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新潟県立長岡高等学校

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新潟県立長岡高等学校
正門(2018年6月)
地図北緯37度26分40.7秒 東経138度51分33.8秒 / 北緯37.444639度 東経138.859389度 / 37.444639; 138.859389座標: 北緯37度26分40.7秒 東経138度51分33.8秒 / 北緯37.444639度 東経138.859389度 / 37.444639; 138.859389
過去の名称
  • 長岡洋學校
  • 新潟學校第一分校
  • 私立長岡學校
  • 新潟縣立長岡中學校
国公私立の別 公立学校
設置者 新潟県
校訓
  • 剛健質撲ごうけんしつぼく
  • 豪爽快活ごうそうかいかつ
  • 和而不同わしてどうぜず
設立年月日 1872年12月23日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科
学科内専門コース
  • メディカルコース
  • サイエンスコース
学校コード D115220200015 ウィキデータを編集
高校コード 15135B
所在地 940-0041
新潟県長岡市学校町3丁目14-1
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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新潟県立長岡高等学校(にいがたけんりつ ながおかこうとうがっこう)は、新潟県長岡市にある高等学校である。略称は長高(ちょうこう)。

長岡地区の高等学校で唯一スーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定されている。校舎の正門は国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。

1948年に学制改革により旧制中学校(男子高)から新制高等学校となり、1950年に男女共学となった。現在では理数科の生徒は男子が女子より多いものの、普通科の女子生徒が男子生徒数を上回るため、全体では女子生徒数が男子生徒数より多くなっている(2024年度)。

概要

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校章
学校表示

1872年創立の長岡洋學校を起源とする。越後長岡藩は慶應義塾の三藩として支援していた経過があり、三島億二郎の尽力により、かつてより親交があった福沢諭吉より藤野善蔵(後に慶應義塾塾長)を招聘して開学した。長岡洋学校は城泉太郎(徳島慶應義塾校長[1])、三島徳蔵を校長に迎えるなど、慶應義塾との繋がりが深く淵源としている[2]。そのため長岡藩校を起源とはしていない(参考「慶應義塾史辞典」「福沢諭吉辞典」。校歌も「洋学校の開始より」との歌詞がある)。

明治初期に全国各地に慶應義塾塾生が分校、姉妹校、関係校を作ったが、現存する数少ない学校である(他に現存する学校として「三田予備校・三田洋学校」を源流とする錦城学園高等学校がある)。

その後、私立学校、古志郡立学校、古志郡町村立学校など運営者の変遷、幾多の改称を経て、1948年に現在の名称となった。なお県立となるまで、校長は慶應義塾から招聘されることが多かった。

上級学校への進学に対応した授業カリキュラムが編成されており、1時間あたりの授業時間は55分、月曜日と木曜日に至っては7時間授業の実施となっている[3]。(※木曜日は理数科のみ実施)

中越地域ターミナル駅である長岡駅から程近く、学区制が撤廃された現在は中越地方全域から公共交通機関を利用して通学する生徒が多い。

元々は制服のある学校であったが、1972年の制服撤廃宣言を経て私服校となった[4]

文武両道を志しており、4年制大学への進学率は国公立大学を中心に通年で高い。

1990年代に理数科が設置されてからしばらくの間は最も学校規模の大きかった時期で、1学年普通科10学級と理数科1学級の計11学級を擁しており、教室の不足を補うために生徒玄関近くにプレハブ2階建ての教室が設置されていた。(2006年撤去)

校歌

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  • 『新潟県立長岡高等学校第一校歌』(旧制長岡中学時代に制定) - 作詞:本富安四郎・作曲:植村クニ
  • 『新潟県立長岡高等学校第二校歌』(創立70周年を記念し、戦前の1941年に制定。終戦後の1951年に作詞者に依頼し歌詞の一部を改訂) - 作詞:堀口大學・作曲:深井史郎

1876年12月1日の長岡学校の開校式に臨んだ新潟県令永山盛輝による和歌「『長岡中学校の開校を祝て』長岡の文の林に生立る わか木は国のはしらとぞなれ」が、第二校歌の歌詞となっている[5]

この校歌は起源が同じ阪之上小学校の校歌「文の林に生い立てる 若木は国のはしらぞと」と類似している[6]

応援歌

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応援歌は多数あるが、特に「出塞賦(しゅっさいふ)」を唄うことが多い。

その歌詞には「蒼竜」という河井継之助の雅号、「龍啼(りゅうてい)」という河井継之助の愛馬の名前、「柴廟(蒼柴神社のこと)」「兜城下(かぶとじょうか)」などの歌詞から、戊辰戦争の際に、長岡城から出陣する河井継之助と長岡藩士の様子を連想させるものとなっている。

制服

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上述のとおり制服は廃止されている。学帽用の帽章、学生服用のボタン(校章入)は販売されている。入学式に校章入りボタンの学生服を着用する生徒は多い。概ね4月中には私服となるため、ほとんどの生徒は入学記念の購入である。一部の体育会系の部活動の生徒では学生服を着用する生徒がいるが、制服が存在しないため学生服であってもあくまでも「私服」であり、学生服を着ていると理由を尋ねられることがある。卒業式は多くの生徒がスーツなどを着用する。かつての女子生徒用の制服は記念資料室に展示されている。

特色

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2007年度にコース制導入に伴い理数科を2学級設置とし、2011年度より普通科は6学級設置となった。普通科は2年次より文系・理系に分かれる。

新潟県内の医師不足を懸念する県教育委員会の方針[7][8] により、理数科では2年次から「メディカルコース」と呼ばれる国公立・私立大学の医薬系を目指す専攻コースが設置されている。(同様の動きは県立新潟高校・高田高校・三条高校でもみられる[7][8][9]

理数科のメディカルコースでは長岡市医師会の全面的協力のもと、1年次に5回・2年次に3回、医師と看護師による「医療講演会」を実施しており、1年次の6月 - 8月には病院見学会も実施している[7]

同科のサイエンスコースでは長岡市内に本部を置く国立長岡技術科学大学と技能連携をし、発展した授業が展開されている[3]

校則

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制服廃止校(自由化ではない)で大学生同様の服装で登校できる、自由な校風であり、原動機付自転車や自動車運転免許も取得可能であり、長期休暇中のアルバイトも可能である(ただし届出制)。しかしA4用紙で2枚程度の「生徒心得」があり、以下のような行為は禁止されている[10]

・自動二輪免許の取得(原付で十分という理由から)

・原動機付自転車、自動車で通学のための校内への乗入れ、駐車(校内に駐車スペースがなく、過去に教員の駐車場所へ生徒が自動車を勝手に駐車した事例があったことなどによる)

・雪の日の自転車での登校(駐輪場を除雪しないため)

そのほか、スキー授業で使用するスキーを、宅急便などで学校へ送りつけることは出来ない(過去にそのような事例があったため)。

校内での集会開催は許可制であるが、これは他の県施設の庁舎管理規制と同様であり、学校という性質上、他県施設より内容が緩和されている。

同窓会組織

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旧制中学卒業生と新制高校卒業生と一緒に開催し、長岡総会、東京同窓会、新潟和同会、関西支部総会など各地、各職域で活発に行われている。東京同窓会では同校卒業生の元日本テレビアナウンサーの松永二三男櫻井よしこが司会を行っていたこともある。長岡まつり花火大会においては卒業年次の有志で花火を打ち上げるなどの活動を行っている。

初代教頭 藤野善蔵(教頭退職後の翌明治6年、慶應義塾塾長に就任)

設置課程

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  • 全日制課程
    • 普通科(6学級設置)
      • 文系
      • 理系
  • 全日制課程
    • 理数科(設置:1995年度・2学級設置)
      • メディカルコース(医歯学系・設置:2007年度)
      • サイエンスコース(技術系・設置:2007年度)

廃止された課程

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学校行事

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  • 4月 - 入学式・始業式・新入生オリエンテーション(1年)・遠足
  • 5月 - 中間考査
  • 6月 - 体育祭・陸上部会(クラス対抗)
  • 7月 - 期末考査・第一部会(クラス対抗のスポーツ大会)
  • 8月 - 和同祭(文化祭)・理数科研修旅行(2年)
  • 10月 - 中間考査、普通科キャリアデザインツアー
  • 12月 - 期末考査・第二部会(クラス対抗のスポーツ大会・3年除く)
  • 2月 - 学校スキー(3年除く)
  • 3月 - 1・2年学年末考査・卒業証書授与式・終業式

※修学旅行は1977年度以降実施されていない(理由は不明)。

生徒会活動

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生徒会は「和同会」(わどうかい)と称し、校訓の『和而不同』(わしてどうぜず)を旨としている[3]。本来の論語の意味に加えて「フラタニティ (Fraternity) 」の意味でも説明されている。和同会は井上円了により寄宿生の会として発足している。慶應義塾の影響を受け三田演説会に倣っていた。城泉太郎が教員に赴任した頃、自由民権運動が盛んな時代には、同じく教員だった橋本圭三郎とともに演説会を主催するなどの活動を行っていた。そのため自由民権運動団体の一つと扱われる。卒業生が各地域での同窓会も○○和同会と称しているため、和同会イコール生徒会ではないことに注意を要する。

  • 総務(生徒会執行部)
  • 会計局
  • 書記局
  • 新聞編集委員会
  • 放送委員会
  • 体育祭実行委員会
  • 体育行事実行委員会
  • 和同祭実行委員会
  • 応援団

ギャラリー (校舎)

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沿革

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  • 1869年5月 - 1871年8月 - 小林虎三郎三島億二郎等によって国漢学校(現:阪之上小学校の起源)が開設される。国漢学校は洋語・医学・兵などの五つの学校群に分かれ、この洋語の流れを汲むのが長岡洋学校である。国漢学校は廃藩置県によって柏崎学校の分校となり廃止。[11]
  • 1872年12月23日(明治5年11月23日) - 三島億二郎等の尽力により、藤野善蔵(後の慶應義塾塾長)を迎えて長岡洋学校として開校する。
  • 1873年11月 - 新潟学校第一分校となる。
  • 1876年7月14日 - 私立長岡仮学校となる。
  • 1876年10月20日 - 生徒・井上円了等、和同会を創設。寄宿寮舎生の演説会から、後に生徒会へと発展。
  • 1876年11月 - 町村組合長岡学校となる。
  • 1886年5月1日 - 私立長岡学校となる。明治19年6月の文部省令で学校は廃止となるが、明治19年10月に田中春回らが学校私議草案を県に提出し、存続。
  • 1892年10月1日 - 古志郡町村立長岡尋常中学校となる。
  • 1893年8月26日 - 古志郡立長岡尋常中学校となる。
  • 1899年4月1日 - 新潟県古志郡立長岡中学校となる。
  • 1900年4月1日 - 新潟県立長岡中学校となる。
  • 1948年4月1日 - 学制改革により新潟県立長岡高等学校となる。
  • 1948年6月1日 - 定時制開設。中心校・関原分校・来迎寺分校を設置。
  • 1950年4月1日 - 男女共学開始、女子生徒7名入学。
  • 1955年5月1日 - 三島郡越路町新設により、来迎寺分校を越路分校と改称。
  • 1966年 - 本年度高校入試より学区拡張、三島学区と同学区となる。入試教科も9教科→5教科へ変更。
  • 1970年3月31日 - 定時制・中心校閉校。
  • 1972年3月 - 現在の校舎(普通教室棟・特別教室棟・管理室棟)が竣工する。
  • 1972年9月27日 - 和同会総会において生徒会執行部より「制服制度廃止宣言文」が発表され、同日採択される。これに伴い制服が廃止される。[4]
  • 1977年度 - 長岡高等学校で年間行事として実施されていた修学旅行がこの年の実施をもって中止になる。
  • 1984年3月31日 - 定時制・越路分校閉校。
  • 1986年3月31日 - 定時制・関原分校閉校。
  • 1995年4月1日 - 理数科を設置。
  • 2002年4月1日 -
  • 2007年度 - 理数科の学科改変とコース制導入に伴い、2学級設置となる。
  • 2011年度 - 普通科を6学級設置とする。
  • 2011年10月28日 - 長岡高校正門が国の登録有形文化財(建造物)に登録される。
  • 2013年4月1日 - 文部科学省より「スーパーサイエンスハイスクール」に再指定される。(2期終了 - 2017年度)
  • 2018年4月1日 - 文部科学省より「スーパーサイエンスハイスクール」に再指定される。(3期)

部活動

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運動部

文化部

同好会

  • ダンス有志

著名な出身者

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旧制中学校時代の卒業生も含む

山本五十六の出身校である。また、本校の旧学区である現在の長岡市近辺では幕末から明治初期にかけて、池田謙齊入沢達吉(見附市)、入沢恭平長谷川泰小金井良精石黒忠悳(小千谷市片貝)など多くの医学者を輩出しており、本校開学以降も出身、卒業生として、島峰徹佐藤剛蔵谷口腆二椰野巌樋口助弘三浦岱栄熊谷洋青柳卓雄加藤俊徳など多くの医学者、生体工学研究者を輩出している。またわが国の建築学で構造学の発展に貢献した日比忠彦や、半導体研究をわが国で初めて発足させた駒形作次、人文科学ではフランス文学者の堀口大学、社会科学の分野では戦前を代表するマルクス経済学者の猪俣津南雄も本校の出身である。わが国で政治学を確立した元東京帝国大学総長の小野塚喜平次は本校に入学しているが、校長罷免運動の責任を取って途中退学となっている。ただし、開校初期は入学者を同窓会名簿に登録しているので、本校の同窓生である(敬称略)。

政界・官界・財界

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旧軍人・軍関係者

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陸軍

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海軍

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  • 山本五十六連合艦隊司令長官
  • 小山吉郎(海軍造船総監・海軍造船少将・工学博士)
  • 朝倉耕一郎(海軍大佐・海軍兵学校15期、佐世保工廠副官、造兵廠検査官)
  • 磯部忠治(海軍少佐・海軍兵学校21期、秋津洲副長)
  • 加藤哲平(海軍大佐・海軍兵学科30期、富士副長兼教官兼海軍大学校教官、室戸艦長)
  • 丸田幸治(海軍軍医少将・息子の丸田吉人(鳥海軍医長としてレイテ沖海戦で戦死)は井上成美の娘婿にあたる
  • 佐藤六平(海軍大佐・海軍兵学校32期、佐世保軍需部員)
  • 立川七浪(海軍大佐・海軍兵学校32期、横須賀工廠機雷実験部長、常磐艦長)
  • 青木宗作(海軍中佐・海軍兵学校33期 舞鶴要港部軍需部長)
  • 山本孝治(海軍法務官、東京帝国大学法学部、515事件の海軍検察官[14]
  • 上原松山(海軍機関大佐・海軍機関学校17期、横須賀鎮守府付)
  • 佐藤正四郎(海軍少将・海軍兵学校37期、砲術学校教頭、・26事件で横須賀鎮守府特別陸戦隊4ヶ大隊指揮)
  • 鈴木新治(海軍少将・海軍兵学校37期、海軍大学校甲種20期 佐世保警備戦隊司令官、館山砲術学校長)
  • 五十嵐恵(海軍中佐、艦長、五十嵐邁の父)
  • 小林徹理(海軍中将、重巡洋艦最上艦長、第31特別根拠地隊司令官)
  • 田中菊松(海軍中将・重巡洋艦熊野艦長、インドネシア独立宣言に関わった第5警備隊前田精少将の上官、第21特別根拠地隊司令官
  • 林良齋(海軍軍医少佐・第14駆逐隊軍医長)
  • 植村庭三(海軍大佐・海軍兵学校39期、陸奥副長、横須賀第2海兵団副長兼教頭)
  • 竹垣純信 (海軍機関中佐・第一次世界大戦地中海に派遣された第二特務艦隊の第11駆逐隊機関長)
  • 佐藤正四郎(海軍少将・226事件の鎮圧に出動した海軍陸戦隊司令官)
  • 久保木五郎(海軍機関大佐・海軍機関学校31期、広東方面特別根拠地隊工作長)
  • 下田一郎(海軍少佐・第321航空隊飛行隊長 下田僚の伯父、昭和10年卒)

文化・芸術

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学術・技術

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芸能

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マスコミ

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スポーツ

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その他

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教職員

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舞台になった作品

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交通・アクセス方法

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近隣施設

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脚注

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  1. ^ 全国の慶應義塾 徳島県「徳島慶應義塾記念碑」”. 慶應義塾大学. 2024年5月11日閲覧。
  2. ^ 全国の慶應義塾 新潟県「長岡藩の教育」”. 慶應義塾大学. 2024年5月11日閲覧。
  3. ^ a b c 新潟県立長岡高等学校・普通科・理数科(全日制)” (PDF). 新潟県立長岡高等学校. 2016年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月19日閲覧。
  4. ^ a b 新潟県立長岡高等学校・平成27年度2学期終業式「訓話」(平成27年12月24日)”. 新潟県立長岡高等学校. 2018年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月19日閲覧。
  5. ^ 『記念資料室』新潟県立長岡高等学校(1988年)
  6. ^ 校章・校歌”. www.kome100.ne.jp. 2018年7月2日閲覧。
  7. ^ a b c 河合塾 新シリーズ受験風土記・第23回「新潟県」”. 河合塾グループ. 2018年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月20日閲覧。
  8. ^ a b 上越タウンジャーナル「高田高校にメディカルコースを設置 理数科に2016年春から|上越タウンジャーナル」『上越タウンジャーナル』。2018年6月20日閲覧。
  9. ^ 平成30年度~平成32年度・新潟県立高校等再編整備計画-生徒一人一人の夢を叶える特色ある学校づくりの推進-”. 新潟県教育委員会. 2018年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月20日閲覧。
  10. ^ 長岡高校生徒心得”. 新潟県立長岡高校. 2024年7月12日閲覧。
  11. ^ サンケイ新聞2001年6月19日
  12. ^ 私立東京英語学校”. 2024年4月2日閲覧。
  13. ^ 医療法人崇徳会理事長”. 医療法人崇徳会. 2024年6月28日閲覧。
  14. ^ 五・一五事件の海軍検察官、山本孝治”. WebSkip編集部. 2024年6月30日閲覧。
  15. ^ DNDメルマガ”. 2024年4月23日閲覧。
  16. ^ 脳機能イメージング(fNIRS)”. www.an.shimadzu.co.jp. 2024年7月13日閲覧。
  17. ^ 本人のツイッター
  18. ^ 地域の歯科医療を支える日本歯科医師会の役割」『ニッポン放送 NEWS ONLINE』ニッポン放送、2018年10月29日。2023年9月23日閲覧。
  19. ^ 徳島県「徳島慶應義塾跡記念碑」 | 慶應義塾大学 通信教育課程”. 慶應義塾大学 通信教育課程 ウェブサイト. 2024年4月28日閲覧。
  20. ^ 同志社百年によせて(PDF)”. 同志社大学. 2024年4月28日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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