生長の家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Blue-comet (会話 | 投稿記録) による 2012年5月20日 (日) 15:32個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

生長の家
徽章
本部
設立 1930年(昭和5年)3月1日
設立者 谷口雅春
法人番号 2011005000437 ウィキデータを編集
本部 東京都渋谷区
会長 谷口雅宣
ボランティア数
212万人
※2000年(平成12年)現在
テンプレートを表示

生長の家(せいちょうのいえ)は、1930年昭和5年)に谷口雅春により創設された宗教団体[1]

主要な活動資金は、谷口雅春およびその子孫による書籍を出版することで得ている。その信仰は、神道仏教キリスト教イスラム教ユダヤ教等の教えに加え、心理学哲学などを融合させている。全宗教の真理は一つと捉えている。宗教法人格を持つ。(当初は宗教とは決まっておらず、生命の実相では「これが宗教とすると・・・」というように記されたこともあった。)

概要

1930年谷口雅春によって創始された。公称信者数は212万人(2000年12月31日現在)。内日本には約85万人程度とされる。本部は東京都渋谷区神宮前一丁目23-30。

現在の総裁は、谷口雅春の娘婿・谷口清超の二男・谷口雅宣2008年10月28日に父・清超が89歳にて逝去したため、立教記念日の2009年3月1日付を以て、谷口雅宣が第3代生長の家総裁に就任した。

総本山として龍宮住吉本宮長崎県西海市に、別格本山として宝蔵神社京都府宇治市に各々ある。代表的な聖典として『生命の實相』が、聖経として『甘露の法雨』が、神示として「七つの燈臺の點燈者の神示」(総称)がある。尚、『生長の家』という名称は、それぞれの宗教宗派が様々な方便、因縁のある「門」(宗門)であるのに対して其の真実を説く所である「家」(生長の家)であるということに因み、「生」とは永劫に続く“縦”の時間、「長」とは無限に継続する“横”の空間、その十字交差の1点が「生長の家」である、と説かれている。

歴史

創始から終戦まで

別角度から

創始者(生長の家では開祖や教祖の名称は使われない)の谷口雅春は、紡績会社勤務のときから1918年大正7年)に大本の専従活動家になり、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記に携わった他、機関紙の編集主幹などを歴任した。同時期に大本の本部で活動していた江守輝子と出会い、1920年(大正9年)11月22日に結婚。

1922年(大正11年)の第一次大本事件を期に、大本から離脱した浅野和三郎と行動を共にし、翌1923年(大正12年)には浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』に加わった。同年関東大震災で被災し、妻・谷口輝子の実家である富山に疎開中の10月10日、長女の谷口恵美子が誕生。

雅春は、外資系石油商ヴァキューム・オイル・カンパニー勤務の傍ら『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ね、一燈園西田天香らとも接触した。特に当時流行していたニューソート自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。

1929年昭和4年)12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたことを機に、1930年(昭和5年)3月1日に修身書として雑誌『生長の家』1000部を自費出版した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。

「人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」のニューソート流主張により、支持者・講読者を拡大。 『生長の家』誌で発表した雅春の論文は1932年(昭和7年)に『生命の實相』としてまとめられ、1935年(昭和10年)には購読者を組織して教化団体生長の家を創設する。全国各地に支部が設立され、また学校などでも生長の家の講演会が開かれるなど教勢を拡大した。

敗色濃厚な1944年(昭和19年)には紙の配給が止まり『生長の家』誌の発行も一時停止したが、「皇軍必勝」のスローガンの下に、金属の供出運動や勤労奉仕、戦闘機を軍に献納するなど教団を挙げて戦争に協力し、天皇信仰・感謝の教えを説いた。これらは「愛国」の教えと呼ばれ、雅春の著作は信徒の間では「愛国聖典」と呼ばれた。

日本の敗戦後も文筆活動は滞らず、戦後は西洋思想家の著作の邦訳にも力を注いでいる。

この翻訳作業の助手の募集を新聞広告で見た者の中に、後に谷口雅春の養嗣子となり、第2代総裁となった荒地清超(後の谷口清超)がいた。清超は東京帝国大学文学部心理学科を卒業後、結核で兵役検査に落ち、地元の病院で療養中に上等兵から『生命の實相』を渡され感銘を受け、終戦後この翻訳作業の助手を志望し上京。谷口雅春に見出され1946年(昭和21年)に雅春の一人娘の恵美子と結婚する。

戦後の法人化と政治への参加

1949年(昭和24年)に生長の家教団として宗教法人格を得て、組織の再構築を行った。その後は妊娠中絶反対運動などでも積極的に活動する様になり、伊勢神宮の神器の法的地位の確立(一宗教法人の私物ではなく皇位継承と特別な関係のあるものと主張)や、靖国神社国家護持運動などに取り組んだ。

安保闘争の激化を受け、政治への積極関与を再開。建国記念の日の制定や、元号法制化に教団を挙げて協力した他、生長の家政治連合(生政連)を結成し玉置和郎村上正邦らを自由民主党公認候補として参院選に送り込んだ。

1978年(昭和53年)の第2回相愛会男子全国大会(日本武道館で開催)の時には、玉置和郎中川一郎黛敏郎また130名程の国会議員が参加し、渡米中の福田赳夫首相(当時)から祝電が届いた。

また、学生運動が再高揚した1969年(昭和44年)には、生長の家学生会全国総連合(生学連)が、他の右派諸団体と共に全国学生自治体連絡協議会(全国学協)を結成し、「学園正常化」と「YP(ヤルタポツダム)体制打倒」「反近代・文化防衛」を掲げて、全国の大学で左翼全学連と激しく衝突した。鈴木邦男高橋史朗伊藤哲夫など新右翼民族派の活動家、衛藤晟一井脇ノブ子などの政治家は生学連、もしくは全国学協の出身といわれている。

しばしば「生長の家の傘下組織」と表現される日本青年協議会は、実際は全国学協OBによって結成された組織である。日青協の草創期の幹部に生長の家出身者が多かったこともあって、そう誤解されているようである。

また、その学生組織である反憲法学生委員会全国連合は全国学協内の路線対立、分裂によって生まれた組織である。1973年(昭和48年)に、全国学協中執を中心とする一派が自立草莽・実存民族派路線(左翼民俗学の「常民論」に基づき天皇を革命の手段と把握)、反米帝・民族解放路線(第三世界との連帯と反米路線。PLO等との共闘を主張)を採択したのに対し、もう一派は、反ヤルタ・反憲・民族自立路線の下に新たに反憲学連を結成した。

「反憲」路線とは、占領憲法をこそ戦後体制の象徴と捉え、全ての政治運動を反憲運動に収斂させることを言い、また「民族自立」路線とは、「啓蒙」や「イデオロギーの外部からの注入」という次元でしか「思想」を捉えることのできない近代知識人の限界を乗り越え、民族の《原像》に基づき(この思想営為を「自立」と呼ぶ。「自立」は元々は吉本隆明の言葉)、戦後・近代の擬制秩序解体→真正国家創出を目指すこととされる。

その後も生学連としばしば共闘したのは「反憲」路線の反憲学連の方であった。しかし、共闘はしても、反憲学連が生長の家教団の組織となったことは一度もない。

昭和40年代末~60年代、反憲学連は、全国の大学で新左翼各派と思想的、物理的に激しく対峙したが、平成に入って以降その活動は確認されていない。一方、生学連の方は現在も活動を続けているが、政治的色合いは全く失われており、主に地球環境問題、生命倫理の問題などに取り組んでいる。

また、反憲学連でない側の学協分裂グループは、昭和60年頃まで長崎大学(「長大学協」と名乗る)と國學院大學(「日本民族解放戦線」と名乗る)で活動していたことが確認されている。尚、この組織と反憲学連の双方ともが、自らを「学協の正統な後継組織」であると主張し対立している。

教団の路線変更は、その学生組織である生学連の活動内容に変更を強いたのみではなく、1983年(昭和58年)、その最大の政治組織でもある生政連をも活動停止に追い込んだ。保守系運動団体のネットワーク組織である日本を守る国民会議の地方組織の事務局のいくつかは、それまで生政連の地方拠点におかれていたが、これらは以降一斉に他への移転を余儀なくされている。

ちなみに、前に記した伊藤哲夫の主宰する団体が、保守系シンクタンクとして有名な日本政策研究センターである。日青協が学協OBの組織であるのに対し、政策センターは生学連OBを中心に結成された組織である。とは言っても、生長の家教団の政治的保守路線の変更に反発した者が集まって結成した独立団体なので、生長の家教団の傘下団体として存在したことはやはり一度もない。

現在、日青協や政策センターは、日本を守る国民会議の後継団体である日本会議の加盟団体として、神社本庁念法眞教仏所護念会崇教真光キリストの幕屋等、生長の家以外の保守的宗教団体と強い関係を構築している。但し、保守的宗教団体に数えられることもある統一教会原理研究会に対しては、全国学協の草創期に一時部分的に共闘したただけで、現在は完全に関係を絶縁している。

世代交代後と現在

1985年(昭和60年)6月17日に谷口雅春が死去し、同年11月22日に「生長の家総裁法燈継承祭並びに新総裁襲任生長の家秋季記念式典」が執り行われ、娘婿の谷口清超が第2代の総裁に、妻の谷口恵美子が第2代の白鳩会総裁に就任。

1988年(昭和63年)4月26日には雅春の妻で初代白鳩会総裁・谷口輝子が死去。その後1990年平成2年)11月22日には、谷口清超の次男・谷口雅宣が副総裁に就任すると、1993年(平成5年)より従来の「人類光明化運動」の趣旨をより明確化する形で「国際平和信仰運動」を立ち上げる。

1994年(平成6年)には谷口雅宣の妻・谷口純子が白鳩会副総裁に就任。谷口清超は2005年(平成17年)頃より体調を崩し自宅にて療養・静養中であったが2008年(平成20年)10月28日に死去。それに伴い、2009年(平成21年)3月1日の立教記念日に「生長の家総裁法燈継承祭」が執り行われ、谷口雅宣が第3代の総裁、あわせて妻の谷口純子が、谷口恵美子より白鳩会総裁職を譲り受け、第3代の白鳩会総裁に就任した。

清超の第2代総裁就任以後、表立った政治運動からは手を引き、教化面での活動に重点を置くようになり、日本政府による「侵略戦争への反省」や「戦争責任の追及」にも反対しないなど、軌道修正を行った。その一環として、雅春の著した数々の愛国的要素の強い聖典の多くが重版未定にされたため、雅春以来の古参信者の反発と離反を招き、元幹部による「谷口雅春先生を学ぶ会」、谷口清超の二女夫妻を中核とした「生長の家オーストラリア法人(ときみつる会)」などの別派が本部を離脱して行った。

また1995年(平成7年)のオウム真理教による地下鉄サリン事件を契機に、宗教法人の収入報告などを義務付けた宗教法人法改正には、いち早く賛成を表明するなど、比較的透明性の高い宗教団体の1つであることを主張している。『新しい歴史教科書をつくる会』の構成員には生長の家の信奉者が多いこと、『生命の實相』が1,900万部を売り上げたことでも知られる。

近年では地球環境問題や遺伝子問題・生命倫理問題・エネルギー問題などの現代的問題に対する教義が重視され、宗教法人として初めてISO14001認証を本部事務所(東京・原宿)および生長の家総本山で取得、2007年8月には日本の全事業所64カ所および関係団体2カ所の計66カ所全ての生長の家関係機関で取得を終えた。日本以外では、2009年10月に生長の家ブラジル伝道本部が、2010年11月に生長の家アメリカ合衆国伝道本部で、同じくISO14001の認証を取得している。

生長の家は日系移民の多いブラジルで盛んで、信者数は250万人を公称、教化支部は109あり、またTV放送を、21chで2006年3月より開始した。またサンパウロ州クリチーバ市サンジョゼ・ド・リオ・プレット市サンタマリア市ベレン市ポルト・アレグレ市、等では「生長の家の日」が制定されている。

尚、『新編 聖光録』(信徒必携)には教育勅語大日本帝国憲法日本国憲法等が載せられている。

活動と普及誌及組織構成

信徒も含め一般向けの行事として「講習会」が設けられており、全国59教区で隔年開催されている。講習会は受講代を払えば基本的に誰でも参加可能であり、入退場も原則自由である。現在講習会には、谷口雅宣総裁、谷口純子白鳩会総裁の夫妻が講師として指導している。

一般向けの月刊誌(「普及誌」)としては、25歳以上の男女を購読対象にした生長の家総合誌として『いのちの環』、25歳以上の女性を購読対象とした『白鳩』、12歳から24歳までの青年男女を購読対象とした『日時計24』の3誌を日本教文社が月1回発行、世界聖典普及協会を通して頒布している。機関紙としては『聖使命』(9万部)があり、会員向けの「機関誌」として、『生長の家』がある。いずれも月1回発行である。

信者組織としては、40歳以上の男性対象組織「相愛会」(1万人)、同じく女性対象組織「白鳩会」(6万人)、12歳~39歳の男女青年組織「青年会」(3千人、誌・組織共に1998年)が基本の3組織とされている。なお白鳩会のみ、教団全体の総裁・副総裁とは別に、単独組織の総裁・副総裁が設けられており、2009年現在、白鳩会総裁は谷口純子である。なお、教団全体の副総裁、ならびに白鳩会副総裁は空席となっている(1985年11月21日まで総裁・谷口雅春、白鳩会総裁・谷口輝子、2009年2月28日まで総裁・谷口清超、白鳩会総裁・谷口恵美子であった)。

この他にも副次的組織として、会社経営者や産業人で構成される「栄える会」、学校教員や教育関係者で構成される「生教会」(生長の家教職員会)が存在する。なお、かつては生教会と同列的な組織に「新教連」(新教育者連盟)が存在したが、2003年に生長の家との包括的関係を解消している。

教義

生長の家の教義は谷口雅春の著作特に生命の実相甘露の法雨を基礎に次の2点を根本としている。

1. 全ての存在は、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものであるところの完全なる生命、すなわち神が現れたものである。従って、人間の実相(本当の姿)は神の子であり、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものに満ちた永遠不滅の生命である。

2. 我々が五感によって認識する世界は、心とは独立した客観的実在ではなく、心に思い描いたものが現れた現象界なのであるから、心のあり方によってどのようにでも現れる。従って、人間の実相はあらゆる善きものに満ちた神の子であるという真理を悟れば、現象世界においても幸福が現れる。

尚、生長の家は、神道仏教キリスト教又、天理教大本等諸宗教はその根本においては一致するという「万教帰一」の立場に立っている。また光明思想とでも言うべきアメリカのニューソートの影響を受けている。其の他あらゆる物事にも感謝するように説く。一例として「ありがとうございます」という言葉が挨拶の代わりに為っている。

世界観・人間観

生長の家では「実相」のみが真に存在するという観点に立ち、人間や霊魂等が生老病死・輪廻転生を遂げる無常の世界を映画等のスクリーンに映し出された様なものであると比喩しこれを本来存在しない「現象世界」・「仮相」であると説く。生老病死・輪廻転生を遂げる人間・霊魂は実在しない「仮相人間」であり、生老病死・因果や法則を超越した存在こそ金剛不壊の真に存在する「実相人間」であると説く。その上でこの世、現象世界での生きるべき姿・処世術を説いている。

人間が実相を悟れば事態・環境・法則は自ずから無害有益なものに為り、真に無限供給の神の恵みを受ける事が出来るとする。

徽章の由来と意義

「生長の家」の徽章

1935年(昭和10年)2月1日制定。図案は帝展審査員であった山根八春(やまねやつはる)がデザインした。テーマは万教融和と中心帰一である。そして全体は太陽地球逆卍十字日の丸を融和させたデザインとする。周りの32の円光はの三十二相を、中のの逆卍は仏教太陰を表している。中央のの八つ星は八方位をまとめた存在として日本を、また十字架としてもキリスト教を表している。そしてこの八つ星の緑は青人草(あおひとぐさ)が繁茂している事を示す。

また生長の家ではこの徽章を太陽の子孫、神の子であるしるしとしている。また日子(ひこ)「彦」、日女(ひめ)「姫」の悟りを開いた三十二相の顕現の兆候を示しているとする。

1937年(昭和12年)頃にこの図案のバッジもつくられた。

主な行法・供養

行法

生長の家では強制的な行法はなく、したがってする必要は絶対ではないが、これらのうちどれか一つでも一日に一回するのが望ましと考えられている。

神想観

生長の家で最も重視されている行法として観法「神想観」がある。正座をして先ず招神歌をよみ瞑目合掌し、心中に言葉を念じて神と一体であることを実感するものであり、一種の祈りと言える。基礎的なものから深遠なものまで総計25ある。信者に限らず一般の人にも勧められる。

  • 基本的神想観
  • 神を讃える神想観
  • 蓮華日宝王地観
  • 如意宝珠観
  • 浄円月観
  • 観普賢菩薩行法
  • 四無量心を行ずる神想観
  • 自己礼拝の神想観
  • 和解の神想観
  • 神を愛する神想観
  • 随時随所神想観
  • 最も簡単にして本質的な神想観
  • 絶対者と一体(ひとつ)になる神想観
  • 就寝前一切を許し感謝する祈り
  • 睡眠中に神の智慧を受ける祈り
  • 朝、目覚めたときの祈り
  • 朝、太陽に向っての祈り
  • 竜宮・平和・普賢観
  • 大日本神国観
  • 伊勢神宮の神前に於ける神想観
  • 日本国実相顕現の祈り
  • 人類光明化運動推進のための祈り
  • 住吉大神宇宙浄化を祈る神想観
  • 遠隔思念の一形式
  • 世界平和の祈り


大祓の人型(年間二回)

紙の札に氏名を書きそれで本人を擦り、息を吹きかけ、それを総本山と各教化部で焼納するというものである。(六月大祓式:6月30日、大晦大祓式:12月31日)

浄心行

心を浄める為に自分の思っている悪いこと全てを紙に書き出し、それを本山等で清めた炎で焼却し本人の心を清めるというものである。

写経

聖経「甘露の法雨」を写経する。写経されたものは生長の家の本山若しくは道場等に送付されそこで供養されるというものである。

供養

永代供養

永代祭祀ともいう。生存者奉安祭祀・故人祭祀・流産児祭祀の3つがある。供養される者の氏名を専用の「甘露の法雨」経典に書き供養する。生存者の場合は総本山龍宮住吉本宮の誠魂奉安筐に奉安され故人に為ると別格本山宝蔵神社の紫雲殿に遷され永代供養される。

先祖供養
流産児供養

社会への影響

生長の家および生長の家系列の宗教の書籍等では旧日本軍に生長の家信者が少なくなかったことが記される。

一番有名なのは宮城事件を信者の田中静壱が鎮圧したことである。この際、甘露の法雨も持っていたともいわれる。また生長の家の講師が田中静壱の病気を直したのが入信のきっかけだったという。

根本博は生長の家の教義にしたがい終戦後も内モンゴルソビエト連邦と戦った。

条目・宣言文

  • 『生長の家』七つの光明宣言(全7条)
  • 『生長の家』家族の祈願及び修養(全16条)
  • 『生長の家』信徒行持要目(全8条)
  • 生長の家の信条
  • 人類光明化運動指針(生長の家各員の運動心得十三ヶ条)
  • 人類光明化運動発進の宣言
  • 人類光明化のパテントは諸君に譲られた(聖使命特信)
  • 招神歌
  • 光明思念の歌
  • 神国実現への手紙
  • 法燈継承の真義
  • 聖使命菩薩讃偈
  • 実相を感ずる歌

施設・機関

日本

上記の他全国各都道府県に教化部が設けられている。尚、新潟県、東京都、京都府、長崎県は二つの教化部が存在する。又、北海道は札幌、小樽、室蘭、函館、旭川、釧路、北見、帯広に教化部が存在している。 それぞれ、○○教区というふうに呼ばれる。

日本以外

  • 生長の家北米伝道本部
  • 生長の家北加中央会館
  • 生長の家トロント会館
  • 生長の家バンクーバー会館
  • 生長の家ニューヨーク会館
  • 生長の家ハワイ綜轄教化部
  • 生長の家ブラジル伝道本部
  • 生長の家ブラジル別格本山
  • 生長の家南米練成道場
  • 生長の家サンタ・テクラ練成道場
  • 生長の家サンタフェー練成道場
  • 中華民國生長之家傳道協會(中華民國・台湾)


参考文献

関連項目


脚注

  1. ^ 週刊ダイヤモンド、2009/09/12、30ページから、”新宗教”

外部リンク

公式

その他