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[[古墳時代]]、[[常陸国]]周辺は東国最果ての地であったと言われる。[[奈良時代]]に[[律令制]]が敷かれると[[東海道]]に属した。[[平安時代]]に入り、[[桓武天皇]]に多くの[[皇子]]があったことから[[朝廷]]は[[常陸国]]を[[親王任国]]に指定したため、以降常陸は[[桓武平氏]]一族の任地の一つとなり、水戸周辺は常陸平氏・[[大掾氏]]の領地となった。大掾氏は水戸に館を築くが、これがその後[[水戸城]]に継承された。 |
[[古墳時代]]、[[常陸国]]周辺は東国最果ての地であったと言われる。[[奈良時代]]に[[律令制]]が敷かれると[[東海道]]に属した。[[平安時代]]に入り、[[桓武天皇]]に多くの[[皇子]]があったことから[[朝廷]]は[[常陸国]]を[[親王任国]]に指定したため、以降常陸は[[桓武平氏]]一族の任地の一つとなり、水戸周辺は常陸平氏・[[大掾氏]]の領地となった。大掾氏は水戸に館を築くが、これがその後[[水戸城]]に継承された。 |
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一方、[[前九年の役]]、[[後三年の役]]で[[安倍氏 (奥州)|奥州安倍氏]]の鎮圧で功を挙げた[[清和源氏]]流[[新羅三郎]]・[[源義光]]の長男・[[源義業]]は常陸国[[久慈郡]][[常陸太田市|佐竹郷]](現在の[[常陸太田市]])を領して[[佐竹氏]]を名乗った。また義光の三男・[[源義清]]は[[那賀郡]][[ひたちなか市|武田郷]]を領して[[武田氏]]を名乗った。武田氏は大掾氏と競合して朝廷から牽制され[[甲斐国]]に移ったが、佐竹氏は大掾氏の娘を嫁として土着し[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[戦国大名]]となって常陸国・下総国を支配したが、[[関ヶ原の合戦]]で西軍に就いたため[[久保田藩]]に転封された。 |
一方、[[前九年の役]]、[[後三年の役]]で[[安倍氏 (奥州)|奥州安倍氏]]の鎮圧で功を挙げた[[清和源氏]]流[[新羅三郎]]・[[源義光]]の長男・[[源義業]]は常陸国[[久慈郡]][[常陸太田市|佐竹郷]](現在の[[常陸太田市]])を領して[[佐竹氏]]を名乗った。また義光の三男・[[源義清]]は[[那賀郡]][[ひたちなか市|武田郷]]を領して[[武田氏]]を名乗った。武田氏は大掾氏と競合して朝廷から牽制され[[甲斐国]]に移ったが、佐竹氏は大掾氏の娘を嫁として土着し[[戦国時代 (日本)|戦国時代_(日本)|戦国時代]]には[[戦国大名]]となって常陸国・下総国を支配したが、[[関ヶ原の合戦]]で西軍に就いたため[[久保田藩]]に転封された。 |
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[[江戸時代]]、この地には[[水戸徳川家]]が配され、[[日本橋]]からは[[水戸街道]]が整備された。 |
[[江戸時代]]、この地には[[水戸徳川家]]が配され、[[日本橋]]からは[[水戸街道]]が整備された。 |
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現在は[[常磐自動車道]]・[[常磐線]]・[[国道6号]]線が通り[[福島県]][[浜通り]]地方への経路となっている。また[[日立市]]、[[ひたちなか市]]および[[大洗町]]には北関東随一の[[重要港湾]]([[日立港]]、[[常陸那珂港]]、[[大洗港]])があり、[[北海道]]/[[北米]]/[[欧州]]/[[極東]]/[[中国]]/[[韓国]]定期貨物[[航路]]の拠点・[[北海道]]定期旅客航路の拠点・北関東の物流拠点等の機能を担い、北関東内のみならず東日本の一大物流基地となっている。日立市は日立港を擁する[[日立製作所]]の企業城下町としても有名である。 |
現在は[[常磐自動車道]]・[[常磐線]]・[[国道6号]]線が通り[[福島県]][[浜通り]]地方への経路となっている。また[[日立市]]、[[ひたちなか市]]および[[大洗町]]には北関東随一の[[重要港湾]]([[日立港]]、[[常陸那珂港]]、[[大洗港]])があり、[[北海道]]/[[北米]]/[[欧州]]/[[極東]]/[[中国]]/[[韓国]]定期貨物[[航路]]の拠点・[[北海道]]定期旅客航路の拠点・北関東の物流拠点等の機能を担い、北関東内のみならず東日本の一大物流基地となっている。日立市は日立港を擁する[[日立製作所]]の企業城下町としても有名である。 |
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水戸東部には北関東最大の海水浴地である[[大洗町|大洗]]や[[ひたちなか市|阿字ヶ浦]]、夏に海浜コンサートが開かれる[[国営ひたち海浜公園]]が立地する。また北部[[日立市|日立]]周辺は北関東唯一の海浜リゾート地でもあり、河原子・川尻・伊師浜等の海水浴場を抱え、シーズンには[[栃木県]]各地から海水浴客を集め混雑する。[[久慈川]]上流は[[八溝山地]]の関東北部山系、さらに[[阿武隈高地]]に連なり、陸奥国との天然の境界となっていたが、現在はJR[[水郡線]]や[[国道349号]]が整備され、日本有数の[[瀑|名瀑]]である[[袋田の滝]]があり観光名勝となっている。 |
水戸東部には北関東最大の海水浴地である[[大洗町|大洗]]や[[ひたちなか市|阿字ヶ浦]]、夏に海浜コンサートが開かれる[[国営ひたち海浜公園]]が立地する。また北部[[日立市|日立]]周辺は北関東唯一の海浜リゾート地でもあり、河原子・川尻・伊師浜等の海水浴場を抱え、シーズンには[[栃木県]]各地から海水浴客を集め混雑する。[[久慈川]]上流は[[八溝山地]]の関東北部山系、さらに[[阿武隈高地]]に連なり、陸奥国との天然の境界となっていたが、現在はJR[[水郡線]]や[[国道349号]]が整備され、日本有数の[[瀑|名瀑]]である[[袋田の滝]]があり観光名勝となっている。 |
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====[[鹿嶋市|鹿嶋]]周辺==== |
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かつて[[鬼怒川|毛野川]]・[[小貝川]]河口付近であり、南部は香取海や湿地帯であった。江戸時代以降に開墾され、新田となった土地も多い。 |
かつて[[鬼怒川|毛野川]]・[[小貝川]]河口付近であり、南部は香取海や湿地帯であった。江戸時代以降に開墾され、新田となった土地も多い。 |
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古代、毛野川流域には[[毛野国]]が立国され[[下野宇都宮氏|下毛野君]]の領土であったと言われる。[[平安時代]]、この一帯は[[桓武平氏]]流[[大掾氏]]の領地であったが、その後政争に敗れて失脚した。[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけては[[下野国|下野]][[国司]]・[[宇都宮氏]]傍系の[[八田知家|八田氏]]流・[[小田氏]]が[[常陸国]][[守護]]となって統治し、[[戦国時代]]には常陸国守護で[[戦国大名]]となった[[佐竹氏]]の勢力下にあった。[[江戸時代]]になると[[清和源氏]]・[[細川氏]]が[[谷田部藩]]に入封し[[明治維新]]まで続いた。[[廃藩置県]]当初は[[新治県]]に編入された。 |
古代、毛野川流域には[[毛野国]]が立国され[[下野宇都宮氏|下毛野君]]の領土であったと言われる。[[平安時代]]、この一帯は[[桓武平氏]]流[[大掾氏]]の領地であったが、その後政争に敗れて失脚した。[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけては[[下野国|下野]][[国司]]・[[宇都宮氏]]傍系の[[八田知家|八田氏]]流・[[小田氏]]が[[常陸国]][[守護]]となって統治し、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]には常陸国守護で[[戦国大名]]となった[[佐竹氏]]の勢力下にあった。[[江戸時代]]になると[[清和源氏]]・[[細川氏]]が[[谷田部藩]]に入封し[[明治維新]]まで続いた。[[廃藩置県]]当初は[[新治県]]に編入された。 |
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現在は[[筑波山]]や[[霞ヶ浦]]などの観光地を抱える。 |
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====[[足利市|足利]]・[[小山市|小山]]・[[結城市|結城]]周辺==== |
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古くは東山道、江戸時代には[[例幣使街道|日光例幣使街道]]、現在は[[国道293号]]線・[[国道50号]]線・[[両毛線]]・[[東武伊勢崎線]]等が通る。 |
古くは東山道、江戸時代には[[例幣使街道|日光例幣使街道]]、現在は[[国道293号]]線・[[国道50号]]線・[[両毛線]]・[[東武伊勢崎線]]等が通る。 |
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古代、[[毛野国]]の中心にあった地域で、現在の[[栃木市]]付近に[[国府]]が置かれた。[[国造]]は[[下野宇都宮氏#下毛野氏|下毛野君]]。 |
古代、[[毛野国]]の中心にあった地域で、現在の[[栃木市]]付近に[[国府]]が置かれた。[[国造]]は[[下野宇都宮氏#下毛野氏|下毛野君]]。 |
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[[平安時代]]以降、関東に起こった[[清和源氏]][[源義家|義家]]流[[新田氏]]・[[足利氏]]、同[[源義光|義光]]流[[佐竹氏]]、[[藤原秀郷]]流[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]]・[[小山氏]]・[[結城氏]]・[[佐野氏]]・皆川氏らはこの地域の領有権を巡って抗争した。[[下野国|下野]][[国司]]で[[宇都宮二荒山神社]]座主と[[輪王寺|日光山]][[検校]]職を兼務した[[藤原北家]][[藤原道兼|道兼]]流で[[下野宇都宮氏#下毛野氏|下毛野氏]]ないし中原氏の流れを汲む[[宇都宮氏]]は終始中央政権体制として下野国内の抗争の鎮静にあたった。 |
[[平安時代]]以降、関東に起こった[[清和源氏]][[源義家|義家]]流[[新田氏]]・[[足利氏]]、同[[源義光|義光]]流[[佐竹氏]]、[[藤原秀郷]]流[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]]・[[小山氏]]・[[結城氏]]・[[佐野氏]]・皆川氏らはこの地域の領有権を巡って抗争した。[[下野国|下野]][[国司]]で[[宇都宮二荒山神社]]座主と[[輪王寺|日光山]][[検校]]職を兼務した[[藤原北家]][[藤原道兼|道兼]]流で[[下野宇都宮氏#下毛野氏|下毛野氏]]ないし中原氏の流れを汲む[[宇都宮氏]]は終始中央政権体制として下野国内の抗争の鎮静にあたった。 |
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[[鎌倉時代]]には[[鎌倉幕府]]の有力御家人となった[[小山氏]]が治め、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[足利尊氏]]の意向を受けた[[国司]]の[[宇都宮氏]]が掌握したが、[[室町幕府]]が[[鎌倉府]]を設置すると[[関東管領]]・[[上杉氏]]の統治下に入った。[[鎌倉公方]]の[[足利成氏]]が台頭し[[古河城|古河]]に移って[[古河公方]]を称すると領主たちはこれに従属した。[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に入って[[後北条氏]]が台頭すると、この地域は中央政府方(上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏等)と後北条方(足利氏、小山氏、結城氏等)が拮抗する主戦場となり、最終的に後北条氏が勢力下に置いた。[[豊臣秀吉]]が後北条氏を破ると結城氏が代わって治めた。その後結城氏は領地換えになり、[[江戸時代]]は時の中央勢力から派遣された者が代わる代わる統治した。 |
[[鎌倉時代]]には[[鎌倉幕府]]の有力御家人となった[[小山氏]]が治め、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[足利尊氏]]の意向を受けた[[国司]]の[[宇都宮氏]]が掌握したが、[[室町幕府]]が[[鎌倉府]]を設置すると[[関東管領]]・[[上杉氏]]の統治下に入った。[[鎌倉公方]]の[[足利成氏]]が台頭し[[古河城|古河]]に移って[[古河公方]]を称すると領主たちはこれに従属した。[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に入って[[後北条氏]]が台頭すると、この地域は中央政府方(上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏等)と後北条方(足利氏、小山氏、結城氏等)が拮抗する主戦場となり、最終的に後北条氏が勢力下に置いた。[[豊臣秀吉]]が後北条氏を破ると結城氏が代わって治めた。その後結城氏は領地換えになり、[[江戸時代]]は時の中央勢力から派遣された者が代わる代わる統治した。 |
2006年10月5日 (木) 08:27時点における版
世界 > アジア > 東アジア > 日本 > 関東地方 > 北関東
北関東のデータ | ||
三県の合計 | ||
面積 | 18,867.06km² | |
総人口 | 7,015,519人 (2005年10月1日) | |
四県の合計 | ||
面積 | 22,664.42km² | |
総人口 | 14,053,074人 (2006年3月31日) |
北関東(きたかんとう)とは、関東地方を二分割した場合の北側の地方。利根川以北の茨城県・栃木県・群馬県の三県を指す事が多いが、埼玉県を含めて四県とすることもある。対義語は南関東。
範囲
県別の分類
- 経済面では、北関東工業地域を構成する茨城県・栃木県・群馬県の3県を北関東とする。人口は、3県合計で約702万人。
- 北関東四県(茨城県+栃木県+群馬県+埼玉県)
- 国政選挙の選挙区では、首都圏一都七県を東京ブロック(東京都)、南関東ブロック(千葉県+神奈川県+山梨県)、および、北関東ブロック(上記4県)としている。埼玉県は約705万人であるので、埼玉県を含む4県は、上記3県合計の約2倍の約1400万人となる。
地域圏的分類
- 北関東(東京大都市圏の北側にある地域圏)
- 経済的に一体な東京大都市圏(→都市雇用圏)は、埼玉県南東部や茨城県南西部にまで及ぶ。そのため、それらを北関東四県から除いた範囲が「東京大都市圏の北側にある地域」として「北関東」と表現される。この「北関東」の地域では、モータリゼーションがとても発達しており、自家用車の所有率が低い東京大都市圏とは対照的なライフスタイルをしている。
- 東京大都市圏の南側には、神奈川県の小田原周辺(小田原都市圏)、千葉県の南房総などの東京大都市圏に含まれない地域があり、「東京大都市圏の北側にある地域」としての「北関東」に相当する地域となっているが、これらを以って一括りに「南関東」ということはない。そのため、この場合の「北関東」の対義語は存在しない。
- 「東京大都市圏の北側にある地域」として「北関東」 約700万人
- 群馬県 約200万人
- 栃木県 約200万人
- 茨城県の南西部以外 約200万人
- 埼玉県の各広域市町村圏 約90万人
- 北関東四県の内、東京圏に含まれる地域 約700万人
- 茨城県南西部(県南地域) 約100万人
- 埼玉県の各大都市周辺広域行政圏 約620万人
歴史的分類
- 毛野川(鬼怒川)流域
- 有史以来江戸時代以前の北関東。
- 律令制が敷かれる以前、毛野川流域には毛野国が成立し、その勢力はヤマト王権や吉備国や筑紫国に伍するものだったと言われる。下毛野古麻呂は、藤原不比等らとともに大宝律令の編纂にあたった。
- 律令制が敷かれた奈良時代以降、常陸国は東海道に属し、桓武平氏流大掾氏や平将門が支配した時代があったが、鎌倉時代以降は他の北関東諸地域と同様に藤原北家流小田氏や清和源氏流佐竹氏の治世となったことから同一地域とみなすのが一般的である。
- 藤原北家流諸氏(宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏、佐野氏、川野辺氏、比企氏、那須氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏、新田氏、佐竹氏、武田氏、高氏等)が支配した地域であり、桓武平氏流諸氏(鎌倉氏、三浦氏、千葉氏、北条氏、秩父氏、長尾氏等)が支配した地域は南関東である。
- 下毛野古麻呂が建立した下野薬師寺は、大和国の東大寺、筑後国(筑紫国が筑前国と筑後国に分割)の観世音寺とともに三戒壇に指定され、当時下野国がこの地域の文化の中心地であったことを客観的に示している。なお、日光山を開山したと謂われる勝道上人はかつてこの寺の修行僧であった人物である。
- 利根川以北
- 江戸時代後期~明治以降の北関東。旧来の藤原北家諸氏、清和源氏諸氏が姿を消した現在の北関東三県には新田氏流徳川家康に近しい親族や旗本、譜代大名が変わって入封し、北関東は事実上徳川幕府の自領となった。家康は利根川東遷事業を号令し、利根川・渡良瀬川の河口を江戸湾から現在の銚子市に変更し、干拓/開拓された入間川~毛野川の流域は旧来の関東八屋形諸氏の一部領土であった地域も含め南関東に組み込まれ、河口干拓地には江戸が設けられ南関東の中心地となった。
- 家康は東北を見据える地として日光を自らの墓所と指定し、病没後は徳川秀忠や徳川家光によって日光東照宮が造営・改築された。
- 北関東四県
- (茨城県+栃木県+群馬県+埼玉県)
- 高度経済成長時代の北関東。臨海工業を中心とした第二次産業が国の経済を支えていた時代、東京都・神奈川県・千葉県は、京浜工業地帯や京葉工業地域を形成して、関東地方の経済の中心地となり、「南関東」を構成していた。
- 後に第三次産業が産業の中心となると、人口の多い埼玉県は、マーケットとして南関東に組み込まれた(「埼玉県」705万人 vs 702万人「茨城県298万人+栃木県202万人+群馬県202万人」)。現在の北関東三県には、北関東工業地域が形成されている。
概観
現在の関東地方は東西に横断する利根川によって南北に分けられているが、この地形になったのは徳川家康の号令で始まった利根川東遷事業が完了した明治時代以降である。それまでの関東地方は中央部(現在の荒川~利根川の間の帯状地)に以下の水系が集まり、大雨の時期には氾濫を繰り返し下流域~河口付近は広大な湿地帯を形成していた。従って江戸時代以前、関東地方はこの低湿地帯を挟んで北部と南部に分かれていたといえる。
- 東京湾に注ぐ水系
- 香取海(現在の常陸利根川)に注ぐ水系
古墳時代、関東地方には毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川)流域一体に毛野国(けぬのくに)が成立しており、毛野氏はヤマト王権の中でも大きな発言力を有していたと言われる。毛野国は北関東の中央部に位置し、開祖は第十代天皇・崇神天皇の子・豊城入彦命で、毛野氏はその後裔と伝えられる。飛鳥時代後期、毛野氏後裔の下毛野古麻呂は藤原不比等らとともにヤマト王権の律令制定(大宝律令:大宝元年)の編纂に関わったと言われる。足柄山の金太郎のモデルは下毛野公時で、足利銀行のマスコットキャラクターは金太郎であった。
戦国時代以前、関東地方は藤原氏流あるいは河内源氏流で毛野氏の流れをくむ諸氏の治世であり、都の文化を基盤とした関東独特の文化が培われてきた。しかし織田信長、豊臣秀吉による武力革命の後、こうした関東地方の文化を築いた諸名家(足利氏、上杉氏、佐竹氏、武田氏、宇都宮氏、小山氏、結城氏、小田氏等)は支配的地位から退くことを余儀なくされた。
主を失った関東の地で、これら諸氏の受け皿となったのが清和源氏義家流・新田氏の名を継ぎ江戸幕府の祖となった徳川家康公であった。徳川氏は着々と関東各地に親藩や旗本・譜代大名など腹心を配置し、あるいは直轄地(天領)化し、戦国期の「覇道」的支配体制(武力・苛烈な法をもって治める方法)に代えて「鳴くまで待とう・・・」に象徴される「王道」的支配体制(仁徳をもって治める方法)を敷いた。こうして江戸時代の間、関東はさしたる大変化や大改革も求められず、(大雑把な意味での)古来の関東平野に根付いた文化が引き続き培われ、更にそれが領主の定期交代によって関東一円で一様化された。
しかし、欧米列強による帝国主義(グローバル化)の波は日本国内に動揺を惹き起こし、江戸幕府の王道的統治機構を麻痺・崩壊に至らしめた。こうして関東地方は再び大きな主を失うこととなった。倒幕運動・戊辰戦争といった武力闘争の末に誕生した明治政府は国家の近代化・列強化、そして中央集権化を「民主的な法」をもって急速に推進し、明治政府の本拠地となった江戸は、中央政府の「近代国家・日本」の象徴・首都東京たるべく急激に改造され、それに見合う「東京文化」が新たに形成された。しかし、その表舞台となった関東地方に根付く旧来の民衆、都市構造、文化といった要素は、「東京文化」に相反するものであり、「東京」との距離が生じる結果となった。
こうした歴史を見ると、関東地方は、「日本の首都・東京を抱える地方」という実状は元より、「古くから関東平野に培われた独自文化が放置され、急激な近代化・列強化した文化に直接曝された地方」という意味合いを背後に含んでいるのである。
更に、南関東が、正に「近代化・列強化」の表舞台となって、急激な変化が一次的に起こった地域であるのに対して;北関東は、「利根川水系と関東北部山系の地理的・気候的影響」によって「近代化・列強化」が二次的に起こった地域であり、これが関東地方内における北関東の大きな特徴とも言える。
地域
地域別特徴
代表的な地域とその特徴を、以下に列挙する。
宇都宮・日光・鬼怒川及び小貝川流域周辺(宇都宮都市圏とその周辺)
栃木県最大の都市である宇都宮を中心とする地域。宇都宮市・日光市・下野市・塩谷郡・河内郡・芳賀郡・真岡市・鹿沼市・上都賀郡。古代・毛野国(けぬこく)の時代から鬼怒川(毛野川:けぬのかわ)の上中流域に位置し、肥沃な土地を基盤として安定した地域が形成されてきたが、一方で天正や幕末の動乱期には政権の180度転換を強いられて来た。下野薬師寺・宇都宮二荒山神社・日光二荒山神社・輪王寺等を歴史的基盤としている。日光の二社一寺(輪王寺・東照宮・日光二荒山神社)は世界遺産に登録されている。
古くは東山道の北側に位置する要害の地であり、遥か京から蝦夷を見据える重要拠点であった。また宇都宮は中道(なかつみち)の最北端に位置し、奥州に抜ける際には必ず通らねばならない要衝であり、下野国一之宮・宇都宮二荒山神社が置かれた。平安~鎌倉期には藤原秀郷卿や藤原北家道兼流・宇都宮氏等、蝦夷対策に中央政府から派遣された武人ないし祭祀が支配権を有し、特に宇都宮二荒山神社の神職者であった宇都宮氏は、京都の中央政府との繋がりを維持しつつ、鎌倉幕府の有力な御家人として、この地域の安定した地域形成に貢献した。室町期~戦国期には時の中央政府室町幕府(足利氏)を援護した宇都宮氏が毛野川流域一帯を統治し、宇都宮氏を支えた紀清両党は主に毛野川東岸~小貝川流域を統治した。宇都宮氏は終始中央政府に従属し、足利将軍家をはじめ鎌倉府、関東管領上杉氏に従って関東の治安維持に貢献したが、戦国時代後期、豊臣秀吉によって改易された。益子氏の居館があった益子西明寺には宇都宮氏の墓所が現存する。
その後、清和源氏を称する徳川家康が征夷大将軍に就き江戸の地に徳川幕府を開くと、江戸のお膝元として繁栄を享受した。江戸時代、家康は自分の廟所としてこの地を選び、その子秀忠は家康を祀って東照宮を建立、さらに孫・家光は東照宮を今日の姿に大造替した。これに伴って、江戸・京・仙台方面から家康の廟所・日光東照宮に参詣するための交通路(日光街道・日光例幣使街道、日光北街道など)が整備され、徳川家・諸大名・京の勅使など当時の要人達が行き交う要衝となると同時に、地域政治の中心地でもあった宇都宮は江戸から那須を経て陸奥国・白河へ向かう奥州街道の分岐点となり、江戸幕府にとって軍事的最重要拠点の一つとなった。幕末には新政府軍と旧幕府軍との抗争の場となり、戊辰戦争では新政府軍は宇都宮・六道の辻から宇都宮城・宇都宮二荒山神社に向け大砲による攻撃を行い、旧幕府軍を掃討した(宇都宮戦争)。
廃藩置県では宇都宮県、日光県、茂木県等を経て栃木県に編入され、1884年からは県都として栃木県地域の行政・経済の中心となっている。東北新幹線・宇都宮線・東北自動車道・北関東自動車道をはじめとする数多くの交通網を整備し、南東平野部には内陸工業団地(清原・芳賀・平出・真岡)、北西の山地部と各地域自治区には歴史財産(日光東照宮・輪王寺・日光二荒山神社・宇都宮二荒山神社・益子西明寺など)および日光国立公園の天然資源(奥日光・鬼怒川温泉など)を基盤とする観光施設、また各都市域には文化施設(栃木県立美術館・宇都宮美術館など)やレジャー施設(東武ワールドスクエア・日光江戸村・ツインリンクもてぎなど)を配している。大規模商業施設は宇都宮等の都市域に集中している(東武宇都宮百貨店・パルコ宇都宮店・LaLasquare UTSUNOMIYA・FKDショッピングプラザ・ベルモール・FKDインターパーク店など)。現在建設中の北関東自動車道は、北関東各県間の物流を強化するため、新4号国道沿線の工業地域と、茨城県と群馬県の三地域を結ぶ形で建設されている。
那須・大田原周辺
古くは東山道、江戸時代には奥州街道、現在は東北新幹線・東北自動車道・国道4号線などが通り、中央と陸奥国を結ぶ交通の要衝であり、那須や黒羽、大田原など、那珂川流域を中心に安定した地域が形成されており、奥の細道では松尾芭蕉も滞留するほどであった。北関東にあっては珍しく、江戸時代にあって中世来の豪族に支配権が認められた地域。藤原北家長家流・那須諸氏が江戸時代以降も黒羽藩や大田原藩としてその基盤を維持した。
那須高原を中心として観光業が盛んで、果樹園や牧場も多く見られる。
県境を越えた周辺の住民が食品や日用品の買出しやパブなどの飲食店に黒磯を訪れるため、黒磯以北の国道4号には、福島ナンバーの車の往来が多い。逆に、ジャスコ・白河西郷(しらかわにしごう)店等の集積した商業施設を利用する買い物客が、那須町、那須塩原市、大田原市からも越境して白河方面に多く訪れている。以上の事実は、歴史的にも白河までは下野国の生活圏であったことを反映していると言えよう。かつて白河は下総国結城氏の流れである白河結城氏の領地であり、また下野国国司の宇都宮氏にとってもゆかりの地でもあった。
水戸以北
古墳時代、常陸国周辺は東国最果ての地であったと言われる。奈良時代に律令制が敷かれると東海道に属した。平安時代に入り、桓武天皇に多くの皇子があったことから朝廷は常陸国を親王任国に指定したため、以降常陸は桓武平氏一族の任地の一つとなり、水戸周辺は常陸平氏・大掾氏の領地となった。大掾氏は水戸に館を築くが、これがその後水戸城に継承された。
一方、前九年の役、後三年の役で奥州安倍氏の鎮圧で功を挙げた清和源氏流新羅三郎・源義光の長男・源義業は常陸国久慈郡佐竹郷(現在の常陸太田市)を領して佐竹氏を名乗った。また義光の三男・源義清は那賀郡武田郷を領して武田氏を名乗った。武田氏は大掾氏と競合して朝廷から牽制され甲斐国に移ったが、佐竹氏は大掾氏の娘を嫁として土着し戦国時代_(日本)|戦国時代には戦国大名となって常陸国・下総国を支配したが、関ヶ原の合戦で西軍に就いたため久保田藩に転封された。
江戸時代、この地には水戸徳川家が配され、日本橋からは水戸街道が整備された。
現在は常磐自動車道・常磐線・国道6号線が通り福島県浜通り地方への経路となっている。また日立市、ひたちなか市および大洗町には北関東随一の重要港湾(日立港、常陸那珂港、大洗港)があり、北海道/北米/欧州/極東/中国/韓国定期貨物航路の拠点・北海道定期旅客航路の拠点・北関東の物流拠点等の機能を担い、北関東内のみならず東日本の一大物流基地となっている。日立市は日立港を擁する日立製作所の企業城下町としても有名である。
水戸東部には北関東最大の海水浴地である大洗や阿字ヶ浦、夏に海浜コンサートが開かれる国営ひたち海浜公園が立地する。また北部日立周辺は北関東唯一の海浜リゾート地でもあり、河原子・川尻・伊師浜等の海水浴場を抱え、シーズンには栃木県各地から海水浴客を集め混雑する。久慈川上流は八溝山地の関東北部山系、さらに阿武隈高地に連なり、陸奥国との天然の境界となっていたが、現在はJR水郡線や国道349号が整備され、日本有数の名瀑である袋田の滝があり観光名勝となっている。
鹿嶋周辺
国道51号の沿線。鉄道では大洗鹿島線と鹿島線の沿線。水郷筑波国定公園の一角で、東に鹿島灘、西に霞ヶ浦、南に利根川、北に北浦が面する。
古くから関東第一の神社として知られる鹿島神宮(古代には最果ての地であり、下総は海路で奥州へ向かう船出の地だったと言われる)や、菖蒲で有名な潮来といった観光地を抱える。高度経済成長期に鹿島臨海工業地帯が建設され、それ以来は臨海工業地域となっている。メロンの農地が多く、スポーツ界では鹿島アントラーズの地盤として有名である。
他の地域へは、千葉県北東部(香取、成田、銚子など)に行く者が多い。
土浦周辺
かつて毛野川・小貝川河口付近であり、南部は香取海や湿地帯であった。江戸時代以降に開墾され、新田となった土地も多い。
古代、毛野川流域には毛野国が立国され下毛野君の領土であったと言われる。平安時代、この一帯は桓武平氏流大掾氏の領地であったが、その後政争に敗れて失脚した。鎌倉時代から室町時代にかけては下野国司・宇都宮氏傍系の八田氏流・小田氏が常陸国守護となって統治し、戦国時代には常陸国守護で戦国大名となった佐竹氏の勢力下にあった。江戸時代になると清和源氏・細川氏が谷田部藩に入封し明治維新まで続いた。廃藩置県当初は新治県に編入された。
下妻のような田園都市や、筑波のようなモータリゼーションの著しい都市も存在する。
その一方で、常磐線沿線には、近年では東京都区部へ通勤する新興住民が増えており、この新興住民は「茨城都民」と諷刺される事もある(→南関東、ニュータウン)。
足利・小山・結城周辺
古くは東山道、江戸時代には日光例幣使街道、現在は国道293号線・国道50号線・両毛線・東武伊勢崎線等が通る。
古代、毛野国の中心にあった地域で、現在の栃木市付近に国府が置かれた。国造は下毛野君。
平安時代以降、関東に起こった清和源氏義家流新田氏・足利氏、同義光流佐竹氏、藤原秀郷流藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・皆川氏らはこの地域の領有権を巡って抗争した。下野国司で宇都宮二荒山神社座主と日光山検校職を兼務した藤原北家道兼流で下毛野氏ないし中原氏の流れを汲む宇都宮氏は終始中央政権体制として下野国内の抗争の鎮静にあたった。
鎌倉時代には鎌倉幕府の有力御家人となった小山氏が治め、南北朝時代には足利尊氏の意向を受けた国司の宇都宮氏が掌握したが、室町幕府が鎌倉府を設置すると関東管領・上杉氏の統治下に入った。鎌倉公方の足利成氏が台頭し古河に移って古河公方を称すると領主たちはこれに従属した。戦国時代に入って後北条氏が台頭すると、この地域は中央政府方(上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏等)と後北条方(足利氏、小山氏、結城氏等)が拮抗する主戦場となり、最終的に後北条氏が勢力下に置いた。豊臣秀吉が後北条氏を破ると結城氏が代わって治めた。その後結城氏は領地換えになり、江戸時代は時の中央勢力から派遣された者が代わる代わる統治した。
現在、国道50号沿線にはR50ベルト地帯と呼ばれる東西方向の商工業ベルト地帯が形成されている。中でも、栃木県と群馬県に跨がる地域は両毛と呼ばれるが、この両毛地域は、日本でモータリゼーションが最も発達した地域圏「両毛デルタ地帯」を形成している。水戸線や両毛線はR50ベルト地帯の鉄路として機能している。
古河・熊谷周辺
関東地方のほぼ中央ともいうべき地域で、国道125号の沿線。住民の買物先を大きく分けると、(1)地元、(2)両毛デルタ地帯、(3)大宮、(4)東京の、四通りに分かれている。尚、南北軸を見ると、古河は宇都宮線(日光街道)の沿線で、熊谷は高崎線(中山道)の沿線である。
寄居以西
国道140号の沿線で、鉄道では秩父鉄道秩父本線・八高線・東武東上本線の沿線。
荒川の流域で「内陸国」の色が濃く、住民のショッピング地や視線は、地元志向の傾向が見られる。南端には国営武蔵丘陵森林公園に代表される台地が広がるが、西端には奥秩父山塊の山々が峙えている。夜祭で有名な秩父市や、長瀞などの観光地を抱える。
自然地理
気候
茨城県沿岸部(水戸、鹿嶋など)では、年間を通して温暖な太平洋側気候が見られる。しかし、茨城県沿岸部を除く地域では、気温の年較差が大きい内陸性気候が共通して見られる。
夏の昼下がり時の雷は上州(群馬県)名物として有名であるが、栃木県や埼玉県にも見られる。又、冬のからっ風は、群馬県では「赤城おろし」、栃木県では「二荒おろし」「男体おろし」、茨城県では「筑波おろし」などと呼ばれており、いずれも北部と西部に山岳地帯を抱える北関東に特徴的な気象となっている。
水郷、筑波山、日光、那須高原、草津温泉といった気候温暖な大観光地を抱えており、週末や行楽シーズンには観光客で賑わう。
関東平野に位置する点もあって近郊農業が盛んであり、深谷の葱、岩井のレタス、土浦の蓮根、二宮の苺、板倉のきゅうりなどが代表的な農産物である。
地形
- 山地:足尾山地、三国山脈、奥秩父山塊
- 山:筑波山、加波山、八溝山、男体山、日光白根山、赤城山、榛名山、妙義山、三宝山、甲武信ヶ岳
- 川:利根川、渡良瀬川、鬼怒川、那珂川、久慈川、小貝川、荒川
- 湖:霞ヶ浦、北浦、涸沼、千波湖、中禅寺湖、五十里湖
- 瀑:華厳の滝、袋田の滝
- 温泉:草津温泉、伊香保温泉、鬼怒川温泉、川治温泉、塩原温泉郷、那須温泉郷
- 景勝地:長瀞
交通
交通史
律令時代には、畿内を中心とした行政区分であったため、茨城県(常陸国)と東京都・埼玉県(武蔵国)は東海道に、栃木県(下野国)と群馬県(上野国)は東山道にと、畿内を中心とした放射状地方区分になっており、東山道には京から白河に至る街道・「東山道」が整備された。
江戸時代になると、参勤交代によって東京(江戸)を中心とした放射状の街道が整備された。茨城県には水戸街道、埼玉県東部から栃木県北西部にかけては日光街道、栃木県北部には奥州街道、群馬県と埼玉県西部には中山道が整備され、宿場が置かれた。
又、中山道の倉賀野宿(高崎郊外)から都賀を経て日光に至るルートには、東山道に重なる形で日光東照宮への金貨奉納のために京都からの勅使が通る日光例幣使街道が整備された。
江戸時代のそれぞれの街道は、現在の国道6号、国道4号、国道119号、国道17号、国道293号・121号等の源流となった。
現在の交通網
江戸時代に五街道が整備されて以来、関東地方の交通網は、基本的に東京を中心とした放射状幹線及び京都からの放射状路線に当る環状(弧状)連絡線によって構成されている。
道路網では、東京から北に伸びる放射状道路には、西(群馬県、埼玉県)から東(茨城県)へ順に、関越自動車道・国道17号・国道122号・東北自動車道・国道4号・新4号国道・国道294号・常磐自動車道・国道6号・国道51号が扇状に列んでいる。
そして、これらの扇を結ぶ弧状道路として、南から北へ順に、東京外環自動車道・国道16号・国道354号・国道125号・国道50号・国道293号+国道123号、国道145号+国道120号+国道461号などが通っており、現在では北関東自動車道や圏央道などが整備中である。
鉄路網も同じく、東京から北に伸びる放射状鉄路には、西から順に東武東上線・高崎線+上越線・上越新幹線・東北新幹線・宇都宮線・東武本線・つくばエクスプレス線・常磐線などが列ぶ。
これらを結ぶ弧状鉄路には、南から北へ順に武蔵野線、川越線+東武野田線、両毛線+水戸線などが列んでいる。
経済的・地政学的には、この「扇」の範囲が「北関東」に当たる。扇の骨に当たる幹線道路沿いには工場が多く立地し、前述の北関東工業地域を形成している。
代表的な鉄道路線
- その他の鉄道
代表的な道路
南北軸 |
東西軸 |