コンテンツにスキップ

増田寛也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。検見川町 (会話 | 投稿記録) による 2012年2月9日 (木) 14:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎小町村に対する支援: lk)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

増田寛也
ますだ ひろや
生年月日 (1951-12-20) 1951年12月20日(72歳)
出生地 東京都世田谷区
出身校 東京大学
前職 建設省建設経済局建設業課紛争調整官
所属政党 無所属
称号 法学士(東京大学・1977年
親族 父・増田盛 元参議院議員(自民党)
公式サイト 増田寛也 オフィシャルサイト

日本の旗 第8-9代 総務大臣
特命担当大臣(地方分権改革担当)
内閣 安倍改造内閣
福田康夫内閣
福田康夫改造内閣
在任期間 2007年8月27日 - 2008年9月24日

岩手県の旗 公選第13-15代 岩手県知事
当選回数 3回
在任期間 1995年4月30日 - 2007年4月29日
テンプレートを表示
米国総領事と会見する増田寛也(2006年10月

増田 寛也(ますだ ひろや、1951年12月20日 - )は、日本の建設官僚政治家

岩手県知事総務大臣第8代第9代)、新しい日本をつくる国民会議副代表などを歴任。

概要

東京都出身。父は参議院議員を務めた増田盛(ますださかり)。

岩手県知事在任中は、宮城県知事浅野史郎三重県知事北川正恭などと並び、改革派知事の代表格として知られた存在であり、安倍改造内閣福田康夫内閣福田康夫改造内閣では知事出身の民間閣僚として地方再生に取り組んだ。

略歴

経歴

政歴

知事としての政策

岩手県知事工藤巌の病気再選不出馬を受けた選挙で、当時新進党幹事長小沢一郎に見出され、官僚を辞して立候補。自民党推薦の前副知事佐々木浩や前代議士で後の釜石市長たる日本社会党県本部長小野信一を破って初当選を果たした。当選後は反小沢のスタンスに転じた。

提唱した政策理念

県庁株式会社 

増田は県政を企業経営に見立て、県庁を「県庁株式会社」呼ぶなど、政策に効率を持ち込んだ。相互依存=相互友愛としての公共空間「地方」というこれまでの理念を排し、サービス会社=県庁と、顧客=県民という二項対立図式に基づく地方自治理念の改革論者として知られる。しかし、構想のほとんどは実行されず、単なる掛け声に過ぎなかった(岩手日報特集「検証増田県政」)。

がんばらない宣言

ベストセラーになった鎌田實の「がんばらない」をいち早く取り入れて宣言を出した。「がんばる」という言葉は、日本の経済成長一辺倒の象徴であるとし、「岩手はがんばりません」という言葉を「自然体に生きて行こうという意識の象徴」として、「岩手県は、経済成長一辺倒を反省し、より自然に、素顔のまま生きていけるような取り組みを推進します」(県の出した広告より)としている。ただし、内向けには「がんばります」がスローガンとなっている。

宣言は、例えば地産地消を基本とするスローフード的な食の安全の推進などの政策となって現れた。

政策

増田は任期前半には積極的な公共投資を行い、任期後半に、財政再建に舵を切った。増田の任期前半は、国が景気対策の公共投資を推進した時期と重なり、一方の任期後半は、小泉内閣の発足に伴い、公共事業費の大幅な縮減が断行された時期と重なる。以下に詳述する。

任期前半の積極的公共投資

増田は全国的な公共事業拡大の流れに乗って公共投資を拡大させ、1997年度予算でピークを迎えたが、2001年に発足した小泉内閣公共事業の大幅な縮減をはかり、岩手県予算でも2002年度以降、公共投資予算は年10%以上のスピードで縮減された。増田は知事退任後の取材に対し「国の財政的限界で…(中略)…いずれ公共事業に予算が回らなくなるのはわかっていた。だから、東北新幹線花巻空港釜石自動車道など(骨格的な事業)は、先にやってしまおうと思った」と答えている[1]

任期後半の財政再建

増田は2003年の選挙で、「2年で公共事業を30%削減する」との公約を掲げて3選された。その後、財政再建を推し進め、県債発行を返済額以下に抑える「プライマリーバランスの黒字化」、行政経費削減のための職員給与カット、県職員削減、公共事業の縮減、地方振興局の再編などを実行した。

海外視察

知事時代は積極的に海外視察をおこなった。フィンランドではノキアを、スウェーデンではエリクソンをそれぞれ短い時間ではあるが訪問した。また、バリ島の観光視察、ニューヨーク岩手県人会との懇談、パラグアイ訪問、イグアスの滝で有名なイグアス岩手県人会の懇談など、精力的な知事外交を展開した。

県内企業の輸出は停滞し、県内主要港湾からの輸出額がゼロの年すらあり、知事の姿勢が批判されたこともあった[2]が、3期目の後半に中国大連との交易が活発になり、知事外交の成果が現れてきている。

競馬組合への融資

盛岡競馬場の新築による岩手競馬の累積債務増大を放置し、政権末期になって特別融資を実施し、問題を先送りした。

財政再建

およそ1兆円の債務を抱える財政を再建するため、2002年(平成14年)度予算以降、歳出削減策を次々に打ち出した。岩手県の予算規模が5年以上連続して減少するのは初めてのことで、その徹底した削減ぶりがうかがえる。9028億円(平成13年度)だった予算総額は、7300億円(平成18年度)に激減。公共事業費に至っては、2300億円(平成14年)→1300億円(平成18年)になり、その他の項目も、警察費や雇用対策費などを除いて軒並み大幅に減額された。ただし、この緊縮財政市町村補助金の激減を招き福祉予算も大幅に削減されたので、一部から社会的弱者の軽視という不評の声も上がった。

財政悪化の原因

財政悪化の原因について、増田は2005年3月2日岩手県議会本会議で、「財政悪化の原因は3つある」と指摘したうえで、「このような結果を招いたことを深く反省している」と陳謝した。

1.岩手県立大学の設立・東北新幹線の延伸工事
2.公共事業の連発
3.臨時財政対策債の発行

“…県債残高増加の主な原因は3点あると思っております。一つは、東北新幹線県立大学の整備など、県単事業の財源として多くの県債を発行してまいりました。二つ目は、たび重なる国の経済対策に呼応いたしまして、立ちおくれておりました本県の社会資本整備を前倒しで実施するということで、補正予算債をこれも多額に発行してまいりました。3点目は、国におきまして、地方の財源不足に対応するため、地方交付税の振りかわりとして臨時財政対策債などの財源対策債による地方財政措置がとられた。したがいまして、そうした臨時財政対策債などの発行を余儀なくされた。この3点であろうと思っております。…(中略)

…経済対策のための地方債に対しましては、後年度に交付税を措置するという、このような地方財政対策が講じられましたので、これを立ちおくれておりました社会資本整備を進める好機ととらえて取り組んできたわけでございます。これによりまして、確かに県民生活の向上や基盤整備が進んだと考えておりますけれども、一方で、多額の県債残高を抱えて償還額が今お話しございましたとおりに累増してございますし、結果として、景気の目立った回復が見られない。そこで本県財政の悪化を招く要因となったものと認識しておりまして、このような結果を招いたことを深く反省をしているところでございます。”

— 議事録の記載をそのまま転写。平成17年2月定例会第12回岩手県議会定例会議録(第4号)平成17年3月2日(水曜日)

人件費の削減

増田県政は職員の削減も進め、早期退職制度の創設や、職員新規採用の抑制・県職員の給与カットなどを行った。これまでに、約5000人いた県職員を4700人規模にまで純減させたほか、今後さらに700人を削減する計画を決めた。

なお、この削減は知事部局のみが対象ではなく、警察本部教育委員会にも、定員純減を要求。県庁の業務に「トヨタ方式」と称してコンサルタント業者の提案を受け入れ、業務の必要性や民間委託の可否を検討させたり、指定管理者制度を活用したりと、業務の効率化も推進しようとした。 増田は会見で「仕事量を減らさずに人数を減らしても、それは職員一人当たりの負担が増すだけだ」と述べていたが、県職員の労働の加重は昂進したという指摘もあった。なおこの「トヨタ生産方式」は、トヨタとは無関係のコンサルタント業者に委託して立案されたもので、トヨタ自動車で行われている「トヨタ方式」ではない。 増田氏の次に知事となった達増拓也は、知事就任直後に、このトヨタ方式を凍結した。

黒字の達成

上記のような徹底した削減に務めた結果、岩手県は、プライマリーバランスの黒字化(その年度に新たに発行する県債の額が、その年度に返済する額を下回る結果、借金の残高が減ること)を達成した。政府は「2010年初頭までに黒字化する」と公約していることから、単純比較で政府よりも10年前後早い黒字達成となった。

市町村との関係

岩手県の人口は、年を追うごとに減少傾向が続いており、現在は140万人を割る事態に至っている。そのため、人口が1万人に満たず、かつ地理的条件により合併ができない小規模町村が県内に散見され、都道府県市町村の役割分担の態様の見直しが求められている。

大合併に対して

平成の大合併に対しては、概して積極的ではなく、「合併は市町村間の合意によるべき」とのスタンスを取った。ただ、いわゆる市町村合併のモデルプランは示した。

2006年4月に施行された新合併特例法は、都道府県知事が小規模市町村に直接合併勧告を行う制度が設けられたが、これについては「合併に関して勧告するかどうかは地域事情によると思う。自主合併をベースに自分なりの判断をしていきたい」(2003年11月19日定例記者会見)と述べた。

小町村に対する支援

同県は四国全域に匹敵する面積を持ち、地理的条件によって合併ができない町村(岩泉町川井村など)があるため、そうした町村には県が支援を行うとしているが、具体的にどのような支援を行うのかは不透明だった。また、一部市町村からは「県からの補助金は逆に減額されているではないか」等々の声もあり、各市町村からは「(合併や補助金政策に対する)県の本音が見えない」と戸惑いの声が上がることもある[要出典]

盛岡市との関係

盛岡市の運営は、県知事であった増田の職権とは直接的には関係ないが、同市が当時目指していた中核市移行などは県の権限に関わる事案であるため、便宜上ここにまとめる。

県庁所在地の市長と知事の関係は、一般的に微妙になりがちとされるが、別段そのような事はなかったとされる。盛岡市長谷藤裕明は、岩手県議会議長だった人物で、増田とも親しい。なお、盛岡地域の人口について増田は「(全県的に人口減少が続いているが)せめて盛岡地域の人口は現状を維持してもらいたい」と述べている。県が示した合併プランによれば、盛岡市は岩手郡雫石町滝沢村紫波郡紫波町矢巾町と合併し、人口50万人程度を目指すのが適当としている。もし実現すれば、広大な面積の人口密度の希薄な自然豊かな県都の出現となろう。

盛岡市は、2006年1月岩手郡玉山村を編入合併し、政令指定都市に準ずる権限委譲を受ける中核市の要件(人口30万人)を満たした。増田は、岩手県知事として中核市移行に同意し、総務大臣へ指定を申請した。奇しくも、政府内手続きを終え、盛岡市の中核市指定が決まった時、増田は総務大臣を自らつとめており、知事として中核市指定の申請を行い、大臣として自らの申請を決裁したことになる。

地方分権に対する姿勢

官僚出身の知事としては珍しく、地方分権に極めて積極的なスタンスを取った。

「国→都道府県→市町村」への権限委譲を主張し、全国知事会会長選挙に立候補して「闘う知事会」を主張。また、全国紙に論説を寄稿したり、県の権限を「パッケージ」単位にして、市町村へ積極的に委譲した。小泉純一郎首相(当時)の推進した三位一体改革の理念には賛同したが、その地方分権税源移譲の程度は「不十分なもの」と指摘し、「霞ヶ関によって改革が骨抜きにされた」と述べている。道州制導入に積極的な態度を示し、実際に働きかけてもいた。

退任

2006年10月30日、四選目不出馬を表明し、翌年4月29日の任期満了をもって、岩手県知事を退任した。増田は、三期目立候補の際「今回が最後の立候補」と公約していた。退任会見で決断の理由を問われ、「行き過ぎた多選は、県庁内で自由に意見を表明しにくい雰囲気を醸成する」と説明。当時は、全国で現職知事の談合による逮捕(和歌山県福島県宮崎県)が相次いでいた経緯がある。

地元紙岩手日報の報道等によれば、決断の背景の一端には、衆議院議員小沢一郎民主党代表)が「権力の座に、特定の者が16年以上も留まることは許されない」として、次の選挙で独自候補(民主党衆議院議員達増拓也=肩書きは当時。知事選出馬を受けて、公選法規定により失職=)を擁立する考えを示したことが、影響しているといわれる。

今後は、地方分権改革推進委員会委員長代理として活動するため、出身地である東京都へ住居を移した。 実際には、任期中も1~2ヶ月に1回、任務内容を公表しない東京出張で東京に所有している家に帰宅していたという。

総務大臣として

2007年8月27日、安倍改造内閣において総務大臣内閣府特命担当大臣地方分権改革担当)、郵政民営化担当、道州制担当、地方・都市格差是正担当に就任した。就任挨拶で増田は、「総理から『地方の元気を引き出すように』と指示を受けた。地域間格差の解消に積極的に取り組みたい」と述べた。

「今回の人選は、同じ岩手県出身の民主党小沢一郎代表に、半ば対抗するためのものではないか?」という憶測が、一部マスコミで言われている。

地方交付税特別枠の導入

総務大臣として増田は、三位一体改革の影響で窮地に立たされている地方財政を改善するため、「暫定的措置」としてではあるものの、地方交付税を財政力の弱い自治体に優先的に配分する政策を打ち出した。この特別枠制度は、2008年度政府予算とともに、1月召集の第169回国会に提出されることが閣議決定されている。

この特別枠制度は、企業が自治体に収める「法人事業税」と「法人住民税」の一定割合をプールして、地方に配分する仕組み。これらの税は、企業の集中する大都市部と地方との間で、大きな税収格差を発生させている背景がある。制度の導入に伴って、東京都愛知県大阪府等の大都市は減収をこうむる事になるが、減収分を地方債で補填することや、東京都が進めている環状道路整備を国が後押しすることを条件に、石原慎太郎都知事の同意を取り付けた。この制度に伴って、国の新たな財政負担はない。

総務省はもともと、地方税の偏在を是正するため、法人税国税に移す代わりに、地域間格差の比較的少ない地方消費税の比率を高めることを主張していた。ただ、この案には財務省が激しく反発していた経緯があり、今回の「暫定措置」的な決着も、こうした背景があるものと報道されている。

政治資金収支報告書記載ミス

2007年9月8日、岩手県知事時代の政治団体が、同氏の資金管理団体に寄付した100万円について、資金管理団体が領収書を発行しながら政治資金収支報告書に記載していなかったことが分かった。増田氏は同日、記者会見を開き「100万円は(2003年4月の県知事選の選挙運動費用として)私個人に対するものだったが、領収書の書き方が誤っていた。選挙運動費用収支報告書には記載、報告がなされている」と、事務処理上の単純ミスであると説明した

ネット上の犯行予告に対して

2008年6月8日に発生した秋葉原通り魔事件を受け、総務相として6月11日に「来年度予算の概算要求に、ネット上の犯行予告を検知できるソフトの開発費を盛り込む。費用は数億円かかる」とコメントした。これに対し、エンジニアの矢野さとるが、自分ならお金と時間をかけずに開発できるという考えから、急きょ予告.inという名前の犯罪予告情報共有サイトを構築し、翌6月12日に公開された(ただし、犯行予告を検知できるソフトと、犯罪予告情報共有サイトは性質が全く異なる別物である)。

人物像

父は、奥州市出身の元・参議院議員増田盛自民党)。尊敬する人物は新渡戸稲造。身長182cm、体重77kg。血液型はA型。趣味はサッカーなどのスポーツ観戦や乗馬スキーカヌーサイクリングなど。普段は沈着冷静で感情の変化を表に出さないタイプだが、岩手県知事時代に盛岡商業高校全国高校サッカー選手権大会で優勝した際、国立競技場の観客席で地元応援団と共に大声を張り上げて声援を送り、周囲を驚かせたエピソードがある。また、2001年の東京都のホテル課税問題については、知事自身がほぼ日刊イトイ新聞鳥越俊太郎宛のメールを送っている[3]

関連項目

脚注

  1. ^ 「読売新聞」2007年3月13日
  2. ^ 例えば、平成13年6月定例会第10回岩手県議会定例会会議録(第5号)平成13年7月4日など。
  3. ^ ほぼ日刊イトイ新聞 - 3分間で最近のニュースを知るより。

外部リンク

公職
先代
菅義偉
日本の旗 総務大臣
第8・9代:2007年 - 2008年
次代
鳩山邦夫
先代
菅義偉
日本の旗 特命担当大臣(地方分権改革)
第2・3代:2007年 - 2008年
次代
鳩山邦夫
先代
工藤巌
岩手県知事 岩手県の旗
民選第6代:1995年 - 2007年
次代
達増拓也