ドイツ社会民主党

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ドイツの旗 ドイツ政党
ドイツ社会民主党
Sozialdemokratische Partei Deutschlands
SPD logo.svg
党首(Vorsitzender アンドレア・ナーレス
成立年月日 1863年5月23日
全ドイツ労働者協会(ADAV)
1869年8月8日
ドイツ社会民主労働党ドイツ語版(SDAP)
1875年5月27日
ドイツ社会主義労働者党(SAPD)に統合
本部所在地 ベルリン10963・ヴィルヘルム通りドイツ語版140・ヴィリー・ブラント・ハウスドイツ語版
ドイツ連邦議会議席数
153 / 709   (22%)
(2018年5月29日現在)
連邦参議院議席数
20 / 69   (29%)
(2018年5月29日現在)
党員・党友数
43万3000人
(2017年1月現在)
政治的思想・立場 中道左派
社会民主主義
民主社会主義
親欧州主義英語版
マルクス主義(1959年に放棄)
機関紙 フォアヴェルツ (前進)ドイツ語版
公式サイト SPD
公式カラー
国際組織 第二インターナショナル労働社会主義インターナショナル社会主義インターナショナル
欧州社会党
社会民主進歩同盟
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ドイツ社会民主党(ドイツしゃかいみんしゅとう、ドイツ語Sozialdemokratische Partei Deutschlands、略称 SPD(エス・ペー・デー))は、ドイツ中道左派社会民主主義政党社会主義インターナショナル加盟。

概要[編集]

全ドイツ労働者協会(ADAV,「ラッサール派」)と社会民主労働者党ドイツ語版(SDAP,「アイゼナハ派」)が1875年に合同して創設したドイツ社会主義労働者党(SAPD)を前身とし、社会主義者鎮圧法失効後の1890年に現在の党名に改名した。1891年マルクス主義に基づくエルフルト綱領ドイツ語版を制定し、第2インターナショナルの中心となるが、やがて修正主義派、中央派、急進左派に分裂。1914年第一次世界大戦が勃発すると戦争を支持したが、その方針を巡る対立から中央派の一部や急進左派が党を去った(彼らは独立社会民主党(USPD)や共産党(KPD)を形成)。

1918年11月のドイツ革命直前に政権に参加し、革命の中で社民党党首エーベルトが政権を掌握。労兵評議会の全権掌握(プロレタリア独裁)を要求する在野の急進左派勢力を武力で制圧して国民議会を招集し、当時世界で最も民主的と言われたヴァイマル憲法の可決を主導した。ヴァイマル共和政下では中央党(Zentrum)や民主党(DDP)とともに穏健左派・リベラルの連立政権ヴァイマル連合ドイツ語版を形成することが多かった。1919年から1925年までエーベルトが初代大統領を務め、1919年から1920年1928年から1930年にかけては首班で内閣を組閣した(シャイデマン内閣、バウアー内閣、ミュラー内閣)。1933年国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)が政権に就くと活動を禁止され、解散に追い込まれた。

第二次世界大戦後に西ドイツでも東ドイツでも再建されたが、東ドイツでは1946年に共産党に強制合併されてドイツ社会主義統一党(SED)となり、以降1989年の再建まで社民党は禁止された。西ドイツでは中道右派キリスト教民主同盟(CDU)と並ぶ二大政党の一つとなり、1959年にはゴーデスベルク綱領を制定してマルクス主義の階級闘争と絶縁して階級政党から中道左派の国民政党へと路線変更した。1960年には北大西洋条約機構(NATO)による西側軍事同盟も容認の立場へ転換した。1966年にはキリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟(CDU/CSU)と大連立を組んで戦後初めて政権に参加し、ついで1969年から1982年にかけては自由民主党(FDP)と連立を組んで首班で政権を担当した(ブラント内閣、シュミット内閣)。

1989年10月には東欧革命により民主化の進む東ドイツで社会民主党ドイツ語版が再建され、西側社民党の支援を受けた。1990年9月にドイツ再統一を前にして東側社民党は西側社民党に合流した。

1998年から2005年まで同盟90/緑の党と連立して首班で政権を担当し(シュレーダー内閣)、ついで2005年から2009年までと2013年から現在までCDU/CSUと大連立を組んで連立与党となっている。

ラッサールが全ドイツ労働者協会を創設した1863年5月23日を党の創設日と見做しており[1]、ドイツ現存最古の政党にあたる。国際的にもイギリス労働党フランス社会党などと共に欧州の社会民主主義政党の中核的存在として知られる。日本社民党とも友好関係にある。

党史[編集]

帝政時代[編集]

創設と党勢拡大[編集]

1892年から1913年の死去まで社民党の共同党首だったアウグスト・ベーベル(1900年頃撮影)

ラッサール派」と呼ばれた全ドイツ労働者協会(ADAV)と「アイゼナハ派」と呼ばれた社会民主労働者党ドイツ語版(SDAP, マルクス系のヴィルヘルム・リープクネヒトアウグスト・ベーベルら)という2つの社会主義者グループが1875年ゴータ綱領ドイツ語版のもとに合同して創設したドイツ社会主義労働者党(SAPD)が前身である。同党は帝国議会(Reichstag)1877年選挙ドイツ語版において得票率の9%を獲得し、第四党の地位を確立した。脅威を感じたドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは1878年に社会主義者鎮圧法を制定。これにより社会主義労働者党は官憲から国外追放や新聞の発禁など様々な手段の弾圧を受けるようになった。また社会主義者は「祖国なき輩」として社会的にも迫害を受けた。しかしながらこれらの弾圧や迫害がかえって同党の結束力を高めることとなった[2][3]

1890年帝国議会選挙ドイツ語版では得票率のうえでは19%を獲得して第一党となっている(ただし保守系議員に著しく有利な選挙区制度により議席の上では第一党とはなれなかった)。さらに同年9月に社会主義者鎮圧法が失効。これを機に社会主義労働者党はドイツ社会民主党(SPD)と党名を変更した。アウグスト・ベーベルパウル・ジンガーを党首とした指導体制が築かれた。社民党の党員数は1905年に38万人[3]、1907年に53万人[4]、1912年に97万人[4]、1913年に108万人を突破した[3]。社民党と密接な関係を持っていた自由労働組合ドイツ語版も1913年には組合員250万人を突破している。自由労働組合は社民党の支持母体の中でも随一の存在だった[5]

1912年帝国議会選挙ドイツ語版では社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。国際的にも第二インターナショナルの中心勢力として重要な存在だった。無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった。しかし議院内閣制が確立しなかった帝政ドイツにおいては議会の第1党となっても社民党はなお「隔離」された存在であり続けた[3]。結局1890年以降も帝政期を通じて社民党員はいたるところで「祖国なき輩」として差別待遇を受け続けた[6]

また帝政ドイツでは帝国議会が男子普通選挙であったものの、帝国に加盟する各邦国の選挙制度はプロイセン王国三等級選挙権制度ドイツ語版に代表されるように厳しい制限選挙のもとにあったため、社民党が地方(邦国)政治に進出していくのは困難であった。プロイセン議会ドイツ語版には社民党は1908年まで1議席も持てず、ザクセン議会ドイツ語版においても1890年代こそ10議席程度保有していたものの、それ以降は1議席に落ち込んでいる。一方で男子普通選挙を導入していたバイエルン王国ヴュルテンベルク王国バーデン大公国では社民党は浸透した。これらの邦国では社民党はリベラル政党と連携することが多く、後述する「修正主義」「社会改良主義」の拠点となっていた[7]

修正主義派と中央派と急進左派[編集]

1891年に社民党はマルクス主義に基づくエルフルト綱領ドイツ語版を制定している。1899年にはエドゥアルト・ベルンシュタインが、資本主義社会を革命で社会主義へ変えるというマルクス主義を修正して、議会活動を通じて社会を改良していく方針に変更するべきだという修正主義を主張し、党内で急速に広まった。特に社民党の最大の支持団体である自由労働組合に社会改良主義を求める者が多かった[5]。一方これに対抗する形でローザ・ルクセンブルクに代表される革命路線を主張する急進左派勢力も明確な姿を現すようになった[5]

1903年のドレスデン大会では修正主義は当時は党内の主流派だったカール・カウツキーやローザ・ルクセンブルクら正統派(教条主義者)の猛反対に遭って否決され、マルクス主義の革命主義は温存された[3]

この党内対立に対してベーベルら党指導部は「今は合法的活動と党組織の拡充に専念し、来たるべき体制の危機に備える」という「待機戦術」「消耗戦術」を唱道した。こうした折衷的立場をとることによって党の分裂を回避しようと苦心した[5]。1905年の党大会では党指導部の「待機戦術」に対してゼネスト・大衆ストライキ戦術の必要性が決議されたが、その翌年の党大会では組合の社会改良主義の圧力で組合側にストライキの共同決定権を認められている[5]

1908年から1910年頃にかけて、正統派が分裂し、ベーベルら党指導部やカウツキーが中央派を形成する一方、ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリングクララ・ツェトキンらは急進左派勢力を形成するようになった[8]。中央派は改良主義的日常政策を革命的イデオロギーと和解させる立場であり、党内の多数派がここに所属し、最初はベーベルとジンガーのもと、1911年ないし1913年以降はフーゴー・ハーゼフリードリヒ・エーベルトのもとで党指導部を掌握し続けた[9]。対する急進左派は党内では少数派であったものの、マルクス主義理論が活発であり、独自のイデオロギー的傾向を形成し、後のドイツ共産党(KPD)の源流となった[8]

植民地に対する見解[編集]

結党から長きにわたって社民党は原則として植民地領有や植民地政策に反対してきた。しかし党の規模が成長するにしたがって修正主義的な立場から「植民地支配は文明国の権利であり義務である」として植民地支配を支持する党員が増えていった[10]。植民地問題は政府にとって社民党の支持層である労働者を含めて全国民から支持を得やすい問題であった。ドイツ領南西アフリカで発生したコイコイ人(ホッテントット族)の反乱に伴う軍の駐留費の予算案をめぐって行われた1907年初頭の「ホッテントット選挙」ドイツ語版においても植民地支配に反対していた社民党は労働者から離反されて後退を余儀なくされている[11]。こうした情勢から社民党は1907年9月の第2インターナショナルシュトゥットガルト大会ドイツ語版において「社会主義的植民地政策」を宣言し、植民地領有を公然と認めるに至った[12]

政府への接近[編集]

第一次世界大戦前夜の時期、ブルジョワ陣営に急進的ナショナリズムが浸透した影響で、ブルジョワ諸政党が「もっと強力な軍拡を推し進めよ」と政府批判を展開する局面があった。こうした「右からの反体制勢力」の出現により社民党は政府がその圧力に屈さない限りにおいて、政府に友好的な立場をとる政党になりはじめた。特に1907年のホッテントット選挙後、社民党は反戦や反軍拡を積極的には主張しなくなっていった[13]

第一次世界大戦[編集]

社民党主流派の「城内平和」路線に反発して独立社民党を結成したフーゴー・ハーゼ

1914年8月にドイツは第一次世界大戦に参戦した[14]。ドイツ社民党の主流派は戦争を支持した(城内平和)。このことは世界を驚かせた。ロシアの社会主義指導者ウラジーミル・レーニンはドイツ社民党の戦争支持を「裏切り」と呼んで批判している。しかしマルクスエンゲルスも社民党党首ベーベルも「ロシア帝国ツァーリズムこそがヨーロッパ社会主義運動の最大の敵」と定義しており、ことにエンゲルスは1892年の論文の中で「もしフランス共和国がツァーリの支配するロシア帝国と組むのであれば遺憾ながらドイツ社会主義者はフランスと戦うしかないだろう」とまで言及していた[15]。これらを考えればドイツ社会主義者の主流であるドイツ社民党が戦争を支持したことはさほど不思議なことではなかったともいえる。

一方で社民党内には「城内平和」に否定的な非主流の左派勢力もあり、彼らには2つのグループがあった。一つはカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクら急進左派が率いる「スパルタクス団」、もう一つはフーゴー・ハーゼ率いる平和主義的中央派の「ハーゼ・グループ」である。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーやエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老が「ハーゼ・グループ」を支持するようになったため、「ハーゼ・グループ」の勢いが増した。1915年春の戦時公債発行の際には賛成票を投じることを拒否する社民党議員が20人ほど出た[16]1917年4月に潜水艦作戦とロマノフ帝政崩壊後のロシアに関する論争が起きたことでこの分裂は決定的となり、党内左派勢力はハーゼを党首とする独立社会民主党(USPD)を結成するに至った。「スパルタクス団」もこれに参加した[17]。以降独立社民党は「帝国主義戦争」の原理的反対者による強力なブロックと化し[17]、多数派社民党を「ドイツ帝国主義の手先」と罵倒するようになった[18]

しかし戦争目的論争においては社民党主流派も他の保守・右翼政党の主張とは異にしていた。保守・右翼政党は戦勝して占領地を併合することによって達成される「勝利の平和」が戦争目的であると主張したのに対して、社民党は領土併合に反対して敵国民との親善を回復する「和解の平和」が戦争目的であると主張した[19]。社民党は再び売国奴扱いされたが、戦況が泥沼化するとともに「勝利の平和」論は疑問視せざるを得なくなり、「和解の平和」論が有利になっていった。中道政党である中央党(社民党に次ぐ第二党)のマティアス・エルツベルガーが「勝利の平和」から「和解の平和」に転じた。エルツベルガーの主導の下、1917年7月に社民党と中央党と進歩人民党の三党(社民党と中央党の二党で帝国議会の過半数を超える)は共同して無併合・無賠償和平案「平和決議」を帝国議会で採択させている[20][21]

1918年3月から7月の西部戦線でのドイツ軍の大攻勢が失敗に終わり、7月から連合軍の反撃が行われ、ドイツ軍が後退を開始しはじめた。一挙に戦線が崩壊することはなかったが、8月上旬には参謀本部も今や戦局が絶望的であることを認識するに至り、パウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長とエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長は9月29日に突然政府に通牒を送ってアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン十四か条の平和原則を受け入れて休戦条約を結ぶ必要があるので議会に立脚した政府を作るよう要求した[22]。保守主義者の帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリングはそのようなことはとても応じられぬとして辞職したので、代わって1918年10月3日に自由主義者としてアメリカはじめ連合国から評価が高かったマクシミリアン・フォン・バーデンが帝国宰相に任じられた。社民党と中央党と進歩人民党がマクシミリアンを支持して与党を構成した。マクシミリアン自体は政党人ではなかったが、閣僚はこの三党の者から構成されていたので、ドイツ史上最初の政党内閣だったと言える[23]。マクシミリアンや社民党はアメリカ大統領ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために10月27日にヴィルヘルム2世を説得して憲法を改正させて、内閣は帝国議会に責任を負うという議院内閣制を確立した[24]

ドイツ革命[編集]

1918年11月9日、共和国宣言するフィリップ・シャイデマン

1918年11月3日から4日にかけて、無謀な作戦への動員を命じられたキール軍港の水兵たちが反乱をおこし、労働者がこれに加わって大勢力となり、キールは「労兵評議会(レーテ)」により実効支配されてしまい、更にキールでの革命成功を聞いたドイツの主要都市でも次々と蜂起があり、「労兵評議会」が各主要都市を掌握してしまう。11月7日にはドイツ帝国の領邦の中でプロイセン王国に次いで大きいバイエルン王国で独立社民党の指導者クルト・アイスナーらによる革命が勃発。ヴィッテルスバッハ王家が廃され、アイスナーによって「バイエルン共和国」の樹立が宣言された[25][26]

社民党はこうした「ドイツ革命」と呼ばれる反乱には参加せず、逆に何とか押しとどめようとした。社会改良主義である社民党は革命など決して望んでいなかった。前年にロシアで起きたロシア革命やその結果生まれたレーニンの独裁体制も自分たちが目指す社会主義とは異なるとして批判していた[27]。社民党はヴィルヘルム2世の退位をマクシミリアンに要求したが、これも大衆の急進化が止めがたいと見て、革命を鎮静化させるための要求であり[27]、ドイツ皇室廃止を求めたものではなく、ヴィルヘルム2世の代わりに別の皇族を即位させることで皇室を存続させようという考えからだった[28]

一方独立社民党も指導部は暴力革命や独裁体制を拒否していたのだが、同党内にはドイツ共産党(KPD)の前身たる極左勢力が2つ存在した。その一つ「革命的オプロイテ(ドイツ語) は、ベルリンの金属労働組合の一つだったが、「社会改革は暴力革命以外には成し得ない」と唱えてロシア革命を絶賛し、1917年と1918年のベルリンのストライキを主導した。ドイツ革命が発生すると労兵評議会がすべての権力の源泉となるべきと主張して議会政治に反対した[29]。もう一つはカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが率いる「スパルタクス団」である。彼らは大戦中に積極的な反戦運動を展開して投獄されていたが、マクシミリアン内閣誕生とともに釈放され、激しい革命扇動活動を行うようになった。ローザはロシア革命においてレーニンが取った手法には反民主的なものが含まれることを認め、これを批判していたものの、ロシア革命そのものは偉大な事業と評価し、革命的オプロイテと同じく議会政治を排して労兵評議会に権力を集中させることを唱道した。この2つの極左勢力は労兵評議会によるプロレタリア独裁を目指す点において同じだったが、革命の戦術を巡って対立があった[30]

社民党はマクシミリアンに対して11月9日までに皇帝の退位が実現できぬのであれば内閣から離脱すると通達した。マクシミリアンは11月9日昼に独断で皇帝ヴィルヘルム2世の退位を発表したうえで、宰相職を社民党の党首フリードリヒ・エーベルトに譲った。ヴィルヘルム2世はオランダ亡命していった。ドイツには社民党政権だけが残されることとなった[31]。午後2時頃、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の樹立を宣言するとの情報が社民党政権に伝わり、極左が今後の政局の主導権を握ることを阻止するために社民党の政治家フィリップ・シャイデマンが機先を制して「ドイツ共和国」の樹立を宣言した。しかしエーベルトは皇帝が退位しても共和制にするかどうかは議会で決められるべきと考えていたので、シャイデマンに対し「キミは何の権限で共和国宣言などしたのか!」と叱責した[32]

革命後、ヴァイマル共和政確立まで[編集]

人民代表評議会政府[編集]

社民党のシャイデマンによって共和国宣言が行われた後、エーベルトの社民党政権は独立社民党に政権参加を求めた。独立社民党は、社会主義共和国になること、全権を労兵評議会が握ること、「ブルジョワ分子」の政府からの追放を条件として要求したが、社民党は社会主義共和国になるかどうかは国民議会を招集してそこで決められるべきこと、労兵評議会による全権掌握は一階級の一部による独裁なので民主主義の原則に反していること、国民の食糧事情の救済が急務の今「ブルジョワ分子」の追放はできないことを回答した。結局、独立社民党は要求をほぼ取り下げることになったが、政権の基礎は労兵評議会であり、議会の即時招集には反対であることは留保した。政府創設に時間を食うと極左の革命扇動工作が激しくなるため、社民党は国民議会招集を急がないことを承諾した[33]。こうして11月10日には社民党と独立社民党が3名ずつ閣僚を出し合って「人民代表評議会ドイツ語版」なる仮政府が創設される運びとなった[34]。人民代表評議会のメンバー6人は対等という建前だったが、毎回エーベルトが議長を務めて会議を主導したので実質的にはエーベルト社民党政権に独立社民党が閣僚として参加しているも同じであった[35]

1919年から1925年までドイツ大統領だった社民党のフリードリヒ・エーベルト

同日、革命的オプロイテはこの仮政府に反発し、別政府を作ろうと労兵評議会の扇動を開始したが、仮政府も対抗して労兵評議会の多数派工作を行い、結果、ベルリンの労兵評議会は人民代表評議会を承認する決議を出している[36]。同日、エーベルトは軍(革命の中で国内の軍は解体されていたが、前線の軍は参謀本部の指揮下にいまだ存続していた)のヴィルヘルム・グレーナー参謀次長と連絡し、労兵評議会を押さえることを条件に軍の支持を取り付けた。

翌日の11月11日にはパリ北方コンピエーニュの森で連合国に対して休戦協定の調印をさせた。この協定によってドイツは巨額の賠償金を支払うことが予定された。11月12日に仮政府は戒厳状態の廃止、集会の自由結社の自由検閲の廃止、戦時中停止されていた労働者保護立法の復活、社会政策の拡充、近い将来の八時間労働制の確立、また近い将来に全ての公的団体の選挙権は20歳以上の男女すべてに平等に与えられるようにし、選挙制度も比例代表制にすることを宣言した[37]

12月16日から5日間にわたって労兵評議会全国大会がベルリンで開催されたが、社民党がその中央委員会を独占することに成功したため、大会は国民議会の選挙日を1919年1月19日と定めるとともに国民議会招集後には労兵評議会中央委員会の権限を国民議会に引き渡すことを決議した。労兵評議会を国の基礎にしようとする思想は労兵評議会自身によって否定されたわけである[38]。しかし革命的オプロイテとスパルタクス団は依然としてプロレタリア独裁を志向して労兵評議会こそが全ての権力の源泉となるべきであり、議会などいらないと考えていた。彼らは社民党の議会開催への努力を妨害することに明け暮れたので社民党政権と極左勢力の間で不穏な空気が漂った[35]

12月24日に極左の人民海兵団ドイツ語版が起こした反乱の鎮圧をめぐって社民党が発砲を許可したことに独立社民党が反発して社民党政権から離脱した[39]。これをきっかけに極左勢力の社民党攻撃は一層激しくなった。独立社民党はプロイセン州の社民党政権からも離脱したが、このときに辞任を拒否した独立社民党のベルリン警視総監エミール・アイヒホルンドイツ語版を1919年1月4日に社民党が罷免したことで極左勢力は怒りを爆発させてデモを組織した。20万人を超える人がデモに参加した。これに乗じてドイツ共産党(スパルタクス団は1918年12月30日に「ドイツ共産党・スパルタクス団」に改名していた)の指導者カール・リープクネヒトは「スパルタクス団蜂起(一月蜂起)」を起こし、社民党政権打倒の武力革命を狙った。武装した共産党員たちがあちこちの公共の建物を占拠し、社民党機関紙『フォアヴェルツドイツ語版』の編集局も占拠された[40]。これを受けて社民党政権のグスタフ・ノスケ国防相は軍(戦争終結後、前線の軍はドイツ国内に戻り、多くは四散したが、若干の軍隊は各地に残り、引き続き参謀本部指揮下にあった)に反乱の徹底的な鎮圧を命じた。軍は情け容赦なく共産党員を攻撃し、敵対する者も逃走する者も無抵抗な者も関係なく次々と撃ち殺されていった。リープクネヒトもローザ・ルクセンブルクもこの際に軍によって虐殺されている[41][42]

このスパルタクス団蜂起以降、社民党政権は極左から身を守る必要性を痛感し、軍とますます接近した。軍は帰還兵たちにドイツ義勇軍を次々と創設させて反革命軍事行動を行わせた。社民党政権も極左を潰す必要性からその活動を黙認した。ますます反革命化する社民党と他の社会主義政党の溝は深まった。独立社民党も社民党との対決姿勢を強め、共産党と同類の極左になっていった。

国民議会召集[編集]

1919年1月、国民議会選挙の選挙活動をする社民党員たち

1919年1月19日の国民議会(Nationalversammlung。この時のみの議会名称。ヴァイマル憲法制定後には議会名はReichstag(国会)に戻る)選挙が行われた。選挙戦中、共産党が議会政治反対の立場からボイコット運動を展開していたが、大多数の国民は相手にせず、投票率は82%以上を記録した。社民党は37.9%の得票を得て163議席取った。目指していた単独過半数には届かなかったが、議会の第一党だった。他に中央党が19.7%の得票を得て91議席、民主党(DDP)が18.5%の得票を得て75議席を獲得した。極左の独立社民党は7.6%の得票で22議席しか取れなかった[43]

スパルタクス団蜂起の影響で国民議会はベルリンではなく、2月6日にヴァイマルにおいて招集された。国民議会ではまず社民党党首エーベルトが大統領に指名された。これには社民党以外の政党も多くが支持票を投じている。さらに社民党と中央党と民主党の三党連立(以降この三党はヴァイマル共和政下で連立を組む事が多くなり「ヴァイマル連合ドイツ語版」と呼ばれることとなった)の下、社民党のシャイデマンが首相に就任した[44]

社民党政権は憲法の制定に取り掛かり、委員会で議論を重ねた末に1919年7月末に国民議会の本会議で世界で最も民主的と言われるヴァイマル憲法を可決させた。さらに社民党政権は連合国から突きつけられていたドイツに激しい迫害を加える内容のヴェルサイユ条約を締結するしかないと判断し、中央党とともに6月22日の議会でこの条約の承認決議を行った。この際にシャイデマン首相はヴェルサイユ条約に反対したため、首相を辞職した。また民主党も反対して連立から離脱している(この年の秋には復帰する)[45]

また社民党の見解では、この国民議会の招集をもって労兵評議会の存続の正統性はなくなったということであるから、これ以降ノスケ国防相は兵士評議会の排除に乗り出した。左翼の根城になっている一部の場所を除いて兵士評議会は解体され、かつての軍隊の命令系統が復活した[46]

ヴァイマル共和政時代[編集]

社民党政権(1919年-1920年)[編集]

社民党が可決させたこのヴァイマル憲法とヴェルサイユ条約によってヴァイマル共和政の基本体制は築かれた。しかし保守・右翼及び共産党以下極左はヴァイマル共和政など認めなかった。

「人殺しノスケ」と呼ばれた社民党政権国防相グスタフ・ノスケ(右)。ベルリン防衛軍司令官ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍(左)とともに(1920年)

1919年4月にはバイエルンで共産党が革命を起こし、同地の社民党政権を追放してバイエルン・レーテ共和国を勝手に樹立した(ソビエト連邦ウラジーミル・レーニンの「世界革命」に向けての工作でもあった)。事態を危険視した社民党政権のノスケ国防相は軍や義勇軍の動員を決定。ミュンヘンへ攻め上らせてレーテ共和国を叩きつぶした。出動した軍や義勇軍は手当たり次第に共産党員を殺戮したため、他の社会主義政党からの社民党の評判はますます悪くなった。特に国防相ノスケは「人殺しノスケ」と呼ばれた[47]

一方、軍や義勇軍ももともと反民主的な右翼が多いので自分達に頼りっきりの社民党政権をなめるようになった。それが事件となって表れたのが1920年3月にヴォルフガング・カップヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍の指揮の下に義勇軍によって起こされたカップ一揆であった[48]。社民党のノスケはこれも軍を動員してつぶそうとしたが、義勇軍を同志と見る軍の軍務局長ハンス・フォン・ゼークト将軍は「国防軍同士で争うことはできない」と鎮圧を拒否した。焦った社民党政権はベルリンを捨てて逃亡した。その後、社民党政権は労働組合にゼネストを呼びかけてベルリンを占拠した反乱軍の政治を機能不全に陥らせて崩壊させ、ベルリンに戻ることができたが、責任を取ってノスケが辞職することとなった。後任の国防相は民主党のオットー・ゲスラーが就任した。ゲスラーは以降8年間国防相の地位にあった。社民のノスケは軍を完全に政府の支配下に置くことを目指していたが、社民よりは保守的な民主のゲスラーは必ずしもそれを目指さなかったので軍がヴァイマル共和政の中で半ば独立した大勢力になってしまうことを阻止できなかった[49]

社民党政権と極左との対立も続いた。カップ一揆の際の労働者のゼネストには共産党も参加していたが、カップ一揆の鎮圧後に社民党がゼネストの解除を求めても共産党は応じなかった。共産党はゼネストから革命を狙って動いたのでザクセンからテューリンゲンに至る中部地域でまたしても「レーテ共和国」が樹立されてしまった。社民党政権はふたたび軍を動員してこれを潰した。バイエルンと同じく共産党の赤色テロとその復讐の軍の白色テロが吹き荒れることとなった。バイエルンもそうであるが、軍が鎮圧した地域は事実上の軍政下に置かれてしまい、社民党政権の統制下から離れてしまうという悪循環もあった。

国民は社民党とヴァイマル共和政に嫌気がさし、極左志向になるか帝政懐古する者が増えた。1920年6月6日の国会選挙はそれが端的に示された。この選挙ではヴァイマル共和派が軒並み惨敗した。社民党は第一党は維持したものの102議席に減らした。社民党と連立を組む民主党も75議席から39議席に落とし、中央党も91議席から64議席に落とした。一方、極左陣営(プロレタリア独裁志向)の独立社民党は84議席獲得して第二党に躍進、初めて選挙に出た共産党も4議席を獲得した。保守・右翼陣営(帝政復古志向陣営)も躍進し、ドイツ国家人民党(DNVP)が71議席を獲得して第三党、ドイツ人民党(DVP)が65議席を獲得して第四党の地位を確立した。社民党のヘルマン・ミュラー内閣は総辞職せざるを得なくなった。革命以来一貫して政権の中枢にあった社民党が、はじめて政権から降りることとなった[50]

中央党を中心とした政権(1920年-1927年)[編集]

ミュラー内閣崩壊後、中央党と民主党と人民党の三党連立政権へ移行した。人民党と激しく対立していた社民党が政権から離れることとなったものだが、まもなく保守的な人民党は連立からはずされたので、代わりに社民党が与党に復帰した。もっともこの頃からヴァイマル共和政の主役は社民党から中央党へ移っていった。

1920年7月、ソビエト連邦コミンテルン加入問題をめぐって独立社民党が割れ、コミンテルン加入に賛成する独立社民党内の極左派は共産党へ移ったため、独立社民党の極左傾向は大幅に減少し、社民党と独立社民党の主張がほぼ一致するようになり、1922年秋には独立社民党は社民党の下に合流した。これにより社民はやや左にウィングを伸ばした。1922年11月にエーベルト大統領が人民党がグスタフ・シュトレーゼマンの下に帝政色を薄めてきたと判断して連立に加えようとした際に社民党が反対し、そのためヨーゼフ・ヴィルト内閣は瓦解してしまった。次のヴィルヘルム・クーノ内閣では社民党は与党からはずされたが、クーノ内閣はフランスによるルール地方占領(ドイツがヴェルサイユ条約に不履行があったと理由をつけて占領した)とインフレの経済的混乱の中で辞職。その後継として1923年8月に成立した人民党のグスタフ・シュトレーゼマンの内閣には危機的状態から大連立の必要性を痛感した社民党も参加。社民党(独立社民党からの帰還組)のルドルフ・ヒルファーディングが大蔵大臣となる。ヒルファーディングは新マルクの発行を主張したが、断交に踏み切れずに10月6日に更迭された。しかしこの考えは通貨全権委員ヒャルマル・シャハトレンテンマルクによって実現され、インフレは奇跡的に収束した。なお10月13日にインフレの危機を非常事態として議会の承認無しでシュトレーゼマン内閣の独裁権を認める「授権法」が議会に提出されたが、社民党はこれに賛成して可決させている(後のヒトラー内閣が国会議事堂放火事件を非常事態として議会に提出した「授権法」には反対している)。

1923年10月10日、社民党左派のエーリヒ・ツァイグナーが首相を務めるザクセン州政府に共産党員が閣僚として参加し、共産革命の準備のため赤色軍事組織が創設されるとともにソ連から将校が百人ほど送り込まれた。この革命準備はテューリンゲン州でも行われた。これに対してシュトレーゼマンの中央政府は軍を出動させてザクセンとテューリンゲンを占領し、共産党参加政府を解体した。これに反発した共産党はハンブルク暴動を起こしたが、すぐに鎮圧された。社民党は複雑だった。社民党はシュトレーゼマン内閣の一員だし、社民党本部はツァイクナーが共産党員を入閣させたことには反対の立場であった。しかし「レーテ共和国」とは違い、一応合法的な社民党の政府がいきなり軍の討伐を受けて滅ぼされるというのは同じ党に属する者として忍びがたいことであった。社民党は右派のグスタフ・フォン・カール率いるバイエルン州政府はザクセン州以上の反逆的行為を行っているとしてバイエルン州政府にも同じ処置を取ることをシュトレーゼマンに求めたが、拒否されたため、社民党は連立政権から離脱することになった。以降社民党は1928年6月まで野党となった。社民党の離脱で議会の基盤を失ったシュトレーゼマン内閣は11月末には倒れた[51]

1924年5月の国会選挙では右翼の国家人民党に第一党の地位を奪われた。しかもこの選挙では極左の共産党が17議席から64議席に躍進、またミュンヘン一揆の失敗で禁止されていた国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)の偽装政党国家社会主義自由運動(NSFB)も32議席獲得して初めての出馬にしてはなかなかの好成績をあげた。同年12月の国会選挙では社民党は131議席を掌握して第一党の地位を奪い返した。国家人民党も微増した。共産党とナチ党は議席を大きく落とした。

1924年にヴァイマル共和政打倒を目指す政党の準軍事組織(ナチ党の「突撃隊」や共産党の準軍事組織「赤色戦線戦士同盟」)に対抗するため、社民党は「国旗団」や「鉄の戦線ドイツ語版」といった準軍事組織を創設し、その隊員はナチ党員や共産党員と街頭で激しい殴り合いを行った。

1925年2月28日には社民党に所属するドイツ大統領エーベルトが死去。4月26日の大統領選挙では社民党は「ヴァイマル連合」の仲間として中央党のヴィルヘルム・マルクスを押したが、保守・右翼が擁立したパウル・フォン・ヒンデンブルク(ナチ党も彼を支持)に僅差で敗れた。これは最終的にナチスの独裁政治へと行きつくヴァイマル共和政の右傾化の前兆であった。この大統領選挙に共産党議長エルンスト・テールマンが当選の見込みもないのに泡沫候補として出馬していた。ヒンデンブルクとマルクスは僅差であったことからテールマンのせいでリベラル左翼票が割れてマルクスが敗れた側面もあり、社民党ら「ヴァイマル連合」と共産党の対立はますます激化した。

ミュラー内閣(1928年-1930年)[編集]

社民党政権の第二次ヘルマン・ミュラー内閣

1928年5月の国会選挙は社民党が大幅に躍進した。当時好景気になっていたため、ヴァイマル共和政とそれを作った社民党に支持が集まっていたのであった[52]。これを背景に6月12日に社民党党首ヘルマン・ミュラーを首相とする内閣が発足した。社民・中央・民主の「ヴァイマル連合」に加えて人民党とバイエルン人民党も連立に参加した[53]

ただしこの五党は政策協定を結んでいたわけではなく、他党から参加した閣僚は「個人の資格」あるいは「連絡員」として入閣していた。また社民党内にも「ブルジョワ政党」との連携に反発する声があり、ミュラー首相には常に党内から「党の利益より内閣の利益を優先するようなブルジョワ政策を取るな」という圧力がかかった。そのためミュラーとしてはあくまで「個人内閣」として組閣するしかなかった[54]。外相シュトレーゼマン、国防相グレーナーが留任したほか、蔵相ヒルファーディング、内相カール・ゼーフェリンクなどが入閣し、人材に優れた内閣となった[53]

ミュラー内閣で最初に問題となったのは前内閣からの持ち越し案件である「装甲巡洋艦A」(艦砲や航行距離は戦艦レベルだったが、ヴェルサイユ条約の建前からこの名前にしていた。ポケット戦艦とも呼ばれた)の建造時期の問題だった。直ちに建造を開始しなければならないという国防相グレーナーの説明を閣僚たちは社民党員も含めて全員が承諾したが、社民党は先の国会総選挙で「装甲巡洋艦より児童給食を!」をスローガンにしたために党内からは異論が続出した。社民党は「装甲巡洋艦A」の建造中止とその予算を児童給食へ回す動議を提出し、ミュラー首相はじめ閣僚党員にも党議拘束を課した。そのためミュラーは首相として「装甲巡洋艦A」建造計画を閣議決定しつつ、議員としてそれに反対する動議に賛成票を投じることになった。この反対動議は社民党と共産党以外の賛成を得られず否決されたものの、自党の首相にこのような茶番劇を演じさせたことは社民党の威信を著しく低下させた[55][56]

1929年2月に新しい賠償方法ヤング案が決議されると国家人民党やナチ党など保守・右派勢力による反政府運動が激化した[57]。さらに1929年10月24日のニューヨークウォール街の暴落に端を発する世界大恐慌がドイツを襲った。うまく対応できなかったミュラー内閣は、1930年3月に総辞職。以降は議会に基づかずにヒンデンブルクが独断で首相を選び、大統領緊急令をもって政治を行う「大統領内閣」となり、ミュラー内閣の終焉を持ってヴァイマル共和政の議会制民主主義は機能不全に陥ったと評価されている[58]

大統領内閣(1930年-1933年)[編集]

ヒンデンブルクは、大統領内閣の基本原則の一つとして社民党を政権に入れないことを決めた[59]。最初の大統領内閣首相ハインリヒ・ブリューニングは中央党出身だが、彼を支持する与党は国会491議席のうち148人だけだった。ヒンデンブルクが社民党を入れることを禁じている以上、大統領緊急令に頼る政治しかなかったが、それを危惧するブリューニングは、重要な個別問題では社民党の協力が得られるようプロイセン州首相オットー・ブラウンを通じて社民党に根回しをし、社民党と一定の関係を保った[60]。しかしやがてその関係も壊れ、1930年7月16日に社民党はブリューニング内閣の財政法案に反対に回って法案が否決された。この際にブリューニングは初めて大統領緊急令を発令して法案を無理やり通過させた[61]

1930年、ナチ党に反対する社民党のデモ

7月18日には国会が解散され、選挙戦へ突入した。不景気を背景に国民は再びヴァイマル共和政を否定するようになり、ナチ党や共産党のような反ヴァイマル共和政政党がますます躍進した。1930年9月14日国会選挙で社民党は前回選挙に比べて58万票も失い、10議席減の143議席になった(第一党は確保)。一方ナチ党は107議席を獲得して第二党に躍進し、共産党も77議席を獲得して第三党に着けた。それ以外のブルジョワ諸政党は軒並み没落した[62]。この選挙後、社民党はブリューニング内閣に対して政権参加はしないが、一定の協力をする「寛容路線」をとった。もし社民党がブリューニング内閣を完全拒絶するならブリューニング内閣がナチ党との連携を模索するのは必然だったためである[63]

1932年3月の大統領選挙では社民党をはじめとする「ヴァイマル連合」はヒトラーの大統領就任を阻止するために独自候補を立てず、帝政復古主義者である現職大統領ヒンデンブルクの支持に回った。しかしヒンデンブルク当人は社民党の支持を受けたことに不快感を持っていたという[64]

1932年5月にはナチ党と密約を結んだ大統領側近クルト・フォン・シュライヒャー中将がブリューニングを失脚させ、フランツ・フォン・パーペンを新たな大統領内閣首相に擁立したため、政権の保守色が強まった。社民党はこの政権への協力は一切拒否した。パーペンは7月20日にも軍を出動させてプロイセン・クーデタドイツ語版を起こし、プロイセン州のブラウン社民党政府を解体している[65]。パーペンが非民主的なやり方でプロイセン州の政権を強奪したと判断した社民党の準軍事組織国旗団は武装蜂起の準備を開始したが、社民党系の労働組合であるドイツ労働組合総同盟ドイツ語版 (ADGB)が武装蜂起に反対したため断念している[66]。7月31日には国会選挙があったが、社民党が21.6%の得票で133議席にとどまったのに対し、ナチ党は37.4%の得票を得て230議席を獲得した。ついにナチ党に第一党の座を明け渡すこととなった[67]

1932年12月にパーペン内閣が崩壊し、新たな大統領内閣としてシュライヒャー内閣が成立した。シュライヒャーは首相就任に先立ち労働組合総同盟と接触して社民党の取り込み工作を図っていたものの、社民党はシュライヒャー内閣への協力を拒否している[68]。シュライヒャーはナチ党の分裂工作も仕掛けたが、そちらも失敗に終わり、ヒトラーとパーペンの連携によってあっという間に倒閣された。

ナチ党政権下[編集]

国会で第一党を占める国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラー1933年1月30日にヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ナチ党政権が誕生した。ナチ党政権は、共産党集会・機関紙を禁止とし、社民党集会・機関紙も中止・発行停止に追い込む弾圧を加えた。さらに、総選挙の投票を控えた1933年2月27日夜に発生したドイツ国会議事堂放火事件を利用して共産党への大弾圧を加え、社民党への選挙妨害も激しさを増した。追い詰められた共産党はこれまで「社会ファシズム」と批判してきた社民党との統一戦線を提案したが、社民党はこれを拒絶した[69]。3月5日の選挙の結果、ナチ党は288議席(+92)、社民党は120議席(-1)、共産党は81議席(-19)を得た[70]。ナチ党は連立与党の国家人民党と足して過半数を得た[71]。直後の3月9日には共産党議員の議員資格が議席ごと抹消され、議席総数が566に減少したため、ナチ党が単独過半数を獲得した[70]

3月23日にヒトラーが国会に提出した全権委任法に社民党は反対した。反対演説の際に社民党党首オットー・ヴェルスは「政府は社会民主主義者を無防備にすることはできるかもしれないが、不名誉な立場に貶めることはできない」「今日の歴史的な時にあたって、我々社会民主主義者はヒューマニズムと正義、自由、社会主義の理念を信奉していることを高らかに表明する。いかなる全権委任法といえども、永遠にして不滅の理念を破壊するような権限を諸君らに与えはしないだろう」と演説した。ヒトラーはこのヴェルスの演説に怒り「諸君らはもう用済みだ。(略)ドイツの星はいままさに昇りつつあるが、諸君の星はすでに没した。諸君の時代はもう終わったんだ。」と述べたという[72]。結局、全権委任法に反対票を投じた政党は社民党だけであり、賛成441、反対94で全権委任法は可決された[73]

1933年8月、オラニエンブルク強制収容所に収容された社民党の国会議員ら

一方で社民党は存続のためにナチ党政権の怒りを買わぬよう、融和的な態度も示した。ヴェルスは第二インターナショナル加盟友党によるヒトラー批判を「中傷宣伝」であるとして、これを止めるよう働きかけたが、止めないため、3月30日をもって社民党は第二インターナショナルから脱退した[72]。各州議会・市議会の社民党議員団も「ドイツ=社会主義グループ」なる勢力を作りはじめてナチ党への恭順を強めていった[74]。3月末には労働組合総同盟が社民党を見捨て、ヒトラーが5月1日メーデー)に行った第一回国民労働祭も「勝利の日」として祝った[74]

しかしナチ党は社民党を見逃すつもりはなかった。5月2日には社民党を支持する労働組合が突撃隊親衛隊により次々と襲撃され、その幹部達が逮捕された。労働組合の資金は没収されて唯一合法な労働組合とされたロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」の資産となった。5月10日には社民党の全資産も没収された[75]。6月に入るとヴェルス以下社民党幹部は続々とドイツから亡命していった。そして6月22日には社民党は全ての活動を禁止されて消滅することとなった[76]。しかしこの党崩壊の直前にあっても社民党はナチ党政権への忠誠を示そうとヒトラーの外交政策に賛成する投票を行っている。ある党幹部はこの最期の瞬間の社民党の姿について「もはや社会を動かす力はなく、バラバラに解体された死骸にすぎなかった。社会主義の理念はとうに崩壊し、ナチに降伏していたのである」と評した[74]

社民党崩壊後、国内に残っていた社民党の政治家は次々と強制収容所へ送られていった。ヴェルスら亡命した党員はチェコスロバキアで「ドイツ社会民主党指導部SoPaDe、ソパーデ)」と呼ばれる組織を結成し、政治活動を続けた。1934年にはプラハ宣言(de:Prager Manifest)を発してナチスに対する対抗姿勢を明らかにした。チェコスロバキア併合後はパリに移り、1939年にヴェルスが死亡するとハンス・フォーゲルがSoPaDeの指導者となった。1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻後はロンドンに亡命したが、ルドルフ・ヒルファーディングら逃亡中に捕らえられる幹部も出た。1941年には在英ドイツ社会主義組織連合en)を結成し、ズデーテン・ドイツ社会民主党en)などの亡命社会主義組織と連携をとった。またヒトラー暗殺未遂事件の参加者などの国内の反ナチス派と接触している。

第二次世界大戦後[編集]

再建[編集]

1946年から1952年まで社民党党首を務めたクルト・シューマッハー

第二次世界大戦後、ドイツは米英仏占領下の西側とソ連占領下の東側(後の東ドイツ)に分割された。西側でも東側でも社民党は再建されたものの、オットー・グローテヴォール率いる東側のソ連占領地区の党員はドイツ共産党へ強制編入され、1946年4月にドイツ社会主義統一党(SED)を結成した[77]。その後東ドイツではドイツ社会主義統一党の独裁体制が築かれたため、1989年の再建まで社民党は禁止された。

一方西ドイツ側の社民党は、1946年5月のハノーファー大会でクルト・シューマッハーを党首として再建された。シューマッハーは「我々は国際的社会主義者であると同時に良きドイツ人でありたい」と述べるなどラッサール的に国家や民族を肯定し、また社会主義と民主主義を結合させて多元的価値観に社会主義を基礎づけることを認め、党の思想的開放を唱道した。バラバラになっていた社民党が比較的容易に団結を取り戻したのはシューマッハーのカリスマ的人格によるところが大きかったと言われている[78]

1946年/1947年の西側三地区での最初の自治体選挙で社民党は保守政党ドイツキリスト教民主同盟(CDU)に惨敗を喫し、野党となったが、「建設的野党」の立場をとり、1949年5月のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)制定の際には「東側が排除されている限り暫定的なものにすぎない」との留保を付けながらもその制定に積極的に協力した[79]。1949年8月の第1回連邦議会選挙で社民党はドイツキリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟(CDU/CSU)に敗北したが、その後も「建設的野党」の立場を堅持した[80]

社民党は東ドイツとの統一を重視する立場から欧州会議シューマン・プラン欧州石炭鉄鋼共同体などに西ドイツが加入することに反対していた。またドイツ連邦軍の創設や徴兵制にも反対した。しかしこれらの問題においても社民党は「建設的野党」の立場から原理主義的な反対を続けなかった。例えば欧州会議に西ドイツが参加することが決まったなら社民党は積極的に欧州議会に議員を繰り出したし、連邦軍創設や徴兵制導入の基本法第一次改正に反対しながらも連邦軍兵士の権利や社会的義務に関する基本法第二次改正には賛成したりした[80]

階級政党から国民政党へ[編集]

1959年のバート・ゴーテスベルク党大会のポスター

社民党は1953年の連邦議会選挙、1957年の連邦議会選挙で連敗し、1950年代を通じてドイツキリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟(CDU/CSU)に後れを取り続けた。その危機感から社民党内、特に社民党の連邦議会議員団の間に労働者階級だけでなく中間層に支持を広げていかねばならないという考えが広まった[81]

1958年のシュトゥットガルト党大会で党組織改革が決議され、それまで党の主導権を握ってきた党執行部の有給幹部制度(有給幹部は社会主義的イデオロギーの信奉者が多かった)が廃止された。代わって党幹部会が設置され、その多数を連邦議会議員が占めることになった。これにより社民党は社会主義イデオロギーより連邦議会選挙勝利に重きを置く傾向を強めた[81]

その結果、1959年にはバート・ゴーデスベルク党大会においてバート・ゴーデスベルク綱領が制定された[82][1]。この綱領によって社民党はマルクス主義階級闘争と絶縁して中道左派国民政党へと転換した。経済については「可能な限りの市場、必要な限りの計画」と謳って市場経済を原則とし、手段は議会主義的改良を自己目的とした[81][83]

1960年6月には北大西洋条約機構(NATO)による西側軍事同盟体制も容認へと転換した[84]

こうした路線転換が功を奏し、社民党は徐々に大衆に浸透しはじめた。1961年の連邦議会選挙、1965年の連邦議会選挙は、依然として野党から脱することはできなかったものの、その得票を確実に伸ばしていった[84]

戦後初めての政権[編集]

1969年から1982年にかけての社民党政権の首相を務めたヘルムート・シュミット(左)とヴィリー・ブラント(右)

社民党が戦後初めて政権に参加したのは1966年のことだった。この年、ルートヴィヒ・エアハルト首相がキリスト教民主同盟内で失脚して辞職したが、後任の首相候補クルト・ゲオルク・キージンガー自由民主党(FDP)との連立再建に失敗し、代わりに社民党に連立を求め、社民党がこれに応じたという経緯だった。社民党はキージンガー政権に閣僚を9人送り込んでいる。特に経済相カール・シラードイツ語版が失業率の大幅引き下げと鉱工業生産増大に功績をあげた。社民党はこの大連立によって「万年野党」の行政能力を世に知らしめることができた[84]

1960年代末にはより社民党に有利な状況が生まれた。当時「学生反乱」と呼ばれる社会的抗議運動が盛り上がり、世論に反保守的な空気が形成されていたうえ、1969年3月の大統領選挙で自由民主党が社民党のグスタフ・ハイネマンを支持したことで社民党と自由民主党の連携関係ができあがったためである。そのような背景から1969年連邦議会選挙で社民党は得票を伸ばし、選挙後には自由民主党と連立して社民党党首ヴィリー・ブラントを首相とする内閣を成立させることができた。戦後初めての社民党首班政権だった[84]。以後、ブラント[85]とその後を継いだヘルムート・シュミット政権が自由民主党が連立を離脱する1982年まで続いた。

ブラントの「東方外交」により1960年代以降、社民党は東ドイツに対する党のテーゼを持つようになった。それは東ドイツ政府へ接近を図ることにより、同国に人権問題などへの対応を迫り、東西ドイツ間に格差がなくなった段階で統一するというものであった。この方針に基づき、東ドイツのドイツ社会主義統一党(SED)との友好を積極的に進めるようになった[86]

1970年代には社民党内にAPO(議会外反対)運動を展開するニュー・レフト勢力が出現するようになった。下からの参加民主主義を重んじる彼らは議会制民主主義を重んじる社民党議員団への挑戦を強め、党内派閥抗争が激化した。特に1970年代後半のシュミット政権下では西ドイツへの核ミサイル配備問題でこの対立が激化した[87]。またシュミット政権とドイツ労働総同盟(DGB)は経済危機管理のため「安定性協定」を結んでいたが、それによる賃金規律や失業率の悪化に一部の組合が反発したことも党内の派閥化を促進する一因となった[88]

コール政権下の野党時代[編集]

1993年に完成した党本部ヴィリー・ブラント・ハウスドイツ語版

その後16年近く続いたキリスト教民主同盟のヘルムート・コール政権の下で野党の座に甘んじた。1984年5月のエッセン党大会で党首ブラントは「ゴーデスベルクにおいてコンセンサスとなっていた社会民主主義の解釈は、もはや機能していない」と演説し、綱領改正への意欲を示した。そして彼を委員長とする綱領委員会を設置された[89]。党内が多様化していたために様々な異論が出され、またブラントの辞任の混乱もあって、5年に及ぶ長い党内論争を経ることになったが、1989年12月のベルリン党大会においてベルリン綱領ドイツ語版が採択された[90][91]。この綱領には当時大きな争点になりつつあったエコロジー問題への対応をはじめ、様々な課題を盛り込んだ。一方でこの綱領は長大で包括的だが断片的という「デパートのカタログ」としての性格が強かった[92]

野党時代にも東ドイツのドイツ社会主義統一党との対話を進め、1987年8月には両党で体制間の平和競争を謳う「イデオロギー競争と共通の安全保障」という共同文書を発している[93]

1980年代には緑の党の出現もあって社民党の党員の減少傾向が続いた。1990年の連邦議会選挙に社民党は敗北し、その後党首となったビョルン・エングホルムは、1993年に『SPD 2000 - SPDの現代化』という党組織改革の報告書を発表し、同年の党大会で採択された。この報告書は「市民が政党に接触する垣根を下げる」「党員の参加可能性の強化」として一般党員の直接投票制度の導入を謡っていた。具体的には連邦議会・地方議会問わず選挙の党候補、および連邦議会選挙のたびに党首と別に選出される首相候補を一般党員の投票で決めること、また政策形成についても10%以上の党員から請願があった時には党員協議会を設置し、諮問的な党員投票を行うことが盛り込まれていた。しかし党首がルドルフ・シャーピングに代わったことなどもあって、その後も継続的に行われた一般党員の直接投票制度は首相候補予備選挙のみであった[94]

東ドイツでの社民党再建[編集]

1990年1月8日、ライプツィヒでデモをする東ドイツ社会民主党ドイツ語版の党員たち

東欧革命の結果、民主化が進む東ドイツで1989年9月から10月初旬にかけて民主化を求める在野の政党・政治団体が続々と創設された。その一つとして東ドイツ社会民主党ドイツ語版が10月7日に創設された[95]。40年ぶりの東ドイツでの社民党の再建となった。同党の略称は当初SDPだったが[95]、1990年1月13日には西側社民党と同じSPDに改正した[96]

東ドイツ社民党はソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ流の政治改革を唱え、人民議会選挙を自由選挙にし、それに候補を出すことを目指した。1989年12月7日に独裁政党ドイツ社会主義統一党及びその衛星政党と在野勢力の対話の場として円卓会議が設置されると社民党も在野勢力の一つとして参加した[97]。数度にわたる円卓会議の結果、人民議会選挙1990年3月18日に自由選挙で行われることになった。1990年2月5日の第11回円卓会議では「選挙の機会均等のため」として西ドイツから弁士の応援を受けることを放棄するという決議が行われたが、これに反対した社民党やドイツキリスト教民主同盟(CDU)(東ドイツの衛星政党だったが民主化後は路線転換し、西のCDUの支援を受けた)などは、決議に従うつもりはないと宣言し、それぞれの背後にある西側同名政党の応援を受けた[98]

1990年3月16日、東ドイツ・ヴィスマールで遊説を行うヴィリー・ブラント

選挙戦中、西側社民党は元首相ヴィリー・ブラントを12回にわたって東ドイツ遊説に送り込むなどして東側社民党を積極的に支援した[98]。一方西側キリスト教民主同盟も現役の西ドイツ首相ヘルムート・コールを東ドイツ遊説に送り、東側キリスト教民主同盟を支援した[98]。この選挙の主な争点は統一問題だったが、ほとんどの党派が統一に賛成しており、特にキリスト教民主同盟や社民党など西側政党を模して作られた政党は統一に熱心だった。統一の方法を巡ってはキリスト教民主同盟が「西ドイツに併合される」、社民党が「両ドイツ国民で新憲法を作る」方法を訴えたが、両党とも西ドイツの体制をベースとした統一という点では本質的差異はなかった(一方社会主義統一党が改組された民主社会党や西側にパートナーを持たない同盟90は「東ドイツの独自性を維持しつつ統一へ」と訴えていた)[99]

事前の世論調査では社民党が有利との観測が出ていたが、1990年3月18日の選挙の結果、キリスト教民主同盟が163議席を獲得して第一党になる一方、社民党は88議席の第二党にとどまった[100]。選挙後に発足したキリスト教民主同盟党首ロタール・デメジエールを首相とする政権には社民党も参加したが、統一や選挙の日程をめぐって東西社民党はデメジエールと対立し、政治的駆け引きから8月に政権を離脱した[101]

その後、東側社民党は1990年9月26日の党大会で西側社民党との合流を決議した[102]。直後の1990年10月3日に東ドイツが西ドイツに併合される形でドイツ再統一が行われた。再統一後の最初の選挙である同年12月の総選挙(連邦議会選挙)で社民党はコール政権打倒に失敗しているが、この時にも旧東ドイツ地域では社民党の得票は伸び悩んでいる。

シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生[編集]

1998年から2005年まで社民党首班政権の首相を務めたゲアハルト・シュレーダー

1998年、長期政権への飽きや景気の低迷などでコール政権の支持率が低下したこと、イギリス労働党の勝利以来続いた欧州社民主義政党の復調の流れを受けたことなどがあって連邦議会選挙で勝利。同盟90/緑の党と連立を組んだゲアハルト・シュレーダー政権(赤緑連合)が誕生[103]

シュレーダーは「新中道」という理念を掲げた。これは1980年代を席巻した新自由主義的な市場中心主義ではなく、かつ従来の社会民主主義の国家中心主義でもない「新しい社会民主主義」を目指し、就労支援を中心とするワークフェア的雇用政策への転換により「積極的福祉国家」と呼ばれる方向へ向かう理念だった。この前年にはイギリスでシュレーダーと似た政策理念「第三の道」を掲げる労働党党首トニー・ブレアが首相になっており、両国首相は1999年6月に『第三の道/新中道』という共同文書を発している[104]。1999年12月のベルリン党大会ではシュレーダーが党首に選出されるとともに綱領改定作業の開始が決議されたが、「新中道」路線は党内左派からの反発が大きく結局この路線での綱領改定は挫折した[105]

2002年連邦議会選挙で辛勝して政権維持に成功したが、この第二次政権でシュレーダーは綱領改定問題から引いた態度を取り続けた。社民党党首として綱領改定に取り組むより首相として政策実行する方が早いためであり、シュレーダーは首相として独自の政策方針「アジェンダ2010」を発表し、党内議論をスキップした[106]。シュレーダー政権の新自由主義的な改革(長期失業手当の生活保護との一本化=実質的廃止、実質賃金の抑制、大企業向けの減税策、年金支給額の抑制、医療保険における患者負担額の増加等)及びコール政権時代から続く大量失業への無策に対して国民及び一般党員の支持が得られず支持率は低迷。各州の州議会選挙でも敗北を重ねた。1976年には100万人を超えた党員数は2003年に66万3000人まで減少し、2004年の欧州議会選挙では全国得票率が第二次大戦後最低の21.5%まで低下した。このような状況で社会民主党は苦しい政権運営を強いられ、連邦州と同格のベルリンなどではSEDの流れを受け継ぐ民主社会党(PDS)との左派連合政権を組んだ。一方ではネオナチとも目される右派のドイツ国家民主党の州議会進出を阻めなかった。

2004年3月の臨時党大会では党をまとめきれなくなったシュレーダー首相が党首の座を降り、連邦議会議員団長のフランツ・ミュンテフェーリングが党首となった。ミュンテフェーリング以降の社民党党首は調整型あるいは左派寄りが多くなり、党の左派回帰が強まっていく[107]

2005年5月にはオスカー・ラフォンテーヌ元党首ら党内左派が離党して『労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ』(WASG)を結成。さらにWASGは民主社会党と連合して『左翼党』(Die Linke[108])を結成した。

2度目の大連立発足[編集]

2005年7月、シュレーダー首相は自らの信任決議案を与党に否決させ、連邦議会の解散総選挙9月18日投票)に打って出た。解散当時の支持率は、最大野党キリスト教民主同盟(CDU)に大きく水を開けられており、政権を奪われる可能性が高いといわれていたが、選挙戦終盤に盛り返し、第1党の座を失ったものの同盟側とはわずか4議席差にまで肉薄。結局CDUが同盟90/緑の党との連立交渉に失敗したために、首相ポストこそCDUのアンゲラ・メルケルに譲るものの、CDU/CSUとキージンガー政権以来の保革「大連立große Koalition)」を組んで、政権に参加し続けることとなった。

選挙後の2005年11月にミュンテフェーリングが辞意を表明。ブランデンブルク州首相のマティアス・プラツェックが党首に就任することとなった。旧東ドイツ出身者がSPDの党首になるのは初めてであり、CDUのメルケル首相と共に旧東ドイツ出身者が連立与党の党首としてドイツの舵取りをすることになるかと思われた。ところが4月には病気を理由にプラツェックも辞任してしまい、ラインラント・プファルツ州クルト・ベック州首相が暫定党首に選出され、その後正式な党首となった。

その後CDUのメルケル首相の強力なリーダシップの前に低迷を続けていたが、2007年10月に、第二次世界大戦後三番目となるハンブルク綱領を採択。2009年に予定される総選挙でCDUに打ち勝つべく、ハンブルク綱領ではシュレーダー政権時代の新自由主義的な政策を否定しグローバリズムに抗し、左翼回帰と評される対抗軸の明確化をした[109]。2008年9月にクルト・ベック党首が突如辞任、10月これに替わってフランツ・ミュンテフェーリングが党首に復帰し、2009年総選挙でSPDの連邦首相候補にフランク=ヴァルター・シュタインマイアーを推すこととした。

2009年連邦議会選挙での敗北、下野[編集]

2009年から2017年まで社民党党首を務めたジグマール・ガブリエル

大連立に対する国民の評価を問われた2009年9月27日の連邦議会選挙では、メルケル政権下で現実路線を進めたことに対する反発が原因で従来からの支持者が離反したことなどから前回よりも10%以上も得票を減らし、戦後2番目に少ない146議席しか獲得できなかった。この選挙でCDU/CSUとFDPの保守・中道右派勢力が過半数を獲得したことから、SPDは11年に及ぶ政権与党の座を失うこととなった[110]。選挙後の臨時党大会でジグマール・ガブリエルが後継党首に選出された。

2010年5月9日、下野後の最初の大型選挙であるドイツ最大州ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙では、CDU/CSUとFDPの連立与党を過半数割れに追い込み、同盟90/緑の党と少数ながら連立与党を結成した。2011年2月20日に行われたハンブルク市議会選挙では、過半数を獲得して与党となった。2012年5月のノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙ではメルケル政権与党が推進してきた緊縮財政政策に対する批判票を集めて、第1党となった[111]

3度目の大連立へ[編集]

2013年の連邦議会選挙では、前回よりも議席を回復して192議席を獲得したものの、過半数近い議席を獲得したCDU/CSUには100議席以上の差を付けられ議会第一党の座を回復することは出来なかった[112]。一方でCDU/CSUも過半数を獲得できず、連立相手だったFDPが惨敗して全議席を失ったため、3度目の大連立に向けた交渉が始められた[113]

2カ月にわたる協議の結果、11月27日にCDU/CSUとの連立協議が合意に達し、史上3度目の大連立政権が成立することになった[114]

2017年1月、秋の連邦議会選挙に向けて、支持率の高くないガブリエル党首に代わる首相候補として欧州議会議長だったマルティン・シュルツを推すことを決定し[115]、3月19日の臨時党大会でシュルツが新党首に選出された[116]

4度目の大連立へ[編集]

2017年の連邦議会選挙の結果はSPDにとって歴史上最低となり、シュルツ党首は新たな大連立の設立を強く反対した。その後、CDU/CSU、FDPと同盟90/緑の党が連立政権の成立を目指し、それに関する議論が進んでいたが、11月にクリスティアン・リントナーFDP党首の意志で結果が出ないまま終了した。SPDはその後、新たな大連立を承認した。

2018年2月、シュルツ党首が大連立に対する党内からの批判のため辞任した。同時に党本部は4月22日に予定されている特別党大会が行われるまでの間にオーラフ・ショルツハンブルク市長兼副党首が党首の役割を務めることで一致。3月4日には大連立への参加を問う党員投票の結果が公表され、賛成66%、反対34%で大連立は承認され[117]、4度目の大連立を行うことが決定した。

また、党本部はアンドレア・ナーレスドイツ語版SPD連邦議会議員団長を次期党首に指名し[118]、4月の党大会でナーレスがSPDの155年の歴史上初の女性党首に選出された[119]

政策[編集]

2013年の大連立では、メルケル首相から以下の項目の譲歩を引き出すことを目指している。しかし選挙で主張していた年収10万ユーロを超える富裕層に対する増税は盛り込まれていない[120]

  • 時給8.50ユーロの全国統一最低賃金の導入
  • 男女の賃金平等化
  • 旧東西ドイツ間の年金支給額の平等化
  • 二重国籍取得の容認
  • 民営化を伴わないインフラ投資の拡大
  • 教育・職業訓練への投資拡大
  • 金融取引税の導入と脱税取締り強化
  • 長期介護保険の給付額引き上げ
  • 地方自治体の予算拡大
  • 若年層の失業対策など持続的なユーロ圏政策

公約遂行[編集]

この公約を守る形で2014年7月、ドイツ下院にて最低賃金を時給8.50ユーロとする法案が可決[121]された。下院での採決では法案賛成が大多数[122]であり、投票数605のうち賛成が535票、反対が5票、棄権が61票という結果[123]だった。ジグマール・ガブリエルは「これはドイツにとって歴史的な日である[122]」として最低賃金法の立法化を歓迎した。

選挙結果[編集]

帝国議会[編集]

帝政期の帝国議会(Reichstag)における社民党の党勢。

  • 選挙制度は小選挙区[124]
    人口を無視して農村の比重を重くするという保守政党に著しく有利になる選挙区割りを取っていた。そのため都市労働者を基盤とする社民党は実際の得票率より大幅に少ない議席しか取れなかった[124]
  • 選挙権は25歳以上の男性[124]
選挙日 得票 得票率 得票順位 獲得議席 (総議席) 議席占有率 議席順位
1890年2月20日ドイツ語版 1,427,300票 19.7% 第1党 35議席 (397議席) 8.8% 第5党[注釈 1]
1893年6月15日ドイツ語版 1,786,700票 23.3% 第1党 44議席 (397議席) 11.1% 第4党[注釈 2]
1898年6月16日ドイツ語版 2,107,100票 27.2% 第1党 56議席 (397議席) 14.1% 第2党[注釈 3]
1903年6月16日ドイツ語版 3,010,800票 31.7% 第1党 81議席 (397議席) 20.4% 第2党[注釈 3]
1907年1月25日ドイツ語版 3,259,000票 28.9% 第1党 43議席 (397議席) 10.8% 第4党[注釈 4]
1912年1月12日ドイツ語版 4,250,400票 34.8% 第1党 110議席 (397議席) 27.7% 第1党

国民議会と国会[編集]

ヴァイマル共和政期からナチス政権期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および国会(Reichstag)における社民党の党勢。

選挙日 得票 得票率 獲得議席 (総議席) 議席順位
1919年1月19日 11,509,048票 37.9% 165議席 (423議席) 第1党
1920年6月6日 6,179,991票 21.7% 113議席 (459議席) 第1党
1924年5月4日 6,008,905票 20.5% 100議席 (472議席) 第1党
1924年12月7日 7,881,041票 26.0% 131議席 (493議席) 第1党
1928年5月20日 9,152,979票 29.8% 153議席 (491議席) 第1党
1930年9月14日 8,575,244票 24.5% 143議席 (577議席) 第1党
1932年7月31日 7,959,712票 21.6% 133議席 (608議席) 第2党[注釈 5]
1932年11月6日 7,247,901票 20.4% 121議席 (584議席) 第2党[注釈 5]
1933年3月5日 7,181,629票 18.3% 120議席 (647議席) 第2党[注釈 5]

連邦議会[編集]

ドイツ連邦共和国(西ドイツ・統一ドイツ)の連邦議会(Bundestag)における社民党の党勢。

選挙日 選挙区得票
比例得票
選挙区得票率
比例得票率
獲得議席 (総議席) 議席順位[注釈 6]
1949年8月14日 6,934,975票 29.2% 131議席 (402議席) 第2党[注釈 7]
1953年9月6日 8,131,257票
7,944,943票
29.5%
28.8%
162議席 (509議席) 第2党[注釈 7]
1957年9月15日 9,651,669票
9,495,571票
32.0%
31.8%
181議席 (519議席) 第2党[注釈 7]
1961年9月17日 11,672,057票
11,427,355票
36.5%
36.2%
203議席 (521議席) 第2党[注釈 7]
1965年9月19日 12,998,474票
12,813,186票
40.1%
39.3%
217議席 (518議席) 第2党[注釈 7]
1969年9月28日 14,402,374票
14,065,716票
44.0%
42.7%
237議席 (518議席) 第2党[注釈 7]
1972年11月19日 18,228,239票
17,175,169票
48.9%
45.8%
242議席 (518議席) 第1党
1976年10月3日 16,471,321票
16,099,019票
43.7%
42.6%
224議席 (518議席) 第2党[注釈 7]
1980年10月5日 16,808,861票
16,260,677票
44.5%
42.9%
228議席 (519議席) 第2党[注釈 7]
1983年3月5日 15,686,033票
14,865,807票
40.4%
38.2%
202議席 (520議席) 第2党[注釈 7]
1987年1月25日 14,787,953票
14,025,763票
39.2%
37.0%
193議席 (519議席) 第2党[注釈 7]
1990年12月2日 16,279,980票
15,545,366票
35.2%
33.5%
239議席 (662議席) 第2党[注釈 7]
1994年10月16日 17,966,813票
17,140,354票
38.3%
36.4%
252議席 (672議席) 第2党[注釈 7]
1998年9月27日 21,535,893票
20,181,269票
43.8%
40.9%
298議席 (669議席) 第1党
2002年9月22日 20,059,967票
18,484,560票
41.9%
38.5%
251議席 (603議席) 第1党
2005年9月18日 18,129,100票
16,194,665票
38.4%
34.2%
222議席 (614議席) 第2党[注釈 7]
2009年9月27日 12,077,437票
9,988,843票
27.9%
23.0%
146議席 (622議席) 第2党[注釈 7]
2013年9月22日 12,835,933票
11,247,283票
29.4%
25.7%
193議席 (630議席) 第2党[注釈 7]
2017年9月24日 11,426,613票
9,538,367票
24.6%
20.5%
153議席 (709議席) 第2党[注釈 7]

人民議会[編集]

自由選挙導入後のドイツ民主共和国(東ドイツ)の人民議会における社民党ドイツ語版の党勢

選挙日 得票 得票率 獲得議席(総議席) 議席順位
1990年3月18日 2,525,534票 21.9% 88議席(400議席) 第2党[注釈 8]

欧州議会[編集]

欧州議会における社民党の党勢。

選挙日 得票 得票率 獲得議席(総議席) 議席順位[注釈 6]
1979年6月10日 11,370,045票 40.8% 33議席 (81議席) 第2党[注釈 7]
1984年6月17日 9,296,417票 37.4% 32議席 (81議席) 第2党[注釈 7]
1989年6月10日 10,525,728票 37.3% 30議席 (80議席) 第2党[注釈 7]
1994年6月12日 11,389,697票 32.2% 40議席 (99議席) 第2党[注釈 7]
1999年6月13日 8,307,085票 30.7% 33議席 (99議席) 第2党[注釈 7]
2004年6月13日 5,547,971票 21.5% 23議席 (99議席) 第2党[注釈 7]
2009年6月7日 5,472,566票 20.8% 23議席 (99議席) 第2党[注釈 7]
2014年5月25日 7,999,955票 27.2% 27議席 (96議席) 第2党[注釈 7]

歴代党首[編集]

第二次世界大戦前[編集]

第二次世界大戦後[編集]

太字連邦首相経験者。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ ドイツ社会民主党 創立150周年 2013年5月28日 ネット選挙ドットコム
  2. ^ ヴェーラー 1983, p. 133.
  3. ^ a b c d e 平凡社 1988, p. 「ドイツ社会民主党」の項.
  4. ^ a b 飯田芳弘 1999, p. 52.
  5. ^ a b c d e 飯田芳弘 1999, p. 53.
  6. ^ ヴェーラー 1983, p. 135.
  7. ^ 飯田芳弘 1999, p. 53-54.
  8. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 15/74.
  9. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 74-75.
  10. ^ 木谷勤 1977, p. 220-221.
  11. ^ 木谷勤 1977, p. 221-222.
  12. ^ 木谷勤 1977, p. 222.
  13. ^ 飯田芳弘 1999, p. 55.
  14. ^ 阿部良男 2001, p. 28-29.
  15. ^ 林健太郎 1963, p. 7.
  16. ^ ベッケール, クルマイヒ & 2001上, p. 122-123.
  17. ^ a b ベッケール, クルマイヒ & 2001上, p. 123.
  18. ^ モムゼン 2001, p. 28.
  19. ^ 林健太郎 1963, p. 7-8.
  20. ^ 林健太郎 1963, p. 6-8.
  21. ^ 阿部良男 2001, p. 35.
  22. ^ 林健太郎 1963, p. 5.
  23. ^ 林健太郎 1963, p. 6.
  24. ^ 阿部良男 2001, p. 41.
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  26. ^ 阿部良男 2001, p. 41-42.
  27. ^ a b 林健太郎 1963, p. 12.
  28. ^ 阿部良男 2001, p. 42.
  29. ^ 林健太郎 1963, p. 13.
  30. ^ 林健太郎 1963, p. 14.
  31. ^ 林健太郎 1963, p. 11.
  32. ^ 林健太郎 1963, p. 15-16.
  33. ^ 林健太郎 1963, p. 17-18.
  34. ^ ベッケール, クルマイヒ & 2001下, p. 165.
  35. ^ a b 林健太郎 1963, p. 21.
  36. ^ 林健太郎 1963, p. 19.
  37. ^ 林健太郎 1963, p. 20.
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  39. ^ 林健太郎 1963, p. 33.
  40. ^ モムゼン 2001, p. 50.
  41. ^ 林健太郎 1963, p. 39-44.
  42. ^ モムゼン 2001, p. 50-51.
  43. ^ 林健太郎 1963, p. 51, 阿部良男 2001, p. 50, モムゼン 2001, p. 52
  44. ^ 林健太郎 1963, p. 51-53.
  45. ^ モムゼン 2001, p. 82-84.
  46. ^ モムゼン 2001, p. 52-53.
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  48. ^ 林健太郎 1963, p. 61-68.
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]