんちゃうの?」と振り子打法を真似したのが始まりだった。しかし「ただ単にイチローの振り子打法を真似しても試合で打てないから、自分なりにアレンジし、少しずつ試合で打てるようになった」と現役引退後に述べている[86]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | 阪神 | 123 | 455 | 413 | 63 | 135 | 26 | 2 | 2 | 171 | 21 | 7 | 5 | 3 | 1 | 32 | 0 | 6 | 80 | 0 | .327 | .383 | .414 | .797 |
1999 | 134 | 583 | 530 | 75 | 161 | 30 | 1 | 5 | 208 | 43 | 6 | 10 | 1 | 2 | 43 | 1 | 7 | 90 | 5 | .304 | .363 | .392 | .755 | |
2000 | 128 | 546 | 489 | 49 | 133 | 14 | 4 | 4 | 167 | 32 | 6 | 6 | 4 | 3 | 38 | 1 | 12 | 83 | 3 | .272 | .338 | .342 | .679 | |
2001 | 43 | 142 | 128 | 12 | 28 | 7 | 2 | 2 | 45 | 11 | 1 | 1 | 2 | 1 | 10 | 1 | 1 | 30 | 1 | .219 | .279 | .352 | .630 | |
2002 | 24 | 76 | 68 | 8 | 17 | 3 | 0 | 1 | 23 | 6 | 1 | 0 | 3 | 0 | 4 | 2 | 1 | 19 | 2 | .250 | .301 | .338 | .640 | |
2003 | 日本ハム | 123 | 500 | 443 | 70 | 146 | 26 | 3 | 5 | 193 | 40 | 13 | 5 | 5 | 0 | 46 | 2 | 6 | 79 | 10 | .330 | .400 | .436 | .836 |
2004 | 89 | 409 | 359 | 53 | 102 | 23 | 2 | 11 | 162 | 43 | 4 | 6 | 4 | 3 | 35 | 0 | 8 | 64 | 8 | .284 | .358 | .451 | .809 | |
2005 | 98 | 349 | 314 | 39 | 97 | 10 | 1 | 2 | 115 | 19 | 5 | 3 | 3 | 1 | 26 | 3 | 5 | 54 | 0 | .309 | .370 | .366 | .736 | |
2006 | 25 | 50 | 47 | 4 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 10 | 1 | .191 | .224 | .234 | .459 | |
2007 | 100 | 309 | 276 | 26 | 78 | 7 | 2 | 0 | 89 | 23 | 6 | 2 | 10 | 1 | 17 | 0 | 5 | 53 | 3 | .283 | .334 | .322 | .657 | |
2008 | 26 | 53 | 50 | 2 | 11 | 2 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 7 | 0 | .220 | .250 | .260 | .510 | |
2009 | 84 | 156 | 146 | 13 | 39 | 8 | 0 | 0 | 47 | 15 | 0 | 0 | 2 | 2 | 5 | 1 | 1 | 23 | 4 | .267 | .292 | .322 | .614 | |
2010 | 36 | 86 | 77 | 7 | 18 | 3 | 1 | 0 | 23 | 9 | 1 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 3 | 19 | 0 | .234 | .298 | .299 | .597 | |
2011 | オリックス | 3 | 8 | 8 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .250 | .375 | .625 |
通算:14年 | 1036 | 3722 | 3348 | 421 | 976 | 162 | 18 | 32 | 1270 | 265 | 50 | 38 | 41 | 14 | 263 | 11 | 56 | 613 | 37 | .292 | .352 | .379 | .731 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績所属リーグ内順位[編集]
年 度 |
年 齢 |
リ | グ |
打 率 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
出 塁 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | 24 | セ・リーグ | 3位 | - | 8位 | - | - | - | - | 7位 |
1999 | 25 | 8位 | 5位 | 6位 | - | - | - | - | - | |
2000 | 26 | - | - | - | 4位 | - | - | - | - | |
2001 | 27 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2002 | 28 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2003 | 29 | パ・リーグ | 7位 | - | - | 8位 | - | - | 7位 | 7位 |
2004 | 30 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2005 | 31 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2006 | 32 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2007 | 32 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2008 | 33 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2009 | 34 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2010 | 35 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2011 | 36 | - | - | - | - | - | - | - | - |
- -は10位未満(規定打席未到達のシーズンはすべて-と表記)[87]
年度別守備成績[編集]
年 度 |
球 団 |
外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1998 | 阪神 | 105 | 213 | 6 | 4 | 1 | .982 |
1999 | 133 | 226 | 11 | 5 | 2 | .979 | |
2000 | 122 | 181 | 7 | 3 | 2 | .984 | |
2001 | 32 | 42 | 2 | 1 | 0 | .978 | |
2002 | 17 | 21 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2003 | 日本ハム | 108 | 199 | 6 | 4 | 1 | .981 |
2004 | 87 | 145 | 5 | 1 | 1 | .993 | |
2005 | 91 | 149 | 11 | 2 | 0 | .988 | |
2006 | 13 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2007 | 80 | 126 | 4 | 0 | 2 | 1.000 | |
2008 | 9 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2009 | 36 | 47 | 4 | 1 | 0 | .981 | |
2010 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | |
通算 | 837 | 1372 | 56 | 21 | 9 | .986 |
- 各年度の太字はリーグ外野手最高
表彰[編集]
- NPB
- セ・リーグ連盟特別表彰:1回(新人特別賞:1998年)
- JA全農Go・Go賞:1回(最多二・三塁打賞:1998年8月)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2000年第2戦)
- サンスポMVP大賞:1回(1998年[88])
記録[編集]
NPB[編集]
- 初記録
- 初出場:1998年4月3日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、8回表に竹内昌也の代打として出場
- 初打席:同上、8回表に川村丈夫から中飛
- 初安打:1998年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に紀藤真琴から左翼線二塁打
- 初先発出場:1998年4月15日、対ヤクルトスワローズ1回戦(阪神甲子園球場)、1番・右翼手として先発出場
- 初打点:同上、8回裏に伊東昭光から
- 初盗塁:1998年4月24日、対読売ジャイアンツ3回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に二盗(投手:桑田真澄、捕手:吉原孝介)
- 初本塁打:1998年7月4日、対広島東洋カープ12回戦(広島市民球場)、1回表に紀藤真琴から左中間へランニング本塁打
- 節目の記録
- 1000試合出場:2010年3月22日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦(札幌ドーム)、8回裏に二岡智宏の代打として出場、久米勇紀から右翼線へ2点適時二塁打 ※史上434人目
- その他の記録
- プロ初本塁打がランニング本塁打:達成日等は上記「初本塁打」の項を参照 ※2リーグ制以後3人目(過去の達成者は武上四郎・緒方耕一、後に水田圭介・内村賢介などがいる)
- 初回先頭打者ランニング本塁打:達成日等は上記「初本塁打」の項を参照 ※史上5人目(新人では史上初)
- 規定打席以上で併殺打0:1998年達成 ※史上9人目(1997年の武藤孝司以来の記録。阪神の選手としては1953年の金田正泰、1969年の藤田平に次ぎ3人目。新人で規定打席に到達しながら併殺打0というのは史上初)
- セ・パ両リーグ1年目で規定打席に到達し打率3割以上:セで1998年に打率.327、パで2003年に打率.330を記録し達成 ※史上初
- 新人から2年連続で打率3割以上:1999年達成 ※史上4人目(過去の達成者は長嶋茂雄・横田真之・高橋由伸)
- セ・パ両リーグの2リーグ制(1950年より始まる)分立後の新人最高打率.327:1998年達成。(1リーグ制だった1949年以前を含めると、新人最高打率は1946年に打率.341を記録したグレートリングの田川豊である)
- セ・リーグ歴代新人最高打率.327:1998年達成
- 外野手最多補殺:1回(1999年:11)
- オールスターゲーム出場:2回(2000年、2003年)
背番号[編集]
- 32(1998年 - 2002年)
- 7(2003年 - 2010年)
- 00(2011年)
- 1(2012年)
- 39(2013年)
- 24(2014年)
- 77(2015年 - )
登場曲[編集]
- ウィル・スミス 『Wild Wild West』[89]
- ウルフルズ 『情熱 A GO-GO』
- 爆風スランプ 『旅人よ 〜The Longest Journey』
- SLIM THUG ft.Yelawolf 『I Run』
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 当時の阪神の春季キャンプでは、1年目の選手は二軍に割り振られるのが通例だった。
- ^ 1リーグ時代を含めると、新人最高打率は1946年に.341を記録したグレートリングの田川豊だが、打率はリーグ2位だったため新人で首位打者を獲得した選手は現在もいない。
- ^ 石狩球団自体は2021年に発足して北海道ベースボールリーグに所属したが、当時監督は置かれていなかった。リーグを脱退する形で他の2球団とともに北海道フロンティアリーグに移った。
- ^ 前年出場した士別は、2試合に0-23(対火の国サラマンダーズ)、1-16(対高知ファイティングドッグス)という大敗を喫していた。
出典[編集]
- ^ 株式会社スーパーエージェント
- ^ ファイターズ坪井選手の父、新三郎選手の現役時代と当時のライオンズの話 - 北海道観光研究所 北杜の窓(2009年05月24日)
- ^ 懐かしー(^-^) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2010-07-14
- ^ a b c d 引退の坪井智哉「野球界に恩返しができるような仕事を」 | 週刊ベースボール 2014年8月29日
- ^ a b “虎四ミーティング~限界への挑戦記~ 坪井智哉(プロ野球コーチ)<後編>「振り子打法、イチローとの秘話」”. 現在ビジネス (2014年12月26日). 2021年4月6日閲覧。
- ^ “横浜DeNAベイスターズ打撃コーチの坪井智哉(つぼい・ともちか)コーチを徹底解剖!”. はまれぽ.com (2015年5月15日). 2021年4月6日閲覧。
- ^ “年度別成績 1998年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2018年7月31日閲覧。
- ^ 高山、球団新人安打記録達成 136安打で坪井抜き/タイガースデイリースポーツオンライン、2016年10月25日閲覧。
- ^ 阪神近本が球団新人最多137安打 16年高山超え 日刊スポーツ 2019年9月5日
- ^ 阪神・高山が10試合連続安打 今永とのドラ1対決で遊撃内野安打 デイリースポーツ2016年4月14日
- ^ 高山が三回で早くも猛打賞 今季3度目 デイリースポーツ2016年4月22日
- ^ しゃーけど(--;) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2011-05-21
- ^ 2002年オフ 星野監督、大量リストラ&大補強断行 サンスポ 2020年9月23日閲覧
- ^ 同時期に発表された阪神山田勝彦と伊達昌司と日本ハム下柳剛と中村豊 (野球)のトレードとは別件と長らく語られてたが、2020年にこのトレードは本来野口と坪井も含めた3対3で発表される予定だったが下柳本人が年俸のダウン金額等の不満から球団と揉めてた事により発表のタイムラグが出たと片岡篤史のYouTubeチャンネルにて語った 阪神タイガースは衝撃の連続!?「今のままでは勝たれへんなぁ〜」下柳剛さんが語るセ・リーグで勝てる投手になる秘訣とは!? 片岡篤史チャンネル
- ^ 2003年度サンヨーオールスターゲーム パシフィックリーグ 出場選手公式戦成績(前半戦終了まで)
- ^ 勝敗を分けた延長戦 日本ハム - 劇的サヨナラが一転、球界史上初の珍事nikkansports.com、2016年9月20日閲覧。 ※記事の本文の方では述べられているように、当試合は9回で終了している。
- ^ a b “【12月27日】2006年(平18) 坪井智哉、日本ハム解雇から一転再契約”. スポーツニッポン (2007年12月27日). 2013年9月21日閲覧。
- ^ 坪井智哉、2度目の旅立ち 日刊スポーツ「ハム番日記」2010年10月18日
- ^ 残念ながら残念ながら(+_+) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2010-10-02
- ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト ニュース 坪井選手退団のお知らせ
- ^ 日本ハム退団の坪井にイチローからの激励
- ^ “日ハム戦力外の坪井、オリックスが獲得 背番号は00”. 朝日新聞. (2011年1月17日) 2012年2月19日閲覧。
- ^ オリ坪井獲得!岡田監督が“花道”用意
- ^ オリックス移籍の坪井がイチローと対面
- ^ 横浜DeNAベイスターズ打撃コーチの坪井智哉(つぼい・ともちか)コーチを徹底解剖!
- ^ 戦力外通告のお知らせ オリックス・バファローズ公式サイト(2011年10月9日)
- ^ “オリ戦力外の坪井 ウインターリーグに特例参戦”. スポーツニッポン. (2012年2月15日) 2012年2月19日閲覧。
- ^ ご無沙汰で(^.^) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012-03-06
- ^ 五月中旬に(*^o^*) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012-05-08
- ^ リリースされてから(^^;; 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012年8月7日。
- ^ ついさっき(^^;; 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012年8月10日。
- ^ “WhiteWings Win” (英語). OurSports Central. (2012年8月14日) 2019年10月30日閲覧。
- ^ 毎年恒例の(*^◯^*) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012-12-12
- ^ やっと( ›◡ु‹ ) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2013-06-01
- ^ なんかさぁ(~_~;) 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2013-06-27
- ^ 坪井、独立リーグのチームと契約合意
- ^ 今から12年前の 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2014-08-15
- ^ 和田監督「野武士のよう」坪井引退惜しむ 日刊スポーツ(2014年8月15日)
- ^ 坪井智哉「帰国後、友人が教えてくれた阪神ファンの優しさ」 集英社 Web Sportiva(2014.12.05)
- ^ 坪井智哉氏タテジマユニで甲子園始球式 日刊スポーツ(2014年9月11日)
- ^ 私事でございますが、、、 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2014-10-31
- ^ a b c “坪井智哉氏が独立リーグ石狩レッドフェニックス初代監督就任 新庄ビッグボスと共闘も!?”. 日刊スポーツ. (2022年2月18日) 2022年3月3日閲覧。
- ^ 2015年度 横浜DeNAベイスターズコーチングスタッフ決定 横浜DeNAベイスターズ 公式サイト
- ^ 横浜DeNAベイスターズコーチ名鑑 坪井智哉 横浜ベイスターズ公式サイト
- ^ “DeNA倉本2年目初サヨナラ打、狙い通り初球”. 日刊スポーツ (2016年5月13日). 2021年10月31日閲覧。
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- ^ 父はDeNAコーチ…創志学園・坪井 悔しい途中交代 指揮官「お父ちゃんが見ていたら…」
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- ^ イチローの振り子打法の元祖論争に決着! THE PAGE(2014.10.08)
- ^ 日本プロ野球記録1998-2011
- ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日) 2017年9月8日閲覧。
- ^ 月刊タイガース、2000年5月号、P45
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 坪井智哉 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」 - Ameba Blog
- 坪井智哉 (TomochikaTsuboi) - Facebook